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2006年6月15日 (木)

「妄想」の基には「幻覚」があるということ

さて、この後しばらくは、これまで取り上げた個々的な問題を、もう少し深く掘り下げていくことにしたい。できる限り、分かりやすく具体的に述べてゆくつもりである。

まずは、「幻覚」と「妄想」の関係について。

これまで述べて来たことで、重要な論点の一つは、「妄想」の基には「幻覚」があるということ。言い換えれば、「幻覚」が「妄想」を生むのだということがある。

分裂病で、「問題」が顕在化するのは、何らかの意味で周りを巻き込む行動に出るからで、その行動は多く「迫害妄想」に基づいている。周りにとって理解しがたい行動も、本人は、「迫害妄想」を確信することから、防衛的な意味で行っているのである。それにしても、周りにとっては、何故そのような「確信」的な「妄想」をもつのか、とても理解しがたい。

しかし、そのような「妄想」の基には、たとえ表面化しないとしても、まず「幻覚」がある。それは無意識的な過程を含み、本人が意識しない場合も多いのである。

「幻覚」とは、単純に「ないもの」を「ある」ものと誤ることだと、一般的にはイメージされている。しかし、後にみるように、そのようなイメージこそが、起こっていることを「幻覚」と自覚することを阻んでいる。

「幻覚」とは、実際には、どこまで意識化するかの問題とも絡む(意識化するほど細部が浮き上がり、他の感覚にまたがるものとなる)が、かなり複雑な過程をともなう「知覚」で、それは、単純に「ある」とか「ない」、あるいは「正しい」とか「誤っている」とかの問題ではない。

また、それは、それだけで生ずるというよりも、通常の「現実」の知覚と重なるようにして、あるいはその「背景」のようなものとして生じる。(例えば、他者の「声」の場合、現実の人物といる状況の知覚と重なるようにして生じるなど)ただ、それは、通常の「現実」の知覚以上の「リアリティ」をもって迫るし、「自分」との関係を大きく示唆する。それで、むしろその部分こそが、「特別」に印象づけられる。それは、通常の「知覚」からすれば、異様でなじみのないものだが、「現実」でないとして否定することはできないものである。

しかし、それらの「幻覚」から、直ちにその「意味」するところが明らかになるわけではない。むしろ、「幻覚」そのものは、異様で訳が分からず、それまでの体験上からは「未知」のものであることを示唆する。そして、そのような「未知性」こそが強い恐怖を呼び起こすのである。(「幻覚」の内容そのものが、「破壊的」な色合いをもつことにもよるが、その場合でも、本当の恐怖は、やはり「未知」であることの方にあるというべきである)

そこで、「妄想」というのは、むしろそれが「未知」のものであることを認めず、自分のそれまでの体験上の「現実」に、無理やり引き寄せて解釈されたものなのである。つまり、「妄想」というのは、「幻覚」が指し示す「事態」をそのまま認め難いために起こる、一種の防衛反応だということである。「妄想」の基に「幻覚」があると言っても、「幻覚」に対する単純な解釈が「妄想」なのではない点に注意を要する。

ところで、「幻覚」を「幻覚」として自覚することを阻む大きな理由として、次の二つがある。

一つは、「幻覚」が多くの場合、無意識的な過程を含むということである。それで、本人自身も、「妄想」の方向へ押しやるのが、何なのか自覚するのが困難なのである。そこで、「無意識」的な過程そのものに気づくことはなかなか期待できないが、予め「妄想」の基には「幻覚」があることを予期できれば、そこで「幻覚」が生じていることを自覚することの手掛かりにはなると思う。

もう一つは、「幻覚」というのは、「ないもの」を「ある」と誤るという単純な見方である。あるいは、「幻覚」というのは、要するに「病気」ということで、あまり「縁」のあるものではないというような見方である。

