ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道
「捕食者」が、人間から、具体的にどのような「エネルギー」を「捕食」するのかについては、概ね次のようなことが言われる。
幼児期の人間を、呪術師が(霊的に)見た場合、卵形のエネルギーの塊の上に、意識の光る上着のようなものを被っている。この「意識の光る上着」は人間に特有のもので、これが「捕食者」の格好の「餌」になる。多くの者は、大人になる頃には、これが、地面から足の指の上くらいまでしか残っていない。それでも、生きてはいけるが、かろうじて生き続けられるというに過ぎない。
まさに、多くの大人は、「意識」あるいは「生命力」を枯渇されて、ほとんど機械的に生き続けるだけの存在に化しているということである。シュタイナーで言えば、「アーリマン存在」によって、「アーリマン化」(「ミイラ化」とも言われる)されているわけである。
しかし、「捕食者」の収奪はそれに止まらない。
この意識の細いへり(足の上までしかないという「意識の光る上着」)は内省の中心であり、人間はそこに逃れがたくとらえられている。捕食者はわれわれ人間に唯一残されている意識の部分である内省につけ込み、意識の炎を作り出して、それを捕食者特有のやり方で冷酷に食い尽くしていく。彼らは、これらの意識の炎を燃え上がらせる無意味な問題をわれわれに与える。われわれの擬似意識のエネルギーを餌として食べ続けるために、そうやってわれわれを生かし続けるのである。 (276頁)
「内省」によって燃え立たされる「意識の炎」とは、要するに、我々の日々の「悩み」や「葛藤」ということである。それが捕食者にとって、常に補給される「エネルギー源」になる。そこで、それは「外来の装置」、「善悪の観念」、「信念体系」、「社会慣行」などによって、決して絶やされることのないように仕組まれている。実際には、「無意味」のものであるにしてもである。
あるいは、このようにして、人が「内省」につけ込まれて、「冷酷に食い尽くされて行く」様は、「鬱」に追い込まれて行く状況を思わせる。また、このような「葛藤」というのは、シュタイナーの「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」という二種の対抗的な「心」から言っても、逃れ難いものであるのが分かる。
ドンファンは、そのようなあり方から逃れるには、彼らに「触れさせない」ようにするための、一種の「修練」しかないと言う。但し、修練と言っても、何か機械的な修行や日課が問題なのではない。それは、端的に言うと、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かって行く能力」ということである。しかも、それは「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」ことから来るものと言う。つまり、それは、日々の争いや葛藤を生み出す「外来の装置」を、更に発達させるような方向での「強さ」とは、無縁なのである。
具体的には、まずは、まさにその、「日々あらゆることをする」とされる「外来の装置」を脱する(「逃走」させる)ことが目指される。「外来の装置」を「逃走」に追い込むのは、次のように、「内的沈黙」によるとされる。
彼らは発見した―飛ぶ者(捕食者)の心を内的沈黙で責め立ててやると、外来の装置が逃げ去って、それにより、この策略に関わっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信が得られることをな。断っておくが、外来の装置は戻ってくるんだぞ。だが、以前ほど強力ではない。そして、飛ぶものの心の逃走が慣例化するプロセスが開始し、とうとうある日、永久に逃げ去ったままになる。 (280頁)
「内的沈黙」というのは、「内的対話」の「停止」であり、それによって生み出される「静寂」の状態である。「外来の装置」はあらゆることを「する」ことに関わっていて、また、常に一種の「自己内対話」(思考)を通して、それ自身を維持し続けている。「内的沈黙」というのは、要するに、これらを止めることを意図するものである。それは、「すること」に対して、「しないこと」とも言われる。一般的には、「瞑想」というのと同じ状態と言ってよい。
「内的沈黙」によって、「静寂」の状態に至ると、それまであったはずの「外来の装置」(騒ぎ立てる心)は、嘘のようになくなっており、それは、本来外から来たものということが確信できる。(つまり、それを脱し得るということが実感できる。)しかし、そのような状態は、初め一時的なもので、「外来の装置」もすぐ戻ってくる。しかし、そのようなプロセスが繰り返されることによって、「外来の装置」は以前ほど強力に支配しなくなる。そして、いずれは、それが永久に逃げ去ったままになるというのである。
しかし、その日は、ドンファンによれば、
