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2007年7月

2007年7月23日 (月)

「人と人の間」と「霊界の境域」

木村敏という精神科医の著書に『人と人の間』という本があって、なかなか鋭いことが述べられている。一般に、精神の病というものは、「人」というのがまずあって、その「人」と「人」の関係、つまり「人間関係」のつまずきなどを起因にして起こるものと考えられている。しかし、それでは、その病の実質のようなものは、とても見えてこない。

本当は、「人」というのは、初めからそれとしてあるものではなく、むしろその「間」(あいだ)である「人と人の間」から、その都度紡ぎ出されてくるものである。だから、精神の病というのも、その「間」にこそ注目しなければならない。つまり、「精神の病」とは、「人の病」というよりも、「人と人の間」の「病」なのであり、そこから「人」が紡ぎ出されてくるあり方に、何かの異常な事態が生じていることなのである。

この「間」には、「世間」といったものも含まれる。これは、日本では特に重要な意味を持つ。それは、単に人間の集団自体を意味するのではなく、「ご先祖に申し訳が立たない」などと言うときの、「先祖」などをも含んでいる。

また、日本では、「自然」も「間」として重要である。それは対象としての「自然」というよりも、「自ずから」そうなるといった、主体のあり方の問題として、重視される。

こう要約すると、「間」というのは、多少抽象的で、分かりにくいところがあろうし、実際、著者の考察(哲学でいう「現象学」的な考察)は、抽象的で、今一つつかみにくいのも事実である。 しかし、この「間」に注目することは、基本的な着眼として、正しいことと思う。単独の「人」に着目している限り、本質的なことは、何も見えてこないからである。

著者は、「間」を「実体化」しているという批判を受けるというが、むしろ、その「間」を徹底的に「実体化」して、そこに注目することでこそ、この「病」の実態が、具体的レベルで見えて来ると言うべきである。そして、そうしたときには、「人と人の間」というのも、これまで言って来た「霊界の境域」というのと、十分通じてくるものとなるのである。

たとえば、「世間」というのには、「先祖」も含まれるという。しかし、むしろ、この「世間」には、「わたる世間に鬼はない」(ドラマのタイトルにみるまでもなく、これは一種の逆説で、実際には「鬼ばかり」であることが前提となっている)という時の「鬼」への恐れが含まれているとみる方が、実際に適している。「世間」を恐れるというときには、人の集団それ自体というよりも、むしろ、その「間」にあって、人に影響を与えている、みえざる「鬼」への恐れが、強く反映しているのである。

分裂病の一つの要素としても、「対人恐怖」というのがある。それは、「人」そのものへの恐れなのではなく、実際には、このような意味の「世間」への恐れというべきである。つまり、「人と人の間」への恐れである。通常の者は、この「間」というのを取り立てて意識することもなく、日常をやり過ごしている。しかし、分裂病の者は、不幸にして、この「間」に(過剰に)敏感となり、「意識」せざるを得なくなった者である。それで、通常の滞りのない行動に、支障を来してしまうのである。

「霊界の境域」と言ったが、それは、この「日常世界」と「霊界」との「境界」領域であり、まさに「間」である。決して、この世界から掛け離れたところにあるのではない。つまり、我々の日常の、まさに「人と人の間」に、いつでも顕現し得るものなのである。特に、最近は、実際に、「霊界の境域」に住む多くの「もの」が、つい間近の「人と人の間」で、闊歩している状況ということが言える。

(これにはいくつかの理由が考えられる。「人と人の間」の軋轢が深まり、実際に、そこに大きな「穴」が空いている状況であること、そこに、彼らの巣くいたくなるような、人間の「想念」が渦巻いているということ、さらに、本来の彼らの住処である「自然」の領域が、人間の手によって奪われていることなどが関係しているだろう。)

そこで、これまで、「妄想」について、未知の「現実」とか、「霊界の境域」での防衛反応という言い方で言って来たことを、この「人と人の間」という具体的な「場」で起こることとして、とらえ直してみると、とても具体的に分かりやすくなるはずである

