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2007年11月

2007年11月20日 (火)

『ぼくのイニシエーション体験』

マリドマ.P.ソメ著 『ぼくのイニシエーション体験』 (築地書館)

この本は、西アフリカのフランス領、ブルキナ=ファソのダガラという部族出身の著者が、自ら受けた、成人儀礼の「イニシエーション」の体験を、記述するものである。研究者が、聞き込みなどを通して、内容を記述するというものはあるだろうが、本人が自らの体験を綴ったものというのは、そうないはずである。その意味で、貴重なものといえる。

本来、このような「秘儀」は公開されるものではないが、その一部を、長老との協議のうえ、公開したということである。断片的で、全体がみえにくい部分もあるが、十分詳しく、その衝撃的な内容が伝えられている。

今や、このような部族の文化の存続自体が危ぶまれているから、文明世界の者に、そのいくらかでも、「理解」してもらおうという意図もあって、公開されたのだろう。

それにしても、その内容には、私も多くの衝撃を受けた。これは、一般に「成人儀礼」とよばれるもののイメージとは違って、形式的な要素は全くなく、非常に実質的で、深い「霊的体験」をさせるものである。成人儀礼というよりも、シャーマンの「イニシエーション」に近いものがある。あるいは、それらの、中間的なものといえるかもしれない。

そこには、近代人の常識からは、とても信じ難いこと、御伽噺や昔話の世界そのままの出来事が、当たり前のように展開されている。近代社会というよりも、「文明」そのものを、改めて問い直すだけのものがあるのである。人によっては、「彼らにとって、<大人>になるとは、<幻覚>を見ることを意味するのか」などと、揶揄したくなる者もいるだろうが。

期間は一カ月にも及び、種々の苦難や、試練、精霊的な存在との交流がなされる。著者は、部族の生れだが、西洋の宣教師に連れられて、15年間西洋文明の教育を受けたものなので、初めは、なかなか儀式に入り込めず、通過できない。が、自分の選んだ木と対面して、それから、何かを「受け取る」という試練で、木との「対話」を心掛けるようになったことから、やっと儀式を通過して行けるようになる。その儀式では、木が、何と「緑色の婦人」に変身して、著者に、さまざまな言葉を授けるのである。

その他にも、泉の底の世界に入って、精霊と交わったり、地下世界で、前世を知るなどの体験をする。また、土の中に体ごと生き埋めになるという、強烈な苦痛の体験をする。それは、本当に壮絶な「苦痛」のようで、成人儀礼に身体的苦痛はつきものとは言っても、改めて、「苦痛」の意味を考えさせられる。

それは、結局、余計な「思考」を遮断させる。「死」を間近なものとして、意識させる。意識の「解離」(変容)を導き、「霊的世界」との交流を起こりやすくさせる。といったことになるだろう。

実際、著者も、苦痛の限界で、「解離」(意識が身体から離れる)が起こって、苦痛をほとんど感じなくなり、その後、意識が霊的世界へと移行していく状況を、よく記している。

地下世界の前世の体験では、面白いものが出てくる。著者は、前世でも、ダガラの部族に生まれたことがあり、何とそこで、「精霊」を奥さんにもらったということである。その精霊から、鳥や動物に「変身」する術を教わって、術を競い合ったりしたという。そして、そのときの「精霊」が、著者は、「その世界のことを多く知ってしまったので、(人間世界の)どこに行っても、なじめないのだ」などと打ち明ける。

以上は、一部であり、公開されたのも一部に過ぎないのだが、要するに、この一連の体験は、通常の成人儀礼のように、単に「死後の世界」、「先祖の世界」をかいまみるといったレベルのものではないのが明白である。「先祖の世界」以外にも、種々の「精霊的世界」があって、人間(部族の者)と、交流をしていることを知ること。また、精霊から、自己にとっての、課題や指針となる言葉を授かること。自己の前世を知り、どのような目的でこの世に生まれて来たかを知ること、などを含むのである。

著者も言っているが、我々の予想以上に、「集団」主義的ではなく、深く「個人」主義的な面が強いのである。

さらには、そのように、多様な世界があることを知る一方で、自己と外界(自然)の霊的本質は、本来「光」として、同一であることを知るといった、「根源的」な体験も含まれている。これは、「神秘家」などの体験する宗教体験とも近いものである。

