2023年1月 5日 (木)

本年の予測、新ブログの予定等

明けましておめでとうございます。本年初めの記事になります。

本年度も、これまでの「世界統一政府樹立」に向けた流れは、加速されると思われます。

地震、台風その他の気象現象、火山の噴火などもそうですが、状況をみても分かるとおり、本年は、紛争・戦争の危機の煽りが爆発的に拡大され、日本においても、憲法改正、緊急事態条項の新設が実現される可能性が高まります。()

そうなったら、支配層にとって、世界統一政府実現に向けての峠は越えることになるでしょう。

マイナカードの事実上の義務化が促進されるなど、AIによるデシタル支配、人間のロボット化の方向も加速されるでしょう。

新たな株またはウイルスによるパンデミックも起こされるかもしれません。

全体としての流れが変わることがあるとしたら、本年が最後のチャンスとも言える状況です。

 

恒例のページビュー数ランキングは、前年とあまり変化はありませんが、『新たな神示『よひとやむみな』』が1位にランクされているのが特筆されます。『日月神示』とはまた違った視点から、現状を鋭く見据えた神示がなされているのが特徴です。

本当に、「世の人が皆止む」ほどのことが起こるかどうかは、何とも言えない状況ですが。

 

昨年予定していた、狂気について端的に分かり易くまとめる形の新ブログは、本年にはとりかかりたいと思っています。

そのようなことをやっている時期ではない気もしますが、この先は、ますますそうなるので、やるのであれば、本年しかないと思われます。「狂気」は、私が主題としてとり上げて来たことであり、体験者として自信をもって提示できることなので、一つの集大成としてなしておきたいと思います。

この先起こる、世界的な「闇」をくぐり抜けるにおいても、大きく参考になることのはずです。

 

※ これを実現するにおいて、安倍氏の暗殺または暗殺の演出、旧統一教会との関係の暴露は、大きなマイナスのように思われるかもしれないが、恐らく、支配層にとって、安倍氏も旧統一教会も「用済み」または、むしろ「邪魔もの」となったので、切り捨てたのだと思われる。安部氏またはその息のかかった者がやるのでは、ベタ過ぎるし、思想的色が強くなり過ぎて、反発も大きくなる。旧統一教会との関係も、いずれは表に出ざるを得ない。

一旦は失速しても、こういったことを、取り除いておきながら、客観的な状況から止む無くやるのだというイメージで、一気に突き進ませようとしていると思われるのである。

 

2022年12月 9日 (金)

ウイルスは「感染しない」ということ

ミナミAアシュタールのアシュタールは、ウイルスは「感染」するのではなく、ウイルスに、波動的に「共振」することによって、人体内に呼び込まれるのだと言う。従って、マスクや消毒などの(物理的)予防策は、まったく無意味としている。(ミナミAアシュタール著『アシュタール 宇宙の真実』)

一見常識はずれの説のようだが、実は、これは、前に記事『支配層にとってのワクチンの意味』で述べたように、シュタイナーの細菌やウイルスに対する見方と、ほとんど同じである。

シュタイナーは、「同情」によって、「ウイルスをもたらす土壌が、自分の中に作り出される」ということを言っているのだった。この「同情」は、感情的な面に重きをおいた言葉で、もっと広くは、「同調」あるいは「共振」というのがふさわしいのである。

要は、どちらも、ウイルスは、物理的なプロセスをたどって人体に「感染」するのではなく、波動的な共振によって、内部に(瞬間的に)「移動」する、あるいは、「物質化」するということである。

このように、ウイルスが、単純な物質ではなく、知能や意思を備えた存在であることは、バシャールなども指摘していたし、A・ジョルジェ・C・Rは、さらに、ウイルスが、物理的なプロセスを超えて出現することも、述べていた。

記事『支配層にとってのワクチンの意味』で、その部分を引用していたが、それをもう一度再掲しておこう。

「ウイルスは共振の法則により集まります。生き方、考え方、意識、感情、生活習慣などが関係します。彼らは人が良いエネルギーで振動しているか、良くないエネルギーで振動しているかが分かります。意識があり、とても賢いのです。彼らは、人が考えるように飛ぶ必要はありません。アストラル界、もしくはエーテル界から出現します。風も空気も必要ありません。

薬や添加物といった化学物質、甘いもの、動物性脂肪などは彼らの大好物です。波動が低いからです。そういったものはオーラや血液を汚し、胎内で毒素を作ります。彼らは毒素のエネルギーを食べます。毒素が多ければ多いほど、彼らにとっては天国です。エネルギーを多べるので、人体の良いエネルギーまで食べてしまいます。すると人は空っぽになり、もっともっと食べたくなります。彼らはそのようにしてエネルギーを吸収して、人の意識をコントロールします。」

ウイルスというのは、発見されたのもつい最近であり、「遺伝情報を備えたミクロの物質または生命」であることは分かっているが、いまだ分からない部分も多い、謎の存在である。

実際、その「未知性」こそが、多くの恐怖をもたらす要素となっている。

そして、それは、やはり、上にみたように、ウイルスが、単純な物質ではないことを物語っているものと言うべきである。

但し、私は、ウイルスが、「単純な物質ではない」としても、「物質的な性質や移動プロセスを取らない」ということではない、ということは考えられると思う。つまり、ウイルスが、「物理的に」「感染する」ことは、あるのかもしれないと思う。

私は、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の記事『「相対性理論」との関係』で、光や素粒子、また電磁波は、「物質的なものと霊的なものの境界上に存在するもの」と述べていた。多分、ウイルスは、生命体という観点からみたときに、同じような意味で、「物質的なものと霊的なものの境界上に存在するもの」なのだと思う。

生命体として、各種精霊や、イエティなどの未確認生物も、いわば、「物質的なものと霊的なものの境界上に存在するもの」である。しかし、これらは、霊的な領域の方に重点があり、いわば、物質的な領域との「行き来」が比較的自由にできる存在である。

ところが、ウイルスは、ミクロの存在であることもあって、「本質的に」「物質的なものと霊的なものの境界上に存在」しているのだと思う。

いずれにしても、ウイルスは、「物理的に感染する」こともできるし、「共振により(瞬間的に)移動または物質化」することもできる、という両義的な在り方をしているのではないかと思われるのだ。

だから、その場合には、必ずしも、「感染しない」、あるいは「感染ルートがない」というわけではないことになる。予防策としてのマスクや消毒も、完全に無意味という訳ではないことになるかもしれない。

しかし、この当たりも、微妙な要素がある。

「物理的に感染する」と言っても、それは、人間の内部の側、特に免疫の状態に左右されるし、心理的な要素も多分に影響する。「同情」や「不安」「恐怖」など、ウイルスに対する「同調」や「共振」をもたらす心理状態は、当然免疫状態を弱めるから、物理的感染においても、感染しやすい状況となる。

一方、ウイルスに対する「同調」や「共振」は、現にウイルスにかかっている人物を前にすることで、起こりやすいだろうから、結局は、濃厚接触など、物理的感染の起こる状況と似た状況で起こりやすいことになる。だから、これらは、互いに絡み合って起こるもので、容易には、区別し難いことにもなろう。

とは言え、改めて注意すべきは、「物理的な感染」のみではなく、「同情」や「不安」「恐怖」など、ウイルスに対する「同調」や「共振」に注意を向けなければならないということである。そして、結局、総体としてみれば、後者の、「ウイルスに対する「同調」や「共振」」こそが、ウイルスを呼び込むうえでは、重要な要素になるはずだということである。

 

2022年11月 9日 (水)

「死の体験」は、この世界の特権!?

