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2007年8月

2007年8月27日 (月)

なぜ「開き直れ」ないのか

典型的な「妄想」、たとえば、「CIAなどの組織に迫害される」という「妄想」は、「未知」の危機的状況で生じる、「防衛反応」だと言った。つまり、そのような「妄想」は、本当はそれ自体が問題なのではなく、真の問題は、その背後に隠されているということである。本人は、それと直面するのを避けて、あがいているのである。

このことをみるには、我々が、もし本当に、「CIAなどの組織に迫害される」という事態が実際に身に起こったとするならば、どうするかを想像してみればよい。

恐らく、我々も、もしそれが本当に疑いないこととなれば、その信じ難さ、理不尽さに腹を立て、取り乱し、さまざまな手を打ちもするだろう。しかし、それでも、何ら効果がないとなれば、いずれは、(少なくとも精神的な構えとして)「腹を括る」ということに落ち着くはずである。

そのような起こり得ざることが、本当に起こってしまったのなら、実際に、そうは打つ手がないからである。あるいは、強大な権力とはいえ、所詮は相手は「見える」相手だし、いつまでも、じたばたしても仕方がないので、どこかで、「開き直る」か「諦める」という態度が出で来るはずなのである。

しかし、分裂病の「妄想」の場合には、このような「開き直る」というが、まず起きない。もし、本当に「確信」があるなら、いずれ、そうなってよさそうであるが、そうはならないのである

たとえば、いつまでも、何かにとりつかれたように、「恐れ」を抱き、騒ぎ立て、周りを巻き込み、そう有効とは思えない対抗手段などの行動に没頭することに終始する。確かに、意識レベルでは、一つの「確信」のもとに行動しているのだろうが、そこには、無意識的なレベルとの間に、大きな「齟齬」があると言わざるを得ない。

つまり、これは、このような「妄想」は、本当には直面したくない背後の何事かの、「代用」に過ぎないことを、自ら証明しているようなものである。それを「確信」して、つかれたように行動すれば、一応はそれを覆い隠すことにはなる。が、内心のどこかで感じ取っている、その何事かへの「恐れ」は、一向に解消されない。それが、「影」のようにつきまとうため、本当に、「開き直る」ということができないのである。

要するに、本当に「開き直る」ことができるためには、実際に起こっていることに、「直面」しなければない。そして、この場合には、それは、何度も言って来たように、「日常的現実」やその延長上にあるものではなく、経験上「未知」のものであるということなのである。それを認めない限り、「開き直る」ということは、起こり難いのである。

しかし、分裂病の「妄想」の場合、一応「未知」のものと認めたとしても、今度は、突拍子もなく、「神」や「宇宙人」が出て来る、奇妙なものも多い。これは、恐らく、「神」や「宇宙人」が、現代において、人間を超えた「未知の存在」として、最も「ポピュラー」なもの(思いつきやすいもの)だからだろう。

しかし、これは、本当に「未知」のものと認めたというよりも、やはり、その者にとっての、既製の既知のイメージに、無理に当てはめて、出て来ているという面が強いのである。また、これでは、いかにも、話が一気に「超越的」な方向へと飛び過ぎてしまっている。

それでも、現実の組織などが「妄想」の対象となる場合と違って、事実上対処のしようがなくなるという点で、ある種「諦め」をもたらすことにはなろう。が、これは、本当に事実に直面した、「開き直り」に通じるものとは言い難い。

そして、それは、「神」や「宇宙人」のところに、「霊」や「悪魔」その他の「存在」をもってきたとしても、多かれ少なかれ言えることなのである。つまり、「未知」と認めるとは、それが、どのような「存在」なのかを、既製のイメージに照らして、当てはめることが問題なのではないということである。とりあえずは、何よりも、それが自分の体験上「未知」のものであるということを、はっきりと、正面から認めることの問題なのである。

そして、それこそが、「開き直り」と同時に、焦りや混乱からではなく、じっくりと、相手を見極めて行くという態度につながるのである。

しかし、このように、「開き直り」が起きにくいことの、もう一つの理由は、まさに、そのように意図されてこそ、「追い込まれ」て行くのだからでもある

これも、「仮に」でもよいが、人を恐怖と葛藤の状態に「追い込み」続けることによって、そこからくみ取られるエネルギーを、「捕食」する存在がいるとする。その存在の身になって、できる限り、効果的に、多くくみ取るには、どのようなやり方が有効かを考えてみるとよい。

その場合、恐怖をもたらすことが問題としても、あまり一時に、明確で直接的な恐怖を与えるのは賢明ではない。それでは、一時的には効果があっても、継続してくみ取ることが難しいからである。むしろ、できる限り「開き直ら」せることなく、じわじわと、暗示的、間接的なやり方で責め立てて、本人が自ら、際限なく恐怖を膨らませ、葛藤を拡大させて行くというのが、賢いやり方である。

