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2006年1月19日 (木)

14 「幻聴」から「幻視」へ

アパートに戻って、初めの変化は、「幻聴」を意識し始めたことだった。それまでも、外に出ると人が何か言ってくるようではあったが、具体的に何を言っているのかまでは意識しなかった。ところが、ここに来て、その「声」がはっきり意識され出したのである。

始めに意識した「声」の内容は、「お前、こっちに来んなよ!」だったと思う。人とすれ違うときなどに、何人かの者がほぼ同じような口調でこう言ってくる。多くの者にこのように言われると、良く分からないながらも、どうしても「落ち込む」し、その意味を詮索せずにいられなくなる。

これは、人が何か言ってくるようなので、どうしても人が近くに来ると意識してしまい、何を言っているのか注意を向けてしまうという状況に起こったものである。つまり、意識を鋭敏にして、受動的に構えるような状態にあったわけで、ある意味「聞くべくして」聞いたところがある訳である。「こっちに来るな!」というのは、多分このような状況が関係しているのだろう、と当時思った。

シュレーバーという分裂病にかかった人が、『回想録』で、「神経接続」という生々しい表現をしているが、この時の鋭敏さは、確かに(神経のような)何かを触手のように自分の体から外に延ばして、相手の領域に浸入させるというような感触を伴う。その「見えない」「領域侵犯」を捉えて、相手が「こっちに来るな!」と言っているのだろうと、思った訳である。

しかし、実際には、後にみるように、これも単純に人間の内心の言葉とみることはできないし、意味があるかどうかも不明で、「真に受ける」べき性質のものでないというのが本当のところと思われる。

他にも、例えば、駅員の人が「なんだ、お前何も分かっていないのか!」とか、「俺の言うことなんか、聞いてないんだろ!」とか、何しろよくは分からないが、意味ありげで攻撃的な言葉をしかけてくる。

これらの「声」は、物理的な声と近く、外部から伝わってくる感覚のあるもので、実際にそのように混同する可能性が多分にある。(だから、幻聴を意識していない者で、「誰かがこう言った」などという場合、本当は幻聴であった可能性が十分ある。)単に、頭の中で聞こえるとか、空耳のようなものでは全然ない。

ただ、私は既にいくつか、物理的とはいえない「言葉」を受け取っていた(「思い出し」ていた)こともあって、それは、その者の「物理的な声」とは異なることは、すぐに分かった。外部的に伝わる感覚があるとはいえ、やはり物理的な声とは異なる独特の「直接的」な響き方をするし、他にもいくつか微妙な違いがある(直感的には、違いには歴然としたものがあるはずである)。また、内容や「声」の調子などがから、普通の人間のものでないことが分かる場合も多いだろう。

ただ、これらは、前にあげた、「アール」や「ルーシー」の「声」とは異なるものだったし、それらの者ほど強力という訳でもなかった(但し、その響き方や特徴には多分に似たところはあった)。それで、それらは、その人間の内心の声がテレパシーで伝わったものである可能性はあると思った。

それにしても、それらは普通考えられるようなものではなく、とても意識して言っているとは思えなかったし、多くの者がほとんど同じことを言ってくるのも、おかしかった。そこで、しばらくは、そのような「声」に対して、よく分からないままに、いろいろ疑心暗鬼になることが続いた。

それから、人が数人の場合などは、よく嘲笑されるということがあった。それも、実際に、自分が心に思っていることをついてくるのである。例えば、「これらの声はテレパシーなのか」などと思っていると、「ハハハ、テレパーシ!」と、本当に嫌になるような言い方で嘲笑してくる。こちらも挑発に乗って、「けんかをすれば、絶対勝てる」とか、思ってしまうこともあったが、その時など、「なんだ、やるのか!」とすぐ反応してくる。そして、もう一人の者が「やめとけ!お前の適う相手じゃない!、エヘヘ」と何とも言えない笑いを浮かべる。

このように「声」が、こちらの心にあることをついてくるという点は、既にみた「つつぬけ体験」につながってくるものである。この「声」を、通りすがりなどの多くの他人のものそのものだと捉えてしまうと、自分の心の内面が、外部の者に「つつぬけている」と感じざるを得ないからである。

さらに、これをすべて、物理的現実のレベルに押し込めて解釈しようとすると、「自分の部屋が盗聴されている」とか、「電波を使って、その内容を多くの者に流している」などの発想が出てきてしまう(実際には、たとえ盗聴されていても分かるはずのないことを、「声」は言ってくるはずである)。

それは明らかな誤りだとしても、「テレパシー」で「つつぬけ」ているという発想になると、それは十分に内面的な「リアリティ」を反映した表現なので、容易には覆しようがないものになる。後にみるユングも言うように、本来無意識の奥底では、心というものは「つながっている」のだとすれば、抽象的には、そのような「リアリティ」には十分の根拠があることにもなる。

