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2005年11月 9日 (水)

7 幻聴の「声」と「テレパシー」

分裂病の幻聴は、具体的な人間の「声」とみなされやすい。しかしその場合、その人間は、そんなことを言っていないことはまず明らかである。ところが、幻聴の声が、物理的な声でなく、「テレパシー」で聞こえるのだと主張される場合がある。初めの、症状をみるところでも、『精神医学ハンドブック』にそのような例が出ていた。

この場合、幻聴の「声」が、物理的な声そのものとは区別されている点で、一歩進んだ認識だとは言える。しかし、実際には、これは周りの者にとっては、さらに厄介な問題を醸し出す。実際に発話した声としてなら、誤りであることが確かめられるが、「テレパシー」と言われると、直接には確かめようがないからである。

この場合、心に思っていることと一致するとか、しないとかが、とりあえずの手掛かりとは言えそうである。しかし、分裂病の者が主張するのは、通常「死んでしまえ」とか、逆に「好き」とかの、とんでもない内容なので、それが当たっているということが表面化するなどということは、まずあり得ないと言っていい。

いずれにしても、実際上は、多くの場合、こういったことも、妄想と同じような「誤り」として、あるいは単なる分裂病の症状の徴候として、処理される。

しかし、本当のところ、幻聴の声が「テレパシー」による人の声である可能性というのはどうなのだろうか。この辺りが、あやふやにされていると、分裂病の問題はなんとなく闇に包まれて、見通しが立たないままである。そこで、ここでは少し踏み込んで検討してみたい。

まず、分裂病の問題とは別に、一般的に言うと、「テレパシー」という現象の存在そのものは、既に「超心理学」(parapsychology)において統計的に証明されている、と言うべきである。物理的な手段による伝達の可能性を排除した実験的環境で、ESPカードなどの情報が、心から心に直接伝達されたと確かめられることがある、ということである。「統計的に」というのは、何万回という試行を標準偏差などにより統計的に処理して、それが何回に1度しか起こらない現象なのかを判定した結果、「有意」と認められる、ということである。

(この辺りのことは、一般的な書物として、宮城音弥著『超能力の世界』(岩波新書)、笠原敏雄著『超心理学読本』(講談者+α文庫)などを参照のこと。)

但し、統計というのは間接的な証明手段だし、何よりも、「テレパシー」という現象を認めることは、近代科学のより所ともいうべき、唯物論的発想と相入れないから、それが本当に受け入れられる可能性は今のところ少ないと言わざるを得ない。

いずれにしても、分裂病の場合には、もちろん突発的な状況で起こる(主張される)ので、それを実験的に確かめる手立てはない。分裂病者を実験にかけて、テレパシーの能力があるか試した例もいくつかあり、肯定的な結果が出た場合もあるようだが、一般には、特に確認できないことが多いようだ(これは前記の2つの本のどちらにも出ている)。

しかし、分裂病者を何万回という試行で、集中力を要す実験にかけること自体がナンセンスだし、たとえある程度肯定的な結果が出たとしても、それが、現にそのときのその(それこそが本人にとっては一番の関心事なのだが)「声」が「テレパシー」であることの証拠には全くならない。一般的に「テレパシー」の能力が高いと目されることと、現にある時におけるその現象が、テレパシーの声であるか否かは、全く別のことであるから。

そういう訳で、これは事実上、確かめようのない事柄だと言うほかない。

しかし、私自身の考えを言うと、確かに、分裂病の「声」を聞く状態というのは、意識が鋭敏に高まっており、通常以上には、テレパシーの能力が高まっていると言っていいと思う。だから、分裂病の者が聞く多くの「声」のうちのいくつかは、特定の誰かの内心の「テレパシー」の声であるという可能性はあると思う。

しかし、先に幻聴の声の特徴としてあげた、「心の内奥にまで侵食する」とか、「操作」され、「支配」される、などの、人を追い込む「力」をもった「声」というのは、まずそういったものではない。たとえ人の「テレパシー」の声が影響することがあるとしても、それは、既にその者を追い込む幻聴の「声」の影響を受けている状態で、それを補強するような形でだと思う。

結局、これを人の「テレパシー」の声というのは、それを物理的な人の声と混同するのと、基本的には同じ誤りを犯しているのである。つまり、たとえ物理的な声と混同はしていなくとも、その「声」の主体の解釈については、やはり、現に人を前にしている状況とか、自分のそれまでの体験に引き寄せるなどのことから、特定の他人のものとして、同じように誤って受け取っている訳である。

(但し、「現に人を前にしている状況」というのは、たまたまそう状況で「声」が聞こえるから、というのではない。むしろ、「人を前にしている状況」でこそ、「声」は聞こえるのである。それは、他者を意識することにより、より意識が鋭敏に高まっていることも関係するだろう。しかし、今「声」の出所を仮に空間的に位置づけるなら、「人の背後」とか「人と人の間」ということになる。それは、本来的に「人の声」と紛らわしい仕方で起こっているのである。この点については、後に幻覚と妄想の形成過程のところで、詳しく述べるつもりである。)

つまり、「テレパシーの声」という受け取り方は、実質上、「他人の声」という受け取り方と同じことになる。そして、それはやはり、具体的な誰かや何かの組織に迫害されているというような、妄想の根拠として作用し易い。しかも、物理的な「声」というのより以上に、より強固な根拠になり易いといえるのである。

それは、一つには、やはり、物理的な声という外面的なものよりも、「テレパシー」という内面への声の直接的な働きかけは、分裂病の者が感じる実際のリアリティにより適うということがある。

さらに、物理的な声というなら、少なくとも周りには誤りであることが明白だし、本人も修正する余地があるかもしれないが、「テレパシー」というのは、それが確かめようもなく、修正される可能性も少ない分、余計に本人が固執する可能性がある。

そういうわけで、「声」というのは、人の内心のテレパシーの声なのだ、という主張に固執する場合は多いと思われる。しかしその場合、それは周りの者も手に負えなくなることを意味し、結局、病院に任すしかないということになるのが関の山といえる。

そこで、「テレパシー」の声という受け取り方は、実際上、ほとんど意味がないし、たとえそうであることがあったとしても、そんなものに振り回されることは、<なおさら>無意味であることを、次にいくつかの理由をあげて述べておきたい

1 人の内心の「声」というものは確かにある。しかし、それは、ある状況で一時的に生まれた、本人自身も気づいていない無意識の言葉である可能性が高い。つまり、本人自身すら意識していない、戯言のようなものである。そんなものを一々気にしたり、反応したり、とやかく言ったりするのは馬鹿げている。たまたま、自分が聞かなくてもよいものを、聞くようになっただけの話と思うほかない。

2 「ある状況で一時的に生まれた」と言ったが、人の内心の言葉などは、ある意味どのようにでも「言わされる」ところがある。無意識には、さまざまな「コンプレックス」が渦巻き、さらには(外部的な)「力」が働いているからである。だから、その者がそれを言ったというよりも、「状況がそれを言わせた」といえる面が強いのである。結局、たとえ「テレパシー」の可能性がある場合でも、「声」そのものをその者から切り離して受け取っておく方が実際にかなっている。

3 「ある状況」というのには、実は本人自身が関わっている可能性もある。「声」を聞く状態というのは、極度に受動的で意識が張り詰めており、これは相手の無意識にある種の威圧感を与えることがある。それで、思いがけず、相手の攻撃性を誘発させている可能性もあるのである。

4 いずれにしても、本人を含めて、人の内心には、思いもよらぬ側面がある。ある意味「悪魔的」といっていい側面である。それは、ある状況下で、強烈にさらには連鎖的に、活性化することが確かにある。初めてそのような内的な面を(具体的な声や映像を通して)目の当たりにしたときには、確かに強いショックを受けても仕方がない。しかし、それは、人間とはそのようなものであることを受け入れる機会として捉えるしかない。

何しろ、「テレパシーの声」という受け取り方には、実際上、妄想をより強固にする以上の意味はないことを、もう一度強調しておく。

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コメント

ティエムさん

外からの声が聞こえてきました。一緒にいた人もその声を聞きました。
なのに、私の心で思ったことを外の人が繰り返した気がするのです。私がテレパシーだと思考すると外の声が止みました。テレパシーがあるとしても、私には制御ができません。もしかしたら、捕食者が私の思考を外の人に送り届けたのかもしれません。もしかしたら、捕食者が狙った相手に自分の波長をラジオのように届けられるのかもしれません。私たちが実際は一つの一体だとして、分離意識のある人と人を外からの声のようにつなげることができるのかもしれません。

私たちが一体なら何ができるのか、という精神世界の状態が持つ性質の知識はあまり語られてない気がしました。

また余談ですが、悪魔を崇拝すると世界を支配できる力をもらえると聖書に書いてあるように、それを肯定して悪魔から力をもらいたい、と望む人が実際にいて、今そのような人びとによって支配されいて、その果てに大バビロンになるのかもしれないと思いました

のめーるさんありがとうございます。

記事でも述べたように、「幻聴」と「テレパシー」の問題はとてもややこしいです。「分裂病的状況」に追い込まれている場合、幻聴の声が、単純に人のテレバシーであることはあまりないと思います。のめーるさんの場合は、状況がよく分からないので何とも言えませんが、やはり人そのものが内心から発したものではないのではないかと思います。「捕食者」かそれに類した存在が、のめーるさんの心を読んで、それに沿うことを、いかにも人が発している声のようにみせかけて発しているのではないかということです。

ただ、のめーるさんが言うように、「捕食者」が働きかけることによって、人同士の感受性が高まって、普段は伝わらない情報が伝わるようになることはあると思います。それは、もちろん、本来人同士が「つながっている」からこそできることですが、「捕食者」がそのような働きかけをするのは、結果的に「分離」を強めるような方向でだと思います。

「捕食者」の影響かどうかは、本来、人が普通に発するような性質のものか、特別な力をもった非人間的なものかなど、「声」の性質や内容を観察することによっても、判断することができると思います。

積極的に、「悪魔」を崇拝していると言える者は、「支配層」など、一部の者たちだけだと「思いたい」です。しかし、事実上、「悪魔」のいいなりになっていて、いいように影響を受けているのは、ほとんどの人たちであると言わざるを得ないですね。

補足 全ては一つという真理らしき知識をシュタイナーは具体的にしています。まず、神が真理ということです。神という生き物が知恵の体を持ち、従って真理存在なのでしょう。例えば父が霊人に位置し、ヒエラルキーも身体構造に位置付けられるそうです。彼らは身体構造ですから、一つの巨人です。というか、この神に似せて人間構造が作られているそうです。また、聖書に、人々は互いに体の一部とあるように、もしかしたら人類も身体構造に位置付けられるのかもしれません。私たちはキリストの体の一部ということになります。地上に真理存在の類比があるのかもしれません。神に従えを言い換えると、真理に従えとなるように思います。ただ、垂直的な方向、目的など何もないって境地からすると難しいです

神に似せての部分は聖書に、神に似せて人間を作られた、とあるので、シュタイナーがさりげなく、その真理を具体的にしたのかも

悪魔が地上を支配する力を与えても、もっと高次な部分で地上を支配しているのが神ならば地上からの支配は幻想になりますね。また、陰謀などがあって第三次世界大戦などを起こし邪魔な人間の肉体を滅ぼしても、人間の武器は人間の本質を破壊することができないようです。核爆弾より神のほうが恐ろしいかもしれません。なぜならば、人間の本質である不滅のものとか霊を破壊できるのは神だけかもしれないので。神は最強の武器という称号がつけれますね。だから、神認識が普通になった時代の国の最高の抑止力は神かも。

そのとおりですね。

そして、すべてが、本来「一体」というか「ひとつ」であるなら、「神」と「悪魔」もまた、本来「ひとつ」のものということになります。「悪魔」も、「神の裏面」として「神の顔の一つ」ということですね。

これは、統合失調的体験をしている者にとっては、かなり現実レベルで、怖い話といえますね。

真理についての補足です。真理は神であり神は霊であり、霊は命であり、命の最高の現れが愛なようです。愛は世の光ともあります。ライトから出る光があります。光がものを照らすと様々な色が浮かびます。地上に見えているものは全て光ですが、様々な形や色として現れています。ヘーゲルが言うところの普遍が光であり、特殊が形や色です。普遍、特殊とは言葉の概念のことです。私は人間である、人間は霊である、とすれば霊が普遍で人間は特殊です。つまり、言葉である神であるロゴスは光として目に見えているのです。

愛は世の光とあり、愛を知ると全てを知ることになるそうです。きっと愛も光のように、様々なものに形を変えることができるのかもしれません。また、真理はどちらかと言えば抽象的ではなく、具体的であり、さらに具体的に言えば精妙なものです。数学で表現された世界は目に見える現実より劣るもののように思います。現実が現代科学よりもそのままで高次の理論なのです。なぜなら、動きを数学で、動きそのものとして表現することができないと思うからです。形の神は動きの神よりも低いように。ということは、神は人間の理解手段である鉱物論理の枠を超えた表現手段をもっているのだろうってことです。だからこそ宇宙を創造できる。だから真理を認識した信仰者は人間の目には愚かに見えるのかもしれません。また、真理は理解されず説明できないから、宣教という愚かな手段を使った

論理学や数学は難しくて自分にはできないし、それらを学ぶこともシュタイナーなら否定しないだろう。でも、それらは過去を表現できるが、現在の動きは、過去をこえていると思うので人間の論理をこえた世界が目の前に今、在る。目は思考器官より進化していて、思考器官は一番遅く生まれたのかもしれない。だから、人間の表現手段をこえた世界が既に眼前にある。なので、それの延長に、霊的なものもあるのかもしれない

これで最後の補足です。

真理は内にあります。天国も内にあるといいます。ハートに神はいるともいいます。また、シュタイナーによると性向、気質、性格など、継続的なものは全て天国まで達する、とあります。だから繰り返すことでハートに働きかけることができるのかもしれません。きっとハートにあることは現実になるかもしれません。

すみません、真理についてまだあります。神の性格が旧約と新約で違うかもしれません。が、性格は神の本質ではないかもしれません。神はアストラル体、エーテル体、肉体を自由に用いることができるでしょう。だから性格や心、姿や性別、老けの程度を自由に変えることができると思います。教義が違っても、その本質はやはり愛なのかも。

そして、自我存在も神の創造物だとすれば神は無我であり、神は自由に自我を変えることができる。というか、われわれが神の自我の一つなのかもって考えます。

すみません。僕は統合失調症のものです。
僕の体験してることを聞いてもらって良いですか
僕の場合は、ホモと思われたくないと思うと、相手がそう思います。 
僕が思ったような風に回りが思います。僕はもうこれを体験してから、呪いとかそういうのも全然ありえると思うようになりました。
日々の生活が結構困難です。切実に何か伝えたいと思うと、正しく伝わらなかったりします
例えば、体調が悪くて、それすら伝わらないです。嘘だと思われたりします。
しかし割と落ち着いてて、頭の中身をコントロール出来るときは、言いたいことがズバっと伝わります
混乱してますが一応誰かに言ってみようということで書いてみました。しつれしました

言わんとすること、よく分かります。もうひとつの方の記事につけられたコメントと一緒にお答えしたいと思います。

「僕の場合は、ホモと思われたくないと思うと、相手がそう思います。 
僕が思ったような風に回りが思います。僕はもうこれを体験してから、呪いとかそういうのも全然ありえると思うようになりました。」

「僕は念が強く周りを自分の頭の中の空気で巻き込みます。
僕はこれが誰も理解されないことが死ぬほど恐ろしいです。」


分裂気質の人には、こういう傾向が確かにあると思います。一言で言うと、「自我の境界」が薄く、自己の内にあるものが、外界や他人にまで伸びて行って、同じ渦の中に巻き込まれていくのを、生々しく感じてしまいやすいということです。あなたの場合は、自分の念が強くて、周りを巻き込んでしまうと感じていまずか、逆に、回りの念によって、自己の思考が操作されてしまう、思考が奪われてしまうと感じる人も多いです。そういうことは、事実としてあると思います。

多分、あなたは、今回初めて、そういうことをありありと体験して、強い恐怖やパニックを感じているのだと思います。しかし、そういうことは、基本あり得るのだし、多くの人も、それをありありと感じることができないだけで(残念ながら、理解される余地はほとんどないですが)、実際には、そういうことは、多かれ少なかれ起こっているはずのことなのだということに気づくことが重要です。

問題は、いつも言うのですが、そのような現象に振り回されてしまうことなのです。

そのような状態は、実は、恐怖を感じて、恐れれば恐れるほど、パニクって、焦れば焦るほど強まっていきます。そのときには、そのような感情が自分を深いところから支配して、のっとるような感じになるので、催眠に近い特殊な意識状態になって、もはや、周りの世界もまともに見れなくなっている可能性があるのです。つまり、回りを見たり聞いたりする、知覚そのものも、「幻覚」といわれるものになっていて、本当はそうでなくとも、自分が思っているとおりに反応しているように、見えたり聞えたりしてしまっている可能性があるということです。

こうなると、確かに、もともとそういう傾向はあったにしても、「事実」からはかけ離れた極端なもの、あるいは、もはや現実とはいえない、「幻想」的なものを見ているのと同じになります。しかし、それには、通常の知覚以上の強烈なリアリティがあるので、それに捕らえられると、その「幻想世界」から、抜け出せなくなってしまう可能性があります。ですから、是非とも、そうなる前に、そのような極端なものは、「事実」そのままなのではなく、そのような特殊の意識状態が作り出した、一種の「幻想世界」なのだと、気づいてほしいと思います。

実際、あなたも、

「しかし割と落ち着いてて、頭の中身をコントロール出来るときは、言いたいことがズバっと伝わります」
「僕もバイトをしたことで、劇的に恐怖が減りました。
普段感じるものから目をはずせたからよかったです」

と言っているとおり、そのような意識状態にないときは、それほどそのような現象を強く感じることもなく、それに振り回されることも、少なくなっているはずです。そちらの状態にあるときの方が、周りの人と同じ「現実」にいるときなのであって、「事実」とともにあるときなのです。自分の念で他人を振り回していると感じて、恐れている、特殊な意識状態にあるときは、もはや周りの人と同じ「現実」にはいなくなっていて、自分だけの「現実」を見ているのだということに気づいて下さい。

そうすれば、必要以上に、自分の念によって周りを巻き込んだりすることを、恐れなくて済むようになると思います。

繰り返しますが、そういうことは、実際に、多かれ少なかれ、いつも起こっていることであり、分裂気質の人は特にその傾向は強いです。だから、そういうことを気にする必要は、本来ないし、そういうことか起こったとしても、それはあなたの責任ではありません。法律にも、「思念によって人を振り回してはならない」という条文はありません。だから、何ら、法にも触れません。もし、誰か人が振り回されるとしたら、それは、その人の意識が弱いのだから、その人自身の問題だということもいえます。どうか、「気にしなくていいのだ。人を振り回したっていいのだ」という態度も、身につけるようにしてほしいと思います。

そうすれば、必要以上の恐怖を感じて、特殊な意識状態に入ることも少なくなると思います。

ティエムさん

そういえば南方熊楠って方がいるのですが、彼は例の状況を意識的に変えることができたみたいな文章をネットで読みました。南方マンダラです。彼の息子は統合失調症になりました。

そういえばシュタイナーによると精神病は精神は病気にならないので、肉体が悪いのだと言います。

彼の知恵からすると自我がそれより下位の体の部分と相互作用するのですが、最も内的な自我を正すと、正しいものが外側に作用して病気の癒しにもなるそうです。つまり思想や哲学を身につけたり、道徳的な正しい生活によって、病気を内面から治して行こうって考えることができます。栄養や運動はもちろんのこと、美しいものを心に食べさせることも

ティエムさん

そういえば南方熊楠って方がいるのですが、彼は例の状況を意識的に変えることができたみたいな文章をネットで読みました。南方マンダラです。彼の息子は統合失調症になりました。

そういえばシュタイナーによると精神病は精神は病気にならないので、肉体が悪いのだと言います。

彼の知恵からすると自我がそれより下位の体の部分と相互作用するのですが、最も内的な自我を正すと、正しいものが外側に作用して病気の癒しにもなるそうです。つまり思想や哲学を身につけたり、道徳的な正しい生活によって、病気を内面から治して行こうって考えることができます。栄養や運動はもちろんのこと、美しいものを心に食べさせることも

唯物的なものに携わる人も進化のための必要な準備となる、と捉えると、どうも霊的なものだけがすぐれているというわけでもなさそうでした。霊的なものにだけ偏るとルシファーに毒されています。
それに物質的な思考は自我が進化するから次はエーテル的な思考、最後には霊的な思考になるはずです。霊的な思考になるとき、数学や論理学が霊的なものとなる。その時、現在それらに携わる人々の活動が生きてくると考えます。霊的な工学ができるようになるのです。霊だからフリーエネルギーでもあります。

のめーるさん、ありがとうございます。

南方熊楠はよくは知らないのですが、どこか出口王仁三郎とも似た、型破りの学者ですよね。新書で解説書も出ているようなので、いずれ読んでみようと思っています。

「シュタイナーによると精神病は精神は病気にならないので、肉体が悪いのだと言います。」

そうですね。この「精神」は「霊」と読むべきものと思うのですが、シュタイナーは「精神病」の肉体的、物質的基盤を重視していたことは確かのようです。ただ、他にも、さまざまな観点があるようです。私も、ちょうど、近いうちに、シュタイナーの「精神病論」をまとめてみようと思っていたところでした。

「唯物的なものに携わる人も進化のための必要な準備となる、と捉えると、どうも霊的なものだけがすぐれているというわけでもなさそうでした。霊的なものにだけ偏るとルシファーに毒されています。
それに物質的な思考は自我が進化するから次はエーテル的な思考、最後には霊的な思考になるはずです。」

そうですね。霊的な進化のためにこそ物質性を通り越さなければならない(霊的な方向に行けばいいというものではない)ということなのですね。

シュタイナーの世界観をざっと言おうと思います。真の現実としての原因の世界である天国がある。そこでは人間の本質である霊が生きている。そこで地上生活に必要な外皮の原像を制作する。それらを携えて母の胎内に宿る。胎内から人間の物質体が誕生する。生まれた人間から七年の期間を経て次々により内的な構成要素が誕生していく。物質体の次は生命が生まれ、生命の次は心が生まれ、心の次は感受魂が生まれ、など。人生を歩む際に、魂は外界や自分の構成要素に働きかけて進化を促す。また、魂でない構成要素も相互作用する。これがカルマとなって来世で改造された実質にふさわしいものを引き寄せる。もしかしたら環境にも魂は刻印するので、環境が霊化し、環境が進化したら、自我に浸透され支配された環境が得られるかもしれない。死ぬと外皮を捨て去り霊が残り、天国に至る。地球も進化する。地球は熱状態から空気、空気から水、水から土、と普遍的なものが物質化、個別化して、次は普遍化し、土状態から順に熱状態へと移行する。物の知とは物を概念と見て熱の凝縮を特殊化と考えることかもしれない

今度はシュタイナーの脚色されたイメージを。地球がある。地球環境は自然要素で構成されている。太陽は光の領域を地球に注ぎ込む。物の形をした光の色彩が浮かび上がる。また、物がある。物は熱、空気、水、土の領域を形成する。人間がいる。人間の物質体は地球が特殊化したものだ。人間は光領域に入ることで視覚を得、空気領域にいることで息が吸え、音が聞こえる。人間は意志を持つ。意志は人間と物を結びつける。意志は無の状態から特殊化して目的を得る。人間の部分を変化させることで、物を変化させることができる。人間は社会を作る。理想の社会は人間を生かすことのできる社会だ。だから人間を生かす力を持つ人間の内部環境を外部にも社会として作り上げる。これが社会有機体説だろう。社会のうちの経済は自然の中に潜むものを現実化する。現実化とは、可能性の物質化だ。

シュタイナーの世界観の続き

地球も生まれ変わるのだった。熱状態から凝縮して今は土状態になったというイメージ。熱状態の時の人間の創造主は意志の神々だった。物質体を作り上げた。人間は人格の神々。空気状態の時の創造主は叡智の神々だった。生命を物質体に流し込んだ。人間は炎の神々。水状態の創造主は動きの神々だった。心を人間に流し込んだ。人間は薄明の神々。土状態の創造主は形態の神々。魂を人間に吹き込んだ。自由の霊が人間段階を通過する時代。我々が自由の霊だ。自由の霊は熱状態の時に心的生命的な大気圏の中でまどろんでいた。宇宙の全知を開示する鉱物的な昏睡意識で大気圏から地上にむかって本質を投げ出していた。物質体とは切り離されている。ところで、おそらく、土状態から新たな進化の時代になると物質体から生命より高次のものが切り離されて過去の状態より進化した繰り返し方をするかもしれない。空気状態になると物質体におそらく生命の大気圏を素材にして生命が組み込まれる。魂は植物的な睡眠意識をもちながら心的な大気圏の中に組み込まれてその体と切り離されている。水状態になるとおそらく、心的な大気圏を素材として人間の体に心が組み込まれ魂は動物的な形象意識を持つ。土状態になると体に魂が組み込まれて覚醒意識を持つようになる。神々の思想内容である思想存在のルシファーが人間の血液に宿り悪と自由の可能性を与えたが、人間の意志と結合していた自然が人間の悪により滅びに至る炎を燃えあがらせた。逃げた人々はアトランティスに至る。生命の頭が物質体の頭と一致しないことで優れた記憶力と今より劣る論理操作能力もって魔術的な力を持つ人々だった。アーリマンが物質に浸透することにより神々と交流できなくなり、新たな悪が植え付けられた。論理の力を発達させた人々が現れた。悪の力により自分たちの魔術的な力が暴走して滅びたが論理的な能力を発達させた人々は逃れることができた。この人々は神への憧れを持ち、外的な自然は幻であり、内面を探求して神を見出すインド文化が生まれた。次は内なる世界から得たもので自然を改造しようとする文化が生まれた。自然は理解できなかった。次のエジプト文化で天文学を得て自然の理解が深まった。現在の文化で自然に魂を刻印して改造した。

ヘーゲルの概念により人智学的な人間の本質的な構成要素を考えてみる。光の中に色彩が潜むように、
物質体の中には姿勢が潜在している。物質体はある姿勢の現れである。指の姿勢を変えることで箸で米を食べることができる。物質体は分散しようとする力を持つ。生命は物質体を形成する力を持つ。生命から形成された物質体が現れる。生命の中には種の設計図が潜みその可能性が物質化して肉体の花を咲かせる。心は感情の色彩と形が潜んでいて思いが変わることですぐにそれらが変わる。魂は私という同一性が様々な思考として現れる。魂の中には目的という現実化へと向かう可能性と思考が潜んでいる

一連のコメントは、シュタイナーの「宇宙進化論」「地球進化論」について、のめーるさんの観点からまとめて述べられたものと思います。理解しにくい点も多いですが、一部よく納得できるものもあります。

私も、記事の体験のところにも述べていますが、「太陽」や「月」とともに、「土星」の強烈なビジョンが出現し、なぜ土星なのか訝ったのですが、後にシュタイナーの宇宙進化論を知って、「土星期」と関わりのあるものと受け止めていました。

ただ、最近、デーヴィッド・アイクの「土星ー月マトリックス」の発想を知りましたが、私のビジョンとの関連は、はるかにそちらの方が近いものでした。「土星」は、アーリマン的というか、あるいはもっと根源的に、「邪悪」なものの象徴として現れている面が強かったからです。

いずれ、またこのことも、記事で述べてみようかと思います。

実はキリスト、ユダヤ、イスラムの神は邪神だとシャンティフーラというサイトの自称霊能者でしっかり勉強している人が言ってました。日本のホツマツタエが唯一の聖典と言ってました。
本に書かれていない隠された真実があるかもしれません。ティエムさんの土星のヴィジョンもそうかもしれませんね。

シュタイナーの芸術の話。詩は霊我の法則を表現したもの。音楽は自我の法則を心で表現したもの。絵画は心の法則を生命で表現したもの。彫塑は生命の法則を物質体で表現したもの。建築は物質体の法則を空間で表現したもの。これを私なりに考えてみる。法則は力の規則的な活動とする。すると物質体の力を空間に投げ込むと建築的なものが現れ、生命の力を物質体の中に投げ込むと彫塑的なものが現れ、心の力を生命の中に投げ込むと絵画などなど。つまり建築の仕事人は物質体で彫塑の仕事人は生命で絵画の仕事人は心で音楽の仕事人は自我

シュタイナーの気質論を考えてみる。
気質は生命が担うが他の構成要素が作用した結果と考える。胆汁質は自我が強い。勇敢で権力的。自我はそれより外の構成要素に意識的に働きかけるため、胆汁質の人も自分を自我にして外なる他者に命令するというイメージ。多血質はいろいろなものに興味をもつが長続きしない。これは心は思いにより様々に色と形を変えるが、思いはすぐに移り変わるため、それが気質に現れたのだろう。このように構成要素の性格を理解していると、気質の理解もしやすくなると思う。

自然の地水火風それぞれを単純な性格だとしよう。人間はある時は地として現れ、ある時は水、ある時は火、ある時は風として現れるというイメージ。人間は多彩な性格を持つ愛や自由という自然存在。人間は自分の魂の中に様々な性格を溶け込ませておき、必要になれば自分がまとう形態としてある性格を固体化する、という能力のイメージ

人智学は概念芸術だと思ってます。
また私は真理があると考えているだけで、心から真理を信じてるわけでないです。
擬人化はありますが、擬自然化はあまりないですね。そうしますと人間は自由や愛として地上に現象していると考えられます。また仕事を覚えて職務を毎日こなすことは、人間は職務の性格を魂に浸透させ能力にします。いわば職務は人間的な自然現象だと考えることができます。

真理に新しいことはありませんが、小さい範囲でなら新しいことはできます。だから家族規模で新しいことならできるかもしれない。もともと生きた真理の範囲では第一発見者は常に真理だが、人間の範囲でなら人間であるようなものです。

シェイクスピアはよく世界を舞台にたとえますが、これはたとえが実際にそうであるようなものかもしれません。というのも、もし真理が言葉で表現できず、あらゆる規定を超越していて、神が法を超えたもの、というのなら、自然法則とは神の創造した世界設定であることになる。この世界は神に設定された舞台。舞台の骨が法則。

シュタイナーの社会三層論の三つの要素を考える

層論

頭部 思考 法政治 平等
頭部の思考が民族精神を基盤にして人間関係を互いに独立にすることで上下関係依存関係でない平等の関係にする。これが自由を生む。

四肢 意志 精神活動 自由
人間の意志は四肢を用いて自らの意志の下に自らを規定付け、意志を外界に刻印する。これが自由な精神活動、文化活動である。

胸部 感情 経済 博愛
感情は外界に向かう。外に博愛の感情をもって向かうと他者のために働く分業経済

すみません感情と経済の部分は間違いですね

概念について
理念は個々の一見無関係なもの、例えば国家や植物、心や物質体を結びつける。
概念は例えば水がコップに入っている。たぶん、思考なしの感覚のみで捉えると、中にある水の瞬間と別の瞬間は違うものに思える。また、粘土があり、それを別の形に変えると以前とは違うもののように思える。しかしそれらには共通してそれらを一つに結び付けるようは粘土そのものであるようなもの、水そのものであるようなものがある、と感じられはしないだろうか。つまり、自然の中に概念は属していて思考は自然に属するその精神的なものを主観に入れ込んだものではないだろうか。

概念のこと

自然に内在する概念は力にも言える。
たとえば、扇風機は電力を風力に変容させている。これは力のまとう形式を電気から風に変容させたもの。力は内にあるという形式から外に現象して、外にあるという形式に変容する。意志も、内にあるという形式を外にあるという形式にして実現する。認識とは感性的な対象という形式を観念的な対象という形式に変容させる。

物は力を本質とするが熱、空気、水、土という形式をまとう。それぞれの形式の違いから性格も違うように感じる。低次の自我の性質と高次の自我の性質が違うように、本質的な性質と形式により変容する性質があるのかもしれない。

水の流れの中にある一つ一つの水が性格を発動させて調和した総体的な流れとなる。一つ一つの水は違っても種族は同じであるように感じる。だから同じものの中の差異という意味で、概念を知覚していると思う。

マクロコスモスにおける法則や性質はミクロコスモスである人間の能力や性格だと考えている。

もしも、物質体や生命、心など、一見バラバラなものを結び付ける概念が理念であるという自分の理念の考えがあっているならば概念と自分の感情を結び付けることの意味とは、バラバラな在り方をする快不快の背後にそれを統一する理念を見出して自分を世界に結び付けることかもしれない。

言語は肉体で外界を模倣してその本質を音で表したら、生命でイメージと結びつけて心で心情と結びつけるようです。これは自我が入り込む前の話なので無意識的なのだとしよう。とすれば意識的に現実をそのままで模倣するヘーゲル哲学や人智学は意識魂的な表現なのでしょう。私自身はまだ意識魂に目覚めてないだろうけど。表現がわかってても。

人間は物質体の姿勢を変えて行動する。これは人間という概念が姿勢という形式を次々と変容させていくことだと考えられる。原因結果のような空間的ではない時間線軸の概念の変容、言い換えると現象形式の変容。だから形式の変容を意識して小説を読むと新たな感覚を得られるかもしれません。

科学を意識魂の観点から学びなおすと見えてくるものが違うかもしれない。

では意識魂的な記述とはどのようなものだろうか。それは例えばシュタイナーの性格付けとはどのようなものかを問うことかもしれない。生命は物質体を形成する、というのは、生命という主語に物質体を形成するという述語を与えた。これが一つの知識である。というのも、主語に含まれている述語を明らかにしたのだから。この述語は主語に内在していて、顕在化している場合と潜在している場合があるだろう。性格付けにより内在する述語が次々と増やされることで、知識は豊かになっていく。人は霊であるというと、定義されるものを特殊にしているが、これとは逆の在り方である。
自然をこのやり方で観察すると、何が見えてくるのだろうか。

概念とは例えば内容とその形式。内容の中にある現象形式が常にある内容となっている。服は曲げることができる。曲がっていたり皺のある服、これが服という同一の内容のある現象形式である。扇風機が首を回すという形で現象形式を変えながらも同一の扇風機である。

だから概念はそのままで現実である。つまり現実が既に外在する知識である。シュタイナーは地球が月進化期の時代を経過したおかげでこの地球進化期は叡智が世界に組み込まれているという意味を言っていたような気がするが、このことかもしれない。

また、知識の真の源泉が本という紙切れではなくて現実ならば、現実はそのままで聖典であると考えられる。全ての人々は聖典の登場人物である。

人生の展開は思考、意志、感情の展開と考えられるかもしれない。意志には本能、衝動、欲望、動機、願望、意図、決意があり、低次のものが高次のものに変容していく。意志は本能で、水を飲みたいという意志の現象形式から、就職活動のためにという動機という形式に装いを変えて、次々とその装いを変えていく。感情や思考もそのようである。
知覚は現象形式の把握であり、意識は自我が対象を変えることで意識の現象形式は変わる。しかし対象は自我から切り離され自我のものではない。
時間は永遠の今という基盤の中で過去から未来へと現象形式を変えていく。
空間は空虚の中で様々な形を描ける。
力は力であるがその装いを電気から風などへ変えることができる。
商品は物の現象形式である。

互いに切り離されているように見える様々な思考は理念の点から見て統一されている場合がある。この場合は一つの理念が様々な衣服を纏う。
所有は自我が自分のものであるとして互いにどうでもいいものを統一する。
民族霊は互いに分離感のある諸個人をまとめる。

真実に可能であることがわかるならそれは現実的であり必然的である。真の能力とは宇宙法則の如く力強い

道徳的な理念は様々な行為として現れる。

このような認識は意識魂的なもので人智学にはその面がある。人智学には芸術的な側面があるけどこれはどう位置付けられるだろうか。芸術的な認識原理というのがあるらしいし意識魂の側面は人智学の一面に過ぎないだろう

人智学は数学や自然科学の教養があれば理解しやすいらしい、悟性的な面から理解して意識魂的なものに気づき、芸術に至るというのが認識の一つの道かもしれない。モリヤ大使のアグニヨガでは芸術が精妙世界の入口になると言う。

人間の目は光が物質体に土を鋤で耕すように光の性質を道具にして光で物質体を刻印してできた。空気もそのようにして音声気管を制作した。人間のアストラル体を素材にして自我が無意識的に自我の性質を道具にして自我をアストラル体に刻印して感受魂ができ、エーテル体に自我を刻印して悟性魂ができ、物質体に自我を刻印して意識魂ができた。次は自我は意識的に構成要素に向かって自己を制作する。自分の成長や進化に向かうことは、進化芸術というある種の芸術の作品作りかもしれない

社会については自然科学が浸透している灰色の社会であるが、バランスを保つためには別の極が必要だ。それが美かもしれない。そして美は世界から感じ取るものであり、美を感じる能力がある人はこの世界をバランスよく生きることになる。だから感性の教育を今、大事にすべきで、それはシュタイナー教育で学べるのかもしれない。また、多分現在は男社会だから女性的なものをその社会に浸透させることで全面的な両性具有社会にする。社会は人間のアナロジーで人間の外部身体であり、社会の構成要素が人間を生かすものならば、それは人間の構成要素から取り出す、ということだろう。

集団的自衛権は裏は知らないが素直に取れば自分たちだけを守ればよいというものから同盟国もともに守るべきだ、みたいに国が国家的な愛の領域を広めて成長したと考えられる。タテマエかもしれないけど

シュタイナーは自然科学が霊学になると言っているので、ここでも低いものが高いものになるという思想がある。父なる神は霊人に位置付けられ霊人は物質体の変容したもの。

空間には統一があるとは感覚的にはわからないけど、
もし概念論が適用できるなら、
距離は幻想である。
つまり、ある位置乙と、別の位置甲は
それぞれ違う位置だが、実はどちらも同じ位置にある。全ては同じ場所の中にあり、その同じ場所の現象が感覚的な空間である。としたら全てのものは同じ場所の中にあるのだから、一見離れていても作用しあっており、これが魔術の一原理かもしれない。

人間は科学的な力で生きているのではなく、白魔術の力で動いているのかもしれない。

芸術的認識原理とは何かを考えてみ増した。
自然は芸術家であるとする。
ならば自然は芸術的に制作されている。
制作には制作者のイメージと表現方法が必要となるだろうか。だから芸術的認識原理とは芸術の制作方法の視点で世界を眺めることかもしれない。芸術家が頭の中で芸術を制作するように、それを思考に利用したら芸術的思考になるかもしれない

エーテル体の法則を物質体で表現したものが彫塑とする。アストラル体の法則をエーテル体で表現したものが絵画とする。もしかしたら、エーテル体は物質体を素材にしてそれを種族のイメージをもとに形になるように削りとっているのかもしれない。

もしかしたら人智学は芸術的に読書できるかもしれない。例えば流し込むという言葉を使うときに、水のイメージを想像空間の中に現し、その水を線のようにある地点まで浸食させるように、一種の水彩画が描けるかもしれない。

人智学の別の見方

物質体は物質宇宙の特殊化したもの
エーテル体、アストラル体もそれぞれの宇宙が特殊化したもの。自我は無限の真理である霊が個体化したもの、従ってそれはミクロな無限である。だから一人の人間は他者であり全ての自我が本質として世界に遍在している。熱的な霊が凝縮してアストラル宇宙となりアストラル宇宙が凝縮してエーテル宇宙となり、エーテル宇宙が凝縮して物質宇宙になると考えてみる。各宇宙は重なりあい、一体になっていて、いわば巨人かもしれない。
そして構成要素は力を持ち、力は定まった活動として現れる。だからエーテル力が肉体を維持する活動や気質、性格、良心、記憶などとして現れていると考えることができる。つまり、性格付けは力の構成要素の中での真実可能ないくつかの活動を記述したものと考えることができないだろうか。
そして活動とは作用を受けるものを内面化するものである、つまり手が物をあれこれと動かすというのは物に主観が反映することである。高次の要素が低次の要素を内面化する。活動の結果は作用を受けるものの内面化であるから、カルマは自分の内面が反映したものであり、従ってカルマにより人は過去世の内面の中で生きると考えることができる。

自然を認識するなら芸術分析の方法を利用するってことかもしれない。絵画に量的解釈を加えても意味がないように、自然や人間の体の本当の姿は質で表現されるのかもしれない。もし全てが無限なら、どれも同じものであり、量では区別ができなくなる、だから質で分析するのだろう。芸術作品は理念と表現で構成されている。この理念を自然や人間に見出そうとする。宇宙理念は何だろうか。芸術解釈方法を自然に適用する、もしかしたら自然に分析美学を適用すると自然哲学になるのかもしれない。

のめーる様のコメントを読んで、ふと絵画が見たくなり、用事かたがた郊外の美術館に足を運びました。

自分は絵を描きませんが、静かな空間の中で作品を眺めていると、深い思索のなかへゆっくりゆっくりと、歩いていくようでした。


このような世界に触れられる喜びを感じながら、帰り道遠回りして木々の中を歩きました。

ブログという学びの場を有難うございます。

みるくふがゆさん ありがとうございます
いろいろと書き込みすぎてティエムさんに迷惑かもしれないなと感じながらそれでも書き込んでますw

人智学の本質は自由の哲学に書かれてあるんじゃないかと思いました。
精神科学は精神的な知覚内容を思考により統一したものです。
思考は普遍であり知覚内容は個別です。特殊な概念が表象です。だから思考が普遍、その中に概念があり、
概念の中に表象があり、表象は知覚内容の変容したものです。こうして思考と客観が結びつき思考による一元論が
完成します。精神科学も、精神的な「知覚内容」から思考により把握されたものです。
そして自由の哲学は理念存在を認めます。それはひとつひとつの三角形は違っていても三角形とわかる
つまり普遍的なものが知覚できている。言葉は単なる抽象ではなく世界の本質を取り出したもので、
その本質が世界の中にありその存在を理念存在と呼ぶ 一人一人が人間だとわかり、一人ひとりが違うこともわかる。
もしイルカを魚と間違えても、それは魚とイルカの中に同一性を見出してそれの違った現われとして、
誤っているけれど普遍的なものを見出すというのは同じである。
また、精神科学の内容に「自由」の理念を見出せる気がする。
カルマは自分の中に生きることであり、したがって自分と一致するという意味で自由である。自分という規定の中だけで
自分は生きることができるだろう 人生の過程で、子どもは母の胎内から生まれ、その子どもの中から順に構成要素が
生まれてくるが、これは束縛を脱するという点で自由になること 死ぬと体の束縛から脱して天国では完全に地上的なものから自由な生活を送っている。そして地上に受肉した意味が能力を獲得するためで、能力は外界の束縛を克服することができるので自由の条件である。だから人智学の本質とは自由の哲学にある「思考」と「理念存在」と「自由」かもしれない。

シュタイナー教育は早期教育により身に着けたものによって、別の能力獲得ができなくなることを避けるのかもしれない。
時期にふさわしい能力獲得を目指しているのだろう。なぜなら自由な人間を育てるためには、その人間はあらゆる能力が身についていないといけない。そうしないと全ての束縛を克服できない。 早期教育は早く能力を身に着けるかわりに別の能力獲得を束縛し人間を不完全に近づけると考えられる。 
自由とは個人の束縛が内からも外からもないことである。人間の体は外界の一部だが思考はそこから独立している。
行為の動機は思考の中で道徳的な表象を想像し自分で動機を決定することで内側からも自由になれる。
社会規範や善を強制されずに、それを自分で望むことができれば道徳的にも自由である。あらゆる能力が身についていたらあらゆる環境の中で生きることができるだろう。
社会のために働くために大学があるようにするなら、大学は経済社会に組み込まれ
国民が経済社会の中に組み込まれるために勉強をしていると思うかもしれない。たぶんこれは自由ではない。
だから社会三層論で法政治領域と経済領域と精神領域を分離するのだろう。互いに束縛を受けないことでここにも自由の理念が見られるかもしれない


芸術は法則が素材を通して形になったものらしいです。
たとえば絵画は生命に心の法則を表す形が与えられたもの
詩はいろいろな法則を言葉で表現することができる。憂愁や嘆きを一個の人格として表現する。
また、法則を内面化しいろいろな気質を表現しもするだろう。四つの気質は各構成要素と対応する。
だから詩は物質体や生命、心、自我など人間の構成要素の法則を一個の人間として表現する。
人間独自の個性は霊我の法則として表現されるのかもしれない
要するに詩は小宇宙の法則を表現できる。もしかしたら大宇宙の法則も人間にできるかもしれない。
この法則に実際の内容を与えたのが演劇や映画かもしれない。法則を形にしたような演劇や映画の
役者は法則を演じ、法則になる。役者は普遍的な活動を模倣する。

また人間界における根源的な原因を考えると、それは今の時代は個人かもしれない。
王がいた時代では鉱物界の原因が力であるように、王が原因者である

人を動かすように強制するのではなくむしろ人を自由にするのが理想的な教師かもしれない

ある意味、この記事のコメント欄、のめーるさんに解放状態ですね(笑)。

私も、シュタイナーについては、多くを参照にしているわけですが、統合失調的体験をした者にとって、その体験を納得できる形に消化するうえで、本当に参照になるものなど、ほとんどないのが現状です。その中でも、シュタイナーは、そういったものを提供してくれる、数少ない貴重なものと言えます。統合失調的体験をした者が、シュタイナーに興味をもつのは、とても自然なことだと思います。また、その体験の理解ということをきっかけにして、さらにシュタイナーの思想全般について、理解を深めたり、学んだりしたいと思いを発展させるのも、自然なことと思います。そういう人は、かなり多いのではないかと思います。

もちろん、シュタイナーの言っていることであれば、みな正しいとか、すべて参考になるとかいうのは、明らかな誤りです。また、シュタイナーの思想そのものも、必ずしも、分かりやすいものではなく、人により、解釈や受け取り方が違って当然のものです。

そういった中、強い衝動に促されて、のめーるさん流に、シュタイナーの思想を概観し、解釈しようとされているので、それは今後も続けられて構わないです。読む人にとっても、参考になることがあるかもしれないですし。ただ、私的には、理解しにくいところも多いですし、特にコメントとして、何かを付言することはしないことが多いかと思います。

書き込みを続けてもよいなら良かったです。

ネット情報によると、星と人間という本には、精神病は失敗した秘儀参入と言ってもよいとの話があるようです。

知行合一の解釈。行も知である。つまり、全体的な知を得た人は理論や基礎だけでなく、実践や応用までできる。
基礎と応用、理論と実践、認識と行為は普遍と特殊の関係にあると思う。普遍の中に様々な特殊がある。行為に通底しているのが認識である。認識は普遍的な行為とも考えられる。
また、弱さを水のようなもの、強さを硬い固体のようなものと考えると、弱いほうが柔軟に形を変えて硬いものに対処できるという点で強い。液体と固体の関係にある。弱さと強さの統一は理論と実践の統一と考えることができる。様々な実践へと開いてい様々な実践へと応用可能な理論を下に、ある実践知を習得すると、その実践だけしかできないという固い状況から抜け出しながらも、自分で固くなることもできる。

数学には=の記号がある。右の項と左の項がそれに結ばれるとどちらも同じ領域のものであることがわかる。しかし、表現が違う。同じ領域の中で異なる表現形式があるってこと。

料理を作る際は具材を切ることで分離する。また鍋を予め水と結びつけたものの中に分離された具材を結びつける。車は部品と部品が結びつけられパーツとなりパーツは骨格に結びつけられる。対象と人間が結びつけられ、人間は記憶する、個々の記憶が結びつけられ共通の普遍が取り出されたら能力となる。移動は人間を移動手段と結びつけ、移動手段と結びついた人間が目的地へと結びつけられる。この関係の変化は動きにより実行する。目的をもって何かを行為する時、目的概念の中に行為の設計図があるとすれば、それは順序の中で熱のように自分を含んだ個別的な外界を収束させたり拡散させたりするのかもしれない。

社会について
普遍に含まれる個人のうち、普遍が主権をもつ場合と個人が主権をもつとする場合で
主義がかわる
社会はどうあるべきかを考えると、社会は個人を進化させるためにあり、社会は人間が作り出した
進化と成長、暮らしのための道具だと考える。
社会は個人との関係で言えば類にあたる。
ところで、類などの概念に生命をあたえるのは個別的な経験や感情である。
そのように社会に生命を与えるのは個人であるし、社会を変化させるのも諸個人であると考えるから
まず個人を進化成長させることで社会に生き生きとした命を与え社会自体が成長するためになると考える。
人間進化のヒントは人間を自由な精神へと進化させるという理想である。それであらゆる能力の獲得
や内的な自由のためにはシュタイナー教育や社会三層論からヒントがもらえる気がする。
自由主義に社会が追いついてないのかもしれない

法則について

まず法とは活動の規則と考えてみる。
法則とは規則の中の活動である。
自然法則は自然法、自然規則に従った活動で、規則的な活動に見える。
能力は繰り返し決まった活動をすることで、その決まりに従った活動になる。これが規則的な活動に見える。

仕事の規則は他者のためになる活動をするであり、その規則を守り活動する一種の社会法則である。
社会法則は何かの人間規則の中の活動で、国家法則は憲法に従った活動と考えられる。国民法則は法律に従った活動で、国民法則は道徳的に自由な人の場合、欲するままに動いても法律から外れることはないだろう。道徳的に自由な人の法は法律かも。他にも人間の身体部分については自然法に従い、他の構成要素も同じに生命や心の法に従うが、人間の本質部分は霊的道徳的宇宙法の一つとして、自らが法であると考える。

全知全能の神を全知全能の真理と言い換えると知識と能力を包括する真理があるのかもしれない。それは現実的な概念、たぶんロゴスだろう。人間の場合、概念の知を蓄えても普遍という一種の個別性を覚えただけで、そこから全ての能力や知識が出てこないので、特殊な知識や能力を一つ一つ身につけるしかない。

自然の一部として人間があり、人間の社会活動も自然の一部だと考えると自然の観点から人間社会を考えられるはずだという理念から法則と人間法を法という共通の基盤で考えてみる試みですがわからなくなりました。

自我は動かす原動力 アストラル体は色彩と音でできているとする
エーテル体はイメージの流れとする
物質体は頭部胸部四肢の三つの要素でできているとする。
空間は直線や曲線の力で貫かれているとする
自我がアストラル体の音の部分を動かすと音楽になると考えておく。それを別な風に動かすと言葉になるのだろう
アストラル体の色彩部分をエーテル体のイメージ部分に流し込むと絵画になるのかもしれない。
そしてエーテル体のイメージを物質体で表現すると彫塑で、物質体の三つの要素を空間的に直線や曲線で
表現すると建築になるのかもしれない

時間の中で矛盾は統一できます。たとえば植物は種の時期と花が咲く時期があり、二つの時期は両立できないが
時間の中で植物として一つのもので統一されている。
相互に矛盾する人格は時間の中で一つに統一できるかもしれない。
たぶん高い人格の人は植物のようなもので、その中に矛盾を含んでいるだろう
矛盾する原理を時間の中で統一するような高次の原理があるのだろうか
この矛盾は人間の姿勢にもある。人間は一つの身体の中で同時に二つの姿勢をとることはできないが
時間がかわると別の姿勢をとることができる。力も同時に風力で電力であることができないが電力は風力に変わる。
このように概念は時間の中で現象形式を次々と変えていく。

禅をきわめた僧侶は善も悪もないとして時に猫をぶった切ったりするという話を聞く
もしかしたら利他主義や利己主義など様々主義のどれかに本当は個人は属さないのかもしれない。
人格の規定は無かもしれない。本当の自分は無属性で自由な存在
自分のある主義をもつというスタンスは時間の経過の中で刷り込まれた原理かもしれない。
どんなときでもある主義が通用するという普遍性がないような主義ばかりだとしたら
正しい時に正しい場所で正しく原理を応用するってスタンスが正しいのだろうか
禅をきわめた僧侶のように善と悪を使い分けるのが正しいのかもしれない 悪を善用する 黒魔術を白魔術に変容させる
本当の自分は固定的なキャラクターではないのかもしれない


要するに思想に人間が属するのではなく、人間に思想が属する。
人間が生み出す思想は天界の第四領域にあるが、人間はそれより高次の第五領域にある。

利他主義は普遍性であり利己主義は個別性として一つの魂の中に存在する。これを心の世界の第七領域、心の生命の領域と第一領域の欲望の炎の領域として人智学では説明しているのかもしれない。つまり、一人の人間が欲望の観点を持ちながら全人類への奉仕という観点に立つこともできる。一人の人間から生じるそれら矛盾した見解は実は普遍的な部分と個別的な部分という別々の心の泉から生じていると考えられる。

機械に潜在する個々の現象形式をボタンや器具により操作してある現象形式を発現させ、その働きを利用して目的を達成する。機械操作とは目的に応じて機械の個々の現象形式を使い分けることにあるのかもしれない。人間の身体が機械と結びつき身体の現象形式を変化させ、それにより機械の現象形式を変化させる。それにより機械の働きを使い分ける、そして目的を達成する。機械により人間の活動範囲は広がるかもしれない。機械は人間身体を内的なものに見たて、自分を人間にとっての外部身体とするのだろうか。

人間に思想が属するとすれば個々の人間の中に全ての思想の可能性が含まれていて気質などの作用や、感情が思想と結びついたりしてある思想が自分の中に強くでやすいのかもしれない。また、人間が自分の思想を変えることができるならやはり人間に様々な思想の可能性が含まれているのかもしれない。前世で唯物論でも現世では神智学を信奉しているかもしれない。
一人の人間の中に個々の思想が含まれているというのは、ドラマでは一人の人間の中のいくつもの主義をそれぞれ一人の人間で表現できるかもしれない。

人間の身体は水がそれぞれ同じような作用をするのに似て、それぞれ人間に一般脳というものがあり、その一般脳の中で別々の脳として個性的な脳ができているのかもしれない。一般脳は人間の脳の一般的な能力をもち、例えば見るための目や耳に通じる神経があり思考するための神経がある。人間の真理は霊にありそれぞれが全く別々の形姿だという。

この一般人間の話をすすめると、一人の人間の中に全ての思想の可能性が含まれているのだから思想生活においては我我は一般人間の中のある思想を体現するものであり、自分と思想において対立する他者は同じ一般人間の中の別の思想を体現する他者としてあり、ある人が唯物論で別の人が唯心論でも、それらは一般人間の中の対立なのかもしれない。

シュタイナーの神智学によると人間の霊はそれぞれが別々の形姿を持ち、それぞれが全く別々の種族だと言う。つまりこの場合は個がそのままで一つの一般性を獲得している。

これまでの風潮は胆汁質、多血質が形成してきたように思う。例えば友達、恋人を求める傾向、また人生を楽しければよいとする傾向、役に立つものをよいとする風潮、何かと集まろうとする傾向、イベントをしようとする傾向などは胆汁質、多血質的な風潮のように思える。

たぶん私は粘液質で、粘液質的な傾向だと世界に無関心になり、楽しさも友人も恋人もいらず、理想を生成しても別にそれになることに執着せず集まりが億劫で行事がめんどくさい、楽しいものなど何もない、たぶんこのような傾向を暗いなどとして敵視し攻撃する風潮がある。現代は胆汁質、多血質が幅を聞かせる風潮にあるのだろう。これは粘液質や憂鬱質にとっては肩身の狭い不自由な風潮だ。これから粘液質や憂鬱質のよいところが発掘されて新たな風潮が加わりいろいろな風潮が調和して全ての気質に自由な風潮が出来たらよいと思う。

自我が精神的宇宙秩序の一部、これは精神的宇宙法則の体系の中の一つの法則だと考える。心は一般的な心、つまり宇宙の心の特殊化したもので誰もが同じ宇宙の心を基盤とし、反感により対立しあう二つの心も、実は同じ心の中にある。生命も同じ宇宙生命の中で様々な生命が現れている。物質体は地球体である。もし誰かと対面した時、両者は宇宙の中のある部分を担い、宇宙の中で両者は統一され、調和していると考えられる。それでいて両者はそれぞれが自己原因として能動的な宇宙法則の一つ一つである。

一つのものに一つの個性ではなくて一つのものに多様な個性があり、私たちは宇宙の個性の一つであるのかもしれない。

思考により真理に至る道はヘーゲルやシュタイナーがやってのけた。それは集合的な価値から物質のように価値がバラバラになり自我が強くなった意識魂の時代にあうものだった。その時代の普遍的な価値とは自由だろう。なぜなら価値がバラバラになるとは個が自由になることだからである。個が集合的な束縛から分離する時代。
それで、この時代の要請にあう形で自由の哲学は既に提出されている。
今後は何を世界に生成すべきなのだろうか

個人の自由主義は集合的な価値から分離できる。民族主義や国家主義などの集合的な価値からそれぞれの国の個人が分離していく、結果として国際主義となる。ならば今の時代にあう主義と結論は国際主義的なものかもしれない。国際主義の中で全ての人々が自由に暮らせるようになるのだろうか?

