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2006年1月

2006年1月25日 (水)

15 「声」あるいは「存在」に取り巻かれること

「幻視」が伴うようになると、それまでの慣れ親しんだ「世界」が一変してしまった、との思いは強くなる。それは、それまでの「世界」と決して無関係ではなく、「背後」に潜んでいたものであった訳だが、それにしても、それが前面に出てくると、「異様」そのもので、全く「変質」してしまったように感じるのである。

その頃、これらの「世界」を私は「影の世界」と呼ぶようになっていた。それは、日常的世界の「背後」に、まさに「影」のようにつきまとうものだし、視覚的にも、実際「影」のように見えるところがあったからである。

しかし、実際には、この「影の世界」こそが、私にとっては、現に目の当たりにしている、ただ一つの「現実」の世界になりつつあった。さらに後に、この世界に「どっぷり」つかる頃には、この「影の世界」とそこの「住人」こそが、「実在」そのもので、私のそれまでの「世界」や「私」(もちろん他の人間も含む)こそが、「影」なのだという風に、ほとんど逆転してしまう。「リアリティ」の度合いは、こちらの方が断然強いからである。

そんな中、これらの「存在」の中で、これまであまり意識しなかった、自分の背後にいる「影」の存在がとても気になり出した。それは、普段歩いている時などにも、自分の背後にいることを意識するものになり、時に「声」を聞いたり、「映像」を見ることもあった。さらに、それと一緒にいるような形で、もう一体、女性の声の「存在」がいることにも気づくようになった。

これは、前に出て来た、「私、その本読み過ぎて頭がおかしくなったのよ」という言葉を人の「背後」から言った「存在」で、自分の「背後」の「影」とは、仲がいいというか、一緒に戯れたりもしているのが分かった。これらの「存在」は、もちろん「未知」のものではあるが、「声」も雰囲気も、これまでの「ろくでもない」ものとは違って、明るく親しみを持てるものだった。やはり、「私」を知っているということはすぐに感じ取られ、しかも「私」に対して、「身近」なものであるということが感じられた。

さらに、過去の「影の世界」に関わる出来事を「思い出す」ということも続いていた。自分の「背後の存在」や「アール」は、子供の頃から、事あるごとに自分と関わっていたこと、「アール」は何かと攻撃的に仕掛けて来たが、「背後の存在」は、むしろ自分を護ってくれていたと解するほかないこと、女性の「存在」も、中学の頃から、仲良くなった女性などの背後からよく出て来て、いろいろ関わったことを「思い出し」た。

「背後の存在」は、非常に多面的な面があって、とても一くくりにどういった存在とは言いにくい。「アール」のように「悪魔的」に強烈な面もあれば、「天使」のように包容的な面もある。ユーモアに富み、いたずら好きで、「トリックスター」的である。特に、女性の「存在」といる時には、この「トリックスター」的な面が表に出ているようである。

一方、女性の「存在」も、多面的ではあるが、一言で言うと、無邪気そのもので、底抜けに明るく、「妖精」のような魅力がある。それで、私が(意識レベルでは、それが出ている女性に対してということになるが)、恋愛感情を持つ元にもなってしまったようである。

そんな折り、私にとってかなり決定的といえる変化があった。それは、それらの「存在」が、外に出たときだけでなく、私が部屋にいるときも、直接現れて、私の周りにいるようになったことである。つまり、私一人で部屋にいても、それらの「声」(必ずしも私と話すというより、2人でいろいろ話したり、やったりしていることが多い)を聞いたり、「映像」(白黒でボヤッと見えるときもあれば、ほとんど物理的なものと同じように「カラー」で見えることもある。「見え」としては、ほとんど人間と同じようである。)を見たりするようになったのである。

特に、女性の「存在」は、私の近くにいると、はっきりそこに「いる」という感覚(体感)が伴い、また、その「感情」がはっきり伝わるぐらいリアルなものとしてあった。

さらに、その後には、これらの「存在」とともに、これまで人の背後から現れていた「アール」や、その「雑魚」のようなものまで、私の部屋に直接現れ出したのである。(但し、外に出れば、相変わらず、人の背後から「声」を出してくることは続いた。)

