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2007年1月

2007年1月18日 (木)

「捕食者」(アーリマン存在)の限界性

これまで、「アーリマン存在」を特に「捕食者」としてきた。が、実際には、「精霊」「神々」などと呼ばれる「肉体をもたない存在」も、何かしら、人間から発せられるものをエネルギー源としているところがあるようである。

しかし、「アーリマン存在」は、以下にみるように、人間からエネルギーを捕食する必要が高く、また、そのために、組織的に人間を管理、支配すべく企てる。「肉体をもたない存在」の中でも、人間に対して特別な位置(密接な関係)に立つのである。その意味で、特に「捕食者」と呼ぶにふさわしいものだろう。

「アーリマン存在」は、直に接すると、「声」を通しても、間近にしても、強力な力や意志を感じさせ、威圧感がある。まずは、恐怖をもよおさせ、「ひるませる」ものがあるのである。しかし一方で、(それなりに長く伴にすると)全体に、一種の「陰り」というか、「生命力の欠如」のようなものがはっきり感じ取れる。それは、ある意味「弱さ」のようなものとしても感じられるが、しかし、その底無しの「闇」を連想させる「陰り」こそが、また、特別の「恐怖」を醸し出してもいる。

この点は、「ルシファー存在」と比べてもはっきりしている。「ルシファー存在」は、一種の「険」というか、皮肉めいた「毒気」はあるが、「生命力」にはむしろあふれている感じがある。「アーリマン存在」のような、深い「闇」を連想させるものはなく、その意味で、「嫌悪」はあっても、特別の「怖さ」があるわけではない。

シュタイナーも、「アーリマン存在」について、特に「闇の存在」という言い方もしているが、その意味では頷けるものがある。

そのように、「生命力」の欠如を感じさせる「アーリマン存在」だが、それが急激に、見るからに「活性化」し、「力」を発揮する瞬間がある。それは我々の「恐怖」の感情を前にしたときである。「恐怖」と言っても、何か対象のはっきりした客観的な恐怖というよりも、一種独特の「得たいの知れない」恐怖で、「観念的に止めなく膨らんでいく」性質の恐怖である。(「妄想」が止めなく発展していくことの基礎にも、この恐怖がある)

「アーリマン存在」は、直接には、この「恐怖」の感情、または、それを元に発する意識の雪崩のような反応から、大きな「エネルギー」を供給しているようである。その「恐怖」の感情を捕食すると、活性化して攻撃も勢いつくので、さらに恐怖も高まり、一種の相乗効果が生まれる。

しかし、一方で、この「恐怖」の感情が(何らかの理由で)止むと、それに伴って、その勢いも、一気に(はっきり驚くほど)弱まるのが感じられる。「エネルギー」の「蓄積」が効かないのか、そもそもこのようなものは、「エネルギー」としては、効率も悪く、それほど有効ではないものなのか、いずれにしても、「アーリマン存在」は、組織的に大掛かりに「捕食」する割には、ある意味で、慢性的に「欠如」した(飢えた)状態にあるようなのである。

既にみたように、そのような意味の「陰り」こそが、「恐怖」を生み出す元にもなっていることからすると、そのようなあり方は、この「存在」がそういうものとしてある限り、避け難いものなのだろう。

いずれにしても、この存在のあり方は、必然的に「寄生」や「依存」に大きく頼らなければならない訳で、それは、彼ら自身の限界を大きく露わにしていると言わねばならない。ウイルスは、寄生によってこそ生命を得るのだが、「宿主」を殺してしまうことは、彼ら自身にとっても存続の危機となる。それと同じようなことが、「捕食者」の人間に対する関係にも言えるはずなのである。

また、「アーリマン存在」は、自らの性向を押し広げて、「アーリマン的なもの」を周りに浸透させようとするが、それがとことん押し広められた場合、どのようになるかをみても、彼らの限界は明らかになる。

例えば、「アーリマン的なもの」が宇宙全体にもたらされたすると、宇宙そのものが、硬直した、変化のない、一種の「死」の状態を迎えることになろう。が、そこでは当然、彼ら自身の存続も不可能となる。熱力学の法則に、「エントロピーの増大則」というのがあって、宇宙は、いずれは「熱的死」(あらゆる差異の解消された、混沌たる状態)を迎えるとされるが、まさに、「アーリマン的なもの」の行き着く先は、そのようなイメージとなる。

分裂病状態においては、「世界が終わる」ということをリアルに体験する「世界没落体験」というのがあって、それは宇宙大に拡大されて、「宇宙の死」ともなる、ということを述べた。この「宇宙の死」も、この「アーリマン的なもの」の行き着く先といったイメージに、近いものがある。と言うよりも、実際に、この状態においては、一気にまた強烈に、「アーリマン的なもの」を被るために、その「アーリマン的なもの」が蔓延した行き着く先を、いわば「先取り」的に体感しているところがあると思われる。

さらに、人間世界のことに限っても、似たことが言える。「アーリマン存在」は、集団的なものを通して「アーリマン的なもの」を浸透させる訳だが、人間集団が全体として、「アーリマン化」されてしまえば、それは均質化され、生気を欠いた、まさに「ミイラ」の集団となる訳で、もはやそこから「エネルギー」を収奪することはできなくなる。

