5 「幻覚」=「誤り」という見方について
分裂病の「幻聴」の性質をやや踏み込んでみてきた。そこで、これらを下に、先に挙げた、人の物理的な声とは異なる「声」を聞くいくつかの場合と比較して、一応の区別をつけておきたい。
しかし、その前に、このように「幻聴」の性質に深く踏み込んでいくことや、他の「幻覚」の場合と比較することには、奇異な感じを抱く人も多いかもしれない。それは、「幻覚」というのは、要するに「誤った知覚」であるといった観念から来るものと思う。幻覚が「誤り」であるならば、どんな幻覚であろうと要するに「誤り」なのであって、それをとやかく詮索する意味はなかろう、ということである。
当然ながら、このような見方は、分裂病の幻覚の場合には、一層際立つ。そもそも分裂病の問題は、社会的に迷惑で人を困惑させるような不可解な行為から始まっているし、その者は、多くの場合、迫害妄想などの明らかに誤った妄想を抱いている。それで、その幻覚(幻聴)というのも、要するに妄想と同じような誤りの一部に過ぎない、と決めつけられがちなのである。
また、それらの者は、「病気」という判定を受ける訳であるが、「病気」という規定は、むしろ「誤り」という意味づけを補強する。「病気」とは、正常でないこと、つまり「異常」なことであり、治されるべきものとして、「誤り」という意味合いを固定するものだからである。まして、それが「精神の病い」(「脳の病い」といっても実質的には同じこと)の場合には、その「誤り」の意味合いが、人格的な面や精神的な働きそのものに及ぶことにもなるので、その者の「知覚」にも当然のように「誤り」が認められ易い。
先に、『精神医学ハンドブック』で、幻覚と妄想はどちらが他方に影響するということではなく、両者が結びついて同時的に現れるのだ、という見方を紹介した。確かに、そのような面はあるにしても、この見方もまた、妄想の「誤り」ということに全体として引きづられた見方なのだと言える。
例えば、「Aが私を迫害している」という妄想を持つ者がいるとする。そして、その者には、「Aがお前を消してやると言った」という幻聴があるとする。その場合、その幻聴も、「Aが私を迫害する」という妄想と結び付けられて理解される限り、それ自体が誤った妄想の一部のように理解できる。そのような声を聞いたということ自体が、一つの誤った「思い込み」(妄想)とも取れるからである。
結局、現実に反する「誤り」という点に重きをおいてみる限り、知覚的な要素である「幻覚」も、思考的な要素である「妄想」も、大した差はなく、区別することにもさほど意味がないことになる。実際、一般的にはそのように取られているのだと言える。
これは、「幻聴」が「誰々が何々と言った」という形で表現された場合、仕方のない面がある。実際、この表現は、全体として「誤り」になってしまうことは確かだからである。(但し、テレパシー的な伝達の可能性については、後に検討する。)
しかし、幻聴の「声」そのものと、その声の「主体」が誰(何)かという「解釈」は、別のものとして理解しなくてはならない。そして、その声の主体の「解釈」の点については、妄想的なものが入り込む余地が確かに大きい。現に人を前にしている状況とか、既にでき上がっている妄想とかに様々に影響され、方向づけられる可能性が高いからである。また、初めに述べたように、無理やりにでも、自分の体験してきた現実に引き寄せて理解しようという防衛意識が働くから、それを現実の人の声であるとみなしてしまう可能性も高いのである。
つまり、表現された「幻聴」には、解釈というものが入り込み、それは「妄想」と結びついている面が確かにある。しかし、そのような解釈以前の、「声」を聞くという現象自体は、確かにあるのであり、それ自体は「誤り」である妄想とは分けて考えなくてはならないということである。
この点については、やはり、「幻覚」とは何かという本質的な問題が大きく関わっている。そもそも「幻覚」一般がまともに問題ともされず、「物理的に確認できる物質的なものだけが存在するものである」という唯物論的な発想が大勢を占めている状況では、それらに独自の意味を見出すことなど、受け入れがたいことだろう。
ただ、ここでは、もう一度、次の実際的な観点を強調しておきたい。
幻覚・妄想は要するに全体として「誤り」である、ということであれば、それはそれで「終しまい」である。幻覚や妄想からは、何らその「誤り」をもたらす根拠の手掛かりは得られない。しかし、幻覚を独自な現象とみて、それが妄想の根拠として働いている可能性をみると、「誤り」がもたらされる重要な手掛かりがみえてくるはずである。つまり「了解」の可能性がみえてくるはずである。
もう一つは、本人にとって、周りがどのように言おうと、幻覚はリアルな現実である。それで、その「声」にいかに対処するかということが、差し迫った現実の問題となる。つまり、本人にとっても、「声」そのものと、その(妄想的)解釈を分けたうえで、できるだけ妄想を抑える方向で「声」と向き合わなくてはならない。そのためにも、幻聴の「声」の性質に踏み込んだうえ、それをある程度一般化する形で理解しておくことには意味がある。
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