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2007年3月26日 (月)

「境域の守護霊」とは

前に言ったように、「境域の守護霊」について一通り述べて、区切りとしたい。

「境域の守護霊」は、「アーリマン存在」または「捕食者」と同じく、「霊界の境域」で出会われる存在で、「分裂病的状況」にも大きく関わっていると思われる。ただし、「アーリマン存在」または「捕食者」のように、明らかな「他者」的存在として、派手な攻撃や誘惑をしかけてくる訳ではなく、性質も多面的で、捉えどころがないので、分かりにくい存在である。それで、これとの出会いが、はっきりと意識される形で起こることは、少ないのかもしれない。

しかし、実質的には、「アーリマン存在」または「捕食者」以上に、「境域」や「分裂病的状況」で起こることに深く関わっていると思われる。ある意味、「隠れた主役」とも言えるのである。

詳しくは、追々みていくが、「境域の守護霊」とは、文字通りには、「霊界の境域」を「ふさわしくない者」に踏み入られないように「護っ」(監視し)ている存在である。たとえば、神社の境域を狛犬が、寺の境域を仁王などが護っているのと同じである。実際、それは、「境域」に踏み入ろうとする者を恐れさせ、あるいは、試練を与える。準備のない者を、それ以上踏み込ませず、追い返すのである。

だから、「守護霊」といっても、通常いう、その者自身を「護る」という意味のものとは異っている。ただし、準備のない者を、それ以上踏み込ませないことは、結果的には、その者をより大きな危険から「護っ」ていることにもなろう。

一方、「境域の守護霊」は、「自己」そのものと言える面をもつ。すなわち、それは「自己の体験(前世を含む)の総体」とも言うべきもので、それが「境域」で、自己から切り離されて、「霊的」に一個の独立した「存在」と化したものということである。

「霊界の境域」というのは、物理的世界のように「固定的」な世界ではなく、自己から発するものが、様々に影響する流動的世界である。また、そこでは、自己から発するものが、「息」を吹き込まれ、一個の独立した存在として、機能することがある。

最も典型的なのは、「霊的鏡像」(「神智学」では「エレメンタル」とも)で、これは、自己の「個々」の想念や欲望が、いわば鏡に反射するようにして、一個の独立の「存在」と化したものである。(「他者」から発するものもあり、文化的には、「生き霊」と言われてきた)

シュタイナーは、「境域」で、初めに出会われるのは、このようなものがほとんどだという。そこで、それを自己の「反映」と認識できないと、それに翻弄されて、幻想に継ぐ幻想に陥ってしまうことになる。

これは、病的状況においても、言えることである。たとえば、「解離性」(多重人格)の状況では、この「霊的鏡像」が一つの人格として機能したり、その「声」を聞くことが起こると解される。また、「分裂病的状況」でも、聞く「声」の中には、このようなもの(特に「他者」から発するもの)が混入している可能性がある。

しかし、「境域の守護霊」は、この「霊的鏡像」と違って、「個々の想念」ではなく、いわば「全体としての自己」が独立の存在と化したものなのである。それは、「霊的鏡像」より多面的で捉え難いが、より強烈で永続的な存在性をもっている。

それは、自己が「生み出し」たものなので、当然「自己」を反映するが、既に「境域」における一個の独立の「存在」と化した以上、やはり「他者」的なものである。その点では、「アーリマン存在」(捕食者)やその他の霊的存在と異ならない。

シュタイナーは、この存在は、「思わず怖気づく、妖怪じみた」存在として、「出会わ」れるという。実際、それは初め、「過去」の自己の総体として、特に「醜悪」な面、つまり「ルシファー的」な心や「アーリマン的」な心としての表れが際立っている。形姿としても、「恐れ」をもたらす「不気味」なものとして、現れるのである。しかし、それは同時に、今は潜在している将来の自己像(「高次の自己」)をも内に含みこんでいる。高貴で光り輝く側面も、もっているのである。

また、それは、「境域」で、様々な霊的存在と結びついて存在している。「ルシファー的」な心や「アーリマン的」な心を介して、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」と結びついているし、さらに、「高次の自己」との関係で、「守護天使」や「死の天使」(後に述べる)とも結びついている。

「境域の守護霊」は、このように、かなり複雑で、多様または両義的な面を併せ持っている。また、「自己」という、最も近くにありながら、実は「捉え難い」ものと関わっているので、なかなか正面から取り上げにくいものがある。

何しろ、シュタイナーによれば、前回述べた「思考・感情・意志の分裂」が起こる頃には、このようなものが、自己から切り離されて、存在し始める(それ以前には、いわば自己の内部で「眠った」ままである)。それで、「境域」において、出会われる可能性が出て来るのである。

この「境域の守護霊」は、既にみたように、自己認識の「鏡」でもあるので、それとの出会いは、境域で自己が「持ち込ん」でいるものを認識することにもつながる。それで、結果的には、「幻想」に継ぐ「幻想」に陥ることから、「護る」という側面も出てくる。シュタイナーは、「霊界」に参入するうえで、これとの出会いは、重要かつ必要なものとしているのである。

ざっとみてきたが、それは、結局のところ、「自己の全体性」ともいうべきもので、その都度の「自己」のあり方次第で、さまさまな顔を見せる存在である。だから、ある時点以降は、(それが「護った」り、「導く」のではなく)「自己」自身がそれを導くことによって、その高次の面を露わにさせなくてはならないのものとなる。(最終的には、それは「キリスト」そのものであったことが明らかになるというが、これは「神性」の一つの象徴として受け取ってもよいだろう)

ともあれ、具体的には、私の体験のところでは、「背後の存在」とか「影」と呼んだものが、それである。また、小説という形でだが、モーパッサンは、それとの出会いを、かなり迫真的に描き出している。前に引用した「オルラ」がそうで、これは、まさに、「境域の守護霊との出会い」をイメージするのにピッタリのものと思う。

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