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2005年10月

2005年10月29日 (土)

5  「幻覚」=「誤り」という見方について

分裂病の「幻聴」の性質をやや踏み込んでみてきた。そこで、これらを下に、先に挙げた、人の物理的な声とは異なる「声」を聞くいくつかの場合と比較して、一応の区別をつけておきたい。

しかし、その前に、このように「幻聴」の性質に深く踏み込んでいくことや、他の「幻覚」の場合と比較することには、奇異な感じを抱く人も多いかもしれない。それは、「幻覚」というのは、要するに「誤った知覚」であるといった観念から来るものと思う。幻覚が「誤り」であるならば、どんな幻覚であろうと要するに「誤り」なのであって、それをとやかく詮索する意味はなかろう、ということである。

当然ながら、このような見方は、分裂病の幻覚の場合には、一層際立つ。そもそも分裂病の問題は、社会的に迷惑で人を困惑させるような不可解な行為から始まっているし、その者は、多くの場合、迫害妄想などの明らかに誤った妄想を抱いている。それで、その幻覚(幻聴)というのも、要するに妄想と同じような誤りの一部に過ぎない、と決めつけられがちなのである。

また、それらの者は、「病気」という判定を受ける訳であるが、「病気」という規定は、むしろ「誤り」という意味づけを補強する。「病気」とは、正常でないこと、つまり「異常」なことであり、治されるべきものとして、「誤り」という意味合いを固定するものだからである。まして、それが「精神の病い」(「脳の病い」といっても実質的には同じこと)の場合には、その「誤り」の意味合いが、人格的な面や精神的な働きそのものに及ぶことにもなるので、その者の「知覚」にも当然のように「誤り」が認められ易い。

先に、『精神医学ハンドブック』で、幻覚と妄想はどちらが他方に影響するということではなく、両者が結びついて同時的に現れるのだ、という見方を紹介した。確かに、そのような面はあるにしても、この見方もまた、妄想の「誤り」ということに全体として引きづられた見方なのだと言える。

例えば、「Aが私を迫害している」という妄想を持つ者がいるとする。そして、その者には、「Aがお前を消してやると言った」という幻聴があるとする。その場合、その幻聴も、「Aが私を迫害する」という妄想と結び付けられて理解される限り、それ自体が誤った妄想の一部のように理解できる。そのような声を聞いたということ自体が、一つの誤った「思い込み」(妄想)とも取れるからである。

結局、現実に反する「誤り」という点に重きをおいてみる限り、知覚的な要素である「幻覚」も、思考的な要素である「妄想」も、大した差はなく、区別することにもさほど意味がないことになる。実際、一般的にはそのように取られているのだと言える。

これは、「幻聴」が「誰々が何々と言った」という形で表現された場合、仕方のない面がある。実際、この表現は、全体として「誤り」になってしまうことは確かだからである。(但し、テレパシー的な伝達の可能性については、後に検討する。)

しかし、幻聴の「声」そのものと、その声の「主体」が誰(何)かという「解釈」は、別のものとして理解しなくてはならない。そして、その声の主体の「解釈」の点については、妄想的なものが入り込む余地が確かに大きい。現に人を前にしている状況とか、既にでき上がっている妄想とかに様々に影響され、方向づけられる可能性が高いからである。また、初めに述べたように、無理やりにでも、自分の体験してきた現実に引き寄せて理解しようという防衛意識が働くから、それを現実の人の声であるとみなしてしまう可能性も高いのである。

つまり、表現された「幻聴」には、解釈というものが入り込み、それは「妄想」と結びついている面が確かにある。しかし、そのような解釈以前の、「声」を聞くという現象自体は、確かにあるのであり、それ自体は「誤り」である妄想とは分けて考えなくてはならないということである。

この点については、やはり、「幻覚」とは何かという本質的な問題が大きく関わっている。そもそも「幻覚」一般がまともに問題ともされず、「物理的に確認できる物質的なものだけが存在するものである」という唯物論的な発想が大勢を占めている状況では、それらに独自の意味を見出すことなど、受け入れがたいことだろう。

