« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月

2006年12月26日 (火)

ドンファンの言葉―「捕食者」を脱する道

「捕食者」が、人間から、具体的にどのような「エネルギー」を「捕食」するのかについては、概ね次のようなことが言われる。

幼児期の人間を、呪術師が(霊的に)見た場合、卵形のエネルギーの塊の上に、意識の光る上着のようなものを被っている。この「意識の光る上着」は人間に特有のもので、これが「捕食者」の格好の「餌」になる。多くの者は、大人になる頃には、これが、地面から足の指の上くらいまでしか残っていない。それでも、生きてはいけるが、かろうじて生き続けられるというに過ぎない。

まさに、多くの大人は、「意識」あるいは「生命力」を枯渇されて、ほとんど機械的に生き続けるだけの存在に化しているということである。シュタイナーで言えば、「アーリマン存在」によって、「アーリマン化」(「ミイラ化」とも言われる)されているわけである。

しかし、「捕食者」の収奪はそれに止まらない。


この意識の細いへり(足の上までしかないという「意識の光る上着」)は内省の中心であり、人間はそこに逃れがたくとらえられている。捕食者はわれわれ人間に唯一残されている意識の部分である内省につけ込み、意識の炎を作り出して、それを捕食者特有のやり方で冷酷に食い尽くしていく。彼らは、これらの意識の炎を燃え上がらせる無意味な問題をわれわれに与える。われわれの擬似意識のエネルギーを餌として食べ続けるために、そうやってわれわれを生かし続けるのである。           (276頁)

「内省」によって燃え立たされる「意識の炎」とは、要するに、我々の日々の「悩み」や「葛藤」ということである。それが捕食者にとって、常に補給される「エネルギー源」になる。そこで、それは「外来の装置」、「善悪の観念」、「信念体系」、「社会慣行」などによって、決して絶やされることのないように仕組まれている。実際には、「無意味」のものであるにしてもである。

あるいは、このようにして、人が「内省」につけ込まれて、「冷酷に食い尽くされて行く」様は、「鬱」に追い込まれて行く状況を思わせる。また、このような「葛藤」というのは、シュタイナーの「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」という二種の対抗的な「心」から言っても、逃れ難いものであるのが分かる。

ドンファンは、そのようなあり方から逃れるには、彼らに「触れさせない」ようにするための、一種の「修練」しかないと言う。但し、修練と言っても、何か機械的な修行や日課が問題なのではない。それは、端的に言うと、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かって行く能力」ということである。しかも、それは「強い」からではなく、「畏敬の念に満ちている」ことから来るものと言う。つまり、それは、日々の争いや葛藤を生み出す「外来の装置」を、更に発達させるような方向での「強さ」とは、無縁なのである。

具体的には、まずは、まさにその、「日々あらゆることをする」とされる「外来の装置」を脱する(「逃走」させる)ことが目指される。「外来の装置」を「逃走」に追い込むのは、次のように、「内的沈黙」によるとされる。


彼らは発見した―飛ぶ者(捕食者)の心を内的沈黙で責め立ててやると、外来の装置が逃げ去って、それにより、この策略に関わっている者は誰でも、心は外部に起源をもつという確信が得られることをな。断っておくが、外来の装置は戻ってくるんだぞ。だが、以前ほど強力ではない。そして、飛ぶものの心の逃走が慣例化するプロセスが開始し、とうとうある日、永久に逃げ去ったままになる。           (280頁)


「内的沈黙」というのは、「内的対話」の「停止」であり、それによって生み出される「静寂」の状態である。「外来の装置」はあらゆることを「する」ことに関わっていて、また、常に一種の「自己内対話」(思考)を通して、それ自身を維持し続けている。「内的沈黙」というのは、要するに、これらを止めることを意図するものである。それは、「すること」に対して、「しないこと」とも言われる。一般的には、「瞑想」というのと同じ状態と言ってよい。

