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2007年5月

2007年5月25日 (金)

「分裂病的状況」の場合

それでは、このような、「境域」を超える二方向性を踏まえて、「分裂病的状況」の場合をみてみる。

「分裂病的状況」では、予期せずとも、「感覚的、日常的世界」の枠組を脱して、「境界」領域にはみ出してしまうということが起こる。そこで、「感覚的、日常的」な領域に重なるようにして、あるいはそれを脱して、その枠組を超えた現象にも遭遇する。「幻覚」といわれる現象の多くは、そのような「境界」特有の、両領域の混交した「知覚」というべきである。それは、もちろん、「境域」の「混沌」性や、本人の混乱を反映して、理解し難いものである。

しかし、これらは、(意識レベルでは)偶発的に起こるのであり、特定の目的によって、方向づけられたものではない。それで、分裂病的状況では、そもそも、「日常的、感覚的世界」を脱して、「境域」に入り込んだことを自覚すること自体が難しい。その自覚と一定の準備のもとになされる、「霊界参入」の場合と違い、それが「霊界または神界」への参入につながるということは、期し難いのである。

つまり、「分裂病的状況」では、「境域」を水平的に超えるということは起こりにくい。そこで、望まずとも、「霊界の境域」そのものをさ迷うという性格が強くなる。さらには、その深みにはまり込むということにもなる。「境域」そのものの、混沌たる力に捕らえられ、抜け出せなくなる可能性もまた、高まるのである。

この「混沌たる力」には、「精霊」や「魔的存在」(捕食者)といったものの力も含まれる。「霊界参入」や「イニシエーション」の場合、これらの力は、あくまで、そこを通過するための「試練」としてのみ、くみ取られている。「精霊」や「魔的存在」そのものに関わるのは、その観点からは、「失敗」または「横道」に外れることとみなされる。これらは、「修行」や「伝統」の積み重ね、または組織だった「儀式」によって、周到に回避されるのである。

ところが、「分裂病的状況」では、これらに捕えられ、抜け出せなくなることにもなる。これは、「戻る」という観点からも、当然厳しい事態だが、逆に、さらなる「下降」という観点からいっても、停滞となる。いわば、「中間領域」での「宙づり」状態と言える。

また、典型的な「妄想」に、抜け難く捕らえられることも、このような「宙づり」状態の一つと言える。それは、「境域」において、既に「未知」の状況に遭遇しているにも拘わらず、それが認められず、無理やりにも、「感覚的、日常的世界」の枠組で、解釈しているのである。そこでは、危機の状況にある自我を補償する枠組として、「感覚的、日常的世界」の枠組が利用されているのだと言える。

つまり、「境域」という危機の状況において、「<疑似>日常的世界」ともいうべき独自の妄想世界を築き上げ、その中に、閉じこもっている(〇で囲っている)状態である。それは、本人の意図に反して、「感覚的、日常的世界」からも遊離したもので、全く孤独で、不毛な世界としか言いようがない。

いずれにしても、そのような「宙づり」状態は、いずれの方向への「抜け出し」も困難にする。前回述べた、「高次の自我」なくして、垂直的な方向を超えるのは難しいというのは、このような「宙づり」状態に陥らないだけの、強固で意識の高い「自我」なくしては難しい、というのが一つの理由である。

さて、そのような「宙づり」状態からさらに下降すると、何らかの仕方で、根底的な「虚無」が予感され、あるいは見えてくるはずである。手記などにみられる、分裂病的状況の記述は、「虚無」的な色彩に彩られることが多いが、そのような彩りは、この「虚無」の予感から来ていると言える。そこには当然、根源的とも言える恐怖が反映されている。ただし、その「虚無」は、あくまで、失われ欠けた「自我」が、外部に「予感」ないし見ているものであり、直接に、内側から体験されたものではない。

しかし、その「虚無」にさらに接近し、直に「触れる」という瞬間には、むしろ恐怖というものは存しない。また、外部に、恐怖をもってみられた「虚無」というイメージとも、多分に異なるものとなる。(まさに限定できないものとして、一種の「畏怖」、「畏敬」の感覚となる)。しかし、それとの「一体化」となると、そのような恐怖の元であり、限定された枠組である「自我」は、障害となる。真にそれを喪失する覚悟なくしては、「虚無」との「一体化」ということも、あり得ないのである。(その喪失の状態を、「霊界参入」で達成される「高次の自我」との対比で言えば、「無限定な意識」ということになろう。)