前回、「イニシエーション」における「死と再生」の過程においては、「死の体験」こそが、重要な鍵となることを述べた。「再生」ということも、「死の体験」があってこそ、起こり得るのである。

実を言うと、このような「死の体験」は、物質次元に強く制限された、(地球上の)この世界でこそできる、「特権」と言えるのではないかと思う。霊的世界や他の次元の世界では、「死」そのものがないわけではないにしても、「イニシエーション的な死」の体験、あるいは「死の深み」の体験は、なかなかできないと思われるのだ。

私自身、記事『「自ら望んで地球に生まれる」ということ』で述べたように、「死の体験」を(深いレベルで)することを目的に、この世界に生まれて来たという思いがある。

物質次元を超えた領域で生きていた、金星人のオムネクも、記事『「次元降下」して地球に生きる「金星人」』でみたように、、金星では、あらゆる望みがすぐに適い、満たされてはいるが、変化に乏しく、退屈であるため、あえて、地球のような制限の多い世界に転生する者もいることを述べていた。

実際、物質次元を超えた領域では、現実に、「死を体験」する機会などは、めったにないはずである。あるいは、死を意識することすら、めったにないのかもしれない。オムネク自身は、「カルマの精算」と「地球人の教化」を理由に上げていたが、地球に物質化して生まれたのには、「死の体験」を望んだということもあったのだと思う。

「死」には、「深み」があり、それぞれのレベルに応じた「死の体験」があるし、結果として、さまさまなレベルに応じた「再生」もあるのだった。

その「再生」、あるいは「水平的方向」からみれば、それまでの自己に死んで、新たに生まれるわけだから、それは、結局、「進化」につながるわけである。

地球などより高次元の領域は、満たされた領域である分、そこに満足して、このような「進化」を起こすということは、難しいことにもなる。そこで、あえて、このような「進化」を目指して、地球に生まれるということも起こるのだろう。

シュタイナーも、地球に生まれる意義は、「霊的進化」にあるとしていた。

しかし、「死」そのものの「深み」の体験、あるいは「垂直的方向」という点からみても、このような体験をできるのは、「死」ということが身近にあり、「闇」に満ちていて、「深淵」がいわば、常に「開いて」いる、この世界の特権と言えるのだと思う。

他の領域では、このような「深淵」を覗く機会もほとんどなく,その「深淵」には、「闇」または「虚無」か控えている、ということを認識することも、ほとんどないと思われる。

宇宙人系統のチャネリングでも、「進化」は語っていても、このような根源的な「闇」や「虚無」について語られることは、ほとんどない。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「無のことは分からない」と率直に述べている。

ただ、アシュタールは、原初の存在である「絶対無限の存在」が、「私とは何か」を意識したことから、その探求のため、全ての「創造」が始まったとしている。「私とは何か」を意識するということは、漠然とでも、周りに蠢く「私ならぬもの」(他者)を意識することを意味する。だから、「私とは何か」を探るとは、その周りの「私ならぬもの」=「絶対無限の存在をも超えた、究極の「無」とでも言うべきもの」を何ほどか意識し、知ろうとすることをも、含むことになる。

記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』でもみたように、原初の存在を取り巻く「大いなる未知」、すなわち「虚無」の探索こそ、全ての創造の始まりであり、目的だとすれば、その探索に向けては、地球のような、「死の深みの体験」のできる世界は、貴重であるということも言えるのである。

 

2022年10月28日 (金)

「イニシエーションなき社会」と統合失調症-「死」の意義

記事『一過性の現象としての「統合失調」』で述べたように、「統合失調症」なる「病気」は、近代になって初めて現れた(作られた)もので、それ以前の伝統社会には、存在していかなったものである。特に、先住民文化においては、一時的な錯乱状態としてしか知られていなかった。

その要因を、記事では、伝統文化においては、そのような状態に陥った者を、集団全体で対処し、解消する、「集団的癒し」のシステムが生きていたからだ、とした。たとえ、現代で言えば、「統合失調状況」に陥る者があっても、「集団的癒し」のシステムの中で、その状態が解消されるので、それは大きな混乱に発展せず、長期化することもなかったわけである。

逆に言えば、この「集団的癒し」のシステムを失った(捨てた)ために、近代においては、それは大きな混乱をもたらすものとなり、対処の仕様もなく、長期化するものになった。それで、「病気」というレッテルを貼るともとに、精神医療という別のシステムを作り上げて、それを囲い込む必要が生じたのである。

ただし、注意すべきは、この「集団的癒し」のシステムは、事後的に、「統合失調状況」に陥った者になされることで、作用するものである。

近代以前、特に先住民文化において、このような状況が、一時的な錯乱状態で終わっていたのには、もう一つ大きな理由があるそれは、そのような伝統文化においては、誰もが受ける、成人儀礼を代表とする、「イニシエーション」の儀式があったからである

「イニシエーション」とは、「死と再生」の過程とも言われ、何ほどかのレベルで、「死」を体験させ、それをくぐり抜けることで、それまでの自分に死に、新たに、「生まれ変わら」せるというものである。これらの儀式には、そういった過程が、必ず組み込まれているのである。(1)

そして、その「死と再生」の過程、特に「死」との直面は、記事『成人儀礼としての分裂病』でもみたように、「統合失調状況」に陥ることと、本質的には共通するものである。それで、「イニシエーション」の体験を経た者は、その経験を通して、「統合失調状況」をも、くぐり抜けやすくなるわけである。

このような、かつての「イニシエーション」を伴う儀礼は、やはり、近代になって失われた。儀礼は、残っているとしても、形式的なものとして、形骸化したのである。それで、近代人は、予め、「統合失調状況」を、疑似的にでも、体験する機会がなくなった。それで、実際にその状況に陥ると、なすすべもなく混乱し、その過程をくぐり抜けることは、難しいものになってしまったのである。

河合隼雄は、近代のこのような状況を、「イニシエーションなき社会」と言っていた。統合失調症に限らず、この「イニシエーションなき社会」が、現代の、多くの精神的な病の発生に大いに影響しているし、「大人」になり切れない、若者の様々な問題を生んでいる。そして、特に、死を急ぐというか、死を希求するかのような、自暴自棄的な行為に走る、若者の増加を生んでいることを、指摘していた。

