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2006年11月

2006年11月27日 (月)

「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」

注)シュタイナーの人間における2系統の悪魔的性向「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」を対比させた記事です。

      アーリマン的      ルシファー的
肉体的… 固くなること    ←→   軟化すること
           (神経システム)←→ (血液システム)
  硬化すること(大人)  ←→  若返る(子供)
魂的… 細事に拘ること ←→   幻想性
   俗物的になること   ←→   熱狂
        唯物論   ←→  神秘主義
          干からびた悟性 ←→   神智学
精神的… 目覚めること  ←→  眠り込むこと


悪の秘儀』を参照に、人間における、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」を対比して示した。

まず、肉体的には、「アーリマン的なもの」の象徴として、「神経システム」があげられる。神経は、「固定」的なもので、作り替えられるということがない。それは、常に硬化し、老朽化していくものである。しかし、それは、そのような固さが伴うことによってこそ、一定の機能を果たしている。

逆に、「ルシファー的なもの」の象徴は、「血液システム」である。こちらは、栄養分を取り込んで、全身に回しながら、生体に生気を与え、若返らせる。それは、柔らかく、流動的であることによって、機能を果たしている。

神経が「ルシファー的」に柔弱であると、人間は発狂してしまうと言う。神経システムは、一定の固さを有することによってこそ、知覚や思考の規則性や安定性が保たれているということだろう。

逆に、血液システムは、常に流動的に回っていなければならず、(血管が)「アーリマン的」に固くなると、動脈硬化や卒中をもたらすという。

これからも分かるように、「アーリマン的なもの」は、「硬化」させ、または「老化」させる働きをする。それは、人体の中に、絶えず「死体」を作り出していく働きとされる。逆に、「ルシファー的なもの」は、「軟化」させ、「若返ら」せる働きをする。そうして、生体に生気を与えるのである。

この「硬化」と「軟化」という対比は、ここでは肉体的な現れをみたが、魂的、精神的にあらゆる面において、当てはまるものといえる。

また、これは言い換えれば、「ルシファー的なもの」は、人間を「子供」のような状態に止めさせる。逆に、「アーリマン的なもの」は、人間を「大人」にさせるということである。

「子供」であるとは、純粋で生命力に満ちている反面、経験的には未熟で、智恵や洞察力には欠けるものである。実際、少年のような向こう見ずさで、様々なことを試み、一定の力を発揮するが、現実的な思考力や持続力に欠けるため、結局引き落とされて失敗するということを、飽きることなく何度も繰り返して、成熟しないというタイプがある。ユング派では、これを、「永遠の少年」(元型)などという。これなどは、まさに、「ルシファー的なもの」を体現するタイプそのものといえる。

未開社会の成年式などの儀礼では、「子供」から「大人」に移行するために必要なものが、イニシエーションを通して与えられる。だとすれば、この「イニシエーション」では、何かしら、「アーリマン的なもの」に触れさせることが、内容となっているはずである。例えば、試練として危険を越えさせることなどは、(アーリマン的な力の発現ともいえる)「死」またはその恐怖に、直面させることが含まれている。また、集団的な「掟」を与えることなども、「アーリマン的なもの」の付与としてみることができる。

これが、カルトなどになると、このイニシエーションは、極端に(一種、戯画的なほどに)「アーリマン的なもの」になる。また、その「集団」への帰属を、一層強化させるものとなる。

次に、「魂的」または「精神的」(一般には、特に区別する必要はないと思うが)な現れをみる。一般的にいうと、「アーリマン的なもの」は、「エーテル体」(「エーテル」は、東洋で「気」といわれるものに相当する)=「思考」、「ルシファー的なもの」は「アストラル体」=「感情」に作用する。

具体的には、「アーリマン的なもの」は、「細事にこだわること」、「俗物的になること」、「唯物論」、「干からびた悟性」などが特徴とされる。これらは、独立的なものというよりも、互いに関連し合っているものといえる。後にみるように、現代は、「アーリマン的なもの」が強く支配する時代だが、まさに多くの大人が、このとおりの性質を示しているのが明らかである。

「干からびた悟性」というのを、もう少し幅を持たせて言うと、(感情に左右されない)「冷徹な知性」から、(画一化された)「ステレオタイプの思考」というふうに捉えられる。そして、後にみるように、それらは集団的なものを通してこそ、働き易いのである。

「ルシファー的なもの」は、逆に、「幻想性」、「熱狂」、「神秘主義」、「神智学」などを特徴とする。こちらは、「悟性」よりも、「欲望」や「想像力」に働きかけるのである。これらも、互いに強く関連し合うものといえる。

「唯物論」や「即物的」な知に対しては、「神秘主義」や「神智学」があげられている。しかし、その基盤は、「幻想性」や「熱狂」にあるため、冷静で現実的な思考には欠けることになる。より現代的には、「ニューエイジ運動」などをあげれば、分かり易いだろ
う。

精神的には、「アーリマン的なもの」は、「目覚めること」とされ、「ルシファ的ーなもの」は、「眠り込むこと」とされる。「アーリマン的なもの」は、外界に則した思考活動を活発化させ、「ルシファー的なもの」は、内的に夢見るような状態をもたらす、ということだろう。「アーリマン的なもの」は、より「意識的」で、「ルシファー的なもの」は、より「無意識的」であるともいえる。

