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2005年12月14日 (水)

11 「3段階」の捉え方~意識化の過程

これらの3段階は、もちろん典型的なケースをもとにした、一つのモデル的な試みに過ぎない。が、表に現れた現象としてみる限り、多くの場合に、よく当てはまるのではないかと思われる。私自身の場合も、当初意識にのぼった部分を見る限り、実際ほとんどこのとおりに発展して行ったのである。

また、それぞれの段階の説明も、それなりに説得的なものがあると言える。少なくとも、「了解不能の脳病」というのとは、大きな違いである。

しかし、先に結論のようなことを言ってしまうと、これら妄想の発展段階として捉えられたものは、実際には、無意識に潜伏していたものが、より明瞭かつ具体的に意識化されてくる過程である、と言うべきなのである。つまり、各段階でみたものは、発展の結果新たに出てきたものなどではなく、元々無意識に潜伏していたものが、徐々に意識化されることによって,より具体的に捉えられた姿なのである。

従って、「発展」ではなく、「深化」というのが正しい。そして、それは、分裂病にとって本質的なものは、起こっていることがより明瞭に捉えられた、第3段階にこそ指し示されている、ということをも意味している。それは、形は「見えない」ながらも、第1段階からずっと基底にあって、様々に力を発揮し,方向づけを与えていたのである。

そこで、もう一度、第3段階として表現されたものの「状況」をみてみよう。「させられ・つつぬけ体験」というのは、既にみたように、端的に言えば、「自己と外界(内と外)の境界が揺らぎ、融合してしまう状況」を表現したものと言える。そして、そこでは、従来の「自己」は、何かしら圧倒的な「力」に、蹂躙され、あるいは支配されている。

また、「夢幻様状態」というのは、そのように自己と外界の融合した状況がいわば宇宙大にまで拡大し、それが、もはや「瀕死」の状態にある「自己」に対して、強烈に破壊的に作用する夢幻的な世界であると言える。

こういった状況は、言うまでもなく、それまでのその者の日常性や体験世界を大きく逸脱したものである。それは、紛いなりにも、自己と外界は分離され、区別されるものであることを前提にして、「世界」を組み立てていた者にとっては、「自己」と「世界」そのものの崩壊を「宣言」するごときものなのである。

そういった途方もない状況が、まだ幻聴も意識されない第1段階から、既に何らかの形で無意識には潜伏しており、意識をもかすめとろうとしていた、と考えられるのである。

それは、特に初めの段階では、形としては捉えがたいが、何か強烈な「切迫感」を伴う、「恐怖」として意識される。しかも、それは、既に何かしら、「未知なるもの」であること、「自己の崩壊を予兆させるもの」であることの「予感」を含んでいる。その、これまでに体験のない、「形の見えない恐怖」によって、常に「追い立て」られているような状態というのは、むしろ、幻聴や妄想として、ある程度形が見えてくる(形を与えられる)までよりも、いかんともしがたい「苦痛」なのである。

それで、その者は、焦燥にかられつつ、それが何であるのか、それまでのあらゆる経験や知識を総動員して問い詰めずにはいられない。しかし、一方では、そこには、理解しがたい「未知性」、自己を脅かす「崩壊の予兆」が、そこはかとなく「予感」されている。それで、その状況が、そのまま浮上することに対しては、意識の側の強い抵抗、防衛を引き起こすのである。

「妄想」というのは、そのような葛藤の場に生まれるのである。つまり、起こっていることに早く「形」、「理由」を見いだしたいという思いと、未知の状況がそのまま浮上することに対する防衛意識の葛藤の結果が、その者の「それまでの現実に無理やり当てはめて状況を解釈する」という、「妄想」への指向を生んだのである。

例えば、「組織に狙われる」などの「妄想」は、潜伏している、「未知の状況」、「自己と外界の融合するごときある全体的状況」が「自己」の崩壊を差し迫る、といった事態を、「現実」の領域に無理やり当てはめて、解釈されたものである。「組織」というのは、その「潜伏する状況」(それは、一種の「内的なつながり」の元に浮かび上がる)を、「現実」のレベルにおいては、それなりによく反映するものには違いないからである。