フロイト風に言えば、「タナトス」(死の欲動)につき動かされる若者であり、これは、前に述べたように、私自身、まさしくそうだったので、身につまされる。

繰り返すが、かつての「イニシエーション」は、ともあれ、何ほどかのレベルで、「死」を体験させるものだったということが、重要な点である。「死と再生」というのも、「死」の体験がはっきりとあってこそ、「再生」ということも、起こり得るのである。

この「死」の体験を、近代人は、失ったので、「死」は、観念的に、想像するしかないものになったのである。

それで、「死」とは、単に、人生の最後のときに訪れる、「肉体の死」を意味するものでしかなくなった。それは、生きているときには体験できない、「未知のもの」となったので、当然恐怖をもたらすが、同時に、ある種の「魅惑」をもたらすものともなったのである。死の体験をできない若者は、そのような「死の魅惑」に、無意識に、つき動かされることにもなる。

さらに、唯物論的発想が広まると、その「死」とは、単に、自分という存在がなくなること、つまり「無」になることを意味するだけのものになってしまった。「死」というものが、未知のものであると同時に、ある意味で、分かり切った、薄っぺらなものになってしまったのである。

このような状況では、「死」そのものに「深み」があるという理解など、望むべくもない。

「イニシエーション」における「死」を、近代人は、「象徴的な死」などと言うし、河合もそのように表現していた。それは、「肉体の死」が「死」という理解だと、それそのものではないということで、そういう言い方がされることになる。しかし、記事『癒しのダンス』の最後のところで、先住民の者が明確に語っているように、それは、「肉体の死」と同じ、「死」そのものの体験である。

ただ、その「死」には、「深み」があり、それは、必ずしも、「肉体の死」を伴うとは限らない。だから、生きているときにも、体験できるし、むしろ、「肉体の死」というのは、「死」の深みからすれば、浅いレベルの体験ということになるのである。(2)

このように、「死を知る」ことは、現代人にとっては、禅の考案に等しい難問となったことを、記事『公案の2「死」とは何か』でも述べていた。

先にみたように、現代人にとって、「死」は、未知のものとなり、観念的な恐怖をもたらすものとなった。「統合失調状況」も、まさに、そのような「死」そのものが、何ほどかのレベルで、顔を覗かせる体験である。それまで、「死」と直面したことがなく、それを通り越したことがない現代人は、恐怖と混乱に翻弄されて、振り回されざるを得ない。その恐怖と混乱は、自我を崩壊(解体)させるほどのものとなり得るし、同時に、それを防ぐべく、強固な「妄想」にとり憑かれることにもなる。

しかし、逆に、「イニシエーション」を受けることは、必ずしも、「死を超える」ことではなく、「死」というものを、「体験的に知る」ことであることに、注意すべきである。それは、「死」が、即「深みから知られる」ことではなく、「深みがあること」を知ることであり、率直に、「恐るべきもの」と、知ることでもある。「死」は、「未知のもの」であり続けるし、「恐怖」ではあっても、それは、現代人の、「観念的恐怖」とは、明らかに異なっている。体験に基づき、実質を捉えた、「恐怖」というより、「畏怖」なのである。

成人儀礼で、「大人」になることは、「死を知る者」となることでもあることは、記事『成人儀礼としての分裂病』でも述べていた。

このように、「死の深み」を知り、「恐るべきもの」であることを、正面から認めて、それを引き受ける態度は、「統合失調状況」をくぐり抜けるうえでも、重要なのである。少なくとも、そのような態度がある限り、「統合失調状況」は、恐怖と混乱に振り回されるだけのものとはならない。

そういうわけで、伝統文化には、事後的な「集団的癒し」のシステムの他に、予め、疑似的に、「統合失調状況」の体験をできる、「イニシエーション」の儀式があったことも、「統合失調」なる病気のなかったことの、大きな要因である。

とは言え、河合も言うように、現代に、かつての、集団的な「イニシエーション」を復活させることは、もはや無理だし、望ましいことでもない。

だから、このような「イニシエーション」に相当する体験は、個人において、何らかのし方において、獲得されなくてはならない。河合は、夢や、心理療法、さらに最近増えている「臨死体験」などが、こういったものの代わりになり得ることを述べている。

しかし、さらに言うと、現代においては、「統合失調状況」に陥り、それをくぐり抜けることそのものが、かつての「イニシエーション」体験の代わりになるということも、言えるのである。というか、「イニシエーション」儀礼が失われた現代においては、そうするしかないのである。(3)

これまで述べて来たように、「統合失調状況」に陥り、それをくぐり抜けることは、現代においては、容易なことではないが、今後、社会全体の「ものの見方」が変わり、ある程度の支援が受けられるようになれば、十分可能性のあることである。

1 「死と再生」の過程をもつ「イニシエーション」の具体的な例については、記事『僕のイニシエーション体験』や『癒しのダンス』で、かなり詳しく述べているので、参照してほしい。また、前回述べた、バンジージャンプの起源となった、バヌアツの島の成人儀礼もその例である。

  垂直的方向の「死」には、「深み」があり、従って、「死と再生」といっても、それぞれのレベルでのものがあることは、記事『「イニシエーション」と「垂直的方向」』で述べているので、参照してほしい。

  精神科医でも、「統合失調」の本質を「イニシエーション」と捉える者はいて、その代表がR.D.レインであり、日本では加藤清である(記事『「疎外」からの「逸脱」/『経験の政治学』』、『加藤清の「狂気論」「治療論」』参照)。また、民俗学者赤坂憲雄が、「統合失調」を「イニシエーション」の観点から、的確にまとめていることを、記事『「物語としての精神分裂病」他』で述べた。

2022年10月14日 (金)

「深淵に飛び込む」ことと「深淵としての霊界の境域」

記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で、カスタネダが、今後進むべき道の決定的な選択をするために、ドンファンから、崖から「深淵に飛び込む」という苛酷な課題を与えられたことを述べた。

カスタネダは、この課題を実行し、その深淵に迫る過程で、「意識の暗い海」または「無限」と遭遇して、それに包まれることで、死を回避し、自宅のベッドまで移動(テレポート)していたのだった。それは、「集合点の移動」という観点からは、集合点を移動することで、「黒の世界」といわれる、死ということのない、全く別の世界を構築した結果なのだった。

通常、崖から深淵に向かって飛び込めば、死を免れないから、このようなことは狂気の沙汰とも思われようが、実は、これと類似の儀礼や修行は結構ある。

たとえは、バンジージャンプというのは、バヌアツのペンテコスト島で行われる成年儀礼を起源とするもので、この儀礼は、成年を迎える人を蔓に巻き付けて、高い木組みの櫓から地面目がけて飛び込ませるものである。私も映像を見たことがあるが、バンジージャンプとは違って、実際に地面に体がつくほどのもので、命の保証などないというべきものである。現在は、蔓で巻き付けて行うが、かつては、もっと危険な方法で行われていた可能性がある。

