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2006年3月

2006年3月28日 (火)

22 「闇」ないし「虚無」との接触

本当は、この出来事は直接分裂病的事態と関わるものではないかとも思い、ここでは触れないつもりでいた。しかし、私の一連の体験の一つのピーク体験として、まさに終焉をもたらした体験であることは間違いないので、ここまで私の体験を述べてきた締めくくりとして、やはり触れない訳にはいかないと思う。

また、分裂病体験一般にとっても、根源的には、むしろこの出来事によって触れられたものこそが、その根底にあって、全体を方向づけていると、改めて思う。その意味でも、これに触れない訳にはいかないと思い直した。

そこで、まずは、できるだけ、解説めいた「説明」を交えることなしに、当時起こったまま、感じとったままをそのまま再現することから始めてみたい。

起こった時期は、前回の「宇宙の死」を受け入れて、割と間もない頃だったと思う。部屋で座っていたら、突然強烈なエネルギーの塊のようなのが、一瞬にして、押し寄せてきた。それは、今まで述べたどの体験の比でもないくらいの圧倒的な力を感じさせるもので、映像的にも、はっきり「暗黒」そのものとして、見分けられるものだった。それが、部屋に差し迫り、さらに私自身に差し迫るのが分かったが、このときには、本当に今までにない「直接的」な恐怖(これまでの恐怖には、どこか間接的というか、観念的に膨らんでいくようなものがあった)を感じて、強く身構えた。

しかし、それは、私の身体に接触し、はっきり包みかぶさるまでになった。緊張はピークに達したが、不思議と恐怖そのものは、この接触が現に起こった時点ではもはやほとんど感じていなかった。その間、部屋の上半分がはっきり「暗黒」に染まり(むしろ「消える」と表現した方が正確かもしれない)、また私の身体の上半分が暗黒に染まったのが分かった。そこで、私は、恐怖というよりも、その張り詰めた緊張感に耐え切れなくなり、ふと一瞬、緊張を緩めた。すると、その「暗黒」のエネルギーの塊は、一瞬にして、スッーと立ち去って行ったのである。

「出来事」としては、ただこれだけのことで、時間にしても、ほんの数秒間のことだったかもしれない。しかし、この体験は、私にとって決定的なものになったのである。

まず、その体験の直後には、私は思わず心から苦笑していた。それは、これまでの恐怖だったり、苦痛だったりした一連の体験が、ある意味「幻想」であったと思えたからだと思う。「アール」などの存在についてはもちろん、その前に受け入れた「自己の死」や「宇宙の死」ですら、何かこの直接的な「リアリティ」に比べれば、「小さい」ことのように思われた。正確には、それらそのものが「幻想」だというのではなく、私のそれらに対する「反応」が、何か「幻想じみた」ものだったということである。

この「暗黒のエネルギーの塊」と接触している時には、そのようなもの(「存在」やら「思考」など)が入り込む隙は、一瞬もないくらい、極度に張り詰めた意識の状態にあった。それは、この暗黒のエネルギーの「リアリティ」が余りにも強烈すぎたということでもあるが、私は、その一瞬に、その「なにものも入り込めない」ほど隙もない状態こそが「真」の状態であるということ。しかし、私には、そのように極度に張り詰めた意識の状態には、とても長い間耐え切れそうもないということを、感じ取ったようである。(もちろん、これまでの過程でも、そのような意識の張り詰めた状態は続いていたのであるが、このときのはその比ではない。)

その一瞬の間に感じ取った、そういったことが、そのときの、「苦笑」となって現れ出たのだと思われる。それはある意味、それまでの一連の体験について、それを超えた位置から「客観視」するようにみられた、「総括」のようなものともいえる。ある意味、それで「ケリ」がついてしまったのである。そのようなものが、この一瞬の体験によって、もたらされることになったのである。

但し、プロセスとしていえば、この出来事に至る前に、「自己の死」や「宇宙の死」を受け入れていたことが大きいとも考えらる。それによって、既にそれまでの出来事に対する囚われのようなものは大きく失い、あるいは少なくとも、あがくことからは脱却していたといえるからである。(逆に言えば、真に自己の死を受け入れた者は、たとえ分裂病的体験に陥ったとしても、少なくとも廻りを引き込むような「妄想」的な反応はしないであろうと断言できる)

