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2005年9月

2005年9月 3日 (土)

「自己喪失」と「狂気」

品切れということで、長い間手に入れることができなかったバーナデット・ロバーツの自己喪失の体験(紀伊国屋書店)を読むことができた。この度、久しぶりに第3刷目が発行されたためだが、既に発行元の紀伊国屋ブックウェブでも在庫が僅少ということだから、欲しい人は急いだ方がいいかもしれない。ただ、今後も、たとえ少しずつでも、版を重ねることは続けて欲しいものだ。

ある程度予想はしていたが、これほど「自己喪失の体験」そのものに的を絞って、正面から論じたものだとは思わなかった。悟ったことを自称する「覚者」ですら、これについて正面から論じることをした人というのは、ほとんどいない。全く貴重な本だが、同時に、「自己」が守るべき大切なものである普通の人、「自己」の成長や完成を目指す人にとっては、役に立たず、「くそ面白くもない」本でもあろう。

そこに「妥協」のようなものはみられないし、文も、いわば色気も飾り気も、(それはある意味同時に「方便」も「慈悲」も)なく、ただ淡々と冷徹に書きつらねているだけといったもの。このような語り口や内容からいっても、私はクリシュナムルティにとても近いと思った。

ロバーツ自身が言うように、これまでの「覚者」は、単にこういった体験を「一瞬の衝撃の間に通り越し」たり、「不可解でまれな現象なので、触れないようにしている」だけ、なのかもしれない。しかし、たとえ自分では「分かっ」ていても、精神的指導者として多くの者を指導する立場にある者(クリシュナムルティは否定するかもしれないが、彼もまたそういう面があったのは事実)は、「自己」の成長過程にある多くの者に、こういったことを正面から説けるはずもないというのは確かにあると思う。ロバーツは、一介の主婦であったからこそできたのだと思う。

少し説明すると、ロバーツは、「瞑想」の段階という言い方をするが、その第一段階が、「自己完成」の段階である。これは西洋的な「個人」とか「個」の完成ではなく、「真の自己」またはキリスト教神秘主義のいう「神との合一」の段階である。

ロバーツ自身カトリックの人なのだが(そのキリスト論も興味深い)、特にキリスト教神秘主義者の間で混同しやすい、この体験と、その次の段階である「自己喪失の体験」とを明確に区別したのが大きな点である。

そしてこの段階の後、「不動」の中間期を経て、最早「自己」が通常の機能を果さなくなり、必要でなくなる段階を迎える。それが次の第二段階の「自己喪失」の体験である。それは、第一段階で「完成された自己」が脱落し、「無自己」の状態で生きること、「自己なしの生」という新たな生き方である。

自己保存の活力も、自意識のもとにある反省の機能もなく、また第一段階に見られた「至福」やいわゆる「愛」もなく(というか「自己なし」の状態にとっては何の意味もなく)、全く不安定な状態である。それは、一つの「虚無」の状態といえるが、これは第一段階の自己完成にいたる過程で通り越す、いわゆる「(魂の)暗夜」の状態とは全く別物である。このように、「自己」が陥る「暗夜」の状態と、「自己喪失」においてこそ浮かび上がる「虚無」の体験とが、全く別ものであることを明確にしている。

そして、その先は、最早表現不能(主体と客体という通常の思考も、「見ている自己」もないのだから)の領域だが、あえて言えば、その「旅」は、「自己を失った後にも残るなにものか」、「不可知」の「それ」としかいいようのないものの中に「溶解」することをもって終わる。その状態は、「見るもの」と「見られる」ものの区別のない状態で、また「意識」とすら言えないというので、「純粋主体性」の状態ともいわれる。

このように、「自己喪失」の体験そのものに主眼をおいてはいるが、それが第一段階の「自己完成」の段階を経て後のものであることを強調する点は重要である。

この点に関しては、実は「狂気」とも大きく関わる余地がある。「狂気」を、「光」と「闇」を対置させた上、それは(心の)「闇」の状態であり、「光」の欠如の状態である、と捉える向きも多いかもしれない。しかし、それでは何ら本質的なものは見えてこない。むしろ、「狂気」(特に分裂病性のもの)を対置させるなら、この「自己喪失の体験」とこそ対置させるべきなのである。それは結果において、というのではなく、それが起こる「状況」において、一種のつながりがあるからである。

(結果でいうなら、「自己喪失」とは、いわば自己が「まるごと」抜け落ちることであり、一種の「自己崩壊」で、断片化した自己が様々に「騒ぐ」狂気、あるいはその「崩壊」を防ぐべく矮小化した自己に固執的に閉じこもる(妄想等)狂気とは、全く異なる。)

結果はともかく、「状況」的には、ロバーツが記述する具体的な状況は、私自身共通するものが多いし、狂気一般にとっても、かなり類似するものがあると思う。(この点は、いずれ詳しく取り上げるかもしれない。)

その意味では、「狂気」は、いわば「自己喪失の失敗」または「変形」ともいえるのである。

また、ロバーツは、最後のところで、興味深い論を展開している。人間というのは、シーソーの両端にある種の力が働いて揺れ動くが、その「均衡点」が不動の中心の「静寂点」に近づくにつれ、そこを入口にして「自己喪失」が起こる、というのである。そして、その両端に働く力というのは、人間の内部的な力ではなく、普通「善悪」とよんでいる外部的な力で、一つは「自己保存を図る力」もう一つは「自己破壊をもたらす力」という。そして、「自己保存を図る力」は、「静寂点」を覆い隠すが、「自己破壊をもたらす力」こそが、「静寂点」を開くのだという。

但し、それが「自己喪失の体験」に結びつくのは、その両端の力の闘いが終わり、その均衡点から、「静寂点」が開かれた場合だということになるのである。

これは、ましさしく、シュタイナーの悪魔論である、「ルシファー(自己保存の力)」と「アーリマン(自己破壊の力)」の二系統の力の闘いと均衡の論そのままといえ、しかも、その均衡の先をも見越す論になっているのである。

この観点からいっても、「狂気」とは、シーソーの両端の均衡がもたらされる前に、時期尚早に「自己破壊の力」にさらされる結果起こるものだ、ということが言える。

いずれにしても、私にとって、今の時期に読まれるべくして読まれたかのような、刺激的な本であった。

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