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2006年3月28日 (火)

22 「闇」ないし「虚無」との接触

本当は、この出来事は直接分裂病的事態と関わるものではないかとも思い、ここでは触れないつもりでいた。しかし、私の一連の体験の一つのピーク体験として、まさに終焉をもたらした体験であることは間違いないので、ここまで私の体験を述べてきた締めくくりとして、やはり触れない訳にはいかないと思う。

また、分裂病体験一般にとっても、根源的には、むしろこの出来事によって触れられたものこそが、その根底にあって、全体を方向づけていると、改めて思う。その意味でも、これに触れない訳にはいかないと思い直した。

そこで、まずは、できるだけ、解説めいた「説明」を交えることなしに、当時起こったまま、感じとったままをそのまま再現することから始めてみたい。

起こった時期は、前回の「宇宙の死」を受け入れて、割と間もない頃だったと思う。部屋で座っていたら、突然強烈なエネルギーの塊のようなのが、一瞬にして、押し寄せてきた。それは、今まで述べたどの体験の比でもないくらいの圧倒的な力を感じさせるもので、映像的にも、はっきり「暗黒」そのものとして、見分けられるものだった。それが、部屋に差し迫り、さらに私自身に差し迫るのが分かったが、このときには、本当に今までにない「直接的」な恐怖(これまでの恐怖には、どこか間接的というか、観念的に膨らんでいくようなものがあった)を感じて、強く身構えた。

しかし、それは、私の身体に接触し、はっきり包みかぶさるまでになった。緊張はピークに達したが、不思議と恐怖そのものは、この接触が現に起こった時点ではもはやほとんど感じていなかった。その間、部屋の上半分がはっきり「暗黒」に染まり(むしろ「消える」と表現した方が正確かもしれない)、また私の身体の上半分が暗黒に染まったのが分かった。そこで、私は、恐怖というよりも、その張り詰めた緊張感に耐え切れなくなり、ふと一瞬、緊張を緩めた。すると、その「暗黒」のエネルギーの塊は、一瞬にして、スッーと立ち去って行ったのである。

「出来事」としては、ただこれだけのことで、時間にしても、ほんの数秒間のことだったかもしれない。しかし、この体験は、私にとって決定的なものになったのである。

まず、その体験の直後には、私は思わず心から苦笑していた。それは、これまでの恐怖だったり、苦痛だったりした一連の体験が、ある意味「幻想」であったと思えたからだと思う。「アール」などの存在についてはもちろん、その前に受け入れた「自己の死」や「宇宙の死」ですら、何かこの直接的な「リアリティ」に比べれば、「小さい」ことのように思われた。正確には、それらそのものが「幻想」だというのではなく、私のそれらに対する「反応」が、何か「幻想じみた」ものだったということである。

この「暗黒のエネルギーの塊」と接触している時には、そのようなもの(「存在」やら「思考」など)が入り込む隙は、一瞬もないくらい、極度に張り詰めた意識の状態にあった。それは、この暗黒のエネルギーの「リアリティ」が余りにも強烈すぎたということでもあるが、私は、その一瞬に、その「なにものも入り込めない」ほど隙もない状態こそが「真」の状態であるということ。しかし、私には、そのように極度に張り詰めた意識の状態には、とても長い間耐え切れそうもないということを、感じ取ったようである。(もちろん、これまでの過程でも、そのような意識の張り詰めた状態は続いていたのであるが、このときのはその比ではない。)

その一瞬の間に感じ取った、そういったことが、そのときの、「苦笑」となって現れ出たのだと思われる。それはある意味、それまでの一連の体験について、それを超えた位置から「客観視」するようにみられた、「総括」のようなものともいえる。ある意味、それで「ケリ」がついてしまったのである。そのようなものが、この一瞬の体験によって、もたらされることになったのである。

