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2006年10月

2006年10月25日 (水)

「分裂病的現実」の現れ易さ―「分裂気質」の問題

私のこれまで述べて来たことは、ある者に、「分裂病的状況」というものを引き起こす(外部的な)「現実」というものがあるということ、そして、それに対する(病的な)「反応」が「分裂病」という状況なのだということだった。

しかし、このような見方には、何か(抽象的であいまいな)「外部的」要因ばかりが持ち出されて、その者自身の(具体的な)「問題」が無視され過ぎている、と感じるかもしれない。

これは、例えばユングなどもそうで、普遍的無意識にある元型的なもの(力)が「分裂病」を引き起こすという見方なので、その者自身の問題はほとんど重視されていない。

しかし、自ら「分裂病と類似」の体験をし、身をもってそのような力を実感したユングにとって、本質的には、意識または自我の側からは、「外部」的となる領域からくるものこそが、分裂病を引き起こしていることは「自明」のことだったと思われる。「それがない限り、分裂病は起こりようがない」という意味で、それこそが本質的なものなので、その者の個人的な事情については,あまり重視する気にならなかったのだと思われる。

ただし、「自我」が、これらの力にどう対応するかで、分裂病状態に陥るかどうかが決まるということ。また、一般的に、分裂病状態に陥る者の、「自我」の弱さということは言われている。が、その場合でも、それは起こってくる側の力の強さとの相関関係によるのであって、その力が強い場合には、自我が強くても分裂病状況に陥る可能性があるし、その力が弱い場合には、自我が弱い場合に、分裂病状況に陥るということになる。いずれにしても、主眼は、あくまで起こってくる側の方に向けられていたのである。

私も、この点では同じ考えで、個人的な事情は、分裂病的状況が現れる「契機」の問題として、あまり重視はしていない

しかし、個人的な事情は、「分裂病的現実の現れ易さ」の問題であるし、多くの者にはそれが現れないのはどうしてなのか、という問題とも絡んでくる。決して無視はできないので、簡単にだが、ここでざっとみておくことにしたい。

                   分裂病的現実
                          ↓
    個人的性質  →→→ 分裂病的状況(反応)

     (現れ易さ)

「分裂病的現実」とその者の「個人的性質」、そして「分裂病的状況(反応)」 という結果について図示すると、上のようになる。

「個人的性質」については、一般にも、「分裂気質」という言い方で、分裂病になり易い傾向または親和性ということが言われている。確かに、そのようなものはあると思われる。ただ、それには、厳密にはいくつかの側面があって、「分裂病的現実」を「引き寄せ」易いという面、また、そのような「現実」を「意識」し易いという面、さらに、そのような現実によって、「翻弄」され易いという面などに分けられる。

「分裂気質」というのは、一般に、内気で非社交的、人との交流を避ける、まじめで控えめな気質とされる。感情的には、平坦で、表情に出ないが、感受性が強く、敏感で、劣等感を持ち易い。

なお、中井久夫の「S(分裂病)-親和者」という見方も、興味深い。かすかな徴候をも逃さない先取り的な構えが特徴で、文明史的には狩猟民的特性に当たるとされる。権力と支配の構造の中での、蓄えを生業の基本とする、農耕民的特性、「強迫症親和者」と対比される。(『分裂病と人類』)文明史的視点から捉えられているのと、個と集団の関係に着目されているのが適確といえる。

しかし、そのような者が、一般的に「分裂病」的状況に陥るというのではなく、普通は、その気質を通して、ある「問題」を引き起こすという現実的な契機を通してである。それは一言で言えば、「不適応」状態ということである。

「不適応」というのは、ある「集団」または「社会」に対して、うまく溶け込めない、違和感がある、反発があるなどの理由により、引き起こされるものである。そもそも「不適応」がない状態というのは、いわば物事が「自然に」運ばれていく状態なので、分裂気質の者であっても、特別に意識が滞ったり、何かを気にかけたりすることはない。

ところが、このような「不適応」状態を通して、「世界」の流れがせき止められ、意識が様々な葛藤や滞りを生み、いわば異常に高まるきっかけになる。

それは、もちろん多分に元々の気質によるのだが、ふだん意識しない細かい事柄までをも意識させ、全てにおいて異常に過敏になる。分裂病的状況に陥る時には、まさに全く「自然さ」を失い、世界の全てが異様なものと化してくるまでに至る。

