「分裂病」の分かりにくさ
「分裂病」とは、これまで「分裂病的状況」という言い方で示して来た「状況」に対する反応である。だから、「分裂病」の「分かりにくさ」とは、結局、「分裂病的状況」の「分かりにくさ」ということに尽きる。それは、また、「霊界の境域」として示した領域の、「未知」性であり、混沌とした「分かりにくさ」ということでもある。
分裂病の「分かりにくさ」として、直接表に現れるのは、主に、「妄想」の「分かりにくさ」であろう。ただし、「妄想」の「分かりにくさ」とは、表現された「妄想」そのものの分かりにくさではない。(通常、表現された「妄想」そのもののは、陳腐なほど「分かりやすい」ことが多い。)なぜそのような「妄想」が生じ、それを確信して、行動にまで起こすのかということの、「分かりにくさ」である。
しかし、それも、結局は、「分裂病的状況」、つまり、「霊界の境域」の「分かりにくさ」に対する防衛的な反応として起こっているのである。だから、元と言えば、「霊界の境域」の「分かりにくさ」に起因している。
たとえば、それが、「この世」、「日常的現実」の内部のことならば、たとえ人生経験、社会経験が少ない者でも、これまでの経験の延長上で、ある程度の推測がつくものである。少なくとも、それまでの経験から作り上げた「世界」全体が、崩壊の危機に晒されるということはない。
また、「霊界の境域」ということではなく、この世とは別の「霊界」そのものということであれば、実はそれほど「分かりにくい」ものではない。「霊界」については、もちろん、その存在自体が疑われることが多いが、その内容については、むしろこれまでにも、多くのことが、十分分かり易い形で、伝えられて来ているのである。
例えば、昔からの伝承として、一定のパターンが語り伝えられているし、最近では、「霊界通信」、「霊界探訪」、「チャネリング」等の事例で、それこそ、山ほど述べ伝えられている。それらは、決して、この世の基準から言っても、分かりにくいどころか、「分かりやすい」ものである。「この世的」には、非現実的に聞こえることが多いとしても、この世の価値基準から、決して遊離する内容ではないからである。それは、「神界」などの高次の世界とされるところにおいてこそ顕著で、むしろ、驚くくほどシンプルで、「分かりやすい」ものが多い。つまり、この世的な「善」や「美」の観念を、シンプルに押し進めたごとき内容なのである。
「霊界の境域」というのは、このような、「日常的現実」と、「霊界」または「神界」との「境界」ということであった。そこは、そのどちらの要素もが重なり合う部分でもあるが、全体として言えば、そのどちらにも属さない領域ということである。
つまり、「日常的現実」としても、「霊界」または「神界」としても、その「分かりやすい」部分に収まり切らない領域ということである。そこは、本来的に、雑多で、「分かりにくい」、「混沌」そのものといえる領域なのである。
(「霊界の境域」の「分かりにくさ」の具体的要因を、いくつか簡単に示すと、
1 「日常的現実」のように、「固定的」な世界ではなく、「流動的」な世界である。
2 「霊界」「神界」のように、一定の枠組で秩序づけられたものではない。
3 「想念」そのものが、「現実」に影響し、「知覚」に反映される。
4 「精霊」「捕食者」など、人間とは異質で、好意的とは言えない、理解しがたい存在の住処である。
5 根底に「限定不能」の「虚無」が控えている。)
そこは、「日常的現実」の延長上に理解できる領域ではないし、そこで構築された「世界」も、崩壊させるだけの破壊性をもつ。「霊界」や「神界」についての「分かりやすい」知識でもって、対処できるようなところでもない。そこは、確かに、「光」に対する「闇」の領域とも言え、「暗部」として、光が当てられなかった領域である。
従って、これまで、あまり、正面から伝えられることもなかった。それでも、その一部は、近代以前には、何かしら、漠然とした、あるいは暗黙の知識として、行き渡っていた可能性がある。ところが、「理性」を重視する近代に至ると、そのようなものも、一般的に「迷信」という名の下に、捨て去られる。(分かりやすい)「霊界」のことが、時に歓迎されることがあるのに対して、「霊界の境域」に関わるものは、ほぼ完全に闇に葬り去られるのである。
