「捕食者」と「分裂病的状況」
これまで、ある「存在」との関係では、「アーリマン存在」という観点から、「分裂病的状況」についていくらかみて来た。そこでは、主に、「分裂気質」の者は、「ルシファー的」な傾向が強く、「アーリマン存在」を刺激し、攻撃を誘発し易いということが述べられた。それが、幻覚や妄想、錯乱などの反応を生む、「分裂病的状況」をもたらすということであった。
しかし、これを、「捕食者」(あるいは人間を管理、支配する者)という観点からみると、また少し違った面も見えてくる。
「捕食者」にとっては、まずもって人間は「捕食」の対象である。ところが、分裂気質の者には、通常の捕食の仕方がききにくいということがある。通常の捕食の仕方とは、既にみたように、「外来の装置」、「善悪の観念」、「信念体系」、「社会慣行」などでがんじがらめにして、「内省」や「葛藤」などの「意識の炎」を生み出し、それを食らうというものである。
ところが、これらは、「社会的」あるいは「集団的」なものをあまり重視しない分裂気質の者に対しては、必ずしも有効とは言えない。分裂気質の者は、「善悪の観念」や、「信念体系」、「社会慣行」には、それほど左右されないところがあるからである。
分裂気質の者は、「ルシファー的」な傾向が強く、「アーリマン的」な傾向に欠けるというのも、現に、「アーリマン的」なものにあまり侵されていないということ、つまり、未だ十分「捕食」されていないということである。
だから、分裂気質の者は、より「捕食」をそそる対象でありながら、通常とは違った、あるいはより強烈な仕方で、捕食されなければならない。それで、ある意味個別的に、その者を特別な状況に追い込んで、「捕食者」自らが攻撃を仕掛けるなど、殊更に強い恐怖と葛藤の状況を作り出すことが行われる。そうして、そこから生み出されるものを、このときとばかりに捕食するのである。その者は、当然、その後には、強いエネルギーの喪失感を伴うことになる。
つまり、「分裂病的状況」というのは、「捕食者」の「捕食」という観点から言うと、分裂気質の者に対する独特の捕食の仕方なのだということが言える。
しかし、「捕食者」のもう一つの重要な一面は、「管理」と「支配」ということである。
これは「捕食」という目的と結び付いてもいるのだろうが、それ自体もまた、重要な目的として作用する面がある。分裂気質の者は、そのような「管理」や「支配」のシステムからはみ出し易いために、特別に「攻撃」の的になり易いということである。
注意すべきは、「捕食者」の人間に対する管理、支配は、彼らにとっては決して「悪」ではないということである。それは、人間が家畜に対してそうするのを「悪」と思わないのと同じことといえる。そこで、彼らの管理や支配からはみ出すこと、逸脱することは、むしろ「秩序」を乱すことであり、「戒め」の対象でもあるということになる。
分裂気質の者に対する「捕食者」の攻撃には、そのような面もあると言わなければならない。
例えば、彼らが、「声」を通して言いかけてくることには、一見倫理的に、もっともらしいことも多い。「お前はとんでもないことをしたのだ」とか、「(何か恨みがましいことをした)彼はおまえのためを思ってやったのだ」など、強い調子で責め立てることがある。
その責め立てる調子は、毒々しく破壊的なもので、決して文字通りには受け取れない(取るべきではない)し、これは、先に見た「内省」と「葛藤」をもたらす捕食のやり方の延長上にあるものとも言える。が、それにしても、そこにある種の「倫理的」な含みというか、「戒め」的な意味合いが含まれていることも確かなのである。
実は、文化的伝統(特に非一神教的な文化)の中にも、「悪魔」的とみられる存在が、そのような秩序を乱す者に対する「戒め」の役割をしているものを見いだせる。日本では、「ナマハゲ」の行事がまさにそれを象徴している。
「ナマハゲ」は「鬼」の仮面をかぶった者が、子供に「泣く子はいないか 」「耳を食ってしまうぞ」などとと言って、脅かしながら、「悪いこと」をしないように戒める行事である。現在では、単純に大人の言うことを聞かせる役割を負っているのだろうが、元々は、一種の秘儀的な儀式で、実際に「鬼」の一面を表すものがあったと思われる。
そこでは、「鬼」は「秩序」を乱す者を恐れさせ、戒める役割をしている。
「鬼」は「異界」の存在であり、人間の世界の「外」にいるからこそ、その秩序を乱す者をよく監視できるのである。人間の側からみれば、「秩序」とは、「鬼」という外部的な「権威」によって守られているということであり、この儀式には、それをはみ出す者は、「鬼」の咎め、攻撃を受けるということの「知らしめ」の意味がある。ただし、その「秩序」とは、本来は、「鬼」の側にとっての「管理」「支配」に係っているのである。
また、これには、大人になるための通過儀礼の「イニシエーション」的意味合いもあろう。が、かなり低い年齢に対してのものであるところからすると、先に述べたように、子供の頃に、多くの者が出会うという「魔的な存在」との接触を儀礼化しているとも考えられる。あるいは、その接触の「先取り」的な意味があって、一種の免疫をつけさせ、実際の接触時のショックを緩和する意味合いがあるのかもしれない。
いずれにしても、そこにあるのは、たとえ「捕食者」によるのであっても、その「管理」「支配」とは、人間にとっても一つの既製の「秩序」なのであり、容易く乱されることは戒められなければならないということである。人間もまた、「捕食者」の「管理」する「秩序」に乗っかっているところがあるということである。その意味でも、人間が、本来「捕食者」を、容易に「悪」と呼べるはずはないのである。
分裂気質の者は、ある種意図的にか、あるいは知らずのうちにか、そのような「秩序」をはみ出すことになり易い。そこで、「捕食者」も放って置くことができず、恐怖に満ちた咎めや戒めを与えることにもなる。「ナマハゲ」の「鬼」のようにである。
「分裂病的状況」とは、まさにそのような、「捕食者」流儀の咎め、戒めの状況であるとも言える。そこで、たとえ無意識的にでも、「反省」して(つまり「怖さ」を知って)、柔順に「秩序」を重んずるようになれば、恐らく事態はそう悪化しないで済むことにもなろう。これは、たとえれば、人間が放牧する羊の群れからはみ出す羊を、牧羊犬を使って、群れに引き戻すようなものである。
しかし、時にそれでは効果を発揮しないほど、「捕食者」の「管理」に反抗的である場合もある。その場合には、捕食者の「攻撃」は休まることなく、とことんつき進められることになろう。言うことを聞かない羊が、特別に屠殺の対象になり、優先的に「捕食」されるようにである。
ここに述べたことは、既にみた、「ルシファー的」なものに対する「アーリマン的」な攻撃という観点からも、ある程度含みみることのできたものである。しかし、「捕食者」あるいは「管理者」という観点を正面に出してみることによって、よりはっきりしたものになる。
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