このような状況によってこそ、「分裂病的現実」は、「引き寄せ」られ、あるいはさらに、「意識」され得るものとなる。

つまり、「分裂気質」というのは、元々過敏で、感受性の強い面をもっているとしても、それが本当に、「問題」として浮上するのは、ある集団との関係での「不適応」状態を通してであるということである。

「分裂気質」の者は、「集団」との間に葛藤、齟齬を来たし易いということが一つのポイントとしてある。それは、「集団」にはつきものの(人が個人レベルでいるときとは明らかに異なる)、ある独特な何ものかに対して、強い違和感や恐れを感じ易いということである。「対人恐怖」ということが言われる場合でも、それは、単にある特定の人物に対してというよりも、「集団」との関係においてなのである。(例えば、ある集団の中で、それを陰に陽に代表するような位置にある者に対して)

恐らく、「分裂気質」に対置される「躁鬱気質」の者は、むしろそのような「集団」との在り方にこそ重きを置くので、「集団」を重視しない「分裂気質」の者の在り方が、より問題として浮上してくるのである。

しかし、分裂気質の者がそのような「集団」に違和感や反発を感じるのは、物理的な「集団」それ自体にというのではなくて、(本人が意識するかどうかは別にして)、そこに作用するある「権力的」な面なのである。それは、集団には常に潜在しているともいえるが、特に、ある状況下で、「とりつく」かのように強烈に表面化することが多い。

彼には、それが何か途方もなく異様なものとして感じられ、どうしても肌に合わず、反発や恐れを感じるのである。その結果、彼は、その集団や人そのものに対して、「不適応」を起こすことになってしまう。

このように、彼は、「集団」に作用する「権力的な要素」に違和感、反発を感じるのだが、決して「集団」に対する「適応」を放棄している訳ではない。むしろ、「集団」に対する自己の「不適応」状態には、(少なくとも潜在的には)葛藤または恐れを抱いているのである。彼は、一種の「ダブルバインド」(二重拘束)状況にある訳で、嫌悪し、反発すると当時に、廃除されることを恐れてもいるのである。(もし、集団への適応が放棄されていて、それに開き直っていられるのであれば、恐らく分裂病状況に陥ることはないと思われる)。

そのような状況にあって、彼が「引き寄せ」ているもの、つまり彼に「付きまとう」ものとは、とりあえず、彼が反発し、嫌悪しつつ、恐れてもいる、当の「集団性」そのものといえる。それは、目に見える形で言えば、「多くの<他者>」であり、「組織」である。

しかし、実質的には、その背後に働いている「権力的な作用」こそが問題である。それは、抽象的なものではなくて、捉え難く見え難いとしても、現に彼が肌で感じている具体的な何ものかである。そして、その当体は、今や彼に「まとわりつく」という形で、ほとんど露わにされようとしている。彼が嫌悪し、反発し、同時に恐れても来た、その真の当体が、そこでは牙をむき、正体を露わに迫って来ているのである。

それは、強い防衛意識を喚起するので、「妄想」のベールの下に隠されることにもなる。しかし、そのような当体こそ、人間の内部のものとしてか、さらにそれを超えたものとしてかは、とりあえずおくとして、「アーリマン的な力」の作用と言わねばならないのである。(この点は、前にラカンの他者論にからめて少し述べたが、詳しくは、後にこの存在について述べるときにみる。)

何しろ、彼は、自ら反発すると同時に恐怖する「集団性」と、その背後に働く「力」によってこそ、「迫害」され、苛まれるということである。それは、確かに、彼の「集団」に対する現実的な状況(問題)の「反映」と言わねばならない。但し、それは、単に彼の「恐怖」の観念的な「反映」ということなのではない。(それのみでは、「分裂病」に陥ることはないと断言できる。)そこには、具体的な「力」も招き寄せられているのである。

ところで、分裂気質と対置される「躁鬱気質」の場合は、そのような「集団性」に重きが置かれていると言った。それは、分裂気質の場合と比べて、そのような「集団性」が、潜在的、一般的に、概ね「受け入れ」られているということである。また、その分、いわば「身近」なものなので、それへの処し方も、分裂気質の者のようにぎこちなくはなく、自然に身につけてしまう。

