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2007年2月23日 (金)

「個人的に受け取ること」と「関係妄想」

ドン・ミゲル・ルイスという者に『四つの約束』(コスモスライブラリー)という著書がある。このドンミゲルは、カスタネダのドンファンと同じく、古代トルテックの伝統を受け継ぐメキシコのシャーマンであり、知者ということだ。確かに「ナワール」や「盟友」、「捕食者」など、概念的にも内容的にも、ドンファンの教えと近いものがある。

ただ、この本は、カスタネダに対するドンファンの教えと違って、「秘教」的な部分は極力抑えられ、一般向けに分かりやすくまとめられている。(『恐怖を超えて』という弟子の編集した本には、そういう面もかなり表れている。)

「四つの約束」というのは、我々の「信念体系」が生み出している「地獄的な現実」を脱するための教え(新たな合意)を4つに要約したものである。「信念体系」とは、ドンファンと同じように、外部的に植え付けられたものとみなされ、「パラサイト」(寄生体)とも呼ばれる。四つの約束は、具体的には、1「正しい言葉を使う」2「何事も個人的に受け取らない」3「思い込みをしない」4「常にベストを尽くす」と、一見当たり前の処世訓のようなものである。

しかし、これが本当の意味で実行されるときには、確かに「寄生的な心」を脱するだけの力を備える内容を持っていると思わせる。ただし、実際上は、既に「寄生的な心」をある程度脱してしまった者にとって、「日常の処し方」として利用できるという面が大きいだろう。

中でも、「何事も個人的に受け取らないこと」というのが、注目される。これは、身の周りに起こる出来事であろうと、自分に向かって言われたことであろうと、何事も、「自分」に関係付けて受け取らないということである。たとえ、自分に向けられた毒のある言葉であっても、(それはその実、その者自身の問題を反映するに過ぎないのだから)その「毒」を受け取ることがなければ、毒を内部に持ち込み、さらに周りに拡散させることはないと言うのである。

逆に、物事を「個人的に受け取る」ということはどういうことかについて、ミゲルは次のように言っている。(39頁)


あなたが、なんでも自分のこととして受け取るのは、あなたが言われたことになんでも合意するからである。合意した瞬間、毒はあなたに回る。そして、あなたは地獄の夢に捉えられる。あなたが捉えられたのは、自分のことを重要だと考えているからである。自分を重要だと考えること、あるいは物事を何でも自分のこととして受け取ることは、究極的な利己主義である。なぜなら、その場合、前提となっているのは、全てのことは自分に関することだ、という思い込みだからである。

                                
実は、この「個人的に受け取る」というのは、分裂病的状況で起こる「関係妄想」ということに大いに関わってくる。「分裂病的状況」というのは、「個人的に受け取る」しかないと思えるような出来事に満ちている。そして、実際に、「個人的に受け取る」ということがつき進められると、どうなるかを如実に示すのが、「関係妄想」と言えるのである。

関係妄想」というのは、分裂病的状況で起こり得るあらゆる「妄想」の、基本にあるものとも言える。例えば、「誇大妄想」(「自分はキリストの生まれ変わり」など)にしても、「被害妄想」(「CIAに狙われる」など)にしても、「恋愛妄想」(「ある有名女優に愛されている」など)にしても、その基本には、分裂病的状況で起こる物事を「自分」(というイメージや思い込み)に関係付けて受け取り、それを拡大、補強していくということがあるのである。 

また、初めに分裂病的状況に入って行くときの、「妄想気分」と言われる「違和感」もまた、周りに起こる出来事が「自分と関係する」と思えてしまうことに基づいている。たとえば、ある者は、この時の状況を、「すべての出来事が自分に返答を迫っているよう」などと表現している。

そこには、ミゲルの言うような、「自己」の重要視と一種の利己主義があるのは確かである。しかし一方で、そのような「関係妄想」は、単に日常の延長上に生まれるのではなく、「分裂病的状況」という新たな状況でこそ生まれるものであることに注意しなければならない。そこには、自己と外界の「関係」について、新たな意識をもたらすだけの、はっきりした変化があり、やむを得ざる事情もあるのである。