但し、プロセスとしていえば、この出来事に至る前に、「自己の死」や「宇宙の死」を受け入れていたことが大きいとも考えらる。それによって、既にそれまでの出来事に対する囚われのようなものは大きく失い、あるいは少なくとも、あがくことからは脱却していたといえるからである。(逆に言えば、真に自己の死を受け入れた者は、たとえ分裂病的体験に陥ったとしても、少なくとも廻りを引き込むような「妄想」的な反応はしないであろうと断言できる)

ただ、それのみでは、いわば「消極的」に、それまでの体験が超えられたと言えるに止まるだろう。しかし、この「暗黒のエネルギーの塊」との接触は、「積極的」な意味でも、一連の体験を真に超えさせるものとして働いたといえるのである。

実際的な観点から言うと、この体験の後には、お腹にいたはずの「小悪魔」がいなくなった。「アール」らの存在や「声」は、すぐさまではないが、徐々にあまり現れなくなり、また現れてもそれに囚われるということはほとんどなくなった(そのような状態は、現在までも続いている。ただし、現象そのものがなくなったのではないことには注意)。そして、何よりも、それらによって、意識の状態まで(その一連の体験のときのように、催眠に近いような変性した状態へ)「もっていかれる」ということはまずなくなったのである。

現在もそうであるが、それらが起こるとしても、「日常」の意識状態の連続の中で起こることであり、一瞬落ち込んだり、苦悩に陥ったりすることはあっても、それ以上に、それに囚われたり、振り回されたりすることはなくなったということである。(但し、今でも、何か非日常的な体験をしたときには、「思い出し」というのは節目節目に起こる。それは、かなり集中的なものとして起こるが、それで日常生活に支障が生じるということはない。)

ところで、この「暗黒のエネルギーの塊」についてだが、その体験の直後には、「宇宙の死」という観念を引きづっていたこともあって、物理的な宇宙論でいう、「ダークマター(暗黒物質)」なのか、などという考えも出て来てしまった。実際、それが本当に「物質的」といえるだけの「実体」を伴うものとして感じられたのは確かで、今でも、私は、それが何らかの意味で、「物質」の根源に関わるのではないかという見方をしている。

しかし、その時点で、その「暗黒のエネルギーの塊」についてあれこれ詮索するような考えは起こらず、要するに、それはこれまで体験したどのようなものをも大きく超える「未知のエネルギー」なのだということで、十分納得し、満足できた。それは、それがそのような「説明」といったものを寄せ付けない代物であろうことが直感されたのと、その「治癒的」ともいえる、実際的な効果だけで十分であった、というのがあろう。

また、もう一つは、実際に私はその後、少しずついわばリハビリのような状態に入るのだが、一連の体験を自分なりに「消化」するべく、いろいろ読書なども行なうことになる。そこで、まず問題になるのは、初めの頃の体験なのであって、それ自体理解し、消化するのにかなりの時間を要することなので、この「暗黒のエネルギーの塊」などは問題とするにしても、最後の最後に取っておくべき事柄であったというのもある。

そういう訳で、ここからは、この「暗黒のエネルギーの塊」について、自分なりの「解釈」であり、今現在における「理解」を簡単に述べてみたいと思う。大まかに言うと、私は2つの方向で、これを解釈している。

私が、初めに、この「暗黒のエネルギーの塊」を表すイメージとしてかなりピッタリくると思ったのは、「易」の本で、「太極図」の元の状態として紹介されていた、「無極」の図だった。円の中を白(陽)と黒(陰)が半分ずつ波打っている状態の「太極図」はよく知られているが、その陰陽の別れる元の状態を表す図として、「無極」の図(全体が真っ黒の円)と「太極」の図(全体が真っ白の円)が紹介されていた。そして、それらは本来「無極」にして「太極」、つまり同一物というのだが、その「無極」の図には、その時の「暗黒のエネルギーの塊」のイメージが重なって、ハッとしたのである。