だから、「分裂病」が「分かりにくい」のは、近代の「盲点」ということも言える。いわば、近代が葬り去ったものからの「復讐」である。とは言っても、それは、実際には、本来的に、「未知」というしかないものでもあるのである。
これまで、「霊界の境域」について、「未知」の領域としながらも、シュタイナーその他の説明を参照に、かなりの照明を当てて来た。しかし、それは、あくまで、本質的には「未知」と認めたうえで、ある程度の「見通し」をつけるというほどの試みに過ぎない。現実には、このような領域について、「見通し」をつけることより、「未知」と認めることの方が、よほど本質的な部分を占める。また、防衛反応としての「妄想」を避けるうえでも、「未知」と認めることこそが、重要な関門となる。
そこで、もう一度、「妄想」について振り返ってみる。それは、「霊界」の境域で起こっていることを、ある程度肌で感じていながら、その「分かりにくさ」、「未知なる部分」を認めることを、拒否するということに尽きる。つまり、その尋常でなさを感じながらも、あくまで、「日常的な現実」の範囲に引き寄せて表現されたものということである。「誰か現実の者や組織に迫害される」という形の「妄想」は、すべてその典型である。
「妄想」には、時に「宇宙人」や「神」が出てくることがある。それは、確かに、一定のレベルで「未知」のものを認めた表現ではある。しかし、やはり、本質的には、その「分かりにくさ」とか、「闇」の部分を、そのまま認めることからは、大きくかけ離れている。つまり、「宇宙人」も「神」も、何か「超越的」なものを、結局は、「既知のもの」、「分かりやすさ」に引きつけた表現であって、むしろ本質的には、「分かりにくさ」を認めることを回避する働きをしているのである。
そういう訳で、「妄想」の内容は、「境域」の「分かりにくさ」、「訳の分からなさ」が、どことなく顔を出しながらも、無理やりに、この世的に表現されている。それが、むしろ、ちぐはぐな異様さを、醸し出すのである。それが、はた目にも、「妄想」の「おかしさ」や「奇妙さ」となって現れる。さらに、そのようなものを、確信して、行動するとなると、「おかしさ」は倍増するのである。
それは、これまで何度も言ったように、それだけ、本人にとっては、防衛反応を引き起こすだけの、「現実的」で、差し迫った、危機の状況にあるということである。「見えない」世界のことなので、はた目には、容易には理解できないとしてもである。
言い換えれば、その「訳の分からなさ」のために、それまでの「世界」の存続が危ぶまれている訳だが、そのような状況で、その「訳の分からなさ」をそのまま「受け入れる」のが、いかに難かしいか、ということなのである。それは、基本的に、何の対処の仕様もないことを認めること、「世界」の崩壊を、手をこまねいて見ているしかない、ということを意味するからである。逆に言えば、「妄想」が確信され、行動されるというのは、何かしら、対処の手立てがあるかのように振る舞うことで、そのようなことが避けられているのである。
確かに、「未知」と認めること、「訳の分からない」と認めることは、「防衛反応」を外すことを意味するから、錯乱など、より大きな危機を招くことにはなり得る。しかし、それは一方で、それなりの力を発揮することでもある。たとえば、「あがく」ことを止める、一種の「開き直り」の意識を生むし、これまでの経験上の知識をいわばゼロに戻して、虚心坦懐に、ことを「見極めよう」という意識も出てくる。それは、初めは、本当に「無力」な試みに過ぎないが(たとえば、自分は何も「知らない」のだから、ただ相手(「声」)の言うことを、無力に、「真に受ける」しかないという状況にもなる)、経験を重ねることによって、矛盾や欠点も見えて来て、それなりの距離が取れるようになる。
つまり、実際には、「妄想」に閉じこもることなどより、はるかに現実に即した、経験上の対処法が身につくのである。また、たとえ「分からない」状態の緊張感に耐え切れず、「妄想」類似の解釈を指向してしまうことがあっても、それは容易には「確信」されず、少なくとも、即座に行動に結びつくことはなくなる。
いずれにしても、それらはすべて、「未知」と認めること、「分からない」と認めることからこそ、「始まる」のである。(逆に言えば、「未知」と認めること、「分からない」と認めることがなければ、何も始まらない。)
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