ただ、ここでは、もう一度、次の実際的な観点を強調しておきたい。

幻覚・妄想は要するに全体として「誤り」である、ということであれば、それはそれで「終しまい」である。幻覚や妄想からは、何らその「誤り」をもたらす根拠の手掛かりは得られない。しかし、幻覚を独自な現象とみて、それが妄想の根拠として働いている可能性をみると、「誤り」がもたらされる重要な手掛かりがみえてくるはずである。つまり「了解」の可能性がみえてくるはずである。

もう一つは、本人にとって、周りがどのように言おうと、幻覚はリアルな現実である。それで、その「声」にいかに対処するかということが、差し迫った現実の問題となる。つまり、本人にとっても、「声」そのものと、その(妄想的)解釈を分けたうえで、できるだけ妄想を抑える方向で「声」と向き合わなくてはならない。そのためにも、幻聴の「声」の性質に踏み込んだうえ、それをある程度一般化する形で理解しておくことには意味がある。

2005年10月25日 (火)

4 「幻覚」と「妄想」の関係-「幻覚」とは何か

分裂病の「症状」として、「幻覚」と「妄想」をみてきた。
ところで、この「幻覚」と「妄想」の関係について、『精神医学ハンドブック』では、次のように言っている。


妄想と幻覚は、いずれか片方がより顕著に現れることはあるものの、幻聴のために妄想をいだくのでも、妄想に没入するために幻聴を聞くのでもない。意味・内容の通じ合う妄想と幻覚が、同時に病者の精神的内界に入り込むのである。

また笠原著『精神病』でも、両者はほとんど一体となっていて、分かち難いので、「幻覚妄想状態」とも言われることは紹介した。

確かに、「幻覚」と「妄想」は、外部的に観察される限り、どちらがどちらに影響を与えているというよりも、互いに同時的に強く結びつきながら、現れ出ているように見える。また、「幻覚」と「妄想」は、互いに相乗効果のように、一方が他方を補強し合う関係にあるのも確かで、どちらが先かということは、容易には把握しにくい。

しかし、この「幻覚」と「妄想」が内的に形成されて行く過程をつぶさに観察すると、そこには確かに、一つの序列を想定しうると言うべきである。即ち、一次的には、「幻覚」こそが「妄想」の根拠になっている、と言わなければならないのである。

このことが「見えにくい」のは、「幻覚」や「妄想」の内的な現れには、無意識の過程が関わるからである。即ち、外部的にはもちろん、本人すらその過程を把握することが容易ではないのである。たとえば、ある者が迫害妄想をもっているとして、その者には幻覚は全く意識されていないとする。しかし、その者も、無意識においては、他人の「声」を聞いており、それが意識されないまま、妄想の根拠となって働いているということがあるのである。その他人の「声」は、後に明確な形で、意識化される(思い出される)ということはある。(このような幻覚と妄想の形成過程については、後にもっと詳しくみる)

しかし、いずれにしても、「幻覚」と「妄想」の関係をいうには、「幻覚」とは何かということを、もう少し踏み込んでみておかなければならない。

「幻覚」とは何かというのは、本質的には容易ならざる問題である。例えば臨死体験やそれに伴う体外離脱体験は「幻覚」か?とか、唯脳論的に言えば、「知覚」というものはすべてが脳の作り出した一種の「幻覚」といえるなどの、厄介というか、ほとんど不毛な議論もある。しかし、ここでは、そういった問題に踏み込むのは避け、実際上の観点から、特に分裂病にいう「幻覚」というものを、もう少し踏み込んで把握するのみとする。

まずは分裂病の場合、幻覚としてもっとも頻繁に出て来る「幻聴」(他人の声)をみてみる。その場合、それが「幻聴」といわれるのは、まず第一に、その「声」が、現実の他人が発話した物理的な「声」とは、異なることが確認されるためである。たとえば、ある者が、「誰かが何々と言った」(のを確かに聞いた)と主張するとする。が、その誰かが決してそのようなことは言っていないと確認されるとすれば、それは幻聴である可能性があることになる。

しかし、現実の他人が物理的に発話した「声」とは異なる「声」を聞くということは、他の場合にも色々ありうる。たとえば、夢の中では他人の声なるものが様々に出てくるし、睡眠までいかなくても、うとうとする入眠時にも「声」が聞かれることがよくある。また種々のドラッグは、幻視とともに他人の「声」を聞く意識状態に人を導くことがある。

