15 「声」あるいは「存在」に取り巻かれること
「幻視」が伴うようになると、それまでの慣れ親しんだ「世界」が一変してしまった、との思いは強くなる。それは、それまでの「世界」と決して無関係ではなく、「背後」に潜んでいたものであった訳だが、それにしても、それが前面に出てくると、「異様」そのもので、全く「変質」してしまったように感じるのである。
その頃、これらの「世界」を私は「影の世界」と呼ぶようになっていた。それは、日常的世界の「背後」に、まさに「影」のようにつきまとうものだし、視覚的にも、実際「影」のように見えるところがあったからである。
しかし、実際には、この「影の世界」こそが、私にとっては、現に目の当たりにしている、ただ一つの「現実」の世界になりつつあった。さらに後に、この世界に「どっぷり」つかる頃には、この「影の世界」とそこの「住人」こそが、「実在」そのもので、私のそれまでの「世界」や「私」(もちろん他の人間も含む)こそが、「影」なのだという風に、ほとんど逆転してしまう。「リアリティ」の度合いは、こちらの方が断然強いからである。
そんな中、これらの「存在」の中で、これまであまり意識しなかった、自分の背後にいる「影」の存在がとても気になり出した。それは、普段歩いている時などにも、自分の背後にいることを意識するものになり、時に「声」を聞いたり、「映像」を見ることもあった。さらに、それと一緒にいるような形で、もう一体、女性の声の「存在」がいることにも気づくようになった。
これは、前に出て来た、「私、その本読み過ぎて頭がおかしくなったのよ」という言葉を人の「背後」から言った「存在」で、自分の「背後」の「影」とは、仲がいいというか、一緒に戯れたりもしているのが分かった。これらの「存在」は、もちろん「未知」のものではあるが、「声」も雰囲気も、これまでの「ろくでもない」ものとは違って、明るく親しみを持てるものだった。やはり、「私」を知っているということはすぐに感じ取られ、しかも「私」に対して、「身近」なものであるということが感じられた。
さらに、過去の「影の世界」に関わる出来事を「思い出す」ということも続いていた。自分の「背後の存在」や「アール」は、子供の頃から、事あるごとに自分と関わっていたこと、「アール」は何かと攻撃的に仕掛けて来たが、「背後の存在」は、むしろ自分を護ってくれていたと解するほかないこと、女性の「存在」も、中学の頃から、仲良くなった女性などの背後からよく出て来て、いろいろ関わったことを「思い出し」た。
「背後の存在」は、非常に多面的な面があって、とても一くくりにどういった存在とは言いにくい。「アール」のように「悪魔的」に強烈な面もあれば、「天使」のように包容的な面もある。ユーモアに富み、いたずら好きで、「トリックスター」的である。特に、女性の「存在」といる時には、この「トリックスター」的な面が表に出ているようである。
一方、女性の「存在」も、多面的ではあるが、一言で言うと、無邪気そのもので、底抜けに明るく、「妖精」のような魅力がある。それで、私が(意識レベルでは、それが出ている女性に対してということになるが)、恋愛感情を持つ元にもなってしまったようである。
そんな折り、私にとってかなり決定的といえる変化があった。それは、それらの「存在」が、外に出たときだけでなく、私が部屋にいるときも、直接現れて、私の周りにいるようになったことである。つまり、私一人で部屋にいても、それらの「声」(必ずしも私と話すというより、2人でいろいろ話したり、やったりしていることが多い)を聞いたり、「映像」(白黒でボヤッと見えるときもあれば、ほとんど物理的なものと同じように「カラー」で見えることもある。「見え」としては、ほとんど人間と同じようである。)を見たりするようになったのである。
特に、女性の「存在」は、私の近くにいると、はっきりそこに「いる」という感覚(体感)が伴い、また、その「感情」がはっきり伝わるぐらいリアルなものとしてあった。
さらに、その後には、これらの「存在」とともに、これまで人の背後から現れていた「アール」や、その「雑魚」のようなものまで、私の部屋に直接現れ出したのである。(但し、外に出れば、相変わらず、人の背後から「声」を出してくることは続いた。)
それが「決定的」変化だというのは、もはや、これらの「声」が、すれ違う「人」のものとは別のものであることが、はっきりしたからである。これまでは、「声」は、人とのすれ違いざまなどに現れていたので、やはりその「人」のもの(「テレパシー」)ではないかという疑いも続いていた。しかし、このように「人」とは全く別に、直接私の下に現れ出したことで、その疑いも消えたのである。
しかし、常時それら未知の「声」あるいは「存在」につきまとわれる状態になると、改めて、これらは一体何なのかということを、問題とせざるを得なくなる。
ところで、これらの事柄を解釈するのには、その者が「物質的な次元にはないもの」つまり、「見えない」ものや「霊的」なものについて、どのような考え方をしているかが、かなり影響すると思われる。
例えば、コチコチの唯物論者であれば、たとえ部屋でそういった「声」や「存在」に取り囲まれても、それらは文字通りの「幻」とみなそうとするだろう。もし、どうしてもその「リアリティ」を疑ようがないとなれば、むしろ、何かの組織や宇宙人が「電波」や「ホログラム」でそれらを流しているなどという、妄想的発想で埋めるしかなくなるだろう。逆に、「霊的なもの」の存在に疑いのない人であれば、割合あっさりそれらを霊的なものと認めてしまうかもしれない(但し、それが何らかの意味で、妄想に結びつかないかどうかはまた別である)。
そこで、当時のこういった事柄についての私の考えを、ざっとみてみることにしよう。
