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2007年3月 6日 (火)

「霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」

シュタイナーは、修行によって「霊界の境域」を超えるときに、人格に変化を来すいくつかの現象が起こるとしている。その一つに、「思考・感情・意志」の自然な結合が外れ、「分裂」するというのがある。「分裂」というとおり、これは、まさに「分裂病的状況」で起こることと重なるものがある。

まずは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(三「神秘修行における人格の分裂」)により、シュタイナーのいう「思考・感情・意志」の「分裂」についてみてみよう。

人間は通常の状態では、「思考・感情・意志」の働きが自然に結合していて、ある思考はある感情や意志を呼び寄せるというように、互いに連動している。また、「思考・感情・意志」のどれかが特に発達していても、それが他の働きと無関係に暴走して、歯止めが効かなくなるということはない。

ところが、シュタイナーによれば、霊界の境域を超えて、霊界に参入するときには、この「思考・感情・意志」の自然な「結合」が外れ、「分裂」するのだという。つまり、それまでの、(宇宙法則に基づく)自然な「統合」作用を失うことになるのである。それは、当然、後にみるような危機を生む。但し、この「分裂」は、「思考・感情・意志」の作用を独立させたうえで、自ら、より高度の「統合」をもたらすためには、必要なこととされている。

すなわち、


これらの結びつきは、もはやあらかじめそこに植えつけられた規則によって作り出されることはできず、人間自身の中に目覚めた高い意識によって、新たに作り出されねばならない。―そしてこのことこそ、神秘修行者がみずからのうちに認める変化なのである。
今や修行者は自分で意識的に配慮するのでなければ、自分の表象と感情、もしくは意思決定との間に何らの関連も生じなくなってしまう。いかなる誘因も、もしそれを意識的に自分自身に作用させようとしなければ、思考から行為へと導かなくなる。……
一方神秘修行を実行しない人間にとってはまったく何の動機も見出せないような意志決定からも、行為を遂行することができる。修行者に与えられる偉大な成果は、この三つの魂の力の協働作用を完全に自由に行いうることである。しかしその場合の協働作用の責任はすべて、彼自身が負わねばならない。
       (220頁)

さらに言えば、この、それまでの自然な「統合」作用には、他の霊的存在による「保護」ということも含まれている。だから、それを失うということは、その存在が、この者の保護から手を引くということをも意味している。以後は、自らそれを引き受けていかねばならないのである。

ところが、人は概して、「思考・感情・意志」の働きをバランスよく発達させている訳ではなく、どれかが突出している。その場合、この「分裂」によって、その突出した要素が、止めなく暴走することに歯止めが効かなくなり、人格に変化を来すことになるという

例えば、「意志」が突出している場合、意志は統御されぬまま突き進み、いかなる拘束も受けずに行為から行為へと突っ走る「暴力的人間」が生じる。「感情」が突出している場合、制御できない、様々な「感情的耽溺」を生む。他人を崇拝する傾向を持った人は、限りなく依存性を強め、あるいは、妄信的な宗教的熱狂を生じる。「思考」が突出している場合には、日常生活を敵視する自己閉鎖的な隠遁生活が生じる。そして、いたるところで、冷たい無感動な態度が現れる。

要するに、「調和」や「統合」からは程遠い、極端な行いを生じるわけである。これらは、十分の準備ができていない段階で、霊界に参入することの危険の一つとされる。これを避けるには、霊界に参入する以前に、できる限り「思考・感情・意志」の働きをバランスよく発達させていなければならないということである。

いずれにしても、その意義はどうあれ、霊界に参入するときには、このような自然な「結合」が、いかほどか外れることになるのは、確かなことと思われる。そして、それはまた、意図して参入するのではないが、結果として「霊界の境域」をさまようことになる「分裂病的状況」においても、言えることと思われるのである。あるいは、むしろこの場合、「境域」を無闇にさまようことになる分、また当然に準備などない分、「分裂」の度合や影響はより激しいとも思われる。

何しろ、先にみた、「思考・感情・意志」のどれかが暴走して、歯止めが効かなくなるというのは、実際に、分裂病的反応においても、往々にして、みられることである。そして、それは、「ある妄想を確信して行動する」というのとともに、まさに、はた目にも、「狂っている」とか「気が違っている」という印象を与える、端的な行いと言える(特に、「意志」タイプの場合は、憑かれたような暴力的な行動にはっきり現れるので、目立ち易い)。