その意味では、「妄想」というのは、森山が言うように、段階的に「拡大」するのではなく、逆に、本来の状況が、無理に「宿小」されて出てきているものなのである。

それは実際、「無理」のものなので、「現実」にはあり得ない「誤り」としてはっきり反映されてしまう。だが、それでも、本人にしてみれば、「形の見えない恐怖」が続くことや、自己のそれまでの「現実」の崩壊を認めることよりは、まだしも「受け入れられる」ことなのである。

さらに、そのような「妄想」世界に閉じこもることは、非常に捩れた形ではあるが、一応とも、「現実」との接点を維持させるものだし、潜伏している状況が浮上することに対しては、一種の「防波堤」の役割をも果たすのである。森山は「常道化」というが、まさにそのような「常道的な行為」の繰り返しにより閉じられた世界が、その役目を果たすのである。

しかし、それにも拘わらず、その潜伏している「状況」は、表出しようとする力を弱める訳ではない。「妄想」は防波堤の役目をなすが、しかし、それは、破綻を秘めた危ういものでもある。もともと、「無理」に押し込められたものだからである。それは結局、意識の側の防衛や抵抗という葛藤を経つつも、概ね、徐々に明瞭に意識化されてくることになる。その過程が、第2段階の「妄想・幻聴」段階、第3段階の「させられ・つつぬけ」段階として、反映されているのである。

第3段階というのを、第1段階からの「妄想」が、より「非現実性」を増した「成れの果て」の姿のようにみていると、このようなことは異様に聞こえるかもしれない。しかし、実際には、まさにその「非現実的」なものがそのまま浮上するのを抑えるべく、無理やり「現実」に当てはめられたのが「妄想」であり、むしろその「妄想」が破綻することによって、本来の「非現実的」な「状況」が覆い隠せなくなったものが、第3段階なのである。

その意味では、第3階まで進むことは、「状況」そのものがより「露わ」になるだけでなく、それまでの「抵抗」や「防衛」を外して、「状況」に対する何ほどかの「受け入れ」を示したことをも意味すると言える。それは、なす術もない一種の「諦め」とも言えるけれども、その「あがくこと」を止めることの意味は大きいのである。それは、結果として、何かしら、「治癒的」な働きをすると思うし、もし再発した場合でも、もはや単純に同じ「あがき」を繰り返しはしないだろうからである。

(なお、森山は、症例には、第2段階、第3段階へと進行せず、第1段階の「パラノイア段階」のままずっと止まる場合が、かなりあることを指摘している。これは、まさに強力な「防波堤」の形成に成功した例だと言える。それは、破壊的ともいえる状況の表出をくい止めている点では、確かに「成功」には違いない。しかし、その分、「妄想」への固執は強力で、その後も、それを外すことなどはとてもできないことになろう。)

これらのことは、基本的には、私自身が「思い出す」ということを通して、初めは無意識であった部分が明らかにされたことに基づいている。特に、第1段階では、第2段階とされる「幻聴」の声が無意識レベルでははっきり聞かれていて、第3段階とされる「幻視」も伴っているのが明らかである。それが、第1段階の妄想的発想の根拠として強烈に作用しているのである。また、第2段階の幻聴も意識する段になると、無意識レベルでは、第3段階の「させられ・つつぬけ」体験や「幻視的世界」も既に十分感じ取られ、「自己の破滅や宇宙の崩壊」といった事態も、少なくとも「予兆」としては、十分感じ取られていることが明らかなのである。

そこで、次には、もう少し具体的に私自身の体験をとおして、「妄想」や「幻覚」がいかに形成されてくるかを見てみよう。ここに述べたことについては、さらに補充すべきこと、また森山の見方についても、いくつか言うべきことがあるが、それはその後にしよう。

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