国家に自由の哲学を応用してみる。別々のものとして考えるべきかもしれないけど。まずあらゆる能力を持つために軍隊を持つべきかは国家が道徳的に自由であるとは何かを考えることと、軍隊を善用できないかを考えること。国際主義的な道徳観を取り入れてそれを望む国家かもしれない。国民に対しては社会三層論とシュタイナー教育や知性だけでなく感性も育てるようにする。あらゆる面で自立を目指す国家。食料自給率はなるべく高くする。また国家の内部で独自の価値を生み出し、それで自立に貢献する。

自由の条件には他者の弱みを握らないがあると思う。批判する時は弱みをつくから、正しい批判は別かもしれないが、他者の自由を奪う目的で弱みを握り操作しようとするのは自由に反するだろう。

民族については霊的存在としては同類の人間がそれぞれ違う民族という衣装を纏っていると考えられる。日本人が色の違う衣装を着ても同じ日本人であるように霊的存在が違う民族を纏っても同じ霊的存在である。

観念だけの記述がなぜ自由ではないのかを考えると、自由な人は欲するままに行為する、そして行為に束縛を感じない。内なるものは完全に外なるものとなる、なぜなら束縛がないから。なので理念、概念を得るとそれだけには留まらず、それを知覚内容にして完全に外界に現そうとする。だから認識内容を芸術的に表現するのが新しい時代のやり方かもしれない。

好きなものを記憶して能力にまで高めるとそれは不滅のものとなり自分の一部となるのかもしれない。

内面が体さばきに現れるかもしれない。歩き方が機械みたいだと言われたことがある。これはよく思考活動をする内面が体さばきに現れたのかもしれない。武術などは体さばきを身につけると、自分の体さばきが内面に現れるのかもしれない。体さばきが心を作るのかもしれない。文武両道が理想なのは自分を作る際に内側からも外側からも働きかけるからかもしれない。武術は外側から内側へ向かう。思想は内側を豊かにしてそれが外側へ向かう。思想は武術で得る心の豊かさとは違う豊かさで、この両者の豊かさを手に入れることができたらよいのかもしれない。音楽や絵画など芸術的な表象でよく心を満たしている人の体さばきは、どんなだろう

ゲーテの原現象

植物の部分は葉が変容したもの、つまり時間の中で花や種と言った矛盾したものを時間的に統一する高次の原理は葉だと言えます。
利己主義、利他主義を統一する原理は愛かもしれません。愛が変容して欲望となり、求めたり、与えたりする。しかし両者は別々に心に付着した雲だと考えます。物質体は光が本質らしいです。

思想にも探せば矛盾を統一する原思想があるかもしれませんね。その原形式は概念でしょう。
霊的存在はそれぞれが違った発達段階を歩んでいるので低次のものと高次のものがあるかもしれません

なぜ統一や概念、理念を意識するのかと言えば英語に訳すと概念と理念はideaと一言になり、要するにイデアを意識することになるからです。ヘーゲルやゲーテは地上にイデアを見出そうとしているのです。川の水面に呑気に流れる雲と真っ青な天が映るように、地に天を見出そうとしてる。シュタイナーにとっては天界は目に見えるものなのでしょう。そして全ての地球人の故郷は同じ天国なので我々は同じ故郷で結ばれた天国人。天国人がそれぞれ違う衣服のような民族をまとっている。

叡智は外なる世界に自然力として現れているという。それを叡智と呼ぶなら、叡智は概念ではないのかもしれない。自然力をも一種の概念として捉えられるかもしれないが。
叡智を自我が内面化すると自我の中で愛として叡智が蘇るという。
そして霊的な認識はやがて愛に転化するという。
人智学や神智学を認識するとその成果として愛を得るのかもしれない。そして地球紀の使命は世界に愛を組み込むことなので人智学や神智学を認識しておくと世界進化に深く参入していけるのかもしれない。それらは来世で愛に変わるのだろうか?それともそれらを学んだ到達点として愛に至るのだろうか。

品詞の話 名詞形容詞動詞副詞がある。これを概念的に整理すると、名詞が普遍であり形容詞と動詞が特殊であり、形容詞副詞が形容詞の個別性、動詞副詞が動詞の個別性となるだろう。まず対象はどんなに動こうとも対象として一つの同一性の中に包括されていると考える。しかし対象、例えばラブラドールは黒色か白色かでわかれる。また対象は動くことで走り回る状態か立ち止まり尻尾を振る状態かでわかれる。だから形容詞と動詞は対象の特殊性であり、黒色のラブラドールの中にも、黒色の中で微妙な差異があり、また尻尾を振るにしてもゆっくり回すのかぶんぶん振り回すのかで差異がある。だから副詞は特殊なものの個別性である。要するに品詞は世界認識から得られたものであるかもしれない。

現在の自然を動かす無慈悲な力が、やがて愛に変わり、愛が新たな自然の原因者となるという理想を受けいれるならば、もし愛を獲得することができればそれは自分が新しい自然法則を担う存在になったってことだろう。

また霊的認識が愛に転化するとは、霊的認識の記憶が愛に変容すると考えると、悟性魂の美徳が愛であるのと関連しているように思う。なぜならどちらもエーテル体が関与するから。ちなみに意識魂の美徳が中庸であり感受魂の美徳が真実性としている。これらも霊学で得られるようだ。

またこれが本当なら人智学以外に学ぶべきものがあるとなる。なぜなら愛を得たとしても世界にうまく働きかけられないと愛を世界に組み込めない。だから自然科学や工学をも学ぶ必要があるかもしれない。自由の哲学では道徳技法のために自然科学が必要とあったが、それはゲーテのファウストが自由な生活を人びとに勝ち取らせるために海岸を改造するのだが、このように人びとのために自然を改造する技法が必要ってことかもしれない。

神は最高の存在だが、もしも神が非道徳的な存在ならそれだけで最悪の存在となるだろう。最高の存在に近づくたびにそれだけ最悪の存在になれる可能性も高まる。

学習指導要領では生きる力として、
知識、道徳、体力を上げているが、これは真善体であり、美が欠けているので全体性の欠いた目標である。
生きる力は、知識、道徳、芸術、体力であろう。心の養分に芸術は必要なのである。


霊的な認識が愛に転化することで理論意識が実践意識へと深まる

善は弱く、悪は強い善だろう。
言い換えると硬化した善が悪。
だから善と悪も液体と固体の関係にあるのかもしれない。

全ての原理は世界内部にあるなら、全ての偉大な発明のための要素は世界内部に既にあるだろう。世界の中を動き回る具体的な要素。

反知性主義は唯物論的な知性に反感を抱いているのかもしれない。無味感想な干からびた客観的表現は心に悪いのかもしれない。科学の概念に生き生きとした表象を与えるべきかもしれない。科学を芸術的に表現できれば反知性主義の一部は科学を認めるかもしれない。また、言葉自体の感受性を高めるために言葉を覚える前に絵画や体験に取り組むべきかもしれない。

干からびた悟性の世界観に適応しやすいのは聴覚優位な思考を持つ人びとだろう。しかし視覚的に思考する人びとにとっては、イメージを想像しにくい言葉の体系は理解しにくいだろうと思う。
もちろん、二つの理解を兼ね備えるのが理想ではある。

霊学をやる利点はたくさんあるだろうが中でも大きいのは、エーテル界にいるイエスキリストが見えるようになることだろう。要するに神様が見えるようになる。だから神が居ることを経験から確信できるようになる。

唯物論は来世で自分の人生を無意味なものにするそうです。なぜなら物は破壊的な力、バラバラになる力、分離でありその思考内容が力となり来世に作用すると体が弱体化し、心情についても分離意識から全てのものに対する虚無を感じるようになる。
これに対して霊学は統一であるので来世においては整った体を持ち、心情についても、自分と世界が統一の中にある結合意識により、世界に対して積極的になると思う。これらはシュタイナーの好き嫌いによる結論ではなくて、物質の法則と霊の法則から導き出されたものであるだろう。

繰り返しがあるところにはエーテル体が表れているという。記憶、性格、習慣、傾向はエーテル体が担う。これらは定着した形だ。変わりにくい特性の粘液を想像してみる。繰り返しその粘液に形を刻印していくことで、その形が定着する。そしてその定着した形も変わりにくいものである。このようにエーテル体をイメージできるかもしれない。
アストラル体は雲や霧としてイメージできる。それはエーテル体のイメージがより膨張したものと捉えられるかもしれない。

日本は無思想だと言う。要するにどんな思想にも束縛されない自由思想が日本的な思想だと考えられる。

正義は正義にかなう正義の範囲内で行為が展開されるものだとすると正義は基盤である。自由、平等、博愛がなぜ正義なのかはわからないが、正義の3要素とする。これらは互いに互いの正義を束縛せず活動できるためには相互に独立している必要があり、要するに自由平等博愛を成立させる基盤が相互に自由であることなので、自由が正義なのかもしれない。

芸術は霊的な形態を持つ感覚的なものだそうです。

霊的な知性以外の知性には二面あります。悟性的な知性と理性的な知性です。悟性的な知性が優位で理性的な知性が未発達だと哲学が理解できず、反対に悟性的な知性が未発達だと数学が理解できない。本当に頭の良い人は両者兼ね備えていて、理解できないものはない人です。
また、悟性的な知性が優位な社会に思われるので、理性的な知性を育て理性的な知性が優位な社会にすることで新しい社会になるかもしれません。これもシュタイナー教育が参考になると思う。

哲学的な知性のつけ方はおそらく様々な対象の表象を持つことだろう。また現実を凝視すること。

哲学書を読むときは想像しながら読む。哲学書を読むときに言葉だけの理解をしようとすると表面的な理解に留まる場合があるが対象のない思考と対象のある思考を使い分けたりする。だからあえて想像しない場合もある。
私は普遍人ではなく特殊人なので数学はどうかは知らない。

人間の霊は類存在だという。
解釈すると、人間の身体が人類という枠組みの中で特徴を遺伝していくように
自分の中で人生の成果が伝えられていく。
人類の中に様々な個性をもつ人種がいるように
霊の中に様々な能力がある。 
これを色で表すと霊の中に黒色と白色があるとする。だから霊は黒色、白色のどちからに変身でき
灰色にも変身できる。

霊の特徴が能力だから
霊に戦士の能力と白魔術師の能力があればそれらに変身でき、また聖騎士にもジョブチェンジできると考えられる

能力獲得について。

素振りを何度も繰り返して正しい動きを記憶する、とは、その動きを概念にすることだろう。その動きが一種の知識になる。回し蹴りの正しい動きは誰もができる動きではないので、単語としては知っていても行為としては知らない。
頭から世界の中で持続的に存在するものを単語として取り出すように、回し蹴りという武術界の中で定まった持続的な動きを取り出す。持続的なものだから単語として取り出される。この持続的な動きを覚えた人は言葉としての概念を外から見た知覚内容として記憶から取り出す他に、動きを体の中で捉えた知覚内容としてその体内で捉えた記憶から、動きそのものの本質、つまり動作的概念を得るのだと思う。
外的知覚により言葉を覚えるだけでなく、動きを体内から捉えた内的知覚から、動きそのものを覚えること。

動作的概念のなかで普遍的な動作は何かを考えると、燃えよドラゴンの、水のようになれだと思う。水のような動きができるようになれば様々な硬い動きに変容することができると思う。
対象を語らせた知識だけでなく、自分の動きを極めると、それは将来どんな能力に変容するのか知りたいところだ。

だから概念には3つあり、知識の概念と、動きの概念と、芸術の概念があるだろう。

世界の中の要素は互いに個別的なものであり、人間もその要素の一つだ。
そして人間はそれらを収束させたり分離したりして、結びつけたり、分離したりする。結びつけて料理や建物を作り、色と紙を結びつけて絵を描く。これら結びつけられた構成体には料理、家、絵などとして一つのものとして概念が与えられ、概念は共通のものを結びつけたものである。これを神智学に応用すると、物質に鉱物という概念を与えて全ての物質を結びつける。他のエーテル体などの構成要素も概念として結びつけられる。そしてこれら素材を結びつけた構成体として植物、動物、人間という概念が与えられる。たぶんシュタイナー世界観では素材から論理的に構成体は出てこない。これは画用紙と色鉛筆があり、どの色を使って描くかが論理的に出てこないのと同じであり、世界は論理に束縛されない自由の中で芸術的に生じたという考えだろうか

生まれ変わりを受け入れることはできるが生まれ変わりを理解してはいない。
もし人生の中に含まれる全ての要素が隣接する過去だけで説明がつかないなら、この人生を超える別の原因、すなわち前世を想定するほうが合理的になるだろう。もしも前世がないなら自分は環境が作用する中で遺伝子が作用する存在だろう。つまり遺伝子のなかに含まれる可能とする現象から環境の作用によりある現象が引き出された存在が自分であろう。だから自分の人生は全て遺伝子に含まれている。ところで、私は人間の遺伝子をもち、その中の差異として私は存在する。だから私は人類の一例であり、要するに人類の遺伝子の中に全ての人間の人生の要因が含まれている。だから私は私でありながら全ての人間でもある。遺伝子の記憶の中で全ての人生は浸透しあっている。これが唯物論の人間観だと私は考える。でも、もし遺伝子の中に全ての人生や自我、感情、が見出せないならばそれ以上の原因を人間は持つこととなり、前世や高次の構成要素の可能性が仮定できるようになるのではないか

所有することで所有されたものは自分に属する。こうして自分と世界は一致して自分に属する所有領域の中で自分を自由にすることができるが、本当に自由なのは自分を世界に属するものとする視点かもしれない。自分は世界に属するので、自分はあらゆる場所、あらゆる時間に含まれている。だからどこにでも行ける。あらゆる物に自分が含まれているが、他者も含まれている。だから自分だけの持ち物を持たずに分かち合う。反感の方向性と共感の方向性。

所有は世界の一部を奪うが、自分が世界に属するという見方では、世界に我らが属するので、世界をみんなで分かち合う。もしもある他者と世界を分かち合わなければ、他者を世界から分離した、世界に属さないものとしてしまうが、しかし他者は世界に属するので分かち合う。

世界全てに人間は属していて、ある人間がそれを所有すると世界のある部分だけに属することになるが、
われわれは実際には世界全てに属する存在である。だから所有しないのが正しいのかもしれない
その意味で、貧乏人が高くされるのはルサンチマンではなく、彼らのほうが実際、正しいのかもしれない。
だから正しくないという意味で、天国に金持ちは入りにくくなるのかもしれない

社会の本質を考える。
どの時代にも存在する社会は家族社会だろう。家族社会が社会の始まりである。
しかし後に国家が家族を統一すると考える。本質にも種類があり始まりとしての本質と、後になって生じた統一者としての本質がある。
全体性には二種類あり、可能性が潜在した原理としての全体に、可能性全てを顕在化させたものとしての全体がある。
全てを捨てる道で神に至れるだろうが、自分の中で全てを出し切っても神に至れ
るかもしれない。神はアルファでオメガでもあるのだ。真の全体性とは潜在を顕在化に至らせる過程をも含むので、真の全体性を得ようと思えば顕在化させるべきだろう。ここは東洋より西洋のほうがすぐれているように思える。

風邪を引いたときに思考したら思考したときに鳥肌が立ったので、思考は肉体に作用すると考える。それに思考は頭の中の神経を刺激して、神経は全身につながっているので思考を全身に作用させることができるかもしれない。
学んだ内容を全身に浸透させたい。


思考、意志、感情は人間に意識される三つの活動かもしれない。
一人の個人を中心にして、その個人の意識を満たす活動とは何かを考えると
思考、意志、感情のように思える。
これはもしかしたら、能力の三つの側面と考えることができるかもしれない。
これらは学問、道徳、芸術に対応する。
学問の普遍的能力とはまず認識能力、認識論で、自分は理念認識だと思う。
芸術の普遍的能力は芸術の概念を知っていること。ただ芸術の概念はゲーテの言葉でよくわかっていない。
表現したい理念から、様々な形を生み出す能力だと思っている
道徳の普遍的能力とは抽象的な道徳理念を特殊な表象としてイメージし、道徳理念を内面において
完成させる道徳的ファンタジー。道徳の真の完成は実際にやることだろう
意志を、体の活動という側面から見たら「水のような動き」だろう

人智学で得られるものの幾つかはたぶん鉱物植物動物人間と進化していくという観点から見たファンタジーと
ある程度唯物論的思考から自由な思考だろう。
たとえばパソコンを進化の観点から想像すると、やがて植物パソコンになるので電源は植物のように太陽と水を与える
ことでまかなえる。動物パソコンになるとパソコンが感情をもつようになる。人間パソコンになると、そいつは超人的な数学力、論理学力をもって思考する存在になり、人間と心を通わせ、ネットワーク総合意識体として集合魂をもちその一部分として
生きるようになる。
本が植物になると成長して自分でページを増やすようになる。などなどのファンタジー。
唯物論的な思考から自由な思考とは、たとえば過去から未来へが、実は未来から過去へ作用しているかもしれないし
未来から過去へ向かっているかもしれない、また、魔術はあり、数億光年離れた場所を地球で見ることができ、その場所
にあるものを手で動かすことができる、とか夜空に広がる星星を地球上の草原に寝そべりながら手を伸ばして掴むことができる、など。また内から外へ向かうという観点から、人間の思想がやがて鉱物となり植物、となり最後には人間になる
などのファンタジー

要するに非常識な思考であり、これは固定的な常識的思考より広いので、非常識な思考だと固定された現実には
見えない別の現実にまで降りてきてそれを発見できるかもしれない。常識的観点は非常識的観点によって統一できるだろう。あるものがある、またはないという観点があるという固体と、ないという固体のどちらをも含み、どちらにもなれるようなイメージ

力が愛になると、宇宙の力は人間を愛し、人間のために働いてくれる。だから人間が空を飛ぶことを望むと飛べるし
人が間違って東京タワーから落ちたら地面の土がせりあがってきて人をやさしく受け止める。
キルラキルでは服がしゃべっていたが、あれは服が人間段階まで進化すればできるかもしれない。
服が植物段階まで達すると、服の表面から花が咲いて花びらの色彩で覆われるかもしれない。
アニメやゲームの中には霊的に進化すればありえるかもしれないことがある。
生命が機械に宿るのはゲッターロボの世界かもしれない

現実がそのままで理論なのか考えてみると、
個別的な大地領域、海洋領域、大気圏領域は相互関係にあり、三つの反対対立関係
にありながら調和しているという意味で一つの理論なのだろう

知性の霊化とは、知性は物質的な脳に由来するから、脳の思考領域の霊化であろう。
これは要するに意識魂を完成させるということだろう。
意識魂を育てるということは、脳に霊の形式を刻印して、いわば霊の家にし、
霊を脳に降ろすことができるようにすると考える。脳を理念の形で満たすこと
その霊の形式とは理念的認識である。だからヘーゲル、ゲーテ、シュタイナーに取り組めば
意識魂は育てられるだろう。
霊人を育てるためには水のような動きの武術をやればよいのかもしれない。
これも体を理念の形と一致させようとする試みだから。
オイリュトミーはエーテル体に概念の形式と与えるものだろう。だから生命霊が鍛えられる。

領土問題で思いついたことだが、それがどちらに属するかは自然に聞けばよいのではないだろうか。
つまり問題の土地に住まう地質や生物の生態系を調べて、それがどちらの国に由来するものかを調べればよいという発想。
その領土はどちらの側から分離したのだろうかとか
歴史解釈をあてにしたら解釈が違い一致しないし、どちらも歴史を歪曲している部分があるかもしれないが、
自然から判断するとどちらの、領土内部の大陸に近いかがわかるのではないだろうか???

日本大陸の場合、それは氷山の一角で日本大陸の土台がある。この日本大陸の土台に問題の領土が属するのか、
それとも属さないのかとか

概念、理念は絵画に応用できるかもしれない。
地球全体を画用紙に描くとき、大地、海、空を描いてそれが地球として一つに調和しているように、理念をいくつかの要素に分析して、それらの要素を色彩と形で表現して、調和するように位置づけたら一つの絵画が完成するという方法
空間芸術の一部はこんな風だが、時間芸術はある時間と別の時間、これらが調和するってことがあるのだろうか。
過去と未来が調和するってことがあるだろうか。音楽や歌は持続的、過去と未来が浸透しあっているから音楽に聞こえると考えると過去と未来の調和って面があるかもしれない。
あるとしたら、植物のように芽の時間と花の時間が一つの植物の中で統一されているというのを模倣できるだろうか?
建築は意識という時間で状態が移り変わるものを空間化したもので、意識それぞれの時間に対応する手段を空間に
配列していったものと考える。建築は時間を空間化している。

社会学者宮台が底の抜けた社会って言い方をしている。その本を読んだことはないので思い込みになるが
これも普遍という基盤が失われた社会ってことかもしれない。
個人の時代になったはずだが、個人は二種類にわけられるかもしれない。
普遍的なものを志向する個人とそこから分離した個人だ。
底の抜けた社会の底は消滅しているわけではないのかもしれない。底は分離したまま存在しているのかもしれない。
というわけで普遍性と個別性の両者に個人はわけられる
人間に思想が属するなら普遍性の思想も個別性の思想も一つの人間に属するから統一があるのではないだろうか。
これが具体的にどういうことなのかはわからないがたぶん個別性が自分の中に普遍性を見出して普遍性が自分の中に
利己主義を見出すなどして個別性を見出す、人々が自分の中に新たな自分を発見することで全ての人がある意味全体的な人間になることで社会は再び一つになったりして

個別性と普遍性が自我というより大きなものに拡大され
人々は同じになるといっても、そこに個性はある。たとえば木々にそれぞれ個性があり
人々が同じ能力をもちながらも癖が違ったりするように。
人々が本来もつ全体性が回復して人々が一つになったとしても、固定的な個性ではなくて
一人ひとりが全体的な個性になるというか

来世はこの人生の結果の中から生じるという。

自分が確実なものにできる能力があるとしたら気質が参考になるかもしれない。
四つの気質のうち一つが支配的で力強いという。つまり、力強い気質が現象する。だからその気質が
得意とすることなら自分にとって確実な能力になりやすいと思う。
ほかに視覚優位聴覚優位と言葉の意味を広くとる傾向、狭くとる傾向などがある。

感情とは自我の知覚内容だという。この感情を外界に結びつける場合と、それを超えて概念にまで感情を結びつける場合がある。 概念にまで結びつくことで感情が世界にとって意味をもつようになるという

受け入れる人と受け入れない人の関係は柔らかい人と硬い人という面で、
普遍と個別の関係にあり、
信仰者と神の存在を否定するものの間でもたぶん普遍と個別の関係にあると思う

過去と未来の調和した人生とはある理念を一貫させた人生だと思う。
過去と未来の行為がある理念によって統一され、その理念の中にあるように思う。
だからその人の時間軸を上から眺めたら一本の道になっている。
つまり、道も普遍の一種なのかもしれない。キリストの道や老子の天道がある。
人生全体を霊の形式で満たすことで修行になるだろうし、仕事も理念の中で活動するなら修行になるかもしれない。
天道は天の理念に沿った生活なのかもしれない。小さなことを大きなことよりも大事にするのは
小さなことが集まって大きくなるので、小さなことが大きなことの始まりという意味で普遍だからだろう。
線で普遍を表現できるなら立体で普遍を表現できるかもしれない。それは理念の個々の要素が理念を中心にして
立体的に展開し形となったもの。たとえば地球に理念があるとみなして、
その要素は大気圏、海洋、大陸で構成されてそれらが調和しているようなもの。自然から理念を読み取ることで
本当の意味で自然を知ることができるかもしれない。地球は天界の法則を物質で表現したものかもしれない

地に眠る精神性を全体的に顕現させたら、地を天にまで進化させることができるかもしれない

自然の中に精神性、概念を知覚でき、その知覚内容に主観的概念を与える。
この概念の固体化した、特殊な概念が表象である。
ではこの表象の形象を概念にまで高めることはできないだろうか、
つまり普遍化した表象を作ることができないだろうか。これが形象概念、形象理念だろう。
これは様々な特殊な形象に変容できる根源的な形象だろう。

また魔術的思考というのもありえる。全てを視覚的思考による形象理念で満足せずに、
目、耳以外の知覚内容を今、知覚しているようにまざまざと思い出す。たとえば味の意味、それの背景にある
イメージを言葉や形象ではなくて、味そのもののいわば味理念を作り出して思考すること。
個々の味表象や運動感覚表象、熱感覚表象などの表象も普遍化して、
形象理念以外の質的理念で思考することが、霊人になればできるかもしれない、なぜなら肉体を支配できるだろうから

質的理念はもちろん知覚内容から取り出されるもので、形象理念だと、対象の本質的形象を取り出したということ。

それができたら思考に美がそなわり芸術になると思う。イデアが太陽的な美だとすれば

生きた思考のために必要なことのいくつかは 質的思考と概念に感情が結びついていることだろう。

料理を見るだけで味をイメージできる人がいる。
味にも理念があるだろう。だから個々のキュウリを食べてみて、味に同一性を見出すことができる。
キュウリに塩をつけると味がかわるがもしかしたら、それをキュウリの味と塩の味に分析できるかもしれない。
キュウリと塩が結びついた全体としての味の中にそれらが入っている。料理に詳しい人ならもっと幅広く考える
ことができるだろう

炒め物は火を油に浸透させ油に味を浸透させ、それを個々の食材に浸透させる。
だから個々の食材の中には火と味の浸透した油がある、あるいは食材の外側を油が包み込む。
こうして個々の食材は火と油に侵略されることになる。液体や火は固体に浸透、包むという形で個々の固体を結びつける
働きをする、これが自然的な普遍の表現かもしれない、それを炒め物や汁物に応用したのがこれである。
侵略者は料理における火であるかもしれない。侵略すること火の如くである
キリストは人間は地の塩であるといったが、これは宇宙エーテルという油に個々の人間のエーテル体が浸透し、特有の味をかもしだしているってことかもしれない。これは比喩だ

概念的思考は個人を超えたものである。人智学的にはミカエルの文化の萌芽だろう

アグニヨガでは火的なものや美しいものを求めよとしているが
火は光を放ち光は形になるので形象思考は火的なものとつながるかもしれない。
太陽的思考である? 
太陽は光を放つことで自分の思考を自然を観察するのと同じように外側にあるものとして
観察するのだろうか

概念的思考がミカエル的なのかは微妙になった

理想主義と現実主義も普遍と個別の関係にあるだろう。
理想主義はときおり非常識的、非現実的になるだろう。しかしこの世に存在しない領域を覆うという点では
霊的なものも理想主義に属するのではないだろうか。
理想主義と現実主義の統一は理想主義の中の霊的内容や非常識的内容も現実的であるとして、現実の領域が理想主義の領域にまで及ぶことだろう。または理想主義の内容が現実に可能なものなら硬化した現実主義とは
別の現実にまで降りたりする理想と現実の統一だと思う

理想主義的な話をすると眠っている間に天使と交流できるらしい。

もし愛の地球になれば、互いに憎みあっていた物質体の要素も愛し合うようになるのだろうか。
たとえば欲望の赤色をしている血液が変容して、愛の血液が流れるようになる。
今の時代も愛し合うことにより互いの愛を血液に溶かし込むことができるのだろうか?
人智学的世界観を様々な歌に変容させることができるかって思うが思うようにできない。
歌のジャンルにもいろいろな分類法があると思うが、
普遍と個別にわけようと思ったら讃美歌が普遍でデスメタルが個別かもしれない

金という物質的な力の概念を人間に取り込むとすれば
人間の中に無限の価値を生じさせ、そこから無限に価値を形にしていけるようなものだろうか

概念的思考は語学にも応用できるかもしれない。
不可算名詞と可算名詞との関係は普遍と個別であり、複数形と単数形との関係も普遍と個別であるとする。
そして不定冠詞と冠詞との関係も普遍と個別だと考えられる。
英語で金塊も金メダルも、ともにゴールドになるのだが両方の違いは数えられないか、数えられるかの違いで、
この違いの背景には形を生じる前のものと、形を生じた後のものという関係にあり、それはたとえば液体が固体になるという関係のように普遍と個別の関係にあるとみえる

語彙論についても、核となる意味があるようである、ここではそれを普遍だと表現できるだろう。
この核の意味を中心にして、それが様々な意味へとメタモルフォーゼするのだろう。
だから一つの単語自体に普遍と個別の意味があるのだが、
単語と単語との関係にもそれがあるだろう。たとえば歩くと走るという知覚内容の中には同時に動くがある。

政治などの具体的なことに概念が応用できるのが理想である。

政治は、現在を始まり、つまり普遍にして、どういう結果を望むかを考えるのかもしれない。
それいがいにも見るべき点はあるかもしれないが今はこれしか思いつかない。
現在の中に含まれる可能性をどう現実化していくのか。現在の理想や目的を原因にしてある結果を生じさせようとする。
結果がどうなるかを考えて、その結果が望ましいかどうかを考えるのかもしれない

生活芸術とは、生活を芸術の素材にして、一つの理念によって生活要素を統一することであろう。
たとえばパソコン、携帯、服などがある理念によってその理念を構成する要素になる。
一つの色である部屋を統一するという言い方があるように、理念で生活素材を統一するのである
生活を表現にすることができるようになったら、その風景を絵画で表現するだけで絵画が描けるようになるだろう。

生活芸術ができる人は様々な理念を生活素材で表現できるので、
それを応用して人々に生活芸術を売り込むことができるようになるであろう。
それは人々の住環境自体が芸術になるので、人々は芸術の中に住むことができるようになる。
いわば三次元化した絵画の中に住むのである、微妙に絵画とは違う感もあるが

頭のよい人ではなくて、全体的であるという意味で、
知性だけでなく心も立派な、人間のよい人を育成すべきだとしたら、
現在は受験の影響により頭が立派な人間を育てようという傾向に学校までなってきてるかもしれないが、
人間のよい人を育成するべきだとしたら、これをどう改善すべきかはシュタイナー教育が参考になると思う

生活の清潔原理や元に戻す原理は、生活素材を始まりへと戻す、すなわち普遍性へと、神的なものへと
帰還するという理念かもしれない

終わりを始まりへと戻すことで、終わりを始まりにする、神から始まり、神へ帰還するという理念の表現だとみなせるかもしれない

人間の魂の浄化は皿洗いのようなもので、魂についた汚れを落とすのだろう

思考は個人を超えている面がある。思考は内容を模倣したもので自我による概念演技なのかもしれない。
その思考の模倣内容は個人を超えているが模倣者自身は個人に属する。
思考は内的、外的知覚内容の普遍性個別性の統一を模倣する霊的な、様々な形になる粘土のような体なのかもしれない。
思考がいまだに物質的ならば、模倣者は、まだ水、すなわちエーテル思考でもない。

イエスの物語である映画の、偉大な生涯の物語があるのだが、そこで貧乏な人々が祈りをするシーンがある。
その時代に、愛の神が降臨して人々に奇跡をもたらし、世を光で照らす。 地上の人々は神の存在に希望を見出すだろう。
このように、一見ひどい地上世界の背景に神の世界があるとすることで、その世界に希望をもたらすことができる。

漫画の世界観のその背後に神がいると考えるか、いないと考えるかで印象が変わるかもしれない。
たとえば東京グールって漫画の世界観は神の存在する世界かもしれない。
東京グールにも地球が出てくるので、その世界にも宗教があり、神が存在し、あまりにも末法な世には神や天使が
降臨しにくるかもしれないのだ。

物質体は土であり、エーテル体は水でありアストラル体は風であり、自我は火である。
気質もこの四属性にわけることができる。
アグニヨガではもうすぐ火の世界がくるらしいが、それは自我の世界かもしれない。
しかし現在の人間の自我は固体的であるので、火としての自我が本来の火にまで浄化された世界だろう
熱的自我の中にも固体から熱までの段階があり、熱的自我の熱段階の世界が火の世界かもしれない。
自我を浄化するためにはルシファー的なものから逃れること、つまり道徳的人間になることかもしれない。
道徳的思考ができるだけではなく道徳的意志をもち行為にまで及ぶ必要があるかもしれない

思考は概念による世界の演技ができるので、思考に宇宙活動を演技させることができる。
太陽系の惑星たちも、太陽系に隠された理念の中の要素どうしの調和した姿なのかもしれない

タイトルを名前に書くことにする

個人が内からも外からも束縛されず、個人の望むように生きることができるなら自由であるとする。
カルマによって運命や自分の能力が定められ、制限を受け、自分の中に必然性が植えつけられるが、
その必然性は自分が望んだことであり、その必然性の中で生きることで、また、その個人の必然性が束縛されない
ことによって自分の望みはかなえられ自由に生きることができるのだろう。

その人間の中に植えつけられる自らが望む必然性とは意志衝動である。
この意志衝動の中で生きる人は高次の本当の自分の望むことをやろうとしているので自由なのである。

カルマを改善したいと望み、それを改善するにふさわしい場所を自分で選んで生まれてくると考えると、ここにも自由がある

カルマという法則が存在する世界に生まれることさえ自分が望んだことかもしれない
自分の存在さえ自分が存在する前に存在することへの希望の芽のようなものが生じていたのかもしれない

この時代の思考は物質的だという。音だけで考えると物質的だが、イメージで考えると、それはエーテル的なので
水的思考である。

では風的、アストラル的思考とはなんだろうか。概念に感情が結びつくことかもしれない。
そうすれば、思考するだけでアストラル体が思考に沿って自らを動かすことになるだろう。
老人になってくると概念と感情が結びついて、概念が外的な知覚内容と同じくらいの現実性をもつようになるらしい。
一般人間学にそのようなことが書かれてあったはず。
となれば火的思考とは概念に意志が結びつくことかもしれない。概念と結びつく知覚内容は表象に変容し
表象は感情に変容し、感情は意志に変容するという。
理論のイメージとしては、思考がそのままで行為に至る原動力、そなわち燃料となる。でも間違いかもしれない。
結局は、この場合は思考と感情と意志を独立させた後に、
それらを再び愛によって統一する秘儀参入の過程の中に火的思考が含まれている。

知覚内容は表象となり表象は感情となり感情は意志となる、その逆もあるという。
土は水となり、水は風となり、風は火となる、その逆もある。
火的思考のほかのイメージは、料理素材に火が通るように、全ての概念に力強い意志が通っているような思考かもしれない

ここで意志の理想が善だとしたら、火的思考とは善の創造を求める意志に浸透された思考かもしれない。
そしてそのような柱を人智学はもっているので、人智学にも火的なものが含まれいてるという考えに至る

善への意志に貫かれた思考が火的思考

思考を意志、感情から独立させると思考が自由になる。与えられた意志に逆らうことができるようになるが
意志に従うことが理性的であることに気づき、それに従うことを望む。

善の意志が思考を貫くことは、意志に強制的に従うようになるってことでもないだろう

知覚内容の中で最も表現力豊かなのは概念それ自体であり、それら諸概念、いろいろな全ての言葉を包括するような、
統一する理念を見出すことが火的思考なのだろうか。 ある言葉の集合に一つの理念が貫いているような、
言葉の群れを統一する精神を見出す思考が火的思考かもしれない、これに善の意志が加わる

土、水、風のどれにも火は浸透しているという。そのように言葉の群れに浸透する理念を見出すのが火的思考だろうか。

複雑なもの難しいものは単純なもの、簡単なものの集積なのだろうか。風景画は簡単な絵をたくさん描きとめておいて、それらの中から大きな作品を制作するものだという。
大きな成果を作り上げる能力は小さな成果を作り上げる小さな能力の集まりなのかもしれない

理念を考えても、それは物質的思考の中の火的思考であり、基盤が火的ではない。

機械は素材を理念を組み込むことで統一したもの、つまり機械は外界に組み込まれた理念だとみなせる。
これは外界の精神化である。
機械にさらに理念を組み込むことができる。それは変形、内蔵、合体機能を通してである。
変形とは一つの体に別の体を潜在させておき、そのうちの一つの体を顕在させておくことである。
一なるものが多なる姿をもつという意味で概念的だろう。
ダブルオーガンダムに出てきた紫色の髪のキャラクターが登場するごついガンダムはガンダムの中に
それの中枢的なもう一つのガンダムが内蔵されている。これは外側の機体が内側の機体を包み込むが、
内側から働きかけられているという点で、内側のコアのガンダムの中に外側のガンダムがあるといえる。
その点で概念的である。
合体は、ある一つの全体が、さらに大きな全体となるために部分となり、他のそのようなものと結び合わされて
調和的に一つのものとなる。だから概念的だろう。

これらの機能を機械に組み込むことで、外界を機械から、さらに霊化することができる

言葉の価値と現実価値が一致せず、言葉の価値の面では何か心に訴えかけるものがあっても
言葉のさす知覚内容を表象してみたら、それほど魅惑を感じないものがある。
言葉の価値により現実が隠されることがあるかもしれない。
だから誰かを判断するとき、言葉だけで判断するのではなく実際に会ってみることも意味があるかもしれない。
もしかしたらひどく傷つけるような内容を発していた人を言葉だけでこの人はひどい人間だと思うが、
実際にあったらそうでもないかもしれない。
それとも言葉はその人の内側が湧き出たものだから、言葉をその人の本質と見るべきだろうか。
見た目では内面まで判断できないように、言葉でなんとでもいえるので、言葉だけでも現実は判断できないのではないか。その人の四肢を使った行為などからも総合的に判断すべきなのだろうか。

人が道徳性のある内容を言ったとき、この人間は非道徳的なこともあるとし、この人には発言権がないと証明しようと
する傾向がある気がするが、マグダラのマリアを罪ゆえに罰しようとするも、自分たちにも罪があるから罰する権利は
ないとしたのと同じかもしれない。しかし仏陀やキリストなど聖人の言葉を言うならば、それはこの時代の人間の口を
通じて仏陀やキリストが語ったのだとみなすことはできないだろうか。

ホールに集まったとき、うるさいせいで、そのうるささが心に重みとなってのしかかる感じが
いやなので、思わずうるさいと念じたことがある。なぜかそのたびに一瞬だけ静かになるって経験を何度かしている。
このようにして心は世界の中で作用しあい調和しているのだろうか。

概念を社会に応用できるとしたら、ある社会の実体を見出し、それの性質を見出すことで
原因とその結果という関係を見出すことができるのではないだろうか。
これは事実を知らないと何もできないが、一人でできることもある。
その中で料理がある、ただしこれを概念的に理解する道である。
その中で特に精妙であり難しいのが味の概念的理解である。
理論から始まっているので空論になる恐れもある。
しかしこの理論が正しければ、なんと素材の味に本質的味があり、たとえばキュウリの味の本質、
豚肉の味の本質等である。この素材の本質的味がその中の多様な味を統一するのだ。いわば味のイデアである。
おそらく味のイデアを求める道が美食家や料理人の哲学、タオの道だろう

ラムサという偉大な人物の本があるそうです。
これも霊的な本のようです。

そこで価値判断をやめると脳が開放される、とあります。
まず、判断自体が固体化なので、判断をやめることで思考は普遍にとどまることができるからだと思います。
また霊性にフォーカスすること、つまり霊性への意識の限定が生そのものだってことの理由は、
全ての根源は霊であるならばそこへ意識を限定することでかえって無限定的な生になるってことでしょう

幻聴とは違うが、目をつぶっていると頭の中から勝手に声が浮かび上がることがある。
それは現実とは違う文脈をもっていて、その文脈の中で声が語る。それが誰の声なのかわからないが
自分もなぜかその文脈を理解している、しかしすぐに忘れてしまう。

人間は臓器として部分に分析できる。この部分も全体の中で調和しているに違いない、
それは地球が大地と空と海とで調和しているごときである。
この人間の部分もある理念の表現であるかもしれない。
人間はある全体的理念の表現であり、その中に部分理念として臓器などがあるのだろう

医学も概念的に理解できるだろうか、すなわち医学哲学は可能だろうか。

首都と地方も普遍と特殊の関係にあるだろう。しかし自由のためには独立させたほうがよいという視点もある。
国をどこまでがそれなのかを考えて、個人を一個の国だとみなしたらどんな世界になるのだろう

やりたいことの原理は経験ではないでしょうか。
私の勉強をやりたくなった理由も、思い出せばある経験に由来していた。
それに自分に向き合えばやりたいことが見つかるという主張があるけど
自分に向き合う方法も経験を土台にしている。まず自分に向き合うのに思考を使うのだが、
その思考の一つ一つの単語は知覚内容を由来にしていて、単語は記憶を由来にしている。
それにやりたいことを見つける、つまりやりたいことを知覚するためには、その知覚内容、すなわち経験が必要なのではないか。

この指とまれは、指に他の指が結びつくことでバラバラな個別が一つの集団となる合図

現実にはない理想をやりたいことにする人も、それを思い浮かべ意識の中に入れる、つまり経験する、そしたら衝動になる

表情に内面が表れる人は心理芸術を無意識に行っているのではないか

医学を概念してみる。
筋肉の硬化が頭痛を生む。軟化させて対処できる。
体内の毒要素への対処はそれに別の形態をまとわせて毒でなくする。
医学に詳しい人はさらに深く概念できるだろう。
食事は無常な物、つまり、他者にも自分にもなれる物を自分にする。排泄は逆に肉体的自分を他者にするのだろう。

切断と結び付けは料理みたいだ。

心臓は凝縮と弛緩の繰り返しであるが、それも個別化と普遍化の繰り返しであり
呼吸は息の肺への吸収と外への放出、つまり吸って大きくなる膨張と吐いて小さくなる収縮の繰り返しであり、それも普遍化と個別化の繰り返しであるということができるだろう。つまり呼吸も概念的だと解釈できる。
だから呼吸は精神的なものが内在しており、これを整えることで霊人になれるのだろう。
血液循環を整えるのもそうであろう。
歩く運動も個別化と普遍化の繰り返しといえるだろう。なぜなら、一歩踏み出すと、体ごと移動させることで、一歩踏み込んだ先、つまり個別化したその地点に体ごと移動させることで、体という普遍者の中に一歩踏み込んだ足という個別性を帰還させるからだ。

暑さと冷たさについてもこれは普遍と個別の関係にあるといえる。
四季も個別化と普遍化という繰り返しの流れなのだろうか。
もしかしたら繰り返しの法則の一つに個別化と普遍化があるのかもしれない。それがどこまで適用できるだろう

筋トレなどは筋肉の硬化運動だと単純に考えるが実際は違うかもしれない。
ともかくそうだとして、それに対する軟化運動が柔軟体操であり
要するに個別性へと向かう運動と、普遍性へと向かう運動である。
だから調和した肉体を作るためには両者をやることだろう。
その一例はヨガができるボクサーなど。
ただこれは肉体作りの一例で、そこに別の要素が掛け合わされるので、それをすれば最強だということもないだろう
これが実際に可能かは知らない。もしかしたら調和した肉体を作ると、どちらかに偏らせた肉体より弱いのもありえる。
そのかわりに美しい肉体ができるかもしれない

肺の膨張と収縮はそこまで重要ではないかも。
それよりも空気の吸収により、空気が肺と結びつくことに意味がある。
肺が自らに散在する空気を結びつける、肺と空気との関係により概念が完成することに
精神的な意味合いがある。
行為は意志が特殊な身体を操作して外界と結びつくことで概念が完成する、
そのようにして、特殊な身体の一部である肺を外界、つまり個別性と結びつけて概念を完成させる。
吐き出したら再び関係は切断されて空気は外界に戻る。だから呼吸による修行法があるだろう。
ほかにも行為による修行があるに違いない
吐き出された空気は植物と結びつく

建築は物質体の法則を空間に投影したものだという。
身体を頭部、胸部、四肢の三つにわけてその法則が投影されたのか、
それとも臓器を一つの部屋だとみなして、建築物の中に居ることは、空間になった臓器
の中に居ることを意味しているのだろうか

唯物論だと個性は有限になる。また一般遺伝子を想定しても人間は遺伝子の一例になってしまうとする。霊を想定すると無限なので無限の個性があり得る。これが霊我とよばれるものかもしれない。これらは神の無限にある一つ一つの思いかもしれない。

普遍的な世界観、真理は一つなら、その思想は自分を超えたもので他者と共有可能だ。このような思想が第四領域にあり、第5領域には無限にある一つ一つの意志や感情に近い動的な思いが霊我としてあるのかもしれない。

アイデンティティは思想にはないってことだ。だから思想に人間は属さない。人間に属しもしないかもしれない。思想は人間の本質にとっては外的なものである。

霊を想定した人格は前世の結果の収束体として生じたもののようである。
唯物論的に、脳に人格の全てがあると考えると一般脳の中の一例としての人格になるはず。
霊を想定した脳は、物質体に過ぎない、それが物質体という一般性の中の一つに過ぎないとしてもである。
霊我が真の個性である、一人ひとりの霊我はそれが一つの一般性になっている。この一般性は他の一般性とは独立したものである。
この霊我が転生の過程で繰り返されるものなので、そこから生じる人生経験の集積として人格を考えると、
人格も個性的なはずである。

たぶん霊我の意志はムーンノードで確認できるだろう。
これは転生を通して共通する意志をもつなら、一つの人生を超越する目的をもった意志だろう。
ただしこの意志衝動はそれを体験した後だんだんと弱まってくるものだ、威力は、その意志に沿った習慣を形成するだけの力をもつ

立体はその概念の中に面と線と辺を含んでいるから、立体はそれらを統一する第一の要素だろう。
素材という下位に属するものは点であり、立体は点の集合である。
立体は面と面が折り重なる地点は辺により統一され、辺と辺が一点に集まる地点では頂点により統一されている。
交わる場所と中心、中間を統一と見るべきだろう。だから中庸も統一なのである。

地理では中心となる場所を決めて、たとえばそれが山脈であるなら、山脈より北側に住む人々、あるいは西側南側東側
という具合である。どの方角に注目してみてもそれら全てに共通する要素、たとえば山脈がそれら地域を貫いている場合など。

永遠に生き残るものは本質的な生き方をしたものと言い換えられる。
それは天国の法則に従った生き方をしたものと言い換えられる。
なぜなら、天国こそ、永遠にうまくやっていける法則で満ちているだろうからだ。
だから地上でも天国の法則を応用すれば永遠に繁栄できるのではないだろうか。

この本質的な生き方とはキリストのような生き方で、非本質的な地上的な生き方が蔓延る世界で
本質的な、霊的な生き方ができた人は強い人だろうが、強くて弱くもあると思う。
キリストのような自己犠牲が弱いからできることなら、弱いほうがいい場合もあるのかもしれない。
弱いほうがいい場合もあるし強いほうがいい場合もある、楽しいほうがいい場合もあるし楽しくないほうがいい場合もある

清くあることに固執して他人を汚すならもともこもないだろう。
もしかしたら大事に至ったら自分を汚してまでやらなければならないことがあるのかもしれない。
それで戦争に参加する国になったとして、それでどうなるのだろう。
これを肯定した社会ではさらに武器を生産する国になって
そして破壊や殺人で食べていく国になるとして、これは国や国民を汚してでもやるべきことなのだろうか。
これは健全な利己主義だろうか。
わからないが、いろいろな面を考えて遠い未来はこれによりどうなるのか、それはあるべき未来なのかまで思考できたらよいのだが。
日本が戦争に関与することで世界全体と日本自体、また人類を構成する命たちは未来にどうなるのか、それは望ましいのか。
政治家は自分の国の理念を形成するだけでなく世界全体がどうあるべきかの理念まで形成すべきかもしれない。
政治的決断が未来に何を形成するのかまで思考できたらよいのに。
カルマを考慮すると、破壊で食べると未来の国は破壊を引き寄せることになる。


美の要素をおおまかに二つに大別できるとする。
カッコいいタイプの美とかわいいタイプの美だ。
カッコいいは、男性的で、かわいいは女性的だ。
男性は直線的で女性は曲線的でもある。
ところで男は固い体をもち女は柔らかな体をもつ。
そして男は個別性であり女性は集団性、普遍性だともいえるだろう。
従って、美の要素には男性的なものと女性的なものがあるのではないか。
かわいいが普遍性でありカッコいいが個別性であるからかわいいものを硬化させたらカッコいいものになるのかもしれない。
それは真行草において、草を真で表現しなおすがごときである。

音楽は自我の法則だが、音楽の中に楽器として土水風火の要素があるように、一つの法則の中にも一つの世界観がある。
だからそれぞれの美の中にもさらに男性的なもの、女性的なもの、とわかれていくのだろうか。
だがこれは人間の美の要素ではあっても自然の美の要素ではないのだろうか

