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2007年10月16日 (火)

「人間的虐待」と「戦略的虐待」

前回みたように、「解離性障害」と「分裂病」(統合失調症)は、ともに、一種の「虐待」といえる、「危機的状況」に対する反応として生じると解される。実際の症状も、体感異常、幻聴など、似たものがある。

ただし、「分裂病」では、圧倒的な「他者」によって、「自己」が全体として、「崩壊」を迫られる、という様相が顕著である。それに対し、「解離」では、「自己」がさまざまに「分離」するということが、問題を生じるのであった。

また、両者は、そのような危機的状況に対する「防衛反応」という面がある。分裂病の場合、端的には、既にみた「妄想」に閉じこもるということがあけれられる。それに対して、「解離」は、「日常的意識」を分離し、一部を背後に押しやることで、それ自体が、苦痛を和らげる「防衛反応」といえる。また、「妄想」と似たものとして、「空想」に逃げ込むということがあげられる。

しかし、「空想」は、むしろ、「妄想」とは逆の方向を指向しているといえる。前掲の本『解離性障害』でも、「想像上の友人」というのが出てきたが、「天使」や「妖精」など、「現実」を離れた「非現実的」な方向を指向していながら、内容的には、物語的な一貫性があり、満たされたものとなる。「妄想」では、むしろ、人や組織など、「現実」的なものを強く指向しているのだが、そこには、否応無く、「非現実的」な内容が現れ出てしまうといったものとなる。

このように、状況としも、内容としても、似たものがある「解離」と「分裂」だが、そこには、かなりはっきりした相違があるのも、確かである。そこで、そのような違いが生じる理由を、私なりの視点から、考えてみたい。

このような違いが生じる理由は、大きく、次の二つの観点から、みることができる。

一つは、「危機的状況」そのものの「性質」の違い。もう一つは、「危機的状況」に対する「対処」のし方の違い、である。後者は、気質や性格の違いということでもある

まずは、危機的状況の性質の違いについて。

私は、前にも、分裂病的状況は、物理的な、「見える」レベルの危機ではなく、「見えない」レベルの危機であることを強調した。それに対して、「解離」の場合は、「見える」、現実レベルの危機ということが、一応言える。しかし、「解離」につながる、親などの「虐待」にも、ほとんど明示的には「見えない」、心理的虐待や、ネグレクトなどもある。さらには、本当に「見えない」レベルで、一種「テレパシー的」になされる(無意識的な)攻撃も、あると解されるのである。

それで、両者を、「見える」レベルの危機と、「見えない」レベルの危機として分けるのは、必ずしも、正確ではない。

そこで、むしろ、それらを分けるのに、「人間的な虐待」と、「戦略的な虐待」とするのが、適当と思われるのである。

「人間的」というのは、いかにも曖昧に聞こえるかもしれないが、両者を対比的にみれば、かなりはっきりしたものが、浮かび上がるはずである。「戦略的な虐待」というのは、「非人間的」な「虐待」ということでもある。

(なお、「虐待」という言葉からは、極端でひどいものだけを連想しがちだが、本来「虐待」と訳される「abuse」は、「乱用」を意味するということだ。必ずしも、明らかな「虐待」でなくとも、適切な「扱い」を受けない場合を、広く含むのである。――西澤哲著『子どものトラウマ』、講談社現代新書)

「人間的」ということだが、親やその他の人間がする「虐待」というものには、必ず、どこか、「人間的な感情」が纏わりついているものである。一見「理由のない」虐待のようにみえても、少し踏み込めば、そこには、何らかの隠された「理由」や「感情」が伴っていることが分かる。(具体的に、その「感情」そのものの内容は、つかめないとしても、そのようなものが、潜在していること自体は、感知される。)

「人間的な感情」とは、要するに、「怒り」や「恨み」、「ねたみ」、「反感」、「嫌悪」、「ねじ曲がった愛情」、「支配欲」、「性欲」などで、多くの場合、親などが子供に対する「虐待」には、そのようなものが、伴っていると言える。

まだ個性というものを、はっきり持たない子供に対して、そのような個人的な感情からの虐待は、そうはないはずだ、と思われるかもしれない。が、潜在的には、特に「親子」のような親密な関係であるほど、そのようなものが、無意識にも感知され、反感を募らせるということは、よくあるというべきである。さらに言えば、そこには、前世からの記憶の影響が、無意識にも作用しているということも考えられる。

また、必ずしも、「個人的」な感情からでなくとも、子供を持つ頃の親というのは、どっぷりと「世間」に浸かりきる頃で、将来に対する「この世」的な不安も多い。「世間」に浸り切った者にとって、「世間」から遊離した、子供の「無垢」さ、「無力」さというものは、それ自体、無自覚的な「反感」を抱きやすいといえる。無意識にも、「痛い目」に合わせることによって、そのような状態から早く脱しさせよう(つまりは、自己と同じようなものへと変えよう)という意識が、働くということが考えられる。

(さらに、前回言ったが、子供がもつ、もともとの「解離」的な傾向が、逆に、親などの「虐待」を誘発するということも考えられる。恐らく、子供の頃の最初の「解離」は、具体的な状況に対してというよりも、漠然と、「この世」にいることがしっくりこない。言い換えれば、「あの世」にいたときの「郷愁」が、何となく押し寄せる、といったものではないかと思う。それが、「現実」からの「後退」というか、一種、「心ここにあらず」という状態を醸し出す。それが、もはや「あの世」のことなど忘れ去った親には、自分らに対する「否定」のようにも受けとれ、「攻撃」を誘発するということもあると思われる。)

