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2005年11月

2005年11月27日 (日)

9  「妄想」の発展・深化段階

これまで、分裂病の症状とされるものがとのようなものであるか、そして特に、幻聴の「声」の特徴をみて来た。

それでは、それら幻聴の声や妄想が、どのようにして形成されてくるのか、その(内的な)過程をもう少し具体的にみてみたい。

そこで参照にするのは、まずは私自身の体験である。私の場合、体験当時は無意識であった部分についても、後に明確に「思い出す」ということがあったので、それについても、かなりの部分を明らかにできる、という利点がある。つまり、体験当初、意識的に把握できた部分以上の、無意識の過程についても、かなりの部分を明るみに出せるということである。

それについては、もちろん、その「思い出す」ということ自体が一つの「妄想」なのではないかという見方もできよう。意識的に体験されたのではないことを「思い出す」というのには、確かな基盤がないようにも思われるからである。

しかし、これは、単に「思い出す」というよりも、一種の「追体験」(もう一度、その場所・時間にあって、当時は意識に上らなかった部分を含めて、体験し直すといったもの。恐らく、退行催眠による記憶の回復と似たものだと思う。)と言え、その手ごたえには、確かなものがある。意識に上った部分と照らしても、矛盾がなく、細部にわたって明確であり、リアリティも当初の記憶をはるかに上回るのである。その意味で、それを「体験」の一部として語ることには、十分の理由があるといえる。

(私の体験については、前の日記で、ある程度まとめて紹介したが、今回は、特にそれをしないで、必要な範囲で触れるに止める。)

それから、もう一つは、森山公夫という精神科医の『統合失調症―精神分裂病を解く』(ちくま新書)という書物である。 これは、分裂病を、従来の「了解不能の脳病」といった病気観から解放して、「了解」の可能な人間的な「問題」として捉え直すというもの。その際、「迫害妄想」が中心的なものとして捉え返される。

その問題意識は、私とも近くて共感できるし、迫害妄想を「問題」の中心として捉えるところも同じである。そして、その迫害妄想の発展、深化のモデルを3段階に分けて捉えているが、それが私としても参考になる。(但し、個々的な解釈や理解は、次に見るようにかなり根本的に異なる。)

そこで、まずは、この書物で、迫害妄想の発展・深化の過程がどのように捉えられているかをみてみよう。その後、私の観点から、再度捉えなおすことにしたい。

第1段階 「パラノイア段階」

この段階は、幻覚(幻聴)はまだ現れず、妄想だけがある。妄想の内容は、基本的に「組織に狙われる」といったものである。この前段階である「対人恐怖」の段階では、個々人の噂や視線が気になっていた。しかし、この段階になると、それらは「組織」に結集され、はっきりと敵対的な「迫害」を示すようになる。「組織」というのは、具体的には、「秘密警察」や「やくざ」などで、その者を排除しうる権力をもったものである。著者によると、それは「社会(世間)」の象徴であり、その根底には、「社会からの隔絶」という状況と「社会に対する恐怖」があるという。

そして、この迫害妄想の成立については、クレペリンの説を入れて、次のように言う。

病者は孤立の中で自分が世間から疎外されて行くという確信を深めていく。その突端で、ある出来事をきっかけに、またある精神状態や追想錯誤に基づいて、想像力によるひらめきとして迫害妄想が形成され、それで「目から鱗が落ちたように」物事の諸関連が明らかになったと当人は感じる。

この辺りは、初めにみた『精神医学ハンドブック』の説明でも、具体的にみたとおりである。初めは、漠然として理解しがたい一連の出来事の「理由」が、迫害妄想の形成によって、一気に「解けた」と感じるということである。

そして、

「組織」の出現により、患者の生きる世界は決定的に相貌を変えます。世界は迫害が常道的に繰り返される「恐怖の舞台」(ビンズワンガー)へと転換し、患者の対処行動もまた常道化されます。



つまり、迫害妄想の形成は、その者の世界をそこに閉じたものとして常道化させる、決定的な一歩を踏み出したことを意味する。そして、それは不眠、過労、過敏などの身体症状、さらに「脳の機能障害」をも巻き込んで、さらに進行していくことになる。