その他、現実の他人の「声」ではなく、死者の霊の「声」や、「神」または「神々」の「声」を聞くと称する「霊能者」、「神秘家」は過去にも現在にも多くいる。さらに、物理的な「声」としてではなく、心理的に直接意志・思念が伝達される「テレパシー」なる現象も知られている。

それでは、そういったことから、分裂病の幻聴を区別するものは何なのか。それを前に挙げた笠原著『精神病』で、幻聴の「声」の特徴(以下<特徴>と略す)としてあげたものと照らし合わせながら、考えてみよう。

<特徴>1は、「人の声」であるとされていた。それは、現象面として、まさに人の「声」そのものとして聞こえる、ということである。言い換えれば、それは、「現実の人の声と混同されるだけの質を備えたもの」である、ということである。分裂病者は、これを現実の人の声として聞くからこそ、具体的に誰々やCIAの組織などに迫害されているという、「現実的」な形の妄想を築き上げるのである。

そして、これは二つの面からみることができる。一つには、状況の問題がある。それは睡眠状態や意識水準の下がった状態ではなく、覚醒状態で(まさに笠原著『精神病』にいう「清明な意識」において)起こる。つまり、意識のはっきりした状態で、現実に人と交わる中から出てくる「声」であるから、状況的に人の現実の声と混同しやすいということがある。

もう一つは、その声の「リアリティ」(現実感)ということである。つまり、それが「現実の人の声と同程度(あるいは時にそれ以上)にリアルなものとして」聞こえるからこそ、人の声そのものとして受け取ってしまうということである。

次に、<特徴>3は,「直接話しかけてきたり、噂をしたり、行為のいちいちを批評する」であった。つまり、「声」の内容に着目すると、それは概ね「悪意」のある、攻撃的なものである。また、ここには特にあげられていないが、本人しか知らないような「秘密」や「弱点」をついてくることも多い。総じて言うと、心理的に人を困惑させ、落ち込ませ、切羽詰まらせるように追い込んでいくごとき内容であるということである。さらに言えば、声は必ずしも明示的に多くを語らず、暗示的にキイとなる言葉のみを語り、本人自らが連想を膨らませて、否定的な解釈を連ねるべく仕組まれたかのように、狡猾に攻め立ててくるのである。

さらに、<特徴>4は、「自分の気持ちや考えに強く影響する。無関心ではいられない。ときには、声の命令に従ってしまう」ということであった。つまり、「声」は、「影響力」、ある種の「魅惑」 、「支配力」などの、逆らいがたい「力」を備えている、ということである。これらは、<特徴>3でみたような、攻撃的で、心の内奥にまで踏み込むごとき、「声」の内容によっているという面もある。また、自己の境界が揺らぎ、その主体性が大きく損なわれているという状況も影響している。しかし、確かに、声そのものの性質による面も大きいのである。

つまり、「声」は現象的には(音声又は言葉としてみると)、確かに「人の声」なのだが、それは、「普通」の人の声とは明らかに違った「力」の質を帯びているのである。そして、これは<特徴>5にあげられた、「「声」は何かしら地上性をはなれた超越性を帯びている」ということとも関連している。

それで、場合によっては、この「声」を人ではなく、「宇宙人」や「神」の声として聞いてしまうことが起こる。「宇宙人」や「神」というのは、いかにも間に合わせの陳腐な感が否めないけれども、そこに某かの「超越性」を看取するからこそ、出てくるものなのではある。

この点は、後にもさらに詳しく踏み込むことにするが、とりあえずここでは、「声」は、「超越性」というよりも、何らかの「未知性」を帯びていると、広く捉えておくことにしたい。とりあえず、はっきりしているは、この「声」は、それまでの本人の体験からは、到底理解する術のない様相を示すということである。それで、それは、「強い不安」または「恐怖」を喚起するのである。

このような「声」の質にまで踏み込まなくては、本人の強い「不安」や「恐怖」を了解する術はない、と言うべきである。

これまでのところを簡単にまとめると次のようになる。

分裂病にいう幻聴の「声」とは、
1 現実に発話された物理的な人の声とは異なる。
2 はっきりした意識状態(覚醒状態)で聞こえる。
3 現象面としては「人の声」(言葉)そのものである。
4 現実の人の声と同程度のリアリティを備える。
5 内容的には、悪意ある攻撃的なもので、人の心理につけ込む狡猾さを備える。
6 人の心に対して、強い「力」を発揮する。(影響力、誘惑性、支配力など)
7 何らかの「超越性」または「未知性」を帯びる。

