« 2002年12月 | トップページ | 2005年9月 »

2003年2月

2003年2月25日 (火)

総まとめ(旧「闇を超えて」より)

※かつての「日記」『闇を超えて』の記事の転載です。今からすると、稚拙な表現や足りない面もありますが、「統合失調的状況」について、当時の段階での「総まとめ」がされています。これは、このプログの序論のような役目も果たしますので、ぜひ参照下さい。

○「戦士の力が衰えたら、死がそいつをトントンたたくだけさ。だから、力もないのに未知の世界へ踏み込むなんてのは、愚かなことなんだ。死を見つけるだけだからな。」

 ――カルロス・カスタネダ『呪師に成る』より (ドン・ファンの言葉)

さて、そろそろ「総まとめ」に入りたい。と言っても、別に新たにまとめ直すわけではない。これまで述べて来たことの再確認のようなものである。形としては、要点中の要点を「ズバッ」と絞って箇条書き風に示し、それに簡単なコメントを付すといったものにする。記述も、これまで述べてきたことは前提にした簡潔なものである。まあ、時には違った観点から述べ直すことがあるかもしれないが…。

それでは、そっそく始めよう。今回は、ほとんど再言するまでもない大前提のようなものだが、こんな感じになるという意味で、例として採り上げてみよう。

「狂気」あるいは「精神病」は,現代の医学では「理解」することはできない。

たとえ現代医学に信頼を寄せる者でも、「狂気」が既に「理解」されたとは誰も思うまい。「狂気」はいわば前近代が現代に残した厄介な「遺物」である。それは、現代のパラダイムによる取り込みの試みを、絶えずはぐらかし、愚弄し、限界を仄めかす。

しかし同時に、それは未来へと託された「置き土産」でもある。閉塞した世界観の、一つの「突破口」であり、「正常人」には既に失われた霊的な働きを、衝撃をもって照らし出す。

分裂病を「脳の病気」ということは、「理解」からは無限にかけ離れている。脳の異変という物質的に現出したある一側面だけを捉えて、それを強引に原因へと還元しているだけである。

それは、「狂気」を「了解不要」の病気として「実体化」させるとともに、操作可能な対象として矮小化させようとの虚しい試みである。要するに「イデオロギー」に過ぎないのであり、実質上はむしろ「理解」の放棄に等しい。

全体としてみる限り、脳の異変はむしろ結果であり、あるプロセスの一局面とみるのが自然である。あるいは、少なくとも併行的、共時的な現象といえる。

ただ、脳の異変は、分裂病が単に「心」の問題に収まらないことを明示している。脳その他の物質的なプロセスをも巻き込むという意味で、より根源的な「病い」であることが明らかである。「理解」への入り口は「心」にあるにしても、単にその延長上には捉えきれない。森山の『統合失調症』のような試みは貴重な一歩ではあるが、全体として「理解」にはまだ程遠い。

従って、我々が「理解」を目指す限り、ユング風に言えば「普遍的無意識」レベル、シュタイナー風に言えば「霊的」レベルに目を向けざるを得ないのである。

2 幻聴(幻覚)・妄想は、事実に反する単なる「誤り」ではなく、「日常的現実」とは別の「リアリティ」を反映するものである。それは単に内的な「(集合的)無意識」の世界というよりも、「エレメンタル」あるいは「魔的存在」などの「霊的存在」を反映している可能性がある。

幻聴(幻覚)・妄想を単なる「誤り」と見做している限り、「狂気」にある者との接点はないに等しい。実際、「正常人」にとっては「接点」など不要なのであり、「理解」などもってのほかである。「狂気」は「正常人」の自己確認装置として周縁に追いやられ、「治療」により「正常化」(一種の「洗脳」、あるいは幻聴・妄想が既に「洗脳」であることを考えれば、むしろ「脱洗脳」)される限りで、「接点」が回復されればそれで良い。これが現代の一般的な見方なのであり、精神医療は単にそれをサポートしているに過ぎないというのが実情である。

しかし、幻聴(幻覚)・妄想は、それらの者の立脚点である「日常的現実」とは別の「リアリティ」を反映するものである。それが確かな「リアリティ」を反映するからこそ、また「日常的現実」を突き崩すものであるからこそ、訂正不能な「狂い」(錯乱・妄想など)という現象が生じるのである。単なる「誤り」からは単純な「誤り」(という認識)しか生じないのは明らかである。また、それが「正常人」の立脚点を揺さぶるからこそ、「正常人」にとっては、恐怖と嫌悪の、そしてそれについてはあまり踏み込むべきでない、排除(タブー)の対象なのである。