第2段階「幻覚・妄想段階」

幻聴(幻声)が現れて、さらに妄想も深化する段階。
幻聴については、疲労・不眠等の身体症状の極みに起こるもので、「入眠時または出眠時の幻覚」と類似のものだという。それは、通常の睡眠時の夢と異なって、イメージよりも思考と親和性をもち、覚醒時の知覚的世界の中にはめ込みやすいものである。それで、「現実の体験」として捉えられ易いのだという。

なぜ、幻聴なのかという点では、人は孤立の最中で、現実的対話の可能性が閉ざされた時、内的対話を幻想的対話(幻声)として結実させるからだという。

この「声」は、分裂病の特徴のところでみたように、「自分の悪口を言い、ときにほめたり批評したりしながら、圧倒的な力で襲ってくる」ものである。それは、既に「社会的断絶」の状況下で、「組織」という敵対者を成立させているからで、この「声」は、その「組織」のメンバーの声であり、その圧倒的な力は、背後に担っている権力からくる。

そのような幻聴の出現とともに、さらに世界は変化する。

パラノイア段階では、病者には「恐怖の舞台」の中でまだ対処の可能性が残っていました。しかし、いまや病者にとって舞台はより狭溢化し、換言すれば彼は幻覚にただ一方的に支配されたり、またそれに反発したりということになるのです。こうして幻声世界がいったん成立すると、それは悪循環を形成し、自動運動を展開します。……社会的断絶はより高度になり、いまや「社会的現実」は彼の視界からは遠く、うっすらと展開されるのみです。

第3段階「させられ・つつぬけ体験段階」(夢幻様状態)

まず、著者自身の説明を挙げよう。

いまやこの幻声段階の突端で、より高次の病的事態が生まれます。幻声は肉声性を失い、「頭の中」など内部空間で抽象的な「意味」として直接響いてくることになります。……患者さんはこれをよく「電波」や「テレパシー」がやってくると表現し、また「以心伝心」の世界だともいいます。
こうして外部から意味が直接、彼の心だけでなく身体にも圧倒的な力で働きかけてきます。(させられ体験)が、恐るべく恥ずべきことに病者の内部が、内奥の秘密が、直接「組織」にそして公共社会に漏れ、つつぬけになってしまうのです。(つつぬけ体験)
従来は「組織」は、彼の動静をいわば外部から探り、外部から指示していました。それがいまや内・外の障壁は失われ、内・外は密通してしまうのです。この段階を「させられ・つつぬけ体験段階」と呼ぶことにします。


この「させられ体験・つつぬけ体験」は、『精神医学ハンドブック』でも、『精神病』でも、分裂病の症状の特徴として、重視されているものであった。特に『精神病』では、「自己と外界の境界線が曖昧になる」という点から捉えられていたが、ここでも、「内・外の障壁が失われ、密通してしまう」という言い方で、それが示されている。

「させられ」体験も「つつぬけ」体験も、このように内と外が融合してしまう事態を、それぞれ、「外から内へ」、「内から外へ」という方向性から表現しているものとみることができる。

この内部と外部の密通状態の中で、患者の住む世界の時空性は決定的に崩壊することになる。「ここ」が「あそこ」や「かなた」と密通して、場所性が解体し、「いま」が未来や過去と直通して、時間性を喪失する。つまり、「いま」「ここ」という確かな基盤が決定的に失われていくのである。

そのような状態の先端で、「夢幻様状態」への転換が生じるという。

睡眠障害は、ほとんど完全不眠となり、眠りも覚醒もない独特の状態に移行していく。そこでは、「清明な意識」も失われ、「夢見つつ目覚めている」といった一種の「意識障害」が起こる(錯乱、朦朧、せん妄などの状態)。そして、そこでは、「夢」と似た、心象の自動運動が展開されることとなる(幻視などの夢幻様状態)。

第2段階の「幻聴」は、入眠時または出眠時幻覚と類似のもので、未だ「現実」に当てはめられる性質のものだった。ところが、第3段階の「幻視」では、もはや「夢」と類似の、現実からは完全に遊離した夢幻的な内容が展開されるというのである。

その状態では、第2段階からの迫害のテーマはさらに拡大して、さらに夢幻的に展開される。


この世界に「宇宙人」が現れ(次の症例Aを参照―引用者)、夢幻様状態が展開されます。この異形の出現を「幻視」とも呼べます。この出現で、舞台は、従来の幻覚・妄想の「第二次的世間」=「世界」を脱して「宇宙」へと拡大し、同時に神・超越者の現前する場、超能力の活躍する場へと転化します。有神論者と無神論者とを問わずこの宇宙的世界はほとんど必ず訪れ、これはまた生と死の舞台でもあります。
要するに、この夢幻様状態の舞台は宇宙に拡がり、人間に根源的な「霊的」世界が展開することになるのです。