2005年10月20日 (木)

3 「症状」と「具体的な行動」について

これまでみてきたのは、精神医学が病気の「症状」として記述するものである。しかし、現実には、これらの「症状」があるということだけで、それが病気として治療や入院の対象になるということではない。実際上は、それらの症状とされるものに基づいて、ある具体的な行動が行われて初めて、それが治療すべき病気として、いわば「公的に」遡上にのぼるのである。

具体的な行動とは、例えば、前回、前々回みたような被害妄想の場合、錯乱して、周りや警察などの機関にその被害を訴えて回るとか、あるいはその加害者とされる者に、何らかの防衛措置や報復措置に出る、などである。あるいは、「自分は誰々の生まれ変わりである」として、また「あることをしなければ日本や地球が破滅する」などとして、人や組織に何かを強要して回る、などである。

これらの行為が、周りの者や社会的に放置できないものとなったときには、何らかの処置をせざるを得ない。実際、家族その他の者に連れられて、精神病院に入院(「措置入院」又は「同意入院」)となるのは、このようにして、周りの者や通常の機関では、手に負えなくなったことによるのが多いのである。

もちろん、その場合にも、病院ではそれらが分裂病の「症状」として認められるという認識の下に入院が是認される。しかし、ことの順序としてみても、それをある病気の「症状」というのは、あくまで、観念的、事後的にそれらの行動の背後にあるものとして、つけられた認識に過ぎない。現実にあるのは、それらの症状とされるものに基づくとは考えられるにしても、上のような、まさに人を「困惑」させ、「恐怖」させる行為そのものなのである。

とりあえずそこから、分裂病の問題の全てが始まっているということは確認しておかなくてはならない。それが「病気」とされ、治療すべく入院の対象となるのも、そのような放置できない社会的な行為をする者を「隔離」し、「収容」しなければならないという現実の問題がまずあるのである。これは、精神医療(学)誕生の歴史をみれば、更にはっきりすることだが(後にそれも試みるつもりだが)、現在においても、そのような面は確かにあるのである。

そこで、この狂気についての日記のテーマである、「分裂病を防ぐ」というのは、何よりもまず、このような行為をできる限り、「防いでいく」ということ意味する。そして、それはもちろん周りの者や社会的環境の影響を受けるが、現時点ではまず誰よりも、本人自身においてそうする外ないのである。病院が関わるのは、既にみたように事後的であるし、たとえ本人自身が自ら治療に赴くといったことが可能な場合でも、そこにこれらの行為を防いで行くという要素はやはり必要になる。

これらの行為を防いで行くというのは、本人自身のためであるのはもちろんとして、分裂病が社会的に手に負えない、異様で迷惑な病気である、というイメージをできるだけ払拭するためでもある。しかし、実際のところを言うと、初めの総括でも述べたように、これらの(幻覚や妄想という)症状とされるもの自体の現れを防いで行くというのは、非常に困難なことだからである。

ところが、それらの症状とされるものが現れることと、それに基づいて現実に行動を起こしてしまうことの間には、ギャップがある。そこで、その行動の方を防いで行くことは、必ずしもできないことではないからである。症状とされるものが「現れる」ことと、それに「囚われる」こと、「振り回されること」とは別なのである。そして、症状とされるものが「現れる」こと自体を、否定的に捉える必要は必ずしもないのである。

もちろん、それは簡単なことなどではなく、いくつか前提となる条件がある。その大きな一つとして、これらの症状とされる状態にあっても、それが一般の精神医学においては、まさに「分裂病」の「症状」とされるものだと気づくぐらいの認識は必要である。

ここで、「症状」とされるものをかなりに具体的にみてきたのも、そういった認識に役立てたいと思ったからである。何も詳しい知識が要求されるというのではなく、ここに述べられた程度のこと(特に、前々回の「ハンドブック」の記述は、かなり具体的、イメージ的に把握できるものであったはず)を予め知っていれば、実際にそれに似た状況に陥った時に、それが客観的には、分裂病の症状とされているものであることは、十分認識し得るのである。