ただ、私はむしろ、「声」が、このように心にあることを「見事」に「ついてくる」点、ほぼ同じ口調で似たようなことを言ってくる点(まさにこの点から、「グルになっている」という発想も出てくるわけだが)などから、それがその人間そのものの「声」とはますます思えなくなった、というのが実際である。後にみるように、これらの「声」が、人間の無意識のある面や、「つながり」の要素を反映する点があるのは確かだとしても、直接にその「声」そのものが、その人間のものということではないのである。

端的に言えば、そのような事態は、通常の人間のなし得ることをはっきり超えているとみなさなくてはならない。それを通常の人間(またはそれの作り出した「組織」)のなすことの範囲で無理やりに解釈することが、典型的な「迫害妄想」の元なのである。

また、前に、これらの「声」には、逆らいがたい点、真に受けざるを得ない点があると言ったが、それは、このように「声」が、こちらの心を見透かすということも大きく関係している。「声」が、たとえ直接に心を見透かしていることを示すのでなくとも、この「声」は「自分(の内面)を知っている」ということは、すぐさま、直感的に感じ取られる。それで、この「声」に対しては、いわば初めから、従属的な立場に追いやられる面があるのである。

さらに、この頃、徐々にではあるが、何度か触れた「思い出す」ということが起こり始めていた。特に、初めの「引き金体験」である飲みに行った時のことや、それ以前にあったいくつかの個人的な「出来事」について、表面上のできごとの「裏」または「背後」で、いろんなことが起こっていたことに気づき始めた。まだそれは、「細部」まで明確なものではなく、漠然としたものではあったが、「声」だけでなく、「映像」を含むものになっていた。何しろ、そこでは、「影」のような「存在」というか「実体」のようなものが、表面的な出来事の「背後」で、いろいろ暗躍していたらしいことが分かり始めたのである。

また、その関連で、自分自身の「背後」にも、何かそのような「影」のような「存在」がいて、それらの「存在」といろいろやりとりしたり、「闘った」りしていたことに気づき始めた。この時点では、まだそれをどう理解していいかは、分からない状態だった(まずユングのいう「影」(シャドウ)を連想したと思う)けれども、当初の何の見通しも立たない頃からすれば、かなり「見えて来た」という思いは生じた。

この「思い出す」という点については、本格的に細部まで「思い出す」のはまだ後のことなので、この時点でどの程度まで具体的なものだったかは、あまりはっきりしない。ただ、要は、この段階で、「思い出す」ということを通じて、それら自分が体験している「世界」が、表面的な意識が通常対象としている(日常的な)「現実」の「内部」のことではなく、その「背後」での出来事であることが明確になったことが大きいのである。それらは、現にその体験をしている当時は、意識的な知覚からは「隠された」領域のものであった訳で、ただ無意識レベルでそれなりの「知覚」があったために、後にそれを意識化すること、つまり「思い出す」ことが可能になった訳である。

そうすると、今起こっている事柄は、本来はまさに日常的な現実の「背後」での出来事であったはずのものが、どういう訳か、日常的現実に「重なる」ようにして、あるいは時に「入れ替わる」ようにして、表に現れ出ているものだ、ということになる。それは、他人が見ている「世界」とは明らかに異なるものだし、通常、他人と共有することを期待することはできないものである。その点については、かなり前から意識はしていたが、改めてそれが明確になったのである。

この点は、起こっていることを「現実」の出来事と混同するような形の「妄想」を形成したり、人を「巻き込ん」だりすることを抑えるという点では、効果をもたらした。しかし、一方では、訳の分からない状況に取り巻かれていることに変わりはなく、人に理解を求めることもできず、どうしようもない、孤独感や絶望感をもたらしたのも事実である。おそらく、このように人に理解されない状況に耐え切れずに、(ことさら)人を巻き込むような言動に出てしまうケースも多いのだと思う。

何しろ、このように、映像的な部分が「思い出し」に加わるのと併行して、人の(背後からの)「声」にも映像的な部分が加わるようになった。つまり、「幻聴」は「幻視」を伴なうものになった訳である。まだこの頃は、色は「白黒」で、漠然としたものが多かったが、人の背後などから、何かが「ヌッ」という感じで出て来て、「声」を仕掛けてくるのが分かった。

意識的な「幻視」を伴うということは、森山の段階でいくと、第3段階に入ったことになる。しかし、私としては、さらにこの後、もっと決定的な変化を迎えることになる。それは、それらの「存在」が、人の「背後」からではなく、私の部屋に「来」て、直接「声」を交わすようになることである。