このように、「深淵」に飛び込むことで、現実に「死」と直面し、「死」を知ること、さらには、その過程で、成人としての決意と選択が促されるわけである。

日本の修験道でも、吉野・大峯の「西の覗」といわれる行場で行われる儀礼または修行があり、断崖絶壁の崖から縄でつるして「深淵」を覗かせることで、自己を見つめさせるというものがある。これも、現在は、命綱で安全が図られているが、かつては、もっと危険な方法であった可能性がある。

現実に、「死」と直面することで、「深淵」にあるものと遭遇することでこそ、その目的が達せられるからである。

カスタネダのなした課題は、それにしても、常軌を逸しているが、これらの儀礼ないし修行の究極の形態と解せば、理解できないことではないだろう。この場合には、単に、「死」または「深淵」に遭遇するだけでなく、何ほどかそれを「超える」ということがなされない限り、命を失うという状況にまで、追い込まれるわけである。

本当に、物理次元で、こんなことがなされたのか分からないが、記事で述べたように、ドンファンが、カスタネダに対し、事前に、「お前は、この課題の後この世界に戻ることの合意がなされた」と言っていたことは、興味深い。これは、カスタネダに対し、命の保証をしたものとも解され、この時点で、カスタネダは、ドンファンにほぼ全面的な信頼を寄せていたから、この言葉は、カスタネダがこの課題を実行する動機づけとして、大きく作用したと解されるのである。

この深淵に飛び込むという課題において、「死ぬのではないか」という疑いがよぎれば、ます間違いなく、死んでしまうことだろう。カスタネダは、「高められた意識状態(変性意識の状態)」にあったこともあって、そのような疑いを取り払うことで、この課題を実行し、成功させることができたと思われる。

ところで、シュタイナーの『秘教講義1』(春秋社)という本では、「霊界の境域」を超えることは、「深淵」と向き合って、それを超えることであり、それを様々な警告を与えつつ、促して行くのが、「境域の守護霊」の役目であるという視点が、述べられている。

私は、前に、シュタイナーは、「水平的方向」の進化ということばかりを述べ、「垂直的方向」の深化ということには、ほとんど関わらないということを言った。しかし、この本を読むと、シュタイナーも、垂直的な方向の「深淵」ということを、強く意識していたのが分かる。ただ、その「深淵」は、あくまで、「超えられる」べきもので、それ自体を深く掘り下げるという視点は、なかったようではある。

シュタイナーも、「深淵を超える」ことで、「霊界の境域を超える」ことができるとしていたのである。それは、ドンファンのいう「集合点の垂直的方向の移動」に相当するものと言える。

前回、地球が5次元に焦点化したので、「波動領域を変える」ことは起こりやすくなったと述べた。しかし、物質的なものを完全に超えるには、やはり、このような意味で、「深淵を超える」ことは、依然として必要と思われるのである。

この「霊界の境域を超える」ときの「深淵」とは、カスタネダが崖から飛び込むことになった、「深淵」とも通じている。つまりは、「死」そのものであり、「無限」であり、「虚無」である。これは、「霊界の境域」をさまよう、狂気の者が予感し、あるいは遭遇する、「虚無」なのでもある。

私は、記事「「霊界の境域」の「図」」において、その境域は、あらゆる領域の根底に潜む、「虚無」の噴出口であるということを述べていた。「深淵」というのは、まさに、その境域に噴出する「虚無」そのものと言っていい。()

カスタネダは、その「深淵」としての「無限」と一体となったり、超えたわけではないが、少なくとも、「無限」に遭遇して、それに包まれ、肉体的な死を免れるという特異な体験をした。それは、「無限」との、一時的な一体体験を経て、戻って来た体験とも言える。

また、それは、私の一連の体験の最後に起こった、「闇に包まれる」体験とも、非常に似たものである(私の場合、物理的に移動することはなかったが、身体が消えるという感覚は、確かにあった)。カスタネダにとっても、それは、決定的な意味をもつ体験となったに違いないのである。

※ この「霊界の境域の図」では、感覚的領域と霊的領域を〇で囲んでいるが、これを立体的な球とみなしてほしい。そして、感覚的領域の淵に立って、霊的な領域との境にある底を覗いている状況を想像してほしい。それが、崖に立って、深淵を覗き込んでいる状況と同じということである。単に、「象徴的」に同じなのではなく、実際に、深淵に飛び込み、「死」と直面することは、感覚的な領域の淵に立って、「虚無」の渦巻く、霊的な領域との境界に飛び込むのと、実質的に同じことを意味するのである。

2022年9月28日 (水)

「集合点の移動」と「波動領域を変える」

今回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということを、前回みた「集合点の移動」と照らし合わせてみると、より理解しやすくなることを、述べたい。

ミナミAアシュタールも、我々の現実は、「思考が作り出したホログラム」であり、本来の波動領域が、思考の共振により、制限されて、(凝固するように)現れ出たものであるとしている。つまり、客観的、固定的な現実があるわけではなく、世界とは、我々が作り出した「知覚世界」なのだという点で、基本的には、前回みた、ドンファンや、ホログラフィックパラダイムの見方と同じである。

具体的に、世界を作り出すのは、ドンファンでは、「意識」とされ、それは、人間のまゆの上にある、「集合点の移動」により、なされるのであった。ミナミAアシュタールの場合は、世界を作り出すのは、「思考」とされ、それは、思考を、どのような領域に「フォーカス(焦点化)」するかによって、なされるとしている。

ドンファンは、積極的な意図を重視するので、「意識」としているが、ミナミAアシュタールでは、より人間の一般的な場合に沿う言い方で、「思考」としていると思われる。つまり、あえて意図的に世界を作り出すのではなくとも、我々の、日常の思考のあり方が、その都度、「世界」を作り出しているということである。そして、この「思考」には、意識的な思考だけでなく、より深いところで働く、無意識的な思考も含んでいる。

ただし、ミナミAアシュタールも、いきなり、個人が勝手に、バラバラの世界を作り出すというのではなく、地球の「共有意識」により、また、世界を固定して、支配を貫徹したい、レプティリアンの思考操作により、我々の「共通の世界」が作り出されるとしている。この点も、ドンファンの言う、「集合点の固定」ということと、同じである。

そして、ミナミAアシュタールのいう、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということを、エネルギー的に、霊的身体の観点からみると、ドンファンのいう、「集合点の移動」になると思われるのである。逆に言えば、ドンファンのいう「集合点の移動」というのも、思考の「フォーカス(焦点化)を変える」ということによって、割と容易に、なされてしまうものということになる。

ただし、これには、注意すべき点がある。

「波動領域を変える」というのも、本来は、「次元」そのものを変えることを意味し、この物質世界からは、消えて見えなくなることである。これが、ドンファンの言う、本来の「集合点の移動」で、前回説明したように、「集合点の垂直方向の移動」となる。