「内的沈黙」によって、「静寂」の状態に至ると、それまであったはずの「外来の装置」(騒ぎ立てる心)は、嘘のようになくなっており、それは、本来外から来たものということが確信できる。(つまり、それを脱し得るということが実感できる。)しかし、そのような状態は、初め一時的なもので、「外来の装置」もすぐ戻ってくる。しかし、そのようなプロセスが繰り返されることによって、「外来の装置」は以前ほど強力に支配しなくなる。そして、いずれは、それが永久に逃げ去ったままになるというのである。

しかし、その日は、ドンファンによれば、


実に悲しむべき日だ!なぜって、おまえが自分自身の装置に頼らざるを得なくなる日なのに、その装置は無に等しいときているんだからな。どうすれはいいのか教えてくれる人は誰もいない。おまえが慣れ親しんいる無能な精神に指図してくれる外部起源の心は、もうどこにも残っていない。……なぜならば、われわれに属する本物の心は、それはまたわれわれの経験の総体でもあるのだが、長い長い期間を支配されつづけた結果、臆病になってすっかり自信を喪失し、あてにならないものになってしまっているからだ。
           
わしの個人的な見解を言わせてもらえば、本当の闘いはその瞬間から始まるのだ。それ以外はすべてそのための準備に過ぎん。  
(281頁)


要するに、「外来の装置」が逃げ去るということは、それまで日々それに頼っていた我々の「心」そのものを失うということである。その日以来、「あてにならない」「本来の心」で「世間の荒波」を乗り越えなければならない。そればかりか、捕食者に触れさせないことによって、「餌」である「意識の上着」は元のように回復している。以後、そのような、いわば格好の「御馳走」をぶら下げたまま、捕食者の前に生身を晒さなければならないのである。捕食者の攻撃、収奪は、当然以前より強いものとなるのが必至である。

ドンファンが、「本当の闘いがそこから始まる」というのは、十分頷けるものである。そして、その闘いにおいては、結局は、「ひるむことなく立ち向かうこと」、「畏敬の念に満ちていること」しか手立てはないというのである。

このように、ドンファンの行き方は、捕食者の心である「外来の装置」を「脱する」、「抜け落とす」という方向が顕著に現れている。また、かなり厳しい要求を課すものでもある。これは、それを受け入れつつ均衡を図るといったシュタイナーの行き方とは、かなり異なると言わなければならない。

しかし、シュタイナーも「初めに絶対的静寂を体験するのでなければ、真に霊界を認識することはできない」として、瞑想や集中の重要性を言う。「均衡」というのも、そのような「静寂」を基礎にして、築かれるものと解することができる。

一方、たとえ「外来の装置」が逃げ去ったとしても、「均衡」ということができてない状態で、以後やっていけるものかどうかは疑わしい。また、「外来の装置」の逃走といっても、一気になし得るものではなく、プロセスの最後に達成されるものであるとすれば、「均衡」ということを、一時的なものから恒常的なものへと高めていく行き方と、「見かけ」ほど違うものではないとも言える。

また、確かにドンファンでは、「捕食者」の心を「脱する」「抜け落とす」という方向が強く打ち出されてはいるが、それは、決して単純に、捕食者を「受け入れ」ずに、反発したり、拒否することを意味するのではない。それは、次のような、「捕食者」が宇宙の中でどのような位置にあるかについてのドンファンの言葉にもはっきり表れている。


飛ぶ者(捕食者)は宇宙の本質的一部だ。彼らをありのままに、そう、恐ろしい奇怪なものとして受け取らねばならん。彼らは宇宙がわれわれを試すための手段なのだ。

われわれ人間は宇宙によって造られたエネルギー探測装置だ。われわれは意識のあるエネルギーの所有者なので、宇宙はわれわれを道具につかって自分自身を認識する。飛ぶ者は執念深い挑戦者だ。そうとしかとりようがない。彼らをありのままに受け入れることができれば、宇宙はわれわれに存続するのをゆるしてくれる。   
 (287頁)

要するに、本質的なところでは、そのような存在も、宇宙的意義のあるものとして、ありのままに「受け入れる」(しかない)という点は同じである。ただ、そのうえで、目指す方向としては、それを「脱する」ということが明確に維持されているのだと言える。