私は、18の頃までは、ほとんどコチコチの唯物論者と言ってよかった。ただ、小6の時に、かなり鮮烈なUFOを見たことがあって、それが心に残っていたためだろうが、UFOの本を読んだことがきっかけになって、関連の超心理学や、ユングの心理学、さらに霊的なものにも、興味を持つようになり、いろいろ知るようになった。また、一時、立て続けに「体外離脱」を経験することがあって、物理的な「肉体」を離れた体験(または世界)というものがはっきりあり、むしろそちらの方が意識の度合いも「リアリティ」も強いということを知ったこともあった。(その当時の体験には、「肉体を離れている」訳ではない点を除けば、この体験と重なる部分もかなりあった。)
そんなこんなで、当時の私にとって、霊的なものの存在そのものは、まず疑いのないものになっていた。ただ、私は、「神々」などといわれる、人間以外のまたは人間を超えた「霊的存在」というものには、何の「リアリティ」も持てなかったのである。
あり得ないとか信じないという訳ではなかったが、あまり真実味のあるものとも思えなかった。一言で言うと、近代文明を暗黙のうちにおおっている、「人間中心主義」に侵されていた訳である。(一般に、人間を超えた存在を認めないのも、もちろん「人間中心主義」だが、人間の「霊」は認めるのに、人間を超えた「霊的存在」は認めないというのは、端的に「人間中心主義」以外のなにものでもない。)
そういう訳で、当時の私の、人間のものではないことが明らかな「声」や「存在」に取り巻かれている状況というのは、霊的なものは認める私にとっても、「未知」としか言いようがない状況だったのである。
ただ、それらは、「現実」には、現にそこに「いる」という感覚が強烈にあるもので、また現に意識(意志)ある「存在」であるかのように振る舞っている。しかし、私は、いざそれらに取り巻かれる状況になると、それが「生身」の「存在」であることを認めることには抵抗があり、むしろそれを避ける方向で解釈することになったのである。
まず自分の「背後」の存在を、ユングのいう「影」(シャドウ)と連想したこととの関連で、もう一体の女性の「存在」を、ユングのいう「アニマ」(無意識の内部の女性性)ではないかと捉えた。「思い出し」によれば、いずれも、かなり昔から自分の「身近」に関わっていたもので、自分と「近い」面が確かにあるし、ユングのいう内容からみても、十分当てはまるものがあると思ったのである。
要するに、私は、これらは「自分の無意識のある面」が「投影」されて現れ出ている、と捉えようとした訳である。通常は、「投影」とは、他人に対してなされるものだが、ここでは、いわば周りの「空間」に対して、「投影」していることになる。
「投影」というのは、通常(フロイトなど)、自分の心の中にある受け入れ難い面を、他人のものであるかのようにみなしてしまうことをいう。ところが、現に自分が取り巻かれている状況は、もはや、このような個人的な無意識の内容の投影などとは、とてもみることができないものになっていた。
しかし、ユングの場合、単に個人的に抑圧されたものではなく、元々(普遍的な)無意識にある元型的なものが、イメージとして「投影」されて姿を現したものという捉え方をする。
元型そのものには形がないので、むしろ「投影」されなければ、捉えようがないのである。また、その元型的なイメージは、個人的な体験を超えた「神話的」な内容をもつ。
既に現れている「影」(シャドウ)にしても「アニマ」にしても、私の実感によれば、「私」とは別の「他者」としか言いようがないものだった。が、ユング風に、個人的なものを超えた元型的なイメージと捉える限り、納得できるものはあったのである。
この場合、「影」(シャドウ)については、私の「背後」にいて、自分と密接な関係にあるから、個人的な「影」(無意識の表に現れていない部分)としての面を多分に含むことになる。それに対して、一緒に現れ出た「アール」などは、まさに「普遍的な影」そのものということになろうか。
いずれにしても、自分では、しばらくの間は、これらは「実在」そのものではなく、ユングのいう「元型的なイメージ」なのだとして納得することにしていた。とは言っても、実際には、それらとは、「実在」そのもののように、「話し」たり、戯れたりもしていたのである。特に、「アニマ」(実際、そう名づけて呼ぶようになった)とは、そのようにして戯れることが多く、ある意味「楽しい」時を過ごさせてもらった。
これまでの「アール」などの「存在」は、あまりに強烈に過ぎ、また自分とは「かけ離れている」と思わざるを得ず、とても一緒にいるどころではないが、「アニマ」は、比較的穏やかで、自分に「近い」と思えるし、一緒にいるとこちらも心が安まるのである。未知の状況や、「アール」などへの恐れを、緩和してくれるというのもある。「アニマ」の方も、戯れるのが好きだし、私といることを好んでいるようであった。
何しろ、これまで、かなり「きつい」状態、「沈鬱な」状態が続いただけに、「アニマ」が現れたことは、本当に「救い」になったと言わなければならない。(一般には、むしろ、このような孤独で沈鬱な状態が続いたことの反動、あるいは補償として、空想により生み出された産物などとみなされるのだろうが)
但し、一方で、「アニマ」も、決して快い面ばかりではなく、やはり「人間でない」ことを思い知らされることもあるのは、後にみるとおりである。
実際、これらの「声」や「存在」を、私あるいはその奥にある「無意識」の「投影」とみなしていられる状況も、そう長く続くものではなかったのである。
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