無意識レベルで「声を聞く」ということ
前回、次のように述べた。
現代の状況では、「声」が、「人と人の間」に現れ出るということ自体は、日常茶飯のこと」である。「ただ、多くの者は、そのようなものは、聞かないか、聞いても無意識レベルで処理されて、特に後を引きずらない。
しかし、無意識レベルで「声を聞く」ということがどういうことなのか、多くの者は、理解に苦しむだろう。実際、無意識とは、意識しないということなので、意識レベルでは、分かりようがないのは当然である。
しかし、一般に、これを類推できる状況として、夢がある。夢を見ているときの「主体」は、まさに無意識レベルの自己だといえる。そのときの「主体」は、夢を、明らかに一つの「現実」と思っている。(「夢」と意識する「覚醒夢」というのもあるが、通常はそうである。)その夢で、「日常的現実」にはあり得ないような、特異な「映像」とか、誰かまたは何かの、異様な「声」を聞くということがある。
そういうときに、無意識の「主体」が、どのような反応をするかというと、(怖くなって目を醒ましてしまうこともあるが)まず唖然としたり、「何だこれは」というような、驚きの反応はあっても、それ以上、それが何であるかとか、なぜこんなものが現れたのか、などと詮索したり、思考を膨らませたりすることは、まずないはずである。
また、夢では、場面がめまぐるしく展開しやすく、次の場面に移ってしまえば、もはやそんなものにこだわっておらず、忘れてしまっているのが普通である。(後で、目覚めた後に、思い出すということはあっても)
もし、そのようなものが、「日常的現実」に現れたなら、決して見過ごされはしないような代物でも、夢の中、つまり無意識レベルでは、そうなのである。
「無意識」というのは、そのように「無頓着」で、その場その場の状況に、機械的、受動的に反応している(流されている)に過ぎないところがある。起こっていることに、一々、留まってはいないのである。「夢」というのは、「霊界の境域」と似て、流動的で、混沌としたところのある世界だが、そのように、無意識が無頓着であるからこそ、何とか「やり過ごせて」いるということもいえる。
そして、それは、「人と人の間」に現れ出た「霊界の境域」の「声」などについても、同じことが言えるのである。
先の、「「声」を聞いても、無意識レベルで処理されて、後を引きずらない」というのも、大体このようなことと思ってよい。
ただ、私の場合は、まさに、「無意識レベル」で「聞い」たり「体験」したりしていたことを、後に「思い出す」ということを通して、「意識化」したので、「夢」の場合とはまた違う面もはっきりしている。
前回述べたように、そこでの「無意識」は、「自分が体験しているのは、幻覚ではないのか」、「わたしは病気なのか」などと、(現実的な)思考もしており、起こっていることが、「夢」ではなく、「日常的現実」そのものに入り込んでいるものであることを、はっきり自覚している。それは、無意識と意識の「境界」といってもいいような、ぎりぎり、意識に近いレベルで、体験されていることが明らかである。
しかし、その場の状況で、「意識化」などはできていなかったこと、つまり「無意識」であったことも明白で、しかもそのギャップは、後に思い返しても、ただならぬほど越え難いものであったことが、分かるのである。(一部を断片的に「思い出す」ことはあっても、全体としては、混乱や錯乱など、まさに、分裂病的な状態をくぐりぬけることによって、やっと、意識化できるようになったもの)
それは、「夢」とはまた異なり、「意識レベル」での「日常的体験」と、その「無意識レベル」での「非日常的体験」が、同時進行しているところがあり、意識が両者を、同時的に(空間的、時間的に一つの出来事として)把握することが、困難であるということが、一つ左右していると思われる。意識の焦点のようなものが、日常的体験の方に移ってしまうと、かなり意識に近いところで体験されていたはずの「非日常的体験」も、瞬時に、意識から消え去ってしまうところがあるのである。(「夢」でいえば、場面が切り替わることに相当しよう)
ただ、「体験」のところで述べたように、後には、初めはそのほんの断片のみだが、意識に浮上してくることになった。そして、それが日常経験に照らして、あまりに「理解不能」であったことから、混乱その他の分裂病的な状況が始まったのである。
いずれにしても、「人と人の間」で起こる「声」などの非日常的な出来事に、全くの「無意識」であれば、それは、「夢」とほとんど同じ程度の影響しか及ぼさない。それによって、分裂病的な状況に入るということには、ならないのである。それは、意識が「日常的現実」の方に占領されていて、「分裂病的状況」からは、遮断されているということでもある。そして、その「無意識」と「意識」のギャップというのは、相当に深いから、そう容易に、それを意識するようなことも起こりにくいのである。
ところが、何らかの理由により(もともとの気質や体質、日常性への指向が大きく減退している状況、それまでに散々無意識が「声」にさらされていて、意識化の一歩手前まで来ていたことなど)、それを何ほどか「意識」するようになることが、「分裂病的状況」に入って行くことの契機となる。
しかし、それは、あくまで、それまで無意識で経験していたものが、意識されるものとなることによって、起こるのであって、それまで全く存在しなかったものが、いきなり出て来たということなのではない。つまりは、「未知」とはいっても、全くなじみのないものではないし、それまで無意識レベルで体験されていた以上、全く対処のしようがないものということではないのである。
そして、「妄想」や錯乱などの「分裂病的反応」というのは、むしろ、それらを生半可に「意識」することによってこそ、起こるというべきなのである。つまり、「意識」はするが、全体としては、それが十分に「意識化」できていない状況ということである。
「意識」にとっては、それはもはや、無視し得ないものとなるが、その全体像が把握し得ないため、意識できない部分が、巨大な「影」のように付きまとう。そこで、自ら「恐れ」に基づく「想像」を膨らませたり、「防御」を張り巡らせるということが起こるのである。
あるいは、「意識」的な部分と「無意識」的な部分が相半ばしているため、その葛藤こそが、問題を起こすともいえる。「意識」的な部分は、「無意識」的な部分に見え隠れするものを恐れ、抵抗しつつも、もはやそこから逃れ難く、何とかそれを知ろうと、葛藤し、もがくのである。
だから、一旦「意識」することになった以上、「意識」はもはや、本当には、それから逃れることはできなくなったというべきなのである。(一時的な忘却や遮断ということはあり得、また必要な場合もあろうが、もとの「無意識」の状態に、戻ることはできない)
そして、そうであれば、結局「意識」としては、より「意識化」を進めて、把握を鮮明にし、「無意識」との間にある葛藤を解消していくしか手立てはない、と言うべきである。その「意識化」の過程は、確かに容易ではなく、様々な関門がある(特に「未知」と受け入れることが大きな関門となるのは、何度も言ったとおり)。が、その過程をくぐりぬけて、本当に「意識化」がなされれば、もはやそれは、必要以上に恐怖を膨らませたり、振り回されたりするものではなくなるのである。
実際、無意識レベルで体験しているときは、 そうであったようにである。そして、それは実際、ある意味で、元の「無意識」であったときと同じ状況に近づくことを意味する。つまり、「意識」はしても、「無頓着」で、「後を引きずらない」状況に近づくということである。
これを段階的に図示すれば、次のようになる。
1「無意識」 (機械的反応、無頓着、後を引きずらない)→
2「意識化」の始まり (捕らわれ、恐怖、錯乱など分裂病的反応)→
3(全体的な)「意識化」の達成 (葛藤の解消、事実としての受け入れ、現実的な対処の身につけ、免疫)→
4「意識化を経ての無意識化への接近」 (無頓着、後を引きずらない)
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