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2007年10月

2007年10月29日 (月)

「内向性」と「外向性」による相違

「解離」と「分裂」の違いが生じる理由として、「危機的状況」そのものの性質の違いということをあげた。

しかし、「人間的虐待」と「戦略的虐待」とは、必ずしも、明確に区分けできるとは限らない。たとえば、「人間的虐待」の背後に、「捕食者」が(戦略的に)働いているという場合もある。その他、この両者が、混交するような場合もあるといえる。

そこで、「解離」と「分裂」の違いは、「危機的状況」そのものの違いのみならず、それに対する「対処の仕方」の違い、という面から捉えることもできる。それは、その者の気質や性格の違いということでもある

前に、「分裂病的状況」に陥りやすい傾向として、「分裂気質」というのをみた。それとの対比でいえば、「解離」は、どちらかといえば、「躁鬱気質」になじみやすいと言える。自己の同一性に拘らない、広い意味の「解離」というあり方自体が、揺れのある「躁鬱気質」的なあり方を思わせる。
そして、「躁的」なときには、「解離」は、苦痛というよりも、むしろ「ハイ」な状態をもたらす。しかし、「鬱的」な状態では、「解離」は、ことさら自己の「分離」を意識させ、苦痛をもたらすのである。

しかし、ここでは、「分裂気質」、「躁鬱気質」という分け方よりも、「内向的」、「外向的」という分け方でみていきたい。

「分病的状況」に陥りやすいのは、主に「内向的」な者、「解離」という対応をとりやすいのは、主に「外向的」なもの、ということが言える。「内向的」とは、エネルギーが他者など外的なものよりも、自己の内部に向きやすいということである。「外向的」は、その逆に、エネルギーが他者など、外的なものに向かいやすいということである。

そもそも、「解離」は、自己の「同一性」などには拘らずに、あるいは多少犠牲にしても、様々な「外的状況」に、「適応」するということを優先する態度から生じるということができる。つまり、「外向的」な態度である。

反対に、「内向的」な者は、外的な状況に合わせるよりも、自己の内的な状態を優先させるところがある。「解離」的な対応をするよりも、自己の「同一性」に拘るということである。

言い換えれば、「外向的」な者の「自己」は、外的状況に合わせて変化できる、「柔軟」なものである。逆に、「内向的」な者は、「硬直」で、「折れ」やすい自己をもっている。といえる。それで、外的状況に柔軟に対応できないことが多く、また、だからこそ、「自己」の「同一性」に、拘らざるを得ないのである。

しかし、ユングが言うように、表面上「外向的」な者は、内面的、潜在的には、「内向的」な面が強い。逆に、表面上「内向的」な者は、内面的、潜在的には、「外向的」な面が強いのである。両者は、「補償的」な関係にあるということである。

そして、「分裂病的状況」あるいは、「解離」が病的なものとして現れる状況では、そのような、内面的に逆の面が、強く現れていると言えるのである

「内向的」な者は、普段「他者」や「世間」のことは、あまり気にしないで、自己を貫いているようにみえる。しかし、「分裂病」的状況では、ことさら、内部に抑圧した「外向的」な面が現れ、「他者」や「世間」のことが、気になって仕方がないのである。しかも、それらの「他者」は、普段は何とか貫いてるばすの「自己」を、大きく脅かす「迫害的」なものとして、浮上しやすい。普段は、重視されず、「犠牲」にされていたものが、いわば反動として、「責め上がる」かのように浮上するのである。

「外向的」な者は、普段は、外的状況に合わせる「解離」的な対応に慣れており、特にその状態が苦にならない。しかし、それが、習性になり、または激しくなると、内部に抑圧された「内向的」な面が強く現れ、自己の「分離」的な状態が気になってし方がなくなる。「他者」云々ということよりも、自己を統一的なものとして感じられないことが、大きな苦痛となるのである。

このように、「内向的」な者は、「解離」的な対応が苦手で、硬直した「自己」をもっている。そして、危機的状況において、内面が浮上すると、「他者」が殊更強大なものとして迫ってきて、その(硬直な)「自己」が脅やかされやすい。それが、「自己」の崩壊のような、「分裂」の状態をもたらすことに、つながりやすいといえる。あるいは、「崩壊」の方向に、拍車をかけることになりやすい、ということである。