但し、実際には、それが様々な理由で難しいのも、また確かなことである。それがなぜなのかという点は、後に、いわゆる「病識」の問題とも絡めて、改めて詳しく考察したい。

2005年10月16日 (日)

2  「妄想」「幻覚」の特徴とされるもの

前回、一般の精神医学が記述する「分裂病」の症状を具体的にみた。今回は、そのまとめの意味で、「分裂病」の症状である「妄想」と「幻覚」について,その特徴とされるものをみておきたい。

参照にするのは、『精神病』(笠原嘉著)(岩波新書)である。これも、内容が穏当で十分納得できるものであるし、要領よく簡潔にまとめられているからである。前回同様、とりあえず、ざっとみておくことが目的だが、簡単なコメントも差し挟んでおきたい。

「特徴」というのは、妄想と幻覚について、あくまで「分裂病ならでは」の特徴ということである。まず、妄想と幻覚の最大公約数的な特徴をあげると、次のようだとされる。

「このところ周囲の人々の様子が変だ。不穏だ。どこへ行っても自分のことが知られている。」
「自分は平凡な人間で、そんなに大勢の人に顔を知られているとは思えない。それなのに人々がグルになって自分を追いかけている。どこへ行ってもついてくる。おかしなことだ。」
「なぜグルになっていることが分かるのか、といわれても説明しにくい。人のそぶりで分かる。彼らが口で言うわけではない。」
「あまり変なので、警察に行った。なぜこんなに追いかけられるのか、警察が知っていると思って聞きに行った。」

前回は出てこなかったが、「グルになって」というのもまた、重要なポイントだろう。
前回、世界について「内的なつながり」が浮かび上がると言ったが、この「グル」という言い方にも、それが覗われる。但し、この「内的なつながり」は、自分に対して「敵対的」なものとして浮かび上がっているのである。

次に「妄想」の特徴あげる。

妄想とは、簡単に言えば、「現実にはあり得ない誤った観念」である。しかし、これだけでは、日常生活上で出会われることもあり、迷信などとしても存在する。それが分裂病の妄想といえるのには、さらに次の特徴がある。

1「とても大きな不安」がそこに随伴している点。「世界がどうにかなりそうな、と表現してもよいほどの不安」とされる。

これはどれほど強調しても、強調し過ぎにはならないことで、その余韻はあとまで残って、彼らを萎縮させる、とされる。

2「絶対の確信」といわれるもの。誰に何と説得されようと訂正できず、えんえんと続く。妄想は典型的であるほど訂正できない。ときにはいったん納得したように見えても、たいていすぐ疑念が再燃してきて、元に戻ってしまう。

3あくまで「彼(彼女)一人の」信念で、誰かと共有されることは原則としてない。

一般に、何か「現実的でない」考えを抱いたり、捉われたりすることを「妄想」ということがある。しかしそれらは、一方で、妄想であることがどこかで認識されているのが普通である。ところが、分裂病の妄想の場合、それは現実のこととして、はっきり確信されるほどのものとなる(特徴の2)。あるいは、後に見るように、それはその妄想に基づいて、現実に何か行動に出てしまうことを迫るほどのものだ、と言った方が分かり易いかもしれない。

そして、まさに、かくも強く妄想が確信される理由を理解(了解)することこそが、実は分裂病理解(了解)の核心といえるのである。もちろんそれは、追って明らかにしていくことである。

また、分裂病の妄想は、「脅え」や「錯乱」としてはっきり外からも分かるほどの「強い不安」を伴う(特徴の1)。というより、むしろ、この「強い不安」こそが根底にあって、分裂病の「妄想」が強く確信させるほどのものとして生み出され、また内容としても方向づけられているるのだと言える。その意味では、先の分裂病理解(了解)の要点は、この「強い不安」を具体的に理解(了解)することにあるとも言える。

次に「幻覚」について

まず…、幻覚のあるところ、ほとんどつねに妄想もあるので、「幻覚妄想状態」と一括していうこともある、とされる。分裂病の場合、幻覚は、幻視よりも幻聴という形式が多い。さらに、脳の病気の場合と違って、意識の曇りなどが背景になく、意識が清明でも起こることが特徴とされる。