それが「決定的」変化だというのは、もはや、これらの「声」が、すれ違う「人」のものとは別のものであることが、はっきりしたからである。これまでは、「声」は、人とのすれ違いざまなどに現れていたので、やはりその「人」のもの(「テレパシー」)ではないかという疑いも続いていた。しかし、このように「人」とは全く別に、直接私の下に現れ出したことで、その疑いも消えたのである。

しかし、常時それら未知の「声」あるいは「存在」につきまとわれる状態になると、改めて、これらは一体何なのかということを、問題とせざるを得なくなる。

ところで、これらの事柄を解釈するのには、その者が「物質的な次元にはないもの」つまり、「見えない」ものや「霊的」なものについて、どのような考え方をしているかが、かなり影響すると思われる。

例えば、コチコチの唯物論者であれば、たとえ部屋でそういった「声」や「存在」に取り囲まれても、それらは文字通りの「幻」とみなそうとするだろう。もし、どうしてもその「リアリティ」を疑ようがないとなれば、むしろ、何かの組織や宇宙人が「電波」や「ホログラム」でそれらを流しているなどという、妄想的発想で埋めるしかなくなるだろう。逆に、「霊的なもの」の存在に疑いのない人であれば、割合あっさりそれらを霊的なものと認めてしまうかもしれない(但し、それが何らかの意味で、妄想に結びつかないかどうかはまた別である)。

そこで、当時のこういった事柄についての私の考えを、ざっとみてみることにしよう。

私は、18の頃までは、ほとんどコチコチの唯物論者と言ってよかった。ただ、小6の時に、かなり鮮烈なUFOを見たことがあって、それが心に残っていたためだろうが、UFOの本を読んだことがきっかけになって、関連の超心理学や、ユングの心理学、さらに霊的なものにも、興味を持つようになり、いろいろ知るようになった。また、一時、立て続けに「体外離脱」を経験することがあって、物理的な「肉体」を離れた体験(または世界)というものがはっきりあり、むしろそちらの方が意識の度合いも「リアリティ」も強いということを知ったこともあった。(その当時の体験には、「肉体を離れている」訳ではない点を除けば、この体験と重なる部分もかなりあった。)

そんなこんなで、当時の私にとって、霊的なものの存在そのものは、まず疑いのないものになっていた。ただ、私は、「神々」などといわれる、人間以外のまたは人間を超えた「霊的存在」というものには、何の「リアリティ」も持てなかったのである。

あり得ないとか信じないという訳ではなかったが、あまり真実味のあるものとも思えなかった。一言で言うと、近代文明を暗黙のうちにおおっている、「人間中心主義」に侵されていた訳である。(一般に、人間を超えた存在を認めないのも、もちろん「人間中心主義」だが、人間の「霊」は認めるのに、人間を超えた「霊的存在」は認めないというのは、端的に「人間中心主義」以外のなにものでもない。)

そういう訳で、当時の私の、人間のものではないことが明らかな「声」や「存在」に取り巻かれている状況というのは、霊的なものは認める私にとっても、「未知」としか言いようがない状況だったのである。

ただ、それらは、「現実」には、現にそこに「いる」という感覚が強烈にあるもので、また現に意識(意志)ある「存在」であるかのように振る舞っている。しかし、私は、いざそれらに取り巻かれる状況になると、それが「生身」の「存在」であることを認めることには抵抗があり、むしろそれを避ける方向で解釈することになったのである。

まず自分の「背後」の存在を、ユングのいう「影」(シャドウ)と連想したこととの関連で、もう一体の女性の「存在」を、ユングのいう「アニマ」(無意識の内部の女性性)ではないかと捉えた。「思い出し」によれば、いずれも、かなり昔から自分の「身近」に関わっていたもので、自分と「近い」面が確かにあるし、ユングのいう内容からみても、十分当てはまるものがあると思ったのである。

要するに、私は、これらは「自分の無意識のある面」が「投影」されて現れ出ている、と捉えようとした訳である。通常は、「投影」とは、他人に対してなされるものだが、ここでは、いわば周りの「空間」に対して、「投影」していることになる。