そして、この場合にも、やはり、通常の「自我」などではなく、それなりに完成された「自我」でなければ、その喪失ということもまた、真に受け入れ難いものとなるということが言える。(単に、通常の「自我」が、「自己滅却」的に、あるいは「自暴自棄」的に放棄しようとしても、無理である)

いずれにせよ、「分裂病的状況」の場合は、「境域」を水平的方向に超えることも難しく、垂直的に超えることも難しい。いわば、「境域」で、縦横両方向に「引き裂かれ」ながら、どちらにも抜け出せないということが起こる。それが、「境域」でのさ迷いを、一層深めることになる。

あるいは、この場合、「境域」を「超える」のではなく、単純に、「感覚的、日常的世界」に「戻る」という方向も考えられない訳ではない。実際、「感覚的、日常的世界」という秩序の側が意図するのは、まさにそれであり、それこそ「治療」と呼ばれる。「境域」への入り込みが浅い段階、「宙づり」状態まで行かないような段階ならば、実際それは、必ずしも難しいことではないかもしれない。しかし、それ以上に入り込んだ場合、もはや普通の意味で、「戻る」ということは、難しいと言わねばならない。

結局、「分裂病的状況」では、二方向いずれかの方向にはっきり「超える」ことも難しく、単純に「戻る」ことも難しい。たとえ、何らかの形で「復帰」または「超える」ことになったとしても、その体験には、ある種の「中途半端」さがつきまとう。また、その混沌とした「境域」での体験は、「消化」ということも、容易ではないということになる。

これは、そもそもが、「霊界参入」と違い、偶発的に始まったものであり、普通は、「高次の自我」など得ていない段階で起こるので、やむを得ないものがある。

しかし、たとえ「暗中模索的」なところがあったとしても、「境域」の体験そのものは、他では得難い、貴重なものと言うべきである。それは、「霊界参入」という観点からは、必ずしも触れられない、「深み」を何ほどか明らかにするはずである。また、それは、いずれは、はっきり「超え」なければならない領域であり、その困難さを含めて、身をもって体験したことは、何らかの形で生かされるはずである。

ただし、「妄想」のような宙づり状態は、「境域」そのものの「体験」にすらなり難く、得るところもないと言わなければならない。その意味でも、これを避けるということが、一つの大きなテーマであり、関門なのである。

いずれにせよ、「境域」は混沌たる領域とは言っても、ある程度の見通しが立つことは重要である。

私自身、自分の「境域」の体験を、どのように「消化」するかには相当苦労したが、「境域」の、このような「二方向性」ということが見え出してからは、かなり明確なものになって来た。これまで、「境域」について述べられて来たことは、「霊界参入」の観点から述べられたものが多く、その「深み」については、ほとんど手つかずだった。「悟り」の観点から述べられたものもないではないが、その場合にも、必ずしも「境域」そのものには注目されず、方向性の違いも意識されていない。それで、矛盾する点や混同される点も多かった。しかし、このような二方向性を区別して捉えると、そこでの体験が、かなり明確に位置づけされるはずである。

例えば、「闇」と「光」を対立させて、「光」を強調することも、「霊界参入」という、水平的方向にとっては、意味を持ちもするだろうが、垂直的方向では意味をなさない。「虚無」は、「光」と「闇」の対立を超えたものだからである。また、逆に、水平的方向にとっては、「虚無」など、一種「無用」のものだろうが、垂直的方向にとっては、最も根源的なものとなる。

これらの、方向性の違いを意識することによって、無用な混同や混乱は避けられるはずである。

ここで述べたことは、もちろん、その基本的で大まかな点に過ぎないが、かなりの目安には、なるはずである。

2007年5月16日 (水)

「霊界の境域」を超える二方向性

注)「水平的方向」と「垂直的方向」の二方向について明らかにした重要な記事です。

(感覚的、日常的世界 ) → 霊界の境域 →  (霊界、神界)
                       ↓
                       虚無