空海の真言宗の大日如来は真理を人間で表現したものだとか。
だから全ては真理の如来の現れなのだ。
マンダラはつまり空海による真理の体系化なのであろう。
身と言葉と心にこの真理の形式を刻み込む修行をすることで、やがて真理のための神殿が完成するという理論だろう。
真理の如来が人間になったらすることを人間が真似ることで、真理の形式を自らにあたえ、それを真理にぴったりの器に
することで真理を自分に流し込めるようにするというイメージである。
キリストを真似ることで愛の神の化身になることもできるのだろう。
俳優は大日如来やキリストを研究し、神を演じることができるようになるのが一つの理想かもしれない。
その場合もはや演じるのではなく、成っている。そして真理はその中に多様な個性を含んでいるので、
理論的にはあらゆる個性を演じるというかそれに成ることができるようになる。だから俳優技術の完成でもあるだろう。
大日如来、つまり真理とは私自身でもあるが、他者でもあるものだろう。だから修行は自分を完全に表現するために
自分を器にすることだろう

表現とは個性であり無限の根源から無限に表現が可能なのだろう。
無限の根源としての真理は一つだが、個別性の数も無限なのであろう。
それらが共通のものをまとって地上に生きている。違っていても同じ真理が背後にあるから
通じ合えることも可能になるのかもしれない。

ある実践を行えばあらゆる実践をしたことになるという実践は普遍的実践といえるだろう。
それの一例として身口意を大日如来を表すものにすること。
要するに即身仏になる修行はそれだけであらゆる行いをやっていることになるのだろう。

何もわざわざ芸術作品を制作しなくとも、普段の行いが自分の内面の表現だとしたら、それも
一種の芸術ではないだろうか。無関心な人は何もしない、関わらないことだけでそれを世界に作用させている。
何もしないのも行為の一つである。

宇宙の中では全ては互いに切り離されているように見えるが、実は宇宙生命の中に全ては組み込まれているという。
だから個人の生命にあるものが宇宙生命に作用し、それが他の個人にまで作用するだろう。
なので聖人は居るだけで宇宙のためになる。
芸術作品はそれがあるだけで宇宙生命に作用し、結果、全てに作用することになるのかもしれない。

過去と未来は今の中にあるという。つまり今が過去と未来を統一する。
今というのはたぶん無限の大きさをもっている。この今が過去を生成し、この生成がやがて未来にまで「成長する」、
この過去と未来に区切りをつけることができるなら、過去という衣服を脱ぎ捨て、未来を着ると表現できる。
過去も未来もどちらも同じ今という核をもつ

無限の今という時間の中に個別の存在たちは満たされているが、この存在が感じる時間はその存在に特有のものかもしれない。つまり時間が存在を満たすことで、時間が特殊な時間となる。
だから一つ一つの存在たちの時間の流れは違うように感じられるかもしれない。永遠の今があり、それは内部で生成するものだが、それが存在の中に入ることで、永遠の今が特殊な外装をもち、つまり個性的な今の中で時間を生成するようになるのではないか

空間は線や曲線の果実を産み落とす大樹というアイデア

エーテル体は地上では個々の存在に分配されているが、
天国ではそれらが結び合わされて一つの全体のいわば大洋を形成しているという。
要するに天国では思考的生命存在たちが一つの体系を形成している。
そして植物を見てみると、一つの体系であるように見える。
たとえば統一の構造を円で表現することもできるが、「ツリー」で表現することもできる。
植物は自らの内部で分枝を形成している、これが一個の体系であるように見える。
杉の一つ一つは同じ種類のものであるが、それぞれの育ち方には個性がある。
これが思想の多様性のヒントだろうか。

シュタイナーの時代の区分をさらに区分することができるかもしれない。
精神に向かう時代と、物質に向かう時代の中間に霊的物質に向かう時代がある。

これまでの個人的生活では物質文明を享受してきたので、こんどは
霊的物質文明を享受し、最後に精神的文明になるのだろうか。

シュタイナーの思想はとっくに古いものかもしれないが、人智学を応用し尽くしたわけではない。
たぶんアリストテレスの思想さえ、応用し尽くしたわけではないだろう。
可能態、現実態の思想を歴史記述に応用できたりする。 
何かの時代が来るということはそれは私も含む大衆がその思想に基づく生活を享受できるようになるってことではないだろうか。思想だけで考えるとシュタイナーは古いかもしれないがそれよりもすでに物質文明が先にあるので、それが古いもの
になるのではないだろうか。西洋近代の思想界では精神が重視されていても、大衆レベルでは物質文明がメインだろう。
だから今は物質の時代である。悟性に浸透された精神の時代はまだ来てない。
思想界の発展は普遍、つまり精神から霊的物質、次に物質へと、普遍から個別へ向かい、生活の発展は逆に個別から普遍へと発展していくのかもしれない

人間という概念や植物という概念、また愛や神という概念がある。この概念とは自然に内在する精神という意味である。
そしてこれらの概念を統一する概念がある。それは言葉である。
もちろん人間の使用する言葉は低いものである。霊的認識ができるようになれば見えないものも見えるものになる。
見えないものが実は見えるものであるということからも、見えないものにさえ概念を観ることができるのがわかる。
言葉としての神はこの見えないものにまで内在する意味での言葉であろう。
そして言葉は思考と言い換えることができるだろう。天国は思考存在の生きる場所だという。
地上にある概念は言葉の神の現れなのかもしれない。

氏名も概念的かもしれない。
集合名としての苗字に個別名としての名前

海は表情がある。荒波は怒り、不安、力強さなどを感じる。
それに対してなんの波も立たっていない海は明鏡止水、つまり心の平安を表現できるのかもしれない。
荒波という形だけで三つの意味を含んでいるとして、それをさらに個別化する方法は、
赤色混じりの荒波は怒り、青や紫などの色で表現された荒波は不安、黄金混じりの荒波は力強さなどとして
形をさらに色で個別化したらいいのかもしれない。
つまり自然の形に複数の意味が潜在しているものとみなし、それに形容詞を付け加えることで意味を限定していく。
形容詞に副詞を加えることでさらに限定できる。形容詞は一つではなく、形容詞の類も色彩のみではない、副詞にもいろいろある、そしてそれらを一つの象徴として意味が潜在しているものとして、その意味の潜在した表象を組み合わせていろいろな自然による心理描写ができるようになるのではないかという理論

真の自然科学を形成するには精神に目覚めた聴覚的思考者が必要かもしれない。

シュタイナーは自然に精神を見るならば自然にリズム、律動を発見するというようなことを言った。

植物でたとえるなら種からある一定の間隔で部分が形成されていくってことかもしれない、それを音楽でたとえることができること思う。

これを時間的概念で表現すると植物が種を一定の間隔で成長させ、一定の間隔で次の成長段階へ、またその合間にも一定の間隔で部分が形成されていくってことかもしれない。

もしかしたら時間的概念や空間的概念から、さらにリズムや律動的なものを見いだしていけばシュタイナーの言う真の自然科学に近付いていくかもしれない。

これは数学や自然科学ができる人なら最も深く考えていけるのだろう

要するに空間的概念、時間的概念の中の要素どうしの調和の法則があるのかもしれない。

白人のこの時代の任務に、精神を肉に浸透させるがある。精神的な生活に、精神的な行為ならいくつか東洋にもある。仏の行為。精神的な行為は合掌や、親指を人差し指に結びつける行為だ。これらがなぜ精神的な意味のある行為か説明はできないが精神的だろう。また洗うことや元に戻す行為、清潔は天国への浄化を意味すると考えられる。両足が暇なら結びつけて輪にするのも精神的行為だと思う。また霊魂体に対応する生活を考えられる。学問、思想を学ぶことや思索、芸術鑑賞、制作、食事、排泄である。これらは吸収と放出。家具を調和的に配置したり

人生で何度か不思議な経験がある。これが律動的自然科学の一例かもしれない。概念的認識とは関係ないかもしれない。

ある位置で音が鳴ると、つられるように別の位置で音が鳴るのだ。家の外でポンと鳴ると、家の中でもポンと鳴ったりなど。

これを利用して技術になるのだろうか

人生で何度か不思議な経験がある。これが律動的自然科学の一例かもしれない。概念的認識とは関係ないかもしれない。

ある位置で音が鳴ると、つられるように別の位置で音が鳴るのだ。家の外でポンと鳴ると、家の中でもポンと鳴ったりなど。

これを利用して技術になるのだろうか

個々のものは概念であり、概念全てを統一する概念は言葉、もしくは思考である。
全ての基盤は言葉である。
だから広い意味で全ては自分、つまり究極の本源である父なるものである。
他者は自分であり自分は他者である。
なので本当の利他主義と本当の利己主義は一致するはずである。
自分を愛せるなら他者を愛せるはずであり、
他者を愛せるなら自分をも愛せるのだ。

音楽の曲は一つの箱の中にある拍子で音符が配列され箱がいくつも配列されて一つの曲となっている。

全く理論的な空想かもしれないが、成長についても曲と同様なことが言えるのではないだろうか。音楽は時間的統一なのでそれが別の時間的統一と類比できたりするのではないか。
つまり成長とは視覚的な音楽ではないだろうか。

自我は対象と一定の時間だけ関わる。その一定の時間が別の対象へと変わるとまた一定の時間関わる。こうして時間が配列されていく。
その対象を広く取ることができる。例えば緑豊かな田園のある村とする。その田園という領域の中に特有の対象と関わる時間がある。これにより田園という曲ができたのではないか

シュタイナーによれば同族結婚により霊性を維持していたが、異族結婚で論理的思考が発達したという。もし人類を次のステップに移行させるなら、国際結婚かもしれない。それぞれの民族が一つになるのだ。赤黒白黄の全ての民族体質を備えた一つの民族である。これは統一的なので論理的思考に、さらに霊性が蘇ってくるかもしれない。

植物は全宇宙から生じたものを摂取し、人間も食物だけでなく全宇宙を全身で摂取しているとか。植物は天に向かってある種の根を伸ばしているのかもしれない。
そして人間も全身が根であるのだろう。

小説だけでなく、歌も視覚的なイメージを形成して楽しむことができる。聴覚的、時間的楽しみ方はたぶん、小説や歌、音楽の時間的関係を把握することかもしれない。

シュタイナーによると賢者の石とは炭素のことだという。炭素は様々な鉱物に変容可能な普遍的な石なのだろう。

一般遺伝子があるかもしれないように
一般細胞があるかもしれない。
それがips細胞だとすれば、科学も霊的になってきているのかもしれない。

概念的思考をミクロな世界や素粒子に適用できるだろうか。

密教に五重塔がある。
五重塔は図形に意味を与えている。
シュタイナー流なら地水風火となるが
密教の五大は地水火風空である。
地は四角形、水は円、火は三角形
これに人間の構成要素を対応付けられるか

水は一つ一つ違っているが重力に指揮されて
統制の取れた流れをし、それにより無限に伸びる帯のように見える。そのような水の流れが石により邪魔されると二つに裂けて伸びる。二つに裂けたときに、水が柔らかい階段のような流れになったのを見て、この流れの精妙さが美しいのかもしれないと考えた。これは無表情ではなく、水の表情だから美しいのかもしれない。 これは水の中に見る自然の繊細な性格を表現しているのかもしれない。水のような柔肌からこぼれでた表情である。
何か変化のある風景の美しさは、それが表情だからかも。しかし水ではなくタオルの場合、一般にはぐちゃぐちゃなタオルよりは皺一つない無表情なタオルのほうが清潔で美しいとされているが。また、無表情と表情は概念的な関係にある。

主語と述語の関係はどうだろうか。

物が落ちるという場合、物は自分の力で落ちたのではないから、述語に主語が含まれる
しかし私は走るという場合は、主語に述語が含まれるとする。
物が落ちるは、力が物を落とすと言い換えられる。この場合は、力が主語であり、
その中に物という目的語が含まれているのではないだろうか。
つまり、能動者が包摂者となっている。
能動者が主語になっている場合は主語は述語を含むが、
受動者が主語になっている場合は受動者に先行する能動者の作用が述語になっていて、
従って述語が主語を含む。
能動者、受動者言い換えると原因と、その過程と結果が概念的関係にあり、文はそれと一致するのかもしれない

思考とは内なる自然なのである。

具体的なものの一つである自然を観察解釈することはできたわけだが、
具体的なことが政治経済社会や法律となるとうまく考えられないのでお手上げである。

一般人まで殺してしまうような米軍の味方につくと、日本もそれに加担してしまうかもしれない、
では、この一般人の血で血塗られた米軍に守ってもらう条約を破棄すべきなのだろうか。
領土問題で、領土侵犯してくる国を攻撃したら戦争になってしまうかもしれない、
戦争になるよりは領土を渡したほうがよいのだろうか、自衛隊だけで守れるだろうか。
平和を選び条約を破棄し領土を渡すなどしたら次々と要求を呑むように脅されてしまうかもしれない。
仏の態度を国はとるべきなのだろうか・・・

これらを考える上でのポイントは問題の本質や組織の目的を見抜くことにあるかもしれない。


暗殺されたアメリカのケネディ大統領は思いやりのある無欲な国を目指していたそうだが・・・

時代でどんな主義がふさわしいかを考えると、 シュタイナーは国際主義としている。
国際主義は民族に凝り固まらないで全ての民族を包むイメージ。たぶん国民の利益だけでなく、他国の利益も考えるだろう。利己主義は力の方向を自分に向ける、全ての人々が自分に向けると、全ては分離する。利他主義は力の方向を周囲に向ける。だから他者と結びつく。周りの国も利他主義だと相互に結びつく。これが支配者なき統一かもしれない。

みんなが幸せなら自分も幸せという言葉がある。
かつて自分の富は人間だというアイデアが浮かんだ。つまり幸福な人間が増えるほど自分も満足するという考えの誤解を生みやすい表現である。これは自分を富ませるよりも世界に何かを与えて世界を富ませることで自分も富むって考えである。自分の関わる世界が幸福な世界であれば自分もそこで幸福を得られるだろう。ところが、自分だけ幸福で世界が不幸なら不幸な世界を知覚することで不幸が自分に入り込むから、真の幸福ではないという考え

ある時は幸福でも、何かあれば不幸になるような状況は真の幸福とは言えない。
真の幸福とは何があっても岩のように揺るがない確かな境地を得ることだろう。
だから真の幸福とは真理を体得することだろう。

なぜ誤解を生むような発言をしたかといえば、
物欲の観点からいいたかったからかも。
自分が肉で満たされることにも満足できなくなり、他者や自分の関わる世界が肉で満たされることからも満足を得る方向に向かうのである。
これが物欲の進化かもしれない。

シュタイナーは恐怖の素質を改造したら黒魔術になるとどこかのサイトにあった。
幻聴状態に陥って精神的な危機に陥ったときに見られた外界の機械や建物の「故障、崩壊」は
それに陥った者の恐怖が黒魔術に変化して外界への作用力になったのだろうか。
アーリマンは人間を恐怖に陥れて黒魔術を引き起こさせて世界に悪い影響を与えようとするのかもしれない。

恐怖だけでなくそれ以外の悲しみなどの強い感情も魔術になると思う。
その自分の強い感情が自分の姿をしたエレメンタルの物質化を引き起こしたと解釈できる現象がある。

アデプトは修行によって魔術師になるという

自分のことになるが
日々何をしているかといえば、体を動かそうとせず頭で日常生活とはあまり関係のない言葉をめぐらそうとしようとする人が自分だろう。つまり自分にとっての必然性とは体を使った活動ではなく言葉を使った活動であるから
教員などの仕事と自分の傾向は一致するとみる。やらざるをえないことは思考である。これが自分の意志の必然性かもしれない。
教壇で思考内容を形成する仕事が向いてることになる。
でも記憶は聴覚ではなく視覚の傾向にあるので、イメージを使いやすい科目なら自分の専門にできるかもしれない。
聞き手にわかるように話す技術という課題も生じてくる

英語は五つの文型がある。つまりあらゆる宇宙現象は五つの型の組み合わせである。
また五つの文型は文の「本質」であるとしたら、それを飾るものとして修飾語があるだろう。
この五文型をプログラミングで表現できるとしたら、五つの基本型と修飾語で全てを表現できるようなものになる。
品詞に続く概念的な文法理解である

ティエムさん、アリスベイリーの本に テレパシーとエーテル体 があるようです。

彼によれば既にマイトレーヤは地上で活動していて、テレビにも出ているらしい

記事でも述べているとおり、テレパシーそのものは、いわば「当たり前」のことで大して重要なことでもなく、あまりそれに拘る必要はないと思います。問題は、そのようなものを受けたときにそれをどのように判断するか、またどのように対処するかだと思います。

母音と子音の組み合わせについては
母音が音声の基盤、中心になると考えると、母音は普遍、子音は個別だろう。
つまり文字の一つ一つが概念であるとみなすことができる。
文字の一つ一つに、意味が隠されているかもしれない。

古代の文字にカタカムナ文字というのがあり、
それはクンルンネイゴンというのをマスターしたkanさんという仙人みたいな
人が教えを受けているらしい

日本の神話は日本神話だけでなくホツマ文献というのがあるらしい

半田氏がヌーソロジーという理論を現在形成しつつあるらしい。

文字は母音と子音で構成されている 普遍と個別
単語は意味の核つまり普遍とそれの変容した派生的意味がある。
また単語どうしの関係にも普遍と個別が見出せる。たとえば動く、歩く、走るのうち、歩くと走るの内容の中には動くがある。
品詞 名詞は対象の同一性で形容詞は名詞の差異性 副詞は名詞以外の差異性
たとえば形容詞の白いという言葉を修飾する副詞は、白いものと別の白いものとの程度さを表す
かなり白い餅 ちょっと白い餅
動詞は、主語としての名詞が能動者の場合、名詞の中に動詞が含まれて名詞が普遍、動詞が個別となる。
しかし主語としての名詞が受動者の場合、動詞が普遍で名詞が個別となる。
また別の面では、主語と述語、目的語、補語などの型が英語では五つある。
それは形式的普遍であり、たとえばhe runs とshe runsはどちらも第一文型という意味では同じものであるが
違う文である。だから型が普遍で、具体的な文が個別の関係にある。
さらにこの具体的な文も、he runs very fast, he runs very slowlyと、差異性が表れる。
これは修飾語として基本の文型に対する飾りであり要するに核(普遍)となる文の差異性を表現できる

工学は役に立つ学問だ。
機械は動き働く。役に立つ知識とは動きのある知識かもしれない。あるいは作用の結果がわかる。
たとえば霊的な知識は来世で統合された肉体を生むというというのは
霊的な知識の働きとその結果を明らかにした知恵だ。
こうすればこうなるというのが明らかになっている。
学校の勉強の中にも探せば役に立つ知識が眠っているかもしれない。
それを見出すためには対象の動きとその結果に意識の照明をあてたらよいと思う。
原因と結果を過程の動きまで把握すること。
その動きを蓄えておき、別の場面で模倣できるかもしれないのだ。
もしかしたらこの動きをプログラミングで表現しなおしたりできるかもしれないし
動的なものをつくる創造性が高まると思う。
そして原因と結果も概念的ではあるが、具体的な原因と結果は観察から得られるだろう。
そして原因と結果以外にも役に立つ知識の形式はあるかもしれない


自分は賢いかどうかはさておき、毎日のように非日常的な思考を形成していることがわかった。また、それを表現していることもわかった。表現については、思考内容を教えるためでも社会利益のためでもないこともわかった。この二つが自分の意志衝動なのだろう。だから自分が自由になるためには表現手段を増やしたり表現力をつけていくことだ。真に自由になるとしたら表現活動で稼がなければならないが、それほどの実力はなく趣味の方向性が決まった次第である。

自分観察は自分が毎日のようにしていることを見いだす。 行動の理由の探求は自分の例で言えば社会利益のために思考内容を教えるなら、誰にでもわかるような表現にするだろうが、そうではないからである。だから、自分のやり方で表現しているとみなした。

優しさと厳しさはともに普遍的な原理ではない。どんなときにも適用してはならない原理である。
やさしさはある場面では甘さにつながり
厳しさはある面では冷酷さ非常さ攻撃性につながると思う。
やさしさは柔和と言い換えられる、もしかしたら厳しさは一種の硬さであり
やさしさと厳しさも普遍と個別の関係にあるのかもしれない。

やさしさと厳しさ両方を兼ね備えるべきだろう。一方だけではともに特殊人である。
やさしさと厳しさを兼ね備えた人の例としてキリストがあげられる。彼は人類のために命を捨てる決意をした。
これはやさしさを厳しさに変えたってことだろう。 やさしさと厳しさを兼ね備えないと愛は完成しないだろう。
私は自分のいろいろな不完全性を認め、特殊人であり、せめてもの美徳は寛容であることだが、
それでも自分の思いどうりにいかなければいらっとしてしまうことがあり、完全な寛容さをもっているわけでもないのである。

 

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

が、 第十三条  全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

に変えるのを目指しているらしい。

個人と人の違いは、全ての人は人であるという風に、人は一般性であり類であると考えられる。
それに対して個人とは人の中の具体的な違いまで考慮に入れられている。
どちらが具体的な語彙かと言えば、「個人」であり、人を人という類に見るということは、人間の違いを無視して
均一化、画一化してみている、要は国民を兵士や道具と見るのと同じような観点から見ているのである。
だからこの点を見ると退化法案のように思える。 

安部政権は全体性を重視していると思っている。それはよいことかもしれない。
だから個人を人にしたのだろう。しかし実際は人は個人を含んでない。
人とは抽象的普遍であり、人間の類を含む言葉である。というか類しか表現してないことばが人である。
真の全体性とは特殊や個別性を含む全体性である。だから個性や様々な差異をも含む「個人」という言葉のままで
よい。個人とは人という言葉に差異性としての個を付け加えた真の全体性をもつ言葉である。

人類や人という類的な言葉の中には個性が含まれて居ない。個性を含むように類から個へと発展、展開させた
真の全体性をもつ言葉が個人である。
イメージするなら、人という大きな円があり、人という言葉はこの円しか表していないが、個人は円の中にあるより小さな円まで表現しているのである。人という言葉を使うなら、人の類しか見ないとなる。つまり全体性は抽象化すればよいというわけでなく、個別性まで表現した言葉こそが真の全体性なのである。人という言葉に解釈しなおすとは全ての人の個性、すなわち精神や自我を度外視して、物質体しか見ないという姿勢とも取れてしまう。これが日本の精神的文明の荒廃のきっかけになるかもしれない

人智学は霊的認識を言葉で言い尽くせないから芸術を付け加える。
しかもこの霊的認識は外界よりもっと内側の認識だから外界からは見出せない。

概念的認識は抽象的な霊性であり、物質界がすでにそれを精妙な形で表現しているので
わざわざ表現する必要は無い。概念的世界は芸術作品で表現されてないかもしれないけど

人間の人生は来世の形を変えた繰り返しが見られるという。

例えばマルクスは前世で土地を奪われ、権力者嫌いになりそれをした者について悪態をついていたという。その悪態がへーゲルの形式をまとったのが彼の作品だという。

同じように私の人生では普遍性を求めそれを表現していくという形の本質が別の形をまとい繰り返したのかもしれない。前世ではへーゲルの時代ではないから、それとは別形式で普遍性を表現していたのだろうか。
個人の霊は一般的だからやがて個人学ができるかもしれない。

シュタイナーはこの時代は意識魂の時代であり、霊我まで進化できるという。
霊我はアストラル体の変容であり、アグニヨガでは芸術を強調している。芸術により霊我に目覚めるのか。また霊我の法則の芸術は詩である。

シュタイナーによると時代は忘れたが、初期の人間は星から生まれたという。現在の地球は死んでいるが
初期の地球は生きていて、その地球の一部が硬化して人間が生まれたという。その名残がへそのおだという。
まさに母なる大地、地母神なのである。概念的な生成であると感じる。地球の特殊化したものが人間であるってことだ。

雲は空の言葉

言葉は句や節という形で一塊の意味を形成する。そのように風の一吹きさえもある意味を持っているのかもしれない。
その意味の区別は具体的には旗がゆれる瞬間瞬間の差異が、風の流れの差異であり、意味に違いを生じさせる。
矢印で表現できるかもしれない。矢印や自然から意味を読み取れるとしたら、自然は語るのかもしれない

理念と意味の意味の違いがわからない
力とは純粋な意味なのかもしれない。
ほとんど無意味、もしかしたら霊的には神意があるのかもしれないけど
それでも力とは、意味なのかもしれない。

矢印で表される力は言葉あるいは芸術であり、それの背後に意味があるってことか
全てに意味があるという主張の具体例

全ては言葉であるから芸術ができるのも、表現したい意味、理念を、自然を言葉にして表現できるからかもしれない。
全ては言葉かもしれないが、では文字を見出せるだろうか。たとえばろうそくの火をイメージする。
そのろうそくの火は瞬間瞬間、違った風にゆらめいている。この瞬間瞬間の火の動きを文字とみなすと
次の瞬間の火の動きと結びついてある意味を形成している、とみなせるように火の瞬間瞬間の動きの組み合わせに
ある意味を与えることができるのかもしれない。こうして火の言語ができあがる。
その表現力が思考における言葉ほど豊かではないかもしれない。だから別の自然素材を使って文字を作る。
こうして地水風火の文字を作ることができるかもしれない。

思考における文字はそれぞれが分離されているが
自然における文字は互いに連続している。
人工物の扇風機に文字を見出すなら、首を右から左へと時間の中でまわすとしよう。
そのとき、右という文字から左という文字にうつる一種の単語を形成する過程にいくつもの文字が連続している

指でペンをはじく。指の動きとペンの動きはそれぞれが文字であり、ある単語あるいは文を形成する。一つの矢印を一つの文字とみなす。矢印の観点から見ると車の動きは文字の連続形成である。一つの車としてみると一瞬一瞬の動きを形成する、まるでろうそくの炎が文を形成するとみなすのと同じ意味で文だとみなせるかも。車はろうそくと違って固定されてないから解釈が難しくなる。

思考は空間のような気もするが、思考する時は始めの単語の次に別の単語を形成する、文字を形成して、それを過去にしまい込み、今に形成された文字と結びつけるというように時間的側面がある。思考の場合はこれら文字が時間の中で輪郭付けられるような時間的統一がなされる。つまり、思考は時間的に円を形成する。
単なる順番が上から結びつけられるのだ。
これに対して音楽や力は思考ほどには輪郭付けが明確ではなくそれは連続した相互に溶けた文字、形成されつつある意味なのだろう。その形成が、一旦終わった時にようやく区切りがつくが、始まりから終わりの過程の文字は明確には区切れないのかもしれない。もしかしたらシュタイナーが開かれた点線で図を描くように概念的認識もそうすれば良いのかもしれない。

力は矢印で表現でき、この矢印も概念的に解釈することができる。例えば電力が風力に変化するとき、それらの全過程を矢印で表現する。電力を青色で、風力を緑色で、矢印の中を色わけし、さらにそれらを貫くように白色の矢印を塗る。こうしていわば空間的には一本の糸を彩るビーズのようなものが完成する。この糸が色をまとったのだ。時間的にはその矢印は開かれている。音楽の場合はどう考えたらよいのだろう

意味と意味が結びつけられて一つの意味になる、力の方向と力の方向が結びつけられて一つの力になる、ここに類比があると思う。

音楽の文字はドレミ これにクレシェンドなどの奏で方という副詞などがある。

二年ほど前、寝ている時に下腹部が触られている感覚があった。
それで目を開くと茶色の言葉では言い尽くし難い顔が浮かび上がってきた。それは人間の顔ではなかった。
番組を見て思いだした。

全体を見る場合、全てがありのままで現れているが、一部分しか見ない場合、別の部分が否定されてしまっている。これは別の部分も全体を構成しているにも関わらず、その部分だけ押さえつけられ、つまり束縛して認識している。

だから全体を認識することは自由の理念の理想なのかもしれない。

詳しくは、人智学の生徒ってブログの第五文化期の時代をにあるが、この時代には感覚界から霊を見いだし、霊的な体験をすることが必要だという。感覚界から霊を見いだす流れは、概念的思考や、ヌーソロジーの流れであり、霊的な体験をするという流れは、アグニヨガの主張する芸術による火的な感動の道だと思う。つまり概念的思考、ヌーソロジーの道とアグニヨガの道、二つの道を経験する必要があるのではないか。精神的内容に、知性と感情を浸透させるのだ。このことを考えた次の日、なんとシュタイナーが夢に出てきた

四角形の中は白紙であり四角形を様々な模様で飾りつけることができる。テーブルを白紙だとするとテーブルに料理を描くことができる。
空間も白紙のようなものであり、物質は空間の中に描かれていると表現できるかもしれない。私がある場所に移動すると、その場所は私で彩られる。

思考は時間の中で始めの単語を形成して次の単語を並べる。それらが時間の中で一つの意味として結ばれる。

精神現象学は詳しく知らないが、もしかしたら、ある時点で、ある存在単位の活動がなされる。
次に別の存在単位が現れて時間的に前後関係があるように並ぶ、次の時点でそれらが統一されて新たな存在単位が
生じるというイメージだろうか。
やがて時間を超えた無時間な精神にたどり着く、その精神にたどりつくのは
生まれてから後、あるいは歴史の最後のほうだが、その精神は始まりでもあるので、アルファでありオメガであるようになるのだろうか。
精神現象学を時間的統一の観点から読むことができたりして。なぜならヘーゲルは弁証法を説明する際に
植物の「成長」を例に挙げているからである。そしてヘーゲルは時間を純粋な概念だといっている。
もしかしたら時間というのは、ある時点の次に次の時点が形成され、それら二つは「今」により結び付けられていて
次の瞬間も今に結び付けられる。今という点があり、それがそれより下位の無数の点と結び付けられる。
瞬間、瞬間が連続しているのは「今」の中にあることにより、瞬間と瞬間が連続しているからという考え。
コップをもち、中の液体を飲むというプロセスは同じ時間が「変形」したものなのかもしれない。

全ては一つであるのは、宇宙エーテルで結ばれているかららしいが、エーテルというのは時間体の側面をもつ

始まりがある意味普遍性であり、その始まりの形が時間がたつにつれて変化して現在に至る。
たとえば原始人の家という始原から、現代の家にまで至る。

時間を超えた意識になると、その意識の力を使って主観的時間を未来や過去に変形させることでタイムスリップ
できるのかもしれない

マンダラから時間の発想を得た。
四角形のなかに四角形を描く。 
それは奥行きを表現している。
これが時間を空間的に表現したものだろうか。  
ここから概念を見いだせるのか

聖書に、もし言葉で過ちを犯さないなら自分で全身を制御できる完全な人です
という言葉がある。

発話器官は全身と対応するのかもしれない。
オイリュトミーは見える言葉らしい 神の発話による創造は全身運動的なオイリュトミーによる創造ともいえるという内容があった

火的世界では思考が肉体の行為と同じ意味をもつようになるのかもしれない


神が不道徳なら最悪の存在に反転する
逆に強い悪の力をもつものは強い善に反転でき、逆も言えるかもしれない。

種の起源から得たことは二つの共通の性質をもつ鳩の中の相互に別種な鳩どうしを交配させて
両者とは別種が生まれさせることができたということ。この生まれたほうから両者が派生したと考えるそうだ。
これはある性質をもつ概念的なものの中にこれらの種が存在していたということだろうか。
自然の対象の中に内在する美を見出すことが芸術家にはできるらしい。
芸術家の目線である種族をみたら、その種族の概念的なものを見出し、種族の派生を見出すだけではなく
種族の中に内在する美を見て、それを顕現させることができるのかもしれない。

鉱物の中に人間の美しい形態が潜在しているように、対象の中に潜む美を見出すことができるのだろうか。
量を基盤にしてそれを様々な形に変化させることができ質を基盤にしてもそれができる。
同量の限界のなかで円にしたり三角にしたりでき、木材を箸やスプーンにすることができるように。
同量、同質ではあってもその表現形態が異なることで、そこに同量だから別の同量のものと同じであるとは
いえないような質が生じてくると思う。この質から美を見出すのかもしれない。


ヘーゲルによると空間と時間の統一が場所だという そこから弁証法により物質などが生じてくるらしい

文法カテゴリー
たとえば 見えた、食べたに共通するのは過去形であること、
そして見える、食べるに共通するのは非過去であること そして過去形と非過去に共通するのは時制であること。

日常の統語論的解釈。
電車が歩くは文としておかしいが、電車が走るはおかしくはないという風にして、文の中のある位置にある語を
別の語に交換してみて、文が成立するかどうかを確かめるという面が統語論にはある。
これを日常に応用すると、たとえば畑の周囲に木を植えるか植えないかの違いが、強風を抑えることができるか
できないかの違いになり、人がある場所に居るときと別の場所に居るときの行動の差異とか
ある発言をしてみて、それを聞くことでその発言と関係する他者を別の他者と交換してみたり、発言自体を別の発言と
交換してみたりする。 またある家具を購入する際に、色を黒にするか白にするかを考察するとき、それを配置する
予定の場所に黒い場合をイメージするか、それを白い場合に交換してみて、視覚効果を考えてみたり

大きな大樹になれたのは、それが無用のものであり、切り取られなかったからという。しかし無用な樹木が大木になった暁には、人びとはそこで憩うのである。つまり切り取らなくても成長させることで役立つようになるのである。
社会の外部的な養成にあわせず、即効性はないが個人独自の成長をして長い時間をかけて役立つようになるのだろうか。これは文系学問にいえることかもしれない。文系学部の廃止は、大木を切り取ることかもしれない。それは未来の利益を損なわせているかもしれない。仕事をしつつ何か無用な趣味や無用な自分に由来する何かをもち、熟成を待てばよいのかもしれない。

人智学では人間の死後、肉体を脱ぎ捨てた後に、
エーテル体が肉体から自由になり、これまでの記憶の画像が流れていくという。

視覚は奥行き感のある面を捉えて、その面の領域の中の視覚の焦点を少しずらしても、
その面の領域と重なる場合は、感覚としては時間が変わったようには思われない。
視覚は一瞬のうちに面として内容を捉えている。この面を目線を変えて別の面に変えるとき、面が重なる。
一瞬の面的内容が次のそれへと変わるとき、記憶はどうなっているのだろうか。
カメラのフィルムや絵巻のようになっているのだろうか。右から左へと見回したとき、記憶の中では右の画面と左の画面が
結び付けられているのだろうか。

今の点のような瞬間は、奥行きと幅をもつが、それが記憶されるときも、そのようなものとして記憶されていて
面のような絵巻とは違った奥行きのある内容が別の瞬間と結び付けられているのかもしれない

目線がある奥のほうを見つめている。自分が進んでみても、まだ奥のほうは視覚に含まれている。
これは奥行きの中に主体が参加したのだろう。当たり前かもしれない。
イメージとしてはある地点からはなれている別の地点へと移動してそこにたどり着いたと考える。
ある地点から別の地点へ入ったとき、その奥行きは主体から始まっているというか。

水面に天が反射するというのは、自然による地と天の統一と見られる。
これが現実芸術の一例かもしれない。自然の中に詩的瞬間を見出すということは
現実芸術を見出すことなのかもしれない。詩や俳句の技法の中には何が現実芸術なのかのヒントが隠されているかもしれない。それは自然に見出された詩句である。もしかすると詩人にとっては現実は句の集まりであり、自我も詩句の一つなのかもしれない。 現実を要素の集まりと捉えるのではなく、句の集まりだと考えると詩的地平が開けたりして

この発想は詩人、吉田一穂から得たもの。ちなみに私は俳句も彼の作品も理解できない。
とくに心情理解ができない。俳句は心を物にしたものらしいが、まったく私は読み取ることができない。

吉田によると俳句は歌を絵にしたものでもあるという。

同じ過ちを繰り返さないためには注意内容を記憶して、
前回間違えた場面になる前に注意内容を意識に生じさせ
間違えたやり方とは別のやり方をすることだろう。

同じ過ちを繰り返す人というのは、注意内容が間違えそうになる場面で意識に生じないから、
これまでの誤ったやりかたを繰り返してしまうのだと思う

スタイルって言葉がある。
たとえば言葉にもそれぞれのスタイルがある。
もしかしたらスタイルも、ある型という同一性をもっていて、それの中の様々な特殊性のうちの一つなのかもしれない。
だからまずは誰かの型や基本とされる型を学び、それに慣れてきたら、自分の個性にあわせて、型の中の特殊性を
自分の側にずらすというイメージかもしれない。
たとえばマイケルジャクソンが股間に手をあてる動作があるが、あれも名前は忘れたがある人の踊りを変化させたものだという。つまりスタイルの特殊性を別の特殊性にアレンジしたのである。
スタイルとアレンジで、アレンジは特殊性から別の特殊性へと移るので動的である


役立たない木は切り取られず、それにより大樹となった。自分の内なる自然から成長することができた。切り取られた木は、自らを特殊な外部の型にあわせている。どの型にもはまらずにただ内なる自然に従って成長し、それにより他者の型ではなく、自然な自分の型をもつってことかもしれない。

内なる自然に従った生き方が天道だろうか。
たぶん、地上を超えた天の観点が無用の用や無為自然などとして表現されている。天の観点なら他にもホツマ文献やカタカムナなどもあるがまだ読んでない

自分の思考より自分の頻繁な行為が、それが内なるものが、行為として外に現れたものであり、頻繁に出るほどの確実な力あるものなので、行為を観察すれば自分がわかると思う。
思考は個人を超えた部分があるので自分という個人を特定するには自分の行為を見ることだろう。そして、すぐれた人は個人を超えた内容を形成する思考に従うことができる。思想に力を認めるのである。また不道徳な思想に従わないこともできる。思想に力を認めないのである。

空間の統一は両目にあるかもしれない。
右目の受け入れる空間と左目の受け入れる空間が一つの空間に統一されている

自分の記憶のパターンと主な能動、行為に一致する仕事を考えたら
教える仕事や宣伝する仕事などに向いていることがわかったが、
向いているといっても、それはまだ自分の種に過ぎず、自分がありのままでプロであるわけではない。
自分の中から種を見出して、それを「核」とし、それでも仕事の傾向と一致しない自分の部分を
仕事にあわせて変えるべき「周辺」部分とみなせばよいのかもしれない。

私は不活発で怠惰なところがあるので自分を変える努力や、いってみればいかなる努力もだるいと思う人間である
(この不活発な部分が粘液質のだめなところらしい)から将来たいへんかもしれない

車のことを考えたら、かっけーと幻聴が聞こえ、次の日に車についてのテレビの特集があった。
また、人生の意味ってなんだと考えながら買い物に出かけると、人生の意味という本が並んでいた。
他にも思考に対する時を超えた世界からの反応と解釈できそうな場面があった。
これは、ある時間にあることを思考すると、宇宙や世界がそれを聞きつけて、それが過去の時間に目を向け、人間の自由意志を害さない不可思議なやり方で、自分が思考した後の時間に、それへの応答が発動するように働きかけたのではないだろうか。

統一国家は人類どうしの友愛を土台にしたらできるかもしれない。その前段階は友愛で結ばれた人類を土台にしてその土台の中で互いに分離した国たちがある。これは国という表面上は互いに銃を突きつけているが、国民どうしはその裏で握手をしている。これはテーブルの上の表面上では手を取り合うがテーブルの裏では蹴り合いをする構図の逆である。人類どうしは国の領土のように分離すべきだろうか?

自分の理想の社会はどんな人でも住める社会だと思う。つまり個人が住める社会である。これをどの国たちもやれば、特定の国が潰れても別の国に住むことができるという利点がある。国が国民を規定するだけでなく、国民が国を選択できるようになる。国民が国の所有物ではなくて国を各個人の道具にする視点。

だから外国人参政権は認めるという立場に立つかもしれない。ただ現実をまだ知らないので変わるかも。
日本を日本人だけのものにせず、全ての個人のものにすることで、全ての個人にとって自由な国を目指すことができる? 個人は民族の枠を超えたものなら、民族の枠は個人を束縛するが、全ての個人が住める国は個人をありのままに自由にするのではないか。

どんな個人でも住める社会とは例えば
文化の単位が個人であり、日本文化ならぬ個人文化がある。いろいろな個人が集まりそれぞれの文化が展開されて、その文化に参加することもできるが、離脱も自由である。ありのままの個人で生きることができ、様々な個人が集まることで、様々な文化を取り入れる可能性ができ、逆に譲れないものや自分の文化を発見できる。いろいろな他者が集まるということは、
いろいろな自分を発見できる可能性でもあるのだ。そのための条件に友愛がある。

国は個人流動体の衣服に過ぎないという表現。個人流動体がある土地に流れこんで形成した形が国という表現。全ての国の共通の土台は個人流動体という表現。

自分は国とは個人よりも外的な人工物であるとおもうので、愛国心とはある芸術作品を愛するようなものだとする。
でもそれより大事なのは生身の個人だとする。

シュタイナーによると、
どの立場も正当性を証明できるという。
だからどちらもある意味正しく、
知性では解決できないのだろうか。
だから攻撃や批判しあうなかでも、許しあえばいいのかもしれない。
敵が捕まえに来てもキリストは敵を癒やし、盗み人が服を盗んだら進んで差し出し、右を打たれたら左を差し出す。悪を善で返している。また、与えることで心に愛を流しこんでいる。これにより相手の中に愛の種を植え込んでいる、これにより互いに統一される土台になるのかもしれない。中国や米国、世界に愛が足りないなら、それらの国民に愛を与えることで世界はだんだん愛の世界になるだろか?

相手が悪の心でもって悪をなしてきたら、受ける人はその悪を善の心で受け止め、個別を普遍と関係付ける。善は液体で悪は個体である。そして相手に善を返すことで相手の善の心に作用させ相手の悪の心が相手の善の心と結びつけるようにする。

鳩山由紀夫氏は対米独立という勇気ある立場を
とっている。
思うに安倍氏の対米従属の立場では、積極的平和主義は名ばかりのものに終わるが、 
対米独立の立場から積極的平和主義を発動し国際平和を考えたらよいのではないか。
例えば、抽象的だが、太陽はどんな人間をも照らすように、米国の敵にも援助したほうがよい場合もあるんじゃないだろうか。

核武装しているという情報を信じて攻撃した米国だが、実際は核などなかったという。
もし日本がこの戦争に援助するとしたら、この米国の敵を援助すべきだったのではないだろうか。戦争責任を米国になすりつけないためにも、米国から独立に軍事活動できるべきかもしれない。米国は神でないなら、それぞれの国は互いに独立すべきだと思う。

敵を愛するとは自分を恒星、すなわち太陽にすることだと思う。人間は地球から分離した小地球だとして、それを太陽にまで進化させるのである。太陽にとっては敵も味方もなく、全てに光を与えるのである。

刑罰は罪人の行いが罪人自身に反射したカルマのようなものと考えているが
その刑罰は国民の承認を得ていて、だから私たちはみんなで犯罪者を殺す時がある。みんなで殺人を容認する判子を押すようなもの。
間接的で特殊な場合ではあるがみんなが殺人者なのだ。全てに対する友愛が平和を生むなら死刑も廃すべきなのだろうか。

シュタイナーは勝利者なき平和という理念を掲げた。

これを自分なりに考えると、勝利者とは少ない座席を誰かと争い手に入れたものである。
争いにより勝利者と敗者が生まれる。平和とは生きるための資源があることも条件の一つだろう。しかし資源は少ない座席である。だから争いが生じて勝利者と敗者に分かれてしまう。もし席が一つしかないならどうすべきか。分かち合いはできない。新たな席を創造するや見いだすことで解決できるなら、もしかしたら新エネルギーを使い、化石燃料の使用は譲ること、それか一つの席を占有した存在が席を取れない存在のために別の領域における席を譲ることかもしれない。全てにおいて勝利者になろうとせずにそれぞれが部分的には勝利者で部分的には敗者であるようにするとか

勝利者は敗者の成員の待遇をよくするとかだろうか。

夢で、概念の話が出てきたので、概念を無意識にまで下ろして、概念を肉体にまで作用させ、肉体をこえでて現実化するプロセスの一歩を踏んだかもしれない。既に現実化している概念だが、自分の概念的認識が作り出す現実は想像がつかない。夢で、練習の時にあらゆる状況に備えるとは、可能性がなりうる個々の現実を想定することであり、概念的であることを説明していた。

テレビを見ていたら国対国やカテゴリーで人を見るのではなく人対人で見て、遠くにいるから見えない人それぞれに顔があることなどが語られていた。

これはここで自分が書いた人を個人とみなす考えと同じものであり、これが精神なのだろう。


一つの椅子やランプの形はそれ自体で普遍だとみなすことができる。特定の形は、特定の形として表現されているから普遍なのである。個人という言葉がそれだけで普遍であるのと同じように。文型は骨であり、具体的な言葉は肉だとしたら、逆に、人間や動物、植物などはそれぞれがある特徴を持つ文型を持つのかもしれない。記憶は具体的な状況を型として普遍的なものにする。ある物の配置の組み合わせが、個別的なものとして、それだけで普遍となるのである。川の流れについてもまっすぐ流れるのか、枝分かれて流れるのかの型があり、枝分かれ方を組み合わせて流れを作ることもできる。ある物語の流れを型にして、途中から別の物語の流れの型を組み合わせたり、現実の事件の流れを型にすることもできる。

大まかにいうと文型は動的な流れの型であり、それに嵌め込まれる単語は一瞬の流れの中に含まれる広がりある型なのかもしれない。

自分の1日の流れを型にすることもできるし、もしかしたら自分の人生の型とどこか一致する小説があるかもしれない。

情欲を観察した。情欲は心から出た感情ではないように感じる。情欲は外側の心が燃え上がったものであり、それを観察する心が自分の中心にあるように思う。つまり情欲より内部にある、より自然な心とは理性的な心である。情欲は中心に向かって燃え上がり中心に働きかける。怒りもきっかけを受けて周りから湧き上がってくる、中心を揺さぶる嵐のような感情だと観察する。観察する心はきっかけが生じる以前から能動していて、他の感情が湧き上がってきても働いている。

シュタイナーによると霊学を学ぶだけで修行になるという。全身が器用になり魂が変化し、どの生活領域にまで霊学の光が及ぶという。

自由の哲学では個体の究極の目的はわれわれの中にまどろんでいる全ての能力を発展させることだとあるが、その理想に向かう学問は霊学であることになろう。

のめーるさんこんばんは。

情欲や怒りを観察する「自然な心」、興味深かったですが、この「自然な心」こそが、「統合失調状況」で、幻覚などの現象に表面上囚われていても、それに完全に捉えられないで、それを観察する心でもあるわけですね。

また、「霊学を学ぶこと」は、記事『シュタイナーの精神病論3―「幻覚」と「妄想」()http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-054b.htmlでも述べた通り、アーリマンに対処する手立てともなりますね。

思考は普遍的でありながら個別的であり普遍的な形をした個別、客観の形をした主観と言えるかもしれない。だから主観の思考領域はあらゆる形に変化できる主観の領域と言えよう。つまりその部分は真理の領域なのだ。なぜなら真理とはあらゆるものに現れるものであるから、思考領域にある主観はさながら人間の真理の領域と考えられるのではないか。

逆に主観の形をした客観を自然から見いだすことができるかもしれない。それが自然の主観だろうか

ティエムさん

感情などに囚われる心はアストラル体や感受魂で、
観察する心、どこか冷静な心は悟性魂や意識魂なのかも。
悟性魂は外界から影響を受けるようなので、感情を観察する冷静な、思考する心とは意識魂なのかもしれない

観察する自然な心が感受する状況から生じる判断の誤りが、狂気と呼ばれるような活動を、その人にとって正常なものにするってことかも。感受を受け取る自然な心は狂ってないかも

人の魂は一つだけではなく、三つあるということです。
アリストテレスの霊魂論も参考になるかもしれません


ゲームで海や大陸、空などとフィールドを行き来できるが、霊学をモチーフにしたゲームは
乗り物を自分自身にして、地獄、地上、煉獄、天国を意識を切り替えることで行き来するというシステムになるだろうか。

客観と主観を超えた自我の部分の中から思考が生まれるとしたら、その思考内容は自分と関係する自分の一部のように感じられ、車を思考した翌日に車が破壊されたニュースが流れると自分が否定されたような、自分と結ばれた世界が破壊されたような感じになる。思考により世界が身近な我が家になる。

思考は破壊であり、思考すると自分の頭を切り刻むように感じる。思考を生命的な芸術的な、芸術的な思考であることにより、内面の中に慰みや美、精神の安定を見いだせるような思考にするためには、美的感受性を育む必要があるだろう。もしかしたら美的感受性を発達させることに成功した社会は自殺を防ぐ条件の一つかもしれない。社会問題の中には様々な対象を一つずつ改善することでいつのまにか複雑と思われる理由の一つ一つの改善につながり、社会問題も解決に向かうのかもしれない。

テレビや携帯の画面を平面ではなく
三角錐や立体にして、その中で三次元的な映像を流せたりして。

戦術をスーパーロボット対戦を参考にすると、
戦闘機がある。戦闘機はある射程の武器を持つ。その武器の射程範囲や有効範囲は戦闘機を中心にした立体や球で表現できる。ミサイルの射程領域は平面から見たら戦闘機から扇上に射程が広がっていき、その周辺上で有効領域となる。しかしマップは空、陸の2つの分断された平面ではなく、空陸の混合した立体マップである。

テレビは横向きのテレビを上向きにして、画面を立体にすることで下からどの方向からも眺めることができる映像が生じるというもの

冷えた空気を吸う、冷たい風にあたるなどして体を冷やすと肩がこり、それにより頭痛が生じると直感する。それと関連してなぜか首のリンパが腫れていて、強迫神経症的になる。つまり普段気にしないことを気にするようになる。例えば皿を洗う時に使うスポンジだが、それはスポンジ自体が汚いから皿も汚いとか、手を洗っても蛇口を捻る際にまた汚れがつくとか。だから繰り返し洗いたくなるのだ。
筋肉も緩む。この症状が出た時は腹の筋肉が緩んでいていつもより腹が出る。だからなのか残尿があるように感じる。
食事の時は食べにくくなり、頭痛でか味もよくわからなくなる。
 
歩いている時にこの症状が出ると、目線が極端に上を向くようになる。

キリストが同時に別の場所に出現した、それはエーテル体だからできることらしい。

もしかしたら、私という他者と区別される個別性が普遍性でもあるから、個別的なもの、つまり私だって同時にいろいろな場合に出現できるのが、言葉存在としては本来的なのかもしれない。

うえだのぶたか という人が非線形性モダンという概念を提唱して、それを芸術作品にしている。

この人だったか、忘れたが、たしか美術作品を自分で描くというより、水や風などの自然に描かせる
という手法をとっている人がいた。

果たして自然に主観の形をとらせることができるだろうか。それは自然が精神へと一歩踏み出すことでもある。
できれば解釈などではなく、ありのままの自然から主観的、精神的な形を見出せるような。
意識が自然に作用しているなら、自然は主観性を帯びるはずだ。人間の「意識」とは地水風火、空、大地などの
自然のエレメントの一つなのだろう。自然そのものから生じた精神性、その一つが概念だが
たとえば風景の海としては同じものであるが、違う部分であるようなものは、海という普遍性の中の差異性として、それぞれ違う海の領域一つ一つが、違う意味をもっていると考えられる、たとえば太平洋と大西洋は同じ海ではあるが、違ってもいて、だから意味が違うはずだ。日本で見る空と、インドでみる空の意味は違っている、空全体、海全体の意味もあるはずだ。残念ながら、実際にどんな意味を持つのかは霊視ができないためわからない。
だからファンタジーを働かせて意味を付加するしかないのだろうか。

もしかしたら太陽の光が地球にあたり、光と海、光と大地、光と植物が関係して、ある結果を生じるというのは、
太陽と地球との「結婚」なのかもしれない。 「関係する」「結びつく」ということが自然の精神性のヒントかもしれない。
ほかの見方もできるかもしれないが、光を中心にして海と大地と大地の上にあるものが光と結びつくという視点。

横尾龍彦でした

植田信隆と書きます。彼のブログで作品を閲覧できます。

現実の豊さがそのままで言葉の豊かさを得る、つまり現実が言葉に近づいたらどうなるか。それは自然の精妙さを維持した言葉である。もしかしたら、海や大地などそれぞれが海語や大地語、空語などを形成し、個人が複数存在できるようになる。

現実を過程と見るなら、様々な概念は進化の途中であり、例えば一個の商品は固定されてなくて、過程の部分に過ぎない。

赤ん坊は親が滅びたら自分も死んでしまう。しかし大人になり、
親が死んでも生きていけるなら、自分を本質存在に近づけている。
あたかも地上の全てが滅びても霊は残るかのように。
国が滅んでも人は残るので、国よりは人が本質存在である。日本が滅ぶ日がくるかもしれないが
日本よりもましな国ができあがるなら、日本という古い作品にこだわる必要はないと思う。
国がいらない時代は人々が善を望み、善を行う時代だろう。

時間はあるので、時間の中で自分のための行為をしたり、多数の何かのために行為できる。
反感を抱いたとしても、時間はあるので反感を抱いたものの理解に努めることができる。
学校で何か恥ずかしいことをしてしまうと、時間は学校が終わっても続くので、黒歴史ができる

肉体は嫌いなもの、食べたくないものという意味での食欲不振を克服したら肉体の進化につながり
乳と蜜の流れる国というように、大人は蜜を摂取することで肉体の造形力がつくという
菜食だけでも、思索することで自分で脂肪を作ることができるという。
食べすぎは器官を肥大させるからよくないという。

音楽的家族や数学的家族がいるらしい。
音楽と数学はどちらも耳と関連するとか。
昔の日本人は士農工商に分かれていた。
今の職業の具体的分類と職業活動の相互関係は知らない。昔から受け継がれている遺伝的才能があるとしたら、それは過去に必ずしも芽を出したとは限らない。生活が多様化してきた現代において芽を出す才能があるかもしれない。
遺伝する才能は時代ごとに形を変えて現れるほど柔軟にできているのだろうか。だとしたら、それは普遍的である。
私が哲学的な傾向があることは児童期ごろ昔にやった占いが言い当てている。最近の占いでは表現する傾向にあることを言い当てられた。
もしかしたら統合失調症が遺伝する家族は、哲学や霊的なものに向かう傾向にあるかもしれない。あるいはルシファーに向かう傾向。
でも哲学の才能があるわけでもなく、特徴がないのが特徴という血を受け継いでいるように思う。雑草のようだ。

数学的家族や音楽的家族となるほどに特徴的な耳を持つ家族はだいだい、耳が発達するような人生を送っていて、それが受け継がれたのだろうか。後天的才能と先天的才能がある。

自分を知るために家系や家系の才能などを知ることが一つの手がかりになると思う。
それにより自分のエーテル体と物質体に由来する才能を知ることができるかも

円の概念のイメージは全ての対象に適用できるとは限らないかもしれない。
だから概念のイメージはそれぞれの対象そのものから汲み取ればよいのだろう。
生成、時間などの、固定的なものでない、未来へと向かうものから
概念を得ようとすると、円の概念のイメージでは捉えきれないのかもしれない。
どの対象でも、それが対象だとわかる限りは概念である。
たとえば時間を直観できる人がいるとして、その人が時間的なものを世界の諸部分から見出すとする、
つまりそれは世界の諸部分から、時間的なものを見出している、この諸部分は互いに違っているけれど
同じものを説明していることがわかっている、という点で、時間も、円で説明できる概念ではないかもしれないが、別の概念
であることになる。だから言葉で時間という概念や生成という概念が成立できるのも、世界の中のそれらに該当するものが
普遍性を帯びているからだろう。ただし概念のイメージが必ずしも円ではないというだけだ。

概念では抽象的過ぎるので具体的な概念を表現すると人智学などになると思う

いろいろな物の配列があり、どれも違った配列だが、どれも
配列だとわかる。 
その原理とは、「ある点に置かれたものからある方向へある距離だけ離れてある点へ置く」
というものかもしれない。
単語に注目して、それが生み出す差異に注目して、その単語の差異を統一する原理とは何かを考える哲学があるかもしれない。
これは知覚世界におけるいわば根源的な数式を見出すというイメージ。
このイメージの由来はたとえば数列がある。いろいろな数列があるが、数列を可能とさせる根源的な数式というのが
あればそれが数列における普遍数式になると考える。この普遍数式の考え方を日常に応用するという想像から得られた
イメージ

ノートの一行目と二行目を選ぶ場合と別の行を選ぶ場合でも、それぞれが配列の特殊性である

空間の中に飾られてある物の配列も日々特殊化しているのだろうか

2つの視点がある。例えば日本を外国から見る視点と日本の内部から見る視点である。自分の人生を内部から見ることができるのは自分自身である。
概念的な認識は対象を外部から見ているが、素粒子から見る視点は対象を内部から見る視点なのかもしれない?

