「霊界の境域」を超える二方向性
注)「水平的方向」と「垂直的方向」の二方向について明らかにした重要な記事です。
(感覚的、日常的世界 ) → 霊界の境域 → (霊界、神界)
↓
虚無
→ 水平的方向 「霊界参入」 (高次の自我)
↓ 垂直的方向 「悟り」 (無限定の意識)
これまで、「分裂病的状況」を「霊界の境域」という言い方で示したきた。「境域」というのは、「感覚的、日常的世界」と「霊界または神界」との「境界」というほどの意味である。通常の「感覚的、日常的世界」を脱してはいるが、「霊界または神界」 に参入しているのでもない、その「中間領域」ということである。
基本的に、ルドルフ・シュタイナーの説明が、そこで起こることについて、分裂病的状況に関しても十分当てはまることを、かなり詳しく捉えている。それで、これまで、主にその見方によったのである。
しかし、シュタイナーの「境域」というのは、多分に、「霊界参入」という方向または目的を前提にしての、「途中」段階という観点から捉えられている。「境域」は、霊界に参入するときの最初の体験になるし、試練や恐怖に満ちているが、 それはあくまで「霊界参入」という目的にとっての「通過点」という意味合いが強いのである。
これは、シュタイナーに限らず、たとえば未開社会の「イニシエーション」などでも、「境域」は一種の通過点として、試練や恐怖の場とされている。シャーマンなどが、「感覚的、日常的世界」を脱して、「神々の世界」へ移行するとき、あるいは、人が「子供」という枠組から「大人」という枠組に移行するときに、儀式などを通して、その「境域」で、精霊その他の試練が行われる。そして、それを通過したものが、「イニシエーション」を達成したものとされるのである。
しかし、これらの見方は、多分に方向づけられたもので、「境域」そのものに深く着目するものとは言い難い。つまり、「境域」には、「霊界参入」という一方向からの通過点としてのみでは捉え切れない、独自の「深み」があると言うべきなのである。そして、「分裂病的状況」では、(結果として、「境域」そのものへの入り込みが強くなる分)そのような側面こそが、浮かび上がりやすいということが言えるのである。
そこで、この「境域」そのものに十分着目する形で、もう一度、「霊界の境域」を捉え直してみたい。
まず、通常の「感覚的、日常的世界」であるが、これは、我々が作り上げた一つの「秩序」であり、「枠組」というべきものである。初めの図で、「かっこ」に括ったが、これを〇で囲むと、分かりやすくなる。つまり、「境域」というのは、まずもって、このような「秩序」ないし「枠組」から、はみ出るということを意味している。
そこは、まさに、我々の通常の「秩序」ないし「枠組」では、捉え切れない領域であり、実際、そのような現象に遭遇する。つまり、「未知」であり、「混沌」たる状況ということである。
ところが、この「境域」に対して、「霊界または神界」というのも、また一つの「秩序」であり、「枠組」というべきものである。それは、もちろん、単に我々の日常的または感覚的な意味の秩序ではなく、それからすれば、一つの「未知」の世界である。しかし、それも、決して「混沌」としたものではなく、霊的な観点から捉えられた、もう一つの「秩序」には違いないのである。あるいは、「闇」に対する「光」の世界と言ってもよいが、それも、一つの「秩序」づけられた「枠組」であり、そうである限り、無限定のものなのではない。(やはり、図の「霊界、神界」を〇で囲むと、分かりやすくなる。)
「境域」というのは、そのような「秩序」からも、また、はみ出たものなのである。要するに、そこは、あらゆる「秩序」からはみ出た領域であり、あるいは、そのような「枠組」では、括り切れない世界である。つまり、本来的に、「無秩序」、「混沌」あるいは「無限定」ということに通じている領域である。そして、そのようなものこそ、「境界」または「境域」の独自の性質というべきなのである。
さらに言えば、その「無秩序」さ「無限定」さの最も根底には、(これまでにも何度か触れた)「虚無」そのものが控えていると考えられる。それがまた、「境域」独自の「深み」を生み出していると言えるのである。
それは、「秩序」の側にとっては、一つの脅威であり、混乱、破壊の元である。実際、「分裂病」とは、「感覚的、日常的世界」という枠組からは、それを脅かすものとして、「脅威」の目で見られている。
また、「霊界または神界」にとっても、「境域」は全体として、一つの脅威となる。ただし、「霊界または神界」は、「感覚的、日常的世界」を脱しない限り、参入できない世界であり、必然的に「境域」の経過ということを含んでいる。そこで、「境域」は、まさに一つの「通過点」としてのみ、つまり「霊界参入」のための「試練」の場としてのみ、意味づけられる。その目的にかなう限りで、「境域」の無秩序さ、混沌たる力が、取り込まれているに過ぎないのである。
このようなことから、「霊界参入」とは、「境域」を、いわば水平的に超える方向ということができる。それに対して、「境域」を、いわば垂直的に超える方向というのが考えられる。それは、もちろん、「境域」の深みにある「虚無」との関わりで生じる。
「虚無」とは、それ自体、無限定で、一切の限界づけができないもののことである。いわば、「無限」なるもの、「無時間」的なるものである。これは、「境域」の根底に控えていると言ったが、しかし、「感覚的、日常的世界」や「霊界または神界」と無関係ということではない。それは、本来、それらの世界をも根底で包み込んでいるのだが、「感覚的、日常的世界」や「霊界または神界」が、(まさに〇で囲むように)自らの枠組を境界づけている限りで、それから隔絶されているに過ぎないのである。
