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2002年12月

2002年12月15日 (日)

「共時性」と「魔術的因果論」

妄想の発展にとって重要な契機となり得るものなので、ここでユングのいう「共時性」と「魔術的因果論」について簡単に触れておきたい。

「共時性」というのは、「意味のある偶然の一致」とか「非因果的関連の原理」などとも言われる。要するに、本来因果的関連のない事象(特に「内界」と「外界」に関して)が「意味」において結びついて同時に起こることである。その背後には、(物理的なものをも巻き込む形での)ある「元型」の活性化ということがある。(河合隼雄『宗教と科学の接点』には分かり易い説明がある。)

「因果律」を唯一の原理などと考えれば「あり得ない」ことになろうが、ユングはこれを「因果律」と相補的な「原理」と捉えるのである。

ユングが挙げている例では、臨床の場面で神聖甲虫の夢の話をしているときに、似た虫が窓をトントンたたいて、それがきっかけで治療が進んだというものがある。他にも、ある人の茶碗が割れたら、その同じ時刻にその人が死んでいた、などというのはよくある話である。

ところが、これを「非因果的」な「共時性」と捉えないで、「因果的」に、茶碗が割れた<から>その人が死んだのだ、などと解すると、「魔術的因果論」という擬似因果論的な発想になってしまう。これは、まさに呪術や迷信の思考法そのもので、その人の茶碗を割れば、その人が死ぬ、などというトンデモない発想にもつながってしまう。

ユングも言うように、「共時性」というのは、「分裂病」的事態ではよく起こる。「普遍的無意識」を活性化させているからである。特に、「夢幻様状態」においては頻繁に起こると言える。そして、その受け取り方次第では、妄想を止めなく発展させてしまいかねないのである。特に、先の「魔術的因果論」のような受け止め方は、時に最悪のものともなる。

そもそも、分裂病的事態では、起こることに手っ取り早い「説明」や「理由」を求めたがり、既にある「妄想」に沿った方向で理解しようとする。それで、「共時性」といういわば意味的に「宙ぶらりん状態」におかれる解釈は「落ち着き」が悪いのである。そこで、ある意味「分かり易」い、「魔術的因果論」的な発想の方に自然行ってしまい易いのである。

これは、「共時性」について知っていた私でさえ、その傾向があったから、「共時性」について知らない場合はなおさらだと言える。

まずは、ユングぐらいは知っておいてもらわねばと言うのは、こういうところにも理由があるのである。

但し、ユングはこの「共時性」を「意味深い」現象としたがる傾向があったようだが、私は本当に「つまらない」、「取るに足りない」ものも多いと思う。これは『電波系』の村崎氏も言っていたことだ。

だから、これは「普遍的無意識が活性化しているということだな」ぐらいにできる限り冷静に受け止めておくのがいいと思う。そして、後にみるように、「自然霊」によって、一種の悪戯のように「演出」されたものも多いと思うのである。

最早一々覚えていないが、私の場合で印象深かったものの例を少しだけ挙げよう。まずは、「取るに足りない」ものについて。

ある理由で、体外離脱で有名なモンローの言葉についてふと思い出していた。そしたら、テレビの番組に羊をつれたゲストが出てきて、司会が名前を聞くと、「モンローちゃん」で、やけに「受け」まくっていた。(まだ、この時は、「テレビとの対話」は始まっていない時だったと思うから、内容自体が「変わって」しまった訳ではないと思う。)

これに近いことは本当に頻繁にあって、思っていることが「新聞」や「本」、「テレビ」などにすぐに現れて出て来てしまう、しかも何故かその部分には、異様なくらい即座に「目が行く」ということがよくあった。シュレーバーも確かこのような「即座に向く視線」について語っていたと思う。(それも確か虫の「物質化」という、私自身全く笑えない現象についてだった。)

それは「識域下の知覚」で感じていた故の錯覚だとか、気にしているから、大量の情報の中から特に目が行きがちなだけだとかいう「解釈」もあり得ようが、頻繁に重なると、とてもそんなことでは済まなくなる。

これについては、私はあまり気にしなかったが、これを「魔術的因果論」的に、「自分の思考がマスコミや大衆に伝わっている<から>、それらに表現されるのに違いない」などと考えたら、それこそ<つつぬけ>体験的な「妄想」を拡大させてしまうだろう。

もう一つ、これは神話的・象徴的なビジョンがいろいろ出ている時で、その流れで、実は「太陽」と「同一化」したかのような意識が出てきたことがあった。その時、私が緊張を高めると、実際太陽が強く輝き、緊張を解くと光が弱まるということが確かにあった。(実際には、その瞬間ちょうど雲が通り過ぎたということだと思うが、まさに「共時的」な現象ではある。)

この前後にも、いろいろ不可解な「共時的」な現象(自然霊によって「演出」されていたものも多いと思う)をかなり頻繁に体験していて、しかも当時はまだそういう理解はしていなかった。で、さすがにこのような流れでのこの体験には、心底背筋が寒くなって、(先の神話的ビジョンとの関係から)、私自身が太陽の存続に責任があるかのような「妄想」が、(一時的だったが)出てきてしまったのだ。

実際、これなどは「魔術的因果論」的発想に近い。が、これをまさに文字通り、自分が太陽と「一体化」した<から>であって、「太陽を支配し得るのだ」などと考えたら、「誇大妄想」は止めなく発展してしまうことにもなろう。

何しろ、このような状況では大変なのは事実だが、「共時性」的な現象をまさに「共時性」として受け止めつつ、あまり「意味」に捉われないという態度が肝心である。もちろん、その前提として、このような現象の存在自体は、一応なりとも知っていなければならないが…。

また、このような「共時性」の頻発は、それまで一種の防御として機能していた「自我の境界」が外れることによって、外界(特に「エーテル界」)との一種相即的な融合状態が生じるということとも関係すると思われる。

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