例えば、「具体的な誰か(Aとする)に迫害される」または、Aがある組織と通じているものとして、「何かの組織に迫害される」といった「妄想」である。それは、実際に、その者とAとの「間」で起こることに、基づいて生じているのである。

例えば、それは、実際にAといる状況で、まさにAのものとして、何か、暗示的な内容の、「声」を聞くなどによって始まる。例えば、「お前そんなことしてたら、何々に捕まるぞ!」などである。これは、実際には、「物理的」な声ではないのだが、ほとんどそれと同じように聞こえるのである。(実際には、違いはあるのだが、慣れるまで、または知覚が細分化するまでは、区別がつきにくい。)

「声」の調子も、表面上はAのものに違いないが、確信に満ちた、「力」のあるもので、ぞっとさせるだけの、独特の調子を帯びている。さらに、「声」は、本人しか知らないはずのことなども、言って来る。初めは、相手にしないでいても、徐々に、無視し難くなり、そこには何かがあるという感じをもつ。「声」が言うことに、当てはまるような「出来事」も増え、「声」に、一定の「リアリティ」を認めざるを得なくなるのである。

さらに、そのような「声」に振り回され、捕らわれるようになれば、「妄想」への道はほぼ出来上がる。「何々に捕まるぞ」と言うが、Aは自分しか知らない秘密を知っているし、何かの組織に通じていて、盗聴でもしているに違いない。また、実際、それを補強するような、(幻覚的な)「出来事」も出て来る。そうして、ついには、「Aまたは組織に迫害される」という、単純化された「結論」へと行き着いてしまうのである。以後、そのような「妄想」は,起こることの解釈の枠組として機能し、他の可能性については、考慮する必要がなくなる。

ここで、その者を、「迫害妄想」へと追い込んだのは、もちろん、「Aとの間」に起こった「声」である。

その「間」を通してだが、Aという具体的人物が、ある種「顔を出す」のは事実なのである。(なぜ、「A」なのかという点には、さまざまな事情があり得る。が、基本的には、先にみたとおりで、実際に、その「間」に、ある種の軋轢や、投影、無意識的な想念の応酬など、「境域の存在」が「巣くう」土壌ができていたということが考えられる。)その意味で、Aという具体的人物が「妄想」の対象となるのは、全くの恣意ということなのではない。

しかし、注意すべきは、本当にその者を「迫害妄想」へと追い込んだのは、単純に、その「声」の内容そのものではなく、また、Aが何々と言ったという事実そのものでもない、ということである。

つまり、真にその者を追い込んだのは、むしろ、「声」が帯びていた、圧倒的で、ぞっとさせるような調子なのであり、己の心を見透かし、監視するかのような、(日常経験に照らして)、尋常でない要素なのである。それは、何か、得たいの知れない「権力」に付きまとわれるような、不気味な感覚を呼び起こすのである。(実際、それが「日常的現実」に投影されると、「組織」などの権力が出て来るのである)

それは、「声」としてはAのものであっても、あるいはむしろそうであればこそ、そのような「訳の分からない」、ある種「人間離れ」した面が、その者を、本当に、混乱させ、脅えさえたのである。単に、Aの攻撃的な内容の言葉が問題なのではない、ということである。

つまり、それは、Aの「声」という「みかけ」以上に、何か「未知」の、手に負えないものを暗示している。しかし、そのような面は、とても受け入れる訳には行かない。そこで、むしろそれを覆い隠すような、単純で、対処可能と思われる解釈が指向されるのである。そうして、Aの「声」という「みかけ」のままに、「Aまたは組織によって迫害される」という、単純な「妄想」が、固定される。そこには、確かに、「みかけ」に左右された面もあろうが、やはり、防衛反応が働いているというべきなのである。

この「声」については、通常は、もちろん、ただの「幻聴」とみなされる。あるいは、自己の内部の「声」が、投影されたものに過ぎないとみなされる。が、既にみたように、これは、実際に、「人と人の間」に現れ出た、「霊界の境域」の「存在」のものである可能性があるのである。あるいは、少なくとも、それらが関与(たとえば、その存在の強い影響下に、その者自身の無意識的な「声」が、テレパシー的に発されるなど)している可能性があるのである。