まさに、このような「思考・感情・意志」の「分裂」という現象こそ、分裂病的反応のかなり本質的な部分を占めるともいえよう。

ところで、このようにして、いったん起こった「分裂」ということが、(高次の「統合」ということではなくて)元々の自然な「結合」に戻り得るのかどうかは、微妙と思われる。シュタイナーは霊界参入の場合に、恐らく一種不可逆のもので、元に戻り得るものではないと考えていたようである。分裂病的状況の場合も、やはり、(いくらかの回復ということはあっても)少なくとも、全く元に戻るということは考えにくい。

それで、この自然な「統合」作用を失った影響が、分裂病の場合、「急性期」といわれる状況が治まった後にも、様々につきまとうことになる。例えば、アンネという人は、「自然な自明性の喪失」という言葉でそれを表わしている。それまで、自然にできていた「当たり前」の感覚が失われ、その違和感、不適応感が付きまとうということである。

これは、「分裂病」が完全に回復するという意味での「治療」(完治)があり得ないと言われることにも繋がっている。

また、これは言い換えれば、この自然な「結合」こそが、実は多くの者を「分裂病的状況」から隔絶させていたということでもある。それは、「宇宙法則に基づく」作用とされるが、要するに、無意識に働く、一種の「本能的」「生命的」な作用ということであろう。そして、そこには、外部的な「霊的存在」の保護ということも含まれている。いずれにしても、それは、その者自身の力というよりは、外から「自然」に「与えられ」ている働きという要素が大きいのである。

あるいは、それは、自己をひとまとめのもののように成り立たせ、機能させている日常的な「自我」の働きとも言える。しかし、それにしても、本来の自己そのものの働きというよりは、外部的に与えられた「心」の産物といえる面が大きいことは、既にみたとおりである。(シュタイナーのいう「ルシファー的な心」、あるいはドンファンのいう「外来の装置」)

何しろ、その自然な「統合」作用なるものは、(失ってみると)本当に、信じ難いほどよくできた精巧(あるいは巧妙)なものであったことに気づかされる。そして、それが、自分自身のものなどではあり得なかったということに、否応なく気づかされる。これらのことを、多くの者は、「無意識」にも、自分自身で行っている「当たり前」の行いのように思っているのである。

いずれにしても、この「分裂」を経験した者にとっては、多かれ少なかれ、この自然な「統合」作用に代わるものを、自ら身につけて行かなくてはならないことになる。「分裂病的状況」の場合、たとえ急性期を乗り越えたとしても、このようなことが問題となってくるのである。(それへの移行を可能にするためにも、「妄想世界」に抜け難くはまり込むようなことは、できる限り避けたいのである。)

しかしそれは、元々必要なことであったのであり、ただ、「自然」な統合作用によって補われていたために、表面化しなかったに過ぎないとみることもできる。ある意味では、「借り物」ではない、本当に「主体的」な生が、そこから始まる機会とも言えるのである。(ドンファンが、「外来の装置が抜け去った後こそが、本当の闘いの始まり」と言っていたのと似たことが、この場合にも言えると思う。)

そして、その場合に、基本になるのは、(急性期では多かれ少なかれそうであったわけだが)「思考・感情・意志」に振り回されることのない、それらを超えた地点に立てるようになる、ということのはずである。それは、端的には、前に述べた「均衡」または「静寂」ということになるだろうし、前回のミゲルの「四つ約束」もそのための実践としても利用できるものと思う。

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コメント

こんばんは

統合失調症の本に載っていた説明によると
分裂病と名付けられた理由は、ブロイラーがこの病気は感情と思考が分裂したものだという
研究をしたからです。そして統合失調症は歳を取れば予後が良いようです
またシュタイナーによれば子供の頃は感情と意志が結合していて、
大人になるとそれが分離する、そして年寄りになると思考と感情が結合するそうです
だから、歳を取れば統合失調症の人でも分裂していたものが再結合して予後が良くなるのだろう
と思います

シュタイナーの七年周期説

http://www.geocities.jp/chamomile7jp/7rhythms.htm

統合失調症的体験の一つに神秘体験があると思います。
たとえば至福を感じる「光」の体験です。
これが何なのか自分でもわからないけどシュタイナーのこのリンク先にある
ムーンノード、つまり人生の意味を知る体験のことかもしれません。
この光を受けた後、感覚が向上して凄まじいやる気に満ちますが、それが終わった現在は
感情が平板化して意欲が減退しております。 
世界にエロスがなくなったように感じます。灰色の世界です。
何もやりたいことがない、楽しいこともない、といった具合で、意志が弱った上に、
自分の思考にも力がなく、感情も弱っている。

