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2006年12月 8日 (金)

「分裂気質」と「均衡」という行き方

「分裂病的状況」に陥った者にとっては、シュタイナーの「均衡」という行き方は、特に示唆的なものがある。「分裂病的状況」こそ、そのような「均衡」が、いやがうえにも図られる、一つの機会と言えるからである。

前に、分裂病的状況に陥り易い「分裂気質」というのをみた。繊細で感受性が強い、社交性に欠ける、自我あるいは主体性の強さに欠ける、などの特徴があげられた。これは、これまでみた性向で言えば、「ルシファー的」な傾向が強く、あるいは「アーリマン的なもの」が希薄ということである。

「ルシファー的」な傾向が強いというのは、分裂気質というのが、「虚弱」なイメージだとすれば、意外なことかもしれない。しかし、これは、本来、純粋で生命力にあふれた面をもつ反面、周りを気にせず、自分を意固地に通すところがあるということである。「純粋」で「ナイーブ」な面は、「虚弱」に通じるかもしれないが、本来は生命的なパワーと、そう簡単には自分を曲げない意固地さを持っているのである。これはまた、先にみた、「永遠の少年」とも多くの点で重なる。

「自我や主体性が弱い」というのは、集団や他者との関係での、一種の「適応力」とか「対応力」という意味では、確かに当てはまるものがある。が、もともと、ルシファー的な「自我感情」や自己への拘りは、強いのである。ただ、他者や集団との関係では、そのようなことが、「奔放さ」や「わがままさ」として現れ(受け取られ)易く、反発や葛藤の元になり易い。また、「アーリマン的なもの」が欠けているため、そもそも、基本的なところで、集団にはなじみにくいのである。

(ただし、「ルシファー的」な傾向が強いというよりも、「アーリマン的なもの」が欠けているといった面が強い場合は、見るからに「虚弱」なタイプというのもあるだろう。その場合には、ここに述べることは必ずしも当てはまらないかもしれない。)

いずれにしても、それは「均衡」という点から言えば、一種の「偏り」の状態には違いない。

そのような者が、分裂病的状況に陥るときというのは、様々な問題や葛藤のために、そのような「傾向」が、より強まって、押さえが効かなくなっているときと言える。あるいは、むしろ、普段は抑えられていた、本来のそのような傾向が、ある機会に「爆発」するときと言える。たとえば、「ルシファー的」な尊大さや奔放さで、止めなく突っ走ったり、「アーリマン的なもの」(集団的なもの)に対する反発が爆発するときなどである。

いずれにしても、そのように「過剰」に「ルシファー的なもの」が高まった状態は、「アーリマン的なもの」あるいは「アーリマン存在」の攻撃や反発を強く誘発することになる。

先に、「永遠の少年」のところでみたように、このような者が何かしようとするときに、「引き落とす」役割をするのは、まさに「アーリマン的」な者といえる。ところが、また「ルシファー的」な者も、本来無頓着というか、簡単には「めげない」生命的なパワーがあって、そう簡単には「やられきって」しまうことがない。ほとんど、何事もなかったかのように、やり過ごされてしまうことも多い。

それで、日常的に起こり得るような、そのような事柄が、すぐさま「分裂病的状況」をもたらすというわけではない。むしろ、「分裂病的状況」に陥るというのは、やはり、よほどその攻撃が、強烈で、手に負えないものにまで化しているということ、しかも、それが、はっきり「見える」ような形ではなく、いわば「背後」から(「見えない」形で)なされ、理解しがたいものと化しているということなのである。

分裂気質の者も、そのような事態に至って、初めて真に意識をとらえられ、また恐れをなすに至ったということがいえる。そして、そこまでのものというのは、多くは、人間の内部的なものに止まらず、「アーリマン存在」そのものの関与によると思われるのである。

何しろ、そのように強烈な、(また人間的な理解を越えた)「アーリマン的な攻撃」にさらされて、自我又は意識をも巻き込まれると、さすがに、事態は「分裂病的状況」として、「病的」な現れを示すことにもなる。すると、そこでの反応は、先にみたように、それまでの「ルシファー的」な傾向からは信じがたいほどに、極端に「アーリマン的」なものとなって現れもする。(恐怖に取り付かれたような態度、画一化された「妄想」や「細部への拘り」など)

しかし、シュタイナーは、一般に、「ルシファー的なもの」に対する「アーリマン的な攻撃」は、結果的に、過剰になったルシファー的なものを、「刈り取る」役目を果たすということをいう。つまりは、「均衡」を図ることの一作用となるということである。

(ただし、シュタイナーでは、「輪廻転生」ということが当然の前提なので、その結果というのは、来世越しに現れる場合も想定されている。進化史的観点からも分かるように、非常に、大局的な観点に立っているのである。)

「分裂病的状況」の場合、確かに、事態はそう一筋縄で行くものではない。しかし、元々「ルシファー的」な傾向が過剰であった場合、「アーリマン的なもの」の強い作用を受けて、それが打ち砕かれることは、修正の機会に通じ得るというのは、確かだと思われる。その過程で、多くの紆余曲折を経るのは間違いないとしてもである。逆に言えば、「ルシファー的」な「思い上がり」や「強情さ」のようなものを、修正し得るものなど、「アーリマン的な力」を除いて外にはないともいえるのである。

また、潜在的に、「アーリマン的なもの」に対する理解や受け入れが欠落しているような場合、「アーリマン的なもの(存在)」に取り巻かれて、その衝撃を受けることは、それを通して、いくらかでもそれを知り、理解していくことの大きな機会にはなり得ると思う。