まさに、笠原著『精神病』にいう「超越性」というテーマが、この段階になると、否応なく前面に出てくるわけである。

しかし、迫害妄想の発展という点からいえば、第1段階の「妄想段階」の前段階、「対人恐怖段階」では、迫害の主体が、具体的な「個々人」であった。それが、第2段階の「幻覚・妄想段階」では、秘密警察などの権力を持った「組織」となる。そして、第3段階では、それが「宇宙大」に拡大されて、「宇宙的規模での人類の破滅」というテーマへ収斂していく。


こうしてテーマの基調は「自己の破滅」という点で一貫しながらも、その規模は「疎外」から「迫害」へ、そして「人類の破滅」へと拡大していくのです。

森山は、第3段階が、それなりに現実との接点を維持した第2段階から、いわば大きく飛躍し、「つつぬけ・させられ体験」という内外の密通状態から、もはやシュールそのものというべき、「宇宙的」または「霊的」な幻視世界へと発展していく様をよく捉えていると思う。しかし、注意すべきは、それらはあくまで、「迫害妄想」の発展という観点から捉えられているのである。

「迫害妄想」というのは、要するに、本来、第1段階でみたように、「社会からの隔絶」という状況が生んだ「社会への恐怖」の反映である。それが不眠等の身体症状を巻き込みつつ、外部的な現象であるかのように現出して出てきたのが、第2段階の「幻聴」であり、さらにそれが宇宙大に拡大されて、夢幻的に展開されたのが、第3段階の「幻視」である、ということになるだろう。

2005年11月13日 (日)

8 「解離性幻聴」との相違

精神医学的には、「幻聴」には、分裂病性のものと解離性のものがあるとされるので、その違いにも一応触れておきたい。

解離」とは、「耐えられない記憶やそれに伴う一連の事件の内容を、現在の記憶を持つ意識の状態と切り離し、それを思い出したり苦しんだりしなくてすむための大切なメカニズム」とされている。(和田秀樹著『多重人格』(講談社現代新書))

トラウマを受けたときに、それを自己の記憶から切り離すといったことが、典型的なものだろう。これが極端になったときには、「解離性同一性障害」(「多重人格」)のように、いくつかの切り離された人格をもたらすことにもなる。

これは、一見、分裂病と紛らわしいが、解離の場合には、互いの「人格」はそれぞれあるまとまりをもっている。ただ、互いの人格同志が切り離されている(普通は互いを認識しない)という意味で、分離がある訳である。ところが、分裂病の場合は、全体として、一見してまとまりを欠くことになる。

「解離性幻聴」とは、そのような自分から切り離された「人格」の声を聞くことだと言える。これは、分裂病の幻聴の特徴としてあげたものとは大分異なると思われる。特に、分裂病の場合に最も特徴的であった、「声」に「操作される」とか「支配される」という要素は、ほとんどないと思われる。

何しろ、分裂病の幻聴の声は、明らかに自分とは別の「他者」の声として認識されるのである。ところが、解離性の幻聴の場合は、どこか自分に近い(紛らわしい)ものとして認識されるのではないかと思う。ただし、その切り離された「人格」の声が執拗に攻撃してくる、といったことはあるだろう。しかし、その場合でも、分裂病のように、それが「誰かに迫害されている」というような妄想の根拠として働くことはないと思われる。

「幻聴」の特徴の違いという点については、これくらいにしよう。むしろ、分裂病の場合と解離の場合とは、全体として、「ある状況に対する防衛のしかたの違い」といった観点からみると、興味深いのである。

解離の場合は、現実的な虐待などの「目に見える」状況に対する防衛という要素が強い。それに対して、分裂病の場合は、まず「目に見えない」状況に対する防衛として起こる。

この「目に見えない」ものを「目に見える」ものであるかのように人に語る(現実に誰かに迫害を受けているなどとして)と、妄想という誤りになってしまう訳である。というよりも、そもそも、その「目に見えない」状況そのものの存在が、まず多くの者に理解されない(本人にも容易には理解できない)。それで、(そのような反応をすることが)「了解不能」の病いという風に思われてしまう。