反対に、「外向的」な者は、柔軟な「自己」をもっていて、「解離」的な対応は得意である。危機的状況においても、「解離」的な対応が「成功」する限り、「自己」の崩壊などは免れる。しかし、それが重なるにつれ、あるいは激しくなると、内部の状態が殊更気になり、「解離」的な状態が、病的なものとして浮上しやすいのである。

このように、「危機的状況」そのものの性質の違いはおいても、それに対する対処のし方の違い(気質の違い)ということが、「解離」と「分裂」の違いに影響する面もある、と解される。

中井久夫という精神科医が、「分裂病の者が解離的な対応ができれば、少なくとも、分裂病に陥らなくて済んだのではないか」ということを、述べていたのを読んだことがある。

これは、前回もみたように、そもそも「分裂病的状況」では、「解離」的な対応が困難なので、一概に言えるものではない。が、真をついているのは、確かといえる。

「分裂病」の者にとっては、「自己」を保持するか、失うかのオール・オア・ナッシングのところがあり、自己を保持できなければ、もはや全体として崩壊させるしかないという、極端で、二者択一的なところがあるからである。

「解離」的な対応ができれば、自己の同一性は失うかもしれないが、全体としての崩壊は、免れたかもしれないのである

特に、状況が、「人間的な虐待」に近い場合とか、それと区別し難いような場合は、「解離」のような対応ができるかどうかで、かなり大きな違いが生じるだろうということが言える。

2007年10月16日 (火)

「人間的虐待」と「戦略的虐待」

前回みたように、「解離性障害」と「分裂病」(統合失調症)は、ともに、一種の「虐待」といえる、「危機的状況」に対する反応として生じると解される。実際の症状も、体感異常、幻聴など、似たものがある。

ただし、「分裂病」では、圧倒的な「他者」によって、「自己」が全体として、「崩壊」を迫られる、という様相が顕著である。それに対し、「解離」では、「自己」がさまざまに「分離」するということが、問題を生じるのであった。

また、両者は、そのような危機的状況に対する「防衛反応」という面がある。分裂病の場合、端的には、既にみた「妄想」に閉じこもるということがあけれられる。それに対して、「解離」は、「日常的意識」を分離し、一部を背後に押しやることで、それ自体が、苦痛を和らげる「防衛反応」といえる。また、「妄想」と似たものとして、「空想」に逃げ込むということがあげられる。

しかし、「空想」は、むしろ、「妄想」とは逆の方向を指向しているといえる。前掲の本『解離性障害』でも、「想像上の友人」というのが出てきたが、「天使」や「妖精」など、「現実」を離れた「非現実的」な方向を指向していながら、内容的には、物語的な一貫性があり、満たされたものとなる。「妄想」では、むしろ、人や組織など、「現実」的なものを強く指向しているのだが、そこには、否応無く、「非現実的」な内容が現れ出てしまうといったものとなる。

このように、状況としも、内容としても、似たものがある「解離」と「分裂」だが、そこには、かなりはっきりした相違があるのも、確かである。そこで、そのような違いが生じる理由を、私なりの視点から、考えてみたい。

このような違いが生じる理由は、大きく、次の二つの観点から、みることができる。

一つは、「危機的状況」そのものの「性質」の違い。もう一つは、「危機的状況」に対する「対処」のし方の違い、である。後者は、気質や性格の違いということでもある

まずは、危機的状況の性質の違いについて。

私は、前にも、分裂病的状況は、物理的な、「見える」レベルの危機ではなく、「見えない」レベルの危機であることを強調した。それに対して、「解離」の場合は、「見える」、現実レベルの危機ということが、一応言える。しかし、「解離」につながる、親などの「虐待」にも、ほとんど明示的には「見えない」、心理的虐待や、ネグレクトなどもある。さらには、本当に「見えない」レベルで、一種「テレパシー的」になされる(無意識的な)攻撃も、あると解されるのである。

それで、両者を、「見える」レベルの危機と、「見えない」レベルの危機として分けるのは、必ずしも、正確ではない。

そこで、むしろ、それらを分けるのに、「人間的な虐待」と、「戦略的な虐待」とするのが、適当と思われるのである。

「人間的」というのは、いかにも曖昧に聞こえるかもしれないが、両者を対比的にみれば、かなりはっきりしたものが、浮かび上がるはずである。「戦略的な虐待」というのは、「非人間的」な「虐待」ということでもある。

