「イニシエーション」と「分裂病」
これまで、何度か「なまはげ」に触れた。これは、現代では「大人」の都合で残されているに過ぎないのだろうが、これには、伝統文化で行われた「儀式」の様々な側面が、片鱗として、よく残されていると思う。また、私は、―テレビでしか見たことはないが―、鬼が脅しながら子供に迫る様相が、かなり忠実に、「捕食者」の行動を伝えていると思われて、強く印象に残ったのである。
また、「なまはげ」とは、「皮を剥ぐ」という意味で、それは、大人になるときの「イニシエーション」の名残りではないかとも言われている。
未開社会や近代以前の社会では、成年になるときの儀式に、このような、何らかの身体的苦痛や試練を与える、「イニシエーション」がなされた。そして、このようなものもまた、これまで述べてきた、「戦略的虐待」の一つとしてみることができるのである。
つまり、それは、本来「人間的」なものではなく、もとは、「精霊」などの霊的存在によって、「戦略」的な意図のもとになされた、一種の「虐待」である。それを、人間が、その一部を、自分らの必要から取り入れて、儀式化したものと解せるのである。
この場合の「戦略」とは、一言で言えば、「試練」であり、何らかの意味で「死」を経験させるものである。「子供」は、それまでの在り方に「死な」なければ、「大人」という新たな生に入れない。それには、実際に、それまでの在り方を変えしめるだけの、強力な外部的な「力」の「介入」が必要である。それこそが、「イニシエーション」という「戦略的虐待」であり、実際に、「死」を「かいまみせる」だけの、強力なものなのである。
また、それは、まさに「解離」のような(意識の変容)状態を導いて、「臨死体験」に近い、「幻視」的な体験をさせる。そこでは、「この世界」の背景をなしている、「死後の世界」あるいは「先祖の世界」を、何ほどかかいま見ることが期されるのである。
これが、シャーマンになるための「イニシエーション」ともなれば、さらに、強力なものとなる。そこでは、単に「大人」になるというのではなく、もはや、通常の「人間」としては「死ん」で、ほとんど「精霊」と近いものとなって、人間に関わらなければならないからである。
また、単に「先祖の世界」を「かいま見る」のではなく、「解離」のような(意識の変容)状態を、自由に作出して、自ら、種々の「精霊」の世界に行き来できなければならない。
具体的に、この場合の「試練」、つまり「戦略的虐待」は、たとえば、「怪物に全身を飲み込まれる」とか、「骨にまでばらばらに解体される」というような、体験をするものとなる。それまでの「自己」としては、ほとんど「崩壊」または「死」を迫るものなのである。
そして、このシャーマンの「試練」としての「戦略的虐待」は、「分裂病的状況」での「戦略的虐待」と、かなり近いものがある、と言うことができる。
たとえば、シャーマンへの「虐待」も、これまで述べた「捕食者」そのものではないにしても、「怪物」といわれる、それに似た、「精霊的存在」によってなされる。また、それらは、成人儀礼のように、一時的なものではなく、継続的に「虐待」にさらされ続ける。そして、それは、何よりも、「飲み込まれる」、「ばらばらにされる」という言葉が示しているように、「自己」の「崩壊」をもたらすだけの、強烈なものである。
しかし、そこには、決定的な違いも多い。シャーマンの「イニシエーション」は、伝統の積み重ねや、師であるシャーマンによって、ある程度方向づけられ、指導され、見守られるものである。最初の「イニシエーション」そのものは、全く予期もせず、突然に現れる場合も多いようだが、いずれ、師であるシャーマンや、伝統を通して、ある程度の指導や保護を受ける。(ただし、当然ながら、試練を通過できない「失敗」も多く、その場合には、死をもたらす場合もある)
ところが、分裂病的状況での「虐待」は、ほとんどの場合、何らの指導や保護も受けられず、自分一人で、向き合わなければならない。「虐待」(分裂病的状況)の始まりも、唐突で、予測のつかないものであれば、それにどのように対処し、受け止めていくかについても、ほとんど指導できるものはない。また、周りの環境も、決してこのような状態に「好意的」ではない。このような状況が、「理解」を示されることなどなく、むしろ、葛藤や問題を膨らませるだけである。
このような相違は、もちろん、文化または社会全体としての、「選択」の結果なので、医師など特定の者の問題に帰すことはできない。社会全体としての、「ものの見方」が変わらない限り、そのようなことを「受け入れる」基盤自体が、生じようがないのである。
それにしても、事実上、このような違いは大きい、といわねばならない。「分裂病的状況」を「シャーマン」の場合と類似の、一種の「イニシエーション」と捉えることができるにしても、それを「成功」の(試練を超える)方向に導いていけるものは、現状では、ほとんどないのである。それは、いわば、初めから、「失敗」を運命づけられたものである。また、今後も、現在の環境の中で、「成功」の方向に導いていけるような手立てなど、そう簡単に見つかるはずもない。
そういうわけで、現状では、何らかの、外的な保護や指導を期待する余地は、ほとんどないと言わねばならない。結局は、本人自身がどのように「向き合っ」ていくか、ということが、ことの全てを決することにならざるを得ないのである。(だたし、シャーマンの「イエシエーション」にしても、師のシャーマン等ができるのは、「補助」的な援助だけだから、結局は、その者自身の問題となることには、変わりはない。)
そして、その場合に、私が思うのは、まず第一に、「妄想」的な反応をできる限り抑えるということができなければ、何も始まらない、ということである。何度も言うように、「妄想」は、一種の「防衛反応」で、真に起こっていることを、覆い隠す働きがあるから、その中に閉じこもっている限り、起こっていることに直面するということそのものが成り立たないのである。
それは、それだけ、「未知」のことがらに直面することが、いかに困難であるかということを示してもいる。が、そのような「関門」を通過しない限り、ことに「向き合っ」ていくという、前提そのものが成り立たないのだから、そこは、何としても通過するしかない。
そして、それは、もちろん、「不可能」なことではないし、今後とも、必ずしも、難しいものであり続けるわけではないと思うのである。今後、一般的な「現実」ということの捉え方が、大きく揺れ動いていくのは、確かだろうからである。(一般的に、分裂病に、「捕食者」や「霊的存在」が関わること、そのものが認められことは、まず期待できないが、そこに、「未知」の要素、状況が関わるということが認められるだけで、かなり変わってくる余地がある)
この『日記』を通して、述べていることも、そのような「関門」を通過するうえで、役立ちそうなことを、中心に述べているのである。
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