まず、そのように、「状況」そのものの相違ということがある。しかし、それを一応おいて、防衛の仕方としてみても興味深い点がある。

解離の場合は、分身の術ではないが、ある意味柔軟に自分を切り離すことによって、全体としての「自己」の崩壊を防いでいるように思える。ところが、分裂病の場合は、そのような防衛の仕方は効かず、全体としての「自己」そのものが、崩壊の危機にさらされている。そこで、幻覚や妄想の世界に入り込むことが、それを直接に被ることからの、一種の防衛の役目を果たすことになるのである。

この違いには、恐らく元々の気質ということも関係しているだろう。分裂気質の場合、自我がいわば硬直で、柔軟性には欠け、解離のような対応は苦手なのではないかということである。

しかし、それはあるにしても、やはり、「状況」そのものの相違が大きく関係していると言うべきである。

私の理解では、分裂病の「見えない状況」に対しても、初めは、無意識的に「解離」のような対応をしているのである。つまり、それを意識しないで済むような意識状態へと移行することによって、何とか対応しているのである。それで、その場合には、この「見えない状況」そのものが意識に上るということがなく、まだ危機の状況は表面化しない。

ところが、この「見えない状況」の威力が増し、強烈に浮上してくると、もはや意識にも捉え得るものとなる。そこで、初めは何かよく分からないながらも、強烈な危機意識が発生する。しかし、その時点では、もはやそれは、「解離」という方法では対処し得ないものとなって出て来ているのである。そこで、それに対するのに、幻覚や妄想といった分裂病特有の問題が発生してくるのではないかと思う。 

しかし、ここで述べた「見えない状況」というのは、これから、幻覚と妄想の形成過程などとして、追々明らかにしていくところである。解離との相違も、またその時に改めて触れられることになるだろう。  

2005年11月 9日 (水)

7 幻聴の「声」と「テレパシー」

分裂病の幻聴は、具体的な人間の「声」とみなされやすい。しかしその場合、その人間は、そんなことを言っていないことはまず明らかである。ところが、幻聴の声が、物理的な声でなく、「テレパシー」で聞こえるのだと主張される場合がある。初めの、症状をみるところでも、『精神医学ハンドブック』にそのような例が出ていた。

この場合、幻聴の「声」が、物理的な声そのものとは区別されている点で、一歩進んだ認識だとは言える。しかし、実際には、これは周りの者にとっては、さらに厄介な問題を醸し出す。実際に発話した声としてなら、誤りであることが確かめられるが、「テレパシー」と言われると、直接には確かめようがないからである。

この場合、心に思っていることと一致するとか、しないとかが、とりあえずの手掛かりとは言えそうである。しかし、分裂病の者が主張するのは、通常「死んでしまえ」とか、逆に「好き」とかの、とんでもない内容なので、それが当たっているということが表面化するなどということは、まずあり得ないと言っていい。

いずれにしても、実際上は、多くの場合、こういったことも、妄想と同じような「誤り」として、あるいは単なる分裂病の症状の徴候として、処理される。

しかし、本当のところ、幻聴の声が「テレパシー」による人の声である可能性というのはどうなのだろうか。この辺りが、あやふやにされていると、分裂病の問題はなんとなく闇に包まれて、見通しが立たないままである。そこで、ここでは少し踏み込んで検討してみたい。

まず、分裂病の問題とは別に、一般的に言うと、「テレパシー」という現象の存在そのものは、既に「超心理学」(parapsychology)において統計的に証明されている、と言うべきである。物理的な手段による伝達の可能性を排除した実験的環境で、ESPカードなどの情報が、心から心に直接伝達されたと確かめられることがある、ということである。「統計的に」というのは、何万回という試行を標準偏差などにより統計的に処理して、それが何回に1度しか起こらない現象なのかを判定した結果、「有意」と認められる、ということである。

(この辺りのことは、一般的な書物として、宮城音弥著『超能力の世界』(岩波新書)、笠原敏雄著『超心理学読本』(講談者+α文庫)などを参照のこと。)

但し、統計というのは間接的な証明手段だし、何よりも、「テレパシー」という現象を認めることは、近代科学のより所ともいうべき、唯物論的発想と相入れないから、それが本当に受け入れられる可能性は今のところ少ないと言わざるを得ない。