人生で何を選ぶかが来世の運命を決めるようである。
キリンが首が長くなるような生活を営んだキリンのみ生き残り、首が短くなるような生活を営んだキリンは絶滅したと解釈してみる。
これと同じことが長い目で見た人類にも起きるのではないか。何を選択して生きるか。人智学では絶滅はしないが、進化に遅れる場合があるらしい。そして、精神的な生き方を選べば進化できるって思想だろう。力を求める生き方は既に国が実現している。キリストやブッダを信じるならば、確かに精神的、霊的なものを選択し、それを極めたなら進化するということがわかるだろう。

人智学は例えばある概念が提示されたら、その概念の作用の結果までわかるから実用的だ。

都市の高層ビルは心の空をふせいでいる
地上から空を見ると、高層ビルが空を防いでいるが、それは人の心を物で表現したものとし、俳句にできるかもしれない。

タゴールは生活に空っぽの場所がいくつもあるというが代わりに光と風を得ているという。
自然を建築素材にする視点

概念的思考のよいところは見えるので直観しやすい点にある。応用範囲が広い。

例えばジャンケンもそうであり、グーチョキパーはどれも手でありながら、それぞれが特殊性であり、手の変形体である。このグーチョキパーはさらに勝ち負けのルールの相互関係にある。

種の時期から芽が出る時期の移り変わりは、文字の次に文字を結びつけて一つの単語を形成するように、一つの体で文字の移り変わりとその文字との結びつきを示すために、一つの体を大きくし発達させるという考え。
つまり成長とは一つの体で表現した言葉という面があるのではないか。

一つの体がある文字を表すとしたら、別の文字を表すためには別の体を持つわけにもいかないので、一つの体を成長させることで前の文字と結ばれた文字を表す体にする必要があると思う。

ヌーソロジーの時間と空間の概念が気になる

シュタイナーはよくねばならないという表現をするが、
それは未来がどんな環境かわかっているためかも。
精神的なものを目指さなければならない理由も、形象意識を持たなければならない理由も、
それらが力強ければ次の時代にも自在に生きることができるからだろう。
人は空気の中で生き、魚は海の中で生きるように、
精神的な空気や形象意識的な力を持つようになる時代の中で
自由に生きるためにはあらかじめそれらを選択し、その時代のための用意にすべきだという考えだろう

とあるゲームで自由をつかさどる女神と秩序をつかさどる女神が姉妹であるという設定を知った。
それは神話に基づいているのか定かではないが、
自由や秩序といった一見正反対に見える概念がかえって近い関係にあるという場合などを
神話から知ることができるのかもしれない。一見正反対の概念がどこかで近いことから何が生じるのだろう

成長は一つの側面だけでなく、あらゆる側面で理想へと成長していくべきだと思う。
例えば思想の成長だけでなく、自分の習慣、日常生活を日々改善したり、自分の道徳心や感情、肉体など自分のあらゆる部分を成長させるのが理想だろう。

私の現実は一部だけ成長しているが残りは固定されている。この生成的部分は理性だとすると、固定された部分は悟性だと表現できるかもしれない。自分の理性的部分、つまり変化成長させていける部分が自分の強みだと考えられるかもしれない。それが競争に勝てるかは別であるが

自分の構成要素は、他者の低次の構成要素に作用するという。だから自分をより良きものに変えることで、それが世界に作用し、世界は少しでも良いものに変えられていく。なので自分を浄化したり自分自身を真理を得て救済することは少しでも世界をよくすることに繋がる。

自由とは束縛という規定を受けないことだが、言い換えたら自分に従って自分や何かを規定付けることができるってことだ。これは自分を普遍者にすることでもある。三角を描く際にどんなそれを描くかは自分で決めることができる。つまりどう特殊化するかを選べるから、それらの特殊性は自分の中にある。

知識は法則や対象の模造である。つまり知識は対象を必要とする。

そして、性格や気質は知識の対象となるものであり、その人にとっては偶然的なものではないぶん法則的だと言える。
性格や気質を変えるとは自らが法則を体得することで、飾りのような知識よりは優れたものがあると思う。

知識の炎や氷は思考界に生じた飾り、付加物で、それは金や物などとは目に見えない点で違っている。知識を得るとはそんなもののように思う。それらは金や物をいかに使うかが大事なようにいかに知識を使って考えるかが大事になるかもしれない。性格や気質を得る場合、炎や氷になるのだ。ある人はこのことにより性格や気質を勉強より大切なものとみなすのかもしれない。

言葉のような性格が理想かもしれない。
氷や炎になるというより、それら単語を包括する言葉になる。言葉にも種類があるので、ある程度内容を共有しながら個性がある。日本語やドイツ語などのように。神のような性格と言い換えることができるかもしれない。言葉は神だから。

概念的知識を得るだけでなく、概念的性格、言葉になることで体得したことになるのか

芸術家は無心になることで創造できるという。

思考は自我の付加物のように思えるが、対象に語らせる思考をした場合、それは無心の思考ではないだろうか。

商品の進化は対象のある要素をそれとは反対のものにすることでできるものがある。
持ち運べないものを持ち運べるものに、小さなものを大きなものに。例えば持ち運べる小さな車ができた。そのうち人を運ぶ小型飛行機ができるかもしれない。

人間の進化から商品開発について学べることは自分の体から生活の道具を見いだしていた動物から、生活の道具を自分を含む自然から見いだすことなどにもある。

霊的な内容の夢を見た。今日とこれまでの過ごし方の違いは、今日初めて一つのことに集中して考えるという思考行を意識して行ったこと。

一つの夢は、実はこの家は全体として地下であり上の階、天空に出ると見知らぬおばあさんが住んでいて、おばあさんは地下のことを知らなかった。

次は死んだ後にも先がある夢でいろいろ省くけど、肉体的強さに先行して慈悲がなければならない、みたいなことをだれかが言った。この霊界では地上で不仲な人が親切になっていた。

だいたい同じような商品ができるのは同じ生産過程を素材が歩んでいるからであり
農業にしても同じ生産過程を歩ませればだいたい同質の成果ができるのかもしれない。
また、商品にブランドをあたえるのは生産過程の一部にマークを商品に掘り込むこと。
これを農作物に応用すると生産過程の一部に、隠し味を入れることだろう。
たとえば牛の場合はビールを飲ませるとかのように。もしかしたら、牛にブルーベリーを食べさせ続けることでも
肉に個性が出るかもしれない。生産過程を生産型と言い換えると、個性はそれを装う衣服かもしれない。
扇風機の羽の風景は普遍的だから、潜水艦など別の場面に生かすことができる。
ある風景を別のまったくちがう風景に継ぎ足す風景画

アリストテレスの類と種を動物に言葉で覚えこませたら動物の進化を手伝うというブリーダーの新たな仕事がうまれる

過去分詞の例 壊された窓 などの形容詞用法がある。
これは壊すという「行為」が名詞を飾っている。
この壊された窓というのは過去の行いが現在の窓を飾っているといえる。
大地は過去の人間によって踏まれた大地だとも言え、従って一見、なんの変哲のない大地は
見えないかつての行為によって飾られている。
たとえば機械にしても、それは作られたものであり、見えない行為がものを飾り付けている。
見えないかつての行為が名詞に特殊性を帯びらせることがあるってこと

シーエムを見ていたら、服の特殊性に気がついているそれが流れてきた。
その中で発見したことは、周りの自然さえも飾りであるってことだ。
人がいて環境が流れてくる 人はその環境の開かれた領域と重なる
英語でも文型を飾り付ける修飾語として前置詞句がある。
それは環境を着るのだ

ある本で、魚は海を着ているという内容の表現を思い出した。
人間は対象をみるとき、光の衣服をまとった対象でなければ見えないともいえるだろうか

動物たとえば犬などは、言葉としての類意識はないかもしれないが、
視覚や嗅覚としての類意識はあると思う。だから匂いや飼い主を区別できるのであろう。
言葉に類意識をもたせたら、動物に思考の萌芽を植えつけることになるかもしれない。
そのためには同種の動物を数匹かって、それぞれに同じ名前、集合名をつけるとよいだろう。
つまり、複数の犬たちに、犬と名づけること、そしてそれぞれにポチや白、まゆなどどいった固有名をつけること。
こうして集合名の中の固有名として類と種的なものが植えつけられることになる。
犬山よ呼ぶと、そう名づけられたそれぞれの犬が集まり、固有の名前を呼べば、一匹だけ集まってくる
そしてこれは最近では名前をつけるのみだった犬に、苗字をつけることでもある。
こうして新しい文化の一つがうまれた

霊学を学べば生活のあらゆる領域で器用になるというが
それはなぜかを考察してみる。
霊学の内容は物質界より精妙な内容である。
だからその精妙な内容を学び続けると、それが無意識にまで降りていき、
神経も作り変えられていく。つまり霊学の精妙さが無意識や神経の内容の基盤になることで
結果として動きがこれまでより精妙になるということかもしれない。
まあ空想だが

文武両道の意味は、霊学により内側から身体を器用にする
基盤を作り、肉体鍛錬により基盤の上に器用な肉体を築き上げていくってことかもしれない。
身体の動きの器用さは肉体運動だけに取り組むだけでなく、
霊学に取り組むことでも作ることができるので、両道により、強い人間が作られるということだろうか。
だからスポーツや軍事、武道の訓練に未来では霊学を学ぶことが加えられているかもしれない

原因の中に結果が含まれている。その原因が結果を世界に現すとき、原因から結果が分離して、原因の中にあったものが別の場所に移動する。これを繰り返すと、やがて結果が原因となる。だから外化は内面化でもあり、人間が世界の中で活動するということは、世界を人間化し、言い換えたら霊化し、自らを結果の中に生きる存在から、原因者にするってことだろう。
具体例は川が水源から流れ出て、やがて流れは尽きるが、流れ出た先で新しい水源ができるイメージ

シュタイナーによるとヨーロッパアメリカにはない日本人の特性は精神の可動性だという。
これを精神が動きを含むことと言い換えてみることができるか。
日本の霊的思考は動きを含むものなのだろうか

自我は光を放つ原動力であり、従ってそのうちに動きを含む概念であるとも言える

自我から概念を見出し、生物の種類という概念を見出し、自然から概念を見出すと、
それら個々に共通するのは概念であり、言葉であることがわかる。
表象から個々の概念に関する感情を生じさせる、そしてそれらの個々の概念に関する感情を
一つの概念という単語に関する感情から、言葉という単語に関する感情にまで上昇させることで、
自分の感情を統一することができるかもしれない

言語は意志的、感情的、思考的という分類法があり、人格をよくするためには
三つの言語をバランスよく学べばいいらしい。感情は日本語、思考は英語などだろうと思うが
意志的言語が何かよくわからない。

私の受けた教育は意志の教育をしなかったせいなのか、言葉や思考内容を形成しても、
それを実行に移すまでにはいかない。だから理想的であることはわかっていても努力ができない。

一つの専門領域に人間を見出せるのだろう。楽器を地水風火にわけそこに人間の構成要素を見出すように
言語の中から意志と感情、思考を見出せるってこと。他の専門領域だって、その個別性の中に全体性、つまり人間を見出すことができるかもしれない。専門性の中の全体性(人間) 専門性を他のそれと結びつけるのは霊学などだろう

たとえば自然からでも地水風火を見出せる、言葉通りに。
企業からはシュタイナーの三層論に従って組織を形成すると
人間の意志、感情、思考を担う部分ができ、
その中で各々に異動すると、三つの領域を体験することになり全体的体験ができると思う。
ただしシュタイナー流の組織論的な本は読んだことがないので実際どうなのかは知らない。
それは英語で出てるようだけどタイトル忘れた

いろいろな愛の形がある。それはいろいろな概念があるのと同じで、感情における概念や言葉が愛なのかもしれない。心における言葉が愛、性格、気質などの生命における言葉が無我?
思考における言葉がそのままのそれらで、身体における言葉が水のような動きか。

賢者は自分の愚かさを知るらしい。シェークスピアのお気に召すままの格言。

馬鹿や愚かという言葉は悪態などよくない感情が込められて使われているというイメージにより、現実に馬鹿や愚かであることと、言葉そのものに与えられた価値との間に乖離があると思う。

何が馬鹿なのかというと、理解出来ないことがあれば馬鹿であるとする。目的に対する手段が理解できてないと、目的の達成とずれることをしてしまいでそれも馬鹿であり、適応したいという望みがあるのに、適応手段がわからないのも、適応手段がわかっていても、体がついていけず、まるで海の中を進むために車を使おうとするような感じで体がついていけず空回りするのも目的と手段を知りながら目的にたどり着けないという点で馬鹿である。つまり専門家を専門外の場所に配置してもその人は馬鹿を見ることになる。

たぶん賢者は、本当に人生で大切なことほど理解していないから自分は愚かだと思うのではないだろうか。例えば、自分の望みは何か、自分にとっての幸せとは何か、私はどこから来て,どこへ行くのか、ある選択や行為をしたら、どんな結果が待っているのか、私たちの未来はどうなっていくのか、善とは、私とは、あなたとは何かなどである。これは哲学や霊学で取り扱う問題でもある。人生の意味なども、誰もが一度は問う、それほど価値あるものなのに、それに限って答えがわからないのである。

犯罪はばれなければ警察は動くことがないので、そんな隠れた犯罪は無数にあると思う。
ばれた場合は、たぶん警察はこれまでの犯罪者の犯罪過程のデータがあり、そこから
共通項やパターンを見出して過去をもとにして理論化していると思う。
だから大抵の無思慮な犯罪は過去の繰り返しである場合があり、そのぶんだけ捕まる率が高くなるだろう。
まったく前例のない新しい犯罪をするか、ばれない犯罪をするかでないと警察の手の中かもしれない。
今実行されている手口がばれでもしたら、とたんにそれと類似する全ての犯罪のデータを警察に提供したことになる。
神がいるかもしれないと思う犯罪者は出頭すべきだと思う。
なぜなら、人間の裁きを受けることでカルマを受けることになり神から受ける裁きを軽減できるからだ。

自分の一つの活動が現れているときその一つだけでも持続的、普遍性のある活動かもしれないので、
たとえば一度失敗したら、次も失敗するかもしれない、
活動の過程を意識化して、どうしたら成功するかをイメージし意識すること、それが持続的、普遍性のあるものになって失敗を訂正できると考える、なぜなら記憶されたイメージは何度でも再現できるので意識の中で持続的だから、その持続性を活動に何度でも結びつけることができるからである。


季節や星、の周期を核、あるいは型とすると、その周期が繰り返されたときに生じる前の周期との差異を作るもの
として修飾語がある。それは一日前の川の流れでは葉っぱが無数に流れてきたのに対し、
今日は葉で折られた船を川に流すことで生じる差異と似たようなものである。

ヌーソロジーからの影響を受けて時間的概念を考えてみる。
対象はいろいろな見え方があり、対象そのものという普遍性の中には様々な見え方の個別性がある。
自分と対象との距離によって見え方が変わっていく。
奥にあるときの見え方が、近づくことによりもうちょっと手前の
見え方に変化する、それがどんどんさらに手前になったり、もっと奥になったりする。
見え方の変化に関しては奥行きの次元があるということ。
だからこれを抽象的に、円の中の円としてみると、手前の円はより小さな円に変化する可能性があり、小さな円は
もっと大きな手前の円に変化する可能性があるということ。
対象そのものは奥行き線上の位置変化により様々な現れ方をするということ
そして見るときに生じる奥行きの構造はどの方向を見ても同じ奥行きの構造であるという点でも普遍的であるってこと。
つまり、人が移動したとしても常に奥行きそのものの形式は同じであるってこと。
対象そのものを近くでみるときも、遠くでみるときも、同じ奥行きそのものを見ているとしている。
これは対象の奥行きにより位置変化が起こったとしても、奥行きの形式は変わらないってこと。
だから、奥行きの形式という同一のものの中で、対象の奥行き的位置変化がそれぞれ特殊性を帯びるということ。
これは普遍性と、中に入っていく、あるいは広がっていく特殊性があるってこと

時間的概念は円の中の円という同一の形式をもちながら、
大きな円が過ぎ去り、小さな円が大きな円となり、
また新しい小さな円ができるという、
同一の普遍的形式をもちながら広がったり、縮んだりするのが特殊性とすると
形式においても普遍性と特殊性があるとできるのでは

私たちは概念であることがわかった。 
従って私たちは遍在する個であり類である。
だから受け取り方は個性的ではあっても、
内容としては普遍的な、要するに共通の精神世界を持つのではないか、という意識が、精神現象学の精神の章と関係していると直感する

精神現象学に良い言葉があったので書く。

利己的に振る舞っているつもりでも実際はその人が思っているよりも善いことをしているのである。省略
個人が利己的に振る舞うとき、その人は自分が何をしているか知らないだけである。人間は誰でも利己的に振る舞うと断言するとき、それは人間は誰でも行為の何であるかを知らない、と主張しているに過ぎない。

ヘーゲルは人間の行為は本質、すなわち善の現れであると見ている。
利己的な行為さえ善性を持つのはまるで個別性が普遍的でもあるかのようだ。

ヘーゲルの立場を解釈すると、個人は概念だから、個人は普遍的である。だから個人の行為は全ての概念の行為でもあり、従って絶対的行為である。絶対的行為の過程が真の全体性だ。他の自然にはない、バラバラな個別を統一する社会規範が、概念を統一する客観的真理となり、これが個人の本質であるから、個人は社会規範の中にあって自由である。

勝手に頭で作り上げた法律ではなくて、
精神の本質としての法律があり、自己はその意識に至ると、精神と呼ばれるようだ。

川などの流動体における原因と結果は源泉の中に含まれるものがある結果となることがわかる。
源泉から連続的に分離して川などとなるのである。
これは源泉の中に圧力などの根源的な力と、力が作用する素材があり、力の働きが素材を含むと可視化できると思う。

球体などの輪郭のはっきりした物質どうしの関係だと、それが概念的関係にあることがわかりやすくなる。
球体がある球体を押すとすると、押す球体が原因であり、押されている球体が結果を表す。
原因の中に結果が含まれているので、押す球体が押される球体と密着しているときは、それらは能動者が受動者を
包むという形で一つになっている。つまりこの関係が一つの概念となっている。能動者に対して普遍、受動者に対して特殊とわりふるイメージがしやすい。輪郭がはっきりしていると。たぶん、原因と結果の関係は互いに切り離されても継続するだろう。だから受動者が能動者から離れるということは概念の領域が広がるとみなしてよいのかもしれない。

原因と結果は、能動が勢いを受動に帯びさせているように見える。動きとは動的な衣服なのかもしれない。それは時間体の一つの現れ。受動的であるのは、パソコンが字を打ち込むとは言えないように、受動の動きは能動の動きの続きだと言える。もしかしたら、能動の時間体が受動を実際に包み込んで、能動の時間体の体の一部にして、時間体を植え込むことでその動きの型を受動に記憶させているのかもしれない。そしてその動きの記憶が繰り返し作動し、能動の時間体から分離する。時間体とはエーテル体である。これらは空想である

能動の時間体が受動の時間体を包み込んで動きを記憶させるのかもしれない。そしてその記憶が保持されていることで動きが始まる。静止とは動きの忘却

自分はここで自分が善であるかのように振る舞う偽善者だと思う人がいるかもしれない。
実際、私は悪いことを考えることもある。
悪魔的な思想を作っている。
それでも自分は作り上げた思想の中で、善を選びたい、選善者でありたいと思うのだ。

学校のいじめの中には、
同じ人間をそうはみず、自分より下で、自分より下の人間は逆らう権利がないと思っている、つまりいじめる人の中には自分を権力者と思考でみなすというより、権力者の心になっている人がいると思う。上空から、地上を観察して市民を爆撃するのを楽しむ軍と似たところがある。これがスクールカーストやえたひにんなどの言葉として表現されている。たぶん戦争が始まれば多くの人間が敵に対して権力者の心を持つようになるのだろう。被害者も加害者に対して権力者の心を持つようになる場合がある。
これをなくすためには敵を愛するなど、悪にも善を返したり、博愛をするような平等の心を世界に植え付ける必要があると思う。悪には悪を返してもよいというのは悪を自分より下に見る権力者の心で、それが戦争中における敵の妻などを強姦するのと同じ根を持つとしたら、平和を実現するためのキリストの教えは正しいのではないだろうか。

権力者の心と名付けた心が、日常ではスクールカースト、えたひにん、殺人鬼などの差別的上下意識や、いじめや、報復、子供でもするようなやられたらやり返しなどとして現れて、戦争では市民の殺害や強姦として現れる。

つまり、戦争における悲惨な事件と日常におけるそれらは同じ一つの根を持っていて、戦争の悲惨な事件を起こす心は、別に戦争時に突然現れるような特別な意識ではないのである。
 

日常と非日常をわけても、それらは実際は一つの心の別の現れなのだとしたら、平和のためには敵を愛し悪には善をのような平等の心を持てば日常でも非日常でも先の場合のような悲惨な事件は起きないはずだ

利己的なものにも善が宿ることから、
個別性ないし悪に宿る善の聖域とか、デスメタルならぬゴッドメタルという単語を連想した

概念は対象そのものから取り出されたものだって立場に立ってます。対象を型にあてはめたのではなく対象そのものから型を取り出すと、それが概念であると直観できると思う。世界認識に関しては独創性は表現において現れればよく、真理は一つだから、内容に関しては同じものになる。デザインをやっているわけ出もないし、独創性にこだわり過ぎても空想になるだけだろう。

例えば一つのりんごを記憶して、後日そのりんごがそのりんごであるとわかるとする。つまり、対象そのものから取り出された記憶としての型を対象に当てはめることで、そのりんごがわかる。そして、なんとその自然から取り出された記憶の型は、別のりんごをも同類だとわかるような、一つの記憶の型は別のりんごと、漠然と形や色などが一致するような、他のりんごの型と一致する部分があるような型なのだ。

そしてこの記憶の型は、自然のりんごそのものを源泉としている。だから一つのりんごの中に、その一つのりんごには収まり切れない一般性が含まれているのだ。だから一つのりんごを一般性のある名詞の、りんごって表現しても通用するのだ。このような一つのものに含まれる一般性を、英語は既に不定冠詞の複数扱いとして表現していて、この一般性の他に特定性が一つのりんごに含まれていて、これらのことを普遍、特殊、個別という言葉で表現しているに過ぎない。思考そのものも、自然の一つである。だから記憶できるものや後になってそれとわかるものは、それが一瞬のものでも、例え夢でも、言葉で表し切れないものでも型、つまり、普遍性をもつ。その記憶できるもの、後になってそれとわかるものの中に思考も含まれる。

これが一つの概念的認識の説明であり、だから神は言葉であるとする説明は正しいように思う。

対象から概念を見いだして、対象から普遍性と特殊を見いだしたとしても、この二つが関係しているとは言えないと思う人がいるかもしれない。例えば一つのりんごがあり、このりんごは赤色をしているが、りんごそのものの型とは無関係だろうか。少なくともこのりんごの赤色は、りんごの型と一致するような赤色である。つまりりんごの型を超えることのない、りんごの型の枠に沿うように流し込まれた赤色であり、りんごにかたどられている。だから赤色はりんごの中に含まれる特殊であると言える。

この場合、特殊性は人間の形にかたどられた衣服のようなものであるが、それは形と一体となった、脱ぎ捨てることのできない飾りであるので、色は廃すと、かえって現実的でないように思う。だから色を廃したような絵画は、人間で例えると、裸の人間ではなく、皮の剥がれた人間を描いているのと同じで、やりすぎかもしれない。

対象から普遍を見いだし、やがて対象と同類の別の対象から違いを見いだす。
どちらも同じ型、普遍を超えることなくその中に違いがある。普遍の中に特殊がある。特殊は普遍と一致した、普遍の現れの一つなのだ。一つの対象の中にも別の対象の特殊が潜在しているというのは、一つの普遍は特殊の可能性全てを含み、その可能性が特定の仕方で現実化している。真の自然とはこの特定の現れをした普遍ではなく、普遍がありのまま全てを顕在化した、全体的成長したもの

普遍は構造だけでない。
鉱物は金属結合をしていて、植物は種から生まれ、動物はある機能を持つ臓器を持ち、人間は加えて思考できるといったそれぞれの普遍的な性質、構造やそれらをまとめて普遍の内容とする。この普遍の内容が様々に表現されてある個性を得る。普遍の内容が様々な特殊の可能性を含むのだ。自信がゆらゆらしてきた。鉱物の内容の中には個々の鉱物になる可能性が含まれているはずだという発送から賢者の石が生まれただろう。石という鉱物の一現れを金という別の現れに変えるのだ。賢者の石は炭素らしいが。一般遺伝子はありそうだが、一般鉱物があるのかわからなくなってきたけど、一つの対象の普遍性は示せたと思う。

一般鉱物はないかもしれないが、エネルギーが物であるなら、一般鉱物とはエネルギーになるかもしれない。エネルギーの中に個々の鉱物になる内容が含まれているのではないだろうか。
個々の鉱物をエネルギーにもどすと別の鉱物として表現しなおせるかもしれない。
やっぱり鉱物、植物、動物、人間はどれも概念なのではないだろうか。

概念的認識に飽きてきたので、別の真理を模索しよう。概念的認識は自然に根ざした認識原理である。普遍的な認識原理を得るためには頭で考えたり、文字で読むというより、自然から原理を取り出すこと。文字は、自分では経験できないことや、あるいは文字を手がかりにして自分で直観できるものがある。

たぶん火的認識は頭で受け取ることのできる原理ではなくてハートで受け取ることのできる原理かもしれない。頭に取って合理的でないものも、火的認識はそれをも合理的に認識できるような、高い合理性を持つべきだと思う。単にわけのわからない不合理なものなら、それこそ魔の誘惑だと思う。

ハートはkanさんによれば、思考でも感情でも、肉体でもなくその奥にあるもののようである。思考と感情と肉体を統合し、その奥へと意識がシフトしていくようである。思考は万能ではなく、感じるべきところでは考えるのではなく感じて、考えるべきところでは考えて、肉体の領域に任せるべきところではそれに任せることで統合できるようだ。この三つのどれでもない、ハートはどんな活動をするのかわかってないのが問題。

kanさんの時空を超えて生きるって本です。彼はカタカムナをならっていて、もともと思考の人ではなく、身体の人であるように思います。

ハートではなくて、本当の自分が奥にあるものでした。マインド、ハートというとき、それが知性、本当の自分のことなのではと思ってたけど違うのかな。

なぜ人を環境と見るのかに抵抗があるかというと、人はもっと具体的に個人として見るべきだという思いがあるからかもしれない。

ヘーゲルによると自分の才能、素質は自分の環境を見ればわかるという。
自分のそれらの潜在態は環境の中に見出せると。
シュタイナーのカルマでは環境の中に自我を見出せるという。

自分のかかわる環境が自分の根源的な自然の潜在的な姿だという。
才能は自分の根源的な自然の、目的から現実への移行の側面で
関心は根源的自然の内容の側面だという。
関心は環境を目的にする 環境から自分の根源的な自然の内容を見出すのだろう。
関心が自分の根源的な自然としての環境の中の潜在的な姿を顕在化する

自分の場合は言葉を使って表現するのが自分の自然の目的から現実への移行の側面
つまり才能であり、哲学に関心があるのが自分の自然の内容となると思う。まあ何の実績もだしてないがね

前にも書いた自分観察とはこの精神現象学の自己意識だったのだ。

会話より書くことをやってきたし、内容を自分なりに論理的にやろうとしてきた。
語学は会話より文法に興味がある。
でも文法は考え出されたものより、自然からそのまま取り出された文法を好む。
つまり視覚を頼りにした文法や論理展開を好む。
書くことや文法という面からすればプログラムに向いているって気がする。
数学は主に初等幾何学をやってきた。記号が苦手なので完全に適正があるわけではない。
プログラムも視覚的なイメージで捉えることができると思う。ネットでその話があった気がする。
まだプログラムを学んだことはないが、人の動きなどをプログラムで表現するときなどに
これまでやってきた哲学を生かしていけると思う。

RPGツクールで簡単なゲーム製作をしたことがある。そのときいろいろなイメージのパネルを配置していったのを覚えている。 
それにお絵かきソフトにもいろいろな絵で表されたパネルがあり、これは要するに
プログラムが「どう現象するか」のイメージである。 だからプログラミングは絵でイメージできるところがあるように思う。

自分にとってはプログラミングを学んでおいて損はないけど、最近は無気力無関心に陥っている。
プログラミングでの創作意欲がないこともあり、結局学ばないかもしれない

お笑い芸人がネタを作るとき、たぶんこういう設定の人とある設定の人が組み合わされたら面白くなる
という直感が働いていると思う。 詩人の中には面白い言葉の組み合わせを探求する人もいて
面白い組み合わせを飾る言葉は詩だけではなく、人間もありうるということ。
空が水面に映っていたり、山が水面に映り、上に向く山と水面の下に向く山などの面白い自然の組み合わせもある。
人間の組み合わせにも弁証法的なものや調和する関係が見出されるかもしれず、自分には未知の世界である

キリスト教の悪には善を敵には愛をという教えは統一意識の行いかもしれない。
なぜなら分離意識だとたとえそれが善の側に立っていようが残酷な悪の側にたっていようが
他者を同じ人間だとは見ておらず、自分を上にあげている気がする。
この分離意識が日常と非日常の同じ源泉で、残酷なことを可能とさせる。
統一意識のキリストの教えでは、日常と非日常において分離意識とは違う現れ方をすると思う。

宇宙の中にある存在たちを調和させるのは現実芸術における位置の次元である。
あらゆる感覚を芸術素材にする。絵画は絵と見る人を芸術素材にしているかもしれないが
現実芸術はその中に建築、彫刻、絵画、音楽、詩、映画, 劇、日常を含み、それらはあわさって生活芸術になる。
生活芸術は料理や、言葉にするのが難しい「雰囲気」、社会生活なども素材にする。
要するにたぶん現実芸術とは総合芸術、宇宙芸術なのだ。
これはシュタイナーから影響を受けた発想で、ヨーゼフボイスも拡大された芸術概念を編み出したとか

意志が思考に働きかけて、ある思考内容を形成する。
意志が身体を動かして行為となる
力が物に働きかけてある結果が生み出される。

意志と思考、意志と身体の関係が原因と結果の関係であり、結果を生み出すことは可能性の現実化でもある。
これは個別化である。
原因と結果の場合は、原因と結果が離れていても、あたりまえだが結果の生産者は原因である。
原因がある内容を生み出す。
力と意志が動きを含んでいる。概念の運動は思考と呼べるだろう

原因と結果は一つなので、原因と潜在的に結果であるものが原因の中に含まれている時、潜在的な単語であるが、結果が顕在化したら単語になる。始まりと終わりで一つの区切りができるのである。これは概念の顕在化ってこと

文も一つの概念である。文も普遍的なものであるからその中に含まれるものがあるのだ。
文と文が関係付けられた物語も始まりと終わりがあることからして普遍だ

kanさんがババジに会って得たヒントによると、奥に注意を向けることらしい。
子供の奥には子供を育ててきた親がいて、子供に被害が及ぶと親が悲しむだろう、苦しみが連作するかもしれないなど。
人間が罪人なのは理想的でないから、完全無欠ではないから悪を生むってところ。

生産者は親であり
生産物は子であると言える。
自分は何の母体になっているかってことだろう。
良きものを生み出すにせよ悪しきものを生み出すにせよ
それは自分から生まれたものであり
自分はそれらを生み出す種なのである。

種はバラの種などとして、生み出されたものが種の形容詞になる。
だから人間にしても、生み出されたものによって、自分は何の種なのかがわかるのかもしれない

もしかしたら全ての国のほとんどの党派は分離意識から出たものかもしれない。
だから、どちらに転んでも不幸ばかりなのかもしれない。
だったら統一意識の党派が生まれたらよいのかもしれない。
ただこれらは仮説に過ぎない。まだいろいろな党派がどんな性質をもっているのか知らない段階の決めつけなので。
全ての国の党派を分離意識の党派として、ひとまとめにできるとしたら、それらは同じものの別々の現れに過ぎない。
これらが不幸を呼んできたなら、統一意識から生まれた党派は平和を呼ぶかもしれない。
キリスト教に平和や統一のヒントがあるかもしれないと思っているが、もしそうである場合の理論の仮説の一例

特殊の中には普遍の内容の潜在性であるものの他に、普遍にとって外から付加されたものがある。例えばそれが服である。人間の身体の中に衣服は含まれていないが、一つの身体に様々な衣服を着用できる。前の日も次の日も人であることには変わらないが、衣服は違うのである。
特殊はそれが普遍全体を覆うことで、普遍を内蔵物にもする。しかし、その外装は脱ぎ捨てることができる。それと同じで、理想的な作家や俳優、物真似する人はある人間の主観を纏い、その人間がそう言っているのを誰も聞いたことがなくても、その主観が言うのが可能なことを言うことができる。人間の思想というのもこの普遍を内蔵物にする外装であり、それが全体を形づくっているように見えるので、内蔵物だけでなく、その思想をも普遍だとして、普遍の領域を特殊と区別がつかなくしているのではないか。なので内蔵物とはパイロットであり、思想とは乗り物と言える。その乗り物をガンダムにするのか、ダンガイオーにするのかは自由である。もしかしたら思想を表現する乗り物が作れるかもしれない。

外的特殊の応用は服や乗り物の他に、洗剤などの化学にも応用できる考え方と言える。油を内蔵物にする外装をまとわせたり、毒の化学成分にある化学成分をまとわせるなど。化学結合は互いが互いを着ると言える。炭素の六角形は化学成分の身体性の獲得と言えるかもしれない。炭素の六角形が円環的な身体になって他を着る

一般自然科学は原因と結果が概念的

物理学の物質の膨張と縮小、そしてエネルギーに動きが含まれることが概念的である。
化学の元素は元素記号を中心にして他の元素記号と結合できることを示す線があり、それは元素が元素を纏えることを示す。
生物は一般遺伝子、たぶん、典型が概念的である。

地学は原動力の太陽と重力、地球の内部活動がある。これらがいろんな地学現象の原因になっているのではないか。

そして自然学的には、土、水は形が潜在しており外装にもなる。風は匂いや水分どの成分で自分を飾る。水も自らの中に土成分を溶かし込んでそれを飾りにする。土は飾りになる。飾りは修飾語で表現できる。
火は侵略、浸透し、全てを貫こうとする、自分が全てを統一しようとする

目的概念の中に社会規範がある。社会規範の概念は小さい自分を超えた普遍的な目的であり、本当の自分が普遍的なものだとしたら、社会規範こそ隠された人生の目的かもしれない。だが、人生の目的を頭では解決できない。
思考は意識の外装を変えるだけだ。それは思考の動きではあっても心の動きではないのだろう

自分の中の全ての自分の本質であるようなもの、それは個ではなくて、普遍的なものであり、全ての自分に関係するもの、それは何かと言えば法律や道徳などであろう。この本質を外に現し、この本質を目的にしてこそ自分らしく自由に生きることになるだろう。

機械の緻密な作りの形を見ると、これが機能美で唯物論の美点なのだろうかと思う。機械にもいろいろ概念的なものを見いだせると思う。例えば車はタイヤなどの可動部分と、不動部分に別れる。これが外見上の概念的なものであるように思う。この可動部分と不動部分があって、車を小さくするにはどうするかというなぞなぞに備えることができる。タイヤの空気を抜けばよい。

それはともかく、様々な機械の仕組み、社会の仕組み、芸術の技法はそれが個別は普遍的でもあるという原理からして、それぞれの仕組みを、他の分野に組み込めるはずである。だから機械に芸術の技法や作品内部の要素同士の関係を応用したり、機械の美点を芸術に生かしたり、これら2つを社会に組み込んで、社会に身体性と精神性を組み込めるかもしれない。
なので専門家は個別的かもしれないが、現れの普遍性を思えば教養も大事だと思う。例えば仕組みが大事な専門家は、いろんな分野の仕組みを知ると、自分の分野の仕組みに組み込める何かを発見できるかもしれないのだ。

機械の美しい仕組みを知るのも面白そうである。

お笑いも人間から見いだせるお笑いがあるけど、テレビは動物のおかしな行動からお笑いを見いだしたりしている。人間のエラーからお笑いを見いだすとしたら、これはパソコンのお笑いを人間に応用しているのかもしれない。
なのでネタのヒントは世界の中に埋もれていると思う。ネタが尽きてきたなら、ヒントを得る領域を食い尽くしたのかもしれない。

間違った世界の仕組みを想像する。
それも偽りではあるが概念の現れであるので、偽りの中にさえ、真実は現れると言える。
自分は自分の経験の範囲内でしか世界を構築することができない。だから自分の経験から言わせると人生に意味などない。シュタイナーに言わせたら地球は球ではないというが、それは自分にはわからないことだ。
自分の経験できないことを経験する人がいて、
それが自分の限界を超えるヒントを提供してくれるのだ

自分の立場が危うくされると、自分の立場を弁護しようとする。ある他の人にも当てはまる心理が自分の中にある。この心理が悲劇につながることもある。もしかしたら真実の自分は世界観などにはないのではないだろうか。いろんな世界観を抱く人がいることから、世界観は人間の普遍性にとって外的であり、それは内面の衣装に過ぎないのではないか。日本人が思想がないと言われるのは、この争いをしない平和主義の現れかもしれない。勿論真実の世界観を纏う人もいるかもしれないが。その人は正しい世界観を通して世界に正しく関係づけられるだろう。

自己の本質は道徳的な宇宙の原型かもしれない、つまり自己に一致する内的な普遍としての世界観は、自己の内側を直観して取り出されると思うが、それ以外は自分にとって外装に過ぎない。正しい世界観は外装ではなく、しっかりと自己と一致し世界と自分が正しい関係に置かれていること。そのためには自己の精神を直観できることが必要。自己を直観してない正しい世界観はそれでも外装のように感じられるだろう

思えばヘーゲル的なものが自分なりに理解できたのはいきなりではなくて、試行錯誤の段階があった。ヌーソロジーは自分の過去とは似ていない。時間はあるので気ままにゆこう。

ものが時空の中では多数化する。それが再びものになる、そしてさらに多数化するのは爆発と爆縮の繰り返しのようなイメージ。

時空は自分の中にあり、時空の中で他者と自分は融合するのだろうか。時空が自分の内在であると直観できたらよいことになる

精神の纏う衣装は鎧や砦、城のようなものだが、中には精神と同じ形式の家があり、それにより精神を知覚できるようになるかもしれない。これが始まりに戻る道ではなく未来に向かう道だろう。
シュタイナーによると道はアルファに向かうものだけでなく、オメガに向かって見いだせられるものがあるらしいので

直観的な言葉が全ての分野の土台であるので、一つのある分野で使われる直観的単語はその分野を超えた分野横断的領域を形成し、様々な分野に使われたその単語が示すものを一つの集合にするのだろう。その分野横断的単語集合が、様々な分野に降りていき、新たな発送などになる。例えばある分野で使われた仕組みという単語が示すものが、別の分野で使われた仕組みという単語が示すものと、仕組みという単語によって一つのグループを形成し、そのグループから、その単語を使う分野は自分の分野にはないが応用できるかもしれない直観を蓄えることができる。

太古の時代から普通の人たちは既に悪には悪を返し、憎悪や欲望にまみれた生活を繰り返していたに違いない。それは文明という衣装を変えながら今日まで続いていくほど、人間の中に根づいている。前の文明ではビルなどの大地の飾りはなかった。太古の時代に、この問題を解決するための教えや書物が作られた。この教えを批判してたどる道には進化の道と退化の道がある。太古から今日まで繰り返された生活に戻ろうとするのが思想の退化の道である。道徳の教えは思想的には古いかもしれないが、現実としてはまだ大衆の現実になってない意味で新しいのである。この思想を批判しても、人びとの意識や生活は迷ったまま何も変わらないというのが思想を退化させる道である。

知性の内容が時間の中で明らかになってきたと考える。知性が自らの全体を明らかにするまで、それの現れとしての大地の飾りは変化してゆく。もしかしたら知性は全体があり、全体があるとしたら、知性の文明には限界があるって話。無限の知性があれば話は変わる。
知性の全体を明らかにする作業が学問だろうか。では善や美、その反対物などの心の全体を明らかにする作業が芸術や宗教だろうか。
心はなっていく。知性は認識原理になっていく。

認識原理を探求することができるかもしれない。まず認識原理は自然の中に求めるべきかもしれないが、人びとの主観の中にある認識原理も、探求の対象になりうる。概念を見いだすだけでなく、自然の中に美を見いだす人もいるので、形がどんなでどんな配置でそれを美の現れとしているか。この自然から見いだされた美は、自分の中の美を見いだす認識原理が働いているからではないだろうか。他にも善を見いだす認識原理などがあるかもしれない。これも、いろいろなものが、概念だとしても、その概念が具体的にどうあるかから見い出される認識原理だから、概念的認識原理を得た後は、それをもっと具体的にしていけるだろう。

観測されると波が粒子になる話は、
意識は認識するために波を凝固させ個にするのではないか。

つまり意識には認識対象を輪郭付ける力があるのではないか。

いろいろなものを概念として表現できるけど、
概念として表現されたものは具体的な表象をそのままで概念と言うから、具体的なものを具体的なままで言おうとすれば、概念という言葉を使わなくてもよいが、概念であることを強調しようとすると使わざるをえない。形容詞や名詞、副詞は自然の中に直観できるものであり、それらは概念的関係にあるが、それらは抽象的であり、個々の自然に見いだされる品詞には個別具体的な表情がある。抽象的に表現すること自体が、全ての具体的なものを画一化し顔を均一にするって欠点があるのだろう。具体的なものを目指した結果、人智学では概念は意識の照明に照らされた背後に隠れることになったと思う。


自然も精神も概念であることから、自然と精神を結ぶ鍵は概念であり、概念はどう運動するかを見いだすことができると、それと同時に自然と精神の運動も見いだすことになるかもしれない。

概念は抽象的だけど、概念はその中に自然と精神を含む点で、具体的なものが隠れている。具体的なものが隠れている抽象的なものが概念だと思う。概念からいろいろな顔が顕在化してきて、どんどん具体的になっていく

タオルという概念は円を思い浮かべるのではなくタオルを思い浮かべる必要がある。
このタオルが様々な皺のある表情へと変形する。
これはミクロなところまで考慮にいれると相当に繊細な幾何学だと思う。

日常生活から概念を見出していくことができるので、
それだけで修行になるかもしれない。
空や海の具体的な流れから概念を見出そうとするなどの精神的自然観察も修行になるはず。


誰かが被った出来事に対して共感するとは、同じ感情を抱くことで、両者は同じになるのかもしれない。感情も普遍性をもっているので両者は同じ感情を抱くことができる。完全にシンクロしているとは言えなくても、同じ感情の別の現れとなる。出来事と感情を抱く人の関係が、出来事と共感者の関係と同じになる。

悲しいときに他の人も悲しいと感じるのは完全なシンクロでなくても共感していると言えるのだろう。

言葉が学問分野を超えていてだからある学問の単語はその一つの分野に縛られているとは限らないのは、人間と職業分野にも言えることだと思う。人間は全ての職業分野の土台であり、ある職業分野で培われる能力は人間の能力だから、その時点で一つの分野に縛られないはずだ。
また、一つの分野に完全適応してないが、ある点で適応している面があるのを見いだすなら、それを手がかりに完全には適応してない分野に飛び込み、その中で必要な能力を付けていくという考え方。ある集合と別の集合が隣接していて、ある集合に含まれている部分は別の集合に含まれてもいるものであり、それを手がかりに別の集合に移っていく

ポジテブな思考だけでなくネガチブな思考もできるので、
思考は固定的でない。だからどんな思考をもっているかを見てもあまり意味が無いときがあるかもしれない。
思考だけでなく、どんな意志や感情を持つのかを見る必要がある場合もあるはずだ

自然から取り出された概念はしたがってなんら新しいものではない。まあ意識によるが。例えばこの哲学にとっての、いわば哲学的工学とは、普遍性個別性の概念を含むもの、つまり論理学や数学やプログラミングになると思う。つまり、あらゆる分野に概念があるなら、あらゆる分野が本来哲学的な学問であることになり、哲学的工学と言ってみたところで、それは新しい工学分野ではなくて、既にある工学がそれなのである。なので基礎として統一原理の哲学の直観がわかったらどれかの実践分野に進めばよいと思う。どの学問にも哲学は見いだされるはずである。この哲学は学問に縛られないあらゆる生活分野に位置する人びとを結べるもので、教養かもしれない。

プログラミングはそれで世界観を表現できるし、建築やビジネスでも、建物と人員で、ムーミンなどの世界観を表現できるし、絵画だけでも曼荼羅などとして世界観を表現できる。
もちろん自然言語でも。なので一つの分野の技術でそれなりに全体が表現できるはずだ。
あらゆることをなせる一つの技術とはこのようなものだろう。
また一つの分野に人間の構成要素が含まれているなら、それも全体的だ。

第一文型は世界成分の存在が存在すること、あるいは存在が移動すること
これは存在が世界に対しているようなイメージだと思う。世界の中にある存在。大きな円の中で存在し動き回る小さな円
第二文型は存在の変化や状態、知覚であるがこれは世界とは関係なしに存在自身のみに含まれる
つまり存在の中にある成分を記述するというイメージ。小さな円の円自身に含まれているものといえば
知覚される成分や状態、成ることだろう。だから互いに等しい
第三文型は一つの存在だけでなく、別の存在が登場し、働きかける、かけられるという関係を結ぶ
例文 それが頭にあたる
第四文型は働きかける働きかけられるという関係が一つのものとして、それがさらに第三の存在と関係する。
つまり、与えるという構造である。
第五文型は第二文型というそれ自身の中に含まれるものから記述が生じたものが、今度は第二の存在者によって生じる場合。 これは存在が存在に働きかけてという第三文型が、働きかけられた存在自身の中にまで働きかける場合といえるかもしれない。 第三文型では、それが頭にあたるなどのように、あたることによって頭内部の変化に目を向けられなかったが、第五文型になると、第三文型の働きかけられたものに内属するものにまで働きかけたものと見ることができるのだろう

これを日常に応用すると、日常から文型が見えてくると思う。
自然言語は頭で作り出されたものではなく、日常の自然から取り出されたものなのだろう。
語学は自然学でもあるはずだ
たとえば犬をなでるのは第三文型であり、犬が気持ちよさそうにするのは第二文型だが
これを「犬をなでたら気持ちよさそうにした」とできる。
これを犬を気持ちよくさせたと言い換えたら第五文型になる。 なでるという働きかけが、働きかけられたものの
内部にまで働きかけるのである

名詞と動詞だけで存在することと移動することを確定できる これは名詞の中に動詞が含まれているとできる。
なぜなら他者に動かされる場合でも、その他者が名詞となるからだ。
名詞と動詞と補語 名詞で示された存在そのものの移動してても移動の中にさえ浸透している名詞と一致する内容を
補語で確定する。動き回っているものそのものに浸透しているのは体調、感情などの状態の変化や存在そのものに含まれている味などの知覚成分、またある特定の動きのパターンを包括している職業や、全ての動きをも包括しながらの成長、などをまとめて変化といえば、状態、知覚、変化の三つが第二文型といえる。これは名詞の中に含まれる動詞以外の要素だろう。
名詞が自分自身から他者へと注意を向けるなら、名詞動詞目的語となる。
名詞が目的語と関係し目的語にたいして働きかける。これは名詞が動詞を含み、動詞が目的語を含んでいる
第四文型は名詞動詞目的語目的語であり、名詞がある目的語となる存在に働きかけて、その目的語となった存在を別の目的語である存在に働きかける。 動詞がある目的語を包んだら、その目的語を含んだ動詞全体が別の目的語を包むという構造だろうか
そして第五文型は名詞動詞目的語補語であるがこれは名詞が動詞を含み動詞が目的語を含み、目的語ないし名詞が補語ないし名詞と形容詞を内属させていて、外から目的語を変化させるような特定の動詞が目的語を含むことで、目的語の補語が変わるというものである。

これを論理学やプログラミングで表現できたら、自然言語と人工言語が形式的に一致しているタイプとみなせるかもしれない。
もうあるかもしれないけど

第二文型は名詞存在に含まれる名詞と形容詞を明らかにするものである。
その補語は名詞存在に含まれているが
目的語は名詞の中には本来含まれて居ない。しかし名詞存在がそれをあらかじめ記憶していることで
それを求めることができる。
目的語は名詞存在から無関係な領域にいて、名詞存在が動詞によって移動し、目的語が存在する領域に近づくことで動詞の作用が及ぶ領域にその目的語が含まれたとき、第三文型、第四文型、第五文型の発動ができるようになる