そこで、シュタイナーも言うように、「アーリマン存在」は、人間集団をいくつかの集団に「分裂」させて、互いに争わせることで、そこから生まれる「葛藤」や「闘争」のエネルギーを収奪しようとする。それは確かに、それなりに有効であろうし、実際に、現実はそのように動いている。

しかし、そのためには、「分裂」の元となる「差異」(例えば、「イデオロギー」、「民族」、「宗教」の相違など)や「多様性」が、常に活発に生み出され続けていなければならない。そこから収奪を続けるためには、彼らの性向がそれらを解消させるほどに強く推し進められることは、許されないのである。

<このように、「アーリマン存在」は、自らのあり方自体に、矛盾や限界を大きく秘めていると言わなければならない。そして、それは、「捕食者」という一見衝撃的な観点からみることによって、むしろ、より明白になるのである。

分裂病状態にある者が、これらの存在との接触を初めに意識するとき、何か途方もなく「得たいの知れないもの」として、あるいは絶望的に「かなわないもの」(完璧で弱点のないもの)であるかのように意識することになり易い。前に紹介した、モーパッサンの『オルラ』にも、この傾向は多分にみられた。そのようなことが、恐怖を止めなく膨張させる訳だが、その「恐怖」によってこそ、その「存在」もますます勢いづいて、ますます事態を発展させるのであることは、既にみたとおりである。

そのようなことは、「未知のもの」に触れた当初の体験としては、致し方ない面もある。が、その状態を無闇に続けることは、状況を破壊的にするだけで、望ましくない。

しかし、「捕食者」という観点から、むしろそれらの存在のあり方や「限界」がみえてくるとすれば、それは、そのような状況での恐怖の拡大を抑えることには役立つはずなのである。

また、分裂病状態で、大きな苦痛となるのは、必ずしも、そのような存在に取り巻かれたり、攻撃を受けることそれ自体にではなく、その理由や意味が分からないこと、つまり、全く「無意味」で「理不尽」なことに苦しめられていると感じることにある。

しかし、そのような一見「無意味」で「訳の分からない」攻撃も、彼らが結局は「捕食」のために行っていることが認識できれば、その受け取り方も大きく変わってくるはずである(「納得」とはいかなくとも、「理由」のあるものとして受け取れるだけで、かなり違う)。また、彼ら特有の「意味ありげ」な脅しや非難も、そのための「戦略」と認識できれば、「真に受け」て、振り回される必要はなくなる。「捕食」そのものは、確かに受け入れ難いことでもあろうが、その意図や目的が知れることは、負担や苦痛をかなり和らげることにつながるはずなのである。

そうは言っても、多くの者にとっては、そもそも人間に「捕食者」がいるということ自体が、受け入れ難いことでもあろう。しかし、本当は、人間が単純に食物連鎖の頂点にいて、「食う―食われる」の関係から独立していられるなどと考える方が、むしろ虫がよすぎる話なのである。もし、人間以外にも知的な生命があるとするならば、そのような存在もまた、人間に対して何らかの意味で「捕食」の関係に立つと考える方が、自然のはずである。

2007年1月12日 (金)

「捕食者」と「分裂病的状況」

これまで、ある「存在」との関係では、「アーリマン存在」という観点から、「分裂病的状況」についていくらかみて来た。そこでは、主に、「分裂気質」の者は、「ルシファー的」な傾向が強く、「アーリマン存在」を刺激し、攻撃を誘発し易いということが述べられた。それが、幻覚や妄想、錯乱などの反応を生む、「分裂病的状況」をもたらすということであった。

しかし、これを、「捕食者」(あるいは人間を管理、支配する者)という観点からみると、また少し違った面も見えてくる。

「捕食者」にとっては、まずもって人間は「捕食」の対象である。ところが、分裂気質の者には、通常の捕食の仕方がききにくいということがある。通常の捕食の仕方とは、既にみたように、「外来の装置」、「善悪の観念」、「信念体系」、「社会慣行」などでがんじがらめにして、「内省」や「葛藤」などの「意識の炎」を生み出し、それを食らうというものである。

ところが、これらは、「社会的」あるいは「集団的」なものをあまり重視しない分裂気質の者に対しては、必ずしも有効とは言えない。分裂気質の者は、「善悪の観念」や、「信念体系」、「社会慣行」には、それほど左右されないところがあるからである。

分裂気質の者は、「ルシファー的」な傾向が強く、「アーリマン的」な傾向に欠けるというのも、現に、「アーリマン的」なものにあまり侵されていないということ、つまり、未だ十分「捕食」されていないということである。

だから、分裂気質の者は、より「捕食」をそそる対象でありながら、通常とは違った、あるいはより強烈な仕方で、捕食されなければならない。それで、ある意味個別的に、その者を特別な状況に追い込んで、「捕食者」自らが攻撃を仕掛けるなど、殊更に強い恐怖と葛藤の状況を作り出すことが行われる。そうして、そこから生み出されるものを、このときとばかりに捕食するのである。その者は、当然、その後には、強いエネルギーの喪失感を伴うことになる。