「投影」というのは、通常(フロイトなど)、自分の心の中にある受け入れ難い面を、他人のものであるかのようにみなしてしまうことをいう。ところが、現に自分が取り巻かれている状況は、もはや、このような個人的な無意識の内容の投影などとは、とてもみることができないものになっていた。

しかし、ユングの場合、単に個人的に抑圧されたものではなく、元々(普遍的な)無意識にある元型的なものが、イメージとして「投影」されて姿を現したものという捉え方をする。

元型そのものには形がないので、むしろ「投影」されなければ、捉えようがないのである。また、その元型的なイメージは、個人的な体験を超えた「神話的」な内容をもつ。

既に現れている「影」(シャドウ)にしても「アニマ」にしても、私の実感によれば、「私」とは別の「他者」としか言いようがないものだった。が、ユング風に、個人的なものを超えた元型的なイメージと捉える限り、納得できるものはあったのである。

この場合、「影」(シャドウ)については、私の「背後」にいて、自分と密接な関係にあるから、個人的な「影」(無意識の表に現れていない部分)としての面を多分に含むことになる。それに対して、一緒に現れ出た「アール」などは、まさに「普遍的な影」そのものということになろうか。

いずれにしても、自分では、しばらくの間は、これらは「実在」そのものではなく、ユングのいう「元型的なイメージ」なのだとして納得することにしていた。とは言っても、実際には、それらとは、「実在」そのもののように、「話し」たり、戯れたりもしていたのである。特に、「アニマ」(実際、そう名づけて呼ぶようになった)とは、そのようにして戯れることが多く、ある意味「楽しい」時を過ごさせてもらった。

これまでの「アール」などの「存在」は、あまりに強烈に過ぎ、また自分とは「かけ離れている」と思わざるを得ず、とても一緒にいるどころではないが、「アニマ」は、比較的穏やかで、自分に「近い」と思えるし、一緒にいるとこちらも心が安まるのである。未知の状況や、「アール」などへの恐れを、緩和してくれるというのもある。「アニマ」の方も、戯れるのが好きだし、私といることを好んでいるようであった。

何しろ、これまで、かなり「きつい」状態、「沈鬱な」状態が続いただけに、「アニマ」が現れたことは、本当に「救い」になったと言わなければならない。(一般には、むしろ、このような孤独で沈鬱な状態が続いたことの反動、あるいは補償として、空想により生み出された産物などとみなされるのだろうが)


但し、一方で、「アニマ」も、決して快い面ばかりではなく、やはり「人間でない」ことを思い知らされることもあるのは、後にみるとおりである。

実際、これらの「声」や「存在」を、私あるいはその奥にある「無意識」の「投影」とみなしていられる状況も、そう長く続くものではなかったのである。

2006年1月19日 (木)

14 「幻聴」から「幻視」へ

アパートに戻って、初めの変化は、「幻聴」を意識し始めたことだった。それまでも、外に出ると人が何か言ってくるようではあったが、具体的に何を言っているのかまでは意識しなかった。ところが、ここに来て、その「声」がはっきり意識され出したのである。

始めに意識した「声」の内容は、「お前、こっちに来んなよ!」だったと思う。人とすれ違うときなどに、何人かの者がほぼ同じような口調でこう言ってくる。多くの者にこのように言われると、良く分からないながらも、どうしても「落ち込む」し、その意味を詮索せずにいられなくなる。

これは、人が何か言ってくるようなので、どうしても人が近くに来ると意識してしまい、何を言っているのか注意を向けてしまうという状況に起こったものである。つまり、意識を鋭敏にして、受動的に構えるような状態にあったわけで、ある意味「聞くべくして」聞いたところがある訳である。「こっちに来るな!」というのは、多分このような状況が関係しているのだろう、と当時思った。

シュレーバーという分裂病にかかった人が、『回想録』で、「神経接続」という生々しい表現をしているが、この時の鋭敏さは、確かに(神経のような)何かを触手のように自分の体から外に延ばして、相手の領域に浸入させるというような感触を伴う。その「見えない」「領域侵犯」を捉えて、相手が「こっちに来るな!」と言っているのだろうと、思った訳である。