しかし、逆に言えば、それがそのような別種の「リアリティ」であることを真に認識でき、受け入れることができれば、「狂気」についての恐れや問題のかなりの部分が、クリアーされ始めることをも意味する。現実的な対処法という意味でも、これが第一歩である。

従って、その「リアリティ」の具体的内容に必ずしも固執する必要はないが、可能性としては、ユングのいう集合的無意識の世界という理解と、想念の実体化である「エレメンタル」等を含めたエーテル的、霊的存在物の世界という理解の2通りがとりあえずある。

前者はより内的な捉え方だが、実質的な内容はあいまいで希薄なものともなる。後者は、外的かつ実体的な捉え方で、その直接的な「他者性」に最も沿うものだが、現代においては卑俗なイメージを免れず、問題を外部に投射することで内的な問題を看過する傾向もある。

私自身は、本質的には後者であるとして、既に段階的に詳しく説明したとおりである。ただし、ユング的な発想も参考にはしている。

そして、さらに言うならば、その「リアリティ」の根底には「根源的な<闇>」あるいは<虚無>がある。それは「宇宙の死」のような壮絶な現象の背景であり、この「狂気」に全体として刻印された「破壊性」の表徴の源でもある。

3 「組織に狙われる」、「思考を盗まれる」等の典型的な「妄想」は、このような「リアリティ」を「日常的現実」と混同することから生まれる。

「組織に狙われる」、「思考を盗まれる」等の「妄想」と、それに基づく混乱は、(急性期の)分裂病において外部的に表れる最も典型的な症状である。従って、最低限この項目だけは押さえおいてもらいたいと思う。

要は、既に「声」などの侵入により、「日常的現実」に亀裂が入り、本人にとっては未知である「集合的無意識」あるいは「霊的リアリティ」の侵入を受けているのに、それを認められず、それまでの「日常的現実」と混同し、あるいはその延長上に無理やり捉えようとしているということである。具体的には、現実に聞こえているか、無意識理に感じ取っている「声」を、「日常的現実」つまり現実の「他者」の声と混同し、あるいはその延長である「組織」などとして捉えているのである。

傍目には突飛で、あり得ないことに写るこのような「妄想」という形でしか、自らの体験を表現し得ず、あるいは「日常的現実」との懸け橋が架けられないということこそ、当人の直面する問題の抜き差しならないことを、はっきり示している。即ち、体験の不可解な捉え難さ、しかしそれにも拘わらず、(それまでの「日常的現実」以上の)圧倒的な「リアリティ」の感覚などである。

周りがいかに非常識で、ありそうもないことを指摘しようとも、あるいは本人もそのこと自体は分かっていようとも、それを凌ぐだけの強烈な「リアリティ」に襲われているので、訂正の余地はほとんどない。ただ、その「リアリティ」を「日常的現実」とは別のものとは認識し得ない、あるいはむしろ自己防衛的に「できない」のである。

このような「日常的現実」と混同する形の「妄想」の底には、(本当は崩れかかっている)「日常的現実」 との懸け橋を何としても失いたくないという強い不安と危機感がある。逆に言えば、それだけ、全く「未知」の恐るべき世界が開けようとしているという潜在的な予感と恐怖は切迫しているということである。結果として、誰の目にも明らかなほど異様かつ不合理な「妄想」を生み、かえって日常性(周りの人々)との乖離を深めてしまうことになるのは皮肉だが、この形の「妄想」には、こういったそれなりに堅固な基盤がある訳である。

○「おまえが、自分は世界中で一番大事なものだなぞと思っとる限り、まわりの世界を本当に理解することはできん。おまえは目隠しされた馬みたいなもんだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ。」

――カルロス・カスタネダ『呪師に成る』より(ドン・ファンの言葉)

4 「狂気」への対処法の基本は、 「日常的現実との混同」を回避すること。そして、幻聴やそれを通して現れる「リアリティ」(存在)との「距離の取り方」と「自己を過大視しない」という態度を学ぶことにある。

① 「日常的現実との混同」を回避すること

分裂病性の「狂気」が招き易い、現実の他者を巻き込む形の混乱や危険は、ほぼ体験している「リアリティ」を「日常的現実」と混同することから生まれる。だから、「日常的現実との混同」を回避することができれば、「狂気」の混乱や危険のかなりの部分が緩和されると言えるのである。

あるいは、「日常的現実との混同」とは、ある意味まだ「狂気以前」なのであり、狂気(「リアリティ」そのものと「自我」との関係で生じる)との直面の前段階での虚しい「あがき」なのだと言える。だから、「日常的現実との混同」を回避するというのは、直接には「リアリティ」そのものと直面することを意味するが、それは同時に、「狂気」と本当に向き合うことのスタート地点とも言える訳である。