「分裂病的状況」を経験した者にとっては、「捕食者」の衝撃、恐怖は体験上痛切なもので、その執拗な攻撃から逃れたいという動機づけも持ち易い。その意味で、シュタイナーの「均衡を図る」という行き方より、ドンファンの「脱する」という行き方の方が、より納得し易く、現実的と言える面も多いのではないかと思う。

ただし、既に述べたように、ドンファンの場合は、あくまで「個人的な指導」ということが前提になっているのは看過できない。それによって、そのような方向を打ち出すことが可能になっている面は大きいのである。

私も、「分裂病的状況」を体験している当時、自分の体験していることが、カスタネダの体験していることと驚くほど近いことに気がつくことになった。それは、体験の理解に向けての大きな手がかりにもなった。しかし、それが分かってからも、絶望的な気分とともに、何度も漏らさざるを得なかった言葉がある。それは、「カスタネダは、ドンファンがそばにいたからこそ、耐えることができたのだ…」というものだった。(結果的には、なんとか一人で耐えたことになるのだろうが、当時は限界と感じたことが何度もあった。)

2006年12月21日 (木)

ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」

カスタネダにとって、師ドンファンは、恐ろしくもあり、自己の卑小さを感じさせるので、決して心地よい存在ではない。それで、カスタネダは、ドンファンから離れようという思いを抱くが、かすかな内心の「声」が「お前はドンファンのもとに止まるべきだ」というのを聞く。ドンファンはそれを察したかのように、「二つの心」の葛藤ということを語り出す。

(以下、引用はカルロス・カスタネダ著『無限の本質』二見書房より)


人間は誰しも二つの心をもっている。一つは完全にわれわれ自身のもので、かすかな声のように、絶えず秩序と、率直さと、目的意識とをもたらしてくれる。もう一つの心は<外来の装置>だ。それはわれわれに葛藤と、自己主張と、疑惑と、絶望とをもたらす。
                       (19頁)

(二つの心の)一つは、われわれの全人生経験の産物である本当の心だ。それはめったに話しかけてくることはない。なぜなら、敗北して暗い場所へ追いやられてしまっているからな。もう片方の、われわれが日々あらゆることをするのに用いる心は、<外来の装置>だ。                                 (22頁)

「外来の装置」とは、外から「与えられ」または「植えつけられた」心ということである。それを「装置」というのは、ある支配的なシステムを維持する働きをするからである。そのような心が、「日々あらゆることをするのに用いられる」というのだから、実際上、その「外来の装置」こそが、われわれを「乗っ取って」いるのに等しいことになる。

「心の葛藤」というのは、誰しもよく知るものである。しかし、この「二つの心」の葛藤を、本当の意味で知っているのは「呪術師」だけだと言う。呪術師は「痛ましいまでに、絶望感とともにそれを意識している」と言うのである。

そして、あるとき、この人間に葛藤をもたらす「外来の装置」と呼ばれる「心」が、どこから来たのかが明らかにされる。

われわれには捕食者がいる。そいつは宇宙の深奥からやってきて、われわれの支配権を乗っ取った。人間はそいつの囚人だ。その捕食者は、われわれの主人であり支配者なのだ。われわれ人間を飼い馴らし、従順で無力な生き物にした。たとえわれわれが抗議しようとしても、そいつが抑圧してしまう。われわれが独立して行動したいと思っても、そいつがそうするなと要求する。」「実際わしらは捕虜になっているのだ!これは古代メキシコの呪術師たちにとって<エネルギー上の事実>だった。                  (272頁)

カスタネダが、何で「捕食者」が人間を乗っ取ったのか、そんな話には説明が必要だと反発すると、


説明ならあるさ。単純この上ない説明がな。やつらが乗っ取ったのは、わしらがやつらにとって餌だからだ。わしらが栄養物だからといって、やつらは無慈悲に搾り取る。われわれ人間が鶏舎で鶏を飼育するように、捕食者どもは人舎でわれわれを飼育する。そうしておけばいつでも食い物が入るって訳だ。
                           (273頁)