しかし、実際には、後にみるように、これも単純に人間の内心の言葉とみることはできないし、意味があるかどうかも不明で、「真に受ける」べき性質のものでないというのが本当のところと思われる。

他にも、例えば、駅員の人が「なんだ、お前何も分かっていないのか!」とか、「俺の言うことなんか、聞いてないんだろ!」とか、何しろよくは分からないが、意味ありげで攻撃的な言葉をしかけてくる。

これらの「声」は、物理的な声と近く、外部から伝わってくる感覚のあるもので、実際にそのように混同する可能性が多分にある。(だから、幻聴を意識していない者で、「誰かがこう言った」などという場合、本当は幻聴であった可能性が十分ある。)単に、頭の中で聞こえるとか、空耳のようなものでは全然ない。

ただ、私は既にいくつか、物理的とはいえない「言葉」を受け取っていた(「思い出し」ていた)こともあって、それは、その者の「物理的な声」とは異なることは、すぐに分かった。外部的に伝わる感覚があるとはいえ、やはり物理的な声とは異なる独特の「直接的」な響き方をするし、他にもいくつか微妙な違いがある(直感的には、違いには歴然としたものがあるはずである)。また、内容や「声」の調子などがから、普通の人間のものでないことが分かる場合も多いだろう。

ただ、これらは、前にあげた、「アール」や「ルーシー」の「声」とは異なるものだったし、それらの者ほど強力という訳でもなかった(但し、その響き方や特徴には多分に似たところはあった)。それで、それらは、その人間の内心の声がテレパシーで伝わったものである可能性はあると思った。

それにしても、それらは普通考えられるようなものではなく、とても意識して言っているとは思えなかったし、多くの者がほとんど同じことを言ってくるのも、おかしかった。そこで、しばらくは、そのような「声」に対して、よく分からないままに、いろいろ疑心暗鬼になることが続いた。

それから、人が数人の場合などは、よく嘲笑されるということがあった。それも、実際に、自分が心に思っていることをついてくるのである。例えば、「これらの声はテレパシーなのか」などと思っていると、「ハハハ、テレパーシ!」と、本当に嫌になるような言い方で嘲笑してくる。こちらも挑発に乗って、「けんかをすれば、絶対勝てる」とか、思ってしまうこともあったが、その時など、「なんだ、やるのか!」とすぐ反応してくる。そして、もう一人の者が「やめとけ!お前の適う相手じゃない!、エヘヘ」と何とも言えない笑いを浮かべる。

このように「声」が、こちらの心にあることをついてくるという点は、既にみた「つつぬけ体験」につながってくるものである。この「声」を、通りすがりなどの多くの他人のものそのものだと捉えてしまうと、自分の心の内面が、外部の者に「つつぬけている」と感じざるを得ないからである。

さらに、これをすべて、物理的現実のレベルに押し込めて解釈しようとすると、「自分の部屋が盗聴されている」とか、「電波を使って、その内容を多くの者に流している」などの発想が出てきてしまう(実際には、たとえ盗聴されていても分かるはずのないことを、「声」は言ってくるはずである)。

それは明らかな誤りだとしても、「テレパシー」で「つつぬけ」ているという発想になると、それは十分に内面的な「リアリティ」を反映した表現なので、容易には覆しようがないものになる。後にみるユングも言うように、本来無意識の奥底では、心というものは「つながっている」のだとすれば、抽象的には、そのような「リアリティ」には十分の根拠があることにもなる。

ただ、私はむしろ、「声」が、このように心にあることを「見事」に「ついてくる」点、ほぼ同じ口調で似たようなことを言ってくる点(まさにこの点から、「グルになっている」という発想も出てくるわけだが)などから、それがその人間そのものの「声」とはますます思えなくなった、というのが実際である。後にみるように、これらの「声」が、人間の無意識のある面や、「つながり」の要素を反映する点があるのは確かだとしても、直接にその「声」そのものが、その人間のものということではないのである。