いずれにしても、分裂病の場合には、もちろん突発的な状況で起こる(主張される)ので、それを実験的に確かめる手立てはない。分裂病者を実験にかけて、テレパシーの能力があるか試した例もいくつかあり、肯定的な結果が出た場合もあるようだが、一般には、特に確認できないことが多いようだ(これは前記の2つの本のどちらにも出ている)。

しかし、分裂病者を何万回という試行で、集中力を要す実験にかけること自体がナンセンスだし、たとえある程度肯定的な結果が出たとしても、それが、現にそのときのその(それこそが本人にとっては一番の関心事なのだが)「声」が「テレパシー」であることの証拠には全くならない。一般的に「テレパシー」の能力が高いと目されることと、現にある時におけるその現象が、テレパシーの声であるか否かは、全く別のことであるから。

そういう訳で、これは事実上、確かめようのない事柄だと言うほかない。

しかし、私自身の考えを言うと、確かに、分裂病の「声」を聞く状態というのは、意識が鋭敏に高まっており、通常以上には、テレパシーの能力が高まっていると言っていいと思う。だから、分裂病の者が聞く多くの「声」のうちのいくつかは、特定の誰かの内心の「テレパシー」の声であるという可能性はあると思う。

しかし、先に幻聴の声の特徴としてあげた、「心の内奥にまで侵食する」とか、「操作」され、「支配」される、などの、人を追い込む「力」をもった「声」というのは、まずそういったものではない。たとえ人の「テレパシー」の声が影響することがあるとしても、それは、既にその者を追い込む幻聴の「声」の影響を受けている状態で、それを補強するような形でだと思う。

結局、これを人の「テレパシー」の声というのは、それを物理的な人の声と混同するのと、基本的には同じ誤りを犯しているのである。つまり、たとえ物理的な声と混同はしていなくとも、その「声」の主体の解釈については、やはり、現に人を前にしている状況とか、自分のそれまでの体験に引き寄せるなどのことから、特定の他人のものとして、同じように誤って受け取っている訳である。

(但し、「現に人を前にしている状況」というのは、たまたまそう状況で「声」が聞こえるから、というのではない。むしろ、「人を前にしている状況」でこそ、「声」は聞こえるのである。それは、他者を意識することにより、より意識が鋭敏に高まっていることも関係するだろう。しかし、今「声」の出所を仮に空間的に位置づけるなら、「人の背後」とか「人と人の間」ということになる。それは、本来的に「人の声」と紛らわしい仕方で起こっているのである。この点については、後に幻覚と妄想の形成過程のところで、詳しく述べるつもりである。)

つまり、「テレパシーの声」という受け取り方は、実質上、「他人の声」という受け取り方と同じことになる。そして、それはやはり、具体的な誰かや何かの組織に迫害されているというような、妄想の根拠として作用し易い。しかも、物理的な「声」というのより以上に、より強固な根拠になり易いといえるのである。

それは、一つには、やはり、物理的な声という外面的なものよりも、「テレパシー」という内面への声の直接的な働きかけは、分裂病の者が感じる実際のリアリティにより適うということがある。

さらに、物理的な声というなら、少なくとも周りには誤りであることが明白だし、本人も修正する余地があるかもしれないが、「テレパシー」というのは、それが確かめようもなく、修正される可能性も少ない分、余計に本人が固執する可能性がある。

そういうわけで、「声」というのは、人の内心のテレパシーの声なのだ、という主張に固執する場合は多いと思われる。しかしその場合、それは周りの者も手に負えなくなることを意味し、結局、病院に任すしかないということになるのが関の山といえる。

そこで、「テレパシー」の声という受け取り方は、実際上、ほとんど意味がないし、たとえそうであることがあったとしても、そんなものに振り回されることは、<なおさら>無意味であることを、次にいくつかの理由をあげて述べておきたい

1 人の内心の「声」というものは確かにある。しかし、それは、ある状況で一時的に生まれた、本人自身も気づいていない無意識の言葉である可能性が高い。つまり、本人自身すら意識していない、戯言のようなものである。そんなものを一々気にしたり、反応したり、とやかく言ったりするのは馬鹿げている。たまたま、自分が聞かなくてもよいものを、聞くようになっただけの話と思うほかない。