ただし、これらの多様な体験は、長老などの指導があるにしても、その時点で一気に「消化」し得るはずのものではない。それらは、その後「大人」として生きて行くうえで、解き明かすべき「課題」、あるいは、「内的指針」のようなものとして、暖めていくべきものということになろう

それにしても、このように、内容の濃いものが、成人儀礼として施され、それを超えた者が、初めて、一人前の「男」として認められる、というのはやはり驚きである。そして、当然ともいえるが、この儀式では、毎年何人かの犠牲者が出、今回も、4人の帰らぬ者が出たということである。(現在も、同じような形で執り行われているかは疑問である。)

このような儀式に、近いものとしては、ネイティブ・アメリカンの「ビジョン・クエスト」が浮かぶ。が、これは、むしろ、ドンファンがカスタネダに体験させようとした、多様な「非日常的」世界と、自己と外界の「霊的本質」を知る体験そのままといえるだろう。

また、そこには、これまで述べてきた、「分裂病的状況」とも、重なるものがあることも確かなのである。

著者は、祖父がメディスンマンで、子供の頃には、霊的なものとの接点も多くあったようだが、あくまで、西洋文明に学んだものとして、この儀式には、霊的には、ほとんど白紙(知らない)に近い状態で臨んでいる。(その点でも、カスタネダの場合と近い。)記述も、客観的で、我々にも分かりやすいものである。

だから、同じく、「未知」の状況に直面し、対処しなければならない、「分裂病的状況」にとっても、参考になる点が多いと思う。是非、一読を勧める。

2007年11月17日 (土)

「イニシエーション」と「分裂病」

これまで、何度か「なまはげ」に触れた。これは、現代では「大人」の都合で残されているに過ぎないのだろうが、これには、伝統文化で行われた「儀式」の様々な側面が、片鱗として、よく残されていると思う。また、私は、―テレビでしか見たことはないが―、鬼が脅しながら子供に迫る様相が、かなり忠実に、「捕食者」の行動を伝えていると思われて、強く印象に残ったのである。

また、「なまはげ」とは、「皮を剥ぐ」という意味で、それは、大人になるときの「イニシエーション」の名残りではないかとも言われている。

未開社会や近代以前の社会では、成年になるときの儀式に、このような、何らかの身体的苦痛や試練を与える、「イニシエーション」がなされた。そして、このようなものもまた、これまで述べてきた、「戦略的虐待」の一つとしてみることができるのである。

つまり、それは、本来「人間的」なものではなく、もとは、「精霊」などの霊的存在によって、「戦略」的な意図のもとになされた、一種の「虐待」である。それを、人間が、その一部を、自分らの必要から取り入れて、儀式化したものと解せるのである


この場合の「戦略」とは、一言で言えば、「試練」であり、何らかの意味で「死」を経験させるものである。「子供」は、それまでの在り方に「死な」なければ、「大人」という新たな生に入れない。それには、実際に、それまでの在り方を変えしめるだけの、強力な外部的な「力」の「介入」が必要である。それこそが、「イニシエーション」という「戦略的虐待」であり、実際に、「死」を「かいまみせる」だけの、強力なものなのである。

また、それは、まさに「解離」のような(意識の変容)状態を導いて、「臨死体験」に近い、「幻視」的な体験をさせる。そこでは、「この世界」の背景をなしている、「死後の世界」あるいは「先祖の世界」を、何ほどかかいま見ることが期されるのである。

これが、シャーマンになるための「イニシエーション」ともなれば、さらに、強力なものとなる。そこでは、単に「大人」になるというのではなく、もはや、通常の「人間」としては「死ん」で、ほとんど「精霊」と近いものとなって、人間に関わらなければならないからである。

また、単に「先祖の世界」を「かいま見る」のではなく、「解離」のような(意識の変容)状態を、自由に作出して、自ら、種々の「精霊」の世界に行き来できなければならない。

具体的に、この場合の「試練」、つまり「戦略的虐待」は、たとえば、「怪物に全身を飲み込まれる」とか、「骨にまでばらばらに解体される」というような、体験をするものとなる。それまでの「自己」としては、ほとんど「崩壊」または「死」を迫るものなのである。

