« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

2007年3月

2007年3月26日 (月)

「境域の守護霊」とは

前に言ったように、「境域の守護霊」について一通り述べて、区切りとしたい。

「境域の守護霊」は、「アーリマン存在」または「捕食者」と同じく、「霊界の境域」で出会われる存在で、「分裂病的状況」にも大きく関わっていると思われる。ただし、「アーリマン存在」または「捕食者」のように、明らかな「他者」的存在として、派手な攻撃や誘惑をしかけてくる訳ではなく、性質も多面的で、捉えどころがないので、分かりにくい存在である。それで、これとの出会いが、はっきりと意識される形で起こることは、少ないのかもしれない。

しかし、実質的には、「アーリマン存在」または「捕食者」以上に、「境域」や「分裂病的状況」で起こることに深く関わっていると思われる。ある意味、「隠れた主役」とも言えるのである。

詳しくは、追々みていくが、「境域の守護霊」とは、文字通りには、「霊界の境域」を「ふさわしくない者」に踏み入られないように「護っ」(監視し)ている存在である。たとえば、神社の境域を狛犬が、寺の境域を仁王などが護っているのと同じである。実際、それは、「境域」に踏み入ろうとする者を恐れさせ、あるいは、試練を与える。準備のない者を、それ以上踏み込ませず、追い返すのである。

だから、「守護霊」といっても、通常いう、その者自身を「護る」という意味のものとは異っている。ただし、準備のない者を、それ以上踏み込ませないことは、結果的には、その者をより大きな危険から「護っ」ていることにもなろう。

一方、「境域の守護霊」は、「自己」そのものと言える面をもつ。すなわち、それは「自己の体験(前世を含む)の総体」とも言うべきもので、それが「境域」で、自己から切り離されて、「霊的」に一個の独立した「存在」と化したものということである。

「霊界の境域」というのは、物理的世界のように「固定的」な世界ではなく、自己から発するものが、様々に影響する流動的世界である。また、そこでは、自己から発するものが、「息」を吹き込まれ、一個の独立した存在として、機能することがある。

最も典型的なのは、「霊的鏡像」(「神智学」では「エレメンタル」とも)で、これは、自己の「個々」の想念や欲望が、いわば鏡に反射するようにして、一個の独立の「存在」と化したものである。(「他者」から発するものもあり、文化的には、「生き霊」と言われてきた)

シュタイナーは、「境域」で、初めに出会われるのは、このようなものがほとんどだという。そこで、それを自己の「反映」と認識できないと、それに翻弄されて、幻想に継ぐ幻想に陥ってしまうことになる。

これは、病的状況においても、言えることである。たとえば、「解離性」(多重人格)の状況では、この「霊的鏡像」が一つの人格として機能したり、その「声」を聞くことが起こると解される。また、「分裂病的状況」でも、聞く「声」の中には、このようなもの(特に「他者」から発するもの)が混入している可能性がある。

しかし、「境域の守護霊」は、この「霊的鏡像」と違って、「個々の想念」ではなく、いわば「全体としての自己」が独立の存在と化したものなのである。それは、「霊的鏡像」より多面的で捉え難いが、より強烈で永続的な存在性をもっている。

それは、自己が「生み出し」たものなので、当然「自己」を反映するが、既に「境域」における一個の独立の「存在」と化した以上、やはり「他者」的なものである。その点では、「アーリマン存在」(捕食者)やその他の霊的存在と異ならない。

シュタイナーは、この存在は、「思わず怖気づく、妖怪じみた」存在として、「出会わ」れるという。実際、それは初め、「過去」の自己の総体として、特に「醜悪」な面、つまり「ルシファー的」な心や「アーリマン的」な心としての表れが際立っている。形姿としても、「恐れ」をもたらす「不気味」なものとして、現れるのである。しかし、それは同時に、今は潜在している将来の自己像(「高次の自己」)をも内に含みこんでいる。高貴で光り輝く側面も、もっているのである。

また、それは、「境域」で、様々な霊的存在と結びついて存在している。「ルシファー的」な心や「アーリマン的」な心を介して、「ルシファー存在」や「アーリマン存在」と結びついているし、さらに、「高次の自己」との関係で、「守護天使」や「死の天使」(後に述べる)とも結びついている。

「境域の守護霊」は、このように、かなり複雑で、多様または両義的な面を併せ持っている。また、「自己」という、最も近くにありながら、実は「捉え難い」ものと関わっているので、なかなか正面から取り上げにくいものがある。

何しろ、シュタイナーによれば、前回述べた「思考・感情・意志の分裂」が起こる頃には、このようなものが、自己から切り離されて、存在し始める(それ以前には、いわば自己の内部で「眠った」ままである)。それで、「境域」において、出会われる可能性が出て来るのである。