2 「ある状況で一時的に生まれた」と言ったが、人の内心の言葉などは、ある意味どのようにでも「言わされる」ところがある。無意識には、さまざまな「コンプレックス」が渦巻き、さらには(外部的な)「力」が働いているからである。だから、その者がそれを言ったというよりも、「状況がそれを言わせた」といえる面が強いのである。結局、たとえ「テレパシー」の可能性がある場合でも、「声」そのものをその者から切り離して受け取っておく方が実際にかなっている。

3 「ある状況」というのには、実は本人自身が関わっている可能性もある。「声」を聞く状態というのは、極度に受動的で意識が張り詰めており、これは相手の無意識にある種の威圧感を与えることがある。それで、思いがけず、相手の攻撃性を誘発させている可能性もあるのである。

4 いずれにしても、本人を含めて、人の内心には、思いもよらぬ側面がある。ある意味「悪魔的」といっていい側面である。それは、ある状況下で、強烈にさらには連鎖的に、活性化することが確かにある。初めてそのような内的な面を(具体的な声や映像を通して)目の当たりにしたときには、確かに強いショックを受けても仕方がない。しかし、それは、人間とはそのようなものであることを受け入れる機会として捉えるしかない。

何しろ、「テレパシーの声」という受け取り方には、実際上、妄想をより強固にする以上の意味はないことを、もう一度強調しておく。

2005年11月 1日 (火)

6 他の「幻覚」の場合との比較

それでは、分裂病の幻聴の声の特徴としてあげたものをもとに、前に挙げた、現実の人の声以外の声を聞くいくつかの場合と比べてみよう。そうすることによって、さらに分裂病の幻聴の特徴が浮き彫りになるはずである。

1 睡眠中の夢や、入眠時の幻覚について。

これらとは、まず、覚醒状態か否かということに明らかな違いがある。夢や入眠時の幻覚は、覚醒時の出来事とは明らかに断絶しており、区別できる。ところが、分裂病の幻聴は覚醒状態で、日常的な出来事の中に入り込むのである。また、覚醒状態ではっきりした意識に捉えられることによって、心に対する影響力も大きく異なるのだと言える。さらに、内容的にも、「悪夢」など似たものもあるが、一般には、様々な違いがある。

2 ドラッグによる幻覚について。

一つの相違として、分裂病の場合幻聴が主となるが、ドラッグの場合幻視が主となると思われる。しかし、分裂病でも、「夢幻様状態」といわれる幻覚状態は、ドラッグの幻視と近いだろう。また、ドラッグでも、幻聴が伴い、内容的にも分裂病の場合と近いものも多いと思われる。何しろ、両者には、共通するところが多い。但し、決定的に異なるのが、ドラッグの場合は、自らの意志で自覚のもとにその状態に入るということ、その影響もドラッグの作用する一定の時間のみであるということである。

そういう訳で、ドラッグは、一定の自覚と管理の下に、かなり分裂病と近い体験ができるという意味では貴重である。私は、分裂病の「了解」を(一応なりとも)得る方法としては、これで自ら疑似体験をすることが、一番手っ取り早いのではないかとすら思う。これについては、LSDが合法であった時代に、LSD療法を行っていた医師もおり、後にとりあげてみたい。

3 「死者」の声や「神」「神々」の声を聞くと称する「霊能者」や「神秘家」について

これらは、現代科学の扱い得る領域ではないが、文化的、歴史的には受け入れられ、人々に大きな影響を与えて来た。また現在でも、未開社会はもちろん、文明圏でも民間社会の一部で受け入れられ、一定の働きをなしていることは確かである。これは、少なくとも現在においては、分裂病の者がほとんど受け入れられないのとは異なる。

また、既にみたように、分裂病の者は「声」を具体的な人間の声とみなす場合が多く、それがほぼ誤りであることが明白となる。それに対して、これらでは、初めから人間の声ではなく、別の(次元の)存在の声とされていて、それを一般の者に分かりやすく伝えることによって、一定の範囲で受け入れられるのである。その存在そのものについては、必ずしも理解されている訳ではなくとも、その語る内容には、何かしら訴えかけるものや説得力がある訳である。分裂病の者も「神」や「宇宙人」の声を聞くと称する時があるが、内容は突飛で、とても受け入れられるようなものではないのが普通である。