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コメント

失礼します。
幻聴が発生してさほどたってない薄暗い夕暮れに
内面でよく幻視しました。最近はほとんどないです。
ここの幻視とは違うのですが思考内容がイメージとして現れたり、
眠りと覚醒の中間のような状態になった時、茶色の紙切れに文字を書く艶やかなイメージが
浮かび上がったり、文字と文字の間に小さな少女のような幻影が見えたり(個人的には言語に住む霊かと思いました)。朝目覚めた時、天井を見上げると空に老人のような何かが浮かんでいるように見えたり
金剛界曼荼羅と似ている曼荼羅を幻視したりしました。これらがどんな意味があるのか気になりますが、答えが既に出てたらいいのに

統合失調では、幻聴が主で、幻視はまれだと言う人がいます。確かに、意識化されやすいのは、幻聴であることが圧倒的に多いと思います。記事『「幻聴の声」と「物理的な声」の区別 』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post-57ab.htmlでも、なぜ主に幻聴が生じるのか、詳しく述べています。

しかし、私は、意識化されることが少ないだけで、幻視もまた、統合失調状況では、何らかの形で生じている場合が多いとみています。

タルパについて

幻覚はタルパと関係あると思いますか?
タルパは検索したらわかりますけど、
タルパについてここのブログを検索してみても
なかったので

http://www37.atwiki.jp/tarupa/pages/15.html

タルパのwikiです

「タルパ」または「トゥルパ」ですね。この言葉は、始めて聞きましたが、私がブログで使用している言葉でいえば、「エレメンタル」(想念形態)と同じものと解していいと思います。記事では、『「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post-8aca.html に述べられています。

「エレメンタル」にも、自分自身で作り出したもの(これが「タルバ」に相当する)と、他者により作り出されたもの(「生き霊」)があります。さらに、霊的存在により作り出されたものもあります。これら、「エレメンタル」と「他者」としての「霊的存在」そのものもあるわけで、かなり、ややこしいです。これらを、明確に区別することは難しいと思います。

「タルパ」は、本来チベットの高僧などが、修行や救済のため、明確な自覚的意識のもとに「作り出す」ものを言うのでしょう。しかし、「統合失調」状況では、自分自身の「タルバ」が作用するとしても、それは無意識的に「作り出され」たもので、曖昧で不確かなものとなっていると思います。むしろ、「解離」の場合の「想像上の友人」などと言われるものが、これに近いでしょう。

統合失調の場合は、「幻覚」(幻聴)の主体は、「他者」としての性質が強く現れるもので、私は、他者の「エレメンタル」か、霊的な存在そのものである場合が、多いのではないかと思っています。だたし、そこに、自分自身の「想念」を「投影」するような形で、自分自身の「エレメンタル」も入り込むといったことは、よく起こると思われます。いずれにしても、ややこしいので、あまり「エレメンタル」に拘るのは、得策ではないと思います。実際、「エレメンタル」は、それに拘って、怖がったり、関わったりすればするほど、力を得て、強力化します。だから、基本は、無視するのが一番です。そうすれば、自然に勢いも、弱まってくると思います。

問題は、その「エレメンタル」の背後に、「捕食者」等の存在が関わる場合です。そうなると、もはや容易には、その状態から解放されることは望みえず、本格的に、闘っていく覚悟が必要になります。しかし、「捕食者」といえども、まさに「チベットの死者の書」等もいうように、本来「空なる」存在なので、決して闘いをくぐり抜ける見込みがないものではありません。

そういえば、『ナイト・ヘッド』(https://www.youtube.com/watch?v=4AK5d7lzc1E)に出てくる、マイナスのエネルギーが引き寄せたという存在は、まさに「エレメンタル」または「タルパ」ですね。

だた、これは個人的に作り出されたというよりは、桐原兄弟(または広く人類そのものかもしれない)によって、集合的に作り出された「エレメンタル」になりますね。

回答ありがとうございます。

タルパはウィキペディアでは思念形態と書かれてありました。
思考がもとから超感覚的、霊的なものであるならば、思考を素材とした存在を生み出すことができる
のかもしれないと思いました。 また、小説家は自然にタルパないしエレメンタルを作り出して
それを表現している場合があるかもしれない。
思念形態は何も人格的な概念だけではなくて、
普通の言葉にも隠れているのかもしれないと予想します。 哲学学問などの世界観学を繰り返し記憶して
完璧に理解しマスターすると、頭の中に「学問のエレメンタル」ができるのではないかってことです。
夢の中に概念が人格化、タルパ化されて現れるという場合があるんじゃなかなって、
そしてそれが思考世界の中で生きる