「境域」においては、その境界づけが外されるため、根底の「虚無」が浮かび上がり易いということである。
つまり、「虚無」は、本来、あらゆる領域の根底なのであるが、「境域」こそが、その現実の噴出口あるいは突入口となり易いということである。
そのような、「虚無」なるものに、「垂直的」に下降して行くとは、ある意味で、全く身近な地点にたどり着くことである。つまり、それは、一切の媒介を取り去った、「現在」の瞬間、「いま、ここ」のただ中ということが言えるのである。
水平的方向の「霊界参入」の場合、それは一つの移行の「プロセス」であり、成長や進化ということが内包されている。つまり、「変化」または「時間性」ということを、含みこんでいる。しかし、「虚無」へと垂直的に下降するとは、そのような「時間性」をむしろ取り払った、「無時間的」な「現在」への直入なのである。つまり、下降の方向とは、何かの「獲得」ではなく、むしろ、一切を「削ぎ落とし」て行くということでこそ、可能になるものである。
そこには、当然、「思考」その他のあらゆる「時間的」なものは、入り込めない。さらに、その、限界づけられない「虚無」のただ中においては、「自我」という「枠組」などは、解消される。そのように、下降の果てに、「虚無」そのものと一体となり、自我という枠組を喪失する体験が、「悟り」と言われるものである。(ただし、「虚無」との一体化そのものは、必ずしも明確に意識に留まらない場合も多いようである)
つまり、「境域」を、垂直的に超えて行く方向として、「悟り」があるということである。このように、「霊界参入」と「悟り」は、本来方向的に、相入れないものと言うべきなのである。
ただし、これには、多分に、「原理的には」と言わざるを得ない点もある。実際上は、「境域」を水平的に超えられないような場合に、垂直的に超えて行くことが、容易に可能であるはずもない。つまり、本来、互いに別方向のものだとしても、事実上は、「霊界参入」によって達成されるようなものを踏まえなければ、垂直的方向への(意識的な)下降などは、ほとんど不可能と言うべきである。
水平的方向の「霊界参入」では、「境域」は一つの「試練」として超えられるのだったが、その結果として達せられるのは、シュタイナーも言うように、「高次の自我」と考えられる。それは、日常的な「自我」より、強められ、意識の高められた「自我」であり、霊的な知覚を可能にするものである。あるいは、既に述べた、「均衡」ということを達成した「自我」とも言える。
そのような、いわば完成した「自我」であってこそ、混沌たる「境域」のさらに深みにまで、意識を保って、滞ることなく、降りて行くことができる。そして、最終的に、根源的な恐怖の対象ともいうべき「虚無」へと、解消することも可能になる、ということである。
このような事実上の方向を如実に示しているのが、前に触れた、B.ロバーツの「自己喪失の体験」である。そこで喪失される「自己」とは、単なる「自我」なのではない。キリスト教神秘主義の伝統に乗っ取って、「神との合一」と表現されるが、要するに、一種の完成された「自己」である。ロバーツは、そのような「自己」が「虚無」へと解消し、喪失する体験を克明に描き出しているのである。
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3〜4年ほど前、21,2才の頃ティエムさんのブログを見つけ、必要に応じて読み続けていました。今から思えば当時は明確な混乱期にあり、あらゆるノイズを受け取る状態だったため、この記事に書かれているような構造はうまく理解出来ていませんでした。
半年程前、明確に境域を超え、「参入」が決定的となるような出来事が起き、異なる次元間の行き来が混乱なく行われるフェーズに移行しました。
この段階に至って初めて、分裂病的状況だったと言えるここ数年間の私の混乱が、まさにティエムさんのおっしゃる霊界の境域に、私の意思と無関係に放り出されていたことによって引き起こされたものなのだろう、と始めて腑に落ちました。
ある時期、ありありと見え過ぎて打ちのめされていた、存在の底に横たわる、剥き出しの、裸の、なにかどうにもならない、穴、無、真昼間の停止、(私はまだぴったりとした語を見つけていませんが)といった事態ないし次元が、霊界の境域において見出されるという見方も、現在に状態に至って初めてようやく理解できます。
ありがとうございます。
投稿: 青空 | 2019年3月28日 (木) 10時11分
コメントありがとうございます。
具体的な状況までは分かりませんが、かつての混乱に満ちた状態を通り越して、かなり冷静に、かつての状態を振り返ることができているのか伝わります。「霊界の境域」というのは、そのような体験を把握するための枠組みとして、適切なものと思います。
当時は、本当に「訳が分からない」という思いに、戸惑われていたと思いますが、それは通り越すことができるのだということ、そして、通り越してみれば、それをそれなりに、冷静に振り返ることができるのだということを確認することが重要です。
今後、もしまた同じような事態に陥ることがあるとしても、そのときには、そのことを改めて思い起すことで、前と同じような混乱には陥らず、それなりに対処することができることと思います。
投稿: ティエム | 2019年3月28日 (木) 21時45分