「つつぬけ」「さとられ」
分裂病の症状として、典型的なものとして、「つつぬけ」体験または「さとられ」体験があるということは、既にみた。また、「捕食者」とのからみで、これらがどうして生じるのかも、ある程度示して来たつもりである。しかし、これらは、「妄想」と並んで、重要なものと思うので、ここで改めて、少し具体的にとりあげてみたい。
「つつぬけ」体験とは、自分の頭にある考えや思いが、周りの者に「つつぬけ」ていると感じる体験である。「さとられ」体験も似たもので、自分の思っていることが、周りに「さとられ」るというものである。(これは、ドラマのタイトルになったこともあって、割合知られるものとなっただろう。)
「分裂病的状況」では、多く、確かな実感のもとに、このような「体験」がなされ、あるいは、ほとんど常に、そのような状態におかれる。それがまた、自己の状態を、大いに「追い詰め」させるのである。「自分」の思いや思考が「つつぬけ」、人に「さとられ」るということは、「自己」という「保護」的な枠組を失うようなもので、ただでさえ、「他者」に責め苛まれるという状況を、ますます助長するのである。
さらに、このような、「つつぬけ」、「さとられ」は、自己の情報が、盗聴その他の方法で、外部に漏れている、という発想の元になりやすいのが問題である。現実には、自分の思考したことが、「物理的」な手段を通して、外部に漏れることなど、あるはずもないことである。ところが、とりあえず、現に起こっている、その「つつぬけ」「さとられ」という不可解な感覚を、何とか「理解」できるものにしたいという衝動から、そのような、もっともらしい「解釈」が求められてしまうのである。
その、「現実レベル」にかなう形で、表現された、最も典型的な「解釈」が、「(何かの組織に)盗聴される」というものである。しかし、それではいかにも、無理ということで、「頭に発信装置を埋め込まれる」などの、SFまがいの「解釈」も生じる。(実際の「つつぬけ」の「感覚」を表現するものとしては、こちらの方が、「的確」とは言えるのだが)
「つつぬけ」「さとられ」は、このように、確かな「リアリティ」を伴う感覚ではあるが、結局は、迫害的な「妄想」に根拠を与えたり、それをより膨らませるものとなる。結論を言えば、それらも、「妄想」と同じく、一応の根拠に基づいてはいるが、結局は「捕食者」等の霊的存在に惑わされた結果といえるのだが、ここでは、このような感覚がなぜ生じるのか、少し具体的にみてみる。
そのような「感覚」の生じる根拠としては、一つには、「分裂病的状況」では、実際に、「自己」の枠組が緩んで、「外界」との境界が揺らぎ、少なくとも、あるレベルで、自己と外界(他人の心)との、ある種「融合的」な状況が生じる、ということがあげられる。
これは、これまで何度か見て来たとおり、一般的に「分裂病的状況」の基礎となる状況である。そこでは、「見えない」レベルの「エネルギー」や、「情報」の「交感」も、起こりやすくなっていると考えられるのである。
だから、たとえば、「テレパシー」のような現象が生じやすいのは確かだし、本来、外部にあるはずのものが、自己の内部に感覚されたり、逆に、自己の内部にあるはずのものが、外部(他者)にあるように、感覚されるということも起こり得る。ちょうど、未開社会の心性を表すものとして使われた、「相即相融」のような状況が起こる訳である。
しかし、このようなことから、直ちに、実際に、周りの者に、「思考」が逐一「つつぬけ」「さとられ」るなどということにはならない。
たとえば、まさに、未開社会の儀式などでは、その「トランス」状態を共有することによって、多くの者の間で、「つつぬけ」合うかのような状態が生じることは、あり得ると思われる。
しかし、「分裂病的状況」では、「未開社会」の儀式の場合と違って、このような状況を、周りの者と「共有」している訳ではない、という決定的な違いがある。むしろ、その者は、周りの状況からは、孤立しているのが普通なのである。そのような状態で、「つつぬけ」や「さとられ」が、周りの者にもはっきり感知されるような形で、しかも継続して、起こるなどということは、あり得ないというべきなのである。
要するに、「つつぬけ」「さとられ」という感覚が生じる、基礎的な状況というものは、確かに存在している。しかし、文字通り、「周りの人間」そのものに、「つつぬけ」、「さとられ」るということが、実際に起きているわけではないのである。そう感じるのは、あくまで、「見かけ」上のことで、そのような「みかけ」上の「リアリティ」は、「捕食者」やその他の霊的存在によって、現出されている場合が多いということである。