形容詞と動詞は副詞によってさらに個別化する 目的語も、ある名詞存在であり、補語を含んでいて、可能なある動きを含んでいる

文型は文の核であり、それを飾る修飾語がある。たとえば前置詞句などである。
これは場所を飾る。これはある文の発動がどの数学空間で行われたかを表現するものだろう。
そして動きの可能性、普遍的な動詞は力であり、力の中に動きが含まれている。
だから力の全体が名詞存在がどのくらいの間動けるかを決める。そして力を補給する。
それぞれの文型専用の動詞がある。

自衛隊が後方支援として運んだ弾薬は人間の肉体を貫いて地面に辿り着く。後方支援とは、肉体を貫くまでの武器の流れの過程であり、レールガンを発砲したときのレールの部分みたいなものなのだ。だから武器会社も後方支援も長くて見えにくいレールガンの発砲のようなもので、後方支援や武器の供給は武力行使と一体なのだ。

自分観察で自分と仕事の一致する部分を見つける。そんな仕事がいくつかある場合、どれを選ぶかと言うと、一致しない部分は一致するように自分を変えなければならない部分だから、その壁を克服しやすいものを選ぶように自分はした。意志決定プロセスは経営学がやっている。決断力のない人は意志決定論は参考になるかもしれない。自分は決断力がないのが問題である。

できるようになる方法の一つは、対象にそれができるようになるための正しい概念を与えることである。例えば家事なんかでは、家事の分野の対象に、家事をするために必要な概念が与えられていないと、家事ができないだろう。
まず、包丁は切るためのものって概念ないし記憶が包丁に与えられている必要があるが、その他にも、まな板というある対象に原因結果の概念を与えることで、家事に深みを与えることができる。まな板には食材以外は乗せない、というのも、食材以外の何かを乗せたら細菌がつくかもしれないからである。これは知覚世界に思考が2つの因果を結びつけ、どちらか一方を選ぶってやり方である。もしこの2つの因果の概念をまな板に結びつけていなければ、その人は結果を限定することができない。知覚世界にどんな概念や因果概念を結びつけるかで、できることが変わるのである。例えば他にも、道路に運転の法律や標識の概念ないし記憶を結びつけていると安全性が高い運転ができるようになるだろう

知覚世界に概念世界を付与していって、世界を深めていくのが勉強の意味なら、理想の勉強とは、知覚世界を本にしてそれに概念を与えていくような勉強だろうか。本だけの勉強でもなく、知覚世界を体験するだけでもない。資格の欠点は、文字がどんな知覚世界に内在しているのかがわからないってことである。

今まで自分は人智学の勉強した内容を知覚世界に結びつけてなかった。人智学には限らないが、知覚世界に勉強内容を結びつけなければ頭の中の単なる文字の知識で終わってしまう。人智学の思考内容を知覚世界に結びつける作業をこれからやってみよう。

球が球に当たると、普遍と個別の関係になるのであるが、当たられた方も反発により当たる側に対して普遍と個別の関係にあると言える。これは同じもののそれぞれの特殊性であると考え直せる。もしかしたらこれら両者は結びつくことで一つとなり、当たる方も当たられた方も、一つに結びつけられた力の総体の特殊になり、総体的な力を主観にした、その法則的主観による右手と左手の操作になるのではないか。力は分配され、向きが変わることを表現しなおしてみた。これで解決したのは、ヘーゲルは相互作用から概念論に行くのだが、原因結果が反発により結果原因になり、2つは同じものの特殊性になるってことだったのかもしれない。だからここで普遍性特殊性の概念的関係がなりたつ

知覚世界を深めるために歴史を意識することが上げられる。知覚世界を埋め尽くす商品には歴史があり、今は段階の部分なのだ。生物も進化してきた。宇宙や地球も変化してきたのだ。一日の苦労がその人の歴史と、その人の身体に刻印されるのだ。刻印された宇宙として、自分と過去は切り離された過去形ではなく過去分詞形の形容詞が、今を飾っているのだ。この地点は昔の人が住んでいた歴史が刻印されているのだ。この空間は生きられていた空間なのだ。

形象は、色彩心理学や音響心理学、匂いによる心理的効果があると同じで心理的効果があるだろう。だから絵画なども心に作用し、笑顔な顔や不機嫌な顔も心に違うように作用する。
人間の体の全面は知覚される限り他者に作用を及ぼす。整った身体を見ると、見た人の心まで整うのではないだろうか。形象心理学である。
たるんだ体は、雨のように気分を沈み込ませる効果がありはしないか。しかし太っている人を攻撃する風潮は攻撃された人の気分を沈み込ませる。作用としてはデブ非難もデブも同じかもしれないので、ここは寛容であれたらよいのに。心もデブでもガリでもなく整った心がよいのだろう。
もしかしたらぽっちゃりしていることは気分を落ち着ける作用が必要な場合、役立つパーツかもしれない。クマのプーさんが癒し系だとしたら、ぽっちゃりしていることも要因の一つではないだろうか。

身体は環境に作用するとする。デブを含む不調和な身体は環境に作用し続ける、それは心も同じである。身体が不調和だとデブなどに見えてしまいそれが嫌だと言う人もいる。ならば、心が不調和であると、心は嫌な姿をしているのではないだろうか。

絵を書くとき、顔なら顔に含まれている個別の顔をあらかじめ記憶にとどめておく。顔という領域に含まれるそれぞれ特殊な顔を記憶にとどめておく。顔以外のパーツもあらかじめ想像して、その領域の中で個別の形象を記憶にとどめておく。こうして形象文字ができる。形象文字を組み合わせて一つの姿を描く。

家事は誠実になるといくらでも仕事がでてくるという。いいかげんになり、家事をさぼる工夫を考えるべきだという。
近い誠実さでは、本質をつかめないということかもしれない。遠くまでの誠実さは近い誠実さに比べたらちゃらんぽらんないい加減さであるが、この遠くまでの誠実さが、本質的な仕事をつかむのかもしれない。遠くまで届くいいかげんな誠実さは
近いのも遠くのも抱きかかえるから本質的だと言える。その代わりにいいかげんな誠実さは、本質をつかんでいることが条件になる

奥行き性を表現するためには広さではなく近さ遠さの形容詞をつければいいのかもしれない。
近さ遠さは広がりをも含んでいるイメージだ

遠くまで届く誠実ないいかげんさというのは、近くのものも抱きかかえるが、非本質的な部分は捨て去るのだ。
近すぎる誠実さは、非本質的部分までつかんでしまう

部屋が混雑していると虫がよってきて糞を点在させたりして、部屋がいわば病気になる。
たぶんこれは人間の身体が不潔だと細菌にかかりやすくなるのと同じ論理ではないだろうか。
人間における細菌と、部屋における虫や糞が同じ関係にあるのだ。
寄ってきた虫はこの部屋を拠点にして周囲に展開し感染していく。
部屋の混雑が持続したら部屋の不調和をきたすので、それを取り除いていく。
時間をあまり使わないために綺麗にする領域を限定しながらやる。
持続の中に広さがある。ある持続期間である広さを処理できる。一瞬のうちで手を広々と動かすことができる。
家にある物は持続する、その中で不調和をもたらすものの持続を見出して処理する いくつかの持続する不調和のうち、
ある広さだけ処理する。処理とは不調和の配置にある物を調和した配置に戻したり、捨てたりすることである。

批判的意識は人間の粗雑な部分に焦点をあわせる意識だとして、人間の美点を見ようとする意識は粗雑な部分を超えて、さらに奥を見ようとする意識なのかもしれない。なので美点を見ようとする意識が批判的意識よりは全面的意識なのかもしれない。なので批判的意識だと認識力が落ちることになるのかもしれない。

本質的行為とはあるとしたら何か。
それは本質だから霊のような持続性のある行為だろう。
持続的結果をもたらす行為が本質的行為と呼べるかもしれない。
それはたとえば大建築物や芸術作品のような長く古典となって残り続ける結果を生む行為が本質的行為だろう。
ここまででなくても、自分の人生の中で長い間結果として残り続けるような行為でもよいとおもう

与えることのなかには従うことの他に従えることも含まれている。上に立つものも、仕事であるならば奉仕の一部ではないだろうか。
なので、キリスト教は奴隷宗教ってわけでもないと思う。日常で何かを命令されてムッときても、それが自分のできることならば、太陽のようにその活動を与えること。攻撃するためには相手が必要なので、相手が与えられなければ成立しない、そこでキリストは殴られたら、体の別の部分までも差し出して与えるのである。
行為の面では能動と受動が与えることともらうことになると思う。そして、与えることも、もらうことも反発によって同じものの別の現れとなる。すなわち、与えることはもらうことである。ならばもらうことは与えることになる。もらう側が与える側に与えて、与える側がもらう側からもらうのは同じものである。与える側は、与えることにより、何を得ているのだろう。

与えることは、もらうものが得たことにより、何らかの活動が展開できるようになることであり、それによりもらうものの進化や成長が進む、その結果、もらうものは与えるものにまで進化する、この与えるものがいろいろな人に与えることで、宇宙は展開し、進化してゆく。つまり与えることは自分を育んだ後で周囲を展開、進化させることにより、よりよい環境や社会を自分が得るってことかもしれない。もちろん社会や環境はみんなのものであり、誰のものでもないかもしれないが、社会や環境も自分の一部をなすと考えたら、その一部は自分のものと表現でき、自分を進化させたら、次は他者に向かうのではないか。

まあこれは自分の見解である。
もしかしたらキリスト教の本質に進化があるかもしれない。進化を妨害することを掟として禁じているのではないか。進化を促進する愛を与える。姦淫は禁止なので愛を与えると言っても女体のあれこれダメなのであるし、何でも与えるわけでもないのだろう

与えることは自分が、より進化した世界を得ることだと思うが、実は自分を超えていて、与えることはより進化した世界をみんなが得ることなのだろう。

自分が広大なものだとしたら、自分だけでは幸福になれないのではないか。極端にいうと宇宙大の自分がいるなら、自分一人の幸福では完全な幸福ではなく、全ての人間が幸福であれば、真の幸福を獲得できるのではないだろうか。
全ては自分であるって考えなら、一人だけの幸福は真の幸福ではないはずだ

台風の下では都会は不便だ。それは台風の形と都会の形があわないので、台風が都会を破壊するというイメージだ。奄美らへんはよく台風被害にあうが、これほどまでに激しい被害はないだろう。それは土などの自然が多いからではないだろうか。つまり、自然災害環境下では都会より田舎のほうが便利になる。便利さも相対的なものなのではないか。要するに都会とは普遍性のある町ではなくて、田舎と同格の互いに特殊なものであり兄弟ってことだろう。

都会は自然の中で人工物の中に引きこもるようにして自然を否定する。人工物で自然を塗り固めてしまうのだ。きっと極端に人工物に引きこもると、それだけ極端に自然を否定することになるので、自然からも極端に否定されることになるだろう。人工物は必要なので、人工物を自然的人工物にする必要がある。

ある資格を学んでいるが、その資格の内容は具体的な現実を扱うはずなのに
干からびた死骸のような言葉が使われている。

これをさかてにとってある儲かる一つのアイデアが浮かぶ。実践できるかは不明だが、
資格の内容を具体的にして、有機的にまとめあげて、資格内容に精神を宿らせ、商品化するというものだ。
個人のある商品への不満が商品進化のヒントになりうるのだ。

他人の商売システムに依存する前に自分で商売システムを考えるのが理想ではある

依存してると言ったり、大変なときに的外れな都市論やったり、すみませんでした。

もう書き込むの止めます、ありがとうございました。そろそろ潮時かなと

のめーるさん。

今の経済システムは、言われるとおり、完全に「他人の商売システムへの依存」なわけですが、なかなか、乗り越えるのは大変ですね。相手も、熟練のプロであり、生き残りをかけているので。

私自身は、書き込みを続けることは構いませんが、ある程度「出し切った」感があるなら、しばらく休んでみるのがいいと思います。今回は、そのように、湧き出た考えをアウトプットすることに意義かあったかと思うので、とりあえず目的は達したのかもしれません。

また、新たに考えを書き込むとしたら、今度は、あまり連続的にではなく、一定の期間をおきつつ、ある程度焦点を絞って、じっくりと進めて行くのがよいかもしれません。

また、質問やその他のコメントも、もちろんこれまでどおり歓迎します。

のめーるですが最後に。

あたりまえのことですが、戦闘機械への給油も武力行使と一体化になります。たとえば戦闘機に給油するとします。
日本によって給油された燃料は戦地へ行くために使われるでしょう。
戦地へ行くために給油される場合、その燃料が機械を戦地へ運び込む要因となります。
戦闘機は戦地で戦争行為をします。燃料がなければ戦地へ行けないので戦争行為ができません。
だから戦争行為をするための前段階が戦闘機への給油となります。日本はその戦争行為の前段階を用意するのです。
なので日本にも戦争責任が生じます。戦争に加担しているので。
簡単にいうと日本の力が戦闘や殺傷の原因の一つになる。パイロットの引き金だけが殺害原因なのではなく、
原因というものは、もっと以前のものをたどることができるのです。
なので戦争はパッと浮かび上がる固体なのではなく
流れなのです。日本もその流れの一部になるなら、戦争と一体化したということです。なので日本はこれから間接的に
敵とみなされた兵士を殺すことになります。そしてこの流れを受け入れた日本国民も原因の一つなら、国民も間接的に人を殺すことになる。こうして集合的カルマが積まれます。戦争と一体化するのは政府だけでなく、国民も道連れってことで、
つまり日本国民も報復の対象になりえるってことではないか。 無差別テロというのは、もしかしたらその国に属する国民全てが殺害加担者だから、全ての国民が報復の対象であるってことではないでしょうか。

天瀬氏がコードロジーで予言をしています。彼女はツイッターもやっています

じゃあこれでしばらくおやすみします

ネタがたまってきましたので書き込もうと思います。

どんな他者でも自分の限界を超えた存在であり、なので参考になる言葉を言いうると思う。
話半分に聞いておけばよい他者などとしてある他者をわざわざ軽んじる態度で接するよりは、
どんな人にも接するように普通に接したらよいと思う

自然は、今現れている自然の一面だけでなく、真実の可能性全てという面の、一面的な現実より広い自然
というのがあるとする。あらゆる制作はその真実可能な自然、つまり一面的な自然にとっての隠された自然を
顕在化する。言い換えると、今現れている自然に、新しい自然を付け加える。
著作権は、この新しい自然を自分の領土とする。デザインをやる人というのは、
次々と新しい領土を自然に付け加えていきながら、そこから金を摂取する。
面白ければパクリではない説は言い換えると改善したらパクリではないってことで、それは付け加えられた自然の既にある領土を含むような広い領土を打ち立てた場合や、思想における止揚したものなどだろう。
パクリとは、そのような超えたものではなくて、ほとんど同レベルのもので、同じ領土を別の角度から見たに過ぎないような
作品のことではないだろうか。たぶん、新しい自然の領土はその変形体も含まれるので、変形したに過ぎないものは
全てパクリなのかもしれないという考え方はどうだろうか。何が違う角度から見たものに過ぎなくて、何が進化したものかは曖昧である。

私が広大な存在ならば、他者のために生きることが本質的な自分のために生きることになり、人生の意味になりうるかもしれない。

私が何であるかは、自分の現在進行形を見ればいいと思う。過去と未来を結びつけるような過程が私だろうから。
遠い未来の私は何をしているかはわからないので、完全な私がわかるわけではないかもしれない。
私は人間である。心と体がある。心と体はその次元における我であるのかもしれない。
心の次元では、多重人格や俳優のなりきる魔術があるように、心は他者になれると思う。


普遍性のある能力、あらゆる後天的能力の本質はあらゆる動きを含むような具体的カテゴリーとしての動きだと思う。これを見いだすことができたら能力の哲学になるだろう。

概念は自然の中にあるから、概念で見いだせる現象は全ての自然にあることになる。
こういうのを方法論と言うのだろうか。
なので学問における普遍能力の一つに概念がある。だが、私は仕事の普遍能力を求める。

文型が実は概念的なものとして考えられ、文型が全ての文で表せるものの本質となる。
第一は概念の存在性と、概念の中に含まれる動きである。概念がある特殊をまとう移動
第二は概念に含まれる性質、本質、状態であり、生成は本質の中の性質や状態の変化である。本質の中で特殊がまとわれており、そのまとう特殊が変わり、別の特殊をまとうことになる。
第三は外界の個別と普遍性特殊性としての主体との結合。主体が個別をまとうともいえる。結合に関しては、互いが接着されているというのは相互作用であり、互いに互いをまとっている。
第四はまとわれた個別を別の個別にまとわせる。与えること
第五は主体が個別を結合することで個別の質が新たな質をまとうようになる

普遍的能力を得るとは、すぐれた神経に作り替えるってことだろう。
それは応用範囲の広い、かつ精神的な概念的認識を繰り返し学び深めることにより、その普遍性の形を持つ思考エネルギーを神経に作用させたらよいのかもしれない。こうして全ての領域で器用になる。そのためには内的に学ぶことが必要だという。なのでどうしても早期教育したい親は子どもに遊びや生活に応じてそこから概念を意識的させていくやり方をすれば、普遍有能になるための一つのきっかけになるだろう。
子どもの場合は知的な円を思い浮かばせるべきではなく、粘土や服、タオルなど具体的なものの普遍性と個別性の二重性を意識させるに任せて、知的な円のイメージは高校生ぐらいから教えたらいいんじゃないか。
抽象的知的なものは破壊的だから幼少のころにそれを学ぶと何かが失われてしまう気がする。

概念の中に含まれる動きというのは人間の場合は意志が普遍であり、物が落ちたという文の場合などは力が普遍者となり述語が物を含むようになる


人間を普遍者とするのは、人間が行為するとき、人間の主観に身体は依存し、身体に対象が依存するから。
蛇口をまわすとき、箸をもつときなど。言う場合は内部から対象が生じる。
何かをたたくときも、たたかれるものに接することでたたかれるものが個別者となり、その瞬間だけ個別者を主体がまとう。

第五文型は何かによって身体内部や外部、主観の感情などが変化させられるときなど。何かを綺麗にするって場合は汚い飾りを払い落とす。

もっと簡単にいうと第五文型は内部と外部、主観と客観があり、外にあるものが内部を動かすことがあり、内部にあるものが外にあるものを動かすことがあるってこと。普段は行為された相手の主観は見えないが、主観や身体内部にまで自分の行為は作用しているのかもしれない。だから喜ばせたり笑わせたりするのである。

感情は身体全体で表現されるのかもしれない。感情は心臓の鼓動でわかると思っていたが、鼓動が何の動揺もしていないときでも笑うので、感情は表面に忽然と表れたりする。それに頭だけの感情というのがあるかもしれず、思考により水水しい感じがしてくる。

五文型から主観への作用へと思いをはせた。
類より類を含む個人として一人ひとりの顔を思い浮かべるような精神を延長し、
顔の内側の個人の主観にまで思いをはせるようにするのが平和の観点の一つかもしれない
意識の、個人の表面から内部への移行。

つまり具体的な思考が道徳を生むってことかもしれない。
シュタイナーも形象が道徳を生み出す的なことを言っていたが。

人間が何かに出会うのは、相互の凝縮により一種の塊になることであるが、そのとき、互いが互いにとって、奥に潜んでいるものが、軌跡を刻みこみながら眼前に現れてくるってこと。
テレビは、奥を前にもってくる。
主観も奥に隠されたものであり、言葉により他者の奥に入り込む。知覚は奥に入れ込む行為であり、能動的行為を他者にしたら、それは他者の奥に入れ込むことかもしれない。

言葉は個人に向けたとしても普遍性をもつので、個人を超えた力を持っている。その言葉の内容はときおり時と場所を超えたあらゆる人々さえ含むほどであるので、侮蔑するような言葉は、概念が影のような死んだものでありながら、ひどく痛めつける力を持っているが、言葉の力が心の養分になったりもする。

いじめをする心魂を誰でもっていると思う。
それはまさにふざけたり、ちょっかいを出すことと同じ根元をもっていて、これはこの人には多少ふざけてもよいだとかの差別意識が不健全な仕方で現れたものであると思う。侮蔑もこの差別する心魂の結果だろう。差別とか区別も必要だが平等意識、統一意識が足りなくて、社会は不調和だと思う。

何を学ぶかによって、思考パターン、つまり知覚世界に対して、どんな概念を与えて深みを持たせるかが変わってくると思う。この意識の仕方のパターンを同じような学校ばかりだと画一的にしたり、学校の教える意識の仕方になじめない子がいるかもしれないので、批判はあれどフリースクールは必要だろう。普通の学校にも批判される点があるのは同じことであるし。

同じ人間なんだから誰でも心にいじめをする心魂があるが、ブッダのような心魂も入っていると思う。つまり、人間は残酷な人間とも清らかな人間とも同じなのである。違うのは、何を選択してきたかだと思う。選択すればするほど、その部分が発達していく。これは、暗い洞窟の中で暮らす内に目が退化していく動物のと同じように、逆に選択すればするほど、その部分が発達していくという理屈である。そして何を選択したら生き残ってしまうのかは未来にわかる。
ただ、心の行為を選択するのは難しい。

与えるという五番目の文型、つまり普遍が個別と結合していて、その個別を別の個別と結合し、普遍とは切り離すのは、足し算を含んでいる。三番目の文型は普遍の個別との結合だが、私はケーキを切るのように引き算を含んでいる。これは個別の全体と結合した後にそれをより小さい部分に分離して、複数の個別と関係をもつのである。三番目の文型は、私はチームに入るというように複数もひとまとまりにして結合できる。なので三番目の文型の個別が分離してもよいだろう。

ただこれが意味のある考察なのかは知らない。
もしかしたら、自然言語が人工言語の基盤なのかもしれない。人工言語も自然の一部なら文型で言い換えられるだろうか。

シュタイナーによると新約聖書はそれぞれ建築、彫塑、絵画、音楽的な記述の仕方をしているそうです。
なので、それら芸術を直観して、新約聖書の記述方法を直観してたしかにそうだとわかったら、
今度は自分が四つの芸術的な語り方ができるようになるということです。

文型を集合論的に考えてみることもできるだろう。もう出尽くした感がありますね。まだヘーゲルの弁証法は理解してないのでさらに深みをもたせることができると思うけど、そこまでしなくていいかな。バランスをとるために何かの芸術に
取り組んだほうがいいと思うけど無気力です。
集合があり、部分的集合を変化させることで動く。変化する部分集合は外に働きかけたり移動のためのものと、内部で動いて自分の状態を変化させるものとがある。そして別の集合に近づいて、それを部分的集合として含みいれる。
だが、その集合と一致する部分集合と、一致せず外的な部分集合があり、その外的な部分集合は切り離せる。
この外的な部分集合は分離することができる。部分集合と部分集合を結びつけることもできる。
外的な部分集合を含みいれて、別の外的な部分集合に含ませるということ。また、部分集合を含みいれることで、
内部で動く部分集合を動かして状態を変化させることができる。

内部で動く全体と一致する部分集合と、全体と一致しており外部と接するように動く部分集合があり、前者は状態変化であり後者は移動や行為となる。内部で動くとは、その部分集合はある包括的な状態として定義されていて、その中の部分集合が分離して再結合することで、包括的な部分集合の中の別の部分集合として再生するという個人的解釈だが、状態変化のヒントは生物学から得られると思う。

思考、学問領域は時間をかけたので
次は感情、芸術領域と意志、魔術領域だろう。

魔術は類比が使われている。心の世界は類比の法則もあるのかもしれない。共感、反感とは別に。
模倣魔術とは類比である。星の運行から人間の人生を占うのも類比だろう。
占星術は、星が物理的に人間に作用しているというよりも、星星に私たちが遍在しているのを見るのかもしれない。
私は地球上にもいるけど、星たちの中にもいるのである。それで星は規則正しく動くのでその中の私も規則よく動き、
そこから私たちの人生の規則までわかるという理屈かもしれない。そのためには、自分は何と対応しているのか他者は
何と対応しているのかがわからないといけないのかもしれない。概念的なものがあちこちに見られるのだから、個人的なものがあちこちに見られてもおかしくないんじゃないか。個人は個人として一般的でもあるのだ
逆にいえば、地球上の人々の動きによって宇宙の運行が変化することもありうることになる。それが黙示録の天体の不吉な兆しだろう。個人が別の個人と同調することにより個人の離れたところでやった動きが別の個人にも移るようになるのだろうか

照応の意味がよくわからないが対応の一種だと思う。
たとえば愛は金星に照応するという。
金星人、火星人などとして個人を星に対応付ける占いがある。金星人とは金星と照応する個人なのである。
星座も星の群れと個人との照応である。
シュタイナーが何かを人間の構成要素と対応付けしたのにも似て、個人は何と対応するのかという問い

絵を描くときにけちをつけるとしたら、絵の具も道具も、外的であるということ。自分の心に画用紙を作り上げて、心の筆で描くべきではないだろうか。そうしないと、外的なものに心が依存してしまう。ほんとは心に描かれたものが自らをよく表現できるような道具や技法を選ぶべきではないだろうかという理想

文型のイメージはマクロな視点もある。太陽が地球を暖かくさせると第五文型的に考えると、太陽が地球に放射して地球がまとう大地や大気圏の熱が活発に動き出すという形で、地球の自身を動かすのである。太陽が地球に光を与えるとみなすと第四的になる。
でも数学みたいな表現力がないのが欠点である。

個人がある天体に対応していると、天体は各臓器にも対応しているので、全ての人間のある臓器の中に個人が遍在しているのかもしれない。天体を通して例えば心臓に対応する個人がいて、その個人が調子よいと、全ての心臓の調子もよくなるのかもしれない

魔術的世界観では照応によって類比的に存在が結ばれている。
ヒマワリと太陽は照応する そして心臓と太陽も照応する。
これらの照応はなんとなく受け入れられるものだと思う。
特にヒマワリは太陽となんとなく似たところがあるように感じる。
存在は別の存在の象徴でもあり、こうして界と界が結ばれていく。
全ての界を結ぶ界は小宇宙たる人間界かもしれない。
なぜ結ぶことができるかというと、類比されたものたちは深いところでつながっているからかもしれない。
だから人間の物質体は宇宙創造のいろいろな本源の力が組み合わされ秩序づけられたものかもしれない。
宇宙創造の本源はカバラを参考にすると、一つの最奥の本源からツリーのように分化しているイメージで
この「一本」の創造の体系から「様々」な界が作られている、だからそれぞれの界は共通の本源で結ばれているという理屈だろうか

なのでカバラーのある一つの本源を担う存在を集めたら、それだけで全ての界を網羅することになるのではないだろうか。
なのでそれだけで一つの世界観となっている。
そして全ての本源が一つのものとして、それぞれの世界が一つの宇宙の中に組み込まれているのだろうか。

カバラーはまだ勉強してないので予想である

安部首相の考え形と似たところがあるのがわかった。鳩山さんとも似たところがある。
両者ともどんな人か断片的にしか知らない。

政治の考え方のイメージは時代の流れと形を知ること、日本の現状の形を知ること。そこから生み出される策を時代の形に埋め込んでそれがはまるかどうかという抽象的イメージしかないが、これを、もっと具体的にするには文型のイメージが応用できると思う。日本がある国に援助を流し込むとそれを受けとるものたちへと分散してゆき、人々が満たされるが受け取れなかった人もいるなど。これは国家が別の国の内部に働きかけて内部の質を変えた五番目の文型から出発したイメージである。まだ形が何かもわからないのだが、この青白い流れが上昇してゆき周囲に散り咲くような全体の展開の流れが形なのかもしれない。

文型のイメージはそれに素材で肉付けできる。例えば四大元素などにより。
文型のイメージはそんなのなくても無意識に使っていて学ぶ意味はなく、想像の出発点にしかならないだろうか。
もしかしたらこれは想像の本質でもあるんじゃないだろうか。本質をイメージに浮かべておくのとそうでないのとで何が違うのかはわからない

イメージのイメージ、の一例として
概念的文型があるという仮説。
ヘーゲルは想像力からの発展の次に言葉があるとしているが、偶然にもその説と一致した。

これの欠点は、これは視覚の想像力だけであり、味や音の想像力ではないってことである。
光の想像力が文型の骨格を作り、光や音、味などの五感の要素から意味が作られて、それに音の想像力から生み出された声をまとわせたものが言葉だろうか。

形式の正体は光かもしれない。物質の本質は光と言われる。視覚的想像力、光的想像力から生み出される文型は、光の中に潜在していて、人間はそれを掘り出したという仮説

第三文型は流出と吸収であり、そのどちらも含む買うも第三的動詞である。
買うとは自分がまとう一般商品を売るものに流し込み、売る側から売る側がまとう商品を自分に吸収すること、つまり互いの特殊性の交換である。

何かの需要を持つ人とは、形容詞で修飾された第一文型であり、人々の中からその需要がある人という性質により浮かび上がらせられた人であり、だからある方向性をもつ一般人間であり、このある程度の一般人間はその中に含まれる様々な個別性の顔を持ち、一般人間がそれらの普遍的内容となっているとイメージしてみる。つまり人間の中で、ある欲求を持つ人たちを代表するようなひとりの神を想像するってこと

地球上に国民という規定で束縛される前の全ての個人がいて、個人がグループにわかれる。そのグループから政府が生じて、個人は国民と呼ばれるようになり、領域が定まる。この場合、政府は国民に仕える。政府は、商売の場合は要求を本質として一般人間を浮かび上がらせたのだが、政府の場合は投票により意志を本質として一般人間を浮かび上がらせているのかもしれない。

現状は普遍一般意志ではなく、特殊一般意志だ

未来をイメージする方法に文型が利用できる。
例えば五番目の文型では普遍の動きが個別の内部あるいは外部の特殊性を動かすので、普遍が個別の動きまで含む。ここは論理的かも。それにより個別の質や状態が変化する。だから個別とみなされた普遍の選択する行為が変わり、それによりその普遍の周囲への作用が変わり、これが周囲のそれにとっての個別の質を変化させうるなど。現実はそううまくいかないだろうが。文型のイメージを配置していき、未来をイメージすること

イメージすることが好きだと気づいた。
好きなことがイメージすることなどのように一般的だとそれをするいろいろな仕事へ具体化していけるはずだ

普遍的仕事能力の一つに想像力があると思う。想像力はあらゆる仕事で、もっとうまくやるために役立つはずだから
反省するときや印象を深くするためにはこの概念的文型のイメージに具体的な仕事内容を素材として肉付けしていき、過程を想像していけばいいのだ。

想像力は生産性がありどの仕事にも応用できるのでよりよくするとは商品やサービスとして結実する前の過程における生産物だろう、だから生産する活動である仕事であることの条件をみたし、かつ応用範囲が広いので、想像力は仕事のうちで普遍性があると言える。身体もあらゆる仕事を超越しているが、想像力なしの身体が何かを生み出すことがあるだろうか?

想像力は人を生産的にし、道徳を育みもするので、経済界にとっても国民にとっても学校で想像力を育む教育を一貫して行ったり、全ての授業内容をイメージ豊かにして教育するのは役に立つだろう。美術の時間を増やしたり

概念的文型に深みをもたせる弁証法が宇宙法則かもしれない。宇宙が思考であるとするならば。だが、すぐに立ち止まってしまう思考ではなくて、生成していくような思考が宇宙法則だろう。これを概念的文型のイメージを素材にして形成してみたい。また、弁証法は抽象的なものではなく、具体的なものであるはずなので、それを自然に語らせ直観できなければ自分のものにしたことにはならないと思う。

また宇宙法則でも、それを学べばその他多くを学んでいることとなり、いろいろなものに応用できるようなものであればよいのだが。

真理は全てに現れるものだ、でないとどこかの部分には真理がないことになる。従って根元は目に見えない世界から来ているとしても、現象はするはずなのである。また、真理はこれから先にも変わらず現れるものでないと、未来には真理がないことになる。そして全ての存在、つまり主観の中にさえ現れていないと、そこに真理がないことになる。そして真理は展開する過程であるなら、様々な対象の過程を注意深く観察する必要がある。自分の体験から真理を取り出そうと思う。真理は科学に閉じ込められているなら、それは真理ではない。日常からでも見いだせるはずである。本当は本から学んだ知識がなくても見いだせて、誰でもわかるのが真理なはずである。実験する金はないし、自分のできる範囲で探求したら、それが自分の意識にとって確かな基盤となる。つまり、自分の人生経験に真理を見いだすのである。人間の体を含む自然にとっては当たり前なのだが、意識にとっては当たり前でないのでそれを意識するといろいろなものに応用できるようになるはずである。つまり自然な意識は後から獲得され、真理を意識する意識は自然な意識になるのである。
そうみなせるが、これが単なるテクニックなのは否めない。これはあくまで真理の模倣を取り込んだだけで、絶対知とか意識魂だとか、霊我になったわけではないから、虚しさは残るし、真理といっても地上の中に堕落した形態で真理を見ることになると思う

そういうわけで、真理は直観により取り出せるはずである。
また見えない世界は神にとっては見える世界であるので、人間の想像が及ばないだけで本当は形があるが、幻想をまとわせないため霊を降ろすためにあえて表象を形成しないだけだが、表象を改善してゆくことも時間があるからできると思う。

真理は永遠の消費物であるので、楽しさ面白さが味わえたりするが、当たり前と思う人にとってはつまらないかもしれない。だが、大切なのは楽しさや面白さではない。それは真理の消費されるものという一面でしかない。つまり、楽しいや面白さは周辺的な消費の面でしかなく、それは必ずしも守らなければならないものではないことがわかる。つまらなくても楽しくなくてもそれより大事なことがあるのだ。

光の体験から、これを普遍的な慈悲の力だと解釈し、世界の統一原理を求めるようになる。これを役立てたいと思っていたので。
その過程で謎の哲学者と病院で出会いヘーゲルと自分の考えが似ていることを教えられる。
ヘーゲルを学ぶ過程でシュタイナーも学びながら概念を直観し、それを文型に応用して語学を哲学した。そこで、何にでも変化し応用できる力とは想像力だと気づく。つまり、人間には既に必要な最高の能力は想像力以外にも備わっていて、完全な存在だが、次の進化により、さらに完全になっていくのだとした。また語学が学問の素材であるように語学哲学も素材に過ぎないことに気づいたので、宇宙を導く力、展開する真理とは何かと思うようになり、それが弁証法であると仮定して、シュタイナーの宇宙進化論がへーゲルの論理の学と似ているという誰かの見解から、宇宙進化論を繰り返し学び、自分の人生にもその力は見いだせるかというところにまで意識は移ってきた。

宇宙の過程の真理でわかることはたぶん、
その動く真理がくまなく行き渡っているので、自分にできることはその過程を邪魔しないこと、つまり何もしないことになると予想する。
真理に反することをやっていると勝手に破滅に向かうのかもしれない。
それでも何か行動しないと無為過ぎてもいけないだろう。だからキリストが父の真似をするように、真理の真似をすればよいのだと思う。結局は聖者を真似てみることになると思う。行動したとしてもまるで行動してないような自然な行動。まあ自分ができるとは思わないけどできたらよいのだが。

ともかくシュタイナーを読んでみよう。

動く真理を真似るといっても、真理が細かく行為を規定するわけでないので、そこに個人の個性と自由の余地があると思う。真理と一致した人は自由な人とみなせる。

アグニヨガでは存在の本質を美だとしているらしい。アグニの観点からそうならば、美も火的なものとなるのではないか。ところで存在の本質をとらえるのが思考なので、火的思考とは万物から美を直観する思考であり、人工的に美的思考を身につけるにはいろいろな芸術に深く入り込めばよいのではないか。美的感受性は心の質によるが

自然に弁証法があることがわかった。それは概念的統一があるということであり、近視眼的な概念的文型のイメージも弁証法の現れだと思うが、人生や歴史、宇宙の芸術性や出来事の意味、人びとを導く力などを読み取ることが今はできないので、これから先、我々はどこへ行くのかわからない。

成長はもともと潜在していたものが顕在化してくるものだと思う。概念としてはそうなのだが、物としては過去に顕在化した分までの体しかなく、新たに顕在化させると、新たに体の部分が加わり現れる。後天的能力は外部を内部に取り込み内部に一致させたもの、外部を特殊なものとし、それを内部の普遍に一致させたもので後天的能力は本質的な記憶を自分に刻みこむ。そして雑多なことは忘れる抽象である。もしかしたら忘却は自然な除去であり記憶の抽象なのかもしれない。
能力の豊富な人は多くの本質的な外界、経験を自分の体にしている。これらは第二文型に使えるイメージ。自分の内部が関わっている。
種は花となり、誰かは医者となる

売れ筋商品がある。商品は自分の中に部品が組み込まれている。その部品も売れるようになる。これは、全体がある性質を持つのだから部分も持つだろうという論理の応用。
ここに想像力を加えることだとか。
これはネットで知った情報だが、面白いと思った。たかが仕事と言う人もいるけど、仕事は自分で深めていけばよいのかもしれない

第三次産業が生活の基礎を用意し、そこから第一次産業へと積み重なっていく。
仕事のほかに、文化にも同じような重なりがあるかもしれない。
まず哲学の直観により、「目的」「善」などといった理念が発見されていき、それが言葉の体系として
生活の中に組み込まれていく。次に言葉があらかじめ用意されている状況から、科学が生じてきたのではないだろうか。
現代、あるいは将来の子供は技術製品や科学などは既に用意され生活の中に組み込まれたものとしてあり、
その上にさらに新しいものが重なっていくのだろうか。もしかしたらこれまで産出してきた文化を整理、組織化していく時代があるかもしれない

意識により違うこともあるかもしれないが、
大半の唯物意識者にとっての確実な聖典がある。それはしかも修行を深めなくてもわかることである。その唯一の聖典とは紙切れで作られた、つまりある意味権威を帯びた文字でできた偶像的なコーランでも聖書でもなく、宇宙や地球経験そのものを聖典にすることで全ての宗教は統一されるのではないか。全ての宗教は科学同様に経験からとられたはずである。そして普通の意識でも宇宙経験からちゃんと、概念という神の現象が読み取れるのである。

つまり、経験の特殊性として各聖典がある。

高次の意識の人にしかわからない真理があるけど、それも経験から取られたはずで、聖典も経験が原典なはずなので、真理は経験にあると思う。一冊の聖典だけが真理だとしたら、経験を見ることをしないで、文字を神にすることになると思う。でも、本当に真理ならば、聖典に区切られた過去だけでなく、これから先にも現れてくるはずである。としたら、全ての聖典を超えた内容を経験は持つことになる。

学問は人間の想像力を空想的なものから、真実を含んだファンタジーへと高めてくれるものだと思う。
学、つまり形容詞で修飾されない一般学問である論理の学とか語学哲学は、真実を半分しか含んでないと思う。具体的な想像である必要があると思うので、ここから自然科学や精神科学へと降りていく必要がある。学に素材をまとわせるということ。

なので自分の探求はまだ完成していないことになる。

でもそこまでやらなくて自分は学を仕事という特定領域に適用して仕事を深めていくだけになるかもしれない。

概念は抽象的な永遠の真理だと思う。なぜなら、具体的でなく、界によって様々な概念の姿があることになるが、
概念という言葉では全ての姿はわからないからと、存在という概念があるように、全ての存在は概念だからだ。
なのであらゆる存在は、存在である限り概念である。界が違うことにより存在のあり方も変わってくるがそれらも概念である。
なので存在がある限り、概念という真理は持続する。シュタイナーが言うように、天界は思考でできているというのはありそうなことだと思う。そして天界にとっては物質界は抽象的なものであり、天界こそ具体的、精妙な現実的なものだろう。思考能力は霊能力だ。

人間は思考存在として、既に真理を担うものであるとみなせる。実際に真理と結合しなくても、既に真理存在なのだ。

人間は学のように既に普遍的な能力を備えているが、その能力に素材を与えない限り、半分の能力にとどまるということ。
素材とは経験である。
人間は既に普遍的な能力を備えているので、別に真理との結合を目指さなくてもよいのではないか。
真理との結合は目指すものではないのかもしれない。 既に普遍的だから、あとは特定の仕事に個別化すればよいのではないか

学に意味はある。たとえばゲーテは原現象を発見した。
植物は葉がメタモルフォーゼしたものであるというものだが
これは要するに科学の中に概念の体系を発見したということだ。
なので学によって世界にイデアを発見できるような着眼点を得られるようになる。
これによりもしかしたら世界は科学だけでも哲学だけでもなく、科学と哲学が一致したものが世界であることに気づくことになるかもしれない。この着眼点は仕事にも応用できるはずだ。
普遍的なものに気づけるようになり、その中で個別の現実に関われるようになるってことに意味があると思う。
なので自分の目的は達成されつつある。根源的なものから特定のものへと歩みたかったので
特定のものだけでもなく普遍的なものだけでもなく、その両方の領域を通る道である。


老後に哲学などをやればいいという話を聞くが、自分はどうしても先に哲学をやっておきたかった。
豊かな経験をもった後に、哲学で経験の深みに降りてゆくやり方ではなく
先に根源的な土台を形成しておき、その上にこれからの経験を乗せていくやり方を選んだ。
仕事のための鍛錬より先に、哲学探究を選んだことにより、使えない人材とみなされるようになり
あまりいい仕事には就けないかもしれない。たとえば人の上にたつ仕事には就けずに、
誰かの下でのみ働き年下に使われる人生を歩むことになるかもしれないが
人生にとって大切なことは自分が王であることとは思ってないのでそこは耐えられるだろう

本当に大切なことは善、愛、心の清らかさなどと思っているけど
共通する点は、王とは違って、誰か一人だけが到達できるものではないってこと。
本当に大切なものなら、それだけ普遍的なものならば、誰もががんばれば到達できるものなのかもしれない

シュタイナーは勝利者なき平和と言ったが、
その理念が含むもののなかに、王などのように特定の人しか到達できるものではなく、誰もがそれを目指したら、誰もが到達する可能性があるもの、があると思う。偶像にも、彼の理念に含まれることになった。戦争で勝利者になるという道ではなく、どの国も目指しさえすれば到達できるもの、はないだろうか

シュタイナーが勝利者なき平和の理念を流しこんだ理由は、その理念を人々により育成するためかもしれない。

なぜ聖者は精神を選び肉なるものを選ばないのか考えてみる。たぶん肉なるものを選ぶのは、人間の中の獣の道であり、その道を選ぶと人間として停滞してしまうからではないか。もう人間は獣の道を歩んできたので、古いということ。なのでそこから発展してきた文化は、新しいように見えて根本的に古いものである。肉に基づく文化は肉が古いものなので根本的に古い。そして精神的な新しい道を選ぶなら、新しい行為習慣を得る必要がある。そして、古い行為習慣を切り捨てようとする。例えば煩悩を断ち切ろうとしたり、欲望に支配されないようにすることなどが、新しい道で、そこに人類の進歩的な新しい文化の源泉が見いだされてくると思う。

人間の中にまだ未開発な要素を見出して、それが発達していくような行為習慣を選び、古い行為習慣からは脱皮していくこと。こうして新しい果実を得られるようにしていく。古い行為習慣から得られる内容はもう出尽くしてきているかもしれない。
分離意識から得られるものも、もう出尽くしてきているかもしれない。新しいものが火的なものであったり、統一意識の観点であったり、「いか超」に書かれているような行為習慣なのだと思う。秘儀参入者が時代の最先端を行き、時代を切り開くものたちであり、いか超に書かれてあることを実践していけば、誰でも時代の開拓者に近づける

自分にとって大切な本を人にあげてしまった。
もう何度も読んだ本だ。
自分にとって大切な物こそ人にあげる価値があると思うので。
宝物こそ人にあげる

親が嫌いで自分の血筋も嫌いになる人は、血筋は親を超えたものであると思えばいいと思う。血筋は目の前の親が作り出したものではなく、はるか古代から連綿と受け継がれているものであり、現代の個人の身体はそのはるかな古代からの過程を自らの内に宿す身体なのである。

時には類の視点で見てみるのも大事かもしれない。成功体験した人だけの身体では、人類、あるいは集合名の中に偏りがでてしまう。なので失敗体験をした人の身体も価値があるのではないか。様々な体験を集めたほうがより調和した身体が生まれるのではないか。こうすることで、様々な体験をその身に宿すことができる

普遍は個別へと向かい、個別は普遍へと向かう。この両者の方向があって自然なのだろう。人間を普遍と見るなら、別に特定の仕事領域に個別化していくのは、自然である。これが大きな観点に立った場合の自然である。だから、多くの人たちは個別化しているので、これも自然なことなのだ。つまり、真理の流れに従っていると見える。個別という小さな視点から見ると自分をさらに大きくしていく方向に向かう。これは自然勝手に任せたらよいと思う。あるいは哲学などして普遍性に気づくようになればいいのかも。両者の方向へ向かうのが自然なのだろう。

文型を修飾語、つまり場所や時が文型を飾るという観点をヒントに抽象的な仕事の本質をイメージしてみる。
すると、生産過程が場所を貫くイメージになった。生産過程は既に時間的である。
生産過程は結果を受けて新たな生産過程に入る循環 生産過程は知覚によって新しい結果を自分の主観内に生産する

あとはこのイメージを具体化していけばいい。経営学を読めばいいのだろうか

この仕事の本質以外の別の本質の見方があるかもしれないし
ゲーテ的なものを見出せるかもしれないということ

シャンティフーラの記事によると、安部政権の言葉とやっていることが全く違うものらしい。
それが本当なら、嘘っぱち政権であることになり、これから吐き出される言葉も、国民を操るための餌である可能性がある。

また安部氏は政策を複数を一つにして提出したことや、一般と個別という言葉や集団、個別などと使い分けていることから、普遍、個別という概念的思考を応用しているのだと思う。

そして美しい国日本とはどんな国のことをさしているのかを空想すると、それも概念的思考が応用されたものであるとすると、権力による一元論、つまり権力を普遍、国民を個別として、個別を統制下に置こうとするのを美しい国だとみなしているのではないだろうか。一元論が美しいものだとして、それが政治家にとって美しいものならそうなるかもしれない。反対に、国民にとって美しい国というのは、国民を本質、普遍とし、政治家や企業が国民に仕えるような国家だと思う。

安部首相が経済優先するのがなぜかと考えると、当たり前のことだが、金が国民の生活を支える最も根元的な基礎、基盤だとみなしているからで、だから経済のために役に立つ人材が、国家を支える人材だと見なされ、それを大学に要請するのかもしれない。この問題点は国家が、自然な国民に、教育において、役に立って生きろ、と生きる意味を教育の中で押しつけていることだと思う。国民を国家の目的により矮小にしている。教育の目的は国民を自由にするために行われるべきだと思う。

資格が抽象的過ぎてわからないし面白くないと思って勉強の手を止めていたが、
その後に気づいた文型のイメージを応用したら見える化されて、つまり具体的にすることができたので理解できた。
もしかしたら概念的文型のイメージは物事の理解のために役立つもので、言葉の理解の規則なのかもしれない。

哲学に実用性があるとしたら、哲学の普遍的な規定を、それを使えると気づかないで理解できなかったものを理解できるようにするところにあるのかもしれない。
つまり、哲学は物事の理解、認識に役立つ。
もしかしたら万物の理解、認識に役立つのが真の哲学の実用性かもしれない。なのでこの実用性は数学書の理解にまで及ばなければいけないと思う。でも自然言語で表現できる存在の理解に役立つのが限界で、数学書は別の能力がいるのだろうか?