そして、このシャーマンの「試練」としての「戦略的虐待」は、「分裂病的状況」での「戦略的虐待」と、かなり近いものがある、と言うことができる

たとえば、シャーマンへの「虐待」も、これまで述べた「捕食者」そのものではないにしても、「怪物」といわれる、それに似た、「精霊的存在」によってなされる。また、それらは、成人儀礼のように、一時的なものではなく、継続的に「虐待」にさらされ続ける。そして、それは、何よりも、「飲み込まれる」、「ばらばらにされる」という言葉が示しているように、「自己」の「崩壊」をもたらすだけの、強烈なものである。

しかし、そこには、決定的な違いも多い。シャーマンの「イニシエーション」は、伝統の積み重ねや、師であるシャーマンによって、ある程度方向づけられ、指導され、見守られるものである。最初の「イニシエーション」そのものは、全く予期もせず、突然に現れる場合も多いようだが、いずれ、師であるシャーマンや、伝統を通して、ある程度の指導や保護を受ける。(ただし、当然ながら、試練を通過できない「失敗」も多く、その場合には、死をもたらす場合もある)

ところが、分裂病的状況での「虐待」は、ほとんどの場合、何らの指導や保護も受けられず、自分一人で、向き合わなければならない。「虐待」(分裂病的状況)の始まりも、唐突で、予測のつかないものであれば、それにどのように対処し、受け止めていくかについても、ほとんど指導できるものはない。また、周りの環境も、決してこのような状態に「好意的」ではない。このような状況が、「理解」を示されることなどなく、むしろ、葛藤や問題を膨らませるだけである。

このような相違は、もちろん、文化または社会全体としての、「選択」の結果なので、医師など特定の者の問題に帰すことはできない。社会全体としての、「ものの見方」が変わらない限り、そのようなことを「受け入れる」基盤自体が、生じようがないのである。

それにしても、事実上、このような違いは大きい、といわねばならない。「分裂病的状況」を「シャーマン」の場合と類似の、一種の「イニシエーション」と捉えることができるにしても、それを「成功」の(試練を超える)方向に導いていけるものは、現状では、ほとんどないのである。それは、いわば、初めから、「失敗」を運命づけられたものである。また、今後も、現在の環境の中で、「成功」の方向に導いていけるような手立てなど、そう簡単に見つかるはずもない。

そういうわけで、現状では、何らかの、外的な保護や指導を期待する余地は、ほとんどないと言わねばならない。結局は、本人自身がどのように「向き合っ」ていくか、ということが、ことの全てを決することにならざるを得ないのである。(だたし、シャーマンの「イエシエーション」にしても、師のシャーマン等ができるのは、「補助」的な援助だけだから、結局は、その者自身の問題となることには、変わりはない。)

そして、その場合に、私が思うのは、まず第一に、「妄想」的な反応をできる限り抑えるということができなければ、何も始まらない、ということである。何度も言うように、「妄想」は、一種の「防衛反応」で、真に起こっていることを、覆い隠す働きがあるから、その中に閉じこもっている限り、起こっていることに直面するということそのものが成り立たないのである。

それは、それだけ、「未知」のことがらに直面することが、いかに困難であるかということを示してもいる。が、そのような「関門」を通過しない限り、ことに「向き合っ」ていくという、前提そのものが成り立たないのだから、そこは、何としても通過するしかない。

そして、それは、もちろん、「不可能」なことではないし、今後とも、必ずしも、難しいものであり続けるわけではないと思うのである。今後、一般的な「現実」ということの捉え方が、大きく揺れ動いていくのは、確かだろうからである。(一般的に、分裂病に、「捕食者」や「霊的存在」が関わること、そのものが認められことは、まず期待できないが、そこに、「未知」の要素、状況が関わるということが認められるだけで、かなり変わってくる余地がある)

この『日記』を通して、述べていることも、そのような「関門」を通過するうえで、役立ちそうなことを、中心に述べているのである。

2007年11月 2日 (金)

人工的に「分裂」を作り出すことは可能か

「分裂」状態とは、「捕食者」による「戦略的虐待」に対する「反応」として生じるのだった。だとすれば、人間によって、そのような状態を作り出すことは、可能であろうか。

春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』(新潮OH文庫)では、人を極限状態におくことによって、分裂病状態を作り出せるかどうかを論じている。

たとえば、覚醒剤中毒、睡眠の極度の遮断、長期の拘禁状態、などでによって、人は分裂病状態に陥るか、ということである。結論を言うと、いずれも、一時的には、分裂病類似の「幻覚」や「妄想」に似た状態に陥ることがある。しかし、継続的に、実際の分裂病そのままの状態に至ることはない、ということである。著者によれば、「かりそめの発狂」である。