しかし、ミナミAアシュタールは、現在の地球では、地球の共有意識が変化し、5次元的な領域に焦点化したので、この点に、変化が生じたとする。「思考のフォーカス」を変えるだけで、「波動領域が変わ」り、お互いに交わることがなく、物質的身体は伴ったまま、「見えなくなる」と言うのである。(但し、固定的にそうなるのではなく、思考が変われば、違いに、移行は可能である。)

これにより、大枠として、これまでどおりの思考を続ける者と、これまでの思考を変えて、そこから離れる者とで、世界が別れることになるが、これが、いわゆる「二極化」ということである。

これまでの、共有意識の「固定的なタガ」が緩まって、人間各人が、それぞれ別の世界を構築しやすくなっているということでもある。「二極化」というのは、その途中段階の、あり様とも言える。

このような、「思考のフォーカスを変える」というのは、本来は、前回みたドンファンの説明では、「集合点の水平方向の移動」あるいは、それにも当たらないような、「微妙な揺らぎ」ということになると思われる。

しかし、地球の共有意識が変わったために、それは、実質、「集合点の垂直方向の移動」に近いような、効果をもたらすものになったということである。

ドンファンも、「集合点の移動」には、「地球の応援」、すなわち、地球のエネルギー的な援助が、大きく関わることを述べていた。だから、この「地球の応援」が、全体として高まったならば、一般に、「思考のフォーカスを変える」ということで、「集合点の移動」が起こりやすくなったとしても、不思議なことではない。

そして、それは、特別の修行などではなく、日常における「思考のフォーカスを変える」ということで、レプティリアンの思考操作を脱することも、我々の現実を変えるということも、起こりやすくなったということを意味する

ただし、この思考には、先にみたとおり、「無意識的な思考」も含むので、我々に染みついている、無意識にしている思考の習慣に気づき、それを超えて行くことが重要な鍵となる。

2022年9月12日 (月)

「集合点の移動」と「知覚世界」、「幻覚」

カスタネダのドンファンシリーズで、「世界」あるいは「現実」とは何かということの、本質に関わる重要な概念に、「集合点の移動」というのがある。

まず、全体として、どういうことかを端的に示しておくと、次のようになる。

「世界」あるいは「現実」とは、外部に客観的に存在するものではない。それは、人間の内部にある、特定の「集合点」によって生まれた「知覚」により、構成されるものである。「集合点」は、いくらも移動し得るので、その移動により、「世界」あるいは「現実」というのは、いかようにも構成され得ることになる。

このように、客観的な世界が存在するわけではなく、「知覚こそが世界を作る」ということは、私も記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1 』、『2』などで、示して来た。そこでは、「ホログラフィックパラダイム」をとりあげ、霊的なものを含めて、あらゆるものが不可分に結びついた、(振動領域とも呼ばれる)暗在的な秩序から、個別的なものの存在する、みかけの顕在的な秩序を、ホログラフィ的に「開き出す」ものとして説明していた。

「集合点の移動」というのは、その(世界を)「開き出す」というときの、様々なあり様を、より具体的、実践的に、トルティックの「見る者」たちが、説明したものと受け取ることができる

この点について、カスタネダの『意識への回帰』(二見書房)には、まとまった説明があるので、それをあげておく。(120頁)

「客観的世界など存在せず、見る者たちがイーグルの放射物と呼んでいるエネルギー場の宇宙が存在するだけだ。人間はイーグルの放射物でできていて、本質的には発光エネルギーの泡なのだ。人間は、放射物のごく一部を閉じ込められているまゆにつつまれている。意識は、私たちのまゆの外にある放射物が内部の放射物におよぼす間断なき圧力によって獲得される。意識が知覚を生むのだが、これはまゆの内部の放射物が対応する外部の放射物と連合したときに起こる。」

「次の真実は知覚が起こるということなんだが、それは、わしらのなかに、連合のための内部と外部の放射物を選択する集合点と呼ばれる仲介物があるからなんだ。わしらが世界として知覚する特別な連合は、わしらの集合点がまゆの上に存在する位置、その特別な点の産物なんだよ。」

「イーグル」というのは、全ての存在(意識)の源で、言うならば、「神」または「創造主」あるいは「宇宙意識」のようなものである。宇宙には、本来、そのイーグルの放射物(見る者には、「輝く繊維」として見える)である「エネルギー場」があるだけで、人間も、「まゆ」と呼ばれる殻(一種の霊的身体)によって、その放射物の一部を、内部に閉じ込めている。

その人間のまゆによって境界づけられた、外部と内部のイーグルの放射物が、人間のまゆの上にある、特定の「集合点」によって、「連合」することによって、知覚が生ずる。その知覚によって構成された世界を、我々は「世界」とか「現実」と呼んでいるということである。「世界」とは、特定の位置で「連合」する、「集合点」の産物であり、「集合点が移動」することによって、全く異なる「知覚世界」が構成されるのである。

このような、内部と外部を、エネルギー的に結びつける「集合点」と似たものとして、東洋医学のいう「経絡」や、ヨーガのいう「チャクラ」がある。ただし、「経絡」や「チャクラ」は、必ずしも、「知覚」ということと結びつけられていないし、存在する場所としても、違うもののようである。

「集合点」は、このように、本来「移動」し得るものだが、実際には、多くの場合、特定の位置に「固定」されている。それで、我々は、特定の、客観的な世界や現実があるもののように知覚し、解釈しているのである。

その「集合点の固定」をもたらすのは、(イーグルの「命令」という要素もあるのだが)世界を安定的なものとしてあらしめたいという、我々の恐怖や願望であり、それを支える、集合的な文化や社会慣行である。それはまた、それらを通して、自らの支配を貫徹しようとする、「捕食者」の働きかけでもある。

現在の、我々の「集合点」は、「物質世界」と言われる「世界」に固定されており、それは、「近代社会」という文化により、強固に支えられている。

ドンファンは、「呪術とは、要するに、<集合点の移動>なのだ」と言うが、そのような固定化された世界を打ち破り、通常は知られることのない、様々な世界を創出しつつ、探究し、極めるのが、呪術ということである。さらに、最終的には、それらの個々の世界の探究(つまり呪術)を超えて、内部のイーグルの放射物を全体として輝かせることで、全体意識を獲得し、「無限」と一体化するのが目的とされる。

この「集合点の移動」だが、これには、まゆの中での「水平方向」(横方向)の移動と「垂直方向」の移動がある。「垂直方向」の移動こそが、本来の移動で、それにより、全く別の世界が構築されるのだが、多くの場合、「水平方向」(横方向)の移動か起こってしまうと言う。それは、特定の位置に固定された、集合点からの「ずれ」でしかなく、その特定の集合点が生んだ知覚世界に参照される限りでの、知覚にしか過ぎない。

ドンファンは、一方で、集合点を固定させることで生じる知覚は、すべて「幻覚」ということを言う。それは、本来、イーグルの放射物という「エネルギー場」であるものを、特定の「世界」として構築したものだから、確かにそうなるであろう。この点は、世界を、一つの「ホログラフィ」の現れとみることとも同様である。

