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2006年3月 2日 (木)

20 「宇宙の死」へ

これまでの自分の「日常性」が音を立てて崩れ、「この世のもの」と思えないものやことに取り巻かれ、先が全く何も見えないとき、人は本当に「もうこの世の終わりだ」と思うものである。ただ、これにはまだ、「比喩的」なニュアンスで言われているところがある。ところが、事態はこの後、文字通りの意味で「宇宙の死」、つまり本当に「宇宙が終わる」ということへ向けてつき進んで行く。森山が、第3段階というのは、「宇宙的規模での人類の破滅というテーマに終焉していく」と言っているとおりである。

ところが、今回のこの出来事で、改めてそれが、(物理的な意味でも)はっきりとした手ごたえのあるものと分かり、確認されたということがある。私にとっては、もはや、その存在に一縷の疑いを差し挟む余地もなくなったのである。そして、それはある意味、私に、強い「開き直り」をもたらした。

また、「アール」らのやることも、今ひとつはっきりしないというか、煮え切らないところがあったが、この出来事で、要するに「こういうことをする奴らなのだ」というのが端的に分かり(但し、今思うと、一種の警告のような意味合いだった可能性もある)、ある意味、彼らの「たか」が知れてしまったという気がした。

もちろん、物質的に現実的な「力」をみせられて、恐怖はあるのだが、むしろそれまでの方が、よほど、心の内部においては、彼らの図り知れないイメージが膨らんでいて、恐怖を増幅させていたという面がある。このようにされてみると、逆に「アール」がとても「哀れ」で卑小なものにも感じられ、恐怖は、むしろ大きく減退することになったのである。

そして、そうしてみると、実際にも、「アール」自身はあまり私のそばに現れなくなり、また、現れても、特に印象に残ることや、効果のある攻撃を発揮できなくなったのである。「アール」の威力の、少なくとも半分は、私が恐怖という形で付与していたらしいことが、判明したのである。

しかし、「アール」に変わって、むしろそれを超える大きな謎めいた「存在」として、あるいは一連の体験のいわば「黒幕的存在」として、浮かび上がって来たのは、私の「背後の存在」だった。

私は、それまでは、「背後の存在」は、直感的にも、無条件に私の「味方」である気がして、一種の「守護天使」的な存在として疑うことをしなかった。また、この「背後の存在」こそが、私の廻りの存在の中でも、最も「強く」、「知恵」もあり、信頼もできる存在であると思い込んでいた。また、「アール」らも、これがいるから、私に対しては、あまり端的に直接的な攻撃をできないのだろうと、高をくくっているところもあった。そこには、「依存」に近いものがあったといえた。

しかし、改めて、この「背後の存在」を正面から見据えてみると、これらのことにどれだけの根拠があるのか、不確かなものに思われてきたのである。実際、これまでの見方は、「アール」が強力な敵としてあった限りで、それに対抗するように、自ずと形成されたものである可能性があった。

さらに、「思い出し」によれば、確かに表面上「護られ」ていたことには疑いがないけれども、それだけではなく、「背後の存在」は、全体として、「アール」らの攻撃を引き出したり、コントロールしたりしていたとも思われ、ある意味、一連の体験を演出した「黒幕的存在」であるように思われたのである(そのような面は、確かにあったといえる)。

また、私は所詮、彼らとは異なる人間であるのに対して、彼ら同士の間には、何か本質的に「通じる」ものがあるとも感じられ、私との間に特別の絆があるかのような思いは、ほとんど幻想のようにも思えてきた。

いずれにしても、それは、単純な「悪」とか「敵」ではないにしても、何か、それをも超えた、もっと大きな「力」で、私などが絶対にたてうちできないものと思われた。そして、それは、「アール」らとの闘いがもし終わるとした場合に、さらにその後に、「真に対決しなければならない相手」として、控えているようにも思われた。

私は、ただでさえ、「アール」らのことや、人々の背後から出てくる「声」などのことで、滅入っているのに、この思いは、本当に絶望的な気分をもたらしたのである。「背後の存在」は、それまで、そのような中でも一つの「救い」のようなものとしてあっただけに、その反動として、絶望感も大きいものになった。それに、私にとって、この存在は、余りにも大きなもので、「闘う」などということの考えられない次元のものになっていた。

