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2006年3月10日 (金)

21 「宇宙の死」とは何か

前に言ったように、私のそれまでの「日常性」が、もはや修復不能のものとして、崩れ去るというのは、私の「世界の崩壊」というのと同じである。「宇宙の死」というのも、または「宇宙的規模での人類の破滅」というのも、結局は、この私の「世界の崩壊」という事態に基礎があることは疑いがない。

しかし、―多くの場合そう解されてしまうだろうが―、「人類の破滅」や「宇宙の死」なるものは、単に「私の世界」の崩壊という事態が、誇大妄想的に(道連れするかのように)拡張されて、言われているに過ぎない、ということなのではない。この「私」と「宇宙」や「人類」との同一視には、それまでのプロセスからみても、一定の根拠があるといえるからである。

私の場合、「宇宙の死」という事態に向かった大きな契機は、「私の世界」のいわば最後の砦のようなものとしてあった「背後の存在」について、それまでの見方が根本的に引っくり返って、絶望感を生んだことにあったと思う。「世界」の崩壊ということが、これにより、決定的に方向づけられたのだといえる。

しかし、それが「宇宙の死」へと向かったのは、それまでの「宇宙的イメージ」または「神話的イメージ」の展開により、自己と宇宙の間に一定のレベルで「同一化」が生じていたためと思われる。そもそも、この「同一化」は、自己の境界が揺らぎ、または外れるといった、それ自体「崩壊」を示唆する事態により始まった訳だが、初めは、それにより、宇宙との「同一化」といった新たな事態の方が前景に出るようにして意識される。そこで、様々な宇宙的イメージが氾濫する訳だが、その「崩壊」が決定的なものとして方向づけられると、それは、全体として(宇宙的なものを含めて)「崩壊」の要素に彩られるようになる、ということである。

そして、私の場合、何よりも、「死」が間近なものとして差し迫り、それを「受け入れ」たことが、「宇宙の死」を直接に決定づけるものとなったといえる。

ただ、「宇宙の死」とは、それ自体が、ユング風にいえば、一つの「元型的イメージ」で、「宇宙的、神話的イメージ」の行き着く先なのだという見方もできると思う。「黙示録」や、北欧神話の「神々の黄昏」、ヒンドゥー神話の「シヴァ神話」などは、そういった普遍的イメージの一例といえる。

ところで、「宇宙の死」や「人類の破滅」というイメージが奇妙に聞こえるのは、それが「今」すぐにでも起こるもののように言われているからである。それが遠い未来かそう遠くない将来のこととして言われる分には、さほど奇妙な感じは伴わないはずである。

しかし、それが「現在」のこととして出て来るのは、単に、自己の「崩壊」が差し迫っているとう「切迫感」だけに基づいているものとはいえない。そこには、分裂病的状態独自のあり方で、確かに、ぎりぎりの「現在」への「接近」というべきものがあり、「宇宙の死」というのも、そのぎりぎりの「現在」の「現実」を、いくらかともくみ取っているものがあると思われるのである。

つまり、「宇宙の死」とは、結果として、時間的に先にある現象を、「現在」のもののように見誤ったというのではなく、「現在」における一つの「現実」を反映する面も確かにあろうということである。

これは、比喩に過ぎないが、物理学的にも、時間とエネルギーは不確定性の関係にあるから、限りなく短い時間を考えると、エネルギーはほぼ無限大になる。そこでは、電子と反電子のような物質と反物質が対発生と対消滅を繰り返していると考えられている。その「対消滅」というのは、物質としての消滅であり(但し、エネルギーとしては解放される訳だが)、そこには、ある種「宇宙的レベルでの死」を連想させるものがあるともいえよう。

それと同じように、時間を切り詰めていったぎりぎりの「現在」というのは、時間・空間を含めたあらゆる事象の「死滅」という相からみることができると考えられるのである。否、むしろ、ぎりぎりの「現在」というのは、理論的に言っても、時間・空間の内部には存在し得ないので、そのような死滅の相ぬきには、近づき得ないものと言える。言い換えれば、ぎりぎりの「現在」とは、常にそのような「死滅の相」を内に含んでいるということである。(仏教では、「刹那滅」という言い方がされる。但し、「現在」は、同時に「対発生」のような「生成」の面も内に含んでいるというべきだが、そこへの「接近」という事態からみると、やはり「死滅」の相が浮かび上がらざるを得ないのだといえる。)

分裂病的事態では、自己の境界や枠組みの揺らぎないし崩壊によって、時間・空間的な連続性をも喪失し、根底にある「現在」への接近が常に起こっていると考えられるが、「宇宙の死」のような状況では、それが極まっているといえる。

それは、もちろん、純粋な「現在」そのものの「現れ」などではなく、一つの「接近」のあり様であり、必然的に「死滅の相」からみられたものに過ぎない。が、それにしても、それは、「現在」における一つの現実の「反映」には違いないだろうし、「宇宙の死」というイメージには、そのような面もまた含まれているといえるのである。

ただ、通常は、それが文字通りの意味で、つまり「終焉」という意味の「死滅」として受け取られることになるのは、時間についての通常の理解や、自己の崩壊が差し迫っている点から、致し方がない面があろう。

そういう訳で、次には、私の一連の体験に真に終焉をもたらした出来事というのを述べたいが、それは、そのような意味の「死滅の相」をも超えて、「現在」そのものと、真に関わってくるような事態と言えそうなのである。

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