ただ、それのみでは、いわば「消極的」に、それまでの体験が超えられたと言えるに止まるだろう。しかし、この「暗黒のエネルギーの塊」との接触は、「積極的」な意味でも、一連の体験を真に超えさせるものとして働いたといえるのである。

実際的な観点から言うと、この体験の後には、お腹にいたはずの「小悪魔」がいなくなった。「アール」らの存在や「声」は、すぐさまではないが、徐々にあまり現れなくなり、また現れてもそれに囚われるということはほとんどなくなった(そのような状態は、現在までも続いている。ただし、現象そのものがなくなったのではないことには注意)。そして、何よりも、それらによって、意識の状態まで(その一連の体験のときのように、催眠に近いような変性した状態へ)「もっていかれる」ということはまずなくなったのである。

現在もそうであるが、それらが起こるとしても、「日常」の意識状態の連続の中で起こることであり、一瞬落ち込んだり、苦悩に陥ったりすることはあっても、それ以上に、それに囚われたり、振り回されたりすることはなくなったということである。(但し、今でも、何か非日常的な体験をしたときには、「思い出し」というのは節目節目に起こる。それは、かなり集中的なものとして起こるが、それで日常生活に支障が生じるということはない。)

ところで、この「暗黒のエネルギーの塊」についてだが、その体験の直後には、「宇宙の死」という観念を引きづっていたこともあって、物理的な宇宙論でいう、「ダークマター(暗黒物質)」なのか、などという考えも出て来てしまった。実際、それが本当に「物質的」といえるだけの「実体」を伴うものとして感じられたのは確かで、今でも、私は、それが何らかの意味で、「物質」の根源に関わるのではないかという見方をしている。

しかし、その時点で、その「暗黒のエネルギーの塊」についてあれこれ詮索するような考えは起こらず、要するに、それはこれまで体験したどのようなものをも大きく超える「未知のエネルギー」なのだということで、十分納得し、満足できた。それは、それがそのような「説明」といったものを寄せ付けない代物であろうことが直感されたのと、その「治癒的」ともいえる、実際的な効果だけで十分であった、というのがあろう。

また、もう一つは、実際に私はその後、少しずついわばリハビリのような状態に入るのだが、一連の体験を自分なりに「消化」するべく、いろいろ読書なども行なうことになる。そこで、まず問題になるのは、初めの頃の体験なのであって、それ自体理解し、消化するのにかなりの時間を要することなので、この「暗黒のエネルギーの塊」などは問題とするにしても、最後の最後に取っておくべき事柄であったというのもある。

そういう訳で、ここからは、この「暗黒のエネルギーの塊」について、自分なりの「解釈」であり、今現在における「理解」を簡単に述べてみたいと思う。大まかに言うと、私は2つの方向で、これを解釈している。

私が、初めに、この「暗黒のエネルギーの塊」を表すイメージとしてかなりピッタリくると思ったのは、「易」の本で、「太極図」の元の状態として紹介されていた、「無極」の図だった。円の中を白(陽)と黒(陰)が半分ずつ波打っている状態の「太極図」はよく知られているが、その陰陽の別れる元の状態を表す図として、「無極」の図(全体が真っ黒の円)と「太極」の図(全体が真っ白の円)が紹介されていた。そして、それらは本来「無極」にして「太極」、つまり同一物というのだが、その「無極」の図には、その時の「暗黒のエネルギーの塊」のイメージが重なって、ハッとしたのである。

既にみたとおり、「暗黒のエネルギーの塊」に覆われた瞬間、私の部屋と体が、上半分が黒(あるいはむしろ消えるという感覚なので「無」)下半分が白(部屋の壁が白色であったことにもよる)という具合に、くっきりと別れたのをはっきり見た。それは、偶然とは思いつつも、何か冗談めいてはいるが、そこで「太極図」のような一種の「タオ」が形成されたのか、などとも思えるものがあった。そもそも、私はこの体験の前に、イメージに現れ出た「白い人」に対して「タオ(道)でなければ…」、ということを言っていた訳だが、そのこととも関連があるのかもしれないと思えた。

そのようなことも重なって、この「暗黒のエネルギーの塊」とは、タオ的な「太極図」の特に「陰」の部分を形成させる元となる根源的な「無」というべきものを反映するのではないか、と思ったのである。