(ちなみに、モーパッサンの『オルラ』という小説(福武文庫の怪奇傑作集に所収)に、この「背後の存在」と似たもの(一種の「ドッペルゲンガー」)との「格闘」の機微が、とてもリアルに描き出されている。もちろん、最後は、「全面降伏」のような形で終わっている。実際、モーパッサンは分裂病を患ったようで、これは体験に基づくものであった可能性が高い。)

さらに、私の廻りには、「アール」そのものはあまり現れなくなったが、系として似ているが、あまり強烈でない、ちょっと弱々しいくらいの感じのする存在(「小悪魔」と呼んでいた)がよく現れるようになった。

私は、もう基本的には、どうでもよいような気になっていたのと、この存在については、実際軽くみていたところがあって、別にいてもあまり気にも止めていなかった。すると、これはいつの間にか、私のお腹のあたりにいつくようになった。「声」が私のお腹からするのと、実際お腹のあたりにいる感覚があるのだが、私自身も体にいるので、これも文字通りの「憑依」ということではない。

これがよく私に言っていたのは、「お前息すんなよ!」で、初め文字どおり「呼吸」をするなと言っているのかと思ったが、どうも「気を発するな」とか「生き生きするな」という意味で言っているようだった。そして、「お前に息されると、俺らがいられなくなんだよ」と、正直とも何ともつかぬことを言う。私も、人がよいというか、悪いような気もして、(ただでさえ、ほとんど「息」をしている状況ではなかったが)、ちょっと引いたような状態でいて、好きなようにさせていた。

すると、これが、まさに好き勝手に振る舞い初め、外に出ると、人というよりもその背後にいる存在といろいろやりとりをし、とんでもないことを言い合っている。そして、これが私のお腹の中から呼びかけると、ろくでもない存在が集まってきて、騒然とし、一騒動が起こるようになった。人には、直接態度や行動に現れるということはなかったと思うが、その雰囲気には巻き込まれているように感じられた。

その時は、さすがに、やっぱり「とんでもない奴だった」と気づいたが、もはやどうこうする気力も起こらなかった(本気で追い出そうとすればそうできる気はしたが)。そして、これは、「私が死ななければならない」ということなのだ、という思いが強く出できた。そうすれば、このとんでもない存在を道連れにもできる。実際、方法なども考え、遺書も書こうとしたが、これは手が震えてできなかった(止められたという感覚がある)。

しかし、そこで、死んだ後のことをシュミレートしてみると、私は、それらの存在から解放されるどころか、肉体がない分、余計直接的に支配され続ける。一方「小悪魔」は、私の肉体がなくなれば、また他の人間の肉体を使って、好きなことをやり続けるだろう。結局、何の意味もないと思わざるを得なかった。

私の場合、この「宇宙の死」へ向かうこととなった契機がいくつか考えられるので、それを中心に述べてみよう。

「アール」などの存在は、テレビの例で見たように、「物理的な現実」そのもの「であるかのような」現象を起こしたり、それらの存在の言うこと(意味的に重なること)が「物理的現実」として起こるといった、いわゆる「共時性」の現象というのはよくあった。

しかし、少なくとも、この一連の体験の過程では、これまで、はっきり直接的に「物理的現象」といえるものが起こったことはなかったと思う。

ところが、ある時、私自身にとって全く疑いようのない形で、「物理的現象」(物質化現象)そのものを起こされたことがある。これは、「火」に関するもので、私の身体というより生命に関わるものだったが、恐らく背後の存在の助けによってすぐに気づくことができたので、直ちに対処でき、事にならずに済んだ。

私は、すぐさま「アール」の仕業と気づき、この時は、怒りというよりも呆れた思いが込み上げて来て、「失敗したと分かったら、自分で消して行け!」と強く言い放った。すると、「アール」の怒りを表すと思われる強烈な「映像」が現れて、何か煙のようなエネルギーを吹きかけられて、しばらく吐き気が治まらなかった。