端的に言えば、そのような事態は、通常の人間のなし得ることをはっきり超えているとみなさなくてはならない。それを通常の人間(またはそれの作り出した「組織」)のなすことの範囲で無理やりに解釈することが、典型的な「迫害妄想」の元なのである。

また、前に、これらの「声」には、逆らいがたい点、真に受けざるを得ない点があると言ったが、それは、このように「声」が、こちらの心を見透かすということも大きく関係している。「声」が、たとえ直接に心を見透かしていることを示すのでなくとも、この「声」は「自分(の内面)を知っている」ということは、すぐさま、直感的に感じ取られる。それで、この「声」に対しては、いわば初めから、従属的な立場に追いやられる面があるのである。

さらに、この頃、徐々にではあるが、何度か触れた「思い出す」ということが起こり始めていた。特に、初めの「引き金体験」である飲みに行った時のことや、それ以前にあったいくつかの個人的な「出来事」について、表面上のできごとの「裏」または「背後」で、いろんなことが起こっていたことに気づき始めた。まだそれは、「細部」まで明確なものではなく、漠然としたものではあったが、「声」だけでなく、「映像」を含むものになっていた。何しろ、そこでは、「影」のような「存在」というか「実体」のようなものが、表面的な出来事の「背後」で、いろいろ暗躍していたらしいことが分かり始めたのである。

また、その関連で、自分自身の「背後」にも、何かそのような「影」のような「存在」がいて、それらの「存在」といろいろやりとりしたり、「闘った」りしていたことに気づき始めた。この時点では、まだそれをどう理解していいかは、分からない状態だった(まずユングのいう「影」(シャドウ)を連想したと思う)けれども、当初の何の見通しも立たない頃からすれば、かなり「見えて来た」という思いは生じた。

この「思い出す」という点については、本格的に細部まで「思い出す」のはまだ後のことなので、この時点でどの程度まで具体的なものだったかは、あまりはっきりしない。ただ、要は、この段階で、「思い出す」ということを通じて、それら自分が体験している「世界」が、表面的な意識が通常対象としている(日常的な)「現実」の「内部」のことではなく、その「背後」での出来事であることが明確になったことが大きいのである。それらは、現にその体験をしている当時は、意識的な知覚からは「隠された」領域のものであった訳で、ただ無意識レベルでそれなりの「知覚」があったために、後にそれを意識化すること、つまり「思い出す」ことが可能になった訳である。

そうすると、今起こっている事柄は、本来はまさに日常的な現実の「背後」での出来事であったはずのものが、どういう訳か、日常的現実に「重なる」ようにして、あるいは時に「入れ替わる」ようにして、表に現れ出ているものだ、ということになる。それは、他人が見ている「世界」とは明らかに異なるものだし、通常、他人と共有することを期待することはできないものである。その点については、かなり前から意識はしていたが、改めてそれが明確になったのである。

この点は、起こっていることを「現実」の出来事と混同するような形の「妄想」を形成したり、人を「巻き込ん」だりすることを抑えるという点では、効果をもたらした。しかし、一方では、訳の分からない状況に取り巻かれていることに変わりはなく、人に理解を求めることもできず、どうしようもない、孤独感や絶望感をもたらしたのも事実である。おそらく、このように人に理解されない状況に耐え切れずに、(ことさら)人を巻き込むような言動に出てしまうケースも多いのだと思う。

何しろ、このように、映像的な部分が「思い出し」に加わるのと併行して、人の(背後からの)「声」にも映像的な部分が加わるようになった。つまり、「幻聴」は「幻視」を伴なうものになった訳である。まだこの頃は、色は「白黒」で、漠然としたものが多かったが、人の背後などから、何かが「ヌッ」という感じで出て来て、「声」を仕掛けてくるのが分かった。

意識的な「幻視」を伴うということは、森山の段階でいくと、第3段階に入ったことになる。しかし、私としては、さらにこの後、もっと決定的な変化を迎えることになる。それは、それらの「存在」が、人の「背後」からではなく、私の部屋に「来」て、直接「声」を交わすようになることである。

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