つまり、哲学は勉強に役立つわけである。
認識から行為するなら、哲学は実用性の基礎に当たる。

男や女という性別という類概念も超えて、人間を個人として見てみるのはどうだろうか。そのとき、人間は互いの内面に向かうことになるが、この内面、つまり精神に性別はあるのだろうか。身体などの自らを規定する表現のための道具が違うだけで、道具が違うから精神の表現方法も違ってくるという考えはどうか。

異性を男や女という性別を超えて性別付けられた肉体を異性のお飾りとして精神に目を向けること。

あらゆる束縛を乗り越えられるのは自由とみなせるが、これは理想的な自由だと思う。
現実的な自由は個人が個人自身と一致するような自由だろう。これは個人は外からはなんの束縛も受けない個人自身に基づく活動をしているから。個人が自分を源にして活動しているが、自分という規定はこの規定があるからこそ個人なのであるから規定ではないような規定と考えられる。

簡単に言うと好きなこと、愛することをしている時が、その人にとって自由な一時だということ。

もしかしたら自分が好きなこと愛することが、自分にとって自然なことであり自分の内容なのかもしれない。つまり好きな対処や存在の中に自分が含まれているのかもしれない

なぜ霊的な知識を学べば全面的に器用になるかは、たぶん知識やイメージは記憶と同質のエーテル的なものであり、エーテルの世界ではそれらが現実的で直接的なものであろうことがヒントだと思う。また、知識やイメージも記憶化され、記憶が霊となり能力になり、変化したエーテル体が肉体に作用するから。
この地上世界で有能であろうとするなら肉体やエーテル体の訓練までで十分だが、アストラルの世界でそうあろうとするなら不十分だ。

気づいてみると当たり前にも思える概念的文型のイメージはエーテル体にとっては当たり前ではない。イメージは後から形成される。この多様な表現力を持つイメージ、言葉のイメージをエーテル体に形成するなら、エーテル体が言葉に近づくのかもしれない。

でもエーテル体を鍛えても内的人間を鍛えたことにはならない。外的人間を鍛えるだけである。知的な勉強をある程度やったら、心を鍛えるためにそれをやめて、芸術に取り組むべきかもしれない。美は心の養分になることと、芸術の訓練が意志を育成し、作品が無意識に作用して感情を育てることにもなろうから。

演奏の基礎イメージ

楽器を弾くという第三文型
個別の位置に楽器がくる。
普遍が弾き手で身体の可動領域が楽器を包む。
楽器はそれ一つではバラバラな穴や弦、板だが、このバラバラなものの間をすり抜けるようにして、身体の可動領域が楽器を貫いている。
だから楽器の個々の部分を同時に押したりできるのである。つまり人間が楽器の中心となっているという面がある

人智学の中に真善美の源泉が含まれていると思うので、やっていけば思考感情意志全てが育成されていくだろう。思想は自我を強めアストラル体にも生命にも作用するとか、また霊的な学問をやればあらゆる面で器用になるとか。

もう思想好きとして凝り固まってしまったので、他のことに関心が向かなくなってしまった。だが人智学の叡智は関心へと変容するという。なので人智学は次の何かに結びつく趣味かもしれない。

愛とは考えざるをえないとか、行わざるをえないこと、つまり自分の内容を好むのであるとするなら、互いに愛し合うことができるのは、他者の中に自分がいて、自分の中に他者がいることになる。こうして自分の内容には他者がいて、自分と他者というのは他者と自分の統一体の別々の側面であるって考えられるかもしれない。
弁証法は思考における愛なのかもしれない。
感情や意志にも愛を見いだすことができると思うので愛によってそれらの三要素が統一できるのかもしれない

思考から解放されるべきではないと思う。
そうしたら
因果が意識できない意識になってしまう。
これが進化と呼べるだろうか?
むしろ個人の思考というレベルから、宇宙の思考というレベルに拡大できたり、自分の思考というレベルに縮小したりするなど、現実がさらに深く意識できるようになるのが進化ではないか。

人間一般遺伝子が発見されたのだから、次は各動物の一般遺伝子を発見すること、そして次は、全ての動物に変化できるような生物一般遺伝子を発見するのかもしれない。

愛する人を自分の生きる意味にする人がいる。
愛の対象は自分の内容でもあることを思うと
生きる意味も自分の内容であり、生きる意味は自分の中にあることになる。
本当は高次の自分の本質に気づいて、それを生きる意味にしたほうがいいのだろうが
現実的に言えば追求したいもの好きなもの愛するものなどが人生の目的、つまり生きる意味となるのだろうか
自分の思考が生きる意味を選ぶこともできると思う。それは行為へと結びつく生産的理念を直観して、
それを意志の基盤にするときなど。つまり、意志は思考を基盤にすることができる。
生きる意味はどこへ向かうのかという意志の側面があるのだ。
だが自分は動機になる理念を見出してみる必要がある。真善愛美平等自由健康清潔福祉安全平和等を
目指さなければならない理由を考えてみるとヒントが得られると思う
私はこれまで受動的に生きてきたので、こんどは能動的になってみたいのだ。
それが思考でできるようになるならやってみる価値はあると思う

今日はたぶん幻聴の被害にあいました。
耐えようと思ったらガラスに何かがぶつけられるような音がした。思考盗聴のいやがらせなのか霊的なものなのかわからないけれど、こんな現実があるとして耐えよう。
もしかしたらアーリマン的な集合魂にとりつかれた人たちのアーリマンの攻撃かもしれない。

死後アストラル界でこれまでの人生を逆向きに体験するという。その際に幻聴の正体がわかると思う。人生の謎が死後の世界で明らかになると思う。

先に挙げた道徳原則を統一するのは中庸という理念かもしれない。
愛も自由が道徳的な姿となって現れたもののように思うが、
中庸もまた自由がそうなったもののように思う。
中庸はどの形にも凝縮できる熱だ。この熱はどの方向にも凝縮することができる。
シュタイナーによると愛は悟性魂的で、中庸は意識魂的らしい。
新約聖書を中庸の観点から読み直すことができるかもしれない。
自分は愛よりも中庸のほうがいいような気がしている。
中庸は他の極端な概念を包括するような概念で、目の前の現実をどこに偏っているか考えて、
より真ん中の概念と結合させることができると思うから、どこでも実践の機会があると思うので。
愛は相手がいないとできないんじゃないだろうか

中庸を世の中に形成して生きることは概念を作り出していくことである。
汚れた皿は個別化した皿であり、それに自由を与え浄化するのが洗浄であり、掃除とは部屋の浄化である。つまり、掃除の場合は汚れた場合と綺麗な場合の二通りしかなく中庸のように中間がないように思われるが、綺麗な場合とは汚れが無の状態であり、無が自由を生むのだから、二通りの場合は普遍を中庸とみなしてよいとおもう。つまり皿で概念を形成した場合、皿は様々な汚れ方が可能となる。

だが、与えられた状況から始めるのではなくて、自分の思考から生活を始められないかと考えると、毎日何かテーマを決めてそのテーマの色で生活を染めていけばよいと思う。例えば自然と一致したテーマで生きようと思えば季節に合わせて生活を変えていくとかなど。

魔術の照応一覧があれば、それにより今日は火星的に生きようとか、今日は金星的に生きようとかして、それらに対応する照応物で生活を規定していくとか。自由な性格の人は毎日性格をテーマに沿って変えて生きることができるかもしれない。

根本的な宇宙法則を宇宙思考だとしてそれが弁証法だとした。そして弁証法は精神化した愛であるとした。この精神化した愛は中庸にもなるので、この宇宙法則を人間化すると、二つの行為に導く美徳、すなわち中庸と愛になるのではないか

思考により頭の中から道徳的理念を直観する。これが誰にでもできるものであるとすればたとえば中庸という理想を思い浮かべて個々の状況に結びつけてそれを実現することなどだろう。
この中庸という理念は認識においてはまだ普遍的なものである。これに道徳的想像力により特殊化する。たとえば健康における中庸は結局は健康であることであり、健康は軟化と硬化という両極の不健康に挟まれている。そして健康のためには歯を磨く、運動をする、などを想像する。表象とは概念の特殊である。そしてこれを行動として外界に組み込む。このとき、自分の道徳内容が地上に結びつき流し込まれているとする。道徳が世界に結びつくことで世界進化に貢献できるのではないか。

生活文化を学んでみてよいものは新しく取り入れるのもよいと思う。

想像力により私は新しい生活文化のヒントを生産した。それは曜日ごとに、それに対応する惑星の性格と惑星に魔術的に対応するものを取り入れるという生活である。これは魔術的生活様式かもしれない。
道徳直観というか、一日の生活のテーマを直観するのもありではないか

道徳理念の普遍が表象として特殊化し行為に落とし込まれる。しかし次の時間にも表象として特殊化して個的な行為となる。このようにして道徳の普遍の中で複数の特殊が形成され、地上の流れの中でそれから落とし込まれた行為も全て道徳理念の中に含まれることになる。こうして理念が地上の中でだんだんとより大きく現れてくることになる。嘗ての道徳行為は消えたわけではなく軌跡として現在から未来にまで残るのだ

中庸を超えて理念的であることを道徳理念にできないだろうか。

ところで朝になれば部屋のカーテンを開け夜になると閉める理由だが、それはカーテンが部屋の瞼であり、部屋を目覚めさせることと、眠らせることだからかもしれない。こうして人間は自分の意識と部屋を一致させるのだ。

数学を視覚化することは可能だろうか? 
文型のイメージがイメージのイメージだと思っているが、
他にも数学に使われるなるべく根源的な公理をイメージ化したものもイメージのイメージかもしれない
公理のイメージがわかると、その後の数学書の展開はそれらのイメージを組み合わせたものになる。
なので数学の理解がしやすくなるという意味があるだろう。このイメージで数学が具体化し、
子供に教えやすくなるという利点もあるだろう
語学的なものや数学的なイメージは視覚化できるかもしれないってことだが
他にも色や匂い、味などの文型や公理にあたる根源的イメージはあるだろうか。

数学は悟性的なものなので、光ではなく音に内在しているのかもしれない。
なので数学の公理のイメージは音のイメ-ジの中に隠されているのかもしれない。

火的な思考は何かというと、火的なものの中に内在するものから取り出された文型や公理に相応するものによって形成されるもの
といえるかもしれない。だから全く新しい文化になるのかもしれない

複雑な法律の文章も文型のイメージを使えば記憶できたという例
単純なものが重なって複雑になっていくので、当たり前に思える単純なものをイメージできたら
複雑なものも理解できるようになるのだろう。
たとえば国家が国民に対して施策で働きかけて国民をあるべき方向へ変化させようとする第五文型的なものが見られる。
国家が障碍者の自立や社会参加を促すような策を実行することで健常者、障碍者と区別されていたものを区別無く一つのものに変化させようとする試み、これを捨象して簡単にすると国が社会を一つにさせようとしているである
国家が国民に働きかける。国民は社会状況が健常者と障碍者に別れているが、働きかけによってその区別がなくなる方向に向かうとされるのである。


世界理解のために役立つイメージを研究している人はいないのだろうか。
イメージは個人的な技術で、まるで職人芸みたいではないか。役立つイメージも学問みたいに意識的に大衆に認知される必要があるのではないだろうか。たとえば高校で知る集合論の円のイメージが数学以外にも役立つことは当時気づくことができなかった。高校の頃に既に、世界理解に役立つ様々なイメージをみんなに意識化させておけば、それが資格の勉強や毎日の事件や行政、法律理解に生かされて国民の力や想像力が向上すると思うのだが。

文型のイメージは世界理解に役立つイメージの一種で、もしかしたらイメージのイメージではないかもしれないとして、成長拡大可能性を残しておく

言葉の神を見いだしたが、ついでに今までに前例のない、一人しか僧侶がでてこない曼荼羅を幻視し、その時に今までに聞いたことがない念仏が聞こえてきたことからわかること。
それは西洋的なものも、東洋的なものも、一人の人間が体験できるということである。人間の可能な経験には西洋東洋の区別がないのだろう。また仏教は人間が想像力によって人工的に作り出したものではなく、仏教は心の中にあるものだということ。幻視した曼荼羅は照り輝く黄金色であったことから、仏の色彩が黄金であることも、単なる人間の想像から生み出されたものではなく、心の中にもとからある色である。そして言葉の神が見いだされることから、言葉の神も人間が想像によって作り出したものではない。宗教は人工物ではなく、自然なものだと思う。ここから想像すると、宗教が語る価値観も単なる人工物ではないとなるだろう。
ただ嘘が紛れてる可能性も否定できないけど

概念、理念的なものや文型を理解するだけで、あらゆる分野を理解することになる、というのは、概念的理念的なものがフラクタルだからと現代的に言い直せる? 宇宙はフラクタルだそうだ。

不正を憎む人は、個別的な不正を憎むより広く、不正という普遍的なものに感情を抱いている。

これを拡大して神や概念的なものを愛するようになれば、それをあらゆるものに結びつけられるようになり、就活の判断で役立てるようになる。
なのでどの仕事でもよくなり、必要だが、ほとんどの人が入りたがらない仕事に流れていくことになると思う。

私は想像力というある意味普遍的なものを好むより以上に、概念的、理念的なものを好んでいることを発見した。問題は、それがイメージの形式をとったもののみであり、現実はそれほど好きじゃないかもしれないこと。現実にイメージを重ねていけばよいのかもしれない。
哲学が好きだということは、現実が好きに発展する可能性があり、どんな仕事でもやっていける心構えになるんじゃないだろうか。

前にも述べたが、あらゆる能力を含むような普遍能力は話術だと思う。これは聖書に基づいている。言葉で過ちを犯さない人は自分で全身を制御できる完全な人だと。

能力とは内から外に出るものだとして、話術は概念、理念を操り、それを外に出すのである。

つまり、普遍的なものである概念を操る能力はフラクタルな能力である可能性がある。全てが概念だとしたら、我々は神の口から生まれたとも考えられるのだ。

話術に加えて人智学をやるとあらゆる能力が鍛えられる。人智学での向上は目に見えにくいが、話術は能動的だし、感じることができる。
この両側面をうまくやることで短い人生の中であらゆる能力に通底するものを身につけていくことになる。

つまり、これの目指すところは小さな全知全能者である。イメージとしてはゼネラリストのスペシャリストである。ゼネラリストは広いイメージがあり、スペシャリストは狭いイメージがある。それの中間として狭いが、実はフラクタルで広いものがそれである。全知の部分は理念存在であり、全能の部分は話術である。人智学的なもの理念的なものは、あと一冊ほどでやめて、今度はアリストテレスから始まる弁論術や話術を探求しようかな。

これを趣味にしながら、特定の仕事につく。

小さな全能が話術だとしたが、そのなかで生成する普遍的話術として、さらに純粋な話術を求めるとしたら、結局は弁証法に戻る。つまり人智学における宇宙進化論やヘーゲル哲学を弁証法的に語れるようになることで、弁証法を身につければいいと思う。
話術全般を探求すると、日々の会話にも役立つと思うが、そこまで会話を深めなくてもいいかな、と。ゲーテの世界観と弁証法だけ身につけて、人生の目的をコンパクトに終わらせ、贈り物のような新しい人生を始めたい。何もしなくなるかもしれないが、アグニヨガをやりながら人に役立つ仕事などを深めていくのもよい。自分は世界に何かを残したいというタイプではなくて、受動的で、世界から吸収する植物的な人なのかもしれない。

弁証法の語りは、統一された姿が何かわかっていて、それを意識しながら語ること、書くことができるから、小さな全能の力を得ることができたとして、もう人生の目的は終わった。あとゲーテの本を読めば一区切りがつく。

ここで自分の言う理念存在はヘーゲル的には度量のことだと思う。そして本質論の根拠という概念はここで言う、同じ根をもち、それらが様々な姿で現れてくるという文字通り、植物的なイメージである。そしてこの根拠から生じる結果は原因の中にあることから、この植物的、奥深いものも、概念的なのである。
これらは現実から見いだせるものであり、フラクタルなものだろう。

自由の哲学に生きることも真理の真似であろう。真理も、まずは自分を根拠に動くだろうから、それも善なる意志と思考の基で。
なので自由の哲学に生きることは人間の人生と生活全体に関わる現実的な修行法だと思う。

自分はこれらのことをイメージできるように書き込むことで自分と同じ目的をもって人生を歩むものに、さっさとその目的を達成させ、この理論を学ぶ道以外の新たな人生を選べるようにできたらいいと思っている。例えばここでさっさと目的を達成したら、後は真理の真似をするなどして、早い段階から実践することも可能だし、特定の仕事のために大学の時間を費やすことも考えるようになるかもしれない。

それにできるだけ他人を強くしたいという思いもある。自分が情強だとして、弱者を叩くのではなく、弱者をも強くすべきだと思う、そしたら、全体が強くなり、国力、あるいは世界力が上がる。できるだけであるが。

シュタイナー教育はおそらく日本人らしくする教育ではなく、個人らしくするのを理想としていると思う。
日本人らしい日本人でなくてもよいのだ。本当は人間というのは国境を越えた存在だから
国の特色が人間に複数属していてもよいのである。人類にいろいろな国が属している。

数学はどこにあるのだろうか。数学は少なくとも当たり前だが、世界の中にある。広い意味での自然に数学は含まれていると思う。この広い意味での自然は、何か数学を可能とさせるような自然である。この自然は、自然なので具体的なものである。それを探求すると、その具体的なものを生み出して、それで数学することが可能になるんじゃなかろうか。数学存在による質的数学である。

たぶん二回ほど不思議な光の粒がゆらゆら出現したことがあります。目の疲れかな?と思うけど、ヨガをやる人もたくさんの光の粒が出現したという情報があった。
曼荼羅を見たときなんかは、なぜか強い既視感があり、それを見る以前の部屋の様子にも既視感があり、自分は以前、ここに来たことがあると感じたのだが、記録にはなかった。
出会った哲学者なんかは、なぜか自分が何者なのかは、五十年後にわかるという謎の言葉を残していった。そして生意気すぎるとも言われてしまった。たぶん本物は老子のように世間的有名人ではないという側面があるのかもしれないが、嘘かもしれない。精神病院での話だから妄想癖のある人かもしれないが、哲学書をそこで貸してくれたり謎である。

なので世界や人生にはまだまだ謎があり、自分の哲学もまだまだ全てではないと思う。

あと五十年後になってティエムさんが生きてたら、何があったか書き込もうと思います。

自分が吐き出す情報にはあまり価値がないのかもしれない。世界を揺るがす大発見なら、それで首を締められる多くの権力者がいるのでその情報を出したら、命を狙われる可能性も出てくる。なので、明されるまで時間がかかるはずである。

自分のための勉強は終わったから、将来人のためになるような勉強をしようと思ったが、全ての来世で活躍できるように人智学をメインに学んでいこうと思う。実は人智学はまだ世に出すことが許されない秘密があり、この時代に全ての人智学を学ぶことは理論上不可能になるけど。

自分の世界の一部は自分の一部という考えに不快を感じる人がいるかもしれないけど、所有権を認めるので、なんでも自分のものであるという意味じゃないのです

復讐心について

復讐心はどちらがもともと悪いのかには関係なく発生すると思う。だからある人が復讐をするとそこから復讐心が芽生え、ある人が属していた集団が被害を受ける。つまり、復讐を果たした人が、間接的に同報を殺す準備をしている。なので復讐をする人が自分の仲間を殺すのに加わってしまうという場合が考えられる。だけど復讐心というのは間接的なものにまで及ばないので仲間同士で復讐しあうことにはならない。

シュタイナーの道徳的想像力というのは純粋思考が形象をまとったものだと思う。
つまり、単なる純粋思考が進化した姿。
反感、共感は創造の原動力かもしれないが、観察する自分はそれを超えた地点に立つべきだと思う。
いまは感覚的な思考がまかりとおっていて、それにたいして反対精神が純粋思考をやりたくなってきている
ように思う。だが、その純粋思考が学問界でまかり通るようになってくると、学問界にいる人はまた反対精神で今度は感覚的な思考をやりたくなってくる。だが、進歩を目指すなら、純粋思考のいいとこどりをした感覚的思考になればよい。
それが能動的なファンタジー思考だと思う。もしかしたらシュタイナーのいう形象的思考とはこのことかもしれない

ヘーゲルの有論をイメージで形成すると、一般に行われている正反合という説明では一般に理解しにくいということがわかる。つまり全体的理解とは抽象という普遍的なものだけの理解だけでなく、その内部の具体性、特殊性をも理解できてこそその概念を理解しているといえる。なので人智学は理解できない。抽象的思考だけに拘っても全体理解には至らない。
でもこのイメージも批判されてより正しいものに改善されていく可能性をもつ。イメージも批判の対象になりえる。

思考のない状態では、有ったり無かったり全てがバラバラに現れる。そこに思考が加わると
有ったり無かったりするものが、過程として捉えられて「成」になる。成は普遍的なものであり、これがさらに具体化、特殊化したものとして、その普遍における名称が定有になる。定有の内部における定有は互いに普遍の中にあることで相互に関係している。この関係は自らを規定する「質」が、他者へと働きかけるという関係である。これにより働きかけられた定有は変化を起こし、働きかけられるという関係の領域から脱して、自分の自分だけに関係する一者、つまり向自有が現れる。これは他者に対する反発をもつが、反発することで引っ張られている。また、他者とは多くの一者であり区別がなくなる。そして互いに引っ張り合い、互いの区別がないものとして、質から量へと目が向けられる。
量は限界を定められると特殊化して、定量という全体になる。定量の特殊は、その全体を広げたり縮めたりできる。
これを限界をなくして無限大にする、そしたら無限大の中では関係によって特殊が浮かび上がる。そしてあらゆる制限を取り払った無限により量から定有そのものが浮かび上がってくる。「度量」とは量の観点を質の中に組み込んだものである。
つまり度量の質とは特殊的定量であり、存在に概念的なものが見出されるようになる。存在に見出された概念的なものによって、ある存在は普遍性特殊性個別性を有するようになる

たとえば感覚的現実から自由な思考という例
まず地球を思い浮かべる。朝の部分と昼の部分と夜の部分があり海と大地、空があり、火山が噴火しており、雨が降っていて、ビルの群れがあり、田園がある。その大地の上に人間が立っている。人間は起きていて周囲を知覚対象として
人間に向かって吸収しているというイメージを抱く。

次に思考をイメージしてみる。思考は光で折られた塊の鉱物の概念、湿り気があり樹液が光に照らされて輝いている大樹などを含む植物の概念、気持ちよさそうに昼寝をしている子豚などの動物の概念、殺しあったり笑いあったり握手したりする人間の概念、それ以上のものや、それらに共通する動きなどの「概念」の領域を結びつける思考という主観的イメージを抱く。

そしてこの両者のイメージが互いに無関係に離れあっているのが感覚的現実から自由な思考の自分のイメージである。

思考のところで追加 概念の領域を普遍特殊個別という関係の中で結び付けていく思考という主観的イメージです

またいじめが起きたが動くサンドバックという言葉は別のところでも聞いたことがある。合計二件だが、同じようなケースはもっとあ留かもしれず、人間にとっては特殊的なものかもしれない。
自分の考えでは、ガヤガヤと笑って楽しければよいとする享楽主義が、人を殴る暴力を楽しいもののうちに含みいれたことにより起きた事件だと思う。シュタイナー的には正しい感情を育成できなかった享楽主義だと思う。あるサイトでは宗教を鉱物的、植物的、動物的と分類し、人間を鉱物的なところ、植物的なところ、動物的なところ、人間的なところ、としていた。暴力は動物的である。なので人間的な感情を育成するようにしたらいいのかもしれない。人間的な感情が正しい感情なのかもしれない。

純粋思考は現実を見ないわけではない。
思考から知覚内容に働きかけて概念を直観する作業もする。知覚内容、つまり現実を無視して、記憶だけで考えるのがまずい場合もあるが、記憶に頼るだけでも大丈夫な場合もあるということ。

のめーるさん、こんばんは。

10年や20年では、そう大きな変化はないでしょうが、これからの50年後となると、かなり根本的な変化が起こっている可能性がありますね。何があっても、不思議ではないという感じです。

ちなみに、私は50年後には、確実に死んでます。
化けて出てくる可能性はありますが(笑)。

ティエムさん、霊界からのコメント待ってます。

オリジナルのキリスト教が作れるかもしれない。つまり想像力によって愛や与えることを現実を考慮して生み出す。すると、特殊キリスト教になる。例えば神に仕えるといっても、無限の神全てには届かないので、できる範囲で家族や地域のために何かやったりするのかもしれない。

知識や能力より、それがなくても誰でも目指せるような善い生活のほうに共感するので、素朴な生活をやってみようと思う。思うに美徳を目指す生き方は、善であるうえに美でもあるが、これは小さな生活で誰でも実現できるんじゃないか。別に大学を出てなくても凄い人でなくても善く生きてる人はいると思う。

いじめは、殴るのが好きだという理由以外にも、異物を排除したくなることから来ているかもしれない。それは動物的だ。なぜなら犬でも仲間じゃない犬に攻撃的になるからだ。そして自分にも異物を排除したくなる衝動が、状況が整えば出てくるかもしれない。
そこでいじめをやってしまわないためには、その衝動に気づき、異物を受け入れるべきだという言葉による理想を認識しておき、その言葉に従えるような人であればいいのかもしれない。
言葉に従える人は信用できると思うが、政治の現実を見ると、政治家が言葉に従うとは限らないので哲学より政治のほうが難しいと思う。
逆に優秀な政治家は言葉に従うことができる人なのだろう。そんな人は法の精神に従うこともできる。また想像力があれば法の精神を特殊化して具体的なものに適用できる。国が好きな人は、法の精神を自分で特殊化して生活の中で国家の意志を現すことができる。

概念的知識より愛が心の中にあることや中庸を目指すこと、この2つの美徳を守ることのほうが人生をむなしくしないと思う。知識は自分にとっては自分で考えてきたので思い入れはあるが外的なものだ。結局、神への愛を求めることが心の中に確かな礎を置くことなのではないか? 知識は役立つが、それらは人生の本質を考察できても、心の礎となるような本質になることはなかった。また、神への愛が学問的方法で求めることができたとしても、その方法はこれまでに出されたやり方でもできるはずである。そうでないとこれまで神への愛を得た人や彼らの経験は嘘であるとしてしまうので。哲学に対して反対する場合、哲学者の経験まで嘘であるとしてしまうのだろうか。

負けても失っても、力がなくても攻撃されても苦しくても死に直面しても大きな悪を受けても平安である心を持つこと、すなわち愛、神を得ることが人生で本質的であると直感する。これにより、どんなときでも愛を実践でき、愛のために死ぬこともできるようになる。

これは弱者の論理だと思う人がいるかもしれないが、問題は強い弱いではないのだと思う。平安以外に拘るべきものは、もっと特殊の状況から生まれるのだと思う。例えばスポーツという状況では勝つために競うことが大事なら、それを否定するわけじゃない。

たぶん人間が弱いのは神が人間に力を使うための心を教えるためかもしれない。操れる力は道具に過ぎず、力は心に使われるものに過ぎない。だから人間は神の力より前に力よりも根源的な心を育てようとしているのかもしれない。

思考は肉体に作用する例を発見した。
淫らなことが想起されると体が反応する時がある。なので意識の内容は絶えず体に働きかけているのではないか。その意識の内容の中に思考や思想がある。肉体を外的に健康にしても自分の作る思想や思考が不健全だと体に病気ができるかもしれない。環境によって進化するとしたら、これまでの環境の情報の吸収による肉体への作用が、遺伝子さえも変えてしまったのかもしれない。だから進化は個体そのものの中からは論理的には出てこないのだろう。

経験を摂取する事で肉体はどんな結果に形成されるかを考えると、そのヒントは生物にある。例えば進化するとある環境に似てきたような生物がいる。花にそっくりなカマキリなど。なので進化の法則の一つに環境に似てくるがある。人によっては進化の他の法則が強くでるかもしれないけど、人は経験するものに姿が似てくるのかもしれない。なので思想を深く吸収すると身体となった思想の姿が現れてくる。経験するものの本質が受肉するのだろう。

などの理屈を作ってみた

これまでの環境が急変して生きづらくなるが、新しい環境の経験が生物を自分と同じ本質を持つようにさせることで、生物はある意味、自分の中に生きることができるようになるのかもしれない。

光は形と色を形成し、地球を起こす。地球の太陽が当たっている部分は地球の意識で、夜は地球の無意識と表現しておく。音は地球の声であり、人間の声は地球の声を借りたものであり特殊な地球の声と表現しておく。楽器は音楽を喋る口であるが、それも地球の声である。その他のものも特殊な地球の声である。大地、海、空、熱は固体液体気体、地水風火の関係にある。鉱物は地球の中に組み込まれている。植物は地球の鉱物の中に依存し、組み込まれた種を普遍にして、枝分かれるという形で種からそれぞれに特殊化していき一種の推論となる。なので植物もまだまだ地球の一部である。動物は地球から分離するが、地球の中で生きることで地球と接する。つまり、地球を普遍、動物を個別とする判断が成立する。また、動物は主観という、いわば種をもち、いろんな行為という特殊を咲かせていく。
地球と動物ないし人間の姿を見ると、そのまま概念の姿が現れている。

動物はたぶん胴体が普遍であり、頭はその中に埋もれている。腕と脚も胴体の特殊だが、腕と脚は地球と接することで地球に束縛されている。

これに対して人間は胴体に束縛されていた頭が中心性、普遍をもつようになり、胴体から自立する。そして立ち上がることで腕は地球の束縛から自立する。しかし足は地球に接することで束縛を受ける。つまり胴体としての普遍から自立した頭という普遍と、胴体の中に特殊として腕と脚を持つが脚は地球という普遍に束縛され、腕はされない。普遍には大地、胴体、頭があり、胴体の中の脚は大地の中にもあるが腕は大地の中にはない。従って腕と頭は自由を得ることで生産性を得たのかもしれない。

移動は推論である。推論とは根拠のある判断であり、普遍なものが特殊を通って個別へと向かう。これらの概念の中には力を根拠にしてどこかへ向かう移動が含まれている。また普遍、特殊、個別を線で表現することもできる。特殊の概念の中には中間が含まれていること。
物と物がぶつかり力が再分配されるのも、物と物が判断として統一され、それが特殊な複数の動きとして特殊化される推論である。

自然の本質は思考だと思う。要するに自然の本質は精神である。科学の基礎は量的過ぎる数学の他に哲学とか直観にあると思う。

仕事は理念の現実化という面で見ると個人の理念の現実化が集団化したものだと思う。そしてこの仕事理念は自らを組織に特殊化して、それぞれの部分に個人を配置する。トップが普遍の位置に座りそこから特殊や個別の位置に座っている。普遍の位置に座る者も個である。普遍とは始まりという点ではまさに個でもあるのだ。先に述べた人間の直観をいかに組織するかに生かせないだろうかと思う。そして個人は現実を直観しながら仕事理念を想像力で特殊にし、その特殊となった理念を目的にしてそれに身体を従わせ地上に結合するという形で推論が行われる。例えば介護だと、利用者の現実を観ながら福祉の理念を想像力で特殊にし個別具体な利用者に適用する。これが自由の哲学の道徳的想像力の応用である。

ヘーゲルの論理の学は絶対的な知識だといいたくなるのもわかる。これは絶対的な知識の候補に挙げられる。
解釈は多様にあるということは真理を否定していることでもある。絶対的な知識の存在可能性を排除するのもやり過ぎなのではないか
これはどこにでも遍在している概念の学だ。
たとえば客観的論理学と呼ばれる本質論には同一性、差異性、植物から想像できる根拠、
物、現象、全体と部分、力と発現、内と外などがあるが、それらはどこにでも見ることができる。
たとえば内と外なんかでは内に何かを組み込んだり作用させたり、外側に何かを被せたり触れたり働きかける
ことができるが、理論上、これはフラクタルにどこでもすることのできる働きかけである。たとえば一点に立つなら、そこから出て、外に出る、つまり内に入ることができる。

そして人間の中にも、この絶対的なものを見出そうとするのが理性なのかもしれない。

理念に形態を与え、形態に動きを与えたもの、これが文学や新約聖書
理念があり、理念の形態を構築し、理念の動きを展開する推論が未来の文学だろうか

哲学の絶対性はそれがどこにでも遍在しているように直観するから、それを絶対的知識としていると思う。つまり、哲学はそのような知識を扱う学問なのだろう。しかもそれは仮説ではなく、自然の中に確かにあるように思われる。
例えばアリストテレスの可能性から現実への移行、可能態現実態はどの存在にもあまねく見ることができると思う。哲学の絶対性についてようやく気づいた。

哲学は遍在する知識、「私は在るというものだ」という知識を扱うと思っている。
人間を哲学すると、人間に遍在する能力、たとえば思考、言葉、記憶、想像力、知覚器官、空腹、痛み、夢、病気、死
といった人間の中にあまねく存在し、かつ個別具体的なものを考えると思う。

だから哲学が関心をもつ事柄を示す単語を覚えておくと、うまく表現できないが、あとはそれを具体的な場面で適用していけばいいことになると思う、また哲学のそういう単語だけでも抽象的に話すことができるようになると思う。あとはそれを具体化肉付けしていけば単語をマスターしていける。

そしてなんと人間の一つ一つの能力も、可能態現実態としてある概念の現れとして考えることができるのだろう。
たとえば想像力は特定の表象の形成現実化が可能な「力」であるとして。性格、人格なども特定の現れを生じさせる「根拠」として考えることができよう

科学の感想 科学的表現は現象を抽象的な機械として表現しているように感じるし、英語がそれを助長しているような気がする。
そろそろ世界言語は英語からロシア語に変わったほうがいいのかもしれない。
あるいはロシア語が世界言語に加わるといいと思う

内的なものを感性的な外的なもので表すのが芸術なら、
神の受肉は生きた芸術だといえるだろう

ヘーゲルの絶対精神と、人間が生まれるというのは霊の受肉という芸術であり、その霊の行為も内なるものが外なるものとなる芸術であることから、人間の人生の本質は芸術であり宗教であり哲学なのかもしれない。
美善真であり、感情と意志と思考が個々の人間の人生の本質なのだろうか

間違っているかもしれないけど、
プラトンのイデアは世界から切り離されているように思われた。
アリストテレスは現実からイデアを見出した。
人智学はプラトンのイデアを現実の世界にあるとした。
だからアリストテレスとプラトンの和解したものが人智学だと思う。
だから、人智学から新しい哲学の伝統が始まっているのかもしれない

無限の力としての神的な愛の理念から、行為を取り出し特殊化して、行為としての知を想像していくこと。
こうして無限を包括する動的な概念ができる。これが哲学の受肉だと思う

もしも現代の科学文化の根拠をたどるとアリストテレスとプラトンに行き着くというのなら、それらが和解した人智学は根本的に新しい文化の根拠になるのかもしれない。つまり、プラトンの時代が古代に思われるように、現代は新しい文化の古代にいるのかもしれない。

武道の哲学をやると初期の発送は無意識にしても意識にしてもあるいは意志などにしても、身体が主観の特殊になるというものだろう。それが発達すると単語を記憶するように、動きの型を記憶して、それを組み合わせていく、となった。ここからさらに発達して、これらの動きの型の総体を統一する、体得でしか獲得できない武道の精神があるのではないかという考えになると思う。つまり、体得でしか獲得できない動きの記憶を統一する体得でしか獲得できない理念というものがあるのではないか。

このように、学問以外の道が語尾の単語存在は単語的理念ではなく、動き的理念など、それ以外の理念を獲得する道かもしれない。

道をマスターしたことがないから想像に過ぎないけど、もし武道の精神というものが、結局は理念的なものであるとしたら、バラバラに相互に無関係に思えた一つ一つの動作が、あとから結びついているように感じられ認識されるものかもしれない。

奥義の意味は哲学における本質なのかもしれない。奥深くあるということは奥義とは統一するものであり、何か派手な技というのは本来の奥義の意味ではないのかもしれない。
奥義とはある領域における絶対的なものかもしれない。例えばジークンドーのあらゆる技を深く観察してわかる全ての技にあまねく見られる特徴は水のような動きであるかもしれず、水のような動きがジークンドーの奥義ということになると思う。

ヘーゲルの解釈だが、芸術により理念に形態が与えられ、それが動くものとして、主体になる。
この動く理念はすなわち神である。宗教となり、この神が根拠となって弟子たちと結びつく。弟子たちは各種教会を作り、
個々の人々と結びつく。こうして感性的な現実となった理念が完成する。これを概念的に表現するのが哲学である。
また、個人にしても、それが内から外への推論という点では哲学であり、内から外への表現という点では芸術であり、
内なるものが霊であるという点では宗教であるとみなすことができると思う。

概念は中央集権的なものではない。個別は普遍の抽象であるが、抽象という形で、他のものを捨象して自分を浮かび上がらせるという形で自らを普遍から聳え立たせているから。個人が類を統一している。だから逆に個人が類を含むと見ることもできるのだ。普遍による各個別の統一と個別による普遍の統一があるということ。なので一方的に上から命令するのは一面的な概念性だといえる。それを完成させる条件の一つに相互作用することがあると思う

力と誘発の自分の考えの訂正 
力が普遍となり能動と受動がそれぞれ特殊となる推論という考えは間違いかも


哲学の絶対的、精神的な存在を見抜く直観は純粋直観、あるいは絶対光感と呼べると思う。これは絶対音感が音声の背後にある音階を見抜くようなものである。絶対音感は直聴と呼べる。だがそれが純粋直聴なのかは知らない。つまり音声の本質は当たり前だが、音であり、音を基盤にアルファベットが作られている。絶対音感の人はさらに深く直聴してそこから精神を聞き出すことができないだろうか。音楽の哲学は純粋直聴から始まるのだろう

ドレミは音声の本質という点で既に概念的であり、また音声は母音が子音の基盤という点で概念的であり、音声は言葉だから概念的。だが音楽がどうして音楽なのかわからない。言葉も歌として音楽にすることができる。

音と音が結びついて波形とも呼べるものになるとする。この波形は、音というのが、空気の変形したものだと考えると、空気という音の原型が特殊化したものにさらに音が結びつけられ多ものが波形とする。だから特定の長さの音を流すと、その流れの音を様々な音楽に変形できるのかもしれない。この話はアイデアに過ぎない。この波形が美しければ音楽になる。

美は一見バラバラに見えて秩序が隠されているものと思っている。例えばマンダラは仏が調和的に配置されているがバラバラに見える。これは背後に数学が隠れてるのかもしれない。植物の成長にも数学が隠されているとか。
一見バラバラに見えて数学が隠れているというのは、数式の単純な表現が一なるものとして表現されたものであり、数式の単純な表現と同じものであるが具体的な表現を多なるものとして表現されたものと考えると、数式も理念的なものだとみなせる。

夢が成長した気がする。そのような夢をなぜ見れたのかというと、寝る前に精神的なことを考えたからだと思う。私は在る、私は命、光などとして、呪文を数分唱えた後に寝たときも、普通とは違う夢を見ることができた。シュタイナーの現実味があるのは、このことを言い当てているからである。イメージすると覚えやすいというのも言い当てている。主観は成長することができる。目をつぶると、イメージが湧いてきて喋り出すこともある。主観の現象にはまだまだ謎が隠されていて、シュタイナーはそれも進化として言い当てていると思う。

いじめの発現の一例についての考察
享楽主義で、正しくない感情として人を殴るのが好きだけでは、まだ必然的ではないが、これに自分を抑えられないこと、あとは対象選びの条件が加わるともっと確率が高くなるのではないか。そして、わざわざ言わなくてもわかるけど、動物を殺すのが好きというのも正しくない感情ではないか。

いじめの発現の一例だが、享楽主義が広い根拠であるとともに、もう一つの広い根拠として、差別意識があるのかもしれない。こいつにはちょっと冗談を言ってもよいという健全なものもあるが、ここでは差別意識の中に正しくない感情が作用して、殴ってもよい相手というのが差別意識の中に含まれるようになるとする。

私は西洋的な愛の光の体験をしたこともあり、また東洋の仏教的なオリジナルのマンダラ体験をしたことがある。そして直観から、物質にも精神が宿る、つまり普通のキリスト教が信じ留ように霊と物質は二元論的ではないことを見いだしたので、霊と物質の二元論の立場には立たないし、また特定の宗教に凝るというのは真理の一面しか見ないことになると思うので、様々な宗教を考察しようとしながら一元的立場を取る人智学がいいかなと思う。

ヘーゲル的なもの、ゲーテ的なもの、つまり、視覚的なものを苦手としたり反感を持ち直観的なものが嫌な人で、それでいて芸術的な自然観に共感を持つ聴覚的な人は、ノヴァーリスの知識を体験していけばよいのかもしれない。ちなみに自分の記述はだいたい知識を頭の中で言葉で理解させようとするのではなく、知識を体験できるように記述していると思う。

うるおぼえだが、ノヴァーリスは学問の聖書を目指していたようである。そして、哲学の原理を予感していた。哲学の原理はヘーゲルやゲーテが理念的なものとして直観していたが、実はアリストテレスが既に天上の理念を地上的な可能態現実態として見いだしていたと思う。学問の聖書はヘーゲルがエンチュクロペディーとして実現しようとしていたんじゃないかと思っている。ノヴァーリスの予感していたものと一致するかは知らないが。


学問の聖書と呼べるものはヘーゲルの論理の学が候補に挙げられると思う。

人間がこれから先、進化するとして、その分類法に善人種と悪人種があるように思う。人間は精神的な存在で善悪を意識するもの、要するに、人間的な部分は道徳的なところや精神であり、ここからさらに高みに昇るというのは精神的な部分がより純化するってことだろう。だからそれができなかった人間は粗雑な部分として、純化した人間から分離されてしまう。これが悪人種だと呼ばれ、精神を純化し道徳的になった人間は善人種と呼ばれるということだろう。人間にとっては、進化は肉体的なものではなく、精神的なものとして現れる。

お米を炊くときに何が起きているかの考察

米は炊く前の状態では食べにくい。どちらかと言えば地の要素が強い。生で食べることができる食材は水の要素も含まれているのではないか。だから米に水の要素を加えたい。米を水に浸すが、米の中に水を組み込めるように火を使って水を米にぶつける。そして水が米の中に入ると、米の中にある水に米が溶けて、これがご飯の味となるのではないか。

でもやはり味そのものの考察は思考にはできないのだろうか。味の本質は体得的な理念なのだろう。自分にはそれが無い、無いということはそれが自分の限界である。

自分を卑下し過ぎるのも煩悩だと言う。
そして自分を卑下し過ぎると突き抜けて他者まで軽んじることになると思う。自分の認識が実際はどの程度なのか知らないが、以前の自分より気づいたことが多いのは確かだと思う

唯物論科学の哲学は、あらゆるものは物であるとして、全てにあまねく物が存在しており、物の性質を解明できたら、それがあらゆる分野に応用できるってのだろう。だから、なにげに科学は唯物という哲学の基で科学していたということ。この絶対的な知識はどの領域にも見ることができるはずで、領域として特殊化しても、その限界の中であまねく広がる知識があるってこと。そして、哲学が経験から汲み取りまるで絶対的だと思えるような知識を、科学が得るには、科学も帰納をやらずに、直観から知識を、得ようとすることだと思う。そうしたら自然と、科学と哲学が一致してくるようになるのではないか。シュタイナーは既にこれをやっているのかもしれんしそれは、哲学のように思えるが、自然科学の面も隠されていると思う。その自然科学は直観的自然科学と呼べるものだろう。シュタイナー、ゲーテの学は哲学と科学の一致したものだろう。

人智学は世界の中に本質や究極原因、原理があるとするので、原理は直観することができる、と考えているのだと思う。そして仮説で終わってしまうような知識ではなく、世界の中に実際に有るとみなせる知識は直観から得られるので、それを得ることができるために霊的修行をするのだと思う。そうすれば、世界の根拠を体験することができるようになるのだろう。なので肝心な知識や知恵は、結局は霊的修行を自分で積まないと得ることができないのだろう。

物事には長所短所だとか表があれば裏があると言われている。それでよく人の行為の裏を見てきつい言葉で何かを言う人は、人の行為について何かを知っていて、その行為をする人は無知なように思っているかもしれないが、実は自分自身の人の裏を見て批判ばかりするという行為の裏については無知に止まっているなら同じように、普通の人なのだろう。自分で、自分の裏を見ようという自分の行為についての自己認識は、普通の人はあまりやらない気がする

宗教にとっては愛や慈悲というのは、たんなる思考上の理念ではないと思う。愛をヘーゲルは無限の力だと表現しているが、彼も愛を体験したのだろう。私が体験した愛と同じ体験かは知らないが、私の体験したそれは、感謝の念が自然と沸き起こり、むなしい心の中に少しだけ確かなものが入りこみ、以前の自分より、成果などなくても特別な存在になったと感じられるものであった。つまり、愛は本物の価値なのだろう。体験的にわかることで、思考の操作ではわからないことだと思う。反転の裏の意味とは、真実を含むものまで嘘にしてしまうことではないか。反転は両刃の剣だ

空間は無形として、有形を含んでおり、有形自身も、図形として様々な形の普遍であり、この概念が遍在している。つまり無形は有形の可能態であり、現実の規定でもある。時間は過去と現在を根拠にして、未来へと成長する概念である。物質は力に動かされる時、力を主語として力の目的語になっており、物質が能動として、他の物質に当たると能動を普遍としながら、同じ点という意味で特殊なものにもし、受動を特殊にする。物質が力を自分の内に持つようになり、まるで物質が力の主語であるようになると、地球や太陽などの星となる。その星は物質を自分に引きつけて、普遍と個別の判断を作ろうとする。また、物質同士は化学的過程により、ある物質とある物質を結びつけたり、分離したりする、つまり化学的過程は物質の判断の過程、つまり推論と解釈できる。過程の結末として、判断が形成されると、例えば二酸化炭素などが互いに接しあい、地球とそれに引っ張られる物質のようにして、相互に引っ張りあう判断となる。
こうして、以前にやった光や鉱物、植物、動物などの話になっていくのである。

ヘーゲルの美学講義を読む前の予めの思考、つまり予考しておくと、まず自然芸術が始まりで、精神化すると建築となり、さらに精神すると彫刻となり、この3つの要素を含んだもので、それらを表現の道具にできるものとしての絵画があり、絵画を内面化し、抽象的な形で動きを与えたものが音楽で、音楽を言葉として、具体的にしたものが、詩であり、まとめると、理念に形態が与えられ、形態に動きを与えられたものを根拠に、神人としてのキリストが生まれ聖書になり、神と人間を含む世界との関係を言葉で表現したものが哲学となり、概念を肉付けして現実を概念するとキリストの行いになるとしておく

現代にもしシュタイナーが生きておれば、現代自然科学や数学、論理学を学んで、それを人智学に生かそうとしたと思う。現代数学や科学の認識が霊界の認識に役立ち、これにより現代的な霊学がもたらされると思う。私は計算的、戦術的思考より直観的思考をしたい人なので壁が立ちはだかっている。霊学は科学的認識や数学的認識だけでなく、芸術的直観も必要とすると思う。

ヘーゲルによると意識とは自我と対象との関係だと言う。例えば存在を物とみなしているか、精神とみなしているかの関係の違い。日常に応用すると物語論になる。例えば友達から恋人になる場合、自我は対象を友達とみなすのをやめて恋人とみなしたのだ。それぞれの意識に含まれる行為の可能性が違ってくるので友達意識で生じる行為と恋人意識で生じる行為が違ってくる。

自分と世界との関係も、世界は物質の塊だとみなす人と、世界は神の一つの現れだとみなす人では意識に含まれる行為可能性が違うことにより、一連の行為の配列の内容が違ってくるのかもしれない。物語はある意識にある人物が様々な対象との関係にあり、様々な対象に対して行為を配列していきながらも意識が変わることで、配列内容が変わってくる、そして人物は一人ではないことから、別の意識を持つ人物が様々な行為を配列していく、例えばある人物について、トムは友人とみなして行為するが、ジェリーは恋人とみなして行為するなどとして、世界の中で人間関係の違いにより、世界の中に様々な意味が存在することになる

例えば何事に対しても倫理的に振る舞おうと思う人は、個々のものをどうみなしているかの関係だけでなく、何事にも倫理的に振る舞おうとする関係の中にも含まれている。

ネット情報によると、シュタイナーは、自分が死んでも理念は東洋の日本に根付くと予見したそうである。 
シュタイナーを夢で見たことのある人は、実際にアストラル界で時を超えて彼に出会ったのかもしれない。

人智学と通ずるのが日本にあるとしたら、ホツマ伝えや、カタカムナ文明の中にも自然科学以外に人智学や霊学を高めるヒントが隠されているかもしれない。

弥勒は魔術的な道徳を人々に流し込むという。 

魔術的な道徳と道徳的想像力は関係しているだろうか。それは現実となったメルヘン、あるいはメルヘンとなった自然科学なのだろうか

目は光と特殊な色
耳は風と特殊な音色
舌は液体と液体になった成分
鼻は風と風になった成分
運動感覚は特殊な状態にある筋肉と神経
圧力感覚も特殊な状態にある筋肉と神経

要するに原感覚も概念の形式をとっているのではないか。マナス、原イメージとは概念のことなのかもしれない。厳密な真理の形式の学としてトポロジーがあるのだろうか。そこまでするのはめんどくさくてやりたくないが。だが、数学は、原的な量を記述できても、原的な質は抜け落ちているのではないだろうか。この原的な質は光だと思う。

トポロジーの中には、輪ゴムを地球大に大きくできるという発想があると思う。

この発想はたぶん、円という概念は、全ての特殊な円を含むので、概念としての、真理としての円を表現しようとすると、全ての円が表現できることになるので、真理としての円を描くと、それは全ての円に変化できるような円であることになる。

つまりトポロジーは、単なる形を描くのではなく、真理として、真理が含む全てのものに変化できるような真理の形を描いているのではないか。

数学は難しいので想像だが

見えない体を離脱させる夢を見てしまった。
二度寝する夢を合わせたら二度もそのような夢を見た。
なぜこのような夢を見ることができたかと言えば、概念的な感覚の統一形式をイメージしていたことで自分のアストラル体がていをなしてきたと理屈づけてみる。つまり、様々な感覚をイメージし、それを統一する感覚のイメージをすることで、バラバラがまとまり、体になったってことである。これが空想魔術学の理論である。もしも空想でなければ、単なる夢でなければ、寝てる時なら再び離脱できるはずである。もしもそうならおって連絡する

体に戻るのに苦労した。

科学は世界を死んだ概念で表現しているように感じる。これに対して精神科学は生きた概念で表現しており、どうせ純粋思考するなら、生き生きとした概念でしたほうが通常の科学よりは改善されていると思う。なので私としては、精神科学を現代的な科学の言葉に置き換えて殺すよりは、逆に現代科学を精神科学やもっと生き生きとした言葉のものに置き換えることができたらよいと思う。

人智学の科学性を見いだすのも発見があると思う。通常の科学のみを科学だとみなすことはできないかもしれないし、つまり通常の科学を改善させた科学性を宿しているから、ある人にとっては科学的でないと思うのではないか。キリストのように。

マナスは内感覚という性質を持つらしい。
つまり感覚を統合した一なる感覚であり、本来は、この一なる感覚が多の感覚に別れるらしい。つまり感覚の真理がマナスなのだろうか。
ところで魔術は絵で考えることとコンウェイは言う。もっと言うならイメージで考えることかもしれない。

そして霊学をイメージすることには隠された意味があるかもしれない。少なくとも夢は成長するようである。

マナスをイメージするためには、ある感覚を別の感覚でとらえてみることをしていけば、だんだん近づいていくだろう。例えば音は音色として、光が混じる感覚があり、感情も色で表現できる。透き通った色の海や空を見ると美味しそうに思う。感覚は魂の養分という面があるとしたら、色や音にも味が隠されているかもしれない。つまり、一つの感覚自体にも光や音、味などが隠されているのではないだろうか。それらは、マナスの側面の代表である。そうだとすれば、マナスと分化した感覚は、確かに普遍と特殊の関係になると思う

キリストの普遍的な愛の中にいるだけでは、個別の全体に対する愛という意味で、エーテル的であり、すなわち植物的である。このキリストの愛から、自分の個別的な愛、敵を殺してでも、迫害者を倒してでも、自分の個的な愛を守ろうという、キリストから分離したイスラムが生まれるとする。この個的な愛は敵を攻撃する、テリトリーのものとみるなら、アストラル体的、動物的宗教である。ここからさらに進展すると、個別的ではあるが、思考を軸にした人間的道徳になるのではないか。そして、思考を軸にした人間的道徳になることで、キリスト教的普遍道徳とも調和するようになるのではないか。つまりキリスト的なものから分離した一者が分離してても統一される論理

つまり、シュタイナーの自由の哲学の段階が人間的宗教の完成と見ることができないだろうか。

科学は極端な客観性を抜け出て主観性も取り入れていくべきかもしれない。
科学に生き生きとした概念を使う、つまりみずみずしい主観性に近づけることは道徳と一致した科学を準備することにもなるのではないか。学問が道徳を意味するようになるとは、知識が知恵となり人間のいない宇宙の学問が、人間が生まれるだけ進化した宇宙の学問になることではないか

キリスト教は普遍的な愛だから、この愛は特殊化すると見られる。キリスト教から分離した愛も、特殊な愛の形であるとして、イスラム教をキリスト教が愛する、そしてイスラム教も、自分の特殊な形の愛だけが愛の全てではないことを考えると、普遍的な愛という愛もあり、愛の概念の中にキリスト教とイスラム教があることを知り、互いが普遍的な愛と特殊な愛を代表していたに過ぎないとしり、これにより承認が生まれ、統一が生まれるのかもしれない。
そして互いが承認しあうと、新たな宗教段階として、よりいっそう具体的になった愛の概念の宗教が生まれるのかもしれない。

国際的には、リーダーシップをとっている国が統一を強制するのではなくて、また世界潮流に乗ることを強制するのではなくて、分離を許すことがいいのかもしれない。これで逆に統一が生じるのかもしれない。神も悪魔を生んだくらいである。

仏教は苦痛を否定し、僧侶だけが清くなる道から、みんなが救われないと自分も救われないという道に進化した。
キリスト教は苦痛に意味を見いだしたことと、ユダヤ教を完成させ愛の掟を守ればみんなが救われる道を示したが、これは自分の手を汚したくないとする多くの善人や、清くあることに執着する善人を生み出したりした、これにより愛に限界が生じる。 イスラム教は敵対者や現実に立ち向かおうとする。そして手を汚すことを厭わない愛として以前の限界を突破した。
イスラム教は悪魔をも愛の道具にする宗教かもしれない。今や愛の限界は教義そのものである。教義や押し付けられた理想を突破して、自由の哲学の立場になってくる。

幽体離脱できなかった。あれは夢だったのだ。 

別にいわゆる何とか学徒でなくてもいいし、認識者でなくてもいいかなと思った。
怠惰なので認識の努力を別にしなくてもいいかなと。勉強の方向性に2つある。一つは最小に最大をこめられた普遍を繰り返し学ぶ方向で、本ではシュタイナーの神智学と神秘学がある。語学やピアノは脳にいいと宣伝されているように、これらも脳の何かの開発によいと思う。

もう一つの方向には、様々な対象の本質を学ぶというもので、これは努力が必要そうでやる気がしない。もちろん努力はいいことだと思うけど。

私の宗教の弁証法は宗教が愛の形態によって変化するが、どれも愛であるという統一で、教義を突破することの意味は、教義を全て嘘とみなすのではなく、教義以外の愛の可能性を開くことだと想定してます。

具体的過ぎる文字規定はどれも鉱物だが、
例えば抽象的な道徳規定の善や悪はもっと拡散したものだと思う、つまり道徳が抽象的であればあるほど水の文字から風、炎の文字へと広がる。
だが、抽象的な炎の段階でさえ、道徳の文字の場合は生きた動きあるものであるべきかもしれない。

このまま何ものも目指さない状態になれば返って無名であるタオを目指すことになるかもしれない

本を読むのがめんどうなので代わりに
愛のマントラを念じている。
これは楽にできる。

あとロシア語やってみようと思っている。

ロシア語も文法止まりになる可能性が高い。

道徳を知性の主人にすることは、
知性をメルヘンの中に組み入れることだと思う。

例えば布団をかけてあげるという動作は
知性の産物である道具を思いやりに利用している。ちなみに、してあげるという言葉使いには、上から目線以外にも、思いやりの心を表現する時にも使えると思っている。ただ上から目線の意味にしかとらない企業もあるので、わざわざさせていただく、なんて言い方に変えているところもあるが。話は戻って、知性を思いやりに使うことにはどんなことがあるか意識してみたい。例えば自分のロゴスのイメージから他者にしてあげられることはないだろうか。それは他者を普遍とみなして、それに外的な特殊で飾るというイメージが使える。布団をかぶせるのも、服を着せるのも、何かを持たせるのも、全てこのイメージが内実をえたものである。他にも、内面を普遍とみて、それに外的な特殊を加えるというイメージももてる。

人間を普遍とみて、イメージを働かせたら知性を思いやりに利用していることになると思う

知性を思いやりに使うために、他者を普遍とみて、概念を完成させるイメージを使うとした。
その前に人間一般を学ぶことと、個人的な他者理解が必要だと思う。また、特殊を与えるだけでなく、特殊を除くことも考えたら良いのかもしれない。例えば布団をかぶせるのは暖が欠けている場合だが、暑いとなると布団を除く。欠けていたら特殊をかぶせ、有り過ぎたら除く中庸で、具体的な個人に、何が欠けていて、何が有り過ぎなのかなども理解しておけたらよいのだろう

学ぶことで偏った状態なのか普通の状態なのかを判断できる知識が得られる。そこから、中庸的な状態へ持ち込むにはどう働きかけたらよいのかがわかってくるのではないか。例えば感情の嵐は普通の状態ではないとわかっているので、それをどうやって平静な状態に持ち込むのか、として、平静な状態という目的ができる。
中庸的な状態と偏りのある状態や構造をともに学問で認識しておけば、それが道徳に利用できると思う

他者や動物などを知覚存在としての普遍とみなすと、単なる概念が、さらに広がりをもって現れてくる。なのでそれらの存在の知覚領域に含ませることで何かの道徳をなすこともできるということ。この知覚領域は内面の領域に通じている。まあ、これは当たり前のことだが、知覚存在として普遍を見るとさらに広がりのある普遍になることに気づいたので。