既にみたとおり、「暗黒のエネルギーの塊」に覆われた瞬間、私の部屋と体が、上半分が黒(あるいはむしろ消えるという感覚なので「無」)下半分が白(部屋の壁が白色であったことにもよる)という具合に、くっきりと別れたのをはっきり見た。それは、偶然とは思いつつも、何か冗談めいてはいるが、そこで「太極図」のような一種の「タオ」が形成されたのか、などとも思えるものがあった。そもそも、私はこの体験の前に、イメージに現れ出た「白い人」に対して「タオ(道)でなければ…」、ということを言っていた訳だが、そのこととも関連があるのかもしれないと思えた。

そのようなことも重なって、この「暗黒のエネルギーの塊」とは、タオ的な「太極図」の特に「陰」の部分を形成させる元となる根源的な「無」というべきものを反映するのではないか、と思ったのである。

それは、一連のプロセスにおける出来事としてみても、「宇宙の死」という事態に引き続いて起こったものであり、「リアリティ」からいっても、それまでのプロセスにおける出来事をはるかに超え出ていた。そして、実際に、不思議なし方で、プロセス全体に終局をもたらしたのである。「宇宙の死」が、森山では「第3段階」で、最終段階とされていたが、この事態は、更にその後にくる「第4段階」ともいうべきもので、真の終局に位置するものともいえた。

但し、通常は、これに似た体験が分裂病的体験の過程で明らかになることはないようだが、しかし、同時に、分裂病的体験の過程全体に、ある背景のようなものとして、根源的には、これこそが常に彩りを与え、影響を与えているもののようにも思えるのである。通常は、これそのものが、本人の眼前に直接現れ出るということはないにしても、「自己の死」や「宇宙の死」を通り超した場合などに、私のように、それが何らかの形で直接に現れ出ることがあるようなのである。

そのようなものとして、これを表現するならば、それは「宇宙以前」あるいは「宇宙を超える」という面、つまり「有」的なものを超えるという面を孕んでいるというべきで、それは、根源的な「無」あるいは「虚無」というほかないと思われる。(直接眼前に現れ出ていたかどうかは別として、キルケゴールやハイデッガーなどの実存哲学者が、「虚無」として捉えていたのもこれだと思う。)または、その「暗黒」という性質をくみとっていえば、「闇」とでもいうほかないものである。あるいは、前回述べたように、その時間性・空間性を超え出て、「現在」に接近するという面からみれば、それはむしろ「現在」そのものの消息というほかないことになろう。

但し、私が接触した「暗黒のエネルギーの塊」そのものは、既に述べたとおり、物質的とすらいえる強烈なエネルギーに満ちたもので、現象的には「有」的なものと言わなければならない。また、そこには、ある種の「意志」のようなものも感じられ、その意味でも、ある「存在性」が認められるのではあるが、それは、これまでにみた「アール」などの「存在」とは、はっきり異質で、一定の「個性」とか「空間的な枠組」などには収まるようなものではない。

私としては、そのような根源的な「虚無」というべき面と、エネルギーに満ちた「存在性」の面とが、なかなかうまく捉えにくかったのだが、割と最近、かなりはっきりと見通しのつくものになって来た。(それには、ネットを通して知ったEOという人の「闇」に関する著作や、カスタネダの遺作『無限の本質』などが大いに参考になった。これまでにも、抽象的にはこのような矛盾する両面を統合する思想はあったけれども、今一つ具体性に欠ける思いがあったのである。先の「無極」にして「太極」や、仏教でいう「色即是空」などもそうである。)

簡単に言うと、その「暗黒のエネルギーの塊」は、「虚無」を背景とするその「有」的な側面というべきもので、「虚無」そのものではないかもしれないが、我々がそれを「有」的に把握できる限界的な事象なのだと思う。

そのようなものとして、「闇」という言い方が、とりあえず、私にはぴったりくる。但し、それは、「光」に対する「闇」ではなく、「光」も「闇」超えた、あるいは「光」と「闇」の区別以前の、根源的な「闇」というべきものである。(前の日記では、根源的な「闇」と身近な「闇」という区別をした。しかし、「闇」という言葉を使うのは、ちょっとした逆説的な効果を醸し出し得るというのは別として、やはり誤解の元であろうとは思う。)

