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2006年12月15日 (金)

ドンファンの「捕食者」論について

注)最も詳細かつ適切な説明をしているドンファンの「捕食者」論を、その言葉とともに紹介するものです。(3回にわたって)

カスタネダの師ドンファンも、カスタネダに対し、一種の「魔的」な存在である、「捕食者」について述べている。これは、古代メキシコの「知者」にとっても、「主題中の主題」とされた問題だという。カスタネダは、それを、遺作である『無限の本質』(二見書房)で、初めて正面から取り上げている。

それまで、カスカタネダは、正面から述べることを憚ったということも考えられる。が、恐らく、自分でも、これをうまく自己のうちに取り込むことができなかったというのが、本当のところだろう。

実際、ドンファンの「捕食者」論は、容赦のない厳しい仕方でカスタネダに語られる。カスタネダは、その間ずっと、「吐き気」に襲われたという。

「捕食者」と言われるが、それは、人間を組織的に管理・支配して、人間から意識(生命)のエネルギーを収奪している存在という。まさに、モーパッサンが『オルラ』で言うように、人間が家畜を食用として飼うように、人間を「飼う」者といえる。また、我々が普通「心」と言っているものは、実は、人間の本来のものではなく、「捕食者」が人間に戦略上与えたものという。それは、人間に葛藤をもたらし、愚かで柔順な状態にさせておくことで、自己の支配下に置くための「装置」とされる。

このように、ドンファンの「捕食者」論は、シュタイナーと比べても、かなり過激で容赦のない表現に満ちている。

それは、シュタイナーの場合とは違って、直接師と弟子の間で、修行の過程を通して授けられた個別的な「教え」であることにもよろう。それは、当然、より率直で、直截な表現で語られることになる。さらに、シュタイナーのように、多くの者に「危険」を回避したうえで進むべき道を示したものではなく、資質のある者に、「危険」を当然の引き換えのうえ、直接授けられたものということである。それで、その「危険」の面が、より直接に表に出てくることにもなる。

さらに言うと、カスタネダは、シュタイナーの性向でいえば、多分に「ルシファー的」な傾向が強いとみられる。好奇心は強いが、尊大で意固地な面も強く、なかなか自己の見方を変えようとはしない。また、ドンファンが、「お前はまだ本当には打ち負かされたことがないのだ」と言うように、根本的なところで、「自己を超えたもの」の衝撃を受けたことがないようである。

それで、ドンファンは、このときに限らず、体験させようとする領域について、ことさら死や恐怖を強調することが多く、カスタネダに対し、より強い効果(衝撃度)を狙っているところがある。ここでも、カスタネダに、あえて、「アーリマン的なもの」を強い衝撃のもとに体験させようとしているようなのである。

そのようなことから、ドンファンの「捕食者論」は、率直ではあるが、過激な表現にも満ちている。しかし、その内容は、決して誇張と言うことはできない。本来の「アーリマン的なもの」の衝撃が、より生々しい形で伝えられているのは確かだし、全体としてみれば、シュタイナーの論とも十分整合するものがある。また、直接対話を通して語られたものだけに、より生き生きした魅力や訴えかける力がある。

さらに、後にみるように、それを脱する方法としても、より厳しいものを提示しているのだが、こちらの方に、より魅力と可能性を感じる人もいるかもしれない。

そこで、以下、なるべくドンファンの言葉を引用して、ドンファンそのものに語らせるような仕方で紹介して行こうと思う。ただ、できるだけ、シュタイナーのものと照らし合わせながら、検討していくことにしたい。

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