それは、一連のプロセスにおける出来事としてみても、「宇宙の死」という事態に引き続いて起こったものであり、「リアリティ」からいっても、それまでのプロセスにおける出来事をはるかに超え出ていた。そして、実際に、不思議なし方で、プロセス全体に終局をもたらしたのである。「宇宙の死」が、森山では「第3段階」で、最終段階とされていたが、この事態は、更にその後にくる「第4段階」ともいうべきもので、真の終局に位置するものともいえた。

但し、通常は、これに似た体験が分裂病的体験の過程で明らかになることはないようだが、しかし、同時に、分裂病的体験の過程全体に、ある背景のようなものとして、根源的には、これこそが常に彩りを与え、影響を与えているもののようにも思えるのである。通常は、これそのものが、本人の眼前に直接現れ出るということはないにしても、「自己の死」や「宇宙の死」を通り超した場合などに、私のように、それが何らかの形で直接に現れ出ることがあるようなのである。

そのようなものとして、これを表現するならば、それは「宇宙以前」あるいは「宇宙を超える」という面、つまり「有」的なものを超えるという面を孕んでいるというべきで、それは、根源的な「無」あるいは「虚無」というほかないと思われる。(直接眼前に現れ出ていたかどうかは別として、キルケゴールやハイデッガーなどの実存哲学者が、「虚無」として捉えていたのもこれだと思う。)または、その「暗黒」という性質をくみとっていえば、「闇」とでもいうほかないものである。あるいは、前回述べたように、その時間性・空間性を超え出て、「現在」に接近するという面からみれば、それはむしろ「現在」そのものの消息というほかないことになろう。

但し、私が接触した「暗黒のエネルギーの塊」そのものは、既に述べたとおり、物質的とすらいえる強烈なエネルギーに満ちたもので、現象的には「有」的なものと言わなければならない。また、そこには、ある種の「意志」のようなものも感じられ、その意味でも、ある「存在性」が認められるのではあるが、それは、これまでにみた「アール」などの「存在」とは、はっきり異質で、一定の「個性」とか「空間的な枠組」などには収まるようなものではない。

私としては、そのような根源的な「虚無」というべき面と、エネルギーに満ちた「存在性」の面とが、なかなかうまく捉えにくかったのだが、割と最近、かなりはっきりと見通しのつくものになって来た。(それには、ネットを通して知ったEOという人の「闇」に関する著作や、カスタネダの遺作『無限の本質』などが大いに参考になった。これまでにも、抽象的にはこのような矛盾する両面を統合する思想はあったけれども、今一つ具体性に欠ける思いがあったのである。先の「無極」にして「太極」や、仏教でいう「色即是空」などもそうである。)

簡単に言うと、その「暗黒のエネルギーの塊」は、「虚無」を背景とするその「有」的な側面というべきもので、「虚無」そのものではないかもしれないが、我々がそれを「有」的に把握できる限界的な事象なのだと思う。

そのようなものとして、「闇」という言い方が、とりあえず、私にはぴったりくる。但し、それは、「光」に対する「闇」ではなく、「光」も「闇」超えた、あるいは「光」と「闇」の区別以前の、根源的な「闇」というべきものである。(前の日記では、根源的な「闇」と身近な「闇」という区別をした。しかし、「闇」という言葉を使うのは、ちょっとした逆説的な効果を醸し出し得るというのは別として、やはり誤解の元であろうとは思う。)

そして、それは、既に見たように、「現在」の消息を伝えるものでもあるので、その意味では、「超越的」なものであると同時に、「いま・ここ」という最も根源的に身近なもの(あるいは本来我々がそうであるもの)でもある、ということもできよう。

但し、以上のような捉え方というのは、いわば「たかが」分裂病的体験の一エピソードとしては、いかにも大袈裟だという見方もできよう。実際、私も、そう思うときがある。そこで、もう一つの方向というのは、実は、この「暗黒のエネルギーの塊」は、「アール」らの「存在」を超えたところからくるのではなく、「アール」らの「存在」そのものなのであり、いわばその本性が露呈したものだというものである。