→ 水平的方向     「霊界参入」 (高次の自我)
↓ 垂直的方向     「悟り」 (無限定の意識)


これまで、「分裂病的状況」を「霊界の境域」という言い方で示したきた。「境域」というのは、「感覚的、日常的世界」と「霊界または神界」との「境界」というほどの意味である。通常の「感覚的、日常的世界」を脱してはいるが、「霊界または神界」 に参入しているのでもない、その「中間領域」ということである。

基本的に、ルドルフ・シュタイナーの説明が、そこで起こることについて、分裂病的状況に関しても十分当てはまることを、かなり詳しく捉えている。それで、これまで、主にその見方によったのである。

しかし、シュタイナーの「境域」というのは、多分に、「霊界参入」という方向または目的を前提にしての、「途中」段階という観点から捉えられている。「境域」は、霊界に参入するときの最初の体験になるし、試練や恐怖に満ちているが、 それはあくまで「霊界参入」という目的にとっての「通過点」という意味合いが強いのである。

これは、シュタイナーに限らず、たとえば未開社会の「イニシエーション」などでも、「境域」は一種の通過点として、試練や恐怖の場とされている。シャーマンなどが、「感覚的、日常的世界」を脱して、「神々の世界」へ移行するとき、あるいは、人が「子供」という枠組から「大人」という枠組に移行するときに、儀式などを通して、その「境域」で、精霊その他の試練が行われる。そして、それを通過したものが、「イニシエーション」を達成したものとされるのである。

しかし、これらの見方は、多分に方向づけられたもので、「境域」そのものに深く着目するものとは言い難い。つまり、「境域」には、「霊界参入」という一方向からの通過点としてのみでは捉え切れない、独自の「深み」があると言うべきなのである。そして、「分裂病的状況」では、(結果として、「境域」そのものへの入り込みが強くなる分)そのような側面こそが、浮かび上がりやすいということが言えるのである。

そこで、この「境域」そのものに十分着目する形で、もう一度、「霊界の境域」を捉え直してみたい。

まず、通常の「感覚的、日常的世界」であるが、これは、我々が作り上げた一つの「秩序」であり、「枠組」というべきものである。初めの図で、「かっこ」に括ったが、これを〇で囲むと、分かりやすくなる。つまり、「境域」というのは、まずもって、このような「秩序」ないし「枠組」から、はみ出るということを意味している。

そこは、まさに、我々の通常の「秩序」ないし「枠組」では、捉え切れない領域であり、実際、そのような現象に遭遇する。つまり、「未知」であり、「混沌」たる状況ということである。

ところが、この「境域」に対して、「霊界または神界」というのも、また一つの「秩序」であり、「枠組」というべきものである。それは、もちろん、単に我々の日常的または感覚的な意味の秩序ではなく、それからすれば、一つの「未知」の世界である。しかし、それも、決して「混沌」としたものではなく、霊的な観点から捉えられた、もう一つの「秩序」には違いないのである。あるいは、「闇」に対する「光」の世界と言ってもよいが、それも、一つの「秩序」づけられた「枠組」であり、そうである限り、無限定のものなのではない。(やはり、図の「霊界、神界」を〇で囲むと、分かりやすくなる。)

「境域」というのは、そのような「秩序」からも、また、はみ出たものなのである。要するに、そこは、あらゆる「秩序」からはみ出た領域であり、あるいは、そのような「枠組」では、括り切れない世界である。つまり、本来的に、「無秩序」、「混沌」あるいは「無限定」ということに通じている領域である。そして、そのようなものこそ、「境界」または「境域」の独自の性質というべきなのである。

さらに言えば、その「無秩序」さ「無限定」さの最も根底には、(これまでにも何度か触れた)「虚無」そのものが控えていると考えられる。それがまた、「境域」独自の「深み」を生み出していると言えるのである。

それは、「秩序」の側にとっては、一つの脅威であり、混乱、破壊の元である。実際、「分裂病」とは、「感覚的、日常的世界」という枠組からは、それを脅かすものとして、「脅威」の目で見られている。