「声」にしても、あまり直接的で、「分かりやすい」攻撃は逆に効果が薄い。むしろ、本人の心の「秘部」に触れつつ、重大なことを暗示するようなやり方で、影響力を強め、徐々に恐怖と葛藤を深めさせていくのが、うまいやり方である。(この観点からすれば、「死ね」などの、あまりに直接的で単純な攻撃は、「捕食者」による「戦略」的なものというよりも、単なる低級な存在のいやがらせである可能性が高い。)

私の場合も、体験のところで述べたように、初めに浮上した「声」は、「あと10年!」という、「暗示」的と言うにしても、何とも曖昧で抽象的な言葉だった。多くの人は、なぜ、このような曖昧な言葉が力を持ち得るのか、信じ難いと思うかもしれない。

が、それは、それなりに、私の心の「文脈」に、「ひっかかる」ものではあったし、何よりも「声」の質が、それまでに、意識レベルでは聞いたことのない(と同時に、無意識レベルの記憶を強く刺激する)、文字通り「人間離れ」した強烈なものだったので、一種のキイワードのように、初めに浮上することになったのである。そして、それを「意識」し始め、「恐れ」を抱くようになれば、後は、彼らとしても、いくらでも、責め立てるとっかかりが生じるのである。

恐らく、多くの場合、そのように、彼らとしては、恐怖を与える暗示的で曖昧なきっかけを作ればよいのであって、後は、本人が勝手に想像力で、恐怖を膨らませてくれる。そして、それが絶えることなく継続するように、要所要所で、それに拍車をかける攻撃をしかければよいのである。

つまり、いかに、本当には「開き直ら」せることなく、継続的に、恐怖と葛藤をしぼりとれるかが、彼らにとっては、「勝負」なのである。

そこで、たとえば、彼らの「存在」のことにしても、起こる「現象」のことにしても、暗示的、示唆的な言葉は多く聞かれても、本当に、直截にそれを指し示すような言葉は、彼らから決して聞き出すことはできない。彼らが、本当には、どうしたいのか、ということについても同じである。

そういう訳で、そもそも、「霊界の境域」自体が、本来的に、混沌として、訳が分からないところであるのに加えて、彼らの「戦略」上も、そのような面が付け加えられるから、ますます「訳が分からない」ということになる。そのような意味からしても、この場合、それが何であるかを、あれこれ詮索するのは、ほとんど意味のあることとは言えない。

むしろ、とにかく「未知」であるということ、「訳が分からない」ものであることをを、正面から認めて、「開き直っ」てしまうことが、相手の「戦略」をはぐらかすという意味でも、有効なのである。

2007年8月 2日 (木)

無意識レベルで「声を聞く」ということ

前回、次のように述べた。

現代の状況では、「声」が、「人と人の間」に現れ出るということ自体は、日常茶飯のこと」である。「ただ、多くの者は、そのようなものは、聞かないか、聞いても無意識レベルで処理されて、特に後を引きずらない。

しかし、無意識レベルで「声を聞く」ということがどういうことなのか、多くの者は、理解に苦しむだろう。実際、無意識とは、意識しないということなので、意識レベルでは、分かりようがないのは当然である。

しかし、一般に、これを類推できる状況として、夢がある。夢を見ているときの「主体」は、まさに無意識レベルの自己だといえる。そのときの「主体」は、夢を、明らかに一つの「現実」と思っている。(「夢」と意識する「覚醒夢」というのもあるが、通常はそうである。)その夢で、「日常的現実」にはあり得ないような、特異な「映像」とか、誰かまたは何かの、異様な「声」を聞くということがある。

そういうときに、無意識の「主体」が、どのような反応をするかというと、(怖くなって目を醒ましてしまうこともあるが)まず唖然としたり、「何だこれは」というような、驚きの反応はあっても、それ以上、それが何であるかとか、なぜこんなものが現れたのか、などと詮索したり、思考を膨らませたりすることは、まずないはずである。

また、夢では、場面がめまぐるしく展開しやすく、次の場面に移ってしまえば、もはやそんなものにこだわっておらず、忘れてしまっているのが普通である。(後で、目覚めた後に、思い出すということはあっても)

もし、そのようなものが、「日常的現実」に現れたなら、決して見過ごされはしないような代物でも、夢の中、つまり無意識レベルでは、そうなのである。

「無意識」というのは、そのように「無頓着」で、その場その場の状況に、機械的、受動的に反応している(流されている)に過ぎないところがある。起こっていることに、一々、留まってはいないのである。「夢」というのは、「霊界の境域」と似て、流動的で、混沌としたところのある世界だが、そのように、無意識が無頓着であるからこそ、何とか「やり過ごせて」いるということもいえる。

そして、それは、「人と人の間」に現れ出た「霊界の境域」の「声」などについても、同じことが言えるのである。

先の、「「声」を聞いても、無意識レベルで処理されて、後を引きずらない」というのも、大体このようなことと思ってよい。

ただ、私の場合は、まさに、「無意識レベル」で「聞い」たり「体験」したりしていたことを、後に「思い出す」ということを通して、「意識化」したので、「夢」の場合とはまた違う面もはっきりしている。