カスタネダが憤慨していると、その「理性」に訴えるべく、次のように説明を続ける。

事を巧みに処理する人間の知性と、その人間の信念体系の愚かしさ、もしくは人間の一貫性を欠く行為の愚かしさとの矛盾を、どのように説明したらよいか話してみろ。呪術師たちは、捕食者がわれわれに信念体系や善悪の観念や社会的慣行を与えたのだと信じている。成功や失敗へのわれわれの希望と期待と夢とを仕組んだのは、やつらなのだ。やつらがわれわれに強欲と貪婪と臆病とを与えたのだ。われわれを自己満足に陥らせ、型にはまった行動をとらせ、極端に自己中心的な存在にさせているのが、やつら捕食者どもなのだ。

カスタネダが、なぜそんなことが可能なのか、眠っている間にそういうことを耳の中にささやくとでも言うのか、と反論すると、

やつらはそれよりはるかに有能で組織的だ。われわれを弱く従順で意気地なしにさせておくために、捕食者どもは素晴らしい策略を用いる。素晴らしいというのは、もちろん喧嘩好きの策士の観点からしてだぞ。受ける側からすれば、恐ろしい策略だ。やつらは自分の心をわれわれに与えるのだ!おい聞いているのか?捕食者どもは自分の心をわれわれに与える。そしてそれがわれわれの心になる。捕食者どもの心は粗野で矛盾だらけで陰気だ。そして、いまにも発見されてしまうのではないかという恐怖に満ちている。
(274-5頁)


このようにして、「外来の装置」とは、「捕食者」と呼ばれる外部的存在によって、戦略上与えられたものであることが明らかにされる。この後、ドンファンは、この「捕食者」について現実に知らしめるべく、カスタネダに実際に体験させる。それは当然、恐怖に満ちた恐ろしいものとなるが、そのうえで、「外来の装置」を脱することを促していくのである。

この「外来の装置」にしても「捕食者」にしても、かなり衝撃的なものがあるといえる。しかし、「外部的な存在」によって植え込まれた「心」というのは、シュタイナーの「アーリマン的なもの」や「ルシファー的なもの」といった「逸脱的存在」によって「植え込まれた心」と重ねてみれば、もはやさほど特異とも言えないだろう。

また、現代は、「多重人格」にはっきり象徴されるように、人間に「一つの心」しかないという発想を維持する方が、難しい状況になっているとも言える。現代人は、常に「憑依」されているかのように、多様な「心」によって突き動かされているところがある。その意味でも、この「二つの心」の葛藤というのは、さほど受け入れがたいものではないはずである。

ただ、ドンファンの場合、それが管理と収奪のための「戦略上」のものであることをはっきり打ち出している点が、特異と言えば特異なのである。

何しろ、カスタネダも、これらの存在について聞いたときは、とても受け入れ難く、強い抵抗を示すことになる。そこでドンファンに、いくつか率直な疑問をぶつけるが、それに対するドンファンの答えは明解である。

「捕食者」については、さらに興味深いことが語られる。


この捕食者は当然ながら非有機的存在なのだが、ほかの非有機的存在と違って、われわれに全く見えないというわけではない。わしが思うに、みんな子供の頃にそいつを見て、あんまり恐ろしいものだから、それについて考えるのを止めてしまうのだろう。もちろん子供はその光景を見つづけると言い張ることもできるが、周囲のみんなが説得して止めさせてしまう。
                     
(279頁)


「捕食者」も、肉体を持たない「非有機的存在」の一種だが、人間に完全に「見えない」わけではないという。これは、他の「存在」と比べて、「人間」あるいは「物質的なもの」と近いところに「存在」しているということであろう。「霊界」というよりも、この感覚界と霊界とのまさに「境界」に存在しているとも言える。この点も、シュタイナーと同様で、この感覚界を超え出ようとするときには、いやおうなく、このような存在と出会われる可能性があることになる。

また、子供の頃には、多くの者がこのような存在について、見たり、知る機会があるが、恐怖のため、その後抑圧されて行く、というのも興味深い。実際、子供の頃に、何かしらこのようなものを「見」て、恐ろしい思いをしたという話は、よくある。(私も、小学生の頃、いわゆる「金縛り」を通して、後には、「アーリマン存在」そのものと分かるものに出会って、恐ろしい思いをしたことがある。)