これに少し似たものとして、カスタネダの『無限の本質』に「飛ぶもの」というのが出て来て、このエネルギーに覆われると、窒息して死んでしまうのだ、という記述があった。その部分は、確かに「暗黒のエネルギーの塊」とも重なるものがあるとは思ったし、実際、そのまま覆われ続けていたら、肉体的に死んだだろうという実感はあった。

しかし、確かにそれが身近に迫るときには、それまでにない恐怖を感じはしたのだが、それに実際覆われているときには、何かことさら(破壊的な)「意図」のようなものは感じられず、いわば中立的で純粋なエネルギーという感覚しかなかった。またその実際の治癒的な効果などから言っても、どうもそれが「アール」らの本性というのは、当てはまらないという感じが強くする。したがって、今のところ、やはり前者の線で捉えるしかないと思っている。

但し、「アール」にしろ「背後の存在」にしろ、私がそれらに、この「暗黒のエネルギーの塊」あるいはその背景である「虚無」そのものを投影していたのは事実だと思う。というより、一連の体験の間、ずっとその投影のお陰で、計り知れない恐怖というのを感じ続けていた訳で、その恐怖は、それらの「存在」そのものからくるというよりも、それに投影していた「虚無」や「暗黒のエネルギーの塊」からくるのが大部分と思われるのである。

そして、それと現に間近で接触し、体験することによって、それがそのものとして認識することが可能になって、その投影もほとんど止むことになった。それは、確かに恐るべきもの、というより「畏怖」すべきものであるが、それがそれとしてはっきり認識できたということが、投影的な恐怖を膨らませることを止めさせたのだと思う。それが、治癒的な効果につながったという面が大きいと思われるのである。

もう一度、分裂病的体験との関わりでこれを捉え直してみる。これまで見て来たとおり、現象面としてみると、「声」や「存在」やある種の「力」などが大きく作用して、その者の「自己」や「世界」を脅かし、「妄想」的な世界が形成されることになる。しかし、その体験全体を背景として彩り、方向づけている最も根源的なものは、ここで述べた「闇」ないし「虚無」ではないかと思われるのである。それは、計り知れない恐怖として、その「存在」や「力」に投影されたり、その「妄想」的世界を虚無的な彩りに染めたりする。

そもそも「虚無」なるものは、ユングのいう元型と同じように、それ自体で把握されるものではなく、投影されるしかないものともいえる。が、それは投影されている限り、「対象」を計り知れない恐怖と「闇」の色合いで染め、膨らませ続けるしかない。それは、もちろん、我々が「有」的なものとしてあろうとする限り、根源的な恐怖というより畏怖であり続ける。しかし、それのある側面は、それとして把握することが可能なのであり、そのように直接それが捉えられれば、少なくとも、それまでのような無闇な投影は、止む可能性があるということである。

もちろん、投影が止んでも、「声」や「存在」や「力」そのものがなくなるという訳ではないが、それはかつてのように、全く手の追えないものではなくなると思われるのである。

こうしてみると、分裂病というのは、要するに、これらの未知の「存在」なり「力」なりへの、さらには「闇」や「虚無」への、我々の「反応」のし方なのであって、それは多様なもの(必ずしも病的なものである必要はない)であり得ることがはっきりする。分裂病の場合、「病気」という実体があって、何か一律的で機械的な「症状」が生じるといった見方はそぐわないのである。

また、これら分裂病的反応を醸し出すものが、宇宙やそれをも超えた領域に普遍的にあるものだとすれば、分裂病なるものは、本来潜在的には、誰もがいつかかってもおかしくないものといえる。しかし、実際には、多くの者が分裂病にかかる訳ではないのも確かなことである。それは一体何故なのかという点も、特に考察してみる必要があることになろう。

2006年3月10日 (金)

21 「宇宙の死」とは何か

前に言ったように、私のそれまでの「日常性」が、もはや修復不能のものとして、崩れ去るというのは、私の「世界の崩壊」というのと同じである。「宇宙の死」というのも、または「宇宙的規模での人類の破滅」というのも、結局は、この私の「世界の崩壊」という事態に基礎があることは疑いがない。

しかし、―多くの場合そう解されてしまうだろうが―、「人類の破滅」や「宇宙の死」なるものは、単に「私の世界」の崩壊という事態が、誇大妄想的に(道連れするかのように)拡張されて、言われているに過ぎない、ということなのではない。この「私」と「宇宙」や「人類」との同一視には、それまでのプロセスからみても、一定の根拠があるといえるからである。