つまり、「狂気」の問題のかなりの部分(特に混乱や錯乱)は、実はそれを「認め得ない」ことの方にこそウエートがあるのだ。

現実的観点から言えば、これにはもっともな点が確かにある。体験者は、「日常性」との連続を否定するならば、「未知のリアリティ」を認めるか、さもなくば自らを「狂気」と認めるか(既述のとおり、どちらにしても結局は「狂気」だ!)の二者択一を迫られる。そこで、体験者は「日常性」との連続に執拗に固執するが、そう…、それこそが実は皮肉にも、精神医学お墨付きの「真正の狂気」(妄想)となるのだ!

つまり、どっちに転んでもどのみち「狂気」であり、もはや「日常性」という覆いは(少なくとも「狂気」を隠す役割としては)通用しなくなったのである。そこで、「日常性との混同」を避けるとは、もはやそういう役立たずの覆いへの未練を捨てること、いわば精神医学のいう「狂気」などを「越えて」本当の「狂気」に一歩踏み出すことである。

「未知のリアリティ」と向き合うということは、結局はそうやって「狂気」を自ら「選び取る」といった面が確かにあるのであり、そうでなければ実際「リアリティ」と向き合うなどということは無理というものである。

本来この「総まとめ」では、もっと穏当というか、「日常的現実との混同」を回避することを最低限の対処法として、さほど困難ではないこと(であるかのように)説くつもりであったが、現状ではそれも一つの「ごまかし」になるので、止めにした。

しかし、この「日常的現実との混同」を回避しない限り、即ち少なくとも、「日常的現実」との区別をつけて、その「リアリティ」に対して何らかの態度表明をしない限り、何ら「埒が開かない」のは確かなことである。「未知のリアリティ」などと認め難いのであれば、精神医学お墨付きの「妄想」や「幻聴」と判断して、医者に罹るのもいいだろう。(私も最近はこれに特に反対する気もない。特に初期の段階なら、それで「当分」は事無く済む可能性もある。まだ「リアリティ」による「侵食」をあまり受けていないからである。)あるいは、「べてる」のように「幻聴さん」として、とりあえず括弧にくくっておくのも、いいだろう。(これは、いわば中間的判断と言える。)

いずれにせよ、「日常的現実との混同」自体は回避すべきであることに変わりない。

そして、何よりも、「総まとめ-2」で述べたように、典型的な「妄想」というのは、「リアリティ」を「日常的現実と混同」することから生まれることを本当に理解し、納得するならば(予備知識として持っていれば)、その者は、例えこういう事態に陥ったとしても、そのような混同はまずなさないはずである。

②幻聴やそれを通して現れるリアリティ(存在)との「距離の取り方」と「自己を過大視しない」という態度を学ぶこと。

体験している「リアリティ」を「日常的現実と混同」することを回避し、それとして向き合うことは、ある意味より深く「狂気」へと踏み出すことを意味する。実際、それはユングも認めるような、「破壊性」の懐へといわば自ら一歩近づくことである。

しかし、そうしてこそ、単なる「妄想」を超えた「理解」の可能性も生まれてくる。場合によっては、より深刻な破壊的事態を招くことがあるにしても、である。そういう訳で、ここからが、いわば本当に「狂気」に対する対処法(「リアリティ」との付き合い方)の問題となる。

「距離の取り方」と「自己を過大視しない」態度というのは、実は互いに関連し合っている。が、まず「距離の取り方」について述べると、「距離を取る」というのは、要するに、それと直面し、その懐へと踏み出しつつも、(自我が)全面的に巻き込まれてしまうことを防ぐ趣旨である。例え多くの部分が(ある意味当然のごとく)「未知のリアリティ」に巻き込まれてしまっていても、どこかに、「冷静」に観察する部分を残しておくことができれば、一応十分と言えるのではないかと思う。(私の場合は、かろうじてその程度だった。)

ユングは、自己の統制を失わないで、「相手」に自由に語らせる、などと言っているが、そもそも「リアリティ」に対するユング的理解、つまり「リアリティ」をあまり実体化せず、「普遍的無意識」の「投影」として捉えること自体が、既に十分「距離の取り方」になっていたのだとも言える。

ところで、具体的な存在である「魔的存在」や「自然霊」の場合で言うと、「恐怖の感情に支配されない」ということが、「距離を取る」うえでの重要な基礎と言える。実際、「恐怖」の感情こそがそれらの存在を活性化させ、それがまた恐怖を生むというように、相乗効果的な循環をなすのである。逆に、「恐怖」の感情から反応しない時には、それらの存在は恐るべき「無力」を露呈しもする。

