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2006年12月21日 (木)

ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」

カスタネダにとって、師ドンファンは、恐ろしくもあり、自己の卑小さを感じさせるので、決して心地よい存在ではない。それで、カスタネダは、ドンファンから離れようという思いを抱くが、かすかな内心の「声」が「お前はドンファンのもとに止まるべきだ」というのを聞く。ドンファンはそれを察したかのように、「二つの心」の葛藤ということを語り出す。

(以下、引用はカルロス・カスタネダ著『無限の本質』二見書房より)


人間は誰しも二つの心をもっている。一つは完全にわれわれ自身のもので、かすかな声のように、絶えず秩序と、率直さと、目的意識とをもたらしてくれる。もう一つの心は<外来の装置>だ。それはわれわれに葛藤と、自己主張と、疑惑と、絶望とをもたらす。
                       (19頁)

(二つの心の)一つは、われわれの全人生経験の産物である本当の心だ。それはめったに話しかけてくることはない。なぜなら、敗北して暗い場所へ追いやられてしまっているからな。もう片方の、われわれが日々あらゆることをするのに用いる心は、<外来の装置>だ。                                 (22頁)

「外来の装置」とは、外から「与えられ」または「植えつけられた」心ということである。それを「装置」というのは、ある支配的なシステムを維持する働きをするからである。そのような心が、「日々あらゆることをするのに用いられる」というのだから、実際上、その「外来の装置」こそが、われわれを「乗っ取って」いるのに等しいことになる。

「心の葛藤」というのは、誰しもよく知るものである。しかし、この「二つの心」の葛藤を、本当の意味で知っているのは「呪術師」だけだと言う。呪術師は「痛ましいまでに、絶望感とともにそれを意識している」と言うのである。

そして、あるとき、この人間に葛藤をもたらす「外来の装置」と呼ばれる「心」が、どこから来たのかが明らかにされる。

われわれには捕食者がいる。そいつは宇宙の深奥からやってきて、われわれの支配権を乗っ取った。人間はそいつの囚人だ。その捕食者は、われわれの主人であり支配者なのだ。われわれ人間を飼い馴らし、従順で無力な生き物にした。たとえわれわれが抗議しようとしても、そいつが抑圧してしまう。われわれが独立して行動したいと思っても、そいつがそうするなと要求する。」「実際わしらは捕虜になっているのだ!これは古代メキシコの呪術師たちにとって<エネルギー上の事実>だった。                  (272頁)

カスタネダが、何で「捕食者」が人間を乗っ取ったのか、そんな話には説明が必要だと反発すると、


説明ならあるさ。単純この上ない説明がな。やつらが乗っ取ったのは、わしらがやつらにとって餌だからだ。わしらが栄養物だからといって、やつらは無慈悲に搾り取る。われわれ人間が鶏舎で鶏を飼育するように、捕食者どもは人舎でわれわれを飼育する。そうしておけばいつでも食い物が入るって訳だ。
                           (273頁)

カスタネダが憤慨していると、その「理性」に訴えるべく、次のように説明を続ける。

事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらよいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢とを仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪と臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足に陥らせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ。

カスタネダが、なぜそんなことが可能なのか、眠っている間にそういうことを耳の中にささやくとでも言うのか、と反論すると、

やつらはそれよりはるかに有能で組織的だ。われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいというのは、もちろん喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい聞いているのか?捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、いまにも発見されてしまうのではないかという恐怖に満ちている。
(274-5頁)


このようにして、「外来の装置」とは、「捕食者」と呼ばれる外部的存在によって、戦略上与えられたものであることが明らかにされる。この後、ドンファンは、この「捕食者」について現実に知らしめるべく、カスタネダに実際に体験させる。それは当然、恐怖に満ちた恐ろしいものとなるが、そのうえで、「外来の装置」を脱することを促していくのである。

この「外来の装置」にしても「捕食者」にしても、かなり衝撃的なものがあるといえる。しかし、「外部的な存在」によって植え込まれた「心」というのは、シュタイナーの「アーリマン的なもの」や「ルシファー的なもの」といった「逸脱的存在」によって「植え込まれた心」と重ねてみれば、もはやさほど特異とも言えないだろう。

また、現代は、「多重人格」にはっきり象徴されるように、人間に「一つの心」しかないという発想を維持する方が、難しい状況になっているとも言える。現代人は、常に「憑依」されているかのように、多様な「心」によって突き動かされているところがある。その意味でも、この「二つの心」の葛藤というのは、さほど受け入れがたいものではないはずである。

ただ、ドンファンの場合、それが管理と収奪のための「戦略上」のものであることをはっきり打ち出している点が、特異と言えば特異なのである。

何しろ、カスタネダも、これらの存在について聞いたときは、とても受け入れ難く、強い抵抗を示すことになる。そこでドンファンに、いくつか率直な疑問をぶつけるが、それに対するドンファンの答えは明解である。