まず、我々は日常的には、自己と他者、あるいは自己と世界とは、切り離されたものであるということを当然の前提のようにして生活している。それは、分裂病的状況に入る者にとっても、多かれ少なかれそうであったはずである。ところが、分裂病的状況は、そのような日常的感覚に風穴を空け、自己と世界との間にあった幕のようなものが取り払われたかのような感覚を生む。外界または世界は、自己により間近で直接的な現れ方をし、ある種特別な繋がりにあるもののように浮上してくるのである。

それが、初めの「違和感」または「妄想気分」の元になるし、さらにそれが深まれば、自己と外界が「融合」するかのような感覚にまで至る。そこには、確かにある一つの、「現実」(リアリティ)が生まれているということである。

そのような「現実」をもたらす要素がいくつか考えられる。既に述べたことであるが、ざっと述べ直してみる。

一つは、「分裂病的状況」というのは、実際に、日常的な感覚世界を遊離し始め、「霊的世界」ではないにしても、それとの一種の「境界領域」(シュタイナーでは「元素界」とか「エーテル界」などと言われる)に立っているということである。そこでは、自己と外界を明確に区別していた日常的な「自我」はほとんど機能しなくなり、(自己が外界に流れ出る、または外界が内部に侵入するかのような)一種の「融合」感覚が起こるのである。これは、当然、日常的な「自我」という枠組にとっては、強い危機の状況でもある。

これに近い状況として、最も日常的な例としては、「夢」があげられる。そこでは、自我は、覚醒時のようなコントロールが効かず、周りと自己との分離が曖昧になる。ただし、「夢」は覚醒時の体験とは断絶しているから、直接の体験とは言いがたいし、特に危機をもたらすわけでもない。他に、覚醒時において、これにかなり近い状況としては、「催眠」があげられる。「催眠」の状況では、やはり自己と外界との区別が曖昧になり、特に被暗示者の「暗示」に対しては、自我のコントロールが効かなくなる。

あるいは、かつては、「未開社会」の者は、まさに自己と外界の区別が曖昧で、融通し合っているかのような、幼稚な心を持っているとみなされていた。人類学でも、これを「相即相融」などと説明していた。ところが、「分裂病的状況」では、実際に、事実として、この「相即相融」と近いことが起こるのである。これは実際には、最近の人類学も認めるように、「未開社会」の者は、儀式などを通して、よりこの状態について知っていたということに過ぎないのである。(だからこそ、未開社会では、それが分裂病のような病的反応には結び付きにくい。)

もう一つの要素は、そのような状況は、「自我」にとってはその枠組みを保つことの大きな危機なので、防衛反応または反動として、「自己の重大視」ということが起こるということである。既にみたように、その状況では、一般的に、何物かとの「同一視」が起こり易いが、ことさら、その失われつつある自己を補償するような、重大な意味や価値をもたらすものとの「同一視」が起こり易いということである。それが、明らかな「誇大妄想」や「CIAに狙われる」などの被害妄想へとつながってくる。これは単純に利己的に自己を重大視しているのではなく、危機的状況による一種の「あがき」のようなものである。

最後に、これまでのものは、「妄想」への方向を(抽象的に)基礎づけるものだが、もっと具体的レベルで、強烈に「関係」妄想を促進し、発展させ、あるいは固定させる働きをするものがある。それが「捕食者」である。具体的には、「声」などによる「誘導」や、既に生じた「妄想」(の芽)を補強するような現象を通して、行われる。

このような具体的な力がなければ、「妄想世界」を、強固に維持させ、そこに抜け難く閉じ込めさせるようなことはできないと言うべきである。もちろんそれは、そこに閉じ込められることから生じる、止めの無い(無益な)闘いや葛藤のエネルギーを食い尽くすためである。

こうしてみると、要するにこの「関係妄想」の過程には、
1 確かに、日常性にはない、自己と外界との新たな繋がりを露わにする「関係」が、浮かび上がっているという面、
2 しかし、そのような状況の下、(たとえ防衛反応や捕食者の誘導によるものであっても)全く個人的な「受け取り」から、自己を重大視する、明らかな「妄想」を生じてしまっている面
の両面があることが分かる。