(なお、「虐待」という言葉からは、極端でひどいものだけを連想しがちだが、本来「虐待」と訳される「abuse」は、「乱用」を意味するということだ。必ずしも、明らかな「虐待」でなくとも、適切な「扱い」を受けない場合を、広く含むのである。――西澤哲著『子どものトラウマ』、講談社現代新書)

「人間的」ということだが、親やその他の人間がする「虐待」というものには、必ず、どこか、「人間的な感情」が纏わりついているものである。一見「理由のない」虐待のようにみえても、少し踏み込めば、そこには、何らかの隠された「理由」や「感情」が伴っていることが分かる。(具体的に、その「感情」そのものの内容は、つかめないとしても、そのようなものが、潜在していること自体は、感知される。)

「人間的な感情」とは、要するに、「怒り」や「恨み」、「ねたみ」、「反感」、「嫌悪」、「ねじ曲がった愛情」、「支配欲」、「性欲」などで、多くの場合、親などが子供に対する「虐待」には、そのようなものが、伴っていると言える。

まだ個性というものを、はっきり持たない子供に対して、そのような個人的な感情からの虐待は、そうはないはずだ、と思われるかもしれない。が、潜在的には、特に「親子」のような親密な関係であるほど、そのようなものが、無意識にも感知され、反感を募らせるということは、よくあるというべきである。さらに言えば、そこには、前世からの記憶の影響が、無意識にも作用しているということも考えられる。

また、必ずしも、「個人的」な感情からでなくとも、子供を持つ頃の親というのは、どっぷりと「世間」に浸かりきる頃で、将来に対する「この世」的な不安も多い。「世間」に浸り切った者にとって、「世間」から遊離した、子供の「無垢」さ、「無力」さというものは、それ自体、無自覚的な「反感」を抱きやすいといえる。無意識にも、「痛い目」に合わせることによって、そのような状態から早く脱しさせよう(つまりは、自己と同じようなものへと変えよう)という意識が、働くということが考えられる。

(さらに、前回言ったが、子供がもつ、もともとの「解離」的な傾向が、逆に、親などの「虐待」を誘発するということも考えられる。恐らく、子供の頃の最初の「解離」は、具体的な状況に対してというよりも、漠然と、「この世」にいることがしっくりこない。言い換えれば、「あの世」にいたときの「郷愁」が、何となく押し寄せる、といったものではないかと思う。それが、「現実」からの「後退」というか、一種、「心ここにあらず」という状態を醸し出す。それが、もはや「あの世」のことなど忘れ去った親には、自分らに対する「否定」のようにも受けとれ、「攻撃」を誘発するということもあると思われる。)

そのような、いわば、「子供」と「大人」の間の「溝」に関わる、普遍的とも言える問題もある。が、それもまた、人間的な感情に基づく「虐待」であることには、変わりないはずである。

以上のように、「解離」は、基本的に、「人間的な感情」に基づく「虐待」に対する反応として生じると解される。そのような状況で、物理的または感情的に逃げがきかないときに、意識の苦痛を軽減する反応として、生じると解されるのである。そして、それは、それなりに、その状況に対しては「有効」であり、だからこそ、「防衛反応」として、成り立っているのである。

それに対して、「分裂病的状況」では、「虐待」的な要素は、より強烈で、明確でありながら、そこに、「人間的」な感情というものが感じ取れない、ということを特徴とする。その意味で、それまでの経験に照らしても、「訳が分からない」、「未知」のものなのである。それは、人間的な「虐待」とは、また違った意味で、「未知」の「恐怖」、何物かに、「自己」が飲み込まれるかのような、「恐怖」を喚起するのである。

そして、そのような「虐待」を、あえて、そこから発する恐怖や葛藤のエネルギーの「捕食」のために、「戦略的」に行っている「存在」がいるということを、これまでにも述べてきた。