私の場合、「宇宙の死」という事態に向かった大きな契機は、「私の世界」のいわば最後の砦のようなものとしてあった「背後の存在」について、それまでの見方が根本的に引っくり返って、絶望感を生んだことにあったと思う。「世界」の崩壊ということが、これにより、決定的に方向づけられたのだといえる。

しかし、それが「宇宙の死」へと向かったのは、それまでの「宇宙的イメージ」または「神話的イメージ」の展開により、自己と宇宙の間に一定のレベルで「同一化」が生じていたためと思われる。そもそも、この「同一化」は、自己の境界が揺らぎ、または外れるといった、それ自体「崩壊」を示唆する事態により始まった訳だが、初めは、それにより、宇宙との「同一化」といった新たな事態の方が前景に出るようにして意識される。そこで、様々な宇宙的イメージが氾濫する訳だが、その「崩壊」が決定的なものとして方向づけられると、それは、全体として(宇宙的なものを含めて)「崩壊」の要素に彩られるようになる、ということである。

そして、私の場合、何よりも、「死」が間近なものとして差し迫り、それを「受け入れ」たことが、「宇宙の死」を直接に決定づけるものとなったといえる。

ただ、「宇宙の死」とは、それ自体が、ユング風にいえば、一つの「元型的イメージ」で、「宇宙的、神話的イメージ」の行き着く先なのだという見方もできると思う。「黙示録」や、北欧神話の「神々の黄昏」、ヒンドゥー神話の「シヴァ神話」などは、そういった普遍的イメージの一例といえる。

ところで、「宇宙の死」や「人類の破滅」というイメージが奇妙に聞こえるのは、それが「今」すぐにでも起こるもののように言われているからである。それが遠い未来かそう遠くない将来のこととして言われる分には、さほど奇妙な感じは伴わないはずである。

しかし、それが「現在」のこととして出て来るのは、単に、自己の「崩壊」が差し迫っているとう「切迫感」だけに基づいているものとはいえない。そこには、分裂病的状態独自のあり方で、確かに、ぎりぎりの「現在」への「接近」というべきものがあり、「宇宙の死」というのも、そのぎりぎりの「現在」の「現実」を、いくらかともくみ取っているものがあると思われるのである。

つまり、「宇宙の死」とは、結果として、時間的に先にある現象を、「現在」のもののように見誤ったというのではなく、「現在」における一つの「現実」を反映する面も確かにあろうということである。

これは、比喩に過ぎないが、物理学的にも、時間とエネルギーは不確定性の関係にあるから、限りなく短い時間を考えると、エネルギーはほぼ無限大になる。そこでは、電子と反電子のような物質と反物質が対発生と対消滅を繰り返していると考えられている。その「対消滅」というのは、物質としての消滅であり(但し、エネルギーとしては解放される訳だが)、そこには、ある種「宇宙的レベルでの死」を連想させるものがあるともいえよう。

それと同じように、時間を切り詰めていったぎりぎりの「現在」というのは、時間・空間を含めたあらゆる事象の「死滅」という相からみることができると考えられるのである。否、むしろ、ぎりぎりの「現在」というのは、理論的に言っても、時間・空間の内部には存在し得ないので、そのような死滅の相ぬきには、近づき得ないものと言える。言い換えれば、ぎりぎりの「現在」とは、常にそのような「死滅の相」を内に含んでいるということである。(仏教では、「刹那滅」という言い方がされる。但し、「現在」は、同時に「対発生」のような「生成」の面も内に含んでいるというべきだが、そこへの「接近」という事態からみると、やはり「死滅」の相が浮かび上がらざるを得ないのだといえる。)

分裂病的事態では、自己の境界や枠組みの揺らぎないし崩壊によって、時間・空間的な連続性をも喪失し、根底にある「現在」への接近が常に起こっていると考えられるが、「宇宙の死」のような状況では、それが極まっているといえる。

それは、もちろん、純粋な「現在」そのものの「現れ」などではなく、一つの「接近」のあり様であり、必然的に「死滅の相」からみられたものに過ぎない。が、それにしても、それは、「現在」における一つの現実の「反映」には違いないだろうし、「宇宙の死」というイメージには、そのような面もまた含まれているといえるのである。