そもそも、「つつぬけ」や「さとられ」という感覚を生じる最も直接の状況は、要するに、自分の内心に思っていることや、過去の体験に関わることなど、他人が知るはずもないことを、他人が「声」として、言いかけて来るということに基づいている。
たとえば、自分は「何かの組織に監視されているに違いない」などと思っていると、全く通りがかりの者が、「早く警察に行った方がいいぞ!ハッハッハッ」などと、嘲笑するように、言いかけてくるのである。
そういうことが度重って、自分の内心にあることが、即座に、周りの者の「声」に反映されると、周りの者に、「つつぬけ」「さとられ」ているとしか思えなくなるのである。
しかし、既に述べたように、そういった「声」というものは、その見かけ上の「他人」そのもののものではない場合が多いのである。というより、むしろ、この場合のように、他人が知るはずもない、「つつぬけ」や「さとられ」を示唆するかのような内容であるほど、それは「他人」そのものの「声」ではないことの、証しというべきなのである。
これらの「声」は、実際には、(それ自体が、戦略的な意図と思われるが)「捕食者」やその他の「霊的存在」が、人間の「背後」などから、発しているというべきものである。それを、「みかけ」のままに、人間そのものの声と誤信すると、まるで自己の思考が、その者に、「つつぬけ」「さとられ」るように感じてしまうのである。
(もちろん、そのような「声」は、まさに、自分の内部の「思考」の反映に過ぎないというのが一般の見方だが、そうでないことは何度も示して来たので、ここでは繰り返さない。ただ、それらの「声」は、単純に「思考」を映し出しているのではなく、それを前提としつつ、何かの方向に誘導したり、示唆的な指示を与えるというような、まさに「戦略的」意図を思わせるものであること。本人自身も知らないことで、後に正しいと分かることを言いかけてくることもあることなどは、注目されてよい。)
「捕食者」などの霊的存在にとっては、人間の「思考」だけでなく、通常は隠れている、内心の「コンプレックス」などをも、「読む」ことは、さほど難しいことではない。だから、「霊的存在」に、「つつぬけ」たり「さとられ」たりすること自体は、何ら驚くべきことではない。(人間の「霊能者」でも、それに近いことはする)
ただ、それを、いかにも、その目前の「他人」に「つつぬけ」「さとられ」ているかのように、「演出」しているとしか思えないことには、やはり彼らの、意図的な惑わしがあると思われるのである。
前に述べたように、私自身の場合、このような「声」は、初め、文字通り他人の背後などからしかけられて来て、私も、初めは、他人そのもののものなのか、混乱を生じた。たが、ある時から、私が部屋に一人でいるときなどにも、人の存在とは関係なく、しかけられるようになり、以後、ほとんど明確に、独立の「存在」としての姿を現して、私を取り囲むようになった。
しかし、そのことによって、むしろ、「声」というのは、他人そのもののものではなく、そういった存在のものであることが、疑いようもなくなったのである。
だから、私自身の場合は、このような、「声」の出所とその戦略的な意図は、疑いもなく、明確である。
しかし、一般的にも、「妄想」の場合にしても、「つつぬけ」「さとられ」の場合にしても、その事例に接する限り、多くの場合、やはり同じように、「捕食者」等の霊的存在による「声」によって、「惑わ」されている結果としか、思えないのである。
このようにして、「つつぬけ」や「さとられ」体験は、全くの「幻想」ではなく、そのようなことの生じやすい「融合」的な状況を基礎にしている。しかし、具体的に、文字通りの意味で、周りの「人間」そのものに、「つつぬけ」「さとられ」ているというのは、やはり「誤り」といわねばならない。それは、「捕食者」等の霊的存在に「惑わさ」れ、そのように「思わされた」結果というほかないのである。
しかし、そこには、ある種の「皮肉」を感じもする。
つまり、本来、人間同士、心はある部分で「つながって」おり、「通じ合う」部分があるのが本当だとすれば、むしろ、「つつぬけ」や「さとられ」というのは、あって驚くべきものではない。
しかし、「自己」と「他者」の心は、切り離されたもので、通じ合うものではないという見方が、当然のようになった結果、自己と他者の「軋轢」は増大した。その「間隙」に、「捕食者」等が入り込み、人と人の間に、「つつぬけ」や「さとられ」という、むしろ、本来の、人間同士の「つながり」を示唆するかのような現象を演出する。そうすると、それは、人間にとっては、まるで、あってはならないものであるかのように、人を「狂わす」のだから。
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