そして、それは、既に見たように、「現在」の消息を伝えるものでもあるので、その意味では、「超越的」なものであると同時に、「いま・ここ」という最も根源的に身近なもの(あるいは本来我々がそうであるもの)でもある、ということもできよう。

但し、以上のような捉え方というのは、いわば「たかが」分裂病的体験の一エピソードとしては、いかにも大袈裟だという見方もできよう。実際、私も、そう思うときがある。そこで、もう一つの方向というのは、実は、この「暗黒のエネルギーの塊」は、「アール」らの「存在」を超えたところからくるのではなく、「アール」らの「存在」そのものなのであり、いわばその本性が露呈したものだというものである。

これに少し似たものとして、カスタネダの『無限の本質』に「飛ぶもの」というのが出て来て、このエネルギーに覆われると、窒息して死んでしまうのだ、という記述があった。その部分は、確かに「暗黒のエネルギーの塊」とも重なるものがあるとは思ったし、実際、そのまま覆われ続けていたら、肉体的に死んだだろうという実感はあった。

しかし、確かにそれが身近に迫るときには、それまでにない恐怖を感じはしたのだが、それに実際覆われているときには、何かことさら(破壊的な)「意図」のようなものは感じられず、いわば中立的で純粋なエネルギーという感覚しかなかった。またその実際の治癒的な効果などから言っても、どうもそれが「アール」らの本性というのは、当てはまらないという感じが強くする。したがって、今のところ、やはり前者の線で捉えるしかないと思っている。

但し、「アール」にしろ「背後の存在」にしろ、私がそれらに、この「暗黒のエネルギーの塊」あるいはその背景である「虚無」そのものを投影していたのは事実だと思う。というより、一連の体験の間、ずっとその投影のお陰で、計り知れない恐怖というのを感じ続けていた訳で、その恐怖は、それらの「存在」そのものからくるというよりも、それに投影していた「虚無」や「暗黒のエネルギーの塊」からくるのが大部分と思われるのである。

そして、それと現に間近で接触し、体験することによって、それがそのものとして認識することが可能になって、その投影もほとんど止むことになった。それは、確かに恐るべきもの、というより「畏怖」すべきものであるが、それがそれとしてはっきり認識できたということが、投影的な恐怖を膨らませることを止めさせたのだと思う。それが、治癒的な効果につながったという面が大きいと思われるのである。

もう一度、分裂病的体験との関わりでこれを捉え直してみる。これまで見て来たとおり、現象面としてみると、「声」や「存在」やある種の「力」などが大きく作用して、その者の「自己」や「世界」を脅かし、「妄想」的な世界が形成されることになる。しかし、その体験全体を背景として彩り、方向づけている最も根源的なものは、ここで述べた「闇」ないし「虚無」ではないかと思われるのである。それは、計り知れない恐怖として、その「存在」や「力」に投影されたり、その「妄想」的世界を虚無的な彩りに染めたりする。

そもそも「虚無」なるものは、ユングのいう元型と同じように、それ自体で把握されるものではなく、投影されるしかないものともいえる。が、それは投影されている限り、「対象」を計り知れない恐怖と「闇」の色合いで染め、膨らませ続けるしかない。それは、もちろん、我々が「有」的なものとしてあろうとする限り、根源的な恐怖というより畏怖であり続ける。しかし、それのある側面は、それとして把握することが可能なのであり、そのように直接それが捉えられれば、少なくとも、それまでのような無闇な投影は、止む可能性があるということである。

もちろん、投影が止んでも、「声」や「存在」や「力」そのものがなくなるという訳ではないが、それはかつてのように、全く手の追えないものではなくなると思われるのである。

こうしてみると、分裂病というのは、要するに、これらの未知の「存在」なり「力」なりへの、さらには「闇」や「虚無」への、我々の「反応」のし方なのであって、それは多様なもの(必ずしも病的なものである必要はない)であり得ることがはっきりする。分裂病の場合、「病気」という実体があって、何か一律的で機械的な「症状」が生じるといった見方はそぐわないのである。