分裂気質の者が、異様なものとして、どうしても受け入れ難いと感じる、背後の「権力的な作用」(アーリマン的な力)との関係で言うと次のようになる。

恐らく「躁鬱気質」の者も、無意識レベルでは、そのようなものを感じとっていない訳ではない。むしろ、それへの潜在的な恐怖を十分感知しつつ、抱えているからこそ、そのレベルで、一種の「服従」というか、一般的な「受け入れ」を果たしているのだと言える。それは、一つの「現実的」な感覚で、集団への適応的な対応も、そのような点から来ているものといえる。

逆に言えば、分裂気質の者は、潜在的、一般的なレベルでは、このような力を(真に恐れていないのか、単に「甘い」のかは別にして)まともに認めず、受け入れることが拒否されている。それは、言い換えれば、そのような力への警戒や準備が十分できていないということでもある。それで、実際に、それが間近に迫って来たときには、適当な対応ができにくく、またその時とばかりに、大きな恐怖を味わわされることになる。

だから、そのような「力」は、分裂気質の者が「引き寄せ」ているのであると同時に、その「力」の側からしても、そのような者に積極的に(攻撃的に)働きかけるだけの理由があるともいえる。前回、「必ずしも特定の意図に基づく訳ではない」と言ったが、そのような、「目にものを見せてやる」といった面は、恐らくあるのだと思う。

逆に言えば、分裂病的現実が「遮断」されているというのは、そのような「力」とある種の「融和」ができていて、ことさら「標的」にならずに済んでいるということでもある。

いずれにしても、彼は、以後その拒否され、反発されている「アーリマン的」な力によってこそ、付きまとわされ、分裂病的状況に追い込まれて行くのである。

そこには、確かに、感受性の強さや、敏感さのため、そのような力の働きをより意識し易く、より恐怖と混乱を増していくという面がある。(前に述べたように、何らかの形で「意識」」を巻き込まない限り、潜在的な影響ということはあっても、「分裂病的状態」に陥ることはない。)また、一般にいう「自我の弱さ」のため、そのような力の働きに、より翻弄され易いということも言えるだろう。

但し、「自我(または「アイデンティティ」)というのも、また、「集団」との関係で規定されるものであって、抽象的に「強い」か「弱い」かを云々してもあまり意味がない。「集団」との関係がうまく行かない場合には、不安定さや、ある種の「弱さ」を抱え込むことになるし、また「集団性」に対する防御力という意味では、分裂気質の者は、どうしても「弱さ」を抱えざるを得ないと言える。

さらに、分裂気質と躁鬱気質の者の対比で言えば、分裂気質の者は、いわゆる「内向的」な傾向が強く、躁鬱気質の者は、「外向的」な傾向が強いと言える。ところが、(内向的、外向的という区別を言い出した)ユングは、実際には、外面上「内向的」な者は、内面においてはむしろ「外向的」な面が強く、「外向的」な者は、むしろ内面では、「内向的」な面が強いという、補償的な関係を強調した。

それは実際にあって、「内向的」で、あまり他の者を気にしないように見える者も、内面的には、むしろ非常に他者のことを気にかけているところがある。分裂病的状況では、そのような内面的な面こそが現れるのであり、普段はあまり気にかけない「他者」のことが、そこでは異常に気になって、過剰に反応しているということがいえる。それがまた、分裂病的状況に拍車をかけているのである。外向的な者は、普段は他者のことを気にかけていても、むしろ内面的には自己向きで、それほど他者のことに翻弄されないということがいえる。

このように、様々な個人的性質が、「分裂病的現実の現れ易さ」となって働く訳だが、それは、そう単純に一般化できないし、「分裂病的現実」という外部的要因との関係でみない限り、具体的にはあまり意味をなさない。

いずれにしても、それは、「分裂病的現実」が現れ易いか否かの問題なのであり、重点は、やはり「分裂病的現実」そのものの側にあると言わなければならない。そこで、次回からは、その中でも最も強い働きをすると思われる、「アーリマン存在」について、それなりに突っ込んでみていきたいと思う。

2006年10月 5日 (木)

「防衛反応」としての「妄想」

前回、カスタネダの「カラスとなって空を飛ぶ」ことに絡めて語ったことは、これまで述べて来た基本的な事柄を踏まえて、「ギリギリ」のところではこういうこともある、ということなのだった。

あくまでも、基本は、「分裂病的現実」と「日常的」「物理的現実」は区別しなければならないということ。しかし、それにも拘わらず、時に両者が微妙に交錯し、区別し難い現象となって生じる場合もあるということである。