しかし、もちろんだが、そのような状況において、ただ恐怖したり、混乱したり、防衛反応としての妄想に走るなどの反応に終始するだけでは、(少なくとも意識レベルで)修正の機会に結び付けることなど、期待できるものではない。それは、単に薬物などによって、「治療」すれば足りる、とすることでも同じである。

やはり、基本的には、これまでずっと述べて来たように、そのような事態が、まずは「未知のもの」であること、そしてさらには、ここでいうような、「アーリマン的なもの」であることを認識することが、前提として欠かせないと言うべきである。

注意すべきは、「ルシファー的なもの」も「アーリマン的なもの」も、本来人間を超えたところから来たものであり、それが純粋に発現するところには、ある種の「カリスマ性」があるということである。それは、人を魅惑する面があり、また容易には逆らい難いものを醸し出すのである。(新興宗教やカルトなどの教祖には、よくそのようなタイプがみられる。典型的な例を挙げれば、元オウムの麻原は、まさに「アーリマン的なもの」を体現するタイプといえる。)

分裂気質の者も、「ルシファー的」な「魅力」を発揮しているときには、それで「押し通せる」ところがあり、その分、それで突っ走り易く、均衡ということは図り難いのである。

それは、逆に、「アーリマン的なもの」を体現している者にとっても言えることである。彼は主に集団の中で、ある種の畏怖のもと、不思議なリーダーシップを獲得していく。それは、個人的な感情に左右されない「冷徹」なところが、むしろ信頼を呼び易いことにもよろう。が、またそれは、多くの者の内部にある「アーリマン的なもの」の一種の「共有」によっても成り立っている。(分裂気質の者が、最も「異様」と感じるのがこれであり、そこから「はみ出す」元ともなる。さらに、これは、一種「グル」になっているとか、「組織(的な力)によって迫害される」と感じさせる元にもなる。)

分裂気質の者もまた、「アーリマン的」な者に対しては、反発だけでなく、(自己にないものの)魅力や畏怖を感じることが多い。しかし、彼は、その集団が共有しているところからは、はみ出し易く、疎外されることになり易い。そして、それが葛藤や「分裂病的状況」の引き金にもる。具体的な人間関係で言えば、そこには、「アーリマン的」な者と「ルシファー的」な者との、一種の対決というか、葛藤がある訳だが、それはまた、「ルシファー的」な者だけでなく、「アーリマン的」な者にとっても、一つの修正あるいは均衡の機会となり得る可能性がある、ということは言えるだろう。

このように、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」は、互いに対抗しつつも、また互いに、「均衡」を促す働きをもなしているといえる。「分裂病的状況」というのも、また、大局的には、そのような一場合として、みることが可能ということである。

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コメント

この記事の前後5〜6記事を拝見させていただき、感想を話したくなり書かせていただきます。それにしても今から15年も前の記事なのですね。
私も、かれこれ20年以上前、統合失調症と診断され2年ほど精神病院に入院していました。今では家庭を持ち、定職にもつかせていただいています。
記事を拝見して、私の体験したことはまさにアーリマンとの直面であったのだとよく理解することができました。私の場合、学校を卒業して2年ほど経った頃入院しました。学生時代の私は今思えばルシファー的性格だったと思います。それが社会に出てアーリマン的な存在に直面し恐怖を覚え、自信を喪失していきました。たぶん当時は何に怯えていたのかさえ理解できていなかったと思います。
私の場合、退院後自分で内服薬を徐々に減らしてゆきました。その後、精神分析家の書物と出会い、メラニー・クラインの対象関係論から白か黒に分ける二分化の思考ではなく、グレーも認めるのが成熟した思考であることを学び、大きく回復へと向かったように感じています。
記事を拝見して、それはまたルシファー的性格とアーリマン的性格の中庸を行くこと、どちらかを取りどちらかの側につくのではなく(それを最も恐れて前に進めず病の状態に留まる人も多いように思いますが)、ルシファーでもなく、アーリマンでもなく「私」の思考を身につけることにつながったように思いました。
ルシファー的に感動しています。(笑)
いずれにせよ大変整理され、現実の病への深い洞察と回復への示唆へと結びつけておられる思考力に敬服いたします。

コメントありがとうございます。

「社会に出てアーリマン的な存在に直面し恐怖を覚え、自信を喪失していきました」というのは、私もよくわかります。この社会は、アーリマン(宇宙人で言うならば、レプティリアン)の牛耳っている社会で、アーリマン的なもので成り立っていますからね。こちらも、潜在的にそのような恐怖をすでに抱いていることも大きな理由なのですが、社会に出た時には、そのことを意識させられるような体験を、何がしかしてしまうものです。特に、ルシファー的なタイプは、反感を買いやすく、攻撃の対象にもなり易いです。私は、結構打たれ強くて、何度かそういう目にあっても、ある程度までは平気だったのですが、最終的に、自分には適応は無理かもしれないという、絶望的な感覚に陥ってしまうことになりました。

しかし、何かしら、アーリマン的なものが理解できたり、いくらかでも(いい意味で)身につけば、かつてのように恐れる必要もなく、自分なりの「自信」のようなものも、身についてくると思います。消して、社会にただ「反抗」するのでもなく、もちろん、「迎合する」のでもなく、自分なりの折り合いのし方も身についてくると思います。

精神医療を受けたことが、治癒に向けてどのような影響を与えたのか、知りたい気もしますが、いずれにしても、単に薬のような物理的な作用ではなくて、自分なりに自分の体験の「理解」を一応ともなし得ることこそが、本質的な治癒に向けては、大きな働きをなすものと思います。

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