しかし、分裂病とこれらの間には共通する点も多い。「霊能者」や「神秘家」も、初めからこういったことに長けているわけではなく、師などについて訓練や修行を重ねることによって、可能になるのである。その過程では、試練や失敗もあり、それは分裂病の場合とかなり近いものともなる。

また、未開社会のシャーマンの入巫儀礼(シャーマンになるための試練を受ける儀礼)では、分裂病と酷似する状態を経る(「シャーマン的巫病」などともいわれる)。洞窟や特別に建てた部屋などに候補者を閉じ込めておくことによって、幻覚を体験させるのだが、そこで候補者は怪物や精霊に散々欠点を指摘され、悪口をいわれる。さらには、それらの存在に、食われたり、身体をばらばらにされたりする。これは「死と再生の儀礼」ともいわれるが、まさにそれまでの自分としては、一旦「死ぬ」ことが期される訳である。

そこまでは、分裂病の「破壊」的な内容の幻覚や妄想と酷似する。しかし、その後、シャーマンの儀礼の場合は、シャーマンとして新たな生を始めるために、再生の儀礼があり、新たな知識を与えられ、共同体にも受け入れられていく。しかし、分裂病の場合には、いわば「死」の部分だけで、放っておかれ、「再生」の部分はほとんど欠けているのである(これは本質的にというよりも、社会の側の態勢の問題でもあるが)。

また他に、「神」などの声を伝える内容としても、たとえば「黙示録」などは、分裂病の幻覚や妄想と酷似するものがある。さらに、世紀末とか、集団の危機がからむ状況では、これら霊能者の伝える言の内容も、分裂病の者が訴える破滅的な内容と近いものとなる。

結局、これらと分裂病の場合とは、内容的には、少なくとも部分的には、酷似するところがあると言える。しかし、「声」に対する関係の仕方とか、対処の仕方で大きく異なるのだと言える。これには、個人で関わるか、一定の集団に支えられて関わるか、また、いわば裸のままナイーブに関わるか、伝統的に伝えられた一定の技術や技能をもって関わるか、といった違いが大きく作用する。そして、霊能者や神秘家は、これらの「声」との関わりを一つの技能として磨いて行くが、分裂病者は、結果として、これらの声に振り回されるだけに終わってしまう場合が多いのである。

つまり、霊能者や神秘家の場合、結果として破壊的な結果を免れ、「賢く」振る舞っているのは確かである。しかし、これら霊能者や神秘家の場合が、「肯定的」で、望ましいあり方であり、分裂病の場合は、「否定的」で、望まれざるあり方であるとは、必ずしも言えないと思う。

霊能者や神秘家の場合には、「声」の内容を一般に分かりやすく伝えることによって、文化的、集団的に受け入れられる素地があるわけである。が、それは、そのように「分かりやすく」翻訳できる範囲の限定的なもののみを伝えている(あるいは、それのみに関わっている)のだとも言える。さらに言えば、その「分かりやすさ」は、ある意味、文化的、集団的に迎合されたものであるという側面もある(例えば、時の権力におもねるといった側面もある)。だからこそ、一般には、肯定的なものとして受け入れられ易く、あるいは時に崇拝すらされるのだと言える。

その点では、分裂病の場合には、そういった「分かりやすさ」にはとてもくみ取れない面をも、如実に体現している面がある。いわば、「未知の力」の、より「生」で「プリミティブ」な面をそのまま体現しているところがあるのである。(これは、文明化された霊能者や神秘家に対して、未開のシャーマンの方がよりそのような側面を体現していると言えるのと同様であろう。)その意味では、現代においては、分裂病の場合こその独自の意味もまたあるのだという風に、私はみている。

但し、分裂病の者も、これらから多くを学ばなくてはならないのは確かだろう。何も、分裂病者が霊能者になったり、神秘家になったりする必要は少しもないが、「声」については、人間の声以外にも、多くの場合が想定できること、それとの関わり方が伝統的な知恵として伝えられて来ていることぐらいは、認識しなくてはならない。

但し、ここでは、「声」の主体については、とりあえず、性急に判断しないで、広く未知のものとして受け入れたうえで、関わって行くことを考えている。だから、「声」について、これら霊能者や神秘家がいうのと同じような「存在」として受け取るのがいい、というのでは必ずしもない。

多少ややこしくなったが、この点については後に、さらに詳しく踏み込むことになるだろう。

4 「テレパシー」の場合について

これも、重要なので、次に改めて検討したい。

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