また、これら分裂病的反応を醸し出すものが、宇宙やそれをも超えた領域に普遍的にあるものだとすれば、分裂病なるものは、本来潜在的には、誰もがいつかかってもおかしくないものといえる。しかし、実際には、多くの者が分裂病にかかる訳ではないのも確かなことである。それは一体何故なのかという点も、特に考察してみる必要があることになろう。

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コメント

ティエムさんへ

虚無について考えてみました。

垂直的な方向ですよね。神は法らしいです。神は法を超えた存在。神は人格やあらゆる法則などを創造する芸術家であり、神自身はそれらに縛られないもの。つまりなんの規定もない無の領域こそ、虚無ではないかと考えてみる

「虚無」=「神」ということでしょうか。

「虚無」と「神」の関係は、人様々に捉え方がありますが、私の捉え方では、「虚無」は「神」を含みつつ越えたものということになります。「神」をどのように捉えようとも、ある種の「存在性」があるものとして、完全な「無規定性」「無限定性」を名乗り得ないと思うからです。「神」にとっても、完全な「虚無」はある種の「恐れ」であり、だからこそ、「宇宙の創造」という行為を促されたと言えるのではないでしょうか。

私も、神という言葉では虚無を規定してしまうように感じます。言葉に縛られないもの。真理についてはどう思われますか。私は世界は一つの真理があると思っています。真理とは知恵の体でできた、存在と世界が一つのものであるようなものと考えてます。全ての規定性を超えた真理が虚無でしょうか。真理は愛だとも思っています。真理の中で最も内的な真理が虚無で、それより外側にある虚無が具象化したものが愛ではないか

真理において、内的なものと外的なものは二つで一つのものです。真理の広がりの内で中心にあるのが内的なもので中心より周囲にあるものが外的なもの、というイメージ。

あと、関係妄想は全ては一つのもの、全ては神の家族であり全ては関係しているのが真理ならば、全ては自分と関係があるという意識はある意味正解かもしれません。宇宙の中にある一つ一つの活動は無限の真理と関係している。だから全ては自分と関係している。自分の活動は全ての人類を含む無限と関係している。真理は全てに宿る。だから世界全てに関心をもとうと考えられる。


まさに「言葉に縛られないもの」=無規定の「虚無」ということになると思います。その意味では、「真理」もまた一つの言葉に過ぎず、私はですが、「真理」を言葉で云々することには、「無意味さ」を感じます。ただし、「神」=「真理」=「愛」=「ひとつ」というのは、一つの「事実」として否定はしていません。

「最も内的な真理が虚無で、それより外側にある虚無が具象化したものが愛」という捉え方も、理解できます。カスタネダのドンファンも、「無限の活動的な側」という言い方で、「神」とも言いかえられる「イーグル」または「意識の暗い海」を、「無限」の動的側面として捉えています。それは、「外側」という捉え方もできるものでしょう。

いずれにしても、「虚無」そのものは「対象化」して捉えることの不可能なものですが、私は、「闇」という言い方で、「対象化」し得ない「虚無」の限界的なぎりぎりの様相を捉えることができるのではないかと思っています。

「関係妄想」が、「分離」を前提とする日常的な意識を離れて、変性意識に入ったときに、本来「ひとつ」のあり様、または、その何らかの現れを垣間見ることに基づいて生じていることは確かと思います。しかし、それは、あくまで、「垣間見られた」ものであり、本当に「自我」を越えて「ひとつ」になったものではありません。そこで、それは、「自我」にとっては、自己を脅かす脅威と感じられ、それを自分を「迫害」するものとして、あるいは自分を特殊化する何か誇大なものとして、「妄想」を構成してしまうことが問題です。

はじめまして。
あなたが仰る虚無を空間として認知した経験があります。というよりわたしがその虚無の空間そのものでした。あなた様と同様に「無極」また「絶対無」が気になりながら、幾つかのキーワードで検索しておりましたら、あなた様のブログに辿り着きました。
もう20年以上前のことなのですが、その瞬間のことを未だ手放せず、何となくもこちらに辿り着いたわけです。
個人的に「自己の死」とキーワードに、反応しながら興味深く読ませていただきました。

