「防衛反応」としての「妄想」
前回、カスタネダの「カラスとなって空を飛ぶ」ことに絡めて語ったことは、これまで述べて来た基本的な事柄を踏まえて、「ギリギリ」のところではこういうこともある、ということなのだった。
あくまでも、基本は、「分裂病的現実」と「日常的」「物理的現実」は区別しなければならないということ。しかし、それにも拘わらず、時に両者が微妙に交錯し、区別し難い現象となって生じる場合もあるということである。
また、そのような場合でも、それを全体として、「未知の現実」のひとつの現れとして受け止めることができれば、さほど問題は生じない。それを、単純に「物理的現実」そのものとして受け止めて、その「現実」レベルで反応してしまうのとは、大きく異なるからである。
ただ、「未知の現実」を、そのように「物理的現実」と交錯する(あるいは、むしろそれを「包含する」ということなのだが)ものとして認めるということは、少なくとも、それまで「物理的現実」においていたのと同じ程度の強さで、「現実」と認めることを意味する。
「物理的現実」とは「別」の現実というと、我々が通常接している物理的現実とは何ら交渉しないもの、あるいは、確たる基盤を持たないあやふやなもの、というニュアンスを帯びてしまいやすい。しかし、それが、決してそういったものではないことを、このような現象(物理的現実との交錯)は、明らかにするものといえる。
ただ、前回の後半の部分で述べた、「未知の現実を受け入れることが要である」という説明は、既に述べたことを前提にしていたこともあって、分かりにくいところがあったかもしれない。
そこで、ここでもう一度、「未知の現実」を受け入れることの重要性について、少し具体的に述べ直してみたい。特に、それを、あえて「未知」と表現することの意味と、その「未知」の現実を、それとして認めることを拒む「防衛反応」こそが「妄想」なのだという点を、再び明確にしておきたい。
「妄想」の形成は、「防衛反応」として致し方がない面もあるが、しかし、「防衛」的意味合いがある分、また、そこから抜け出すことを難しくしている。それこそが、分裂病の問題をことさら厄介にし、また、真の問題(真に起こっていること)を覆い隠してもいるのである。
そして、そのような反応から抜け出すには、結局のところ、そのように真に起こっていることと向き合い、それを認めていくということの他はないのである。
さて、まずは「防衛反応」ということの意味についてだが、これは、フロイトの精神分析がいうのと基本的には同じことである。「無意識レベルにはあるもの、あるいは無意識に感じとられていることを、意識レベルでは認められないために、それに直面することを避けようとしてとる行動」ということである。
典型的には、「無意識にあるもの」とは、本人の意識しない隠された欲望や、過去に受けた受け入れ難い心の傷(トラウマ)などである。それらは意識との間にさまざまな葛藤を生むし、それと直面することを避けようとして、さまざまな「不合理」な行動をとらせる。そういった行動は、時にヒステリーなど病理的反応をもたらす。また、身近なところでは、本来自分にあるものを、他人のもののように「投影」して、他人を非難、攻撃するというのも、そのような防衛反応の一つである。
そして、そのような、時に病理的となる反応から解放されるには、結局は、拒否されている「無意識の内容」に意識が直面して、それを受け入れることができなければならないととされる。
分裂病の場合の「CIAに狙われる」や「電波で攻撃される」などの「妄想」も、またそのように、「無意識にある」何ものかに直面することを避けようとして生じているということである。
ただ、分裂病の場合、「妄想」の内容自体が、途方もなく、しかも切迫したものなので、それが「防衛反応」であることには、気づかれにくいかもしれない。
しかし、多くの者は、その途方もない「妄想」の方向に沿って、ほとんどとりつかれたように行動をとることになるが、そのような行動(への没入)こそが、無意識レベルで起こっていることから目をそらさせるのである。言い換えれば、そのような途方もない「妄想」でしか、防衛のしようがないだけの、実際に「途方もない」ことが、起こっているということなのでもある。
また、分裂病の場合、隠された欲望や心の傷と違って、「無意識にあるもの」というのが、周りからは全く見えにくいはずである。
実際、この場合の「無意識にあるもの」というのは、かなり特殊なものと言わなければならない。それは、隠された欲望とか個人的な体験としての心の傷などとは違って、「本来的」に、捉え難く、見え難いのである。実際、一般的にも、精神分析的な方法では、分裂病の源を解明するのは無理だと思われているが、それはそのように捉え難く、実際明確に捉えられたことがないからである。
また、「脳の病気」ということが言われるのも、そういえば、その捉え難いものを問題とせずに、すべてが脳の問題として片付けられるかのようであるからである。