実際には、「恐怖」をコントロールするのは容易ではない状況下にあるから、むしろこの感じ、つまりそれらの存在が「無力」を顕わにする時の感じを掴んで(それも相手を理解することの一場面だが)、そこから少しずつでもフィードバックしていければいいのである。

次に、「自己を過大視しない」というのは、誇大妄想やその裏返しである迫害妄想に振り回されて自己を見失わない、ということである。それは、実際「距離を取る」ことをも不可能にさせてしまう。「共時的現象」や、さらに「魔的存在」や「自然霊」による「誘惑」など、この状態には、誇大妄想を止めなく膨らませていく要素に事欠くことはないのである。

また、ユングも言うように、「リアリティ」と向き合って、それをある程度「吸収」できたということ自体が、自我肥大の大きな落とし穴ともなってしまう。ユングでは「セルフ」だが、「自我」を超えたものへの視点を維持することは、「距離を取る」うえでも、やはり重要と言える。

あるいは、この状態で「恐怖」の感情や、「絶望」的な気分に支配されがちなのは、もちろん「未知なるもの」との接触という事態そのものから、あるいは元々潜在的に潜んでいたものの浮上ということから避けがたい面もあるが、結局それは「自己をあまりに深刻視」することの反映と言えるのである。その深刻視を「脱する」あるいは「抜ける」というのも、また即座に可能なものではなく、少しずつ経験の過程で学ばれていく(あるいは、単純に「起こる」)ことである。

チョギャム・トゥルンパは、本来真剣なるべき「修行」においても「ユーモア」の重要なることを説いていたが、この状態においてもまた、それは言えると思う。因みに「魔」の弱点をもう一つ披露すると、この「ユーモア」に欠ける(理解できない)という点にある。

また、『チベットの死者の書』は、死後、魔的な「幻影」に襲われた時には、それらを「自らの意識の現われ」であり、本来「空なるもの」、「実体の無いもの」と自覚せよと説いている。しかし、これは単に自らの無意識の投影と言うのではなく、自己も世界も含めたより根源的な「意識」の顕現だと言うのであり、要するに「自己の本性が空」であり、「実体がない」のと同じように、それらも「空」で、「実体が無い」と言うのである。その自己の「空性」についての理解を抜かして、外的な「幻影的存在」のみの「空性」を言っても、それらは相関関係にあるので、あまり意味をなさない。

「自己を過大視しない」ということは、結局、このような「空性」の理解ともつながってくるものである。

しかし、繰り返すが、そのような態度は一朝一夕に身につくものではなく、いわばこの体験における「イニシエーション」的結果なのであり、その全体のプロセスをとおして(わずかに)学ばれるものなのである。

さて、総まとめも最後の項である。

5 「狂気の者」に対する対処法の基本は、「日常的現実とは別のリアリティにありながら、それを理解し得ずに、混乱し、振り回されていること」 への「理解」と「共感」に尽きる。

R.D.レインは、「分裂病者は我々より多くを知っている者として接するべき」だと言う。しかし、公平に言えば、これは「より多くを知り<得べき>者」と言い換えられるべきだろう。いずれにせよ、このような態度で接し得るならば、もちろんそれに越したことはない。

しかし、ここではより現実的に、周りにネガティブな反応を招き易い、典型的な妄想によって混乱している「狂気の者」に対して、一応まともに思考し得る立場にいる周りの者が、どのような対処ができるかという観点を中心にみていきたい。

「日常的現実とは別のリアリティにありながら、それを理解し得ずに、混乱し、振り回されていることへの理解と共感」だが、これには二つの側面がある。一つは、単に「日常的なリアリティ」の側から狂気の者の状態を「誤り」、「病気」と規定するのでは、そこに齟齬が生じるだけで、何の理解の可能性も生まれないということ。もう一つは、たとえどのような「対処法」をとるにしても、上のような理解と共感こそがベースになるべきということである。

そもそも狂気の者は「病識」を持たないなどと言われる。しかしそれは、単純に「狂気」を認め得ないということ以前に、一般の精神医学や常識上の、まさに上のような「病気」という概念と、実際の経験上の感覚との間の埋めがたい齟齬による面が大きい。