人生の前半期が31歳頃で、それ以降から後半期が始まるようです。
シュタイナーは63歳で人生の目的を果たし終えると考えていたそうなので

この間いった、35歳以前は前世に導かれている部分があるという話で、
言い換えるなら35歳からこの現世のカルマを生き始めるというのは
この時期が意識魂の時代であることとも関連してそうですね

のめーるさんありがとうございます。

記事では、人生のサイクルとしてというよりも、修行に基づく「霊界参入」の観点から、「霊界の境域」に参入したときに起こる、「思考・感情・意志の分裂」について述べています。これは、「望まずして」ですが、やはり「霊界の境域」に入ることになる、「統合失調状況」にも、多く当てはまるものだからです。

しかし、人生のサイクルとしてみた場合にも、かなり当てはまりそうなところはありますね。老人になると、一旦「分裂」した「思考・感情・意志」が、再び結合するというのは興味深いですね。

実際に、統合失調に陥った者も、老人になると、それほど酷い状態を引きずらない場合が多いと思います。これは、老人が、一般に、「死」を意識するか、受け入れるということも関係しているかもしれません。「死」を受け入れた場合には、「統合失調」状況も、もはや騒ぎ立てるほどのものではなくなりますからね。

「光」の体験については、私も、一連の体験のときではなく、その10年後の40才のときに、ありました。一時的なものではなく、2,3週間は続くもので、「躁」のようではなく、自然な落ち着きのある中で、エネルギーに満ちて満たされた至福の状態が続きました。否定的な思考や感情がほとんど起こらない、素晴らしい状態ではありましたが、振り返ると、それは、本来の状態というよりは、どこか、「与えられたもの」という感じで、ずっとその状態にいることが、必ずしも、望ましいものとは思われないです。

のめーるさんも、今は、平坦な感情になり、意欲もあまり湧かないと言いますが、それは、私も、そのときの状態と比べれば、そういうことが言えます。それは、やはり、「思考・感情・意志が分裂」したということとも、関係あるでしょう。(その状態は、自分なりに、意思的に「統合」しなければ、そうなってしまいますから)。しかし、それで、苦痛を感じたり、不適応感があるなら、多少問題ですが、そうでなければ、むしろ、年とともに、「自然」に「安定」した状態として、受け入れることもできると思います。よく、「陰性症状」などと言って、この感情の平坦な状態、意欲の減退状態を、「荒廃」とみる人が多いですが、それは、「妄想世界」に閉じこもったような場合に言えることでも、そうでない場合には、一般化することはできないと思います。ただ、この状態は、長い視野に立った対応は、必要なのでしょうね。

シュタイナーの一般人間論によりますと、老人になると感情と思考が結合するとは書かれてありますが、意志が結合するとは書いてありませんでしたよ

私の光の体験は夢が発端でした。いかにも神のような姿のものが光る玉を私に「与える」
という夢でした。 これは高次の自我が高次の意志を経験させてくれたものだろうと思います。
ところがそれは全能者になることへの意志というもので、制限だらけの地上生活と私のステータスには不釣合いで無頓着な意志でした。これがシュタイナーの言う神的理想で、転生によって少しずつ
達成されていくのかもしれません

しかし、その意志は今はないです。
ただこのムーンノードは全体で三回経験するようなので
また経験するかもしれません

意識魂の時代の37歳くらいが二回目のムーンノードのようで、これを経験した時は
この経験に関してもっと慎重なようです。また、この二回目を経験すると生活スタイルを変えたり
転職したりと、転機にもなるようです

私の場合も、「光の体験」は、(なぜか「イエス・キリスト」の「イエス」という言葉との絡みで)、外部から、シャワーを浴びるかのように体験されたものです。シュタイナーに、誰もが、人生の半ばで、何らかの形で「イエス・キリスト」の体験をするというのを読んだことがあって、そのときはその可能性があると思いました。
それは、確かに、外部的に「与えれた」もののようでありながら、「存在」のより深い状態を反映するのでもあろうと思います。

しかし、それは、オルダス・ハクスリーの幻覚剤の体験とも通じるところがあって、その状態に固執して、その状態にいることを常に望めば、一種の「依存症」を生み出すことになるし、「制限だらけの地上生活」とはまさに「相入れない」ものともなります。また、私の実感では、それは、記事でも述べた、「闇や虚無」に包まれる体験ほどの「根本的」な衝撃をもたらさなかったのも事実です。

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