そのようなイメージだと、実際の「幻覚」というのは、予期もなく突発的に起こるのだし、「現実」と重なるように、強い「リアリティ」を伴って生じるので、まず「幻覚」として意識するのは難かしい。「幻覚」ということが「病気」を示唆するものだとすれば、なおさらその方向で考えることは、抑圧される。つまり、この見方は、むしろ自分の体験しているのが、「幻覚」ではないという思いを強める方向に働いてしまうのである。

さらに、この見方は、知覚しているものが、「幻覚」=「誤り」か、さもなければ、通常いう意味の「現実」そのものか、という二分法的思考を強いることになる。つまり、「幻覚」ではないとすれば、それは通常の「現実」の知覚そのものと解するほかないことになって、「現実」の領域での「妄想」の方向へと大きく押しやられる。「幻覚」のイメージ自体が、その自覚を困難にし、むしろ「妄想」の方向へ拍車をかけているということである。

(一般には、「幻覚」や「妄想」と自覚できない点を捉えて、「病識がない」などといわれる。そして、それ自体が「病気」の症状の一つのように解されている。しかし、これも、単に理解ができないために出てきた見方で、要するに、「おかしい」から「分からない」のだと言っているに過ぎない。)

つまり、「幻覚」というのは、単純な「誤り」とか「病気」の問題として済ませることはできないし、むしろそれこそが、「幻覚」の自覚を阻んでいる。しかし、一方では、「幻覚」を体験する時に、それを通常いう意味の「現実」そのものと区別することは、「妄想」を抑えるうえで、絶対に必要な第一歩である。(それが決して容易でないことは、繰り返し言うとおりである。また、「幻覚」を単純な「誤り」や「病気」として捉えることは、それを見極める経験をするという点でも、阻害する。)

従って、「幻覚」というのは、通常の「現実」の知覚(多くの者と共有する知覚)とは異なる知覚であることをはっきりさせたうえで、それとはまた別の、何らかの「現実」を反映するものという捉え方をするしかないのである。その「現実」なるものが、何を意味し、どのような意味で「現実」なのかという議論は、この場合、とりあえず留保しておいてよい。

ここでは、まず、「幻覚」を通常の「現実」と区別するということ、しかし、単純な誤りとして疎外するのではなく、一つの「現実」として「受け止め」ていくということが重要なのである。それは、「妄想」の方向を抑えるうえでの、第一関門のようなもので、一旦「妄想」ができあがってしまうと、もはや容易には引き返せない。それがいかなる意味で「現実」なのかという点は、その関門を越えたうえで、後に詰めて行けばよいことである。

あるいは、むしろそれが通常の「現実」とは異なる「未知」の「現実」と認めるということは、必然的に「解釈」の留保を伴うものといえる。「妄想」とは、起こっていることの「未知性」に耐え切れず、「解釈」を急ぐあまりに生じるものだからである。「未知」の「現実」を認めて、不安定な状態に止まることは、実際耐え難い状況なのではあるが、その関門はやはり越えなければならないものである。

一般的に、「幻覚」についての見方が変わり、それが一つの「現実」であることが受け入れられるようになれば、それもそう困難ではなくなると思う。

(最近は、一般に、「現実」とは、意識の状態によって「多様」なものであり得ることが、認められつつある状況といえる。そして、最近は、臨死体験やヘミシンクなどの変性意識状態に生じる「幻覚」が、一つの「現実」であることが示唆されつつある。「分裂病」の場合、「妄想」が入り込むために、単純な誤りとされ易いが、「幻覚」そのものは、基本的にはこれらと同じことなのである。)

私は、自分の体験の部分で、「幻覚」が指し示すものを、一種の「存在」や「力」として、かなり具体的に示したけれども、それはここではとりあえず一つの「解釈」ということにしておいて構わない。「妄想」の方向を抑えるためには、何よりもまず、「知覚」していることがらを、単純な「誤り」でもなく、また、通常いう意味の「現実」でもないことをはっきりさせることが必要だからである。そのためには、その「未知」の「現実」なるものの、間口を広く取っておくことも必要となるだろう。