そして、狂気とは、その意味では、確かに「非日常的」なもので、「たとえ人がいかに圧倒的な出来事に遭遇しても、容易に発狂することがないほどに、狂気は我々と不連続な存在である。」という。

狂気と通常の状態の間に、「不連続性」(または「断絶」)があるというのは、まさに、これまでみたきたとおりで、確かなことであろう。安易に、「狂気とは、誰もが内にもつものだ」ということで、済ますことはできないのである。

ところで、人をこのような極限状況におくことは、まさに、人間の手による「戦略的虐待」といえる。これは、いかにも、「発狂」して不思議はない状況、つまり、「分裂病」状態に陥っても、不思議はない状況にみえる。

しかし、このようなものには、「捕食者」による「戦略的虐待」とは、決定的な違いがあるのである


まず、人間による「戦略的虐待」は、あくまで、「見える」レベル、物理的な状況によって作り出されたものである。「捕食者」のように、「見えない」レベルで、直接内面に向けて行われるものではない。それらは、ともに「恐怖」をもたらすにしても、その質には違いがある。

さらに、人間によるものは、そこで生じる、その者の内面の状態を具体的に組み込んだうえ、なされたものではない。つまり、「捕食者」の場合のように、そこで生じる内的状態をさらに「フィードバック」しながら、それに沿った、効果的な「虐待」を、継続的に施すというものではない。

たとえば、「幻覚」や「妄想」を生じたとしても、さらにその内容に沿った「補強」または「攻撃」を施すなど、新たな「働きかけ」を、継続して行うものではない。実際、人間には、内面を見透かしたうえでの、そのような「芸当」は不可能だからである。(今後とも、技術的に絶対不可能とは言い切れないが…)

結局、人間の「戦略的虐待」によっては、一時的に、分裂病類似の状態を作り出すことはできても、それを継続させて、本物の「分裂病」状態を作り出すことは不可能ということになる。(ただし、そうであればこそ、これはむしろ、「洗脳」または「マインドコントロール」の強力な手段となる。そして、その背後には、「捕食者」がいる場合が多々あると思われる。)

先の著者は、既にみたように、狂気(分裂病)と通常の状態との間には、一種の「断絶」があるとする。

ところが、結局のところ、その「断絶」を埋めるのが、「病気」というほかない、と言うのである。これでは、多くの者が、―そのような「断絶」を当然のこととして―要するに、それらの者は、「頭がおかしい」、「病気」なのだということで、納得するのと、何ら変わりないことになる。

また、著者は、一方で、「狂気は、我々からの隔たりゆえに関心をひきつけるのではない。むしろ誇張・生々しさ・露骨さ・独善性・キッチュといった形で我々の心に通底したものを感知させるからこそ、目を逸らし難い存在なのである。」などと言っている。が、これは、明らかに先の「断絶」というのとは、矛盾している。

このような混乱は、「分裂病的状況」そのものと、その状況から生じる「反応」についてを、分けて考えないことから来るものというべきである

要するに、「分裂病的状況」そのものは、既にみたように、人間によって作り出せるような代物ではない。その意味では、確かに、そこには、「人間」的なものからの、一種の「断絶」があるのである。「未知」というのも、そういうことである。

しかし、その「状況」から生じる具体的な「反応」は、まさに「人間」的なものそのものである。それは、誰もが内にもつものが、極端に現れ出ているに過ぎないともいえる
。それは、著者も言うように、「愚かさ」の集大成のようなもので、恐らく、誰もが、自分の中にも、他人の中にも「見たくない」ものである。(だからこそ、逆に、「目を逸らし難い」わけだが)

それは、結局、単純な極限状態というのではなく、それまでに全く経験のない、「未知」の対処の仕様がない状況が、継続して生じ、開き直ることもできずにいるときに、現れ出るものといえる。

そして、「分裂病」の場合、そのような「状況」そのものが、傍からは、全く「見えない」ことが特徴なのである。傍からは、全く理由もなく、無意味に、「狂気」が現れ出ているようにしか、見えないのである。それこそが、「分裂病」が、不気味がられ、忌み嫌われる、大きな理由というべきである。

そして、その部分は、「病気」ということで、「埋め合わせ」ようとしても、決してうまくいかない。要は、その「見えない」状況を、いくらかでも、「見える」ものにするというしか、手立てはないのである。

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