この出来事は、私にとって、いろんな意味で、さらに大きな転換となった。

まずは、それまでも、「アール」などの存在を一個の意志をもった(霊的)存在とは認めてはいたのだが、今一つ、明確な手ごたえに欠けるような気もしていて、どこかでその存在を確信きれない面もないではなかった。

ただ、その後、また体の底の方から、強い震えが起こるということがあり、その時、「これは(自ら死ぬまでもなく)本当に死ぬのだ」という思いが、確信めいたものとして起こって来た。そして、私は、その後がとうなるかなどということにはおかまいなく、もはやそれを「受け入れる」しかないと、思いを定めた。

これまで、自分は割と「死」はいつでも受け入れられる、というか、特に恐怖をもったりはしないだろうと思っていたが、いざ間近に迫ったものとして受け入れるのは、やはり独特の悲しみと苦痛を伴った。それどころか、後にも述べるが、この一連の体験自体が、ある意味、私が「死」を「受け入れ」るまでに要した「あがき」の過程ともみれるのである。

一方、「宇宙的なイメージ」が展開するということも、併行して起こっていたが、その頃から、それは、一気に「宇宙の死」「宇宙の終わり」という方向に向かっていったのだと思う。宇宙を舞台に、ある種の「最終戦争」が行われるというようなものも含まれていたが、それは要するに、端的に、物理的なものも含めた「宇宙そのもの」が、(間もなく)死滅するということである。

そして、それは、私にとって、もはや疑いのないものとして実感された。そこで、ちょっとしたあがきのようなものもあったが、結局は、それをも「受け入れ」ることになった。実際に、直ぐにも、「宇宙」が死滅するということを、本当に受け入れたのである。

人によっては、自己の死とは、肉体の死ではあっても真の死滅ではなく、死後も存続し、また「生まれ変わり」を続けるなどの発想を持っている。また、キリスト教などの「最後の審判」では、「宇宙」は終わっても、審判を通った「魂」は、永遠に生き続けるなどの発想がある。

しかしこの「宇宙の死」というのは、少なくとも、「私」については、そのような輪廻的な環境そのものを無化させる最終的なものとして認識されたのである。もちろん、「最後の審判」のような抜け道もないものとしてである。つまり、私自身も、宇宙とともに、真に死滅するものとして、ということである。何か、「死滅する宇宙」を超えるようなものがあるということは感じられて、また、「少しはマシ」な宇宙のようなものが創り出されるのかとも思ったが、それはもはやどうでもよいことであった。

ただ、その頃、またひとつのイメージ的出来事があって、これは後の出来事の伏線ともなっているようなので、少し述べておこう。

初め私が死の床についていて、「アニマ」なども見取ってくれていたのだが、そこに、「全身純白に輝く」いかにも高貴な人が出て来て、私にも、同じ道を選ぶように言ってくる。つまり、「悪」や「闇」を排除して、自分と同じように「完全に白い道」を進まなければならない、というのである。

そう名のった訳ではないが、私は、直感的に、その人を「白いお方」とか「ユダヤのお方」と呼んでいた。(今のユダヤではなく、恐らく古代ユダヤの祖といったイメージ。私自身、何か関わりがあるというのは感じられた)が、私は、その場においても、そのような行き方には、反発やそぐわないものを感じ、いや「タオ(道)でなければ」と言って、断ることになった。タオ(道)というのは、ここでは、白と黒、あるいは光と闇などの「均衡」を保った、「全体性」というほどの意味である。

これは、「宇宙の死」が意識される前の出来事だったかもしれないが、「宇宙の死」の後だとすれば、その後に来るかもしれない次の「宇宙」のあり方のようなものとしてイメージされたものだったかもしれない。

何しろ、この反応には、自分でも少し驚いたが、死のかかった状況でのそれなりに真剣な「選択」ではあったと思うし、これは、今の私をもかなり規定しているところがある、と今も思う。

それでは、次回は、このような「宇宙の死」という状況が、どのようにしてもたらされたのか、少し考察を加えてみたい。そして、その後には、私の一連の体験が真に終焉する事態となった出来事を述べてみたい。それは、「宇宙の死」のさらに後、いわば、「宇宙の死以後」とでも呼び得る事態なのである。

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