ただ、一般に言う意味では、この「集合点」の「水平方向の移動」こそが、「幻覚」なのだと言っている。

それは、「この世界に入り込んだ、別の世界」 には違いないのだが、全く別の世界の構築ではなく、我々が固定的に知覚している、日常的な「物質世界」に参照されて構成されたもので、いわば「がらくた」の寄せ集めに過ぎないからである。

私が述べて来たところで言うと、それは、「世界」が崩壊し、全く変容してしまうのではなく、日常世界は継続しているのだが、そこに異質な何物かが入り込んで、「変容」してしまったかのような状態と言える。しかも、その「異質な何物か」は、多くの場合、日常世界に引き寄せられて知覚され、解釈される。つまり、「日常的な物質世界に参照された限りでの、「がらくた」の寄せ集め」のようなものとなるのである。それが、「幻聴」などの「幻覚」や、日常世界に引き寄せられた、「組織に狙われる」などの「妄想」の基なのである。

ドンファンも、次のように言っている。

「集合点を水平方向に移動させているものは、理解できないものを見慣れたものによって説明しようとする、ほとんど避けることのできない欲求や必要性なのだ」

この「集合点の移動」についての、「水平方向」と「垂直的方向」というのは、私がいう、座標軸としての「水平方向」と「垂直方向」というのとも、多く重なるようである。

統合失調状況は、感覚的世界と霊的世界の境界である、「霊界の境域」に入り込むことで起こると言った。それは、ドンファンで言えば、通常の位置での「集合点の固定」が揺らいで、「移動」するが、「知覚の障害物を超え」()て、「垂直的」な移動をし、全く別の世界を構築するには至らない、中間的な状態である。それは、「集合点の移動」という観点からも、私が言うように、「水平的方向と垂直的方向に引き裂かれて、宙ぶらりんになっている状況」といえる。

「水平的方向」での移動が多ければ、通常の日常的世界の要素が多く継続するが、「垂直的方向」の移動に近づけば、通常の日常的世界の要素は多く崩壊するわけである。

トンファンでは、完全に「垂直的移動」が起こらない限り、「水平的移動」としているが、そこには、垂直的方向に近づく要素と、水平的方向にずれる要素の両方がある、ということも言えるのである。

このように、「集合点の移動」という観点から、「知覚」や「幻覚」について、捉え直してみると、より具体的に、また、外的なものに左右されず、より内的、主体的に、理解することができるだろう。

次回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということが、この「集合点の移動」ということに照らすと、より理解しやすくなることを述べたい。

  この「知覚の障害物を超える(破る)」という概念も興味深いもので、ドンファンは、それを超えて、集合点の「垂直的移動」が起こると、通常は、「黒の世界」と呼ばれる世界が構築されるという。この「黒の世界」について、あまり詳しい説明はないが、それは、私の言う「実体として闇」と共通するようにも思われる。

また、最近の記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で述べた、カスタネダが崖から深遠に向かって飛び込んだが、「意識の暗い海」に包まれて、生きて帰って来たというのも、「集合点の移動」という観点からは、物質世界を超えて、死ということのない、「黒の世界」を構築した結果ということになるようである。                                                               

この辺りは、かなり入り込んでいるので、いずれ、機会があれば、述べることにしたい。

2022年8月31日 (水)

さくやさんの「茶番-生きている説」について

ミナミAアシュタールの動画 で、安倍元首相の事件について、とりあげられた。

宇宙人のさくやさんが、「エネルギーを読んで」捉えたことということだが、真相は直接は語れないので、他の星での出来事として、間接的に、概要だけが語られている。しかも、さくやさんはほとんど語ることなく、あつし氏が語ることに頷くだけという形になっている。

だから、詳しいことは分からないのだが、一言で言えば、安倍氏は死んでおらず、「茶番-生きている説」ということになるのは、はっきりしている。

これは、安倍氏の事件の当初、ツイッター等ではもちあがった説だが、ここに来てほとんど顧みられない説であり、一般には、衝撃以外の何ものでもなかろう。

ただ、私は、「茶番-生きている説」自体は、記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも、あり得ることとしていたし、それは、今も変わっていない。

しかし、この動画の説明から受ける印象では、私の考えていた、「茶番」ということとは、かなり相違があり、やはり驚きは大きい。

私としては、さくやさんの本やブログ、動画などを通しての説明は、これまで、多くの点で、納得のいくものであり、私の見方との共通点も多いことを感じている。だから、さくやさんのこの事件に関する説も、とても捨ておく気にはなれず、基本的には、受け入れられるという前提に立つ。

そもそも、この事件については、不可解な謎が多く、映像や奈良医大の福島教授の話などと整合する説が、いろいろ考察されてはいるが、単独犯説、スナイパー等による別人の暗殺説など、いずれも決定的ではない。

だから、「茶番-生きている説」も、決して成り立たないと決めつけられるものではない。

ただ、私としては、さくやさんの説は、かえって謎を深めてしまう感がある。

そこで、今回は、私の考えを特に述べることはしないが、さくやさんの説の概要を紹介し、その疑問点を整理しておくことにしたい。私の考えは、いずれもう少しまとまった時点で、述べることにする。

さくやさんの説の概要

安倍氏の暗殺事件は、自民党と安倍氏が組んで仕掛けた、茶番の演出である。安倍氏は、実際は撃たれておらず、今も生きている。しかし、当初は、死ぬことは想定されておらず、奇跡の復活を遂げる予定だった(A案)。ところが、マスコミの報道とは別に、事件の動画や写真などが出回り、「茶番」も疑われる状況となったので、死んだことにすることになった(B案)。

このような演出を仕掛けた理由は、参院選について、与党及び改憲勢力の劣勢が見込まれていたので、その起死回生の挽回を図る。さらに、安倍氏が、逮捕の可能性もある、モリカケ問題等の問題を抱えていたので、その解消を図る、ということである。

安倍氏のいる場所を言うことはできない。ただ、安倍氏の出自や旧統一教会、満州国の建設の話との絡みで言うと、北朝鮮と思われる。

山上容疑者のことは、一切語られない。ただ、暗殺の理由とされた、旧統一教会のことには触れられ、初め、報道では、「ある団体」として伏せられたが、選挙後、外国のメディアが名を出したことから、表に出たとする。現在、マスコミで叩かれているのは、自分らを排除しようとした自民党の勢力を貶めて、発言力を高めたい、公明党グループの目論みも関係している。

疑問点

記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも述べたが、このような壮大な茶番を演出するのは、大変で、リスクの大きなことであり、よほどの理由とメリットがなければ、できないことである。

しかし、さくやさんの話から窺える限りでは、仕掛けたのは、自民党という国内レベルの政治組織であり、理由も、安倍氏の責任逃れという、個人的な色彩が強い。参院選での、改憲勢力の勝利は、上からの指令である可能性があり、そこには、その指令に従う必要もあったかもしれないが、大枠、国レベルの仕掛けとして、このような壮大な茶番が仕掛けられたということなら、それはとても信じ難い。