そこで、この「妄想」を避けるには、まさに「何事も個人的に受け取らない」ということが、日常レベルよりも強い意味で要請されることになる。自己と外界との新たな「関係」が露わになった状況、何事も自己と関係があるかのように現れる状況においても、それがなされなくてはならないということである。

具体的に、その場合に基本になるのは、そのような状況で起こることは、決して自己に特有な現象ではないということ、つまり、その状況にあれば、誰にも客観的に起こる現象であることを認識することのほかはない。つまり、自己と外界との新たな「関係」の浮上とは、自己に特殊なものではなく、本来誰もが(潜在的に)そうであるものが、そのような状況に入ることによって、たまたま自己について露わになったに過ぎないということである。

(実際、その状況から生じてしまった、「CIAに狙われる」やそれに類する「妄想」にしても、いかに特異にみえようとも、かなりの者が共通してもつのである。さらには、それ以前の、自己と外界が特別な繋がりのもとに浮上し、あるいは「融合」するといった感覚は、恐らくほとんどの者が体験するものと思われる。これらの現象は、「個人的」なものではなく、「普遍的」なものであるということである。)

そのような認識ができれば、「自己の重大視」はかなり抑えられるはずなのである。

但し、実際に自己がそのような状況にあるときには、周りの多くの者は、現実にはそのような状況からは隔絶されているため、どうしても自己だけが特別の状況にあるとの思いを生じやすい。そこで、その点では、やはり予め、「分裂病的状況」とは、そのような現象を生じるものであることの、ある程度の知識は必要と思われる。

その他、個々的な出来事や、「声」による攻撃などに対しても、その都度「個人的に受け取る」ということがなけれれば、ほとんど間違いなく「妄想」への芽は断たれると言える。ただ、これについては、やはり普段から、そのような習慣が身についているかどうかが大きく左右するだろう。

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コメント

では民族霊の人間集団への作用の現れを、自分から出たものと誤解するという見方はどうですか。自分と関係のある個人から発するものではなくて、民族霊が自分を含めた集団に作用しているので、自分の視点から見ると関係妄想になる。

例えば私が特攻隊の動画を見た時に、命を国のために捨てたというのは、なんだが政治とは無関係に凄いことだと考えたら、その近い日に安部が政治とは無関係と言って靖国を参拝し、小泉が政治とは無関係だと言って反原発の何かを立ち上げた。また作戦を考えるときに、光領域が大地領域を光で区切るというような、領域を表す円で考えるというやり方を考えたら、既に天気予報や国の軍事などの考え方にもそれがあった。文化は発見された作品が各地に広まっていくという考えに至ると、安部がよくできた商売を各地に広げるというような話をしていた。うるおぼえだけど。民族霊がある日本人集団の思考に作用しているのかもしれない。無関係なものでもそれらに民族霊の理念が見られるのかも。理念は植物や思考といったものをむすびつける。たとえば有機的自然という考えにより思考や植物をむすびつけることができる。道徳的理念が散文的な行為をむすびつける。概念と理念は似ている。

「では民族霊の人間集団への作用の現れを、自分から出たものと誤解するという見方はどうですか。自分と関係のある個人から発するものではなくて、民族霊が自分を含めた集団に作用しているので、自分の視点から見ると関係妄想になる。」

それは、あると思います。私も、「妄想」形成の一つの例として、「捕食者」という霊的存在の働きかけがあることを述べています。この場合は、あえてそのような妄想を補強する方向に誘導するということですが、他の霊的存在もさまざまな働きかけを、個人や集団にしている中、そのような働きかけを、個人的なものとして「自己中心的」に受け取ることで、妄想が形成されることはよくあることと思います。

いずれにしても、「個人的に受け取る」のは、「自我」の作用であり、それは、そのような非日常的な状況で、「自我」が危機的な状況にさらされていることの反映だと思います。「個人的に受け取る」ということがなくなって、初めて、「霊界の境域」での体験を、感情的に混乱することなく、そのまま受け取れるようになるということですね。これは、ある意味、日常の中においての方かいい訓練になります。

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