しかし、話をややこしくするようだが、「捕食者」は、単独で働くばかりではなく、前記のような、人間を通しての「虐待」にも、背後で関わっている場合が多いと思われる。ただ、その場合、人間的な感情に発する「虐待」衝動を、いわば、背後で「けしか」け、「後押し」しているようなところがある。だから、それらも、現れた現象としてみれば、広く「人間的な虐待」に含めてもよいだろう。

さらに、ややこしいのは、「捕食者」は、自らが攻撃を仕掛ける場合でも、人間の「背後」または「間」から行うことが多いということである。それで、その攻撃を受けた者は、それが「人間的なものでない」ことを、どこかで察知しつつも、その人間によるものと誤信する可能性も高い。それが、現実の人や組織などに迫害されるという、「妄想」の元にもなる訳だが、そこには、どうしても、その「非人間的」な側面が、内容に現れ出てしまうことになる。

そして、そのように人間の背後や間から攻撃を仕掛けることも、(その者の「投影」を利用した)彼らの「戦略」の一部ということができる。その特定の人間のみならず、周りにも、「葛藤」の種を蒔くことができるからである。

何しろ、「彼ら」が直接的なし方で関わる限り、そこに、どうしても、前にみたような、「非人間的」な側面が現れ出る、ということである。

それは、「虐待」的な言葉や行いそれ自体にも、人間ではとても醸し出すことの困難な、圧倒させる要素として、現れ出る。しかし、より端的には、そこに、人間的な「感情」や「理由」が感知できないということこそが、直接に看取される特徴であり、「恐怖」や「錯乱」の、大きな理由ともなっているのである。つまり、この場合、「虐待」的なできごとそのものよりも、むしろ、そういった、「訳の分からなさ」こそが、独特の、(対処のしようがないと思わせる)「恐怖」を喚起するのである。

恐らく、このような「捕食者」にも、全く「感情」がないという訳ではないだろう。実際、私も、彼らの「怒り」による反応と思われるものを、身に受けたこともある。しかし、それも、一時的な「爆発」として現れたのみで、人間の場合のように、後をひいたり、恨みのようなものを隠し持たれたりすることは、なかったと思う。

要するに、一言で言えば、人間的な虐待が、「ウェット」だとすれば、彼らの「虐待」は、「ドライ」そのものであり、「戦略的」なものによって、貫かれているといえるのである

その意味では、人間的な「虐待」のようには、後にグチャグチャと尾を引くようなものではないし、「戦略的」なものであることが、分かりさえすれば、「恐怖」や「囚われ」も、さほどのものではなくなるということもいえるのである。

さらに、このような「戦略」的な「虐待」は、「ドライ」である分、無意識レベルでなされても、あまり効果を及ぼしにくい(感情を巻き込みにくい)、という面もある。それは、漠然とであっても、「意識」によって、捉えられてこそ、始めて、本物の「恐怖」として、効果を発揮するのである。

だから、一概に、人間的な「虐待」と比べて、度合いが「ひどい」ということには、ならないと思う。

ちなみに、これまでにも、何度か取り上げた「なまはげ」は、こういった、「非人間的」な「虐待」を象徴する面もある。

「鬼」の面を被った異形の者たちが、「わるい子はいねーか」、「耳を食ってしまうぞ」などと、大声で脅し、叫びながら、子供を取り囲む。子供にとっては、全く唐突で、「理不尽」な、「訳が分からない」状況である。それは、親に「怒られる」などのこととは全く異質の、未知の「恐怖」を呼び起こす。しかし、同時に、それが一時的のものであれば、必ずしも、後をひかないものでもある。

これは、まさに、「戦略的な虐待」そのものである。子供に「言うことを聞かせる」こととともに、親が「庇護的」な役割を演じるということも、(戦略的に)狙われているのである。そして、このような儀式の「源」は、明らかに、「捕食者」(鬼)の行いそのそものに発している、ということができる。

このように、「解離」と「分裂」には、「危機的状況」といっても、かなりはっきりした性質の違いがある。とりあえず、それが、「解離」と「分裂」の反応の違いを生むと言えるのだが、その点は次回にみる。

2007年10月 8日 (月)

「解離」について

注)「分裂(統合失調)」とも混同されやすい、「解離」という概念について述べた記事です。

「解離」については、「分裂病」(統合失調症)との絡みで、私も興味があるし、これまでにも触れたことがある。また、最近「解離性障害」とされる者が増えているという意味でも、重要と思う。