これは、子供というのは感受性が強いから、このような存在が、人間の身近にいるのだとすれば当然のこととも言える。しかし、彼らからすれば、このような「接触」には、潜在的な恐怖を植え込んでおくという、意図的な意味合いもあるかもしれない。

つまり、彼らが、人間に対する影響力を発揮するには、表だって「知られる」よりも、「知られていない」方が都合がいいのは確かだろう。が、かと言って、全く何も「知られない」のでは、単に疎遠ということであって、影響をもたらすことにはならない。何らかの接触により、潜在的に恐怖を植え込むことによって、無意識レベルで影響を与えるのが、最も効果的なやり方とも言えるからである。(現代は、まさに彼らにとって、そのような都合のよい状況が整えられていると言える。)

ところで、この「捕食者」というのは、シュタイナーのように、特に二系統に区別されてはいない。あるいは、ドンファンは、必ずしも個別的な存在ではなく、ある一群の存在を「捕食者」と捉えていたとも考えられる。

しかし、シュタイナーの区別に照らすならば、これは、「アーリマン存在」に当たると思われる。「ルシファー存在」もまた、人間に対して一種の支配者的立場に立っているのは間違いない。しかしここでの説明、特に「知的」な狡猾さや戦略によって、人間を支配するという点や、カスタネダが接触する体験の衝撃性(死をもたらすこともあるという攻撃性や破壊性)は、「アーリマン存在」にこそ当てはまる。また、後にみるように、人間から生命力を「捕食」(収奪)する「必要」という点から言っても、直接には、「アーリマン存在」が目されているとみられるのである。

それにしても、シュタイナーでは、これらの存在の説明に、「捕食者」的な面が表に出てくることはないから、「捕食者」という言い方は、やはり異様なものがあるかもしれない。

しかし、シュタイナーでも、「アーリマン存在」が、「ルシファー的なもの」を「刈り取る」と言ったが、それは「結果」としてそうなるということであって、「アーリマン存在」の側からみれば、それは一種の生命力の「収奪」ということにもなる。また、「アーリマン存在」によって、人間に「アーリマン的なもの」(干からびたもの、死や破壊に結び付く硬直性)がもたらされるというのは、人間から生命的なものが収奪されるからこそと言える。このように、シュタイナーの説明にも、表に出ないだけで、「捕食者」的な面は組み込まれていると言えるのである。

さらに言えば、「捕食者」的であるということは、決して単純に、人間に対する支配力が強いということではない。それは、逆に言えば、人間に「依存」し、あるいは「寄生」しなければならないということであって、むしろ限界のようなものを露わにさせる面もあると言わねばならない(この点は、後にさらに詳しく述べる)。

いずれにせよ、シュタイナーの「アーリマン存在」、「ルシファー存在」にしても、ドンファンの「捕食者」にしても、何か人間とは縁遠い、異質で怪物的なものを連想させる、「魔」とか「悪魔」というイメージとは、掛け離れているのは確かである。実際には、人間と非常に身近なところで、密接に結び付いて存在しているのであり、ある意味では、人間の「生みの親」であり「育ての親」とも言えるものなのである。(実際、彼ら自身はそのように思っている節がある)

むしろ、そのような、現実的な、あまりの「身近さ」こそが受け入れがたいために、文化的には、異質さや滑稽さを強調する「魔的」な色付けがなされて来たとも言える。そうして、つい間近には、そのような奇怪で非現実的なものは、「迷信」という名の下に、捨て去るのがふさわしいとされたのである。

さて、「吐き気」に襲われつつも、「捕食者」の存在自体については、疑うことのむつかしくなったカスタネダは、それにしても、「古代メキシコの呪術師にしろ、現代の呪術師にしろ、捕食者を見ておきながら、なぜ何も手を打とうとしないのか」という疑問をぶつける。それに対するドンファンの答えは次のようである。

それについては、おまえにしろ、わしにしろ、手の打ちようがないのだ。せいぜいわれわれにできることといえば、自分自身を鍛錬して、やつらに触れさせないようにすることぐらいだ。しかしお前は、自分の同僚にこうした過酷な鍛錬をしろと要求できるか?みんな笑い飛ばして、おまえを慰み者にするだろう。なかには喧嘩っ早い者もいて、おまえを叩きのめすかもしれん。それも、その話を信じないからではない。どの人間の奥底にも、捕食者の存在について先祖伝来の本能的な知識があるのだ。
(276頁)