また、そのような場合でも、それを全体として、「未知の現実」のひとつの現れとして受け止めることができれば、さほど問題は生じない。それを、単純に「物理的現実」そのものとして受け止めて、その「現実」レベルで反応してしまうのとは、大きく異なるからである。

ただ、「未知の現実」を、そのように「物理的現実」と交錯する(あるいは、むしろそれを「包含する」ということなのだが)ものとして認めるということは、少なくとも、それまで「物理的現実」においていたのと同じ程度の強さで、「現実」と認めることを意味する。

「物理的現実」とは「別」の現実というと、我々が通常接している物理的現実とは何ら交渉しないもの、あるいは、確たる基盤を持たないあやふやなもの、というニュアンスを帯びてしまいやすい。しかし、それが、決してそういったものではないことを、このような現象(物理的現実との交錯)は、明らかにするものといえる。

ただ、前回の後半の部分で述べた、「未知の現実を受け入れることが要である」という説明は、既に述べたことを前提にしていたこともあって、分かりにくいところがあったかもしれない。

そこで、ここでもう一度、「未知の現実」を受け入れることの重要性について、少し具体的に述べ直してみたい。特に、それを、あえて「未知」と表現することの意味と、その「未知」の現実を、それとして認めることを拒む「防衛反応」こそが「妄想」なのだという点を、再び明確にしておきたい。

「妄想」の形成は、「防衛反応」として致し方がない面もあるが、しかし、「防衛」的意味合いがある分、また、そこから抜け出すことを難しくしている。それこそが、分裂病の問題をことさら厄介にし、また、真の問題(真に起こっていること)を覆い隠してもいるのである。

そして、そのような反応から抜け出すには、結局のところ、そのように真に起こっていることと向き合い、それを認めていくということの他はないのである。

さて、まずは「防衛反応」ということの意味についてだが、これは、フロイトの精神分析がいうのと基本的には同じことである。「無意識レベルにはあるもの、あるいは無意識に感じとられていることを、意識レベルでは認められないために、それに直面することを避けようとしてとる行動」ということである。

典型的には、「無意識にあるもの」とは、本人の意識しない隠された欲望や、過去に受けた受け入れ難い心の傷(トラウマ)などである。それらは意識との間にさまざまな葛藤を生むし、それと直面することを避けようとして、さまざまな「不合理」な行動をとらせる。そういった行動は、時にヒステリーなど病理的反応をもたらす。また、身近なところでは、本来自分にあるものを、他人のもののように「投影」して、他人を非難、攻撃するというのも、そのような防衛反応の一つである。

そして、そのような、時に病理的となる反応から解放されるには、結局は、拒否されている「無意識の内容」に意識が直面して、それを受け入れることができなければならないととされる。

分裂病の場合の「CIAに狙われる」や「電波で攻撃される」などの「妄想」も、またそのように、「無意識にある」何ものかに直面することを避けようとして生じているということである。

ただ、分裂病の場合、「妄想」の内容自体が、途方もなく、しかも切迫したものなので、それが「防衛反応」であることには、気づかれにくいかもしれない。

しかし、多くの者は、その途方もない「妄想」の方向に沿って、ほとんどとりつかれたように行動をとることになるが、そのような行動(への没入)こそが、無意識レベルで起こっていることから目をそらさせるのである。言い換えれば、そのような途方もない「妄想」でしか、防衛のしようがないだけの、実際に「途方もない」ことが、起こっているということなのでもある。

また、分裂病の場合、隠された欲望や心の傷と違って、「無意識にあるもの」というのが、周りからは全く見えにくいはずである。

実際、この場合の「無意識にあるもの」というのは、かなり特殊なものと言わなければならない。それは、隠された欲望とか個人的な体験としての心の傷などとは違って、「本来的」に、捉え難く、見え難いのである。実際、一般的にも、精神分析的な方法では、分裂病の源を解明するのは無理だと思われているが、それはそのように捉え難く、実際明確に捉えられたことがないからである。

また、「脳の病気」ということが言われるのも、そういえば、その捉え難いものを問題とせずに、すべてが脳の問題として片付けられるかのようであるからである。

しかし、それは、「捉え難」く、「見え難い」とはいえ、「力」のないものではない。実際に、意識あるいは「自我」にとっては、強烈に破壊的な効果をもたらすのが、はた目からも明らかである。本人にとっても、それは差し迫った強い危機感として、はっきり意識されるものとなる。さらに、それは、単に個人的な「自我」の「在り方」を脅かす性質のものというよりも、それまでの体験上築かれて来た、「自我」(あるいはそれに対置される「世界」でもある)の全体あるいは根っこの部分を脅かす性質のものといえるのである。

