2026年1月 3日 (土)

熊事件、山火事などの災害と超高度管理社会のモデル作り

明けましておめでとうございます。今年も昨年以上に何が起こっても不思議でない年になりそうです。

前回、頻発する熊事件に関して支配層が演出している面を述べ、それらがとりあえずは、自衛隊の存在意義や緊急事態条項の導入の必要などを意識させることを意図していることを述べました。そして、さらにそこには、今後のデジタル化の貫徹による超高度管理社会のモダル作りの意図があることを、プレアデス存在メイの動画を紹介しつつ次回述べることにしていました。

このようなプレアデスを初めとする高次存在のメッセージの受け止め方については、改めて検討する必要を感じるのですが、それについて次回にまわし、今回は、このことについて簡単に述べておきたいと思います。

これについて、明解に語っているプレアデス存在メイの動画はこちらになります。

https://www.youtube.com/watch?v=ojlLXJCKXPA

頻発する熊事件だけでなく、最近の群馬県妙義山の山火事なども絡めて、これらの事件が、その被災地を買収した後に、超高度管理社会(都市)のモダルを作る意図のもとに起こされている可能性について述べています。分かりやすく明解な説明であるので、特に解説は必要ないと思います。

実際、このような意図を推察しめる構想は、能登半島地震の後にも、「スマートシティ構想」という聞こえのいい名前で、多くの自治体によって発表されました。「スマートシティ構想」については、たとえばこのサイトに簡単な説明があります。

要は、更地に近い状況の土地を作出しつつ、その土地に、デジタル化の貫徹されたインフラを敷いて、一見住民にとって便利に思えるが、実質は個々人を一元的に監視、管理する超管理社会都市のモデルを作ろうというものです。政府はさらに、「ムーンショット計画」という名のもとに、デジタル化とともに、人間と機械をつなぐことで実現する高度の管理社会の構想をホームページに掲げています(https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html)が、いわばそのための基礎的な実験計画のようなものと言えるでしょう。

ホームページの記載では具体的にどのようなものかは分かりにくいですが、それはミナミAアシュタールも言うように、書いた本人自身もよく分かっていない(笑)からでしょう。また、あまり具体的に示すと、「管理、支配」の面が鮮明に浮かび上がってきやすいので、曖昧にしてごまかそうということもあるのでしょう。

いずれにしても、とりあえず、このような構想を計画していることを漠然とでも示しておくことを意図しているわけです。

私もこれまで何度も、支配層の意図は、最終的に、世界統一政府による、デジタル化の貫徹による超高度管理社会の実現にあることを述べていました。先にあげた事件などは、その目標に向かっての具体的な計画が、既に現実に進められていることの如実な現われということです。

現状ではまだ、具体的に現実感をもって実感できないかもしれないですが、携帯、スマホの普及が、あまり現実感が感じられなかった頃もありつつ、ある時点からあっという間に広がったように、これらのことも今後気がついたら、一気に進んでいるという可能性があります。

もちろん、これらの計画には、高度の科学技術の発展が前提となるのですが、そこにはまた、レプティリアンのような捕食者的な宇宙人(の技術)との連携ということが関わって来ざるを得ないことになります。(記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』、『支配層の今後に向けてのワクチンの利用価値』など参照)

このことは、人間以外の高次の存在との関りということを無視できないことの一つの理由となります。

次回は、先に触れたように、改めてプレアデスを初めとする高次存在のメッセージの受け止め方について検討し直してみます。

2025年12月15日 (月)

頻発する熊事件と支配層の意図

前回述べたように、最近の頻発する熊事件の背後には、プレアデスの存在メイやミナミAアシュタールも、その背後に支配層の意図があることを言及している。プレアデスの存在メイが正面から最近の熊被害の問題を扱っている動画は、次のものである。

https://www.youtube.com/watch?v=3sAuhTsx274

一般に、地球温暖化や異常気象のせいで、エサが不足していることが原因とされているが、北海道から大阪まで「申し合わせたかのように」この時期に異常な頻発が起きていることには、明らかに人工的な原因があるとしている。