この「境域の守護霊」は、既にみたように、自己認識の「鏡」でもあるので、それとの出会いは、境域で自己が「持ち込ん」でいるものを認識することにもつながる。それで、結果的には、「幻想」に継ぐ「幻想」に陥ることから、「護る」という側面も出てくる。シュタイナーは、「霊界」に参入するうえで、これとの出会いは、重要かつ必要なものとしているのである。

ざっとみてきたが、それは、結局のところ、「自己の全体性」ともいうべきもので、その都度の「自己」のあり方次第で、さまさまな顔を見せる存在である。だから、ある時点以降は、(それが「護った」り、「導く」のではなく)「自己」自身がそれを導くことによって、その高次の面を露わにさせなくてはならないのものとなる。(最終的には、それは「キリスト」そのものであったことが明らかになるというが、これは「神性」の一つの象徴として受け取ってもよいだろう)

ともあれ、具体的には、私の体験のところでは、「背後の存在」とか「影」と呼んだものが、それである。また、小説という形でだが、モーパッサンは、それとの出会いを、かなり迫真的に描き出している。前に引用した「オルラ」がそうで、これは、まさに、「境域の守護霊との出会い」をイメージするのにピッタリのものと思う。

2007年3月 6日 (火)

「霊界の境域」と「思考・感情・意志」の「分裂」

シュタイナーは、修行によって「霊界の境域」を超えるときに、人格に変化を来すいくつかの現象が起こるとしている。その一つに、「思考・感情・意志」の自然な結合が外れ、「分裂」するというのがある。「分裂」というとおり、これは、まさに「分裂病的状況」で起こることと重なるものがある。

まずは、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』(三「神秘修行における人格の分裂」)により、シュタイナーのいう「思考・感情・意志」の「分裂」についてみてみよう。

人間は通常の状態では、「思考・感情・意志」の働きが自然に結合していて、ある思考はある感情や意志を呼び寄せるというように、互いに連動している。また、「思考・感情・意志」のどれかが特に発達していても、それが他の働きと無関係に暴走して、歯止めが効かなくなるということはない。

ところが、シュタイナーによれば、霊界の境域を超えて、霊界に参入するときには、この「思考・感情・意志」の自然な「結合」が外れ、「分裂」するのだという。つまり、それまでの、(宇宙法則に基づく)自然な「統合」作用を失うことになるのである。それは、当然、後にみるような危機を生む。但し、この「分裂」は、「思考・感情・意志」の作用を独立させたうえで、自ら、より高度の「統合」をもたらすためには、必要なこととされている。

すなわち、


これらの結びつきは、もはやあらかじめそこに植えつけられた規則によって作り出されることはできず、人間自身の中に目覚めた高い意識によって、新たに作り出されねばならない。―そしてこのことこそ、神秘修行者がみずからのうちに認める変化なのである。
今や修行者は自分で意識的に配慮するのでなければ、自分の表象と感情、もしくは意思決定との間に何らの関連も生じなくなってしまう。いかなる誘因も、もしそれを意識的に自分自身に作用させようとしなければ、思考から行為へと導かなくなる。……
一方神秘修行を実行しない人間にとってはまったく何の動機も見出せないような意志決定からも、行為を遂行することができる。修行者に与えられる偉大な成果は、この三つの魂の力の協働作用を完全に自由に行いうることである。しかしその場合の協働作用の責任はすべて、彼自身が負わねばならない。
       (220頁)

さらに言えば、この、それまでの自然な「統合」作用には、他の霊的存在による「保護」ということも含まれている。だから、それを失うということは、その存在が、この者の保護から手を引くということをも意味している。以後は、自らそれを引き受けていかねばならないのである。

ところが、人は概して、「思考・感情・意志」の働きをバランスよく発達させている訳ではなく、どれかが突出している。その場合、この「分裂」によって、その突出した要素が、止めなく暴走することに歯止めが効かなくなり、人格に変化を来すことになるという

例えば、「意志」が突出している場合、意志は統御されぬまま突き進み、いかなる拘束も受けずに行為から行為へと突っ走る「暴力的人間」が生じる。「感情」が突出している場合、制御できない、様々な「感情的耽溺」を生む。他人を崇拝する傾向を持った人は、限りなく依存性を強め、あるいは、妄信的な宗教的熱狂を生じる。「思考」が突出している場合には、日常生活を敵視する自己閉鎖的な隠遁生活が生じる。そして、いたるところで、冷たい無感動な態度が現れる。