また、重要なのは、この場合、「無意識にあるもの」は、もはや隠されているというよりも、意識を捉えんばかりに、差し迫って来ているということである。それで、意識の側の「防衛反応」も、もはや単純なごまかしでは効かず、それなりの内容のもので、しかも切迫したものとならざるを得ない。

つまり、そこでは、もはや意識の側にとっても、はっきり、「何かこれまでに経験のない、尋常でない出来事」が起こっていること自体は、ごまかしようがなくなっている。そこで、「防衛反応」といっても、そのこと自体は認めざるを得ない。ただ、その具体的内容については、その認め難い点からは、はっきりズレた解釈を志向するということが起こるのである。

それは、端的に言うと、起こっていることが、切迫した「危機」ではあっても、それまでの自己(の連続性)を根本的に脅かすような、全く「未知」で、「手に負えない」代物であってはならないということである。それで、それは、何かしら自己の体験上「馴染み」のある、対処のしようのある(かの)ようなものに、いわば「すり替え」られなければならない。そして、実際に、それを自ら「確信」し(たように振る舞い)、(はた目には不合理でも)一応ともその方向で対応行動がとれることが重要なのである。

だから、その「妄想」は、決して恣意的なものでいいのではなく、自らが確信できるだけの、「リアリティ」を備えていなければならない。そして、それは、多く、自らが現に体験している「幻覚」の内容の、何ほどかを意識がくみ取ることで達せられる。

例えば、「CIAに狙われる」という妄想の場合、「何者か、尋常でない力を持ったものが、自己に付きまとい、組織的に(多くの者を巻き込み)、自己を陥れようとする」ということが、意識が現に「幻覚」の内容からくみとった感覚として反映されていると考えられる。それで、そのこと自体には、疑いようのない「リアリティ」がある。が、その「何者か」を、「CIA」という「現実社会」の権力組織として「解釈」あるいは「決めつけ」する点に、今述べたような「防衛反応」が明らかに入り込んでいるとみられるのである。

(「電波で攻撃される」も同じで、「何らかの情報の媒体あるいはエネルギーで、自己が侵害されている」というのが、本人の偽らざる「リアリティ」であろうが、それは「電波」という一応なりとも「馴染み」のあるものにすり替えられている。最近は、「テレパシー」も、決して「馴染み」のないものではないし、「電波」よりもより「リアリティ」を反映する面があるので、よく使用される。)

しかし、そこには、当然「無理」があるし、実際、起こっていることを無理に自己の体験の延長上(それは、多くの者にとって、正しいかどうか容易に判断できる「現実」上、ということでもある)に引き寄せることによって、むしろその内容は、客観的に「誤り」であることがはっきり分かるものになってしまっている。

恐らく「防衛反応」としては、その当たりが「限界」なのだろうが、その「無理」は、自らが、「誰に何と言われようと確信し続ける」ということでもって、補われなければならないことになろう。

実際、分裂病の者は、「妄想」を「確信する」ということが言われ、それこそが、分裂病の「妄想」の特徴なのだが、本当のところ、本人が心の底からそう確信しているかどうかには、疑わしいところもあるはずである。(例えば、「電波で攻撃される」であれば、アルミ等の金属のテープで窓や壁を覆うなどの防衛手段がとられるだろうが、それが本当に(電波に対して)効果のあることかどうかなどには、ほとんどお構いなしにされているところがあるはずである。)

実際には、本人も心のどこかで、本当に起こっていることと、自ら信じていることに「ズレ」があることを感じ取っているはずだからである。しかし、そうであればあるほど、それに目をつむるためには、ますます自ら「妄想」を確信した振る舞いを続けて行かなければならないのである。

このように、自己の体験の延長上に表現された「妄想」というのは、「現実」と「幻想」の単純な混同というよりも、一つの(避け難い)「防衛反応」なのである。だからこそ、容易には覆えせないし、厄介なのである。

それにしても、そこまでの「防衛反応」を取らせてしまうもの、つまり、そうまでしても直面することを避けたい「真に起こっていること」というのは、一体どういう性質のものなのかということが、改めて注目されなければならない。

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