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2007年12月20日 (木)

「つつぬけ」「さとられ」

分裂病の症状として、典型的なものとして、「つつぬけ」体験または「さとられ」体験があるということは、既にみた。また、「捕食者」とのからみで、これらがどうして生じるのかも、ある程度示して来たつもりである。しかし、これらは、「妄想」と並んで、重要なものと思うので、ここで改めて、少し具体的にとりあげてみたい。

「つつぬけ」体験とは、自分の頭にある考えや思いが、周りの者に「つつぬけ」ていると感じる体験である。「さとられ」体験も似たもので、自分の思っていることが、周りに「さとられ」るというものである。(これは、ドラマのタイトルになったこともあって、割合知られるものとなっただろう。)

「分裂病的状況」では、多く、確かな実感のもとに、このような「体験」がなされ、あるいは、ほとんど常に、そのような状態におかれる。それがまた、自己の状態を、大いに「追い詰め」させるのである。「自分」の思いや思考が「つつぬけ」、人に「さとられ」るということは、「自己」という「保護」的な枠組を失うようなもので、ただでさえ、「他者」に責め苛まれるという状況を、ますます助長するのである。

さらに、このような、「つつぬけ」、「さとられ」は、自己の情報が、盗聴その他の方法で、外部に漏れている、という発想の元になりやすいのが問題である。現実には、自分の思考したことが、「物理的」な手段を通して、外部に漏れることなど、あるはずもないことである。ところが、とりあえず、現に起こっている、その「つつぬけ」「さとられ」という不可解な感覚を、何とか「理解」できるものにしたいという衝動から、そのような、もっともらしい「解釈」が求められてしまうのである。

その、「現実レベル」にかなう形で、表現された、最も典型的な「解釈」が、「(何かの組織に)盗聴される」というものである。しかし、それではいかにも、無理ということで、「頭に発信装置を埋め込まれる」などの、SFまがいの「解釈」も生じる。(実際の「つつぬけ」の「感覚」を表現するものとしては、こちらの方が、「的確」とは言えるのだが)

「つつぬけ」「さとられ」は、このように、確かな「リアリティ」を伴う感覚ではあるが、結局は、迫害的な「妄想」に根拠を与えたり、それをより膨らませるものとなる。結論を言えば、それらも、「妄想」と同じく、一応の根拠に基づいてはいるが、結局は「捕食者」等の霊的存在に惑わされた結果といえるのだが、ここでは、このような感覚がなぜ生じるのか、少し具体的にみてみる。

そのような「感覚」の生じる根拠としては、一つには、「分裂病的状況」では、実際に、「自己」の枠組が緩んで、「外界」との境界が揺らぎ、少なくとも、あるレベルで、自己と外界(他人の心)との、ある種「融合的」な状況が生じる、ということがあげられる。

これは、これまで何度か見て来たとおり、一般的に「分裂病的状況」の基礎となる状況である。そこでは、「見えない」レベルの「エネルギー」や、「情報」の「交感」も、起こりやすくなっていると考えられるのである。

だから、たとえば、「テレパシー」のような現象が生じやすいのは確かだし、本来、外部にあるはずのものが、自己の内部に感覚されたり、逆に、自己の内部にあるはずのものが、外部(他者)にあるように、感覚されるということも起こり得る。ちょうど、未開社会の心性を表すものとして使われた、「相即相融」のような状況が起こる訳である。

しかし、このようなことから、直ちに、実際に、周りの者に、「思考」が逐一「つつぬけ」「さとられ」るなどということにはならない。

たとえば、まさに、未開社会の儀式などでは、その「トランス」状態を共有することによって、多くの者の間で、「つつぬけ」合うかのような状態が生じることは、あり得ると思われる。

しかし、「分裂病的状況」では、「未開社会」の儀式の場合と違って、このような状況を、周りの者と「共有」している訳ではない、という決定的な違いがある。むしろ、その者は、周りの状況からは、孤立しているのが普通なのである。そのような状態で、「つつぬけ」や「さとられ」が、周りの者にもはっきり感知されるような形で、しかも継続して、起こるなどということは、あり得ないというべきなのである。

要するに、「つつぬけ」「さとられ」という感覚が生じる、基礎的な状況というものは、確かに存在している。しかし、文字通り、「周りの人間」そのものに、「つつぬけ」、「さとられ」るということが、実際に起きているわけではないのである。そう感じるのは、あくまで、「見かけ」上のことで、そのような「みかけ」上の「リアリティ」は、「捕食者」やその他の霊的存在によって、現出されている場合が多いということである

そもそも、「つつぬけ」や「さとられ」という感覚を生じる最も直接の状況は、要するに、自分の内心に思っていることや、過去の体験に関わることなど、他人が知るはずもないことを、他人が「声」として、言いかけて来るということに基づいている

たとえば、自分は「何かの組織に監視されているに違いない」などと思っていると、全く通りがかりの者が、「早く警察に行った方がいいぞ!ハッハッハッ」などと、嘲笑するように、言いかけてくるのである。

そういうことが度重って、自分の内心にあることが、即座に、周りの者の「声」に反映されると、周りの者に、「つつぬけ」「さとられ」ているとしか思えなくなるのである。

しかし、既に述べたように、そういった「声」というものは、その見かけ上の「他人」そのもののものではない場合が多いのである。というより、むしろ、この場合のように、他人が知るはずもない、「つつぬけ」や「さとられ」を示唆するかのような内容であるほど、それは「他人」そのものの「声」ではないことの、証しというべきなのである。