ただ、通常は、それが文字通りの意味で、つまり「終焉」という意味の「死滅」として受け取られることになるのは、時間についての通常の理解や、自己の崩壊が差し迫っている点から、致し方がない面があろう。

そういう訳で、次には、私の一連の体験に真に終焉をもたらした出来事というのを述べたいが、それは、そのような意味の「死滅の相」をも超えて、「現在」そのものと、真に関わってくるような事態と言えそうなのである。

2006年3月 2日 (木)

20 「宇宙の死」へ

これまでの自分の「日常性」が音を立てて崩れ、「この世のもの」と思えないものやことに取り巻かれ、先が全く何も見えないとき、人は本当に「もうこの世の終わりだ」と思うものである。ただ、これにはまだ、「比喩的」なニュアンスで言われているところがある。ところが、事態はこの後、文字通りの意味で「宇宙の死」、つまり本当に「宇宙が終わる」ということへ向けてつき進んで行く。森山が、第3段階というのは、「宇宙的規模での人類の破滅というテーマに終焉していく」と言っているとおりである。

ところが、今回のこの出来事で、改めてそれが、(物理的な意味でも)はっきりとした手ごたえのあるものと分かり、確認されたということがある。私にとっては、もはや、その存在に一縷の疑いを差し挟む余地もなくなったのである。そして、それはある意味、私に、強い「開き直り」をもたらした。

また、「アール」らのやることも、今ひとつはっきりしないというか、煮え切らないところがあったが、この出来事で、要するに「こういうことをする奴らなのだ」というのが端的に分かり(但し、今思うと、一種の警告のような意味合いだった可能性もある)、ある意味、彼らの「たか」が知れてしまったという気がした。

もちろん、物質的に現実的な「力」をみせられて、恐怖はあるのだが、むしろそれまでの方が、よほど、心の内部においては、彼らの図り知れないイメージが膨らんでいて、恐怖を増幅させていたという面がある。このようにされてみると、逆に「アール」がとても「哀れ」で卑小なものにも感じられ、恐怖は、むしろ大きく減退することになったのである。

そして、そうしてみると、実際にも、「アール」自身はあまり私のそばに現れなくなり、また、現れても、特に印象に残ることや、効果のある攻撃を発揮できなくなったのである。「アール」の威力の、少なくとも半分は、私が恐怖という形で付与していたらしいことが、判明したのである。

しかし、「アール」に変わって、むしろそれを超える大きな謎めいた「存在」として、あるいは一連の体験のいわば「黒幕的存在」として、浮かび上がって来たのは、私の「背後の存在」だった。

私は、それまでは、「背後の存在」は、直感的にも、無条件に私の「味方」である気がして、一種の「守護天使」的な存在として疑うことをしなかった。また、この「背後の存在」こそが、私の廻りの存在の中でも、最も「強く」、「知恵」もあり、信頼もできる存在であると思い込んでいた。また、「アール」らも、これがいるから、私に対しては、あまり端的に直接的な攻撃をできないのだろうと、高をくくっているところもあった。そこには、「依存」に近いものがあったといえた。

しかし、改めて、この「背後の存在」を正面から見据えてみると、これらのことにどれだけの根拠があるのか、不確かなものに思われてきたのである。実際、これまでの見方は、「アール」が強力な敵としてあった限りで、それに対抗するように、自ずと形成されたものである可能性があった。

さらに、「思い出し」によれば、確かに表面上「護られ」ていたことには疑いがないけれども、それだけではなく、「背後の存在」は、全体として、「アール」らの攻撃を引き出したり、コントロールしたりしていたとも思われ、ある意味、一連の体験を演出した「黒幕的存在」であるように思われたのである(そのような面は、確かにあったといえる)。

また、私は所詮、彼らとは異なる人間であるのに対して、彼ら同士の間には、何か本質的に「通じる」ものがあるとも感じられ、私との間に特別の絆があるかのような思いは、ほとんど幻想のようにも思えてきた。

いずれにしても、それは、単純な「悪」とか「敵」ではないにしても、何か、それをも超えた、もっと大きな「力」で、私などが絶対にたてうちできないものと思われた。そして、それは、「アール」らとの闘いがもし終わるとした場合に、さらにその後に、「真に対決しなければならない相手」として、控えているようにも思われた。