そのような、いわば、「子供」と「大人」の間の「溝」に関わる、普遍的とも言える問題もある。が、それもまた、人間的な感情に基づく「虐待」であることには、変わりないはずである。

以上のように、「解離」は、基本的に、「人間的な感情」に基づく「虐待」に対する反応として生じると解される。そのような状況で、物理的または感情的に逃げがきかないときに、意識の苦痛を軽減する反応として、生じると解されるのである。そして、それは、それなりに、その状況に対しては「有効」であり、だからこそ、「防衛反応」として、成り立っているのである。

それに対して、「分裂病的状況」では、「虐待」的な要素は、より強烈で、明確でありながら、そこに、「人間的」な感情というものが感じ取れない、ということを特徴とする。その意味で、それまでの経験に照らしても、「訳が分からない」、「未知」のものなのである。それは、人間的な「虐待」とは、また違った意味で、「未知」の「恐怖」、何物かに、「自己」が飲み込まれるかのような、「恐怖」を喚起するのである。

そして、そのような「虐待」を、あえて、そこから発する恐怖や葛藤のエネルギーの「捕食」のために、「戦略的」に行っている「存在」がいるということを、これまでにも述べてきた。

しかし、話をややこしくするようだが、「捕食者」は、単独で働くばかりではなく、前記のような、人間を通しての「虐待」にも、背後で関わっている場合が多いと思われる。ただ、その場合、人間的な感情に発する「虐待」衝動を、いわば、背後で「けしか」け、「後押し」しているようなところがある。だから、それらも、現れた現象としてみれば、広く「人間的な虐待」に含めてもよいだろう。

さらに、ややこしいのは、「捕食者」は、自らが攻撃を仕掛ける場合でも、人間の「背後」または「間」から行うことが多いということである。それで、その攻撃を受けた者は、それが「人間的なものでない」ことを、どこかで察知しつつも、その人間によるものと誤信する可能性も高い。それが、現実の人や組織などに迫害されるという、「妄想」の元にもなる訳だが、そこには、どうしても、その「非人間的」な側面が、内容に現れ出てしまうことになる。

そして、そのように人間の背後や間から攻撃を仕掛けることも、(その者の「投影」を利用した)彼らの「戦略」の一部ということができる。その特定の人間のみならず、周りにも、「葛藤」の種を蒔くことができるからである。

何しろ、「彼ら」が直接的なし方で関わる限り、そこに、どうしても、前にみたような、「非人間的」な側面が現れ出る、ということである。

それは、「虐待」的な言葉や行いそれ自体にも、人間ではとても醸し出すことの困難な、圧倒させる要素として、現れ出る。しかし、より端的には、そこに、人間的な「感情」や「理由」が感知できないということこそが、直接に看取される特徴であり、「恐怖」や「錯乱」の、大きな理由ともなっているのである。つまり、この場合、「虐待」的なできごとそのものよりも、むしろ、そういった、「訳の分からなさ」こそが、独特の、(対処のしようがないと思わせる)「恐怖」を喚起するのである。

恐らく、このような「捕食者」にも、全く「感情」がないという訳ではないだろう。実際、私も、彼らの「怒り」による反応と思われるものを、身に受けたこともある。しかし、それも、一時的な「爆発」として現れたのみで、人間の場合のように、後をひいたり、恨みのようなものを隠し持たれたりすることは、なかったと思う。

要するに、一言で言えば、人間的な虐待が、「ウェット」だとすれば、彼らの「虐待」は、「ドライ」そのものであり、「戦略的」なものによって、貫かれているといえるのである

その意味では、人間的な「虐待」のようには、後にグチャグチャと尾を引くようなものではないし、「戦略的」なものであることが、分かりさえすれば、「恐怖」や「囚われ」も、さほどのものではなくなるということもいえるのである。

さらに、このような「戦略」的な「虐待」は、「ドライ」である分、無意識レベルでなされても、あまり効果を及ぼしにくい(感情を巻き込みにくい)、という面もある。それは、漠然とであっても、「意識」によって、捉えられてこそ、始めて、本物の「恐怖」として、効果を発揮するのである。

だから、一概に、人間的な「虐待」と比べて、度合いが「ひどい」ということには、ならないと思う。

ちなみに、これまでにも、何度か取り上げた「なまはげ」は、こういった、「非人間的」な「虐待」を象徴する面もある。

「鬼」の面を被った異形の者たちが、「わるい子はいねーか」、「耳を食ってしまうぞ」などと、大声で脅し、叫びながら、子供を取り囲む。子供にとっては、全く唐突で、「理不尽」な、「訳が分からない」状況である。それは、親に「怒られる」などのこととは全く異質の、未知の「恐怖」を呼び起こす。しかし、同時に、それが一時的のものであれば、必ずしも、後をひかないものでもある。

これは、まさに、「戦略的な虐待」そのものである。子供に「言うことを聞かせる」こととともに、親が「庇護的」な役割を演じるということも、(戦略的に)狙われているのである。そして、このような儀式の「源」は、明らかに、「捕食者」(鬼)の行いそのそものに発している、ということができる。

このように、「解離」と「分裂」には、「危機的状況」といっても、かなりはっきりした性質の違いがある。とりあえず、それが、「解離」と「分裂」の反応の違いを生むと言えるのだが、その点は次回にみる。

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