つまり、狂気の者も体験以前には、幻覚(幻聴)や妄想については、一般の精神医学と変わらないイメージを持っているのが普通で、要するに「実際にはないもの」を聞いたり、思い込んだりする「誤り」のことだと思っている。しかし、実際の体験上の感覚では、それは「誤り」どころか、日常的現実以上のはっきりとした「現実感」を伴うものなので、そのような理解は取り得ないものになる。むしろ、そのような見方に基づく「病気」なるものとは違った「現実の体験」なのだという思いを強めてしまう結果になる。

しかし、一方では、それを「日常的現実と混同」することで、むしろ他者にとってみれば明かな「誤り」という見かけを強化させてしまうことにもなる。つまり互いの「齟齬」は拡大されるばかりである。

いずれにせよ、両者の間には「リアリティ感覚」の相違に基づく埋めがたい溝があるので、そこを強引に埋めようとすることは、一種の「洗脳合戦」にほかならない。しかし、それは不毛(たとえ「数の論理」や「力の論理」に訴えても、狂気の者も容易には屈しないのが明らかである)なので、狂気の者に対する側でできることと言えば、まずはこような全体の構図を理解することしかない。

まず初めに重要なことは、狂気の者の言葉や態度に表れた「妄想」の見かけの異常さ、不合理さに翻弄されないことである。それを「文字通り」表現されたままに受け取ってはならないということである。

そして、それは(少なくとも「主観的」には)狂気の者の体験している具体的な「リアリティ」を何らかの形で反映するものであること。但し、それは不可解で認めがたいものなので、まともに表現する手立てがないこと。狂気の者も「日常性」からの逸脱を大きく恐れるからこそ、それを「日常性」と混同する形で表現してしまい、結果的に明かに不合理な「妄想」に陥っているのであること。

これらに理解が及べば、少なくとも狂気の者に対する側の、怒りや混乱もいくらか治まるはずである。あるいは、対処のうえでの基本的な心構えとしても重要な、一種の「落ち着き」や「余裕」さえ生まれるかもしれない。さらに、自らもまたこのような状態に陥ったとしたら、同じような反応をするかもしれないという意味での「共感」を持つことができれば、そこに(絶望的に)開かれた距離もぐっと縮まるはずである。

また、これらの「理解」や「共感」が基本にあれば、狂気の者もその「雰囲気」は感じ取るし、必要以上に頑なな態度は取らないはずである。つまり、互いの「齟齬」の拡大からくる破綻は、かなりの程度抑え得るということである。

「対処法」と言っても、 こういった態度が基本になければ効果を期待することは難しい。逆に言えば、このような態度を通していれば、自然「対処の仕方」も見つかって来る(身について来る)可能性がある。

ただ、私としては、できれば、たとえ狂気の者が強く「確信」しているとしても、「日常的現実との混同」そのものは「誤り」であることを、周りの者が諭すことができないかと思う。特に初期の段階では、その見込はかなりあると思うのである。

もちろん、その不合理なことを論理的に訴えかけるだけでは逆効果である。要は、(それだけ切羽詰った反応をしている以上)狂気の者が体験している「リアリティ」に何らかの真実が含まれる-それをこちらとしては理解する術はないにしても-ことは全面的に認めること。そのうえで、それを日常的次元で解釈するのは「誤り」である-それはこちらとしてもはっきり判断できる-と示唆(時に明確に指摘)することである。

決して一方的にではなく、一種「譲歩」的に両面からアプローチして行くということである。譲歩といっても、もちろんうわべだけでは話にならない。また、焦りは禁物で、じっくり辛抱強く取り組まなければならない。

それがある程度成功したとして、そのうえで狂気の者が、体験している「リアリティ」をどのように解釈し、向き合うかは最早その者の問題である。周りにとっては、更なる危険の道に思えようが、「日常的現実との混同」は脱したうえで、さらに「リアリティ」に踏み込んで行くということも当然あり得る。あるいは、結局そうするしかないという場合もある。

ただ、初期の段階で、幻聴などがない(なくなっている)ようなら、自然に
忘れてしまって、日常性に復帰するという場合もあろう。あるいは、読書その他の方法で自らの体験について学んでだけは行くということになるかもしれない。何しろ、周りにとっては、これが最も「望ましい」ことになるのであろう。

いずれにせよ、「対処法」と言っても、危険が回避できそうもない場合には、現状では病院に頼るしかないだろう。ただ、周りにもなし得ることはあるし、そもそも「理解」と「共感」が基本にあれば、「狂気」といっても大騒ぎするほどのことでもないのである。

« 2002年12月 | トップページ | 2005年9月 »

新設ページ

ガジェット時計Part11(光る玉・バージョン) - ガジェットダウンロードするなら、ガジェットギャラリー
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

コメントの投稿について

無料ブログはココログ