「捕食者」については、さらに興味深いことが語られる。


この捕食者は当然ながら非有機的存在なのだが、ほかの非有機的存在と違って、われわれに全く見えないというわけではない。わしが思うに、みんな子供の頃にそいつを見て、あんまり恐ろしいものだから、それについて考えるのを止めてしまうのだろう。もちろん子供はその光景を見つづけると言い張ることもできるが、周囲のみんなが説得して止めさせてしまう。
                     
(279頁)


「捕食者」も、肉体を持たない「非有機的存在」の一種だが、人間に完全に「見えない」わけではないという。これは、他の「存在」と比べて、「人間」あるいは「物質的なもの」と近いところに「存在」しているということであろう。「霊界」というよりも、この感覚界と霊界とのまさに「境界」に存在しているとも言える。この点も、シュタイナーと同様で、この感覚界を超え出ようとするときには、いやおうなく、このような存在と出会われる可能性があることになる。

また、子供の頃には、多くの者がこのような存在について、見たり、知る機会があるが、恐怖のため、その後抑圧されて行く、というのも興味深い。実際、子供の頃に、何かしらこのようなものを「見」て、恐ろしい思いをしたという話は、よくある。(私も、小学生の頃、いわゆる「金縛り」を通して、後には、「アーリマン存在」そのものと分かるものに出会って、恐ろしい思いをしたことがある。)

これは、子供というのは感受性が強いから、このような存在が、人間の身近にいるのだとすれば当然のこととも言える。しかし、彼らからすれば、このような「接触」には、潜在的な恐怖を植え込んでおくという、意図的な意味合いもあるかもしれない。

つまり、彼らが、人間に対する影響力を発揮するには、表だって「知られる」よりも、「知られていない」方が都合がいいのは確かだろう。が、かと言って、全く何も「知られない」のでは、単に疎遠ということであって、影響をもたらすことにはならない。何らかの接触により、潜在的に恐怖を植え込むことによって、無意識レベルで影響を与えるのが、最も効果的なやり方とも言えるからである。(現代は、まさに彼らにとって、そのような都合のよい状況が整えられていると言える。)

ところで、この「捕食者」というのは、シュタイナーのように、特に二系統に区別されてはいない。あるいは、ドンファンは、必ずしも個別的な存在ではなく、ある一群の存在を「捕食者」と捉えていたとも考えられる。

しかし、シュタイナーの区別に照らすならば、これは、「アーリマン存在」に当たると思われる。「ルシファー存在」もまた、人間に対して一種の支配者的立場に立っているのは間違いない。しかしここでの説明、特に「知的」な狡猾さや戦略によって、人間を支配するという点や、カスタネダが接触する体験の衝撃性(死をもたらすこともあるという攻撃性や破壊性)は、「アーリマン存在」にこそ当てはまる。また、後にみるように、人間から生命力を「捕食」(収奪)する「必要」という点から言っても、直接には、「アーリマン存在」が目されているとみられるのである。

それにしても、シュタイナーでは、これらの存在の説明に、「捕食者」的な面が表に出てくることはないから、「捕食者」という言い方は、やはり異様なものがあるかもしれない。

しかし、シュタイナーでも、「アーリマン存在」が、「ルシファー的なもの」を「刈り取る」と言ったが、それは「結果」としてそうなるということであって、「アーリマン存在」の側からみれば、それは一種の生命力の「収奪」ということにもなる。また、「アーリマン存在」によって、人間に「アーリマン的なもの」(干からびたもの、死や破壊に結び付く硬直性)がもたらされるというのは、人間から生命的なものが収奪されるからこそと言える。このように、シュタイナーの説明にも、表に出ないだけで、「捕食者」的な面は組み込まれていると言えるのである。

さらに言えば、「捕食者」的であるということは、決して単純に、人間に対する支配力が強いということではない。それは、逆に言えば、人間に「依存」し、あるいは「寄生」しなければならないということであって、むしろ限界のようなものを露わにさせる面もあると言わねばならない(この点は、後にさらに詳しく述べる)。

いずれにせよ、シュタイナーの「アーリマン存在」、「ルシファー存在」にしても、ドンファンの「捕食者」にしても、何か人間とは縁遠い、異質で怪物的なものを連想させる、「魔」とか「悪魔」というイメージとは、掛け離れているのは確かである。実際には、人間と非常に身近なところで、密接に結び付いて存在しているのであり、ある意味では、人間の「生みの親」であり「育ての親」とも言えるものなのである。(実際、彼ら自身はそのように思っている節がある)

むしろ、そのような、現実的な、あまりの「身近さ」こそが受け入れがたいために、文化的には、異質さや滑稽さを強調する「魔的」な色付けがなされて来たとも言える。そうして、つい間近には、そのような奇怪で非現実的なものは、「迷信」という名の下に、捨て去るのがふさわしいとされたのである。