確かに、子供の頃に、必ずしも「接触」していなくとも、我々は誰しも、「心の奥底」では、捕食者の恐怖を「知って」いると言わねばならない。

私も、「慰み者」にはなりたくないが…、次回は、そのような「捕食者に触れさせないようにする」という「鍛錬」について述べよう。

2006年12月15日 (金)

ドンファンの「捕食者」論について

注)最も詳細かつ適切な説明をしているドンファンの「捕食者」論を、その言葉とともに紹介するものです。(3回にわたって)

カスタネダの師ドンファンも、カスタネダに対し、一種の「魔的」な存在である、「捕食者」について述べている。これは、古代メキシコの「知者」にとっても、「主題中の主題」とされた問題だという。カスタネダは、それを、遺作である『無限の本質』(二見書房)で、初めて正面から取り上げている。

それまで、カスカタネダは、正面から述べることを憚ったということも考えられる。が、恐らく、自分でも、これをうまく自己のうちに取り込むことができなかったというのが、本当のところだろう。

実際、ドンファンの「捕食者」論は、容赦のない厳しい仕方でカスタネダに語られる。カスタネダは、その間ずっと、「吐き気」に襲われたという。

「捕食者」と言われるが、それは、人間を組織的に管理・支配して、人間から意識(生命)のエネルギーを収奪している存在という。まさに、モーパッサンが『オルラ』で言うように、人間が家畜を食用として飼うように、人間を「飼う」者といえる。また、我々が普通「心」と言っているものは、実は、人間の本来のものではなく、「捕食者」が人間に戦略上与えたものという。それは、人間に葛藤をもたらし、愚かで柔順な状態にさせておくことで、自己の支配下に置くための「装置」とされる。

このように、ドンファンの「捕食者」論は、シュタイナーと比べても、かなり過激で容赦のない表現に満ちている。

それは、シュタイナーの場合とは違って、直接師と弟子の間で、修行の過程を通して授けられた個別的な「教え」であることにもよろう。それは、当然、より率直で、直截な表現で語られることになる。さらに、シュタイナーのように、多くの者に「危険」を回避したうえで進むべき道を示したものではなく、資質のある者に、「危険」を当然の引き換えのうえ、直接授けられたものということである。それで、その「危険」の面が、より直接に表に出てくることにもなる。

さらに言うと、カスタネダは、シュタイナーの性向でいえば、多分に「ルシファー的」な傾向が強いとみられる。好奇心は強いが、尊大で意固地な面も強く、なかなか自己の見方を変えようとはしない。また、ドンファンが、「お前はまだ本当には打ち負かされたことがないのだ」と言うように、根本的なところで、「自己を超えたもの」の衝撃を受けたことがないようである。

それで、ドンファンは、このときに限らず、体験させようとする領域について、ことさら死や恐怖を強調することが多く、カスタネダに対し、より強い効果(衝撃度)を狙っているところがある。ここでも、カスタネダに、あえて、「アーリマン的なもの」を強い衝撃のもとに体験させようとしているようなのである。

そのようなことから、ドンファンの「捕食者論」は、率直ではあるが、過激な表現にも満ちている。しかし、その内容は、決して誇張と言うことはできない。本来の「アーリマン的なもの」の衝撃が、より生々しい形で伝えられているのは確かだし、全体としてみれば、シュタイナーの論とも十分整合するものがある。また、直接対話を通して語られたものだけに、より生き生きした魅力や訴えかける力がある。

さらに、後にみるように、それを脱する方法としても、より厳しいものを提示しているのだが、こちらの方に、より魅力と可能性を感じる人もいるかもしれない。

そこで、以下、なるべくドンファンの言葉を引用して、ドンファンそのものに語らせるような仕方で紹介して行こうと思う。ただ、できるだけ、シュタイナーのものと照らし合わせながら、検討していくことにしたい。

2006年12月 8日 (金)

