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2007年10月 8日 (月)

「解離」について

注)「分裂(統合失調)」とも混同されやすい、「解離」という概念について述べた記事です。

「解離」については、「分裂病」(統合失調症)との絡みで、私も興味があるし、これまでにも触れたことがある。また、最近「解離性障害」とされる者が増えているという意味でも、重要と思う。

先日、『解離性障害』(柴山雅俊著、ちくま新書)という本が出ていたので、読んでみた。

これは、一般向きに、理論的なことよりも、実際の症例を通して、「解離」というもの、あるいは、「解離性障害」というものをイメージしてもらおうというもの。かなり具体的に、分かりやすく書かれているし、参考になる点も多い。「解離」という言葉自体、まだ一般に十分浸透しているとはいえないので、こういう本は貴重であろう。

以下は、この本を参照にはしたが、基本的には、私自身が理解するところを述べたものである。

「解離」というのは、医学的には、「意識、記憶、同一性、または周囲の知覚についての、通常は統合されている機能の破綻」と定義される。が、要するに、「自己」の(意識の)「同一性」が揺らぎ、あるいは変容して、「分離」するかのような状態になることを、広く意味すると解してよいと思う。これは、例えば、催眠やトランスのような、意識の変容した状態(変性意識状態)を広く含むのである

そもそも、特に日本のように、錯綜した「世間」の中で生きようとすれば、厳密に「自己同一性」を維持するなどということは、あるはずもない。おかれた状況や関係によって、さまざまな「役割」を演じなければならないということ自体、既にいくらか、「解離」的ともいえる。むしろ、「解離」的な対応ができる方が、「適応的」な場合も多いのである。その他、広く「日常性」といわれる状態にも、「自己」の様々な「解離」があり得る。

しかし、その「分離」が激しくなると、「病理」的なものともなる。たとえば、「離人感」や、自分では気がつかないうちに何かの行動をとってしまう(健忘)、分離した自己その他の「声」を聞いたり「姿」を見る(幻覚)、などの「症状」が現れる。さらに、典型的には、「多重人格」のように、「分離」した人格が交代して現れ、互いの連絡が取れないということにもなる。

それらの症状は、既にみた、「分裂病」の場合とも似たものである。

「分裂病」もまた、「解離」と同じく、「自己の同一性」が大きく揺らぎ、あるいは「崩壊」にまでいたるものなので、そこには大きな類似がある。ただし、「解離」の場合は、「分離」したそれぞれの「自己」(の状態)は、それなりに「まとまり」を保って存在している。それに対して、「分裂病」の場合は、自己が全体として、明らかに、「まとまり」を欠く、といった違いがある。

病理的な「解離」は、多くの場合、「虐待」などの外傷体験によるものとされる。そのような危機的状況にあって、その状況から逃れられないときに、一種の「防衛反応」(苦痛の減少や逃避)として、意識の「解離」が生じる、と考えられる訳である。(ただし、著者も言うように、「解離」的な傾向は、外傷体験以前からある場合も多いと思われる。それらは、相乗効果的ともいえ、「解離」的な傾向が、虐待的な反応を誘発するということもあると思われる。)

既にみたように、「分裂病的反応」もまた、危機的状況に対する「防衛反応」といえるので、この点からいっても、両者には類似がある。

著者があげている症例でも、「統合失調症」との類似が問題となり、著者自身、初めは「統合失調症」の疑いをもったという。特に、「体感異常」や「幻聴」などは、「分裂病」の場合と、実際の「症状」としても大きく似通う。

しかし、「幻聴」という現象そのものをとっても、具体的には、分裂病の場合とは、かなりはっきりした違いがあることも確かと思われる。

分裂病では、既にみたように、明らかな「他者」が、圧倒するように攻め入り、「自己」の主体性は極度に奪われる。「自己」は、全体として、「崩壊」の危機を迫られるのである。内容としても、容易に理解を許さない、不可解なものが多い。

「解離」の場合は、はっきりした「他者」による攻撃というよりも、「自己」の別の部分が、訴えかけてくるといった性質が強く、本人もどこかで、それを察知しているところがある。部分的な「自己」にとっては、一つの危機ではあっても、全体として、「崩壊」が差し迫るといった感じのものではない。また、内容そのものは、意味の明確なものが多い。

先の本の副題は、《「うしろに誰かいる」の精神病理》となっているが、「解離」では、まさに「影」ともいえる「もう一人の自分」が、幻覚の対象となることが、多い訳である。