そうでなければ、上にみたような、本当に「追い込む」面は、醸し出せないからである。

実際に、「Aの声」として聞こえるという点は、その「間」で起こることを、Aに「投影」して、そのように聞いているという可能性もある。が、これらの存在にとっては、(まさに、その「投影」にひっかけるような形で)、そのような(みかけ上の)「現象」を演出することは、容易いことである。(あるいは、他にも、一種の一時的な「憑依」とか、既にみた「影響下に発する声」など、可能性はいくらでも考えられる。)

しかし、実を言うと、その者を追い込んだ本当の要因は、これらの「声」が存在するという事実自体、あるいは、それが「人と人の間」に現れ出るということ自体にあるのではない。むしろ、その者が、そのような「声」を、意識レベルで聞くことができるようになったということにこそ、あるというべきなのである

つまり、既にみたように、特に現代の状況では、そのような「声」が、「人と人の間」に現れ出るということ自体は、基本的には、日常茶飯のことといえるのである。ただ、多くの者は、そのようなものは、聞かないか、聞いても無意識レベルで処理されて、特に後を引きずらない。(あるいは、結果として、それが何かのトラブルに結び付いている可能性はあるが、特に分裂病的な事態を招くことにはならない)

恐らく、その者自身も、過去には、そのような「声」を無意識レベルでは何度も聞いていたはずで、それが何かのトラブルに結び付いていた可能性はある。が、しかし、少なくとも、それまでは、それを意識することがなく、従ってまた、分裂病的な「妄想」という形に現れることはなかったのである。

つまり、それを意識するようになったからこそ、その本当に「恐れ」させる面に気づいたのだし、また、その「恐れ」を自ら、膨らませる可能性も出て来たのである。また、「声」を聞けるということ自体が、さらに相手に、直接、付け込ませる余地を与えたのである

「弱りめにたたりめ」(弱まった時が、祟られる時)というが、実際、それが意識されることによって、精神的に「弱ま」ったのであり、それが、「祟られる」状況を呼び寄せたのだといえる。

だから、無意識的である(意識しない)ということは、確かに、強力に防衛的な働きをし、あるいは遮断の効果をもつのである。しかし、それが何ほどか意識されるようになったということが、「分裂病的状況」へ入って行くことの、直接の契機である。それは、それまで意識しなかった、「人と人の間」を「意識」させ、「恐れ」をもたらすことになる。さらには、深く「霊界の境域」へと誘い込まれる糸口にもなる。

そのように、本来、無意識的である多くの者に、「声」を意識させようとしたり、それが「未知の現実」であることを認めさせようとするなどということは、全くのナンセンスである。

しかし、一旦、そのような「声」を意識することによって、「分裂病的状況」に入った者にとっては、そのような「声」を否定したり、「日常性」に無理やりに押し込めるようなことは、もはや適当なこととは言えない。一旦意識化した以上は、そのような「ごまかし」は、もはや本当には効果を発揮しないだろうからである。

むしろ、この場合、生半可に意識することで、「恐れ」や防衛反応を膨らませるよりも、より「意識化」を進めることによって、事態を見極めていくことの方が、適当と言えるのである。特に、それが「未知の現実」から来るものであること、つまり、Aという具体的人物とは別の問題であることを、はっきり認識することが、好ましいのである。

(実際、「意識化」が進められ、知覚的にも細分化されてくれば、それが「日常的現実」からではなく、「未知の現実」から来るものであることは、疑いようがなくなる。たとえば、知覚として、「声」だけではなく、「映像」も伴うようになると、それはたとえ姿形はぼやけたものではあっても、その者自身からではなく、その「背後」やあるいは「内部」といった、まさに「間」から出現するものであることが分かってくる。少なくとも、その者自身の「声」でないことは、明確になるのである。)

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