「分裂気質」と「均衡」という行き方

「分裂病的状況」に陥った者にとっては、シュタイナーの「均衡」という行き方は、特に示唆的なものがある。「分裂病的状況」こそ、そのような「均衡」が、いやがうえにも図られる、一つの機会と言えるからである。

前に、分裂病的状況に陥り易い「分裂気質」というのをみた。繊細で感受性が強い、社交性に欠ける、自我あるいは主体性の強さに欠ける、などの特徴があげられた。これは、これまでみた性向で言えば、「ルシファー的」な傾向が強く、あるいは「アーリマン的なもの」が希薄ということである。

「ルシファー的」な傾向が強いというのは、分裂気質というのが、「虚弱」なイメージだとすれば、意外なことかもしれない。しかし、これは、本来、純粋で生命力にあふれた面をもつ反面、周りを気にせず、自分を意固地に通すところがあるということである。「純粋」で「ナイーブ」な面は、「虚弱」に通じるかもしれないが、本来は生命的なパワーと、そう簡単には自分を曲げない意固地さを持っているのである。これはまた、先にみた、「永遠の少年」とも多くの点で重なる。

「自我や主体性が弱い」というのは、集団や他者との関係での、一種の「適応力」とか「対応力」という意味では、確かに当てはまるものがある。が、もともと、ルシファー的な「自我感情」や自己への拘りは、強いのである。ただ、他者や集団との関係では、そのようなことが、「奔放さ」や「わがままさ」として現れ(受け取られ)易く、反発や葛藤の元になり易い。また、「アーリマン的なもの」が欠けているため、そもそも、基本的なところで、集団にはなじみにくいのである。

(ただし、「ルシファー的」な傾向が強いというよりも、「アーリマン的なもの」が欠けているといった面が強い場合は、見るからに「虚弱」なタイプというのもあるだろう。その場合には、ここに述べることは必ずしも当てはまらないかもしれない。)

いずれにしても、それは「均衡」という点から言えば、一種の「偏り」の状態には違いない。

そのような者が、分裂病的状況に陥るときというのは、様々な問題や葛藤のために、そのような「傾向」が、より強まって、押さえが効かなくなっているときと言える。あるいは、むしろ、普段は抑えられていた、本来のそのような傾向が、ある機会に「爆発」するときと言える。たとえば、「ルシファー的」な尊大さや奔放さで、止めなく突っ走ったり、「アーリマン的なもの」(集団的なもの)に対する反発が爆発するときなどである。

いずれにしても、そのように「過剰」に「ルシファー的なもの」が高まった状態は、「アーリマン的なもの」あるいは「アーリマン存在」の攻撃や反発を強く誘発することになる。

先に、「永遠の少年」のところでみたように、このような者が何かしようとするときに、「引き落とす」役割をするのは、まさに「アーリマン的」な者といえる。ところが、また「ルシファー的」な者も、本来無頓着というか、簡単には「めげない」生命的なパワーがあって、そう簡単には「やられきって」しまうことがない。ほとんど、何事もなかったかのように、やり過ごされてしまうことも多い。

それで、日常的に起こり得るような、そのような事柄が、すぐさま「分裂病的状況」をもたらすというわけではない。むしろ、「分裂病的状況」に陥るというのは、やはり、よほどその攻撃が、強烈で、手に負えないものにまで化しているということ、しかも、それが、はっきり「見える」ような形ではなく、いわば「背後」から(「見えない」形で)なされ、理解しがたいものと化しているということなのである。

分裂気質の者も、そのような事態に至って、初めて真に意識をとらえられ、また恐れをなすに至ったということがいえる。そして、そこまでのものというのは、多くは、人間の内部的なものに止まらず、「アーリマン存在」そのものの関与によると思われるのである。

何しろ、そのように強烈な、(また人間的な理解を越えた)「アーリマン的な攻撃」にさらされて、自我又は意識をも巻き込まれると、さすがに、事態は「分裂病的状況」として、「病的」な現れを示すことにもなる。すると、そこでの反応は、先にみたように、それまでの「ルシファー的」な傾向からは信じがたいほどに、極端に「アーリマン的」なものとなって現れもする。(恐怖に取り付かれたような態度、画一化された「妄想」や「細部への拘り」など)