つまり、「分裂病的状況」というのは、「捕食者」の「捕食」という観点から言うと、分裂気質の者に対する独特の捕食の仕方なのだということが言える

しかし、「捕食者」のもう一つの重要な一面は、「管理」と「支配」ということである。

これは「捕食」という目的と結び付いてもいるのだろうが、それ自体もまた、重要な目的として作用する面がある。分裂気質の者は、そのような「管理」や「支配」のシステムからはみ出し易いために、特別に「攻撃」の的になり易いということである

注意すべきは、「捕食者」の人間に対する管理、支配は、彼らにとっては決して「悪」ではないということである。それは、人間が家畜に対してそうするのを「悪」と思わないのと同じことといえる。そこで、彼らの管理や支配からはみ出すこと、逸脱することは、むしろ「秩序」を乱すことであり、「戒め」の対象でもあるということになる。

分裂気質の者に対する「捕食者」の攻撃には、そのような面もあると言わなければならない。

例えば、彼らが、「声」を通して言いかけてくることには、一見倫理的に、もっともらしいことも多い。「お前はとんでもないことをしたのだ」とか、「(何か恨みがましいことをした)彼はおまえのためを思ってやったのだ」など、強い調子で責め立てることがある。

その責め立てる調子は、毒々しく破壊的なもので、決して文字通りには受け取れない(取るべきではない)し、これは、先に見た「内省」と「葛藤」をもたらす捕食のやり方の延長上にあるものとも言える。が、それにしても、そこにある種の「倫理的」な含みというか、「戒め」的な意味合いが含まれていることも確かなのである。

実は、文化的伝統(特に非一神教的な文化)の中にも、「悪魔」的とみられる存在が、そのような秩序を乱す者に対する「戒め」の役割をしているものを見いだせる。日本では、「ナマハゲ」の行事がまさにそれを象徴している。

「ナマハゲ」は「鬼」の仮面をかぶった者が、子供に「泣く子はいないか 」「耳を食ってしまうぞ」などとと言って、脅かしながら、「悪いこと」をしないように戒める行事である。現在では、単純に大人の言うことを聞かせる役割を負っているのだろうが、元々は、一種の秘儀的な儀式で、実際に「鬼」の一面を表すものがあったと思われる。

そこでは、「鬼」は「秩序」を乱す者を恐れさせ、戒める役割をしている。

「鬼」は「異界」の存在であり、人間の世界の「外」にいるからこそ、その秩序を乱す者をよく監視できるのである。人間の側からみれば、「秩序」とは、「鬼」という外部的な「権威」によって守られているということであり、この儀式には、それをはみ出す者は、「鬼」の咎め、攻撃を受けるということの「知らしめ」の意味がある。ただし、その「秩序」とは、本来は、「鬼」の側にとっての「管理」「支配」に係っているのである。

また、これには、大人になるための通過儀礼の「イニシエーション」的意味合いもあろう。が、かなり低い年齢に対してのものであるところからすると、先に述べたように、子供の頃に、多くの者が出会うという「魔的な存在」との接触を儀礼化しているとも考えられる。あるいは、その接触の「先取り」的な意味があって、一種の免疫をつけさせ、実際の接触時のショックを緩和する意味合いがあるのかもしれない。

いずれにしても、そこにあるのは、たとえ「捕食者」によるのであっても、その「管理」「支配」とは、人間にとっても一つの既製の「秩序」なのであり、容易く乱されることは戒められなければならないということである。人間もまた、「捕食者」の「管理」する「秩序」に乗っかっているところがあるということである。その意味でも、人間が、本来「捕食者」を、容易に「悪」と呼べるはずはないのである。

分裂気質の者は、ある種意図的にか、あるいは知らずのうちにか、そのような「秩序」をはみ出すことになり易い。そこで、「捕食者」も放って置くことができず、恐怖に満ちた咎めや戒めを与えることにもなる。「ナマハゲ」の「鬼」のようにである。

「分裂病的状況」とは、まさにそのような、「捕食者」流儀の咎め、戒めの状況であるとも言える。そこで、たとえ無意識的にでも、「反省」して(つまり「怖さ」を知って)、柔順に「秩序」を重んずるようになれば、恐らく事態はそう悪化しないで済むことにもなろう。これは、たとえれば、人間が放牧する羊の群れからはみ出す羊を、牧羊犬を使って、群れに引き戻すようなものである。

しかし、時にそれでは効果を発揮しないほど、「捕食者」の「管理」に反抗的である場合もある。その場合には、捕食者の「攻撃」は休まることなく、とことんつき進められることになろう。言うことを聞かない羊が、特別に屠殺の対象になり、優先的に「捕食」されるようにである。

ここに述べたことは、既にみた、「ルシファー的」なものに対する「アーリマン的」な攻撃という観点からも、ある程度含みみることのできたものである。しかし、「捕食者」あるいは「管理者」という観点を正面に出してみることによって、よりはっきりしたものになる。

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