前回既にひと通りみたが、もう一度、この幻聴の特徴とされるものをあげてみる。

1聞こえるのは、「人の声」である。
2内容の一語一語ははっきりしないのに、意味は直観的に「一挙に」理解できる。
3直接話しかけてきたり、噂をしたり、自分の行為のいちいいちを批評したりする。
4声は、自分の気持ちや考えに強く影響する。無関心ではいられない。ときには、声の命令に(従うまいと思っても)従ってしまう。
5普通では聞こえないはずの遠い所からでも聞こえる(たとえば、何百メートルも離れたところから)。なにかしら、地上性を超えた「超越性」を帯びている。
6とてもとても不安で、世間に対して身構えてしまう。


この中で、とくに、外の力で自分が「影響される」という4の感じが苦しいものだとされる。「自分の感情や行動が、外からの力で引き起こされたり、変化させられたりすると感じる」(「させられ思考」「影響症状」)ということである。

さらに、これは「自己と非自己との境界の揺らぎ」として、次のように説明される。

これらは、幻聴と同じように、外の力が私という主権国家をおかし、もっとも基底的な個人の心理的自由を奪うのです。心の中での自己と非自己の間にある境界線、現実と空想との間にある境界線…が、分裂病になると…あいまいになります。これは分裂病の不安と深く関わっています。

まず、「幻覚」と「妄想」は常に一体となっていることが示唆されているが、「幻覚と妄想の関係」については、後にもっとつっこんで考察したい。

また、幻聴の特徴とされるものの中では、4の「させられ思考」「影響症状」(前回は「させられ体験」としてみた)が重視されていることが注目される。そして、それが「自己と非自己の境界の揺らぎ」として説明され、さらに、それこそが妄想に伴う「強い不安」と深く関わっているとされる。まさに、前回最後のところで、少し触れた点である。

この点も、後に展開されるべき大きなテーマなので、ここで一応確認しておいて欲しい。

2005年10月 8日 (土)

1 「分裂病」の「症状」を具体的にみる

注)この1回から22回(06.3.28)までは、私の体験も踏まえて、「分裂病(統合失調症)的状況」に陥っていくとはどういうことかを、具体的にみていくものです。

必ずしも、順序を追って逐一やっていく訳ではないけれども、ここからは「狂気」の具体編に入ります。

初めに、分裂病性の「狂気」の典型的な例というのを、内面の動きにも踏み込みながら具体的に描き出してみようと思っていた。が、とりあえず、精神医学において一般的に分裂病(統合失調症)がどのようなものとして記述されているかをみておくことにしたい。それらは、外部的な観察によって明らかになったものに過ぎないが、それなりに経験的に裏付けられたものであり、まずは客観的に把握してもらうのがいいと思うからである。

そこで、まずは、『精神医学ハンドブック』(山下格著 日本評論社)から典型的な症状とされるものをいくつか抽出してみたい。これは、具体的に分かり易く表現されていて、イメージ的に把握するのに適していると思うからである。ここでは、とりあえずざっとみておくのが目的だが、ところどころ簡単なコメントもつけておきたい。

まずは、特に徴候として。

最初、まわりの様子や出来事が、奇妙に恐ろしく感じられる。たとえば風に揺れる並木、人々の話声がただ偶然に起きているのではなく、何か自分に関係があって、何かを指示するような、何か不気味な暗号があるような、ひどく恐ろしく、不安な感じ。妄想気分

分裂病的な状況に入っていく時の、初めの周りの世界の見え方、感じ方の変化について、分かり易く表現されていると思う。要するに、それまでの日常的な世界のあり方に、亀裂が入っていく瞬間である。

次に典型的な症状について。
大きく分けると「妄想」と「幻覚」に分けられる。(「ハンドブック」は、さらに「感情と意欲の障害」と「思考障害」を加えているが、ここでは略する。)

まずは「妄想」。

初めの「妄想気分」との関係でみると、

……そのうち、周りでおこることに何となく見当がついて、それなりの意味づけができるようになる。何の目的で誰がしているかは確かではないが、家の中に隠しカメラのようなものがあって、どこにいても、風呂場やトイレでも、壁を突き抜けて、絶えず自分の姿・行動が見られている。それが、町中に電波か何かで伝えられ、道で会う人が皆自分の考えや行動を知っていて「思考伝播」探るようにこちらを見る。「注察妄想」

