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2006年2月16日 (木)

17 「思い出す」ということ

夢幻様状態に入ると、例えば最初の「引き金体験」など、当時は無意識下に起こっていたことの「思い出し」も、細部まで明確なものとなり始めた。それを通して、「アール」や特に「背後の存在」が、改めて、鮮明なディティールをもって浮かび上がってきた。それは、自分に身近なものというよりも、自分とは掛け離れた「未知のもの」として、改めて認識させられることともなる。

ところで、この「思い出す」ということは、何度も触れているように、いかに無意識下で体験していることが、「妄想」や「させられ体験」などの行動に影響しているかを如実に示してくれる、重要なものである(「思い出さ」なければ、それが無意識下の体験としてあったことさえ分からない)。そこで、この「思い出す」ということがどういったものなのか、ここで少し詳しくみてみることにしたい。

まず、それが通常の「記憶」と異なるのは、普通は意識的な知覚から閉ざされていることに関わるものだからである。つまり、それは意識的な知覚の対象である「物理的な現実」として起こったことに関わるのではなく、その「背後」にあって、知覚されるとしても通常は無意識下に知覚されることに関わるのである。その意味で、普通いう「閾下知覚」(意識に上らなかった周辺的な知覚)を後に思い出すというのとも異なる。

また、その「思い出さ」れ方(のプロセス)も、通常の記憶とは大分異なる。まず、それは、通常の記憶のように、「思い出そう」という意識の側の積極的な働きかけのみでは、とても内容までは蘇らないのである。つまり、そこには、容易には超えられないギャップが立ちはだかっている。(この感じとして、最も一般的に近いといえるのは、「夢」を思い出そうとしても思い出せない状況だろう。)

そのギャップがどのように超えられるかというのは、明確には把握しがたいけれども、実際にそれが起こる時の状況というのは、むしろ自動的にその体験が(現にその場にいるかのように)展開されて、意識の側では受動的にそれを見ているという状況になる。その意味で、前回言った、想像力が活性化して、自動的に宇宙的なイメージが展開されてくるのを見ている、という状況と近いのである。

意識の側では、「思い出す」というよりも、むしろ、その時の「状況」に焦点を合わせて、それに「入って行く」ということをする。それは、無意識の深みに潜って行くような感じだが、実際にその場にいるという感じが強くなれば、自動的に当時の体験が展開されてくる可能性が出てくる。いったん、それが起こると、後は割とすぐにその状況と「つながり」易くなる。深く入って行けばいくほど、現にその場で体験している感じは強くなるが、しかし、それを今の自分が「見ている」という自覚は失われることはない。

そして、その内容は、これまでの記述でも分かるように、現に自分が「起こっている」ことをどの程度意識しているかということと併行して深まるようである。つまり、幻聴を意識する段階では、「思い出し」の内容も、主に「声」のみが蘇る。「幻視」が明確なものとして意識される段階になると、「思い出し」の内容も、かなり細部まで明確なものとして「映像」的に蘇る訳である。

この「思い出し」が、宇宙的イメージの展開の場合と異なるのは、現に自分が体験した記憶そのものとして蘇るからで、その意味では通常の記憶の場合と同様、明確に「思い出す」という感覚を伴うものである。つまり、主観的には、自分が体験したことが疑いないものとして蘇る(蘇ってしまえば、むしろ、それまで「思い出す」ことができずにいたのが不思議に思えるほど、初めから明白であったかのように感じる。)

もちろん、客観的には、そこに「想像」などの要素が混入している可能性がないとは言えないし、それを確かめる手立てもない。ただ、この「思い出し」は、先に見たように段階的に深まって行くので、その都度の内容を照らし合わせて、全体として矛盾がないかとか、整合性があるかなどの検討はできる。

そして、この「思い出し」というのは、要するに、現に起こっていることが当時無意識であったのを意識化するということなので、結局は、今現在も現に起こっていることそのものとつながってくるのである。(現に起こっていることがその場で意識化できるようになれば、もはや「思い出す」ということは問題とならない。)だから、その起こっていることと照らし合わせることで、確からしいかどうか検討することもできる。

ちなみに、この「思い出し」ということについても、カルロス・カスタネダが、少し触れている。カスタネダは、具体的で詳細にわたる「非日常的な体験」の記述をしているが、それは、「思い出すという大変な努力」を通して可能になった、というのである。つまり、それらの体験は、当初は意識に上らず、無意識下に体験されていたのが、後に「思い出す」ことを通して、詳細に再現された訳である。

何しろ、これは、「思い出し」てみてはっきり分かるのだが、通常の状態では、意識と無意識の間のギャップというのが、いかに大きいかということに愕然とさせられる。人間は無意識レベルでも多くの体験を持っているのだが、通常それが浮上することはないのである。また、それは少なからず意識の側へも影響を与えているはずなのだが、通常、そのようなことが顧みられることもないのである。

いずれにしても、私自身、当時は無意識であったため、何が起こっているのか分からず、全く「見えない」状況であったものの全貌が、ほぼこの「思い出し」を通して明らかになったと感じることができた。

そこで、これまでは、当時の意識レベルで体験したことを中心に記述してきたのだが、この「思い出し」によって明らかになったことを、一部改めて記述し直そうと思う。特に、最初の「引き金体験」と、実家に帰って街を歩き廻ったという「させられ体験」について、無意識下に体験されていたことを少し明らかにしたい。これらは、一連の体験の中でも、個人的に印象が強いし、分裂病(的)体験一般にとっても、重要で参考になる点が多いと思うからである。

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