「境域の守護霊との出会い」まとめ
注)「霊界の境域」で「捕食者」とともに出会われる可能性のある「境域の守護霊」についてまとめた記事です。
これまでみてきたように、「境域の守護霊との出会い」には、1「未知なる存在」との出会いという面と、2「自分自身の隠れた面」との出会いという面の、2つがあることになる。この両者をみずに、片方だけをみたのでは、とても捉え切れないことになる。
たとえば、これを、1の「未知なる存在」との出会いという面ばかりで突っ走ってしまうと、「オルラ」の場合のように、「恐怖」と「絶望」を膨らませるばかりで、先へ進めなくなる。
もちろん、2の「自分自身の隠れた面」との直面というのも、当然「恐れ」をもたらすし、絶望につなががることもあろう。しかし、そこには、自分で引き受けるべき必然性があるし、逆に、驚きをもって受け入れられる面も多いのである。
一方、2の「自分自身の隠れた面」というのも、あまりにそれを、ストレートに自分自身のものとして受け取ってしまうのは、非現実的である。それは、もはや、別個の「存在」の一つの性質として現れているのであり、そのままが即自分自身の現れというわけではない。
たとえば、「物理的な現象」などを起こす能力を、即自分自身の能力とすることはできない。また、その「醜悪」で「恐ろしい」面も、即座にその現れたままを、自分自身として認識しようとすると、むしろ引き受けるのが困難になる。
たとえば、私も、当時、自分は仏典に出てくる「アングリマーラ」(森に住む殺人鬼で、殺した人間の指をつなげて首輪にしていたという)に違いないという思いに囚われて、「恐ろしい」思いをしたことがある。これには、状況から、自分の運命(カルマ)のただならぬことを思ったのと、「境域の守護霊」の醜悪な面から連想されたというのもある。それは、追い払えば済む「他者」の恐怖とは違い、自分と切り離すことのできない本性の問題であるだけに、余計「恐ろしい」のである。
しかし、そのような単純または極端な「同一化」は、(たとえば、誰かの「生まれ変わり」という誇大妄想と同じように)、自己認識としても現実的ではない。
要するに、「境域の守護霊」は、そのままが自己なのではなく、現にある自己とは別の、一個の独立した「霊的存在」であるということを、まず踏まえなければならない。それは、「未知の存在」であり、当然、それ相応の「恐ろしさ」を伴う。
しかし、そのうえで、それは、過去の総体としての「自己」、または潜在する「自己」が「生み出した」(あるいは、それが衝撃的に過ぎるなら、「大きく影響を与えた」でもよい)ものとして、そこに自分自身の「反映」を見て行くということにしなければならない。
そこには、全くの「他者」でもなければ、即「自己」でもないという、微妙な距離感と観察が必要となる。早急な「解釈」や、情緒的な反応ではなく、そのようなものとして「付き合って」いけることが重要なのである。
「境域の守護霊」について、もう少し踏み込んだ点についても、触れておこう。
前に述べたように、「境域の守護霊」は、ただ「境域」を「監視」するのみではなく、さらに、そこで起こる多くの出来事に関与していると思われる。それは、ある意味、「境域の守護霊」こそが、「境域」で起こること全体の「設定者」とすら思われるほどである。
たとえば、最も強烈な「アーリマン存在」の行動なども、「境域の守護霊」が、多分に「コントロール」(強弱双方に)しているように思われるし、あるいは、お互いの「暗黙の了解」の下に、行われるようなところがある。直接表に出るのではないが、その影響力は、かなり強大なものと言わなければならない。
シュタイナーも、「境域の守護霊」は、「運命を導く」と言うが、それは過去の自己の総体、つまり「カルマ」を体現するものとして、当然とも言える。しかし、「境域の守護霊」は、単に過去のカルマの「結果」をもたらすというだけに止まるのではない。それは、潜在的な「自己」の現れでもあり、自覚しない深い部分で「意図」された行為を実現するという面もある。「分裂病的状況」という、一般的には否定的に捉えられがちな体験についても、それは十分言えることと思う。
(後に述べるつもりだが、「霊界の境域」は、単に「恐怖」や「試練」に終始するのではなく、そこでしか体験できない独特のものがあるし、また、多くの「魅惑」にも富んでいる。そのような体験が、「自己」の深い部分で、「欲され」たものの実現であるということは、十分あり得ることである。)
このように、「境域の守護霊」が「自己」の「反映」であるというのは、実質的には、それを介して起こる出来事を、「自己」そのものに発するものとして、受け入れるということにもかかってくる。これは、非常に具体的なレベルで、「境域の守護霊」の恐るべき「力」を実感するものでもあるので、決して容易なことではないが。
さらに、「境域の守護霊」は、実際に、「アーリマン存在」などと比べても、底知れない部分を有している。「アーリマン存在」は、深い「闇」を連想させるものがあると言ったが、それは、多分に「みかけ」上のものであり、また「闇」といっても一種の「欠如」なので、純粋なものとは言い難い。
ところが、「境域の守護霊」は、むしろ長く伴にするほど、その底が知れない部分がみえてくるのである。
まさに、「死の天使」として、「死」そのものを体現するものがあるし、さらに深い「虚無」を、いわば背後にひき連れているようなところがある。実際、私の「宇宙の死」や、「虚無」との接触といった出来事も、「アーリマン存在」とある程度決着がついて、この「境域の守護霊」と直接向き合うことによって生じたもので、明らかに一つの「引き金」になっている。
その意味では、モーパッサンが、「境域の守護霊」との出会いによってこそ、「死」を迎えることになったというのも、十分頷けるものがある。
しかし、既に見たように、「境域の守護霊」は、その都度の現にある自己のあり方に大きく影響を受け、変化する存在でもある。それにより、醜悪で恐ろしい面も、起こる出来事、つまり「運命」や「カルマ」の現れも、変化し得るということである。あるいは、自己のあり方と、起こる出来事との相関を、「境域の守護霊」を通して、即座に知り得るということにもなってくる。その意味でも、確かに、自己認識の「鏡」なのである。
そのような、「付き合い」や、自己認識の深まりによって、「自己」と「境域の守護霊」との間の「距離」も縮まるので、本質的には、「一体」のものとして受け入れることも、困難ではなくなる。私自身、この先、それとの関係がどうなるか、予断を許さないところもあるが、概ね良好なものになっている。
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