先日、『解離性障害』(柴山雅俊著、ちくま新書)という本が出ていたので、読んでみた。

これは、一般向きに、理論的なことよりも、実際の症例を通して、「解離」というもの、あるいは、「解離性障害」というものをイメージしてもらおうというもの。かなり具体的に、分かりやすく書かれているし、参考になる点も多い。「解離」という言葉自体、まだ一般に十分浸透しているとはいえないので、こういう本は貴重であろう。

以下は、この本を参照にはしたが、基本的には、私自身が理解するところを述べたものである。

「解離」というのは、医学的には、「意識、記憶、同一性、または周囲の知覚についての、通常は統合されている機能の破綻」と定義される。が、要するに、「自己」の(意識の)「同一性」が揺らぎ、あるいは変容して、「分離」するかのような状態になることを、広く意味すると解してよいと思う。これは、例えば、催眠やトランスのような、意識の変容した状態(変性意識状態)を広く含むのである

そもそも、特に日本のように、錯綜した「世間」の中で生きようとすれば、厳密に「自己同一性」を維持するなどということは、あるはずもない。おかれた状況や関係によって、さまざまな「役割」を演じなければならないということ自体、既にいくらか、「解離」的ともいえる。むしろ、「解離」的な対応ができる方が、「適応的」な場合も多いのである。その他、広く「日常性」といわれる状態にも、「自己」の様々な「解離」があり得る。

しかし、その「分離」が激しくなると、「病理」的なものともなる。たとえば、「離人感」や、自分では気がつかないうちに何かの行動をとってしまう(健忘)、分離した自己その他の「声」を聞いたり「姿」を見る(幻覚)、などの「症状」が現れる。さらに、典型的には、「多重人格」のように、「分離」した人格が交代して現れ、互いの連絡が取れないということにもなる。

それらの症状は、既にみた、「分裂病」の場合とも似たものである。

「分裂病」もまた、「解離」と同じく、「自己の同一性」が大きく揺らぎ、あるいは「崩壊」にまでいたるものなので、そこには大きな類似がある。ただし、「解離」の場合は、「分離」したそれぞれの「自己」(の状態)は、それなりに「まとまり」を保って存在している。それに対して、「分裂病」の場合は、自己が全体として、明らかに、「まとまり」を欠く、といった違いがある。

病理的な「解離」は、多くの場合、「虐待」などの外傷体験によるものとされる。そのような危機的状況にあって、その状況から逃れられないときに、一種の「防衛反応」(苦痛の減少や逃避)として、意識の「解離」が生じる、と考えられる訳である。(ただし、著者も言うように、「解離」的な傾向は、外傷体験以前からある場合も多いと思われる。それらは、相乗効果的ともいえ、「解離」的な傾向が、虐待的な反応を誘発するということもあると思われる。)

既にみたように、「分裂病的反応」もまた、危機的状況に対する「防衛反応」といえるので、この点からいっても、両者には類似がある。

著者があげている症例でも、「統合失調症」との類似が問題となり、著者自身、初めは「統合失調症」の疑いをもったという。特に、「体感異常」や「幻聴」などは、「分裂病」の場合と、実際の「症状」としても大きく似通う。

しかし、「幻聴」という現象そのものをとっても、具体的には、分裂病の場合とは、かなりはっきりした違いがあることも確かと思われる。

分裂病では、既にみたように、明らかな「他者」が、圧倒するように攻め入り、「自己」の主体性は極度に奪われる。「自己」は、全体として、「崩壊」の危機を迫られるのである。内容としても、容易に理解を許さない、不可解なものが多い。

「解離」の場合は、はっきりした「他者」による攻撃というよりも、「自己」の別の部分が、訴えかけてくるといった性質が強く、本人もどこかで、それを察知しているところがある。部分的な「自己」にとっては、一つの危機ではあっても、全体として、「崩壊」が差し迫るといった感じのものではない。また、内容そのものは、意味の明確なものが多い。

先の本の副題は、《「うしろに誰かいる」の精神病理》となっているが、「解離」では、まさに「影」ともいえる「もう一人の自分」が、幻覚の対象となることが、多い訳である。