あと眠る直前の静かな意識状態で、ときどきイメージが勝手に動き出して走り去ることがあります。これは自分のエレメンタルの何かなのかなあ 

想念形態の話
http://blog.goo.ne.jp/birch99/c/dd3a51182fa83c3a3834cd7f1110cce3
ここでざっくばらんに読んでみました。これはありそうですね。
自分がある人のことを強く思ったことがあります。その時と時間が一致するかわかりませんけど
その人は透き通った私を目撃したようです。

イエスキリストが信じれば山をも動かせる的なことを聖書に書いてありますけど、
それも神を信じるという極限なまでの強い思念の力が物質界に作用するのかもしれませんね。
エレメンタルと自然との関わりで、悪い思いが事故を起こす場合などもあるかもしれない。
呪いはあるけど、魔法があるってことは逆に神もいるってことになるので呪いはしないほうがいいってことか
小規模になると、誰かがピンチになったとき、遠方の保護者の家にある皿が割れるなど

紹介されているサイトは、私と同様、ダスカロスの説に基づいて「エレメンタル」をかなり詳しく解説していますね。私は、「統合失調」状態に現れるものを想定して、無意識的に作られてしまう「エレメンタル」や他者の「ネガティブ」な「エレメンタル」について中心にコメントしました。それは、ここでは、「欲望→思考型のエレメンタル」に当たりますね。そして、本来の「タルパ」は、「思考→欲望型のエレメンタル」に当たるのだと思います。仰る通り、人格的なものに限らず、あらゆる思考形態が「エレメンタル化」(実体化)することができるのだと思います。事故の例をあげられましたが、地震などもそうですね。また、学問や思想などが、「エレメンタル化」して、多くの人に影響を与えるということもあると思います。

結局、「思考こそが現実を作り出す」ということになるし、その意味では、自分の思考には責任があるということにもなりますね。前に話されていた「カルマ」のもとになるのも、「エレメンタル」であるわけだし。「思考→欲望型エレメンタル」であれば、自覚的、意志的に、意味のある明確な「現実」を作り出せるのでしょうが、多くの場合は、「欲望→思考型のエレメンタル」によって、無意識的に混沌とした「現実」を作り出してしまっているのが現状だと思います。真に思考をコントロールすることは、普通思われている以上に大変なことと思います。「タルパ」というのは、そのための修行でもあるわけですね。

と同時に、「宇宙または人間を含めた存在とは、神または神々が作ったエレメンタルである」ということも言えるのだと思います。

タルパについては
イメージを視覚化するらしいですね。
これはエレメンタルの視覚化ということですが、
このエレメンタルに幻聴からまもってもらえるようにないし
戦ってもらえるように仕向けることができるかもしれませんね。イメージの視覚化については
デイヴィッドコンウェイの魔術書に載っています。
あるいは、エレメンタルの中に自分の意識を映し込み、自分で捕食者を認識してみるとか
これは危険か
捕食者はエレメンタルと違うとどこかで仰っていましたね。
捕食者はエレメンタルの次元に住み、人の負の想念の力を自分に流して力にする存在なのでしょうか。 幻覚の正体がオカルト的にも判明したらいいですね


「エレメンタルの視覚化ということですが、
このエレメンタルに幻聴からまもってもらえるようにないし
戦ってもらえるように仕向けることができるかもしれませんね」

これは、「タルパ」=「思考→欲望型エレメンタル」として、意志的に明確になされるなら、可能だとは思います。しかし、普通は、そのような状況では、無意識的な混乱が入り込むので、その「エレメンタル」自体が「暴走」して、かえって危険ということにもなるでしょうね。

「捕食者はエレメンタルの次元に住み、人の負の想念の力を自分に流して力にする存在なのでしょうか。」

まさに、そうです。その意味では、「タルバ」=「思考→欲望型エレメンタル」であえて対抗しようとしなくても、相手に「負の想念の力」を与えなければ、それほど活性化できるものでもないということになります。

私の場合は霊的な経験に襲われたって感じで自由に霊視できる立場にないので
考えを進めることはできるが実際に把握しているわけでないって注意点があります。
その上で考えを進めると、幻覚は前世の悪いエレメンタルがカルマとして受け継がれて
現世用に変容したものである可能性と、捕食者は学問のエレメンタルのような個人を超えた
悪いエレメンタルであり、ゲーム風に言うならば人間によって創りだされた悪い思いの結晶体。
ペルソナ2的に言えばニャルラトホテプ、アークザラッド的に言えば暗黒の支配者で、
ユングの集合的無意識の話では、悪の集合無意識ということになるかもしれません。
老賢者が人類が創りだした思考欲望型のエレメンタルの総体ならこっちは逆。
これは人類が創りだした悪いカルマとも言える。人類を破滅に導く力

話がごちゃまぜになっている感がありますけどね

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