実に悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるを得なくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすれはいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。……なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。
わしの個人的な見解を言わせてもらえば、本当の闘いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備に過ぎん。 (281頁)
要するに、「外来の装置」が逃げ去るということは、それまで日々それに頼っていた我々の「心」そのものを失うということである。その日以来、「あてにならない」「本来の心」で「世間の荒波」を乗り越えなければならない。そればかりか、捕食者に触れさせないことによって、「餌」である「意識の上着」は元のように回復している。以後、そのような、いわば格好の「御馳走」をぶら下げたまま、捕食者の前に生身を晒さなければならないのである。捕食者の攻撃、収奪は、当然以前より強いものとなるのが必至である。
ドンファンが、「本当の闘いがそこから始まる」というのは、十分頷けるものである。そして、その闘いにおいては、結局は、「ひるむことなく立ち向かうこと」、「畏敬の念に満ちていること」しか手立てはないというのである。
このように、ドンファンの行き方は、捕食者の心である「外来の装置」を「脱する」、「抜け落とす」という方向が顕著に現れている。また、かなり厳しい要求を課すものでもある。これは、それを受け入れつつ均衡を図るといったシュタイナーの行き方とは、かなり異なると言わなければならない。
しかし、シュタイナーも「初めに絶対的静寂を体験するのでなければ、真に霊界を認識することはできない」として、瞑想や集中の重要性を言う。「均衡」というのも、そのような「静寂」を基礎にして、築かれるものと解することができる。
一方、たとえ「外来の装置」が逃げ去ったとしても、「均衡」ということができてない状態で、以後やっていけるものかどうかは疑わしい。また、「外来の装置」の逃走といっても、一気になし得るものではなく、プロセスの最後に達成されるものであるとすれば、「均衡」ということを、一時的なものから恒常的なものへと高めていく行き方と、「見かけ」ほど違うものではないとも言える。
また、確かにドンファンでは、「捕食者」の心を「脱する」「抜け落とす」という方向が強く打ち出されてはいるが、それは、決して単純に、捕食者を「受け入れ」ずに、反発したり、拒否することを意味するのではない。それは、次のような、「捕食者」が宇宙の中でどのような位置にあるかについてのドンファンの言葉にもはっきり表れている。
飛ぶ者(捕食者)は宇宙の本質的一部だ。彼らをありのままに、そう、恐ろしい奇怪なものとして受け取らねばならん。彼らは宇宙がわれわれを試すための手段なのだ。われわれ人間は宇宙によって造られたエネルギー探測装置だ。われわれは意識のあるエネルギーの所有者なので、宇宙はわれわれを道具につかって自分自身を認識する。飛ぶ者は執念深い挑戦者だ。そうとしかとりようがない。彼らをありのままに受け入れることができれば、宇宙はわれわれに存続するのをゆるしてくれる。
(287頁)
要するに、本質的なところでは、そのような存在も、宇宙的意義のあるものとして、ありのままに「受け入れる」(しかない)という点は同じである。ただ、そのうえで、目指す方向としては、それを「脱する」ということが明確に維持されているのだと言える。
「分裂病的状況」を経験した者にとっては、「捕食者」の衝撃、恐怖は体験上痛切なもので、その執拗な攻撃から逃れたいという動機づけも持ち易い。その意味で、シュタイナーの「均衡を図る」という行き方より、ドンファンの「脱する」という行き方の方が、より納得し易く、現実的と言える面も多いのではないかと思う。
ただし、既に述べたように、ドンファンの場合は、あくまで「個人的な指導」ということが前提になっているのは看過できない。それによって、そのような方向を打ち出すことが可能になっている面は大きいのである。
私も、「分裂病的状況」を体験している当時、自分の体験していることが、カスタネダの体験していることと驚くほど近いことに気がつくことになった。それは、体験の理解に向けての大きな手がかりにもなった。しかし、それが分かってからも、絶望的な気分とともに、何度も漏らさざるを得なかった言葉がある。それは、「カスタネダは、ドンファンがそばにいたからこそ、耐えることができたのだ…」というものだった。(結果的には、なんとか一人で耐えたことになるのだろうが、当時は限界と感じたことが何度もあった。)
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