要するに、「調和」や「統合」からは程遠い、極端な行いを生じるわけである。これらは、十分の準備ができていない段階で、霊界に参入することの危険の一つとされる。これを避けるには、霊界に参入する以前に、できる限り「思考・感情・意志」の働きをバランスよく発達させていなければならないということである。

いずれにしても、その意義はどうあれ、霊界に参入するときには、このような自然な「結合」が、いかほどか外れることになるのは、確かなことと思われる。そして、それはまた、意図して参入するのではないが、結果として「霊界の境域」をさまようことになる「分裂病的状況」においても、言えることと思われるのである。あるいは、むしろこの場合、「境域」を無闇にさまようことになる分、また当然に準備などない分、「分裂」の度合や影響はより激しいとも思われる。

何しろ、先にみた、「思考・感情・意志」のどれかが暴走して、歯止めが効かなくなるというのは、実際に、分裂病的反応においても、往々にして、みられることである。そして、それは、「ある妄想を確信して行動する」というのとともに、まさに、はた目にも、「狂っている」とか「気が違っている」という印象を与える、端的な行いと言える(特に、「意志」タイプの場合は、憑かれたような暴力的な行動にはっきり現れるので、目立ち易い)。

まさに、このような「思考・感情・意志」の「分裂」という現象こそ、分裂病的反応のかなり本質的な部分を占めるともいえよう。

ところで、このようにして、いったん起こった「分裂」ということが、(高次の「統合」ということではなくて)元々の自然な「結合」に戻り得るのかどうかは、微妙と思われる。シュタイナーは霊界参入の場合に、恐らく一種不可逆のもので、元に戻り得るものではないと考えていたようである。分裂病的状況の場合も、やはり、(いくらかの回復ということはあっても)少なくとも、全く元に戻るということは考えにくい。

それで、この自然な「統合」作用を失った影響が、分裂病の場合、「急性期」といわれる状況が治まった後にも、様々につきまとうことになる。例えば、アンネという人は、「自然な自明性の喪失」という言葉でそれを表わしている。それまで、自然にできていた「当たり前」の感覚が失われ、その違和感、不適応感が付きまとうということである。

これは、「分裂病」が完全に回復するという意味での「治療」(完治)があり得ないと言われることにも繋がっている。

また、これは言い換えれば、この自然な「結合」こそが、実は多くの者を「分裂病的状況」から隔絶させていたということでもある。それは、「宇宙法則に基づく」作用とされるが、要するに、無意識に働く、一種の「本能的」「生命的」な作用ということであろう。そして、そこには、外部的な「霊的存在」の保護ということも含まれている。いずれにしても、それは、その者自身の力というよりは、外から「自然」に「与えられ」ている働きという要素が大きいのである。

あるいは、それは、自己をひとまとめのもののように成り立たせ、機能させている日常的な「自我」の働きとも言える。しかし、それにしても、本来の自己そのものの働きというよりは、外部的に与えられた「心」の産物といえる面が大きいことは、既にみたとおりである。(シュタイナーのいう「ルシファー的な心」、あるいはドンファンのいう「外来の装置」)

何しろ、その自然な「統合」作用なるものは、(失ってみると)本当に、信じ難いほどよくできた精巧(あるいは巧妙)なものであったことに気づかされる。そして、それが、自分自身のものなどではあり得なかったということに、否応なく気づかされる。これらのことを、多くの者は、「無意識」にも、自分自身で行っている「当たり前」の行いのように思っているのである。

いずれにしても、この「分裂」を経験した者にとっては、多かれ少なかれ、この自然な「統合」作用に代わるものを、自ら身につけて行かなくてはならないことになる。「分裂病的状況」の場合、たとえ急性期を乗り越えたとしても、このようなことが問題となってくるのである。(それへの移行を可能にするためにも、「妄想世界」に抜け難くはまり込むようなことは、できる限り避けたいのである。)

しかしそれは、元々必要なことであったのであり、ただ、「自然」な統合作用によって補われていたために、表面化しなかったに過ぎないとみることもできる。ある意味では、「借り物」ではない、本当に「主体的」な生が、そこから始まる機会とも言えるのである。(ドンファンが、「外来の装置が抜け去った後こそが、本当の闘いの始まり」と言っていたのと似たことが、この場合にも言えると思う。)

そして、その場合に、基本になるのは、(急性期では多かれ少なかれそうであったわけだが)「思考・感情・意志」に振り回されることのない、それらを超えた地点に立てるようになる、ということのはずである。それは、端的には、前に述べた「均衡」または「静寂」ということになるだろうし、前回のミゲルの「四つ約束」もそのための実践としても利用できるものと思う。

« 2007年2月 | トップページ | 2007年4月 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

コメントの投稿について

無料ブログはココログ