また、この事件の起こる地理的分布も、熊の居住する山間部と住宅地の境界で、リニアモーターカーの開発地域、大規模な開発計画のある地域、外国資本による土地買収が進んでいる地域に偏っているという。(次回にあげる動画では、太陽光パネルの設置地域であることもあげられている。)

そこには、危険地域として住民を追い出すことによって土地の価格を暴落させ、買収を用意にしようとする意図があるという。

さらに、このような熊対策としてこれまでのように猟友会との協力によるのではなく、(とりあえず秋田県において)自衛隊を派遣することが、あっという間に決まったことを問題視する。

自衛隊を持ち出したことそのものの意味にはほとんど触れられていないが、かつてのイラク戦争のときもそうだったように、支援活動など戦闘そのものではなくとも、自衛隊の存在意義を改めて確認させることの意味があると思う。それは、直接戦争を意識させるものではないが、憲法改正において自衛隊の地位を明確にすることの伏線になり得るし、実際に最近の高市総理の台湾有事に関する発言で、中国の反応を刺激し、戦争を意識させる事態に十分繋がる状況となっている。

ミナミAアシュタールのアシュタールは、この動画で、自衛隊を熊対策に稼働させるに際して、権力者側のある者が「憲法改正をしないと自衛隊が熊を撃つことができない」という発言をして、つい本音を吐露してしまったことを述べている。

まさに、熊の異常な頻発と人間を襲う攻撃性は、「緊急事態」の一つであり、自衛隊の存在意義を改めて認識させるものであり、その活動を保証するためには、「憲法改正」をも必要とするというイメージを植え込もうとするものということである。

さらに、熊が狂暴化し、人間を襲うという恐怖のもととなっている、多くの報道については、プレアデスのメイも画一的で人工的な操作を感じると言っている。アシュタールは、そこには「本当かどうかわからない」という意味で、「やらせ」が相当紛れ込んでいると言う。

実際、熊が多く出現すれば、そのような事例が相対的に増える可能性はあるし、前回もみたように、人間の側の反応も好ましくないものであった可能性があるが、それにしても報道にみられるのは、不自然なほどの狂暴性の強調である。報道によって、イメージが作られている面は多分にあると言わざるを得ない。

このように、熊に対する恐怖と異常性の演出は、殊更作られたものである可能性があり、その背後には、緊急事態条項の導入や憲法の改正への意図がみえているということである。

さらに、プレアデスのメイは、先の動画で、熊を山から住宅地の方へ移動させているのには、実際に「技術」が使われているとしている。それは、異常気象や人工地震に関して前にもとりあげたHAARP(高周波活性オーロラ調査プログラム)という電磁波照射システムである

熊などの動物は、電磁波に敏感であり、地球の磁場を関知して行動をとるので、その磁場をHAARPによって混乱させれば、熊を誘導することは可能としている。また、動物のフェロモンを利用した誘導の可能性もあるという。

確かに、電磁波の照射は単純に熊がいやがるという意味で、山から移動させる意味もあるだろうし、熊のエサが不足しているという事態自体も、このHAARPによって作られている可能性がある。

そして、先の動画では、自衛隊の活動強化や憲法改正、地域の統制などの目的があげられれていたが、さらに別の動画では、そのような地域に、今後のデジタル化の貫徹による超管理社会のモデルを作るという、より本質的なことを意図していることが述べられている

この点については、また近いうちにとりあげようと思う。

いずれにしても、熊についてはこれまで住み分けができていたこともあって、あまり知らないでも問題なく過ごせていたわけだが、今後は、たとえば関係者が、アイヌの長老から熊との付き合い方についてみっちりと講義を受けるなどの対策が必要だと思う。

アイヌでは、熊を狩り食料ともするが、それだけに熊の習性をよく知っているし、熊を「カムイ」として非常に大事に扱う。熊の魂は丁重に祭ってあの世に返すし、またこの世に帰って来てもらうべく、捕らえた熊の子を大事に育て、イオマンテという有名な儀式をして、丁重にあの世に返す儀式もする。