これらの性質、性向について、注意すべきは、「人間には適度になければならないもの」とされていることである。つまり、これらのものは、「逸脱的存在」によって、植え込まれたものではあるが、それ自体としては、「悪しきもの」として排除すべきものとはされていないのである。むしろ、基本的には、それらを、それとして認識したうえで、「受け入れ」ていくべきことが前提となっている。

ただし、それが「過剰」になるときには、不調和や病気がもたらされる。つまり、あくまで、その一方が「過剰」になることが、問題とされているに過ぎないのである。

具体的に、人間のとるべき方向としては、これらの「均衡」ということが示される。この「均衡」は、単に一時的な状態としてではなく、一種の理想状態として、恒常的に達成されるもののようである。その「均衡」によってこそ、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」(の否定面)は乗り越えられる、というのである。あるいは、それらは、本来のものとは別のものに転換されるのだと言う。(「ルシファー的なもの」は主に「愛」に、「アーリマン的なもの」は主に「叡知」に)

そして、その「均衡」(のあり様)を指し示したものこそ、キリストだとされている。東洋では、道(タオ)、中道、中庸など、このような均衡の発想は、割と馴染み深いが、キリストをこのような均衡の発想に結び付けているのは、かなり特異といえる。

さてこれらをざっとみて、興味深いのは、「アーリマン的なもの」とされる性質、状態は、どれも「分裂病的状態」で一様に強くみられるものであることである。

たとえば、分裂病的状態では、まさに全身が「神経」と化したかのように、神経の働きが異常に活発化する。また、眠ることが困難またはできなくなり、異様に高ぶった、「目覚め」の状態が続く。思考的には、非常に「細部に拘る」ようになり、柔軟な思考は困難になる。

「俗物的になること」、「唯物論」、「干からびた悟性」などの特徴も、特に「妄想」のあり様にはっきり表れている。例えば、「CIAに狙われる」や「電波で攻撃される」などの妄想は、まさに画一化された「干からびた悟性」そのものの表現といえる。また、「物理的現実」に無理やりに引き寄せられた内容は、「俗物的」(「即物的」)あるいは「唯物論」的というにふさわしいものである。

ただし、注意すべきは、分裂病的状態に陥る者も、元々、このような「アーリマン的」な性質を多く有していたわけではないということである。むしろ、分裂気質というのは、元々「ルシファー的」な傾向が強く、または「アーリマン的なもの」が希薄な性質といえる。それが、分裂病的状況では、「アーリマン的な力」の影響を受けて、一気にまた極端に、「アーリマン的」な方向に揺れているとみられるのである。(この点は、後に「均衡」という観点から、もう一度詳しくみることにする。)

ここに挙げられた性向は、もちろん、一つの「例示」に過ぎないだろう。そこで、私は、これにさらに、次の対を追加したいと思う。

「アーリマン的なもの」 …… 集団性(の重視)
「ルシファー的なもの」  …… 個人性(の重視)


この対は、必ずしも、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」の本質から、当然のように導かれるものではないかもしれない。むしろ、「ルシファー的なもの」は欲望などを通して個人の内面から働きかけ、「アーリマン的なもの」は、集団を通して外部的に働きかける、ということの結果、そのようになるものとも言える。

しかし、シュタイナーも、「ルシファー的なもの」は、「自我感情」の元になるものだとしているし、その意味で、「ルシファー的なもの」を「個人性」の重視と結び付けるのは、十分の理由がある。また、「アーリマン的なもの」は、「冷徹な知性」と言ったが、逆に、そのような「個人的」な感情の表出を嫌い、押さえ付けようとする傾向がある。そして、それは、集団性を通してこそ働き、一種の権力的な作用ともなるのである。

また、現代の教育システムや軍隊などに明らかなように、「アーリマン的なもの」は多くの者を画一化させ、機械化させることで、自己の支配を貫徹しようとする。その意味でも、「アーリマン的なもの」を「集団性」の重視と結び付けることには、理由があると思う。

この対は、既に述べた分裂気質の問題を考えるときに、理解し易いものになるし、一般的にも、さまざまな点で目安になるだろう。

2006年11月16日 (木)

シュタイナーの「悪魔論」について

私は、ルドルフ・シュタイナーについては、以前は、ほとんど本を読んだこともなく、何か晦渋なことを述べている神秘学者といったイメージしかなかった。また、実際、当時、適当な訳書もあまり出てなかったと思う。しかし、一連の体験の後、本を読んでみて、自分の体験に照らしても、とても納得のいくことが述べられているのが分かり、興味を持ち、何冊か読むことになった。

特に驚きは、シュタイナーの一種の「悪魔論」(というより、「進化から逸脱した存在の論」というべきなのだが)で、「アーリマン存在」と「ルシファー存在」という性質の異なる2系統があるというものだった。それが、体験のところでも述べたように、自分の接した、性質の異なる2種の攻撃的な存在と、驚くほどピッタリくるものだったのである。