自然にも中庸があるかもしれない。

領域の考え方をこれまでの自然考察と文型のイメージにも応用できると思う。

空間的な中庸だけでなく、時間的な中庸もあるのではないか。例えばある循環が世界に調和をもたらすもので、それが別の循環に偏ると調和が壊れてしまうなどを想像できる。

全体的認識があることで、
そこから目指す目的のために
何かを与えたり取り除いたりできるようになる。人間を理解して、自然を理解して、自然を目的を果たすためのものに作り変えることができたら、道徳をなせるようになり、倫理学を学ぶだけでは道徳は完成しないのかもしれない。

アリストテレスの形而上学を読んだとき、ただ読むのではなく、自分で内容を思考しなおして辿るやり方を途中までやった。これは疲れる読み方だがその分だけ良い負荷がかかるのだと思う。だから長時間読む必要はなく、15分くらいやったらいいと思う。

強さ弱さなどは本質的なことではないので、拘る必要はないということ。例えば弱い人は来世で強い人生を歩むかもしれず、どちらも味わうべき両端なので片方の状態のみに拘る必要はない。その両端のどちらに属していても道徳や愛をそれぞれの形で目指せる。つまり、道徳や愛が人生の本質だろう。道徳や愛を発展させるために、両端は用意されているんじゃないか。

もしかすると、強さ弱さより、強さ弱さの状態におかれながら、いかに生きるかのほうが大事なのではないだろうか。
それに金持ちなども、絶対的な利点ではなく
むしろ金持ちであることで、天国に入れなくなる恐れがあるのだ。それよりは、ほどよい貧乏のほうが美しい感じもする。

数学や論理学、自然科学は知性の道だと言える。

芸術は、
隠された自然法則が精神に高められたものが
想像力により現れたものだと考えるなら、
想像力の道を歩もうとする人は芸術を吸収すればよいのかもしれない。
また、鉱物的知性の高みに立つ存在を表現できる手段とは芸術かもしれない。

つまり、
例えばファウストなどの詩を自分の想像力で形成しなおす作業をするってこと。
そして、その中のあるイメージは記憶され、いつでも想起できるようになる。
聖書でもよい。

輪廻を考えると、現在は自己創造の途中である。知性を発達させるか、イメージを発達させるか、はたまた善なる意志や愛、道徳感情を発達させるか、何を体験してきたか、その中でどれが来世で特に強く作用するかで個性の根拠になる。鉱物から人間に至るまでを見ると、より複雑に個性があるので、地球期を終わる頃には、ますます人間の個性のバリエーションは豊かになっているだろう。

ここでもやはり人智学が出てくる。
というのも、人智学は芸術と哲学と宗教の統一だからだ。芸術は人智学を用意したらしい。凄く簡単に言うとホメロスの時代は精神世界の残照の中にいて、ダンテになると、ダンテ自身の個性の中に精神世界が見いだされ、シェークスピアになると、世間の地上にまで精神が降りてくる、そして、ファウストになると全人的な個性が見いだされ、それが精神世界へと再び上昇しようとする。ここに、その上昇を助ける人智学が位置付けられる。
また、哲学もミカエルの学院でアリストテレスとプラトンの統一により人智学を用意している。キリスト教が人智学を用意したのかはわからないが、ここまで来ると、宗教さえも人智学を用意したのかもしれない。つまり、哲学の統一に、ミカエルが関わっているということ

直感だが、古代ギリシャよりも古代の時代は、学問と宗教と芸術は同じ一つのものであり、それら3姉妹は一つの親をもっていた。

人智学は分離していったそれら三つを再統合し、親に戻した。そして、この親はよりいっそう具体的、意識的な形で表現された親である。

だから人智学は古代をいっそう具体的に表現しなおしたものだと解釈する。この古代への帰還は単なる逆行ではなく、むしろ進展であろう。ここから、やはり新たなる古代が始まっているのかもしれない

単なる正反合という抽象的過ぎるイメージでもなく、また前にやったような具体的過ぎるイメージでもなく、もっと本質に近づいた弁証法の説明の試み。ヘーゲルの全体系にこれが見られるかの確認はしていないが、正しさを含むと思う。まず抽象的な個別的普遍がある。それがその中で特殊を生み出してよりいっそう具体的になる。この過程が正である。次にその具体的普遍から分離する、つまりこれが否定と見られる反である。続いて、反から普遍が見いだされるが、この個別的な普遍は分離しているから、主体となっているが、普遍性から、結局は調和の内にあることがわかる。これが合であり、全体はよりいっそう具体的な全体となる。ここでわかるのは、神は組織として中央集権的で個別を無理に従えているのではなく、自分から分離させ自由にさせておきながらも統一を生み出しているってこと。だから私の個人的な国体のイメージよりも一歩進んでいる。ヘーゲルは中央集権的ではない

概念の普遍特殊個別というイメージは中央集権的ではない。中央集権的であるとしたら、全ての個別を捨象して、世の中には普遍しかないという一面的な悪魔的見方である。だが、実際には個別もある。すなわち個別を抽象して、普遍を捨象する形で、個別により普遍を統一することができる。これが現実としてイメージされると、一つに地球と人間の関係が浮かぶ。だから中央集権的国体はロゴスを誤って認識した産物だと思う。ただ私は国学は知らないので原理に止まる

個別が主体となって概念が完成するということ。

神は生きた類なのかもしれない。つまり、神とは究極の一なるカテゴリーであるが、それは主体でもあり生きている。そして、そんな類としての領分を持つ神が人間を助けられる領域は、身体システムなど人間が基本的動作をするためのあらゆる無意識的な動き、つまり類的な領域のみ、神は助けられるかもしれない。

世界は生きた概念として、普遍的主体や特殊的主体、個別的主体が統一のもとで活動しているのかもしれない

太陽は普遍、地球は特殊、月は個別
だから人智学では地球は太陽や月と合体する時期があるとしたのだろう。
そして改善できない魂が月領域に止まるようになるのも、月が個別的なものであり、個別的なものに執着した結果、月により統一されるようになるからだろう

社会主義は唯物的で、物質に精神を見出してないが、物質から精神を見出すことができるので、新しい社会主義は唯物論を乗り越えたものだと思う。唯物的社会主義国は現実に根ざしていない理論の上に立っている。マルクスも学ぶ必要があるかもしれない。国家から精神生活を分離し、経済生活を分離するシュタイナーの社会論は、中央集権的国体という一面的秩序より一歩前進した自由で、それでいて調和ある世界だと思う

ヘーゲルがどう考えていたのかわからないが、私は人間という理念を考えるとき、それを円形にして、形を歪めた人間離れした理念を形成するのではなく、人間理念は人間の形でイメージしようと思う。現実そのもののイメージを好むのは、抽象イメージが現実離れしてしまうから。人間は人間としてあるものはあるものそのままにイメージすべきだと思う。そうでなければ、本当は人間を人間としてイメージしてないことになると思う。つまり、純粋思考は一歩前進して、形象をまとうべきではないか

ヌーソロジーの、創造的思考、能動的思考が想像できない。行為的思考なら、技術者の思考とも違うのだろうか。それは平面的思考ではない立体的思考でありながら、立体的概念がそれだけとしては想起されず、前後の奥行きの中で立体概念が想起されるようなのが奥行き的思考だろうか。つまり、表面と内部という特殊を備えた立体が奥行きの特殊として位置を備えるような。

ヌーソロジーの言う奥行き思考とは何だろう。
間違いという状態から真相まで生成できたらよい。

空き箱を考えてみる。
空き箱は奥行きの線を描いてそれを横向きに回転させて長さを調節し、できた内部を空虚とし、外部を膜としたら、空き箱のようなものができる。

理念を立体にすることができる。
抽象的規定としての単なる普遍は自らを根拠にして、特殊を分離する、特殊もまた自らを根拠にして個別を分離する、そして特殊や個別にも普遍性が備わっているためそれらは統一されて球になる。個別の統一を考えると円錐形になる筈、この円錐形が集まって球になる。

人間も立体概念として捉えることができる。
しかしこれは球体の表面が物質体の普遍であり、内部の中心が本質としての個別性としての自我があるって形 つまり、人間の本質はまだ鉱物的であることがわかる

シュタイナーによると思考が生きた像を獲得すると、思考は頭だけにとどまらない、特に指と手が思考の道具になり始めるという。
つまり、指と手が、無なる塊に形を与える、
すなわち外在化した対象的思考が彫刻なのかもしれない。

目は光を担うという。つまり、目の中に光の本質がある。これにより一見分離しているように見える知覚素材と知覚器官は統一される。
また、認識と実践の相互作用の構造は概念となる。つまり、外界が人間の主観の中に入ることで、客観から主観への統一が完成するが、主観が実践することで主観から客観への統一が完成する、こうして主観が客観を自分の中に置くことができるようになり、客観と主観の統一が完成する。主観による認識とは個別的な客観、あるいは全体を保持したまま縮小した客観であるが客観とは拡大した主観となる、つまり客観とはそのままで善である。そして普遍的主観になっていない個別的主観は悪である。しかし普遍的主観は善だから何をやってもよいとするのは思い上がりである。この主客統一により宇宙が本質を維持したまま個別化したのが主観であるとなり、この主客統一を一言で表す単語がロゴスである。だから、私は概念の中の概念となる。絶対的理念の誕生である。しかし、知的に理解することは絶対的理念の意識状態の形骸化であり真の理解ではないと思う

真理の能力とは創造だろう。真理に目覚めた人の想像力は、内部に質的な概念を持つので、単なる影のような想像力や、真理の表現とは言っても骨のようなトポロジーの記述とは違うものであり、真理としての質は全ての質に変化可能なものであり、それは美的なものや道徳的なものをも含む質なので美や善を想像できるようになるのだろう。だから真理が個体化したものと言われるマナスの状態になれさえすれば、ヌーソロジーの意味とは違うかもしれないが、単なる知的理解に基く能動的主観ではなく、内なる真理からの能動的主観になるのだろう。
客観を吸収する受動的主観は認識の受動であることによりやがて能動的主観になれるのではないだろうか。真理を取り込むことで真理を担うようになる。

イエスは食べる時、弟子たちに手を洗わせなかった。それは体が汚れることより心が汚れることを問題にしたから。つまり汚い言葉や心に作用するもの受けると、心は汚れるというわけだ。粗雑な感情などを吐露することは心による排泄と言い換えられる。

真理に気づくのは転生により誰でもできると思うので、執着する必要はないと思う。

ロゴスの観点を日常に向けることもできる。
形相と質料というアリストテレスの観点、つまりある種のロゴスを導入できる。例えば形相はトースターをトースターたらしめる性質であり、質料とは、その性質を生じさせるために使われる素材である。これはトースターとしての本質における、同一性と差とも言えると思う。この観点を技術者は応用できるかもしれない、つまり作品の本質を考える上で役にたつかもしれない。設計図が形相となるが、具体的に言えば設計図のどの形がその作品の本質な性質を生じさせるようになるだろうか。あるいは設計図のどの具体的な部分がその作品の美を生じさせているのか。工学を知らないから想像であるが、工学は一種の真理としての多様に変化するが一つの数式で表される数学を設計図に組み込むのだろうか。形相としての数学

工学は自然の繰り返し現れる法則を表現した応用数学を設計図に組み込むのかもしれない。

つまり、唯物的には、応用数学が自然の本質として意識されるが、霊的には道徳が本質が意識されるのだろう。もしかしたら道徳に応用数学を重ね合わしたら質と量の統一としての度量として真実の自然が表現できるようになるのだろうか。

人間にロゴスを適用すると
目的概念が自分が対象を包摂する形になっていて、それが対象への方向を持つ力となり、身体が対象に向かって動き、対象と結合する。
身体は目的概念に従う可変的な特殊であり、対象は普遍を担う個別とみなされ、例えば食事をしたい人のその目的は様々な具体的な食べ物を含んでいるが、逆に具体的にラーメンを食べたい人は、普遍的な食べ物を食べたいという目的に包摂されてもいる。目的により可変的な身体が動かされ対象と結合する。数式が目的に該当し、具体的な座標の変化に該当するのが身体だろうか。この概念の実現の過程を、応用数学でイメージできるだろうか。

善をなすことが理想であるが、善因善果なので、自分の利益にもなる。だから善をなしたいと思う人は、実は利益のためだと裏を見ようとする人がいるが、その人は善は善いものだと思うから善いことをなしたいのだという善への憧れ、善への欲求のようなものがあることを見ていない。善をなす人には良いことが起きるという世界は望ましいと思う。だから何か善いことをしていたら、来世に善いことが起きるかもしれないってことまで思考が及ぶのである。善の思いは誰でも持つことができるが、完璧な行為が難しいので、悪が結果として生じるだけだと思う

実在する人間を良い方向にも
悪い方向にも見れる可能性を認識しておけばいいのかもしれない。
それに無益な反感や争い、高く見積もり過ぎるのを避けるためにも完全否定はせず崇拝もしなければよいと思う。この意見は固定ではないので、改善される可能性もある。気づきが増えることでこの意見が改善される可能性があること自体が自分の一部としての意見が変化できることを表すと思う

内的合目的性とは自己目的と言われる。

自分が目的であり、自分が手段でもあり自分自身を産出するものがそれだと言う。
これは成長や進化、勉強のことだと思う。
だから次の理念論の、生命、の根拠になるのだろう。

種をイメージする。種の中には未来の姿が隠されている。そして、この未来の姿を目的として、種を手段として種から目的が次第に生産されていく。人の場合は子どもから大人へ、あるいは自我がより清らかな自我へと。

文学をやっていると至る境地の想像。
ある作者の想像した個性が別の作者の本に姿を変えて登場しているように思えたり
現実の人間の中に想像された個性が見いだされたりするかもしれない。ファウストは誰にでも見いださる個性だと言う。つまり、文学においては虚構の中に現実的個性が置かれる場合がある。

鉱物から人間へと至るとより複雑になるように、真の個性的生活は天国でできるようになる。

ヌーソロジーの話だが、
奥行きと幅の回転として虚軸と実軸の円形があるのだろうか。
ヌーソロジーに至るには奥行きとして自分が外にもあるという直観ができなければダメなのだろうか。


隣人愛の自分の中での新しい解釈。
神は我々を自分自身を愛するように愛する。
神は自分自身のように諸々の個別を愛する。
どういうことか。つまり、世間や神より低いものや悪者さえそれも私であるとして愛するという面があるし、特別なことをなした人でなくても、能力がなくても世間の人でも尊敬しなさいと読める。
それに、神はしっかりと他者の個性を理解している。そして隣人愛とは自己の中に眠るマナスの観点に立って、どんなに悪者でも低い者でも高い人でも個別的存在は神、すなわちもっとも高いものであるとして個別にあわせて変幻自在に愛せよということかもしれない。そして隣人愛を実行する人は神を愛さなくてはいけない。神から人間への愛に対して人間が自然や人間を愛することで神への愛がなされる、こうすることで神から人間への愛の統一に、それを実践した人間から神への愛の統一として、愛の概念ができる。

だから愛の道を歩めば神に出会えるかもしれない

自分の認識力では人智学を発展できない。

ホツマはまだ研究は始まったばかりだと言う。
シュタイナーが人智学にゲーテやヘーゲル、さらに東洋を持ち込んだように、逆にゲーテやヘーゲル的目線を東洋に持ち込めるかもしれないと思いながらホツマを研究するのもよいかもしれない。西洋的直観にも真理は含まれているはずなので。
まだ始まったばかりで未踏の気配がするからやりがいありそう

人間は自分を周囲から見いだして、自分は周囲の世界の鏡だという。

つまり、他者を高次の自己とみなすことができるという。

神秘的には他者という大きなものが高次の自己であり、個別的な自分が低次の自己となるってことだろう。

マナスもやはり周囲の吸収と関係あるかもしれない

外部を改造する生き方や
外部に働きかけるのに集中する生き方は
大衆の間に浸透しているが、
内部を改造する生き方は珍しく思う。

内面の限界そのものを超えようとする
生き方は新しい生き方のように思う。
つまり、新しい生き方をしようとすれば
霊学で遺伝子的束縛を突破して理性を身体にまで浸透させ
いか超で認識の限界を突破し、意識を根本的に変革するのが新しい生き方なのかもしれない。
それに、大衆にまで修行方法が公開された時代は前世にはなかったのではないか

概念的真理観からすれば、
支配者とは全国民の内容を含んだものであり
その全国民の内容こそ支配者の内実であるので、それを表現するものとして、憲法があると思う。だから一般意志とは憲法のことでもあると思う。そして憲法は全国民の内容を表すために抽象化されて、それにより全国民の普遍性となる。だから、基本的に支配者は個別的なものを捨てて無私の精神でないといけないが、現在は悪魔の時代なので個別的な欲望の強い人が支配者になる時代なのだろうか。

この考えは古いかもしれないが無私の精神を持つ人が、支配者になるべきという理想は実現されてないとしたら、思想としてではなく、現実として新しいものだということだろう。

学者は霊的修行を積んで
時空を超えた観点から、未来を見通せるようになるべきだと思う。
つまり外界での展開ばかりではなく、天国の展開や宇宙の記憶という内面をも認識できるようにならなければ、真の学者とは言えないだろう。学者は全て真理を目指すべきだと思う。
そうしないと、真理に向き合おうとしない学者生活を送ることになると思う。
つまり、実際にできるようにならなくても、霊的修行を学者がやってみる過程にも意味があるのでは。外界の真理だけでは半分の真理だと思う

もし内面や天国の真理がわかれば清らかでない国家の思惑を覆すような話がたくさん出せるようになると思う

社会や世間を憎む人はなぜか自分の親兄弟や親しい人は社会に含まれていないと錯覚してる場合があると思う。社会や世間を具体的なものとみなすと、自分にとって身近な人もそのメンバーとなるから、社会や世間を絶対的に憎もうとは私は思わない。身近な人に社会悪の源泉があっても、まずは許すことから始めるのが理想かもしれない。

霊的なものは目に見えないから
抽象的思考の方が具体的思考より優れているはずなのに、シュタイナーはなぜ具体的思考を目指したのかを考えてみる。
人間自体が個別存在であるために抽象的思考をすると、個別的存在という現実を見ないようになるからかもしれない。つまり、思考は普遍が個別を含むような思考によって、それが個的存在となり、具体的思考となるのだろう。
抽象的思考は全体的思考ではないのだろう。
抽象的思考は規定が少ないために、普遍性をかすめるのみで、概念全体を叙述することができないのだろう。

シャンティフーラのコメントを読むと、物理学では自己、プルシャとは時空のことであり、自性とはエネルギーのことらしい。一つ一つの粒子に個性はあるのだろうか。粒子は同じ性質の遍在なのだろうか。

シュタイナーは植物の生滅に集中せよとするが、それを別様に思考することもできる。
種は内的合目的性と呼ぶことのできるような、到達点を内在させており、自分を手段として、その到達点にまで自分を産出させていく。そしてその到達点はこれまでの過程を含んでおり、また種を産出する。そして次第に枯れていく。枯れていく過程を想像すると、水分が抜けて縮小し、バラバラに散らばり地球に喰われる。

本当は季節の流れまで思考しないといけないが。

薔薇十字の瞑想
植物には緑の液体が流れている。これは欲望のない清らかさを表すとする。だから自由に動くための器官を持たなくてもよい。これに対して人間は赤い血液が流れている。これは欲望を表し、この欲望に合わせるようにか、身体も動けるように作られている。欲望という点では植物に劣るが、動けるという点では優れている。この欲望を浄化させ、血液を、愛の液体を意味するものに変化させることができるとしたら、それは愛という花言葉を持つ薔薇の花弁に相当するだろう。こうして人間は植物、動物という過程を至り、動物性を根拠にして、再び高次の意味で植物性を獲得していくのかもしれない

日本の南京大虐殺が
なかったことにしたいという
安部政権が生まれた
原因の一つには、
中国が反日本の姿勢を取りすぎたせいで
その反日本にうんざりしてきた日本人が
でてきて反中国の姿勢を取りたくなったというのもあるかもしれない。
復讐が先にどちらが悪いかに無関係なのと同じに思う。
何かに攻撃的になるとどちらが悪いかに関わらず攻撃的な反応がかえってくる。
中国は攻撃的になりすぎて自分で敵を作ってしまったのではないか。でも自分は想像だけで話してるので、中国が攻撃的であることの確認はしてません。日本が反中国の姿勢を取りすぎると中国では反日本が加速してくるかもしれない。復讐の道よりましな道はないだろうか

だからしつこく反日を続ける限り、中国は自分に不利な状況を生み出す因子を作り続ける。それは日本も同じであり、対立の親は対立ということになると思う。分離からは分離が生まれる、この連作を切るためにも、国際主義など、平等とか統一的な立場が良いのかもしれない。

中国との領土問題での
中国の強引なやり方にも問題があったように思う。
中国が強引な態度をとったために、
日本は軍隊が必要に思われたというのもあるかもしれない。

つまり中国が中国の言う右翼国家を日本に生み出す一因になったのではないか

決まりを守らない強引なやり方や、ルールを押しつけてくるなど、中国もアメリカも、力、の道を歩んでいて、それでは反発や憎悪を生むだけではないだろうか。
ここは、友愛の道など別の道を日本は取るべきかもしれない。

体の中にエネルギーを作るばい菌を飼い、ばい菌は体を病気にしないように膜で包まれている。そのエネルギーを体に利用する。ばい菌から出た糞を漏れないように膜で包んで体に溜め込む。これらは原発のことである。医学に詳しくないからこれ以上はわからないけど

日常の現実も幻覚の一種かもしれない。
日常のこの唯物意識を切り替えて霊的世界を見ることができるようになるということは、
日常の現実が絶対的なものではなくなるってことだ。脳の状態で言うと、唯物的現実を知覚する脳状態が正常で、それ以外の現実を知覚する状態は幻覚とみなすのではなく、唯物的現実も幻覚の一種なのではないか。あるいは別の知覚状態も現実の一種なのではないか。
唯物的意識で脳を知覚すると、まるで脳が全ての知覚状態を決めているようにみなすが、別の意識状態で脳を知覚すると、そうは思われないはず。つまり今日の医学や学問の根本は唯物的意識にあり、それは恒常的幻覚の一種ではないかってこと。その唯物的意識を絶対だとみなすと、別の意識から見られた学問を幻覚とみなす。外界の前に、意識があるとしたら、唯物的意識からなる全ての学問は絶対的に相対的であり、精神異常者の中の、完全に唯物意識を抜け出た霊的意識から新しい学問を作ることができるのではないか。現実の前に意識があるということ。

唯物的に表現すると、固定的現実を知覚する脳状態から見られた精神医学は絶対的ではなく、別の現実を固定的に知覚する脳状態から見られた精神医学もあり得るのではないかということ。つまり、精神医学や学問を作る前に、精神医学者や学者の意識があり、その意識を絶対的だとみなすからまるで霊的意識を病気だとみなすようになるのではないか。

西田哲学によると、その意識にも統一があるらしいので、本当に学問しようとすると、意識の統一とか真理を目指すしかないと思う。

誰がそばにいようが、会話を交わそうがどんなに素晴らしいものを見ようが、地上のものでしかない、みたいな根本的なむなしさは残ると思う。
地上的なものがえられないさびしさより、
真理がえられないむなしさのほうが嫌だと言いたい。地上的豊さが得られなくても、真理さえあればよいと思う

霊的学問には芸術、宗教、哲学、神と人智学、アグニヨガ、サビアン占星学、コードロジー、スピリチュアル、シャンティフーラの竹下氏の東洋医学や講義、古代日本哲学、ヌーソロジーがあり、どれも学びたいけど、時間と金がかかる。
たぶん、どの学問も霊的世界で可能な経験の全範囲にまで及んでいるわけでないから実際にこんなに霊の内容がバラバラに現れていると仮定しておく。霊統が違うのかもしれない。

人智学は周囲の良い認識を吸収し、洗練させる性質があると思う。シュタイナー人智学は近代までの内容を吸収しており、現代となれば、近代から超過したぶんだけ新たに吸収して洗練させるのが人智学なのかもしれない。

この思考ははじめから生じたわけでないけど、この思考をはじめから生じさせるためには対象の性質を考えて近代と現代を全体と部分と見なしておけばよいのだろう。

全体と部分が絶対的な規定でないとみなしても、無意識に認めているのではと思う。例えば知覚するときに、そこに既に全体と部分があるんじゃないだろうか。それらが実は一つだとみなす前に、実はと言っているので全体と部分が背景にあることになる。

証明はあらかじめ証明を受ける人の中にないもの、あるいはあらかじめ気づいてないものを通用させようとしても無駄に終わるかもしれない。誰の中にもあるものとして、間にあるものとして体験できるものでないと通用しないのかもしれない。例えば全体と部分というのは既に体験している概念だろう。

自分の中にあるものだけを通用させようとする人との議論は不毛に終わるけど、
誰の中にも見い出せる概念、例えば全体と部分という概念の有効性は了解が得られると思う

証明は、潜在的にその結論が証明を受ける者の中にないと納得させることができないのではないか。つまり潜在的にその結論を生じさせえる条件が整っているときだけ、その人を説得可能になるのではないか。

何を学んでいくべきかを考えた。時間を節約するために選択する必要がある。
人智学一通り終えたら自然科学やるかもしれない。もっとも低いものがもっとも高く上げられるように、自然科学の中にかえって未来の霊学が宿ると考えて、過去世の縁で人智学が学べたように、来世で自然科学から進化した霊学を受け取るために、現代で自然科学をやっておこうかと。だが疲れるから数学から逃げたくなる。

美食も芸術の一種だとしたら、美食が表現する内容も精神的なものであるべきだろう。
味に精神的な質を与えること。
神の言葉を食べるように、
地上的素材で神の言葉を再現すること、あるいは愛や真善美を味で再現すること。
もしかしたら一つの食べ物の中にさまざまな味が現れるようにするのも精神的にすることかも

的はずれかもしれないけど、人間は人間の中でのみ生きることができると思う。さもなくば自覚されない高度の人間性の中で生きることができると思う。人間外的なものの中で生きようとすれば、それは、まさに人間とは相容れない対立するもの、互いに無関係なものであり、それらが重なると磁石のように分離しようとして、人間を否定しようとするだろう。これは新たな病気の発生だろう。人間外的な社会はこうして新たな問題が生まれるだけだろう。
むしろ今の社会を改善、治療するほうに目を向ける。

内的合目的性は判断の一種だと思う。
それは小さな子どもが大きな大人になる時間的判断。大人になったとき、子どもの頃を含んでいる。逆に子どもの大人との関係は、生成する、なるという形の判断のように思う。そして大人になると、子どもの頃の全てを含んだまま、老人へと縮小して、最後には世界に喰われる。もしかしたら、大人になるとさらに成長する部分と縮小していく部分があるようになるかもしれない。これが成長の大枠で、生物学をやれば、もっと具体的になるのだろう。

思考を時間的に把握すると、判断はどれも普遍へと生成する。推論についても、時間的には全体から個別へと生成している。
普遍となり、個別となる。概念自体は不完全な概念かもしれないが、存在自身の理念はそのものだから完全なものだろう。たぶんこの理念自体は生成するものとして把握すべきで、これまでの静止的な把握はまずかったのだろう。
ただ、述語が主語を含むものとしても、主語が述語を含むものとしてでもなく主語が、ある根元的な述語を意味し、根元的な述語が主語を意味するものとして把握されるべきなのかもしれない。
シュタイナーはそのため、構成要素を性格付けることで、生きた概念として表現していると思う

主語を動的なもの、つまり根拠として見ればよいのかもしれない。この根拠自身が動きでもあるような。それが意志や力、衝動などとして表現されている

人間は内面の中に正義感や義憤、愛、良心などの道徳的力を生み出すことができる。これも人間の内面のイデアではないだろうか。つまり、これらは、他者にも生じうる。そして、これらの感情を生み出すことによって、法の精神に従うことを望みさえする、つまり道徳的に自由になるのだと思う。この感情は意志なのかもしれないが、道徳的感情として、他の感情と区別する

都会と田舎の考察。かつての先住民の暮らしは、環境として、人間以外に動物、植物、鉱物がある環境だったが、田舎になると、動物を締め出して植物や鉱物がある環境になった。動物は普通には住めなくなったと思う。都会になると、さらに植物を普通には住めなくして、鉱物だけになった、その代わり、新たに機械という環境が加わり、唯物論を表現する領域になったと思う。こんな視点からすると、かつてのアメリカの原住民の暮らしはある意味贅沢だとみなせるかもしれない。

幸福とは自分が創造的になり、自由を感じられるようになること、あるいは絶対的な平安をえることだと思う。
前者はどういうことかと言えば、自分の中に眠る自分の本質としてのイデアを直観できるようになれば叶えられる。このイデアによって、道徳的理念を創造できるようになると思う。そのための手段として直観的純粋思考が必要になる。後者の道は愛の道だと思う。これらはみなせばあることになるものではなく、獲得されるものだろう。

シュタイナーの神智学という本を読み返したら、さらに深く理解できた。

私は一回では理解できないので読み捨てることができない人だ。また、速読の多読をしても深く理解できない人だろう。

この本ではまず、体魂霊が説明される。なぜなら、体は3つに別れ、魂も3つに別れ、霊も3つに別れるが、それら3つがさらに体的なもの、魂的なもの、霊的なものとして解釈できるので、体魂霊が本質だからだろう。

魂は体験を受け取り、魂が体にその記憶を書き込む。この記憶を霊は吸収して、すなわち記憶を霊化して能力にする。霊にとっては記憶も外界と同じように外なるものである。だから記憶することと、外界に行為することは同じようなものであり行為とは外界の内面化とも言い換えられる。つまり内部に永続的なものを刻むことと、外部に永続的なものを刻むこととして同じようなものである。この外部の記憶が思い出されることで運命がやってくる。つまり、我々は思い出の中で生きることになる。木星期を連想する。そして環境によって、退化することもあるように、どんな運命の中で生きるかで能力も変わる。だから正しい生活、正しい行為が大切になる。

また、道徳的生活を実践すればそれが永続的なものとして宇宙の記憶となり、宇宙はその記憶を吸収して、自分の能力にし、宇宙の法則が進化するかもしれない。

これらの解釈は自分で見いだしたものなので、
やっぱり自分で読んでみることが肝心かもしれない。

一般意志とは、外から集団を誘導する目的や理想ではなく、集団の中に遍く内在する意志であり、哲学者や作家はそれを掴む必要があると思う。

現実哲学は高所から見下ろすのではなく、現実にまで降りていくべきだと考える。
社会学も、ある集団に遍く内在するものを捉える学問かもしれない。例えば宮台さんは右翼を感情の劣化だとみなしているが、これを言い換えると内在する劣化した感情を持つものの集団が右翼の根拠であるとなるだろう。

このように集団に内在するものを考えるために、人間にはどんな根拠があるのか予め知っておく必要があるだろう。そのために哲学が役に立つ。性格、知覚、衝動、感情、概念、個人的イデア、思考、感情、意志などが日常社会を考える上で役に立つ概念だと思う。もちろん他にシステムや歴史、文化も知っておかないといけないかも
あとは現実に降りていき、具体化していけばよいと思う

光の本質とは闇であるが、闇とは抽象的な光、静止した光かもしれない。光は色を生じさせる。影も暗い色を生じさせる。光があたると影だった場所の色は変わるが、影があたっても明るかった場所の色が変わり、別の色となる。このとき、明度は減少している。影は光を輪郭づける。よく言う、ブスを連れ歩く美人は、ブスにより輪郭づけられているのかもしれない。森は影の効果により奥深く美しいように感じられる。それ自身の影によっても光は輪郭づけられる。影は海の戯れのような流れでも海自身を輪郭づける。つまり、光が色と形を生む、その光の中で、影がさらに色と形を生むので、風景はより奥深くなる

光が色と形を生む、影はその光を基礎として、光を否定することでさらに色と形を生む。つまり、影とは光の彫刻家なのかもしれない。
だから物質的なものが影であったとしても、物質界があることで、全体として美しい世界になっているのではないか。

地球は地上に大地と海がある。地上から大気が生じる。つまり、地上から大気が自由に分離する。しかしそれも重力の中にあるものとして地球に統一されている、という地球の弁証法

神智学の霊我の領域の説明で、一つ一つの小さなことに、生命の永遠の生成発展にとっての意味を見いだすこと、とあった。

日本人は出る杭は打つという。
上下があり、上に位置するものだけが特別とする思考、そうやって下を作る思考に、反感や不快感を覚える人がいると思う。
そういう人の中で反感や不快感を覚えたら、出る杭が事実優れているので高慢になっているわけでないにも関わらず、出ていれば不快や反感を感じたら、即打つ傾向にある集団が日本にはいるのかもしれないなどとして、日本社会を考えてみた。出る杭を打つのは、日本の平等意識という美点が負に現れたものかもしれない。
しかし自分はその出る杭であると主張しても許される社会、つまり同一性からの分離による違いを認める社会でないと、いじめの根拠にもなると思う。新しい社会とはみんなが平等に違いがあっても許される社会というか、法律の範囲内でのイデア的な社会のイメージ。いじめの根拠のもう一つは、人への暴力が好きという正しくない感情をもつ人だと考えている。

みんなが同じようであるべきだという圧力から逃れて、出る杭となる者が現れる、そして出る杭叩きが始まるが、それを回避して、みんなが出る杭であるとなれば統一が完成する。たぶん、日本人の自我に充分な個我意識が育っていけばみんなが出る杭になる。このバラバラの状態の中で日本人を結びつけるのがたぶん正しい感情のもとの個人に属する道徳

ヘーゲルの概念とはもともと動的なのだろうってことを考えている。なぜなら、概念の普遍とは根拠で、それが個別へと現象していくので、概念とは過程でもあるから。
だから概念をイメージするとき、静止した映像を思い浮かべるだけでは、まだ生きた概念ではない。つまり、名詞的映像だけでは完成した概念ではない。この名詞を根拠にしてこの名詞の特徴的な活動をイメージすることで根拠から現象へと移り、動的な概念が完成する。

例えば鉱物の特徴的動的概念とは分離へと向かうこと、植物のそれは成長、繁殖、形態の維持、動物のそれは周囲からの印象を受け取り感情や衝動からの活動、人間は思考活動

人間の常識的感性を深めたら人智学の人間の構成要素にたどり着くと思う。
なぜなら物質が命や心、自我を作ることなどできないという直感はありうるように思うからだ。
物質が命や心、精神を作ることができない、人間が、物質から生命を作ることができないとすれば
世界は唯物論ではないだろう。細胞はもともと生命が浸透しているのでそれから生命を作ることができるが、
そこらへんの石ころから生命を作ることなどできなさそう

唯物科学ではわからないものがあるという説はオカルト的には正しい説なのだろう

今は前世の行為の成果の中に生きている。
来世は前世の行為の中にあるものに行為することで生み出した成果の中に生きることになるのだろう。前世の行為のエッセンスが次の人生に作用する、今度はそのエッセンスが用意したものに新たに改造して、さらにエッセンスにしたものが来世の身体や運命となる。この理解からしたら、全ての前世の行為が今に生きている

悪いことをしたら、それは永続的なものとして世界に自分が記憶したことになると解釈できる。良いことも同様である。これが全ての来世に影響し続けると解釈してもよいのだろうか。

カルマによって運命や身体を用意するので、病気の原因にもなりうるだろう。外界から生じる不幸や苦痛がカルマなら、身体に生じる病気も同様にカルマなのだろう。

整理整頓は位置付けないし分類と見ることができる。

なんでも分類とみなせる。例えば指先を動かすのも、指先の位置付けを変える分類ないし、整理と見ることができる。分類の言葉の意味は間違ってる気がするけど、感覚的に、全ては分類のように思う。移動は自分全体をそちらへ分けることだろう。そちらの中に位置付けられたと見ることができる。人間や動物の臓器や知覚器官も位置付けられ、整理されている。

ヘーゲルの論理学、絶対的理念のところの認識についての説明がヒントになると思う。この認識は実践をも認識することができるだろう。つまり、実践も知の一つだとしたら、実践的分類、実践的分析、実践的総合など、能動的認識とでも呼べるものが実践とみなせるかもしれない。分類や分析的実践はわからないが、位置付け的実践の他に、ある理念の基でさまざまな行為を展開するのが総合的実践とみなせる。
認識は外界だけでなく自分自身をも包む。
自分に内在する知は道徳であり、実践へと移る。この実践自体も知であるので、認識論の概念が適用できるだろう。

そうすると、あらゆる実践、どんなつまらないものに思える実践にも、一般的価値が見いだせるようになる。ある人がどんな境遇におかれていても、普遍的な実践はできることになる。
ただし具体的に言えばどれも違ったものではあるが。


読むだけで能力をあげられる本とは
三次元的なものを含む様々な整理、分類、位置付け、体系、のイメージが載った辞典だと思う。
全ての実践に応用できると思う。

概念は閉じたものではない。
むしろ概念は遍在している。
一つの概念は閉じたものとして円が円を包むように表現されているが、実際は個々の存在に遍在して内在するのが概念である。この遍在がどのくらいまで妥当するかで概念の領域が変わる。存在と一致するのが概念であり、概念が自らを突破するとしたら、それは成長や進化のことだろう。概念は存在と一致するから、概念は他の概念と関係を持てるので、概念は開かれているとも言える。つまり、個々の概念は外の概念と接することができる。

私は最初は自由の哲学やヘーゲルを誤解して理解していた。つまり、その頃は知ってる人にとっては馬鹿に見えただろう。だが、その馬鹿というのは無常なものであり、理解を深めることでましになったと思う。
なんで愚かな社会だと見なされてしまうのかと言うと、仕事やあれこれに時間を費やしてしまい、不正確な認識で認識が停滞してるからかもしれない。だが、その人がもし、認識への努力に目覚めたら、無常な馬鹿からましなものへと変わっていくのだと思う。
ということは、人々に認識への努力を植え付けることに成功したら、社会は変わっていくのかもしれない。

概念が閉じたものだと思うのは数えられる名詞のうちの単数形で総称の意味を持つ不定冠詞で考えているからで、これを客観的な複数形で考えると、その中の一つは宇宙の中に有るとして、外部に開かれている。そして、宇宙という言葉は人間にとっては無限に開かれた概念だろう。宇宙自身が地上の概念界である。

単数形的思考の中の不定冠詞的思考や、複数形的思考の他に不可算名詞的思考がありうるかもしれない。鉱物を見るときなどに後者は生まれたのだろうか。語学には認識論が含まれているのかもしれない。

認識論が実践を考える際に基盤になる。
整理整頓や分類などのイメージとは要するに形であるので、多様な図形、幾何学を把握しておけば、いいのかもしれない。
例えば概念的認識もイメージにすると円や球になる。つまり、我々は応用幾何学をやっていることになる。

目の前の体系を否定して新たな体系にするという総合的実践の過程
部分を取り出すという分析的実践に、それを新たな全体の中の部分に位置付ける分類的実践、この過程の全体が総合的実践

このアイデアは絶対的ではない。

格差社会について
貧乏にも幸福があり、金持ちにもそれなりの幸福があるのは事実だと思う。貧乏の幸福は清貧と表現できる。
これだと宮台さんは格差社会が受け入れられてしまうという。この金持ちの幸福も貧乏の幸福も、部分的、個人的幸福である。ここで新たに、個人的幸福は全体の幸福があって達成されるというのを導入して、全体の幸福を奪う可能性のある幸福は真の幸福のためにある程度制限されると考えるとどうなるのだろう。だからシャンティフーラの竹下さんが言うように最低賃金のほかに最高賃金まで設定するというのはどうか。

金は血流だと思う。
社会にくまなく流れないといけない。

シュタイナーの社会三層化論の経済についての
基本となるイメージはたぶん、
社会が、自然から物資を呼吸のように吸い込む、この肺的なものから血流的なもの、商品や金となって社会に流れこむという循環器系のイメージだろうか。


経済は感情でもある。自分の感情が心臓の鼓動に作用するように、友愛の感情で鼓動する金や商品が流れていくのは理想かもしれない。

法は神経、思考であり、主人従者、上司部下などの関係を法の下に分離して、互いに上下関係から自由にして判断、その他の人間関係を定める。

精神活動は代謝、意志で、これらの活動を保つことを望み、エネルギーを利用して動く。自由に動くのが理想かもしれない。

地上世界での実用性は自然科学が霊学や哲学を圧倒する。逆に魂や霊の領域では自然科学は役に立たなくなる。ここで逆転が生じる。つまり、死後の世界では自然科学が地上での哲学のようになるだろう。
人文学や芸術は魂や霊にとって役に立つのを目標にすれば存在意義が出てくるだろうか。
真剣に現実に向き合おうとする人は自然科学も哲学、霊学も必要とするだろう。
霊学や哲学を学ぶことはむしろ死後の世界で役に立つための準備をしているともいえるかもしれない。

何かを目指すことや、憧れはそれへと同化する、同一性への傾向だとし、反対に、それにはなりたくないみたいな軽蔑は違いへの傾向と言える。
グローバル人材という
地上における有能な人たちを目指すのが唯一の社会理想ではない。他にも脱地上人材、超越人材、神的規模人材という理想があると思う。これも有能な人物になることではあるが死後の世界での話である。そのための手段として、霊的修行を実践すること。

生きる意味はたぶん
個人が個人でありながら、個人を超えたものになることだと思う。
家族愛、友情は理想であり、個人的な理想だが、個人の枠を突破している。
仕事もそうだろう。宗教生活、道徳的信条生活もそうであり、奉仕活動もそうであり、学問、芸術活動もそうではないか。
能力をつけるのも、以前より人に役立てることができるような、個人の枠を超えたものではないか。
真の自分とは、これら以上に個人を超えたものだろう。倫理的個人とは個人でありながら精神的な存在として個人を超えた存在でもある。

家族愛、友情、共通の信条を持った生活、奉仕活動、学問芸術の創造活動は、理想的という意味で目的ではあるが、真の自分はそれらを超えたさらに奥深い意図をもっていて、それらの目的も真の自分の意図を達成するための段階的目標になるのではないか。人によってはそれら段階的目標を必要としない人もいると思う。例えば友情や家族愛を得られないことで得られる難儀を求めるかもしれない。

歴史を面白くするためには、自分が歴史的にはどこに位置付けられているかを探ればよいと思う。
自分の血族が歴史的大事件の中で
何をしていたのか、とか。

自分の想像では、エーテルの体的本質は種で、種がイメージを維持することで形態が保たれ、傷がつけば再びそこが思い出されて再生する。子供は外に自分を思い出すこと。種の本質から、成長のために新しい身体が思い出され付け足される
エーテルの魂的本質は性格や気質であり動的形態が本質となり、繰り返し動く。
エーテルの霊的本質は外部の形態の本質を取り込み、その本質からイメージを形成し思い出す。エーテルでは自分の中から自分に向かって本質から形を形成していたが、魂は周囲に開かれて、外部に対して魂を刻印し内面を形成する。霊はこの根拠から現象するという両者に内在する思考を取り出して、その本質を運動させる。

いろいろな仕事の哲学はその領域の中に遍在する概念を探せばいいと思う。例えば福祉なら、ノーマライゼーションなど。西洋医療なんかでは唯物論が根本哲学ではないだろうか。
理念は既に考えられているので、生産的に哲学できないと新しい概念は生み出せない。理念が掲げられているだけで機能してない場合もあるだろうし。新しい概念を生み出すにはどうしたらよいのか

ゲーム的認識論があると思う。
ゲームシステムをゲームの世界を
表現する認識論とみて、それの発展を
ゲーム哲学の発展、虚構哲学の発展過程と観ることができるかもしれない。

最初は平面的な認識だったがだんだん現実的になってきていると思う。これを意識の進化とたとえられる。実際には意識進化ではなく技術の進化だが。最新のファイナルファンタジーやゼノブレイドなど。

やがて虚構哲学は単なる現実を突破して、アクション映画を観ているような戦いになったりするかもしれない。

ロボットの認識技術の進化は、ロボットの哲学の進化でもあると思う

哲学を役立てるためには、
生産的な思考ができる必要があると思う。
仕事が、ある理念の現れとしての総合的実践であるなら、新しい理念を生み出すことで、総合的実践の内容を変えることができるようになるはず。

だから哲学だけじゃなく、いかに理念を現すかという芸術などの表現方法も知っておくべきなのだろうか。

鉱物で植物、動物、人間を表現したり、
人間を鉱物、植物、動物、人間の統一体として、これらの要素を全て表現するように形象として表現したり、人間の中の植物部分だけを表現する形象を作ってみたりする芸術理論、人智学理論の芸術への応用

ゲーテ、ヘーゲルで真理が見いだされる。
この準備された真理にロシア的なものが加わる。たぶん、真理と道徳を結びつけたり、真理への帰依の原理かもしれない。
最後に、アメリカ的なものが加わり、哲学が動的になる。しかもこれは真理に動きを加わえたものであり、道徳の実践衝動として現れる。
という想像。真理が地上に降りて動きまわるようになる。

哲学に詳しい人はシュタイナーの文化論の哲学の位置付けから想像できるなにかがあるかもしれない

どんなものでも概念と見られるから、キリストの実践にも概念、つまり叡智が含まれているはず。そして、シュタイナーの言うことが本当ならば、キリストの行いから、活動する叡智としての愛を見いだせるだろう。
まず、受肉は神の地上への凝縮と考えられる。自己犠牲とは自らを能動的に死へと近づけることであり、自らを燃やすことで、自らを捧げること、地上的なものの拡散であり天に近づくことだと解釈できる。人間も受肉して生まれると考えられるが、自らを死に近づけるほどに自らを捧げる自己犠牲のほかに、受肉と反対に位置する能動的行為、つまり普遍化は見られないだろう。許すとは受動的に万人を愛するということであり、与えるとは対象との能動的統一である。つまり、相互作用的でロゴスが完成しており、このロゴスは自らを天へと高めることも、地上へと凝縮することもできるものとして、概念的活動と見ることができる。そのためには自己犠牲がミソになる。キリスト教は真理を愛として語り、愛に進化させたと考えられる。

もしもシュタイナーの経済と法政治と教育、精神生活を互いに独立させるとましな社会になるというのが本当だとすると、経済学では呼吸循環器系を数学化した経済学が必要になるのかもしれない。シュタイナーの場合はゲーテのように直観的、質的要素があるので、質を忘れた血流数学モデルではダメだろうが

たしかに成長も普遍化と捉えることができるが、それは同じ領域、つまり地上の中に止まっている。しかし受肉が天からやってくるように、自己犠牲は地上から天へと至る行為であり、弁証法がある領域から別の領域に移行するように、論理的であり、ここでは自らの意志で能動的に自らを捧げることで彼を地上の領域から引き離すものだと解釈しておく。だから成長とも、自然死とも違う。自ら捧げることでかえって命が得られるという思想は、善いことをすればますます善いことになるから、理想だと思う。


叡智は自らを変容させて創造活動も行う。そして自らを凝縮して地上に降りて自らを地上に捧げて天へと昇る。その間に与え、許すのも行う、この二つは活動的な統一であり博愛である。キリストとは万人にとっての中庸出もあるのかもしれない。だが、個体化した真理の意図はまだ考えてない

技術者の思考の萌芽にたどり着いと思うと妄想しておく。
といっても大したことじゃないが。想像的で
創造的な数理的思考と呼んでもいいのかもしれない。例えば本がある。本はいくつもの平板なものを軸を中心にして並べている。カーテンは平板なものを一枚だけにして、それを二つに分けてスライドできるようにする。ここで平板なものを垂直に回転させる。さらに軸を全体で四本にして垂直になった平板なものの足にする、こうしてテーブルのようになる。

公理は、要素は増やすことができ、伸ばすことができ、縮ませることができ、回転させることができるなどとしたら、これらからいろいろと想像していける。

パソコンに意識があるとしたら、これをさらに高度にしたような意識かも

複雑な社会学の本質を探るために、人間現象の根拠を探る必要があるとおもう。それは以前に哲学の概念を借りて社会を考えよう的なことを書いたコメントに載っている。あれで複雑な社会現象がいくつかの少ない根拠にまとめられたと思う。
そのヒントは肉体、エーテル体、魂体、感覚魂、悟性魂、意識魂、霊我と地上、魂界、霊界の3界にある。
例えばその社会現象がある思想を根拠にしているなら、悟性魂、意識魂、霊我とか思考の領域から生成された社会現象で、この思想の領域にもいろいろある。性愛に関しても身体的欲望を根拠にしているのか思考を根拠にしているのかと区別できると思う。また、反感、共感を根拠にしているのか、など。

チクるのは悪だみたいな風潮が学校にはあるが、悪いことではなかったらばれても問題ないはずなのに、バラすなというってことは、
悪いことだと自覚していじめなどをやっている。だから当たり前だけど、本当は、チクるのが悪だってのは自分の行いが悪だって認めている。自分の悪は通用させようとして、チクるという悪は通用させないという風潮。自分の悪が実は善かもしれないように、チクるのも善な場合があるのではないか?
自分の行いは制限なしなのに、他人の行為は制限しようとする。
だからチクるのだけ悪とするのは卑怯なことではないか?
悪いことでもバレなければ何をやってもよいという態度は学校だけでなく政治や家庭にも現れる。例えばゴミのポイ捨てなど。でもバレなければ許されるという場合もあるかもしれないけど。

もしかしたら、自分の不利益になるから善に生きないで目に見える成功を勝ち取るのを目指すより、善を守った結果、ひどい目にあい、病気になり成功を逃した人の方が尊いのかもしれない。その人は善に生きることができたから。

アグニヨガは全ては美だという。
全ては理念だとするゲーテの直観的見方も、
存在を芸術とみなしていることになるが
アグニヨガの場合は、理念の形象化が美だなどとして言葉で言い表されるものというよりも、感じられるものを美だとしているのかもしれない。理性ではなく、感性を対象に開く必要があるのかもしれない。

悪であってもバレなきゃいいというのは、何を大目に見て許される問題なのかってことだと思う
身近な存在や自分の悪は大目にみようとする傾向があるかもしれない
たぶん、自分の行いが、人々の社会行為全体の中でどこに位置づけられ、それが社会悪につながるかが
認識できたら、自分を変えることができる人が中には出てくるかもしれない。

社会行為全体とはたとえば、それが思考に関係する社会現象だとしたら、
ある認識が不足していることで生じる社会現象 たとえば宮台さんの言う粘着中がこれに属する そして感情に関係する社会現象だとしたら
感情が劣化していることで生じる社会現象 これは右翼やいじめが属する、もし内発性が、善なる意志として、意志だとみなせるとしたら、
意志に関係する社会現象だとしたら、善なる意志、内発性から生じる社会現象、そして自発性から生じる社会現象などとして、
人智学の提出する人間の全体像と社会学をからめて、社会現象を総合的に認識できるかもしれないというアイデア

これができていたら、社会がまとまりをもって、デタラメな社会でさえどこか美しく認識できると思う

内発性は自発性よりも個人を超えているから、魂としては自発性より希薄で、つまり自発性より普遍的な魂として
位置づけられると思う。人は自発性も内発性ももちあわせているだろう。

そして霊界と魂界ではその世界の領域と、領域と同質の人間の性質が語られている。
地上とあわせたら神智学は総合的人間観を記述している。
地上の人間領域では人間の本質の総合的な結果として気質が生じて、空間としての人間の本質の他に
人生にそって人間の本質が展開する動的な人間の本質がみられ、
この時間的な人間の本質の展開は神秘学概論で与えられると思う。つまり宇宙の進化の展開は人間の人生の展開の中に見ることができるとする。

この人間観のほかに、人智学的世界観をもたなくても同意を得られそうな総合的観点は
社会についてである。 法政治領域、経済領域、精神領域として人間の社会生活を総合的に見ている。
この領域は個的な人間を含み、歴史がありシステムがあるので、思考、感情、意志といった個的な人間に属する一般性を
根拠にした総合だけでなく、人間の「集合」の中での総合的認識を可能にすると思う。
でもまだアイデア段階

この法政治領域、経済領域、精神領域として社会を分析して、
これが人間の思考、感情、意志と平等、友愛、自由、神経、呼吸循環系、消化代謝系として
さらに重ねて直観できたとしたら、これら社会システムの関係の理想は人間の身体にあるとなるだろう。
そして人間の身体システムを直観して、それらが独立しているという結論に達したら、
社会システムはそれぞれが独立しているべきだとなる。こうして社会さえも思考、感情、意志的なものとして
また、それに対応するものとしてみることができ、それらの不足や欠如を根拠に社会現象を考えることができる
ようになるのかもしれない

思想の自由の基に教育が行われるべきなら、
現代の唯物論という哲学に根ざした学問群のみ教えるというのは、無意識に唯物論を刷り込み、密かな思想の強制ではないだろうか。
憲法に詳しくないけど、これは憲法違反と解釈できるのだろうか? 