さて、「吐き気」に襲われつつも、「捕食者」の存在自体については、疑うことのむつかしくなったカスタネダは、それにしても、「古代メキシコの呪術師にしろ、現代の呪術師にしろ、捕食者を見ておきながら、なぜ何も手を打とうとしないのか」という疑問をぶつける。それに対するドンファンの答えは次のようである。

それについては、おまえにしろ、わしにしろ、手の打ちようがないのだ。せいぜいわれわれにできることといえば、自分自身を鍛錬して、やつらに触れさせないようにすることぐらいだ。しかしお前は、自分の同僚にこうした過酷な鍛錬をしろと要求できるか?みんな笑い飛ばして、おまえを慰み者にするだろう。なかには喧嘩っ早い者もいて、おまえを叩きのめすかもしれん。それも、その話を信じないからではない。どの人間の奥底にも、捕食者の存在について先祖伝来の本能的な知識があるのだ。
(276頁)

確かに、子供の頃に、必ずしも「接触」していなくとも、我々は誰しも、「心の奥底」では、捕食者の恐怖を「知って」いると言わねばならない。

私も、「慰み者」にはなりたくないが…、次回は、そのような「捕食者に触れさせないようにする」という「鍛錬」について述べよう。

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コメント

ティエムさんおはようございます

感想ですが、自分の本当の気持ちってなんだろうってことです。
相手の行為や言葉をそれがどういう時に使われるかというパターンまで記憶して
それがパターンにあったときに再び自分の心の中でその言葉や行為なりが想起された時、
それは自分の心の一部なのでしょうか。むしろ、それは「記憶」の一部なのかもしれません。
私はそのこともあって、矛盾する思いを持つことがあります。外来の心とは、
心の奥から湧き出す思いではなくて、頭から湧き出す記憶なのかもしれません。
自分の記憶と心を混同することがある。どれが自分の心から生じたものなのかわからない
という思考をします。だから、私は「選択」して内なるものを外に表現するだけの「力」を認めた
思いが自分の思いなのではないかなあって思ってます。身体行為のほうもそうです。
まだまだ未熟で怠惰な私ですけどね。

最近、主の声を聞きたいと念じていたところ、隣人ぶった幻聴が現れました。
しかし、「敵意を受けとめられるようになろう、許せるようになろう」と念じたところ、いなくなったようです。 キリストは十字架にかけられても、全ての敵意を受け止めて、許すことができた人でした。
ルシファーとアーリマンの中庸の道、つまりキリストの道を選べば幻聴への対抗になるのかもしれません

のめーるさん、ありがとうございます。

記事『オショーのカスタネダ評』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-4809.html )でも述べたように、この「捕食者」に関するドンファンの言葉は、私の一連の体験で身近に接して来た「存在」について、最も的確な説明をするものです。それは、シュタイナーの「アーリマン存在」以上のもので、現在でも、これほど的確な説明を、正面から端的にするものはないはずです。

また、「魔」や「悪魔」のような存在として、このような存在を認める人は結構いるかもしれませんが、「捕食者」という捉え方をする人は、現在もほとんどいないでしょう。しかし、それこそが重要な視点なのだと、改めて感じます。

「記憶」が「心」となるのかという疑問は、もっともなことと思います。そして、そこに、「捕食者」がからむ場合、単に客観的な「記憶」というよりも、「マイナス感情に彩られた記憶」、あるいは「虐待的な記憶」(トラウマ)が、力をもったものとして、「外来の心」を形成する元になります。

さらに、ドンファンの言葉にあるように、子供の頃には身につける、「信念体系」、「善悪の観念」、「社会的な慣行」など、「この世」的な見方のほぼすべてが、「外来の心」を形成する元になります。「自我」といわれるものの内容をなす、ほとんどのものが、「外来の心」となるわけですね。そして、それこそが、「捕食者」の支配する「社会」では、適応の基盤になるわけです。

ただ、自閉や統合失調に限らず、「精神の病」とされる者のかなりの者は、このような「外来の心」を身につける度合いが少なく、「本来の心」をより持ち合わせているといえます。それで、人並み以上に葛藤も強く、社会への適応も難しく、また、「外来の心」を強く持つ者からは、いじめや虐待の対象になりやすいということがあります。多くの者は、そのような「外来の心」の攻撃にさらされた場合、それに染まるという形で、自らも、「外来の心」を身につけることになります(つまり、「同じ穴のムジナ」になる)。ところが、それでも、「染まらない」者は、さらに、社会からはみ出して、「精神の病」という形で、「心」が「壊れて」しまうことになりやすいのです。

ですから、この「社会」の中で、「精神の病」に陥らずに、「外来の心」を脱するということは、至難の業と言えそうですね。

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