前に、モーパッサンの『オルラ』を取り上げたが、これは、まさに、「影」または「ドッペルゲンガー」というべき、背後のもう一人の「自分」を、「実体」として感知する現象を小説にしたものである。

当時、モーパッサンは、「分裂病」との診断を受けたようだが、現在なら、多分「解離性障害」と診断されることだろう。(ただし、私は、もはやこの「オルラ」は、単に「もう一人の自分」としてではなく、はっきりと切り離された「他者」として現れ、物理現象すら起こすものとなっているので、「分裂病的状況」と区別し難く、崩壊を迫るものだったと思っている。)

また、著者は、「表象幻覚」という言い方で、「表象」(自己の内部のイメージや記憶)が、外部的な「知覚」であるかのようにはっきりと感知されるのが、「解離」の特徴という。それは、はっきりしたものではあっても、直接的な「知覚」に比べて、ある種「クッション」を挟んだようなものと思われる。「未知」の「他者」を直接、「実体」として感知する、「分裂病」の場合とは、違ったものがあるということができる。

いずれにせよ、「分裂病」と「解離」には、上のように、似たところが多くあり、区別するのは、容易ではないようである。

実は、私自身は、「分裂病」と「解離」は、基本的には区別できるが、厳密に分けられるものではなく、また、必ずしもその必要もないものと思っている。それに、両者が混交するという場合も、多いはずなのである。(私自身の場合も、体験のところで述べたことは、両者が混交していることは明らかである。また、出会う対象としてみても、はっきりした「他者」的存在と、「自己」との関係が深い背後的な「存在」の、両者が混交している。)

ただし、医学的には、「分裂病」は「精神病」圏に属するもので、「解離」は「神経症」圏に属するという違いがあり、その違いは無視できないことであろう。また、精神療法が有効かどうかという点でも、この両者の違いは、重視されることになるのだろう。

そこで、次回には、状況的には似たところのある、「分裂病」と「解離」で、違いが生じる理由を、私なりの視点から、少し踏み込んで、考えてみたい。

最後に、「分裂病的状況」では、「霊界の境域」というのが問題となったが、「解離」の場合はどうなのかについても、少し触れておきたい。(この点も次回に詳しくみるが)

「解離」には、霊的な「憑依」を思わせるような例も多く、実際に、死んだ者の「霊」を見るとか、体から離脱することを知覚する「体外離脱体験」なども報告される。分裂病の場合と同様、それ自体、かなり「霊的なもの」と近しいものであることが、示唆されるのである。

また、「解離」の一面である、「催眠」その他の「変性意識状態」は、テレパシー等の「超常」的な現象が起こりやすいことが、超心理学的にも明らかにされている。さらに、かつて、LSDなどの向精神薬による変性意識状態の研究がさかんだった頃、そこで、様々な「超常」的な体験が現れることが示されている。何度か触れた、カスタネダの「非日常的な体験」も、まさにそういったものの一つである。

実際に、「解離」においても、「霊界の境域」―というより、あまり限定せずに、広く「霊的な事柄」と言った方がいいかもしれないが―に関わる場合というのは、あると思われる。ただし、「解離」の場合、「分裂病」のように、「霊界の境域」における状況そのものが、直接に影響を及ぼすことによって、「病的反応」が生じるというものではないはずである。

むしろ、間接的に、あるいは結果として、「解離」によって、「霊的な事柄」との接点が生じる、という風に捉えられる。
ただし、それは、著者の言うような「表象」と区別しにくい場合も多く、曖昧な要素は多いだろう。また、出会う対象も、外部的な「霊的存在」というよりも、自己の一部や、自己の想念の生み出したものである場合が多いと思われる。

何しろ、「解離」という状態は、「霊的」なものとの接点を生じやすい、ということは言えると思う。

ところが、「解離」という言葉が、いだすらに浸透すると、逆に「解離」という曖昧な概念によって、「霊的な現象」など不可解な現象を、「分かった」もののように「説明」されてしまうという可能性も出てくる。が、みてきたように、「解離」は、自己や意識の状態を大まかにくくる、いわば「便宜的」な概念であり、まだまだ、これから具体的に煮詰められるべきものである。また、著者も強調するように、必ずしも「病理」を意味するものではなく、それ自体が、何かを「説明」するようなものでもないのである。

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