しかし、シュタイナーは、一般に、「ルシファー的なもの」に対する「アーリマン的な攻撃」は、結果的に、過剰になったルシファー的なものを、「刈り取る」役目を果たすということをいう。つまりは、「均衡」を図ることの一作用となるということである。

(ただし、シュタイナーでは、「輪廻転生」ということが当然の前提なので、その結果というのは、来世越しに現れる場合も想定されている。進化史的観点からも分かるように、非常に、大局的な観点に立っているのである。)

「分裂病的状況」の場合、確かに、事態はそう一筋縄で行くものではない。しかし、元々「ルシファー的」な傾向が過剰であった場合、「アーリマン的なもの」の強い作用を受けて、それが打ち砕かれることは、修正の機会に通じ得るというのは、確かだと思われる。その過程で、多くの紆余曲折を経るのは間違いないとしてもである。逆に言えば、「ルシファー的」な「思い上がり」や「強情さ」のようなものを、修正し得るものなど、「アーリマン的な力」を除いて外にはないともいえるのである。

また、潜在的に、「アーリマン的なもの」に対する理解や受け入れが欠落しているような場合、「アーリマン的なもの(存在)」に取り巻かれて、その衝撃を受けることは、それを通して、いくらかでもそれを知り、理解していくことの大きな機会にはなり得ると思う。

しかし、もちろんだが、そのような状況において、ただ恐怖したり、混乱したり、防衛反応としての妄想に走るなどの反応に終始するだけでは、(少なくとも意識レベルで)修正の機会に結び付けることなど、期待できるものではない。それは、単に薬物などによって、「治療」すれば足りる、とすることでも同じである。

やはり、基本的には、これまでずっと述べて来たように、そのような事態が、まずは「未知のもの」であること、そしてさらには、ここでいうような、「アーリマン的なもの」であることを認識することが、前提として欠かせないと言うべきである。

注意すべきは、「ルシファー的なもの」も「アーリマン的なもの」も、本来人間を超えたところから来たものであり、それが純粋に発現するところには、ある種の「カリスマ性」があるということである。それは、人を魅惑する面があり、また容易には逆らい難いものを醸し出すのである。(新興宗教やカルトなどの教祖には、よくそのようなタイプがみられる。典型的な例を挙げれば、元オウムの麻原は、まさに「アーリマン的なもの」を体現するタイプといえる。)

分裂気質の者も、「ルシファー的」な「魅力」を発揮しているときには、それで「押し通せる」ところがあり、その分、それで突っ走り易く、均衡ということは図り難いのである。

それは、逆に、「アーリマン的なもの」を体現している者にとっても言えることである。彼は主に集団の中で、ある種の畏怖のもと、不思議なリーダーシップを獲得していく。それは、個人的な感情に左右されない「冷徹」なところが、むしろ信頼を呼び易いことにもよろう。が、またそれは、多くの者の内部にある「アーリマン的なもの」の一種の「共有」によっても成り立っている。(分裂気質の者が、最も「異様」と感じるのがこれであり、そこから「はみ出す」元ともなる。さらに、これは、一種「グル」になっているとか、「組織(的な力)によって迫害される」と感じさせる元にもなる。)

分裂気質の者もまた、「アーリマン的」な者に対しては、反発だけでなく、(自己にないものの)魅力や畏怖を感じることが多い。しかし、彼は、その集団が共有しているところからは、はみ出し易く、疎外されることになり易い。そして、それが葛藤や「分裂病的状況」の引き金にもる。具体的な人間関係で言えば、そこには、「アーリマン的」な者と「ルシファー的」な者との、一種の対決というか、葛藤がある訳だが、それはまた、「ルシファー的」な者だけでなく、「アーリマン的」な者にとっても、一つの修正あるいは均衡の機会となり得る可能性がある、ということは言えるだろう。

このように、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」は、互いに対抗しつつも、また互いに、「均衡」を促す働きをもなしているといえる。「分裂病的状況」というのも、また、大局的には、そのような一場合として、みることが可能ということである。

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

コメントの投稿について

無料ブログはココログ