前回述べたように、そこでの「無意識」は、「自分が体験しているのは、幻覚ではないのか」、「わたしは病気なのか」などと、(現実的な)思考もしており、起こっていることが、「夢」ではなく、「日常的現実」そのものに入り込んでいるものであることを、はっきり自覚している。それは、無意識と意識の「境界」といってもいいような、ぎりぎり、意識に近いレベルで、体験されていることが明らかである。

しかし、その場の状況で、「意識化」などはできていなかったこと、つまり「無意識」であったことも明白で、しかもそのギャップは、後に思い返しても、ただならぬほど越え難いものであったことが、分かるのである。(一部を断片的に「思い出す」ことはあっても、全体としては、混乱や錯乱など、まさに、分裂病的な状態をくぐりぬけることによって、やっと、意識化できるようになったもの)

それは、「夢」とはまた異なり、「意識レベル」での「日常的体験」と、その「無意識レベル」での「非日常的体験」が、同時進行しているところがあり、意識が両者を、同時的に(空間的、時間的に一つの出来事として)把握することが、困難であるということが、一つ左右していると思われる。意識の焦点のようなものが、日常的体験の方に移ってしまうと、かなり意識に近いところで体験されていたはずの「非日常的体験」も、瞬時に、意識から消え去ってしまうところがあるのである。(「夢」でいえば、場面が切り替わることに相当しよう)

ただ、「体験」のところで述べたように、後には、初めはそのほんの断片のみだが、意識に浮上してくることになった。そして、それが日常経験に照らして、あまりに「理解不能」であったことから、混乱その他の分裂病的な状況が始まったのである。

いずれにしても、「人と人の間」で起こる「声」などの非日常的な出来事に、全くの「無意識」であれば、それは、「夢」とほとんど同じ程度の影響しか及ぼさない。それによって、分裂病的な状況に入るということには、ならないのである。それは、意識が「日常的現実」の方に占領されていて、「分裂病的状況」からは、遮断されているということでもある。そして、その「無意識」と「意識」のギャップというのは、相当に深いから、そう容易に、それを意識するようなことも起こりにくいのである。

ところが、何らかの理由により(もともとの気質や体質、日常性への指向が大きく減退している状況、それまでに散々無意識が「声」にさらされていて、意識化の一歩手前まで来ていたことなど)、それを何ほどか「意識」するようになることが、「分裂病的状況」に入って行くことの契機となる。

しかし、それは、あくまで、それまで無意識で経験していたものが、意識されるものとなることによって、起こるのであって、それまで全く存在しなかったものが、いきなり出て来たということなのではない。つまりは、「未知」とはいっても、全くなじみのないものではないし、それまで無意識レベルで体験されていた以上、全く対処のしようがないものということではないのである。

そして、「妄想」や錯乱などの「分裂病的反応」というのは、むしろ、それらを生半可に「意識」することによってこそ、起こるというべきなのである。つまり、「意識」はするが、全体としては、それが十分に「意識化」できていない状況ということである。

「意識」にとっては、それはもはや、無視し得ないものとなるが、その全体像が把握し得ないため、意識できない部分が、巨大な「影」のように付きまとう。そこで、自ら「恐れ」に基づく「想像」を膨らませたり、「防御」を張り巡らせるということが起こるのである。

あるいは、「意識」的な部分と「無意識」的な部分が相半ばしているため、その葛藤こそが、問題を起こすともいえる。「意識」的な部分は、「無意識」的な部分に見え隠れするものを恐れ、抵抗しつつも、もはやそこから逃れ難く、何とかそれを知ろうと、葛藤し、もがくのである。

だから、一旦「意識」することになった以上、「意識」はもはや、本当には、それから逃れることはできなくなったというべきなのである。(一時的な忘却や遮断ということはあり得、また必要な場合もあろうが、もとの「無意識」の状態に、戻ることはできない)

そして、そうであれば、結局「意識」としては、より「意識化」を進めて、把握を鮮明にし、「無意識」との間にある葛藤を解消していくしか手立てはない、と言うべきである。その「意識化」の過程は、確かに容易ではなく、様々な関門がある(特に「未知」と受け入れることが大きな関門となるのは、何度も言ったとおり)。が、その過程をくぐりぬけて、本当に「意識化」がなされれば、もはやそれは、必要以上に恐怖を膨らませたり、振り回されたりするものではなくなるのである。

実際、無意識レベルで体験しているときは、 そうであったようにである。そして、それは実際、ある意味で、元の「無意識」であったときと同じ状況に近づくことを意味する。つまり、「意識」はしても、「無頓着」で、「後を引きずらない」状況に近づくということである。

これを段階的に図示すれば、次のようになる。

1「無意識」 (機械的反応、無頓着、後を引きずらない)→
2「意識化」の始まり (捕らわれ、恐怖、錯乱など分裂病的反応)→
3(全体的な)「意識化」の達成 (葛藤の解消、事実としての受け入れ、現実的な対処の身につけ、免疫)→
4「意識化を経ての無意識化への接近」 (無頓着、後を引きずらない)

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