このような意味で、「幻覚」が何らかの「現実」を反映するもので、また人を「狂気」に陥れるだけの「力」をもつものだという見方は、実際にはかなりあると言える。特に、ラカンやユングの精神分析(分析心理学)は、無意識の過程にも注目するし、「幻覚」が破壊的といえるだけの「力」をもった一つの「現実」であることを認めるものである。

また、実際の施設などでも、北海道浦河の「べてるの家」などは、「幻覚」を「幻聴さん」と呼んで、それを恐れたり、敵視したりするのではなく、「仲良く」付き合っていける方向を探り、かなりうまくいっているようである。(これらには、いずれもう少し詳しく触れてみたい)

現在、「分裂病」はかなり「軽症化」したといわれるが、それはこのように「分裂病」あるいはその重要な要素である「幻覚」が、かつてよりは理解される方向で「受け入れ」られつつあることも影響していると思う。全体として、そのような方向がさらに強まって行けば、「分裂病」が指し示す「現実」とは何かという根本的な問題も、いずれ煮詰めることができるようになるだろう。

そこでは、「自己が現実的ななにもの(なにごと)かによって、危機にさらされている」という意味で、「迫害」という意識自体は、疑いようのないものとして生じている。もはや、そのこと自体は、解釈によってもごまかし様がなくなっているのである。

しかし、その迫害の「主体」やあり様については、かなりねじ曲げられた解釈が入り込む。それは、具体的な「他者」や「CIA」などの組織による「現実」のものとされることで、その者のそれまでの「現実」の延長上に位置付けられるのである。(そこには、「幻覚」が「現実」の知覚と重なるように生じるため、両者を混同しやすいという点も確かにある。しかし、その場合でも、その解釈は、それまでの「現実」の方向に引き寄せられている面が大きいというべきである)

それによって、―あくまでも本人の意識にとってはだが―、いくらかでも、身近なものとして引き寄せられ、「対処」のしようのあるもののように、置き換えられているのである。あるいは、そのような危機の状況にあっても、「自己」または「世界」の「連続性」だけは、何とか維持されようとしているのである。

そこには、はた目には明らかな「誤り」や「無理」があるが、そのような解釈が、まだしも受け入れられるだけの「事態」が、「幻覚」によって示されているということである。また、その「リアリティ」は、「妄想」の内容はともかく、その強い「確信」という点に大きく作用してしまう。

私が、「妄想」の基に「幻覚」があることを強調するのは、一つは、このように表に現れた「妄想」は、単純に「おかしい」からとか「病気」だから生じるのではなく、それなりに理解可能な理由に基づいて起こることを明らかにしたいからである。

つまり、一見理解しがたい「妄想」も、それが「幻覚」によって示された事態に対する、一つの防衛「反応」であることが分かれば、さほど理解の難しいものではない。ただ、通常は、その基にあるといった「幻覚」が、大きく誤解され、なじみのないものであるために、なかなか具体的な理解には結びつかないのである。

こうしてみると、結局は、「幻覚」を理解することが、「分裂病」の理解や対処のカギといえることになる。言い換えれば、「幻覚」の不可解さや複雑さこそが、「分裂病」の理解しがたい反応を生んでいるのだといえる。

特に、「幻覚」というのは、単純に「ないもの」を「ある」と誤るとか、そのままが何かあるものを映し出すというのではなく、容易には表現し難いある「事態」を(部分的に)反映する、かなり複雑な過程であるという点。それは、通常の「現実」以上に強い「リアリティ」をもち、本人に「現実」であるとの強い意識をもたらすという点は、理解のためのポイントといえる。

いずれにしても、一つは、周りの者が「妄想」状態にある者を、理解するための重要な手掛かりとして「幻覚」があるということである。

しかし、もう一つは、現に「幻覚」を体験する本人自身にとっても、「妄想」的な解釈をできる限り抑えていくことが必要である。「幻覚」を直ちに「幻覚」と自覚することは難しいが、「妄想」の方向に行きそうになったときに、その基には「幻覚」があることを予期できれば、そのような方向は、いくらかでも抑えられる余地があるということてある。

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