何となくコメントしてしまいました。
時間が経っているところに失礼しました。

すみません、少し補足を。
実はその瞬間に至る直前、ある犯罪の被害者側になろうとしていました。そしてわたしはその直の直前に、サレンダー ( 諦めた / 神に委ねた ) したのです。そして事は起こりました。ただ実はその瞬間、真実としては何も起こってはいなかった。つまり事は起きましたが、本当の意味で救われていた ( 何も起こってはいなかった ) ということです。
そしてわたしの場合、その闇 / 虚無の空間に一切の恐怖心はありませんでした。そして寧ろ、安心感といったものがあったかも知れません。

何かのお役に立てればと思い、書かせていただきましたが、内容に問題があれば削除なさってください。失礼しました。

ちょっと分かりにくかったのですが、「犯罪の被害者になろうとしていた」というのは、結果的に物理的なレベルのことではなく、あなたにとって、非常にリアルな「内的現実」として、ということですね。それでしたら、私も、「宇宙が終わる」というリアルな内的現実の直前に「虚無・闇」との接触が起きているので、似ているところが多分にあると思います。「虚無・闇」は、「私」の「内的現実」を断ち切ってしまい、終わらせるだけの力があると思います。「統合失調状況」においては、その過程そのものを終わらせてしまうだけのものということです。

お返事ありがとうございます。
相違があると言うたわけではなく、この記事しか読ませていただいておらず恐縮なのですが。文中に黒い塊と表現されていたので、あえてわたしは闇の空間と表現させていただいたまでのことです。
はい。非常にリアルな内的現実と言えるやも知れません。例えばナイフを向けられ、おとなしくしろと言われたら、①抵抗する②抵抗しないのように、選択肢が2つあるわけでして、その際にわたしは、②抵抗しないを選んだということなんです。

つまり起こることが起こるのだ ( 命だけでも助かるのならやむを得ない ) と、三次元で事はたしかに起きたのかも知れませんが、闇の空間においてはどこまでも見渡す限りが闇で、自分も加害者も取り囲んでいるビル群も要は、何もかもが跡形もなく消えていたというわけでして。その、起こることが起こるのだ←で、おそらく全身の力が抜けたときに、いわゆる神と呼ばれている存在が、この世界の種明かしをして、わたしを救ってくれたというか、つまりわたしは既に救われていたのだということを知った、ということを書きたかったのですが、解りにくい文章ですみません。

ご縁をいただきありがとうございました。

「黒い塊」というのは、とてつもない凝縮されたエネルギー(実体性)を感じたので、そう表現しましたが、確かに「空間」という言い方もできると思います。

「つまり起こることが起こるのだと、三次元で事はたしかに起きたのかも知れませんが、闇の空間においてはどこまでも見渡す限りが闇で、」…「その、起こることが起こるのだ←で、おそらく全身の力が抜けたときに、いわゆる神と呼ばれている存在が、この世界の種明かしをして、わたしを救ってくれたというか、つまりわたしは既に救われていたのだということを知った、ということ」

このあたりも、ほぼ私の場合も同じです。自分の「死」と関わるような(私の場合、それは自分だけでなく、宇宙という存在全体の死でもあったわけですが)、起こることに「完全に明け渡す」ということが生じたとき、このように、存在の世界に亀裂が生じて、根底にある「虚無」が顔をのぞかせる、あるいは、自分自身が(一瞬にしても)それになってしまうということが起こるようですね。

当時は、こんなことは、本当にまれで希有な体験だと思っていたのですが、今は、(もちろん、人それぞれ、その現れ方や体験のされ方は様々であり得ますが)、同じような状況で割と多く起こり得ることと思っています。ただ、それは、事態が事態ですので、通常は無意識に過ごされることが多いと思われます。それを実際に「知覚」したというのは、やはり、その間意識がしっかり「目覚め」ていたからということになるのでしょう。

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