また、「霊界または神界」にとっても、「境域」は全体として、一つの脅威となる。ただし、「霊界または神界」は、「感覚的、日常的世界」を脱しない限り、参入できない世界であり、必然的に「境域」の経過ということを含んでいる。そこで、「境域」は、まさに一つの「通過点」としてのみ、つまり「霊界参入」のための「試練」の場としてのみ、意味づけられる。その目的にかなう限りで、「境域」の無秩序さ、混沌たる力が、取り込まれているに過ぎないのである。

このようなことから、「霊界参入」とは、「境域」を、いわば水平的に超える方向ということができる。それに対して、「境域」を、いわば垂直的に超える方向というのが考えられる。それは、もちろん、「境域」の深みにある「虚無」との関わりで生じる。

「虚無」とは、それ自体、無限定で、一切の限界づけができないもののことである。いわば、「無限」なるもの、「無時間」的なるものである。これは、「境域」の根底に控えていると言ったが、しかし、「感覚的、日常的世界」や「霊界または神界」と無関係ということではない。それは、本来、それらの世界をも根底で包み込んでいるのだが、「感覚的、日常的世界」や「霊界または神界」が、(まさに〇で囲むように)自らの枠組を境界づけている限りで、それから隔絶されているに過ぎないのである。

「境域」においては、その境界づけが外されるため、根底の「虚無」が浮かび上がり易いということである。

つまり、「虚無」は、本来、あらゆる領域の根底なのであるが、「境域」こそが、その現実の噴出口あるいは突入口となり易いということである。

そのような、「虚無」なるものに、「垂直的」に下降して行くとは、ある意味で、全く身近な地点にたどり着くことである。つまり、それは、一切の媒介を取り去った、「現在」の瞬間、「いま、ここ」のただ中ということが言えるのである。

水平的方向の「霊界参入」の場合、それは一つの移行の「プロセス」であり、成長や進化ということが内包されている。つまり、「変化」または「時間性」ということを、含みこんでいる。しかし、「虚無」へと垂直的に下降するとは、そのような「時間性」をむしろ取り払った、「無時間的」な「現在」への直入なのである。つまり、下降の方向とは、何かの「獲得」ではなく、むしろ、一切を「削ぎ落とし」て行くということでこそ、可能になるものである。

そこには、当然、「思考」その他のあらゆる「時間的」なものは、入り込めない。さらに、その、限界づけられない「虚無」のただ中においては、「自我」という「枠組」などは、解消される。そのように、下降の果てに、「虚無」そのものと一体となり、自我という枠組を喪失する体験が、「悟り」と言われるものである。(ただし、「虚無」との一体化そのものは、必ずしも明確に意識に留まらない場合も多いようである)

つまり、「境域」を、垂直的に超えて行く方向として、「悟り」があるということである。このように、「霊界参入」と「悟り」は、本来方向的に、相入れないものと言うべきなのである。

ただし、これには、多分に、「原理的には」と言わざるを得ない点もある。実際上は、「境域」を水平的に超えられないような場合に、垂直的に超えて行くことが、容易に可能であるはずもない。つまり、本来、互いに別方向のものだとしても、事実上は、「霊界参入」によって達成されるようなものを踏まえなければ、垂直的方向への(意識的な)下降などは、ほとんど不可能と言うべきである。

水平的方向の「霊界参入」では、「境域」は一つの「試練」として超えられるのだったが、その結果として達せられるのは、シュタイナーも言うように、「高次の自我」と考えられる。それは、日常的な「自我」より、強められ、意識の高められた「自我」であり、霊的な知覚を可能にするものである。あるいは、既に述べた、「均衡」ということを達成した「自我」とも言える。

そのような、いわば完成した「自我」であってこそ、混沌たる「境域」のさらに深みにまで、意識を保って、滞ることなく、降りて行くことができる。そして、最終的に、根源的な恐怖の対象ともいうべき「虚無」へと、解消することも可能になる、ということである。

このような事実上の方向を如実に示しているのが、前に触れた、B.ロバーツの「自己喪失の体験」である。そこで喪失される「自己」とは、単なる「自我」なのではない。キリスト教神秘主義の伝統に乗っ取って、「神との合一」と表現されるが、要するに、一種の完成された「自己」である。ロバーツは、そのような「自己」が「虚無」へと解消し、喪失する体験を克明に描き出しているのである。

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