私が知る限りで、もう一つ、鋭く踏み込んでいると思える「悪魔論」(これも、正しくは、「<捕食者>として人間を管理、支配する存在の論」)をあげれば、既に触れたカスタネダの師ドンファンのものがある。しかし、そこでは、このような二系統の区別までは述べられていないし、他にも、そのようなものを詳しく観察したものには、今までのところお目にかかっていないのである。

シュタイナーは、元々、「シュタイナー教育」のことではよく知られていたようだが、最近は、本来の「神秘学」の方でも大分知られるようになっているようである。訳書も十分読めるものが多くそろっているし、新書という形で、入門書も出ている。(講談社現代新書『シュタイナー入門』,ちくま新書『シュタイナー入門』)

その内容は、近代社会の一般的な物の見方からは、まだまだ大きく掛け離れていると言わざるを得ないが、かなり身近なものになってきているのは確かだろう。

ただ、シュタイナーの本は、決して難解ではないし、読みにくくもないのだが、ことをあまり単純化されたり、一面的に理解されることを嫌ったようで、明解な表現とは言いにくいものも多い。また、本も講演集など信じ難いほど多く、そのごとに、違った側面から述べるということをしているようである。それで、全体像がつかみにくいという面もある。

(あるいは、内容的な面よりも、ことさら倫理的な面が強調されているのが、とっつきにくいということもあるかもしれない。しかし、私のように、シュタイナーの考えからすれば、明らかに逸脱的な方法で、霊的なものに接することになった者にとっては、このような点を予め強調するのも理解できる。本当に、安易には近づけるものではないし、「危険」は、大きく口を開いて、待ち構えているからである。)

それにしても、主要著作は、ほぼ文庫という形で出ているし、おおまかな点を押さえるなら、これを読めば十分ではないかと思う。(ちくま学芸文庫『神智学』、『神秘学概論』、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』など)

ただ、「アーリマン存在」などの「逸脱的存在の論」については、特にそれを主題に述べた本もあって、ここではそれらをも参照することになる。

シュタイナーの「逸脱的存在の論」は、主に二つの面からみることができると思う。一つは、まさに、人間とは異なる霊的存在としての「アーリマン存在」「ルシファー存在」そのものに着目するものである。これらは、人間と進化史上密接な関係を有するもので、ある意味では、人間の「創造」にも関わっている。それは、人間に自らの性向を「植え込ん」で、それを育て、同じような「逸脱的方向」に導こうとするものである。

もう一つは、現に進化史上、そのような性向をもつこととなった人間の内部のあり方に着目するものである。人間の進化の問題として、そのようなものと、どのように向き合い、対処していけばいいかという視点である。こちらは、「アーリマン存在」とか「ルシファー存在」という言い方に対しては、「アーリマン的なもの」とか「ルシファー的な性向」などと表現されることになる。

いずれにしても、このような「存在」をみるときに、この両者の視点は、欠かせないものだと思う。外部的な「存在」の面ばかりからみられれば、人間の現実から離れた、抽象的な議論に陥り易いし、逆に人間の内部的な面ばかりからみられれば、分かり切ったことの蒸し返しで、何ら本質的(全体的)な面が明らかにならない。常に、この両者をつなぐような視点をもって、臨むのが望ましいのである。(「分裂病的現実」についてみるときにも、この両視点が必要である)

シュタイナーの本では、イザラ書房『悪の秘儀』が主に、後者の視点から重点的に、「アーリマン的なもの」と「ルシファー的なもの」について述べている。

また、水声社『霊界の境域』は、「この感覚界と霊界を分かつ境界を越えるとき」に認識されるものを重点的に述べている。まさに、そのような「境界」でこそ、さ迷うことになる、分裂病的状況とも大きく関わるし、「アーリマン存在」や「ルシファー存在」を含めて、その状況で出会われるものが、簡潔に述べられている。

また、春秋社『カルマ論』は、肉体に影響を及ぼす「霊的身体」に、これらの存在がいかに作用して、病気等をもたらすかを述べたものである。そこには、分裂病的状況とも関わる、「幻覚」や「錯誤」もとり上げられている。また、「アーリマン存在」と「ルシファー存在」の、人間に対する関係がかなり詳しく述べられているので、参考になる。

前者の、「アーリマン存在」や「ルシファー存在」というのが、そもそも(宇宙進化的に)何ものなのかという点は、概ね『神秘学概論』に述べられている。「進化から逸脱する」ということの意味や、他の「霊的存在」との関係についても、ほぼ述べられている。

なお、私自身は、シュタイナーの「宇宙進化論」には、かなりの疑問もあって、全体として受け入れている訳ではないが、これらの存在と人間との関係については、十分納得できるものがあると思っている。そこで、シュタイナーの「宇宙進化論」には、あまり言及せずに、もっぱら人間との関係についてを重点的に紹介することになる。(興味がある人は、『神秘学概論』などで補ってほしい)

それでは、まずは、現に我々の内部にある、「アーリマン的なもの」とか「ルシファー的なもの」とはどういった性質なのか、という点からみていくことにしよう。できるだけ、身近で具体的なところから入って行くのがよいと思うからである。

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