私は、ただでさえ、「アール」らのことや、人々の背後から出てくる「声」などのことで、滅入っているのに、この思いは、本当に絶望的な気分をもたらしたのである。「背後の存在」は、それまで、そのような中でも一つの「救い」のようなものとしてあっただけに、その反動として、絶望感も大きいものになった。それに、私にとって、この存在は、余りにも大きなもので、「闘う」などということの考えられない次元のものになっていた。

(ちなみに、モーパッサンの『オルラ』という小説(福武文庫の怪奇傑作集に所収)に、この「背後の存在」と似たもの(一種の「ドッペルゲンガー」)との「格闘」の機微が、とてもリアルに描き出されている。もちろん、最後は、「全面降伏」のような形で終わっている。実際、モーパッサンは分裂病を患ったようで、これは体験に基づくものであった可能性が高い。)

さらに、私の廻りには、「アール」そのものはあまり現れなくなったが、系として似ているが、あまり強烈でない、ちょっと弱々しいくらいの感じのする存在(「小悪魔」と呼んでいた)がよく現れるようになった。

私は、もう基本的には、どうでもよいような気になっていたのと、この存在については、実際軽くみていたところがあって、別にいてもあまり気にも止めていなかった。すると、これはいつの間にか、私のお腹のあたりにいつくようになった。「声」が私のお腹からするのと、実際お腹のあたりにいる感覚があるのだが、私自身も体にいるので、これも文字通りの「憑依」ということではない。

これがよく私に言っていたのは、「お前息すんなよ!」で、初め文字どおり「呼吸」をするなと言っているのかと思ったが、どうも「気を発するな」とか「生き生きするな」という意味で言っているようだった。そして、「お前に息されると、俺らがいられなくなんだよ」と、正直とも何ともつかぬことを言う。私も、人がよいというか、悪いような気もして、(ただでさえ、ほとんど「息」をしている状況ではなかったが)、ちょっと引いたような状態でいて、好きなようにさせていた。

すると、これが、まさに好き勝手に振る舞い初め、外に出ると、人というよりもその背後にいる存在といろいろやりとりをし、とんでもないことを言い合っている。そして、これが私のお腹の中から呼びかけると、ろくでもない存在が集まってきて、騒然とし、一騒動が起こるようになった。人には、直接態度や行動に現れるということはなかったと思うが、その雰囲気には巻き込まれているように感じられた。

その時は、さすがに、やっぱり「とんでもない奴だった」と気づいたが、もはやどうこうする気力も起こらなかった(本気で追い出そうとすればそうできる気はしたが)。そして、これは、「私が死ななければならない」ということなのだ、という思いが強く出できた。そうすれば、このとんでもない存在を道連れにもできる。実際、方法なども考え、遺書も書こうとしたが、これは手が震えてできなかった(止められたという感覚がある)。

しかし、そこで、死んだ後のことをシュミレートしてみると、私は、それらの存在から解放されるどころか、肉体がない分、余計直接的に支配され続ける。一方「小悪魔」は、私の肉体がなくなれば、また他の人間の肉体を使って、好きなことをやり続けるだろう。結局、何の意味もないと思わざるを得なかった。

私の場合、この「宇宙の死」へ向かうこととなった契機がいくつか考えられるので、それを中心に述べてみよう。

「アール」などの存在は、テレビの例で見たように、「物理的な現実」そのもの「であるかのような」現象を起こしたり、それらの存在の言うこと(意味的に重なること)が「物理的現実」として起こるといった、いわゆる「共時性」の現象というのはよくあった。

しかし、少なくとも、この一連の体験の過程では、これまで、はっきり直接的に「物理的現象」といえるものが起こったことはなかったと思う。

ところが、ある時、私自身にとって全く疑いようのない形で、「物理的現象」(物質化現象)そのものを起こされたことがある。これは、「火」に関するもので、私の身体というより生命に関わるものだったが、恐らく背後の存在の助けによってすぐに気づくことができたので、直ちに対処でき、事にならずに済んだ。

私は、すぐさま「アール」の仕業と気づき、この時は、怒りというよりも呆れた思いが込み上げて来て、「失敗したと分かったら、自分で消して行け!」と強く言い放った。すると、「アール」の怒りを表すと思われる強烈な「映像」が現れて、何か煙のようなエネルギーを吹きかけられて、しばらく吐き気が治まらなかった。