9・11も一種の茶番だが、これは、米国が主導と言えども、さらに上の組織(恐らく宇宙人の技術も絡む)が、世界レベルの効果を狙って起こしたものであり、同列には論じられない。

(ただし、記事『「世界統一政府」と国の首長』で述べたように、世界統一政府の樹立を急ぐ、(宇宙人を含む)支配層の危急の策としてなら、私はあり得ることと思うし、恐らくさくやさんの説も、後にみるように、実際には、そういうことを含むという可能性はある。)

演出とすると、奈良県警はもちろん、奈良医大、報道関係その他、多くの関係組織を丸め込み、予め知らせたうえ、実行されなくてはならない。

奈良県警は、まさしく、(演出にしても暗殺にしても)寄与したとしか考えられない状況だが、安倍氏の手術を担当した奈良医大の福島教授の話は、予め用意されたウソとは解しにくい。山上容疑者の銃撃とは一致しない、心臓にまで達した頸部の銃創などの話をしているからである。もっとも、当初の怪我だけの予定から、死んだことにするという混乱を受けて、話も錯綜したものになったという可能性はある(後に司法解剖で、一応の辻褄合わせが図られた)。

安倍氏の責任逃れの点についても、これだけの演出と、多くの組織の丸み込めをするなら、検察も抑え込められなかったのかという気がする。

茶番であるならば、山上容疑者もグルということになるが、それでは、わざわざ自民党にとって不利になる旧統一教会のことが、理由としてあげられるのも、(初めは名は伏されたにしても)解せないことである。

安倍氏にとっても、奥さんとも別れて、(何らかの指令と影響力の行使はその後もあるのかもしれないが)実質権力を失う「雲隠れ」を実行するというのは、よほどの理由と決断がないとできないことのはずである。

そのほかにも、いくつかあるが、とりあえず、大きな疑問点は以上である。

もし本当に、さくやさんの言うとおりのことが行われたのなら、日本は、もはや完全に、救いようもなく、「終わっている」としか言いようがない。こんなことをする国の言うことなど、1ミリたりとも聞く気は起こらない。

ただ、ミナミAアシュタールのコンセプトは、「ピラミッド社会の真実を知って、そっと離れる」ということにあるので、多少、その「真実」を強調して、一面的に話す傾向はあるようである。

それに、繰り返すが、今回のさくやさんの話は、ほんの概要だけで、詳しい背景などには一切触れられていない。今後、そのような話も出されてくるかもしれず、そうすれば、実際には、もっと違った印象になる可能性があるし、多くの疑問も解消する可能性はある。

今回は、とりあえず、ここまでとする。

2022年8月18日 (木)

日本人のコロナ恐怖は「世間」絡み

安倍元首相の暗殺事件は、やはり、山上容疑者の個人的な思いつきによる単独犯とは、とても解せない状況である。だが、政府や警察からは、重要な情報が出されず、メディアは、旧統一教会の問題にすり替えていて、この問題を追う気がない。結局、真相は、このまま闇に葬られるのが明らかである。

ただ、ユーチューブ等では、この問題の真実に迫るべく、独自に追及している人が何人かいるし、ミナミAアシュタールは、近いうちにこの問題について言及するそうなので、いずれ、それらを踏まえつつ、私もいくらか、改めて考えを述べることにしたい。

今回は、日本人のコロナ恐怖とは、「世間」絡みの恐怖であり、だからこそ厄介で、捕食者の戦略にもハマり易いものであることを述べたい。

コロナは、感染者数は相当に増えたが、当初より確実に弱毒化され、重症化する割合は非常に少なくなっている。新型コロナウイルス感染症対策分科会の有志ですら、インフル並の対策への変更を提言している状況である。また、厚労省ですら、この夏、熱中症対策を踏まえて、外ではマスクを外すことを提言している。

しかし、ほとんどの日本人は、この暑い夏の日ですら、外でもマスクを外そうとしない。それは、コロナそのものを恐れる故かと言うと、決してそんなことはない。もはや、十分明らかになっているように、コロナ自体の「実質」が問題なのではない。問題は、コロナ自体なのではなく、あくまで、「世間」との絡みでの、「コロナ」なのである。

 それは、「世間」が「コロナ」というよりも、「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いをかけられた者をどう扱うか、ということであり、世間にとってのコロナ」ということである。

この長い間に、メディアを主として作られた、コロナについてのイメージは、その実質がどうあろうと、そう簡単に変わるものではない。それは、実際の症状よりも、世界を騒がす、強力な伝染力の方に、恐れをもたらす重点がある。症状として、はっきり現れていなくとも、あるはむしろ、そうであればこそ、感染者として、人に移す/移される可能性があることが問題である。

「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いのかけられた者は、「世間」から嫌がられ、排除され、のけ者にされることが、多くの者にとって、手を取るように分かるのである。

それは、かつてであれば、「穢れ」をもたらすもの、あるいは「エンガチョ」をつけたものとして、差別された者である。

今の日本人にとっても、その習性は、決してなくなってはいない。日本人にとって、「世間」というのは、唯一の宗教的権威と言っていいほどの、力をもつものであることは、何度も述べたとおりである。本当に怖いのは、その「世間」から排除されることなのである。

マスクというのも、実質、コロナの感染(移す/移されること)を防ぐかどうかというのは、大した問題ではない。ただ、一般に、そう思われている、あるいは、「そういう意味づけを与えられている」ことが重要である。マスクは、目に見える形で、自分がコロナ感染に対して、ちゃんと対策をとっている者だということを、世間に向けてアピールのできる、「印」なのである。

ほかにも、ワクチンや手洗いなどのコロナ対策とされるものはあるが、それらは、必ずしも、人に対して見えるものではない。しかし、マスクは、人に対して、目に見える形ではっきりと示すことができる。マスクをすることは、「世間」に対して、「私は、世間の真っ当な一員として、コロナ排除の意思を共有する」ということを、アピールする、重要な示唆なのである。逆に言えば、マスクを外すなどということは、世間を尊重しない、とんでもない行いである。

マスクをつけていることが、コロナ感染者でないことを意味するわけではないし、コロナ感染者にならないことを意味するのでもない。しかし、マスクをつけていることで、たとえコロナ感染者になってしまった場合にも、世間に対して申し訳が立つし、世間の側も、やることはしたうえでの仕方のないこととして、許すことができる。いわば、マスクは、「免罪符」のようなものでもある。

そして、そのように、世間に対してアピールのできる場とは、外を出歩くときこそである。この場合の「世間」とは、具体的には、近所の人や知り合いなどだが、そういう人たちに、あいつはマスクをしない、世間の掟を守らないやつだと思われたら、大変である。