前に、モーパッサンの『オルラ』を取り上げたが、これは、まさに、「影」または「ドッペルゲンガー」というべき、背後のもう一人の「自分」を、「実体」として感知する現象を小説にしたものである。

当時、モーパッサンは、「分裂病」との診断を受けたようだが、現在なら、多分「解離性障害」と診断されることだろう。(ただし、私は、もはやこの「オルラ」は、単に「もう一人の自分」としてではなく、はっきりと切り離された「他者」として現れ、物理現象すら起こすものとなっているので、「分裂病的状況」と区別し難く、崩壊を迫るものだったと思っている。)

また、著者は、「表象幻覚」という言い方で、「表象」(自己の内部のイメージや記憶)が、外部的な「知覚」であるかのようにはっきりと感知されるのが、「解離」の特徴という。それは、はっきりしたものではあっても、直接的な「知覚」に比べて、ある種「クッション」を挟んだようなものと思われる。「未知」の「他者」を直接、「実体」として感知する、「分裂病」の場合とは、違ったものがあるということができる。

いずれにせよ、「分裂病」と「解離」には、上のように、似たところが多くあり、区別するのは、容易ではないようである。

実は、私自身は、「分裂病」と「解離」は、基本的には区別できるが、厳密に分けられるものではなく、また、必ずしもその必要もないものと思っている。それに、両者が混交するという場合も、多いはずなのである。(私自身の場合も、体験のところで述べたことは、両者が混交していることは明らかである。また、出会う対象としてみても、はっきりした「他者」的存在と、「自己」との関係が深い背後的な「存在」の、両者が混交している。)

ただし、医学的には、「分裂病」は「精神病」圏に属するもので、「解離」は「神経症」圏に属するという違いがあり、その違いは無視できないことであろう。また、精神療法が有効かどうかという点でも、この両者の違いは、重視されることになるのだろう。

そこで、次回には、状況的には似たところのある、「分裂病」と「解離」で、違いが生じる理由を、私なりの視点から、少し踏み込んで、考えてみたい。

最後に、「分裂病的状況」では、「霊界の境域」というのが問題となったが、「解離」の場合はどうなのかについても、少し触れておきたい。(この点も次回に詳しくみるが)

「解離」には、霊的な「憑依」を思わせるような例も多く、実際に、死んだ者の「霊」を見るとか、体から離脱することを知覚する「体外離脱体験」なども報告される。分裂病の場合と同様、それ自体、かなり「霊的なもの」と近しいものであることが、示唆されるのである。

また、「解離」の一面である、「催眠」その他の「変性意識状態」は、テレパシー等の「超常」的な現象が起こりやすいことが、超心理学的にも明らかにされている。さらに、かつて、LSDなどの向精神薬による変性意識状態の研究がさかんだった頃、そこで、様々な「超常」的な体験が現れることが示されている。何度か触れた、カスタネダの「非日常的な体験」も、まさにそういったものの一つである。

実際に、「解離」においても、「霊界の境域」―というより、あまり限定せずに、広く「霊的な事柄」と言った方がいいかもしれないが―に関わる場合というのは、あると思われる。ただし、「解離」の場合、「分裂病」のように、「霊界の境域」における状況そのものが、直接に影響を及ぼすことによって、「病的反応」が生じるというものではないはずである。

むしろ、間接的に、あるいは結果として、「解離」によって、「霊的な事柄」との接点が生じる、という風に捉えられる。
ただし、それは、著者の言うような「表象」と区別しにくい場合も多く、曖昧な要素は多いだろう。また、出会う対象も、外部的な「霊的存在」というよりも、自己の一部や、自己の想念の生み出したものである場合が多いと思われる。

何しろ、「解離」という状態は、「霊的」なものとの接点を生じやすい、ということは言えると思う。

ところが、「解離」という言葉が、いだすらに浸透すると、逆に「解離」という曖昧な概念によって、「霊的な現象」など不可解な現象を、「分かった」もののように「説明」されてしまうという可能性も出てくる。が、みてきたように、「解離」は、自己や意識の状態を大まかにくくる、いわば「便宜的」な概念であり、まだまだ、これから具体的に煮詰められるべきものである。また、著者も強調するように、必ずしも「病理」を意味するものではなく、それ自体が、何かを「説明」するようなものでもないのである。

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