これらの「声」は、実際には、(それ自体が、戦略的な意図と思われるが)「捕食者」やその他の「霊的存在」が、人間の「背後」などから、発しているというべきものである。それを、「みかけ」のままに、人間そのものの声と誤信すると、まるで自己の思考が、その者に、「つつぬけ」「さとられ」るように感じてしまうのである。

(もちろん、そのような「声」は、まさに、自分の内部の「思考」の反映に過ぎないというのが一般の見方だが、そうでないことは何度も示して来たので、ここでは繰り返さない。ただ、それらの「声」は、単純に「思考」を映し出しているのではなく、それを前提としつつ、何かの方向に誘導したり、示唆的な指示を与えるというような、まさに「戦略的」意図を思わせるものであること。本人自身も知らないことで、後に正しいと分かることを言いかけてくることもあることなどは、注目されてよい。)

「捕食者」などの霊的存在にとっては、人間の「思考」だけでなく、通常は隠れている、内心の「コンプレックス」などをも、「読む」ことは、さほど難しいことではない。だから、「霊的存在」に、「つつぬけ」たり「さとられ」たりすること自体は、何ら驚くべきことではない。(人間の「霊能者」でも、それに近いことはする)

ただ、それを、いかにも、その目前の「他人」に「つつぬけ」「さとられ」ているかのように、「演出」しているとしか思えないことには、やはり彼らの、意図的な惑わしがあると思われるのである。

前に述べたように、私自身の場合、このような「声」は、初め、文字通り他人の背後などからしかけられて来て、私も、初めは、他人そのもののものなのか、混乱を生じた。たが、ある時から、私が部屋に一人でいるときなどにも、人の存在とは関係なく、しかけられるようになり、以後、ほとんど明確に、独立の「存在」としての姿を現して、私を取り囲むようになった。

しかし、そのことによって、むしろ、「声」というのは、他人そのもののものではなく、そういった存在のものであることが、疑いようもなくなったのである。

だから、私自身の場合は、このような、「声」の出所とその戦略的な意図は、疑いもなく、明確である。

しかし、一般的にも、「妄想」の場合にしても、「つつぬけ」「さとられ」の場合にしても、その事例に接する限り、多くの場合、やはり同じように、「捕食者」等の霊的存在による「声」によって、「惑わ」されている結果としか、思えないのである。

このようにして、「つつぬけ」や「さとられ」体験は、全くの「幻想」ではなく、そのようなことの生じやすい「融合」的な状況を基礎にしている。しかし、具体的に、文字通りの意味で、周りの「人間」そのものに、「つつぬけ」「さとられ」ているというのは、やはり「誤り」といわねばならない。それは、「捕食者」等の霊的存在に「惑わさ」れ、そのように「思わされた」結果というほかないのである。

しかし、そこには、ある種の「皮肉」を感じもする。

つまり、本来、人間同士、心はある部分で「つながって」おり、「通じ合う」部分があるのが本当だとすれば、むしろ、「つつぬけ」や「さとられ」というのは、あって驚くべきものではない。

しかし、「自己」と「他者」の心は、切り離されたもので、通じ合うものではないという見方が、当然のようになった結果、自己と他者の「軋轢」は増大した。その「間隙」に、「捕食者」等が入り込み、人と人の間に、「つつぬけ」や「さとられ」という、むしろ、本来の、人間同士の「つながり」を示唆するかのような現象を演出する。そうすると、それは、人間にとっては、まるで、あってはならないものであるかのように、人を「狂わす」のだから。

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コメント

これも幻聴かもしれない。
家の中にいる時、外に集団がいて声が聞こえる。その声は自分以外にも聞こえている。しかし私はその中から自然に自分に向かって罵倒する声や嘲笑を聞いた。これは思考を盗むのではなく声を盗み聞きして嘲笑し罵倒してくる。

私はこれを集団に紛れ込んだ幻聴だと思うが思考を盗まれた感はないので本物の可能性があるかもしれない。

アーリマンは人たちを分離させようとするらしいが、これもアーリマンの分離させようとする技なのだろうか。

霊的世界では、思考などの内面も見ることができるので、アーリマンも我々の内面の思考を見ることができるだろう。

ティエムさん、
統合失調症は粘液質の人がなりやすいらしいです。ネット情報ですが。
エーテル体が支配的な人は粘液質らしいです。
そしてアーリマンはエーテル体と関係があるらしいです。


のめーるさん。コメントでの応答は久しぶりになります。

シュタイナーの4つの気質の違いのことについては、ほとんど知らないので、今度少し勉強してみたいと思います。

エーテル体との関わりという点では、分裂気質の人は、エーテル体が通常より肉体からはみ出していて、それで霊的な知覚が起こりやすい(但し、意識的に鍛えられたものではなく、催眠的な性質のもの)ということがあるようです。

また、最近の記事『霊的な方向とルシファーとの関わり』でも述べたように、エーテル体には、アーリマンの影響が刻み込まれているので、「幻覚」を見やすい(聞きやすい)性質は、エーテル体と深く関係しているといえます。ある意味、「カルマ的」に引き受けなければならない性向ということです。(但し、これも述べましたが、基本的に、人類に普遍的なものとして植え込まれているものです)


アーリマンに限らず、霊的存在にとって、人間の思考内容を読み取ることは、簡単なことのようです。こちらの思考を「読みとった」うえで、何か言ってくる可能性は、常にあるわけです。

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