この出来事は、私にとって、いろんな意味で、さらに大きな転換となった。

まずは、それまでも、「アール」などの存在を一個の意志をもった(霊的)存在とは認めてはいたのだが、今一つ、明確な手ごたえに欠けるような気もしていて、どこかでその存在を確信きれない面もないではなかった。

ただ、その後、また体の底の方から、強い震えが起こるということがあり、その時、「これは(自ら死ぬまでもなく)本当に死ぬのだ」という思いが、確信めいたものとして起こって来た。そして、私は、その後がとうなるかなどということにはおかまいなく、もはやそれを「受け入れる」しかないと、思いを定めた。

これまで、自分は割と「死」はいつでも受け入れられる、というか、特に恐怖をもったりはしないだろうと思っていたが、いざ間近に迫ったものとして受け入れるのは、やはり独特の悲しみと苦痛を伴った。それどころか、後にも述べるが、この一連の体験自体が、ある意味、私が「死」を「受け入れ」るまでに要した「あがき」の過程ともみれるのである。

一方、「宇宙的なイメージ」が展開するということも、併行して起こっていたが、その頃から、それは、一気に「宇宙の死」「宇宙の終わり」という方向に向かっていったのだと思う。宇宙を舞台に、ある種の「最終戦争」が行われるというようなものも含まれていたが、それは要するに、端的に、物理的なものも含めた「宇宙そのもの」が、(間もなく)死滅するということである。

そして、それは、私にとって、もはや疑いのないものとして実感された。そこで、ちょっとしたあがきのようなものもあったが、結局は、それをも「受け入れ」ることになった。実際に、直ぐにも、「宇宙」が死滅するということを、本当に受け入れたのである。

人によっては、自己の死とは、肉体の死ではあっても真の死滅ではなく、死後も存続し、また「生まれ変わり」を続けるなどの発想を持っている。また、キリスト教などの「最後の審判」では、「宇宙」は終わっても、審判を通った「魂」は、永遠に生き続けるなどの発想がある。

しかしこの「宇宙の死」というのは、少なくとも、「私」については、そのような輪廻的な環境そのものを無化させる最終的なものとして認識されたのである。もちろん、「最後の審判」のような抜け道もないものとしてである。つまり、私自身も、宇宙とともに、真に死滅するものとして、ということである。何か、「死滅する宇宙」を超えるようなものがあるということは感じられて、また、「少しはマシ」な宇宙のようなものが創り出されるのかとも思ったが、それはもはやどうでもよいことであった。

ただ、その頃、またひとつのイメージ的出来事があって、これは後の出来事の伏線ともなっているようなので、少し述べておこう。

初め私が死の床についていて、「アニマ」なども見取ってくれていたのだが、そこに、「全身純白に輝く」いかにも高貴な人が出て来て、私にも、同じ道を選ぶように言ってくる。つまり、「悪」や「闇」を排除して、自分と同じように「完全に白い道」を進まなければならない、というのである。

そう名のった訳ではないが、私は、直感的に、その人を「白いお方」とか「ユダヤのお方」と呼んでいた。(今のユダヤではなく、恐らく古代ユダヤの祖といったイメージ。私自身、何か関わりがあるというのは感じられた)が、私は、その場においても、そのような行き方には、反発やそぐわないものを感じ、いや「タオ(道)でなければ」と言って、断ることになった。タオ(道)というのは、ここでは、白と黒、あるいは光と闇などの「均衡」を保った、「全体性」というほどの意味である。

これは、「宇宙の死」が意識される前の出来事だったかもしれないが、「宇宙の死」の後だとすれば、その後に来るかもしれない次の「宇宙」のあり方のようなものとしてイメージされたものだったかもしれない。

何しろ、この反応には、自分でも少し驚いたが、死のかかった状況でのそれなりに真剣な「選択」ではあったと思うし、これは、今の私をもかなり規定しているところがある、と今も思う。

それでは、次回は、このような「宇宙の死」という状況が、どのようにしてもたらされたのか、少し考察を加えてみたい。そして、その後には、私の一連の体験が真に終焉する事態となった出来事を述べてみたい。それは、「宇宙の死」のさらに後、いわば、「宇宙の死以後」とでも呼び得る事態なのである。

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