しかし、それは、「捉え難」く、「見え難い」とはいえ、「力」のないものではない。実際に、意識あるいは「自我」にとっては、強烈に破壊的な効果をもたらすのが、はた目からも明らかである。本人にとっても、それは差し迫った強い危機感として、はっきり意識されるものとなる。さらに、それは、単に個人的な「自我」の「在り方」を脅かす性質のものというよりも、それまでの体験上築かれて来た、「自我」(あるいはそれに対置される「世界」でもある)の全体あるいは根っこの部分を脅かす性質のものといえるのである。
また、重要なのは、この場合、「無意識にあるもの」は、もはや隠されているというよりも、意識を捉えんばかりに、差し迫って来ているということである。それで、意識の側の「防衛反応」も、もはや単純なごまかしでは効かず、それなりの内容のもので、しかも切迫したものとならざるを得ない。
つまり、そこでは、もはや意識の側にとっても、はっきり、「何かこれまでに経験のない、尋常でない出来事」が起こっていること自体は、ごまかしようがなくなっている。そこで、「防衛反応」といっても、そのこと自体は認めざるを得ない。ただ、その具体的内容については、その認め難い点からは、はっきりズレた解釈を志向するということが起こるのである。
それは、端的に言うと、起こっていることが、切迫した「危機」ではあっても、それまでの自己(の連続性)を根本的に脅かすような、全く「未知」で、「手に負えない」代物であってはならないということである。それで、それは、何かしら自己の体験上「馴染み」のある、対処のしようのある(かの)ようなものに、いわば「すり替え」られなければならない。そして、実際に、それを自ら「確信」し(たように振る舞い)、(はた目には不合理でも)一応ともその方向で対応行動がとれることが重要なのである。
だから、その「妄想」は、決して恣意的なものでいいのではなく、自らが確信できるだけの、「リアリティ」を備えていなければならない。そして、それは、多く、自らが現に体験している「幻覚」の内容の、何ほどかを意識がくみ取ることで達せられる。
例えば、「CIAに狙われる」という妄想の場合、「何者か、尋常でない力を持ったものが、自己に付きまとい、組織的に(多くの者を巻き込み)、自己を陥れようとする」ということが、意識が現に「幻覚」の内容からくみとった感覚として反映されていると考えられる。それで、そのこと自体には、疑いようのない「リアリティ」がある。が、その「何者か」を、「CIA」という「現実社会」の権力組織として「解釈」あるいは「決めつけ」する点に、今述べたような「防衛反応」が明らかに入り込んでいるとみられるのである。
(「電波で攻撃される」も同じで、「何らかの情報の媒体あるいはエネルギーで、自己が侵害されている」というのが、本人の偽らざる「リアリティ」であろうが、それは「電波」という一応なりとも「馴染み」のあるものにすり替えられている。最近は、「テレパシー」も、決して「馴染み」のないものではないし、「電波」よりもより「リアリティ」を反映する面があるので、よく使用される。)
しかし、そこには、当然「無理」があるし、実際、起こっていることを無理に自己の体験の延長上(それは、多くの者にとって、正しいかどうか容易に判断できる「現実」上、ということでもある)に引き寄せることによって、むしろその内容は、客観的に「誤り」であることがはっきり分かるものになってしまっている。
恐らく「防衛反応」としては、その当たりが「限界」なのだろうが、その「無理」は、自らが、「誰に何と言われようと確信し続ける」ということでもって、補われなければならないことになろう。
実際、分裂病の者は、「妄想」を「確信する」ということが言われ、それこそが、分裂病の「妄想」の特徴なのだが、本当のところ、本人が心の底からそう確信しているかどうかには、疑わしいところもあるはずである。(例えば、「電波で攻撃される」であれば、アルミ等の金属のテープで窓や壁を覆うなどの防衛手段がとられるだろうが、それが本当に(電波に対して)効果のあることかどうかなどには、ほとんどお構いなしにされているところがあるはずである。)
実際には、本人も心のどこかで、本当に起こっていることと、自ら信じていることに「ズレ」があることを感じ取っているはずだからである。しかし、そうであればあるほど、それに目をつむるためには、ますます自ら「妄想」を確信した振る舞いを続けて行かなければならないのである。
このように、自己の体験の延長上に表現された「妄想」というのは、「現実」と「幻想」の単純な混同というよりも、一つの(避け難い)「防衛反応」なのである。だからこそ、容易には覆えせないし、厄介なのである。
それにしても、そこまでの「防衛反応」を取らせてしまうもの、つまり、そうまでしても直面することを避けたい「真に起こっていること」というのは、一体どういう性質のものなのかということが、改めて注目されなければならない。
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