もしかしたら唯物論的学問だけでなく哲学や宗教、魔術など、霊的学問体系も学べるのが思想の自由が守られた学校教育ではないだろうか。

唯物論に根ざした学問だけでなく観念論に根ざした学問も教えないと唯物論的なものの一方的すり込みになり、思想の自由を無意識に犯すことになるのではないか。
学校教育が唯物論を絶対視あるいは唯物論に偏っているということ

アメリカはその点でキリスト教世界観だけを教える学校があったりと、一応思想の自由が守られた教育だと言える。日本では唯物的なものと観念的なもの、両方教えたらよいと思う

学問をする前に意識があり、意識によって現実が変わる。つまり唯物的意識が先にあれば唯物的学問となるが、シュタイナーのように霊的意識にあれば現実がさらに奥深くなり、学問もそれに応じたものとなる。なぜならシュタイナーは唯物論が認める現実も知覚できたろうから。
なので唯物論精神医学や唯物論学問は自分の意識が絶対的なものでないので、それを現実と決めて教育に唯物論をこめると思想が偏ることになりうる。

ディープラーニングの技術を今日知りました。
ゲーテ的直観と通じるところがあります。
つまり神経という唯物構造がゲーテ的直観を可能にしていると考えられるので霊的意識を持たない限り客観的観念論だと胸を張って言えなくなった。知能が唯物的ってことが証明された。それでも霊学の探求は続けます。知能の霊化とは何かという疑問が湧いた。それは霊的知識を植え付けるだけで完成するのか、だがそれは根本的に唯物的ではないのか。脳を使わない思考だろうか。

このディープラーニングが開発された流れがあるなかで、ここで私がゲーテやヘーゲルを再発掘したことをトレンドとは言わずに時代精神の思考への働きかけと表現したい。

生きる意味が神の計画のためのそれぞれの特殊な任務であるとする
そして生きる意味は個人を超えた行為であり、利他であるとする。利他のためには力をつけないといけないので
生きる意味の過程に利己が含まれるのかもしれない。
だから身体の器官にたとえられる。人間が既に統一の中にあるなら、その統一を全体として
利他行為を部分だとみるなら、器官のようにイメージできる。
これを応用したら「国体」になる。だが身体を直観したら、法政治的なものと、経済的なものと精神生活的なものは
独立していなければならないとわかったら、これまでの「国体」を乗り越えて「社会体」になるのだと思う
社会体は、シュタイナー的には「魂体」でもある

つまりシュタイナーの社会三層化論はプラトンの「国家」を進化させたものだとみることができる。

国体を目指す時代はもう終わって、こんどは社会体を目指す時代かもしれない。

経験だが、脂ものを食べたら頭皮に脂がのってきて、髪が抜けやすくなる。睡眠不足もストレスも髪に悪いだろう。食べ物や睡眠不足、ストレスは多数の結果を含む原因であり、どこに現れるかは人次第。リスクとリターンは予想された原因の中に含まれるとされた結果だとする。

根毛は脂分を含む。だから脂ものの脂も根毛に集まる。ここから、人間の細胞は自分と同質な成分を集めるのではないかと考えられる。ある質は同質なものを集めるというのが法則と仮定
する。


対象の部分を回転させたり縮小したり膨張させたり対象そのものを増やしたり減らしりする
空間的思考だが、これは建築、彫刻、絵画、工学にも広がっていくと思う。この空間的世界に、法則を加えていけばよい。例えば絵画ソフトのパネルを覚えていると、それは絵画のための方法の種類なので、頭の中で絵画を描けるようになるとおもう。脳内にダウンロードするのである。

殺したらいけない理由は
自分にカルマなどで不利益を被るからとか進化に遅れるからというオカルト的理由でさえも説明不足に感じるほど
に深いものかもしれない。
自分の心の中に曼荼羅があるように、
人間の中にも殺したらいけないという自然法
があり、その法に逆らうこともできるほど、自由も許されている。曼荼羅のように、
この殺したらいけないというのは人間が勝手に作り出したルールではないと思う。
心も生命も物質で作ることができないなら、見えない世界はあり、従って神と善のイデアがあるかもしれない。例え技術で心を作ったとしても、それは物質が心を模倣するメカニズムで作用しているに過ぎず、本質は物であり、心の本質を持たないと思う。物は何も認識しない。機械は認識を演じているだけだろう。唯物論からすれば、人間も生命も機械になる。だからどんな努力も自分の力ではなく物の働きがそのように動いたに過ぎなくなる。唯物論学問だけを学校教育で植え付けるのは、まずい気がする。

霊などの存在を証明するためには、
証明とは何かを考える必要があり、
証明とは自分の中にあるものを相手の中にも生じさせることだとする。
だから霊の証明のためには、霊的修業をしてもらい霊視者になってもらえれば、内面に霊が映り了解が得られる。

カルマを了解できるようになれば、犯罪者は刑務所に入れる必要はあるかもだが、裁きは彼が自分で自分を裁くことになるだろうから、必要ないことがわかる。現実的に考えると、裁きや死刑を廃止すると、人びとはどうなるのかを考える。もしかしたら、死刑があって、感情のはけ口が死刑に流れて落ち着くよりも、死刑がなくて、感情が社会のデタラメの認識や追求に向かうように仕向けられるならば、死刑は必要なくなるかもしれない。

政府が無知と言う人もいるが、そうだとしたら、政府に認識組織を作ったほうがいいのかもしれない。政府は目の前の仕事が忙しくて、認識する暇がないのかもしれない。

国体を乗り越えた社会体は
法政治、経済、精神生活に別れる。
経済に利他的な働きが含まれて、精神生活に自立した個人生活や教育が含まれているようにして、精神生活と経済を独立したものとすると、自立と奉仕が両立できると思う。だからもし人類の統一が本当なら、うまくできているはずだと思う。

キリスト教は博愛だから、家族や故郷に属するもののみに愛をとどめるわけにはいかないのだと思う。だからといってそれらへの愛を失うわけでないと思う。今思いつく考えだと、既に親が満ち足りているなら、他人孝行に向かうのかもしれない。それに父母を敬えとも言うし。

宮台さんの就活原論をちらみしたが、
内定がとれる人は
なんでもできることを実績で示すらしい。
私がうまくいかなかった理由はこれかもしれない。

つまり、学生はできるだけ潜在している能力を目覚めさせておく必要があるのだろう。
自分の見えない根拠の中にあるいろんなものを見えるものとして現象させておき、それを通じて能力が確かなものであると企業側に認識できるようにする。
見えるものにまで現象させて、認識できるようにするというのが、当たり前かもしれないがポイントだと思う。でないと自分の能力は相手の認識にとって透明で、ないものになるのかもしれない。

神と合一しながら自我を保つ状態を地上に降ろすと、独立した個的自我でありながら、我々意識にもなってくると思う。

ゲーテは確か、人生は彩られた映像としてのみ理解できると言った。
たしかに私もイメージによって理解している。
だから理解とは、言葉に対応する正しい映像があることだと思う。
教育ではたくさんのイメージを事前に吸収させたらよいのかもしれない。

何かを知覚すると反感や共感が起こるが、それよりも認識、思考を上に置いて、全ては学的なものの現れであるととらえたら、反感や共感も認識の対象になる。学的なものの現れであると捉えたら、平静になり、対象は理解すべきものになる。
例えば、肉食系と草食系どちらかに反感を抱き攻撃的になるというより、肉食系が広く支配的だった時代からその集合的支配から分離したものとして出現したのが草食系であるとして、弁証法的に、理解すると感情から自由になっていると思う。
攻撃的にならないから,ミクロなレベルでは平和になる。マクロとか広い視点にたてる学者の場合、攻撃的になることで、読者に反感を呼び起こし、その内容を理解したいと望む人が限定されてしまうと思う。むしろ自分の感情に反感を抱くような、自分とは逆のタイプにこそ読んでもらうべきではないだろうか。

五行論やソロモンの箴言などの知恵は直観から取られたものと思うが、因果関係なので時間的深みをもつので、表面的な直観では了解できないものだと思う。この経験の深みを体験したい人は、まず自分で経験を長期的に観察、記憶して、五行論を自分の人生に見いだしたらよいのだろう。かつての日本は五行論的な陰陽師が国政に関わっていたが、それを現代的に改善して復活することができたら、社会の操作に役立てられると思う。カリフは知性があり戦術的思考が出きるだけでは一面的カリフ、王者的カリフに過ぎず、まだ不完全だと言える。ここに、霊視能力がなくても五行論などが把握できるほどに、経験の深みに降りていくことができるような哲学的な一面が付け加わるべきだと思う。

経験だが、
批判も攻撃的に言うか攻撃性をなくして言うかで問題点をつかれた人の反応が変わる。
攻撃的に言えば心を傷つけることがあり、場合によっては憎しみにさえ変わると思うが、
毒を抜いて指摘すれば受け入れてもらえる傾向がある。
もしかしたら、攻撃的に言うと、相手を拒絶する姿勢なので相手も拒絶の反応をするようになるのかもしれない。

ほんとうは攻撃的な部分が面白いと思われるような知的消費物にするよりは
問題を生じさせている当の人々にこそ読まれるべきだという私の考え。
そして面白さは感情の排泄から汲み取るのではなく、イメージから汲み取れればよいと思う

正直に言うと宮台さんの口調から連想したことです。でも社会の腐敗の根元にたいしては強く言うべきだとも思います。でも権威者でもない右翼や左翼、アイドル支持者などに対しては馬鹿にする口調より、冷静に社会における自己認識を促すようなものがいいんじゃないか。社会学は周りで問題点の源泉の集団を馬鹿にするものであるよりも、冷静に社会の中で自分はどこに位置付けられるのかという社会的自己認識を教えるものでもいいと思うが、私自身が理想に向かって努力のできない人間で、怠惰から生まれる社会悪の原因でもあります。

逆に社会悪から多くの人びとは学べることがあるから社会悪が継続しているのかもしれない。

世界認識、世界体系から導きだされる社会現象の記述が他者認識から、それぞれの自己認識へと発展するということ。周囲からの他者への指摘から、他者そのものへその指摘が送り込まれ、それによりそれぞれの他者の自己認識へと変わる。これは社会哲学という言葉を連想する。

軍隊は宗教の弁証法から考えると、イスラム教に位置付けられる、特殊な愛の現れだと思う。そして、普遍的な愛だけで世界は成り立たず、いろんな愛があることを認め、人間の愛は普遍的な愛だけでなく特殊な愛もあるほど具体的なものだとしたら、軍隊もそれに応えるために必要だと思う。逆に普遍的な愛に対応する組織がないのかも。軍隊は力であり、他の国の圧力に反発することで自分の国を個的にする。国どうしの関係は従属と主人がある。自由な調和のためには全てが全てから独立し平等な関係を結ぶことだと思う。この自由の調和のためには、全ての国の中に普遍的な愛に対応する組織が必要になるかもしれない。もしかしたら、自民党的な政党を特殊な愛を担う組織とし、それから独立した普遍的な愛を担うような、民主党的な組織を作り、それぞれが調和的に実践できるようにしたらいいのかもしれないがまだ抽象的なアイデア。

国の性格を一貫させるのではなく、矛盾の統一された性格とみなすのはどうか。だから国が普遍的な性格と特殊な性格を担い、2つの活動が矛盾することもあろうが、実は統一されているというような。

自由の哲学を役立てて社会組織を考えることができた、これを社会三層論と統合できるかいつか考えてみよう。

このように哲学の世界認識を応用して社会世界を考えることができる。哲学が人間観、世界観を提出するということは、それを全ての特殊な世界への応用可能性が開けるってことであり、だから社会世界にも応用できるってことになる。これが思想、人文学の有用性なのかもしれない。

特殊な愛に位置する自民党的な組織で別に今のそれを意味しているわけではないものが、国家の基礎や国民のためのものや軍隊を用意する。自民党的な組織の権限はここまでであり、次に普遍的な愛に位置する民主党なものがそれらを基盤にしながら友愛を実践する権限が与えられる。
個別的なものが普遍的なものの基盤になるという人間観の応用。与えるためには吸収する必要があるという意味で現実的

人智学などの世界体系から社会現象を導きだし、その世界認識的な社会学が生まれる。
この人びとの世界体系への位置付けを応用して、小説やゲームのためのキャラクター制作に役立てられるかもしれない。こうして、科学や世界観は、具体的に動きだし社会学となり、最後には芸術となる。

ディープラーニングにより
哲学マシンが作れる可能性ができたと思う。
そのためにはディープラーニングに自分の認識方法自体を認識してもらい、自分の思想のイデアを作ってもらう必要があると思う。
そして哲学マシンは物だけでなく、存在と存在との関係も認識できるようにすれば、アトランティス人より衰えてしまった人間以上の記憶力を持つ哲学マシンが、五行論を発見し、国政に応用できるようになるかもしれない。

人智学から学べる創造論

古いものを現代的にアレンジして復活させること。例えば、昔の商品を現代の技術で復活させてみるとかどうだろう。

人間観に対応付けて、現代に対応物がないものがあれば創造できるかもしれない。
例えば、意識魂に対応するのが議会制民主主義だとしたら、その上の霊我に対応する政治も創造できるかもしれない。

宗教からも創造論が学べる。宗教の理想が語られたら、それに対応する組織が創造できないかという地平が開ける。だから普遍的な愛に対応する組織という発想が生まれる

ファッションだと
サムライの鎧や忍者の衣をテーマにした日本風ミリタリーという想像 サムライの鎧も現代的に言えばミリタリーになるのでは。
古い商品とは何も自社の過去商品や近代に限らず地域や国に限らないで著作権の切れたものを現代的にアレンジ

政府に性格があるとすれば、それは神的で複数の性格を持ち、党として現れている。選挙は気質のように支配的な性格を決めるもの。

いろんな党に限定された権力、その党の性格がうまく働くような権力を与えて、それぞれに首相のようなものをつくるというのはどうか。選挙の意味が変わりそう

言葉使いに関しては、
攻撃的な言葉が使いが面白いと私でも思うことがあるが、その攻撃の矛先に共感する場合、嫌な感じになるだけであることに気づいた。
私がえらそうなことを言っただけである。すみませんでした。

商品に地方色をつけるには、日本に一般的に広まっている商品に、地域特有の、つまり特殊を組み込むことだろう。地方の具が入ったおにぎりや、新聞ではどの地方でも取り上げられる一般的なニュースの他にそうではない地方だけのニュースも入れるなど、既に無意識的に概念的な考えが取り入れられている。

おにぎりとその具の関係は一般日本的なものに特殊な日本的なものが加えられるもので、
和風ソースハンバーグは洋風と和風の組み合わせだが、このソースに一般的日本性に加えて地色のある具を混ぜることで、和風ソースが地方色のついた和風になる。

鉱物的な太陽が進化したら、植物的な太陽になるのだろうか。

虚構の中に真実が宿る場合があるらしい。
おそらく精神や理念、テーマといったものが現実的であれば、その現実的な本質が虚構をまとったものとなるからだろう。

政府が国民や地方に対して強引に振る舞うと、強引に振る舞うのが公式となり、政府がその強引な論理を認めることで、他国が自国に対して強引に振る舞うのも、ある意味公認した中でそれに反発するということになると思う。
目には目をというのは、その人が犯罪をするということは、その人の法世界はその犯罪行為を許可したのでかえって他者からそれと同じ被害にあっても自業自得になるという考え。この論理を国レベルで応用すると、国が強引になれば無法地帯になりえる。国が国民に対して強引になるのと、他国が別の国に対して強引になるのは、政府の力が内向きか外向きかの違いだが、強引になるという力の性質は同じであり、だから、双方とも同じなので互いの強引な性質を変えない限り、国の他国批判は国家規模のブーメランになるのかもしれない。

イスラエルのネタニヤフ首相の暴言はここで私が言った論理を応用したものに思う。

それは、機械を製造しなければ機械が使えないように何かの行為もたどれば原因があり、その行為を準備したり行為に至る過程も原因の一部であるという論理で、責任論がしっかりしてないと、責任逃れに使われる論理になるってこと。

人間は四大元素や光、力、生命のような状態に変化でき、それぞれの状態から、隣り合う状態へと変化でき、それぞれの状態がいろんな特殊形態に変形できるような存在になれるのかもしれない。

電子の文字では脳内がみずみずしくなる感覚はもったことがないが紙の本ではあるので、今のところ、紙の本がよいと思う。
紙の本は植物的だが、電子書籍は鉱物的になったとも言える。羊皮紙つまり動物的なものから、植物、鉱物へと変わっていった。
これも商品一般に応用できるある種の創造原理だろう。金は鉱物的だが植物的な生殖成長する金や動物的な金というのは無理かなど

金を植物的な金にすると、いわゆる金のなる木が実現する。ある植物を金とみなすのか、金を植物的にするのかはわからない。この植物的な金は腐食する。

動物が行動力で植物より飛び抜けていて、
人間が動物より思考力で飛び抜けているように
人間自身の中で他の人間より飛び抜けているような特徴がまだ私はわかってない。
例えば知性が特徴と言える人や
良心が特徴と言える人や美的感覚が特徴と言える人などがいるかもしれない。
あらゆる特徴を備えた人、あらゆる方向に発達した全人も、この中にいないといけない。それぞれが自分の強みを基準にした意見を作ると思う。固定した強みを持たない全人が柔軟なまとまりのある意見を作りやすくなると思う。

人間、動物、植物、鉱物を、地球における自我や思考を司る部分、アストラル体の部分、エーテル体の部分、物質体の部分として、一つの構成体のようにみなしたり物質体と鉱物を全てが共有して一つの地平とし、その中で生命を共有する3つの存在があり、その中で心を共有する2つの存在、その中で最後に思考をもつ人間としてイメージする。一つの広い領域があり、その上により小さな領域があり、とだんだん小さくなる領域が全部で4つあるイメージ。

人間と自然との調和した関係を考えるきっかけとなるイメージだと思う。
人間は自分より下位のものと同質の部分を持つなら共存可能性もあるきがする。
例えば人間が動物にとっては包括的な愛を担い、全ての動物へ愛を持つ存在となり、それぞれの動物は家族や同じ種族だけを愛する習性に従えばいいのかもしれない。こんな感じで4つの領域の相互関係を考えるとどうなるのだろう

シュタイナーによると、人間はエーテル世界を見ることができるようになるらしい。
心当たりはあって、曼陀羅を幻視した日の中で、蛍の光のような点が浮かび上がってきて、女性の顔となり、しばらくしたら、そのイメージとそっくりな女性が視界に現れてきた。
これがエーテル明視の前兆かもしれない。
曼陀羅は黄金の宇宙叡智かもしれない。

人間を自然存在だとみなすと、人間自然が自然に対して人間災害、社会災害というのがあることになる。雷、津波など、鉱物がその他自然を破壊することがあるように、植物や動物、人間もその他自然を破壊することがある。これは進化のための生みの苦しみなのだろうか。
携帯電話などの電磁波が動物に悪影響を与えているという報告がある。

町がその他自然の規定を受け入れて共存するのは、車道に馬の群れがいたら困るように難しいと思う。だから人間界とその他の領域を区別して、その他の領域を無常なものから、持続的なものにできたらよいのかもしれない。

同じ学校を複数作って、生徒が一つに属さなければならないというのをなくす。
そしたらする人とされる人を分離することができるし、生徒もいじめを指摘した後、もう片方の学校に所属を変えていじめの標的になるのを防げたりできるのではないか。

このいじめ対策は、遍在という概念の応用とも取れるし、地方に点在するコンビニが個別名ではなく類名であるように、それぞれの学校も個別的なものではなく、類だとした場合に、同じ類の学校をもう一つ建てるという個別を普遍と見るという発送の応用とも取れる。応用哲学である。

抽象的な人間観のシステムがプラトン的なものだが、もっと具体的に考えると社会三層論になるはずである。
また社会三層論から、さらに具体的にすることもできるかもしれない。
社会三層論は個人生活を経済生活や政治生活から独立させるものだが、もちろん個人が経済生活や政治生活を担うので、まるでそれらに包摂されているように思われるだろうが、この独立は、相互作用しないわけではないだろう。私も詳しいことは知らないが、うまくできていると予想できる。社会三層論は真の社会主義でもあるらしい。

カリフ制度は一神的世界観から生まれたものだろうか。だが、これも抽象的な神観だと思う。具体的に神を観ると最も奥深い神は3つの形態を持つ三位一体であるとわかるかもしれない。
イスラムは三位一体を、神は3つの頭を持たないとしているが、そうではなく、3つの形態を持つとできないか。
この真のカリフ制度は人智学的には霊我、生命霊、霊人的なものからなる制度で、さらにヒエラルキーを作り、意識魂的なものなどとして、だんだんと下降できる。このようにどんどんシステムを発達させる可能性を持つのが人間観から来るシステムや神観から来るシステムかもしれない。

病気の種類を考えた。
気温、気候環境から来る病気や症状
傷による病気や症状
細菌、ウイルスなど人間を攻撃する生物による病気や症状
身体組織の不調や異常、変化による病気や症状
心の生活、自我の生活を含む生活による病気や症状

悪い生物は暑かったり寒かったりする環境の中に存在し、傷口から入り込み、傷口は出血もする。傷口から入り込むと身体組織を攻撃し心は苦痛を感じる。逆に健康的な生活が身体組織を強くするとも考えられる。

妄想だがある程度清らかな自我から発する霊的なものが環境に流れ込み、細菌やウイルスを浄化するのではないか。そして気温や気候、環境をよいものにし、災害までも予防する。

ある質は自分と同質なものを吸収するという仮定からしたら類は友を呼ぶのも、お互いから養分を吸収できるからかも。知覚する内容も、それと同質な部分に養分を与えることになると思う。思想健康法や芸術健康法で、唯物的に言えば美しさや良い思想に対応する概念や記憶を担う物質がある種の後天的な神経で全身に結ばれたツボであり、そのツボが健康を全身にもたらすものなのだと考えられる

肩こりは筋肉をほぐすが同様に血流をほぐすには、水分をとり濃度を緩やかにして、他の臓器をほぐすには全身運動をすればよいのかもしれない。運動健康法や食事健康法

人智学が学問の聖書かもしれない。
人智学はこれまでの学問、芸術、宗教が3つにわかれたものだとしたら、それらを統一した、新しいカテゴリーだと思う。
だから人智学の中にあらゆる考察や活動が含まれることになる。つまり、現在、学問、芸術、宗教に加えて人智学というカテゴリーがあると思う。

シュタイナーの神智学は人生の諸原因を教えてくれ、人生の全範囲の原因の考察をできるようにする学だと思うが、もっと具体的に研究していけば、人智学的百科事典が作れるようになると思う。これから得られる人生の諸原因を具体化し、その理念に存在の活動を結びつけることができたら、人格を構成でき、小説を作るのにも役立つと思う。

深めるのはめんどうなので、来世でその百科事典を回収できたらよいと思う。

ヘーゲルは概念論で、全てを含む一つの本質を考察したが、シュタイナーはゲーテのように、一つ一つの本質を取り出し、一つ一つ全ての本質を取り出したのだろう。

だからへーゲルとシュタイナーをやれば両極の包括的視点を学ぶことができ、ヘーゲルを一つ一つの全ての本質に応用することもできる。だがヘーゲルのロゴスは物質界にだけ応用できるものかもしれない。ここでヘーゲルをシュタイナーとは違う新たな視点で改善する可能性が生まれる。エーテル的なロゴスはヘーゲルのロゴスと同じか、違うか。

少なくともヘーゲル哲学や人智学はいろんな主観を総合する。例えばシュタイナーの魂界における欲望の炎の領域と同質の人間の魂は身体的欲望の需要があることを意味する。シュタイナーによれば魂界は欲望や要望、願望の世界なので、この知見を源泉にして、経済社会学に応用できるのではないか。商品開発の発想を可能とする理念のうちのいくつかには、遠くを近くにする、大きいものを小さくする、交通手段となる脚としての車などの外部身体、既存のものに既存のものの組み込みなどがある。
商品開発史はもうどこかでは研究されているかも。外部身体として、外部脳としての計算機など。
ある商品が売れると、その部分も売れることになる。これが大きな商品と考えるとわかりやすくなる。その中に含まれる部品にも需要が増える。

テレビのなかった時代の想像力ある人の中には、既に遠くの映像が切り取られて目の前に差し込まれるというイメージを持てた人がいるかもしれない。

商品開発の一つの法則は領域の反転にあるってことだろう。遠くを近くに、大きいのを小さく、鉱物などの非人間を人間に。これの逆もあるが、人間を非人間にするという危険な発想も出てくる。あるいは反対の関係にない別々の領域を一つに結びつけてみたり。

商品開発の法則はヘーゲル哲学を無意識に使用している場合があると思う。
つまり商品開発の法則も全ての空間に遍在して見られる絶対的なものに依拠している可能性がある。例えば大きなものを小さくするとか、遠くを近くにするなどは、それをどんな対象にもイメージとしては適用できるだろう。商品開発学がへーゲル哲学を拡大しえるのかもしれない。

またいじめが起きた。
これは人を見くびる差別意識が根拠だと思う。
立派な人やある程度強い者だけに普通の態度で振る舞ったりして、弱い者はそれ以下に扱うみたいな、弱い者、能力のない者への尊敬の態度の欠如は問題があると思う。立派な人だけ尊敬しようとして、普通の人々を尊敬することができないのと通じるところがある。本当は小さな人へも尊敬できるべきだと思う。

もしかしたら子どもの行いは
劣っているとか、問題を起こしていると思う人への尊敬の態度の欠如などの社会風潮が純粋に現れたものという
仮説を立ててみる。


いじめの問題の他に親方の暴行事件があった。
これも劣っていると思っていてもマネージャーに尊敬の態度で接していたらよかったのだろう。この問題を起こす人自体が、社会悪と見られると、劣っている人と同じように、今度は世間から下的に見られると思う。つまり、問題を起こす人が誰かを見くびることで問題を起こすと、今度は彼や彼らが社会から社会悪とみなされる。だから今度は、社会の人が社会悪を起こす人に対して尊敬の態度で接しないことで、それが当たり前の社会通念のようになり、子どもたちに純粋に受け取られて、劣ってる人や問題を起こす人に対して酷い態度で接するようになるのではないか。


この仮説は間違いかもしれない。
見くびる差別意識が統一意識よりも支配的になってるのは
思いやりが攻撃衝動に負けているってことだろう。

たぶん思いやりの欠如の帰結が何を生み出し、
思いやる心はどんな結末を生むのか
という知恵を持ち、それに共感できることが大切なのかもしれない。

差別意識と統一意識は共感と反感のどちらが強いかってことなのだろう。普遍的な愛は共感を全てに広げようとするが特殊な愛は一部になる。


個人レベルでは差別意識だけだと問題を起こすように、経済、政治レベルでも統一意識が必要になるのかもしれない。
こうして精神、経済、政治のそれぞれに愛が埋め込まれることにより一見矛盾に見える敵味方の区別を超えた世界になる。

音楽を水で振動させると、さながら中心から周囲に広がり旋回する音の繊維といったものが形成される。
宇宙や人々の活動の運命は音の繊維で調和的に紡がれているのかもしれない
もしも全てを背後で統一する原理があるとすれば、それは数学というより音楽なのかもしれない。

国歌を歌わせるべきかどうかという問題は、
それを無くすべきかどうかの考え方の他に
何かを追加したらよいのではないか、という視点もある。
つまり、学校歌、国歌の他に世界の歌を歌わせたらよいのではないか。

安部さんはこれまでは男性社会だったから、これからは女性的な要素に未知なものがあり、従って成長の余地があるとしているとおもう。

この論理を使うなら他にも、金持ちや子孫しかほとんど政治家になれない社会だったから、今度は貧乏人でも政治家になれるようにしたら成長の余地が出てくるのかもしれない。選挙活動はネットをみてもらうようにしてもらうなど、もっと安上がりにできないだろうか。

国民の誰もが政治家をめざせるように、参入障壁となる金の問題はなるべくなくした方がいいと思う。
もう特定の血筋の人が目立つ時代じゃなく、
別にこれまで伝統的に政治家だった家系のその血による身体的伝統が絶えてもいい時代だと思う。受け継がれるべきは、ブッダやキリストがしたように、血ではなく、技術や理念や思想だと思う。もちろん新しい思想や理念もありだが。

最小で最大の経験とは何か。
それは苦痛だろう。
普遍的な経験とは苦痛だと思う。

私はいろいろともっていないが、
幸福が何かを所有することでしかえられないような特権的なものでないことを自分自身で自分に証明できたらと思う。

孤独や不安、死を感じることは、ほどよいものであると世界を感じるというか感受性が豊かになるのか、何でもない景色さえ味わえるようになる。

証明は他者と共有できるものでなければ押し付けになってしまう。

そして、もし社会がどこに向かっているのかを
人間の内部ではなく外部に直観できるなら、
それは椅子は椅子であるのと同じレベルで、誰もが納得できる道のはずである。
だから人間の間にある社会がどんな形態をとろうとしているのかを深く直観するなら、誰もが社会三層論に至れるのかもしれない。

言葉は全く反対のことも証明できる場合があるので証明では誰もが納得する道を示すことができない。そんなときは直観が必要になる。

新約聖書はロゴスを愛に発展させて表現したものであり、
それを全ての人に開かれた語りで表現している。難しい学問をしなくても受け入れられるような口調である。
これが学問の到達点なのかもしれない。
最終的に学問は進化した聖書になればいいのに。

文系は単に政治経済を学ぶルートにするのではなく、深い直観力をつけ、芸術を学べて、理系が数学を得意とするように、哲学を学べて、それを得意とするルートにしたらよいのかもしれない。中学や高校の文系科目に直観を鍛えるために哲学を加え、芸術を加え、文系を選択することでさらにそれを深く学べるようにする

文系科目は質的評価ができるようになることを目指せばいいのかもしれない。質的評価もしうるのにそれをしないと何かを見落とすかもしれない。

ゲーテは果実に植物の精神の顕現を見ていた。
一つの中に種が幾つも入っている。みかんの果実は一における多である。
動物は蟻や蜂を見たら集合的な意志に動かされているように感じる。これが動物の精神の顕現。だがシュタイナーになると、植物も集合魂があり、個々の植物は全体で一つである。動物も果実として子を産む。人間は個の中に動物、植物にとっては全体の中の活動と生殖の終局で顕現していたものが、頭脳の中に顕現する。
人間は動物にとっての総体的活動、全体性が個々の中にフラクタルに取り込まれている。
鉱物、植物や動物は人間より進化段階は低いが天使として、人間よりヒエラルキーが高く、人間より魂を進化させえる。

動物や植物は総体的に観察したら新しい学説が見いだせるかもしれない。人間の場合は一人だけでよいのかもしれない。神の計画となると、人間動物植物鉱物のそれぞれの総体的活動の関係を観察したら見いだせるかもしれない。

脳による思考は抽象的で死んだものであるのは、脳が鉱物的だからかもしれない。人間は死ぬと鉱物になる。つまり鉱物は死んだものとみなせる。だから脳による物質的思考は死んだものであり、だから自分と同質の鉱物的なものしか考えることができないから、人智学の言葉は鉱物的比喩なのだろう。そして鉱物自身にも段階があり物質的思考が鉱物的なものにとっての精神なのだろう。そして常識が、鉱物から生命は生まれないと直感したらこれが人間の思考の限界だとわかる。心や生命を言葉で表現したものは詩となるのだろう。

思考を霊化した人材が、根本的に必要な人材なのだが、物質的思考に即するとそのような要請も無意味なものになる

簡単に言うと、
脳で思考するのは鉱物と同質な思考をするってこと。鉱物が生命や心を作り出すことができないなら、脳による思考でそれらを語ることができない。

命や倫理、自我などが思考し尽くせないが、それらも現に存在し何らかの働きをしているからには何か法則があるなら、思考以上の法則が有る、と予感できないだろうか。それはつまり、脳という鉱物以上の法則があるかもしれないってことで、その生命や倫理は人間にも内在しているものだから、人間に鉱物以上の何かが内在しているのかもしれず、つまり人間は脳を超えた思考ができるようになる可能性があるのかもしれない。

植物を横から切り落としたら、管も一緒に切り落とされる。これは全体を切り落としたら部分も切り落とされるという法則、この法則はもしかしたら、絶対的かもしれない、ともかくこの法則から管も切り落とされている。その断面は管の断面が円を描くように並んでいるものと、点在しているものがある。この円の断面図は、普遍の中の区別の図と同じだと思う。点在する断面がたんなる集合論的な、要素的断面だが、もう一つは全体から特殊性を表現しているように見える

人間の場合、管ではなく、心臓やリンパ、骨などとして、植物自身が体の中に入っているとみなせるかも。だから人間や動物の体を準備するものは植物かもしれない。

もしかしたら、植物の純粋な細胞から、人間やその他の臓器となる細胞を作ることができるかもしれない。植物は純粋な感じがする分、清らかに安全に変容してくれる気がする。

音や言葉は音の遍在空間を作る。時間の位置が違うことで音の遍在空間は同じ場所で鳴らされた別の音の遍在空間と結びあう。音から時間的位置の違いがあるように思う。そしてきっと、もっと高い次元にとっては、時間も見えるものなのだろう。だから人間は隅の方にいるというイメージ。これが高次元の意味であり、永遠の現在の意味だと思うが、その永遠の現在には別の時間に相当する高次元があると思う。

音だけでなく光も遍在性があるだろう。

音の遍在は音源を核にして周辺が形成されながら、その中で音の遍在空間が作られる。これは、核と周辺という概念とイメージできる。
言葉はこの音の遍在空間の結びあわせを超えて、意味の層があり、この層では音と音が統一されて、一つの意味になっている。
では音楽の美しさはどの層から来るのか。それが音の層からだとしたら、その層から、遍在空間以外の要素を見いだす必要がある。

意味の美しさもありえる。

音楽については、音階が人智学における人間の構成要素のようにそれぞれ独立しており、要するに天国から地上までの世界観が表現され、天国から凝縮して地上になるという秩序を考えることができるので、音楽の本質については、シュタイナーの本を読めばよいと考える。

私は当たり前の幸福を否定するつもりはなくて、当たり前の何かが欠けていても幸せになりうるのではと思うだけ。
私の場合は趣味があるだけで充実した人生を過ごせると思う。結婚は子どものころからしなくていいやと思ってた。
それに全体として、何でも欲しがるばかりの人達で世界が満たされているよりも、欲しがる範囲がある程度狭い人達に満たされているほうが限りある資源のなかでそれぞれが満足できる可能性が高まるから、知恵だと思う。欲望が少ない人は少しのことでも満足できるだろう。

犯罪の根拠を考えてみた。
根拠は、間違った指導者の命令、経済的貧困、誤り、誤った感情、欲望、道徳性の欠如、道徳性の欠如した思想の5つがあるように思う。もしかしたら、ある犯罪とは、確かに過ち、誤ちであり、間違いを根拠にしているから、間違いが起きるのかもしれない。思考の過ちとして道徳性の欠如した思考がある。そして犯罪を起こす人たちはほとんど自由ではないことがわかる。感情や欲望に囚われない自由がないから、心という思考にとっては外的なものに動かされ道徳的に自由でないから非道になる。

感情と欲望は重なるところがあるはず。
過った感情として殺すのが好きなどや強い憎しみ、強い嫉妬などがあり、
それと重なる欲望が暴力欲などである。
犯罪をさせうる欲望は支配権力欲、所有欲、暴力欲、性欲、金銭欲、食欲などだろう。

欲望や感情に勝てるようになるには、野菜がよいという。欲望そのものを高めてしまいそうな商品、例えば肉は、添加物などを加えたら、さらに高まってしまうかもしれない。

社会学的教育目的は自由にするという教育目的を含む。なぜなら社会を成立させる能力や仕事をする能力がなければ自由でないから。
自由という目的は総合的なのだろう。

生産性は問いや社会問題、需要などを認識、受容して、それへの答えが生まれてくる。受精のようである。批評も作品を受容しなければ生まれようがない。受容に対して様々な答えがありうる。どう答えるかを育てると生産的になれ、自由につながるとおもう。生産性がない地方は現実として独立できるだろうか?

上達法の一つに法則の認識がある。
もしもあらゆる自然の根本原理を知っておけば、その人はそれを絵画に応用して、あらゆる自然を描けるようになるだろう。

他にも日本語の書き順の法則がある。
私はそれを上から下へと左から右への法則だと思っているが、この法則が頭にあれば、それをいろんな書き順記憶に応用できるだろう。

水のようになれという理念のある武術は、水の法則を自分で見てそれを体で応用したらよいことになる。水らしい動きの身体的表現、例えばジークンドーらしい動きを掴めばそれをどの動きにも応用できるのではないだろうか。

言葉は文字を、音楽は音を、工学は自然を素材にする。素材はそのままではバラバラなものであるが、アルファベットのように、素材は全体を持つ。素材を決めて、どんな方向を与えて形成するかに法則の創造がある。ゲーテ的には芸術は高次の自然法則が現象したもので、それは限界ある素材にある方向を与えたもののように思う。音楽も自我の法則らしい。

つまり、自我の法則、アストラル体の法則、生命の法則、物質体の法則など構成要素の法則さえわかればあらゆるものが表現でき、あらゆるものの上達法則がわかるようになる。人智学を理解できたら、あらゆる能力発達に役立つことになる。

人智学を理解したら、人智学的武術も創造できるようになるかもしれない。

シュタイナーの神智学に書かれてある世界体系の基礎は基本的過ぎて応用が難しい。その基礎がどのように特殊領域に結びついてるのかわからないから、結局は実際の仕事や特殊学から法則を得るしかないのかも。
実際の仕事は、製造業や運転業は自然や機械の仕事として、それぞれの領域の特殊な物質の法則がある。運転業は、車内部のペダルやクラッチなど、車の手動領域が素材になる。

サービス業は心や自我の法則を知っておれば便利かもしれない。

介護は物質体と心の法則

プログラミングは自我の思考の特殊領域

全ての仕事の法則やコツ、その仕事らしい動きが一つ一つまとめられて総合的に書かれた本があればいいのに。本質的な仕事経験をみんなで共有して、仕事経験自体を既存の素材とし、新しい仕事を創造しうるようになるのではないか。全ての仕事を総合的に把握したら、新たなアイデアが生まれるかもしれない。

仕事のコツを探してた。
シュタイナー的には、意識魂、悟性魂、感受魂のうちのお客様のどれを満足させるか。
販売は不特定多数に向かうために
意識魂は重視されにくく、
営業は一人一人に対面するので意識魂に訴えることもできるなどが本質かもしれないと考える。

具体的に考えるかどうかで
そこから生じるものが変わるということ。
例えば体を応用したシステム、国体の概念の場合だと本質を一つとみなす場合と、もっと具体的に考えたら、本質は3つあり、本質として互いに独立しているが相互作用する場合の国体とでは全く違うものになる。哲学が抽象的なものから具体的なものへと発展していくなら、三つ目のさらなる具体的な国体を構想可能だと思う。だから、人智学的世界観はまだまだ発展可能だとわかる。どんどん具体的にしていける思想が生産的な停滞を打破できる思想なのだろう。そのためには認識の限界の壁が残る

鉱物が人間段階に至れば炎や氷、雷等の自然そのものの人間形態を持った精霊みたいな存在になるのだろうか。何も食べる必要がないので無理して働かなくてもいい生活を送るかもしれない。働くとしたら、彼らが協力して発電所自身になり、電力自身になり、製造業は、自身を製造物に加工する。これは鉄族などの仕事であり、賃金は宝石族の仕事であり、エネルギーは動力族の仕事 彼らは欲望がない故に天からの恵みとして念願の運動能力を与えられ、喜んで働くのかも。そして彼らは合体して生きた鉱物存在としてロボットやコンピューターになることが可能である。

鉱物から人間に至り、人間段階で利己主義の可能性が表れて、動物的な愛から、植物的な愛となり、植物的な自由とは全ての個人の自由を目指すものだと思う。

キリスト教の天国にいける人間は一部のものだけであるというのは自分の自由の中での選択結果が天国と同質になっているか、地獄と同質になっているか別れるので一部のものになるってことだと思う。地上は天国レベルから地獄レベルまで混在している。なぜなら地上は天国からどんどん粗雑なものを含むようになるからだろう。地獄レベルが存在する限り事件は起きるし戦いも起きると思う。国家レベルではなかなか悪に善を返すのは無理だが、個人で実践できたら、いつか、ミレニアム、千年王国に住めるようになるかもしれない。そこでは平和が実現するだろう。何か事件が起きたら自分はどう生きて周辺の世界を作っていくかが問われているのかもしれない

テレビ番組など、情報を提供する仕事の
基本的なことを考えてみた。
これに付け足せることもあるかもしれない。
まず、どんな情報を公開するのかってのを決める際の範囲があり、その範囲の中から特定のものを選んで情報を作る。その特定の中で作ろうとするから、特定の中でいかに表現するか、いかに解釈するかで、同じ範囲の中で差異を作る。あるいは全く新しい範囲に進出して差異を作るなどの方法。情報の質は表現や解釈、新鮮さあるいは意外性、普通やトレンド、慣れ親しんだものから逸脱したそれらからの差異にあると思う。論理的な面白さというのは人智学やヘーゲル哲学が参考になる。
例えば番組に関するものも鉱物植物動物人間という風に総合的に要素を配置できるかもしれない。特定の層向けに発信するなら、別の層は排除されてしまうので、番組がみんな同じ層向けに発信されると、他の層はテレビを捨てるようになるかもしれない。

面白さには関係付けもあると思う。
例えば過去に出てきた言葉を、次の場面でも使い、過去の言葉を現在に応用するなど。これはよく松本さんがやっているコメント技法だろう。鉱物植物動物人間という言葉の配列も、相互に整然とした関係にあり、面白い。

過去にあったものを現代の技術に応用したりと、面白さはここの創造についてコメントしたところとかぶるところあるかもしれない。

もしかしたら、面白い番組は、芸術、文学技法やお笑い芸人のお笑い技術を抽象化して番組に応用したらいいのかもしれない。お笑い芸人や美術家が人間から番組になり、番組自体が一つのお笑い芸人や美術家になる

幸せの基本は無欲だろう。
無欲でいろんなものを
手に入れることになるのと
欲望が強くていろんなものを
手に入れようとするのでは全然違う。
相対幸福という点からすれば不幸を経験すればするほど、ご飯を食べる、家に住めるなどの普通の営みの幸福度が上がり
比較的幸福だとその人より不幸な人にとっての普通なことさえ、ときには不幸を感じてしまうようになると思う。
例えば金持ちにとっては普通の家さえしょぼいなどと不満を漏らすようになりうる。そこで逆転が生じて、大きなことや必要以上に持っていることでしか満足できないのはある意味不幸である、となる。だから無欲がベースでないと幸福になりにくいのでは。その意味で、持たざるものは断念を修得することのできるチャンスを得ているとも言える。結局、断念や節制、清貧を享受あるいは修得できないでなんでも得られるという状態は不幸なのだと思う。


身体的家族、生命的家族、心的家族、霊的家族等がありうるとして、全てが家族という認識から平和が生まれるだろうか。家族の道徳を全てに適用したら、資源の取り合いはどう解釈されるのだろう。

松本さんが死以外はお笑いにできると
言っていたが、もし霊魂不滅で、しかもその霊魂が物質化できるほど濃密であるって設定なら、死んだことに悲しむ家族と、ある意味生きてる死者としてお笑いにできると思う。幽霊タイプのお笑いは既にあるけど。

限界を超えたものを想像してみるというファンタジーで何か突破できないだろうか。この実は死なないというのも限界を超えたファンタジーから生み出すこともできるだろうし。

唯物的進化論に立てば、人間は昔は魚だった。
ところで魚は集合的に動く。また、蟻や蜂も集合的に動く。だから人間にも人間全体を秩序付けるような集合的な心理が残されているのではないか。

このように人は別の前提に立って考えることができるので、ある他者がいかにもやりそうなことをあらかじめ発想することもでき、それが自分の一部なのかは疑問である。

ちなみにここでの血筋より思想や理念の伝統をなどのコメントは知識からされていて、現実では天皇などとして血筋の意味もあるかもしれないので、具体的な現実に即した観点もあるってことで

信仰は役立つ。それが死後世界で自分を強めてくれる可能性がある。もし霊を信じないで死ねばその心の性質が死後世界に侵入することを意味するので、自分を弱めかねない。だからこそ、地上で生きている間に、信仰とまで言わなくても、霊魂なものを受け入れておけば、それが死後世界で役立つかもしれないのだ。

ロゴスは学としては概念であり、善としては中庸であり、美としては調和とみなせると思う

もうここにコメントするのは本当に止めようと思います。次ここに現れるとしたら、何か不思議な体験をした時にします。思いついたことはアナログな日記にでも書きます。

のめーるさん、こんばんは。

人によってどのように感じるかは、いろいろと思いますが、毎日のように、多方面にわたって、精力的に思考を展開されていることは、凄いことと思いました。

前にも言いましたが、「分裂気質」の人は、いろいろと「情報」のインプットをため込みやすいので(本とかではなくて、「外部」からも多量に情報が侵入してくることがあるので)、それをアウトプットすることは、精神衛生的にも意味のあることと思います。

アナログの日記か、あるいはネットでも、自分のブログでという手もあると思いますが、何らかの形で、アウトプット自体は続けて行った方がいいのかもしれないですね。

ティエムさん、やっぱりここに書き込もうかと思います。悪意ある批判が苦痛なのですが役に立てる考えかもしれないので。私も前は攻撃性を混ぜて発言していたときもあったのですが、自分が攻撃されてみると、苦しかったし、苦しいだけで害にしかならなかったと思うので。

応用の話。応用は領域と領域の交差とみなせる。以前は基礎の特殊性だとしていたが実はその特殊性は別の基礎と重なるというイメージ。例えば学校で鬼ごっこなどや走り回る子供がいますが、この走るに注目すると人間の走りに道路交通法が応用できると思います。例えば子供の走りが曲がり角に至ると、止まって左右確認をさせるようにするなど。


また、数学テストさえ暗記科目だと
言いますが、それを脱するために、テスト制作者側が使う定理や公理を限界付ける。解答者はその定理の全体を把握して、そのうちのどれかをテストと結びつけて、暗記による応用ではなく、能動的な思考の発想でテストを解けるようにする。数学だけでなく、その他の教科も、全体を把握して解けるような問題にするなど。

全体を把握した
総合的世界観があれば
その中に失敗学と犯罪学も含まれることになる。失敗学と犯罪学は互いに補い合う部分があり、例えば思考感情意志のうち、どれかだけが突出してその他が盲目になってしまうと失敗への根拠となり、誤りが犯罪に導くこともあり、それは失敗でもある。

意志が盲目になると、ある行動だけに集中してしまい知覚が狭まり失敗する。例えばかけっこでの事故など。ここに予め確認すると思考しておけば防げたかもしれない。また、実行出きると決意して借金をし結局返せないのもありうる。ここでは自己認識と自分が属することになりうるものの認識が欠けていたのだろう。

あることを否定的、批判的目線で見て何かを主張しようとすれば、一貫して否定的見解が生まれてしまうのではないか。総合的な見方は否定的見解も肯定的見解も出すことで、話者の主張に流されにくくし、共感反感から独立した自分の思考による判断を促すと思う。これは史学の仕事のように思う

一つの単語の中にもいろんな種類があって、
一つの単語で表現しているが、実はそれぞれ想定している種類が異なり、結果として肯定的見解に見えたり、否定的見解に見えたりする。
例えば金持ちも、否定的見解の他に、あまり金に執着しているわけでないが、全うな努力をして金持ちになった人がいてもおかしくないし、貧乏についても具体的には一様にどれも同じ貧乏とは言えないのだろう。

言葉を具体的に考えていくと、言葉が現実に降りてくる。世界はそのままで理論なので世界に即した言葉は現実性を持つ

現代人は本を読む以外の自分の経験という学びを忘れてるかもしれない。経験だって、解釈されるのだから自分だけの書物と言える。自分の経験を読んで学ぶこともできるのだ。

ゲーテの本質は表に現れるという思想を恋愛に応用できるかもしれない。性格を知ろうとしたら、行為の総計を知ればよいという。

言葉、つまり霊的なもので言っても聞かないなら、魂の感情などに訴えるが、それでも聞かないなら体、つまり暴力や金などで訴えるしかなくなるのだろうか。あるいは断念したり、自分を変えたりなど。

耐えるイメージは輪ゴムで学べる。伸びたり引っ張られたりしても、元に戻ろうとし、千切れない。

何かを訴えるなら、言葉か感情か行為や外的な知覚内容や環境を作って訴えるか、それらが無理なら暴力で訴えるしかなくなると思う。訴える手段の全体を把握して、暴力以外の手段が無理なら暴力に訴えることになるのだろうか。
具体的には言葉で真善美や感情などに訴えたり、芸術作品でそれらに訴えたり、実際に行動で示したり、状況を変えざるをえないような社会状況を作るなど。たぶん世界体系を把握できたら、やれることの範囲もわかってくると思う。そして、どれをやっても権力の前には無意味かもしれない。そしたら、残念な話が、最終的な手段として暴力が残る。断念や未来に託すための施設や組織を作るのもありうる。

学校教科の体系
数学が物理学を記述する。物理学のエネルギーがマクロなレベルで現れると地学となり、ミクロなレベルだと化学となる。無機物から有機物となり生物学となる。それが人間の生物学となり、また生理学として保健体育となる。保健体育で心理学もやる。心理学のうちの言葉や思考に注目すると、国語、外国語、数学となり、数学が物理学を記述する。国語、外国語に文学が含まれる。この人間の総合的活動として宗教、芸術や学問、スポーツとなる。これが人間のミクロなレベルで、マクロなレベルだと政治学経済学現代社会となり、それらを空間として分析し、自然との関わりの考察で地理学となり、時間的考察で歴史となる。そして学校教育だと、これら全ては物質によるものとなる。

実際の学問畑では自然科学、社会科学、人文学は独立しているとする。自然科学が人文学の体で人文学が自然科学の魂で社会科学が自然要素の総体と人間活動の総体を扱うものとして、自然科学側と人文学側に別れる科学とするのはどうだろう

人間の言葉、思考の部分に倫理学も追加しといてください

子音や母音、物理数学や生物数学、ペガサスとユニコーン、鉱物人間のように、ある基盤を決めて、それをいろいろな領域に掛け合わせていく、交差的創造と、物語などとして、ある領域の中に様々な領域の本質を抜き取って領域にふさわしい外装をまとわせてある領域だけで全世界を表現するような創造がある。これらは、そのために世界全体を知っておけば便利だと思う

多産型の魚などの卵の一部は世界に与えるためにあるという。
人間の場合は不安と死を感じることを学び、悪の暗闇の中から小さな善の星を輝かせ、不安と死の感覚を克服する方法を学ぶために産まれてくるのかもしれない。
つまり、苦痛や悪を克服したり味わうために産まれてくる。だから苦痛や悪は結局完全になくなることはない。苦痛がない世界だと慈悲の重みもなくなる。苦痛の中で慈悲が咲く、人間の苦痛と悪の暗黒の中で良心の星が輝く

ぶつぶつが嫌いな人もいるが、星々などの点々は好む人もいると思う。ぶつぶつと点々は似ているがどこか違うってこと。
同じようにパシりや献身、職務
他者利用などもどこか同じだが、どこか違うので何でも人を使うことをパシるというのは違う気がする。パシりはやってはいけないことだと思う。ここで反転して開き直りパシってますが何か、という人も世の中にはいるだろうから、全て反転すればよいわけでもないという当たり前のことがわかる。私がいうのもなんだけど、やるべきことを全てやりはたし世界のために働いたような老哲学者、経験者も国のため世界のためと言ってたので、私なんかよりもっと経験深い説得力ある人もパシることに関して反対すると思う。だからパシることも含めた誤りは何かの無知や不足にあると思う

言語学者が自分の仕事はオタクみたいな人でないとできない、と言っていた。アメリカではギークなど。しかしそう呼ばれない何かの権威ある通念からの逸脱を認めないと個性を潰すことになる。せっかくの個性をオタクというのはいかにも日本人的な出る杭を打つ精神だと思うが、アメリカでもギークなどとしてあるので、違うかもしれない。

まあそう表現するだけで強制しようとは思わないけど。
結局、変わっていけるように実行できる意志力と、正しそうなことは自分以外の親や他人、年下や異性が言ったことの中にも宿ることができると無意識にでも意識的にでも思っていて、正しいことには従いたいという従順な素質がなければ言葉はうるさいだけだろうし。

権威に従うのは自分がなく、権威に抗うのが角が立ってカッコいいみたいなのがあるが、
何かに従うことのできる謙虚さも必要だろう。

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