これは、もっとも典型的な妄想の始まり方ではないかと思う。初め漠然として不気味だった世界の変化が、次第に意味づけられていく、つまり妄想として形成されていく様も表している。

職場ではもちろん皆が何でも知っていて、表情や仕草や言葉で暗示めいたサインを送るので、こちらもサインで返すと、相手にも意味が伝わる。自分が口で言わなくても、考えるだけで、こころが相手に伝わる。それはテレビでも同じで、アナウンサーは自分のことを知って関係のあることを話すし、自分が何か思うと、それに対して返事をしてくる。

これも、また「思考伝播」の典型的な発展だと思う。明示的に言葉で言わなくても、「意味」や「思考」がテレパシー的に伝わるというのがポイントである。それまで、自己と他者または外界は、当然のように切り離されたものとして存在していたのだが、それらがある種内的なつながりの下に浮かび上がってきたのである。あるいは、後に見るように、自己と他者または外界との境界が揺らいでいるのだと言える。

さらに、発展して、

……周りの雰囲気の変化も、それなりに理由が分かってくる。たとえば誰かが恐らく自分をねたんで、いやがらせをしていると思う。昔の友人たちに連絡してうわさを広げている。警察や暴力団にまで手をのばして、自分を監視させている。自分の様子を探るために絶えず車で家のまわりを走り、窓からのぞき込む。机の上の物がなくなったり置き換わったりするのは、誰が手下の仕わざと思う。警察や新聞社に訴えても、マジメに取り上げてもらえないのが口惜しい。「被害妄想」

ここまでくると、典型的な「被害妄想」となってくる。これまでその者を困惑させた周りの変化について、「理由が分かる」というのがポイントで、ここでは、自分がはっきり周りや世界からのけ者にされ、さらに攻撃、迫害の対象になっているという、「単純」で「明解」な意味づけがなされている。これまでの一連の出来事に、一つの「解答」のようなものが提供されたわけである。

さらに、……しかし、これだけ皆が騒ぐのは、自分が特別の人物であるからかもしれない。相手の考えがピンとわかり、こちらの意志もパッと伝えられるのは、自分が超能力者になったからだ。あるいはキリストの生まれ変わりではないか。「誇大妄想」

これはまさに、「被害妄想」の裏面ともいえることが分かろう。

次に「幻覚」。

この異様な意味づけ体験と関連して、しばしば相手の思い・考え・意図・返事が、ただの態度や身振りだけでなく、言葉になって伝わることがある。幻聴

たとえば、誰かが隠しカメラで自分の様子・行動をみて、「…着替えをしている。…風呂に入る。…ブス、ブス」と多くは非難めいたコメント入りの実況放送をする。……あるいは複数の人たちが自分のことをうわさする声のこともある。

声の主は、いつも特定の一人あるいは多数の知人、まったく知らない人、有名人、宇宙人、亡くなった父母など、さまざまである。声の発信・中継場所が隣室、特定の家、放送局などのこともあり、まったく不定のこともある。

比較的稀ではあるが、声とともに、あるいは声の代わりに、相手の顔が見えたり、恐ろしい怪獣や奇妙な虫らしいものが浮かんだりすることもある。(幻視

実際に、幻覚の内容は、妄想のそれと一致して、病者のこころを見透かして批判したり、皮肉・非難・叱責するものが多い。あるいは思いがけないことを教えたり、ときにはほめ言葉であったりする。

また、この指示的性質がいっそう強くなり、日常の生活内容までいちいち命令され、自分の考えや行動が誰かに操られているように感じることがある。
させられ体験病者は自分の意志がなくなったなどと訴える。

「幻覚」の声は、病者の心を見透かすということ。皮肉・非難・叱責するものが多いということ。さらに、声の指示・命令によって、操られるようになることがあるというのが重要である。幻覚の声というのは、単純に誰か他人の声というのではなく、自己を蹂躙し、乗っ取るかのような、ある種の「力」に満ちたものとして迫ってくるのである。

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