だから、むしろ、「外を出歩くときこそ、マスクは外せない」のである。

「外を歩くときぐらい、マスクを外そう」ではないのである。

多少、大げさに聞こえるかもしれないが、これが現実であり、日本は、今も相変わらず、「世間」に逆らうことの難しい国であることを、改めて実感せざるを得ない。

今後もコロナが、実質恐いものでないことがますます明らかになっても、一定の感染力があって、多くの人の注目に上るものである限り、この事態は変わることはないだろう。変わるとすれば、コロナの感染力が、大きく落ちて、しかもかなりの長い間、そのまま何もなくなり、話題にも上らなくなったというような状況だろう。これは、政府もメディアもそうする気がないから、当分は望めない状況である。

もし、今の状況で、マスクを外すというなら、「世間」みんなが全体で号令を掛けて、一斉に行うぐらいでないと、無理だろう。「コロマスク みんなで外せば、こわくない」というわけである。

そもそも初めの頃は、コロナは、諸外国に比べて、日本人にはあまり作用できずに、大した感染状況も、症状も与えられないと思われていた。それは、確かにそのように見えたが、ここに来て、オミクロン株になったとき、むしろ日本人にこそ、大きな影響を与えるものとなった。実際、諸外国では、インフルや風邪と同じ扱いで、特別の扱いの必要でなくなったところが多い。しかし、日本では、そうはいかない。それは、「世間」が絡むからである。

コロナと似たような症状を発して、疑いをもたれる状態は、耐えがたいから、多くの人は、まじめに検査を受ける。症状がない人も、気になる人は、検査を受ける人も多い。それで陰性の判定を受ければ、一安心だが、陽性であれば、ちゃんと人から離れて、治療なり、療養をする。世間に対して、やるべきことをやり、申し訳が立つことが重要なのである。

そうやって、多くの人が検査を受けるから、ますます感染者数は増え、医療はひっ迫し、感染力の見かけが減ることはない。

そもそも、コロナそのものは、大したものではなくとも、その恐怖を必要以上に煽ることで、パンデミックを起こし、混乱と自由の剥奪をもたらすことが、捕食者の狙いだった。このやり方は、初め日本には、あまり適合しなかった。しかし、今や、この狙いは、日本にこそ、大きくハマるものとなった。

記事『日本人は皆「捕食者」を知っている!?』や『「世間」との「折り合い」』で述べたように、日本では、「世間」の背後にこそ、「捕食者」が潜んでいて、世間を通して、我々に働きかけるからである。コロナも、それ自体ということではなく、この「世間」を通してこそ、特有の恐怖と混乱を与えることができるのである。

日本人にとって強力な、「世間という神」こそが、改めて問題にされなければならないということである。(なお、日本人にとって、「世間」とは何かを問うものとして、記事『「人と人の間」と「霊界の境域」』、及び『「世間教」の二本柱』も参照のこと)

 

2022年8月 2日 (火)

「ボタン一つで朝になる」の言葉再考

記事『ボタン一つで…』では、一連の体験時に、身近に接した、「アニマ」と名づけた存在の印象に残る言葉をとりあけた。それは、「そのうちボタン一つで朝になるのよ」という、シュールなものだった。

それは、私が、現在の文明は、「何でもボタン一つでできる便利さを追求した結果、荒廃した」みたいなことを考えていた折りに、発せられたものである。私は、当時、これらの存在の発する言葉を、文字どおり真に受ける(即物的に解す)傾向があったから、これは、近いうちに、「人工太陽のようなものができ」て、文字通り、「ボタン一つで朝になる」ということを言っているのだと思った。

しかし、記事では、それを、振り返って、それは、「何でもボタン一つで」という我々の浅はかな考えを皮肉って、できるわけのない、「シュール」なことを述べた、諧謔のようなものだったのだろう、と述べていた。

このように、これらの存在が、皮肉めいた言葉を好み、よく発するのは確かである。しかし、そのような解釈には、どこか、しっくり来ないところがあったのも事実である。

そんな折り、最近、『よひとやむみな』の中に、次のような言葉をみつけて、ハッとした。

ボタンひとつで世界は動くぞ。

人間同士でつながって、込み入ってしまった霊線を、人から神へと付け替えるぞ。

身魂を磨けば、自ら付け替えることが出来るのぞ

ここでも、「ボタン一つで」という言葉がとられている。それは、「一瞬にして」という意味の比喩で、やはり、我々が、何でもボタン一つで解決しようとすることに対する、皮肉の意味合いが込められているようではある。しかし、そこでは、むしろ、全体として、明らかに、そのような意味合いを超えたことが、示されている。人間のいう「ボタン」などという機械的なものではなくて、それを超えた、一瞬の「神」の仕掛けで、宇宙そのものが動く(ひっくり返る)という、「魔法」のようなことを意味しているのである。

つまり、「大峠」という、「暗闇」の時代が、神の経綸により、一瞬にして「明ける」ということの一例が示されているのである。

私は、アニマの発した言葉を思い出し、それにも、やはりこのような意味合いが込められていたのではないかと、思わざるを得なかった。アニマは、捕食者的な精霊とは違って、天使的な面も持ち合わせている。そして、この言葉は、単なる「皮肉」にふさわしくなく、淡々としてはいたが、優しく包み込むように、言われていたのである。

私は、当時、「夜」そのものと言うべき、「暗闇」の状態から、永遠に抜け出せる望みもない状態をさまよっていた。実際、それは、「宇宙の死」といった、「世界の終わり」に向けて、確実につき進む過程にあった。

しかし、私に関する限り、その過程は、最終的には、実体として押し寄せた「闇」に包まれることによって、一瞬にして、吹き飛ばされ、「明けた」のである。積極的に、「光」に覆われたというような意味合いは薄いが、少なくとも、それまで当たり前のように続いた「夜」は、嘘であったかのように、一瞬にして、「明ける」ことになった。つまり、「朝」になったのである。

アニマの言葉の、「ボタン一つで」というのが、一つの比喩なら、「朝になる」というのも、「物理的に朝になる」ことではなく、やはり、一つの比喩と解した方が、適当かもしれない。つまり、「そのうちボタン一つで朝になる」とは、(今は、明けることのない夜だとしても)そのうち、「一瞬にして夜が明け、朝になる」ということを、予告していたものと解される。そして、それは、私に関する限り、そのまま実現した。

しかし、この言葉は、私だけに向けられた、個人的なものとは、とても思えないのである。私が、現在の人間の文明のことを、考えていたときに、発せられた言葉であるのも、そのことを物語っている。

つまり、『よひとやむみな』と同様、現在の地球の人間全体について、言われているものとも思われるのである。

地球全体、特に日本が、本格的な「夜」に向かうのは、前回述べたように、これからのことである。だから、その「夜」が明けて、「朝になる」とは、まだまだこれからのことで、今はまだ、現実味の薄いものかもしれない。

しかし、それが本格化したときには、改めて、この言葉が、思い起こされるだろうし、それが、本当のことを述べていたことに、気づかされることになる日が来るのかもしれない。

«「世界統一政府」と国の首長

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