ところが、それでも人間を襲う熊は、この世に帰って来ないように地獄に行ってもらうことになるし、食料やその他の道具としても使用することはない。(瀬川拓郎監修『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社新書)参照)

そこには、アイヌの都合というかしたたかな知恵をも感じる面があるが、人間を襲う熊というのは、あくまで人間が丁重に扱ってもそうする熊を意味するのであって、人間の側に理由があったり、人間の無知から起こる行動なども含めるものではない。

実際、熊との付き合い方に関しては、アイヌから多く参考になることが得られるはずである。

2025年11月22日 (土)

野性の熊と出会ったこと

メディアでは、最近連日のように熊との遭遇や、熊に人間が襲われた事件が報道されている。人間の居住域の街中まで侵入して来て人々を騒がせる事例も多い。熊が冬眠に入る前で餌を多く必要としていること、最近の熊は人間を怖がらなくなっているのは分かるが、それにしてもここに来て急に、全国規模で明らかに異常な数の熊の出没である。報道による限り、明らかな熊の攻撃性の高まりと狂暴化が感じられるのも異常としか言いようがない。

実は私もそんな中、割と最近(10月の半ば頃と思ったが)生まれて初めて野生の熊と出会うことになった。それも一日に2度である。

記事『『遠野物語』の衝撃』で、遠野の近くの高原が好きでたまに行くことを述べていたが、その高原に行く途中の道路で1回、その帰りの道路で1回それぞれ別の熊に出会っているのである。

高原には牛の多くいるだだっ広い牧場があるのだが、かなりの山道であるし、既に熊との遭遇事件はかなり報道されていた頃で、熊と出会ってもおかしくないという予感はあったし、行くのは控えようかとも思った。しかし、そこは冬になれば行けなくなるところだし、今後ますます事件が増えて、行くのを控えなければならなくなると思ったので、当分は行けなくなる前にやはり行くことにした。

そうしたら、案の定、高原に向かう行きの山道の途中で、前方230メートル先にかなり大きな熊が道にいるのを発見した。車なので怖い思いはほとんどなかったし、「ああ本当に会ってしまった」という一種の感動が先だった。私は車を停めてしばらく見ていようと思ったが、熊はこっちを見ると、割とすぐスコスコと道から離れてやぶの中に入っていってしまった。

実は、記事でも述べたように、この高原に行くときは、いろいろな動物と出会うだけでなく、牧場の牛ともちょっと信じがたいようないろいろな交流が毎回ある。前回は、たぬきと鹿と出会っていて、今回の熊の振る舞いはちょうど前回のたぬきと同じですぐさまスコスコとやぶに隠れて行ったものだった。

そして、今度は帰り(行きとは違う道だが)、また前方今度は10メートルくらいの割と近くに一匹の子熊を発見した。道路の脇の方にいて、私の車と並行して走るかのような体勢も見せていたが、私は車を停めて観察していた。このときは、子熊だけにかえって何をするか分からない恐れも少し感じたが、熊は道路わきをしばらく走って行って、その後やぶの中に消えて行った。軽く走っている感じだったが、思った以上のスピードには驚かされた。

そしてこのとき、実は自分が熊に向かって「襲って来るなよ」と、口ではなく内心の声でだが言っていたのをはっきり自覚した。私は、前に記事にも書いたと思うが、動物などに内心の声で話しかけていたことを後で「思い出す」ことは実は割とよくあって、その前にも立派な角の生えた雄鹿と道路で出会ったときも、やはり「襲って来るなよ」と話しかけていた。雌鹿や子鹿はまず出会えばあわてて逃げて隠れるが、さすがに雄鹿は簡単には隠れようとしないので、やはり本気で向かって来られたら厄介だという思いがある。

ただ「襲って来るなよ」というのは、決して強い攻撃的な「口調」ではなくて、諭すような感じの柔らかい言い方で、実は相手に伝わっていたのかどうかも分からない。(こういうとき、相手に伝わったと思うときは割としっかりした感覚がある)。ただ、自分がそのような声を発していることで、それになりに怖れを感じてたんだなというのは、改めて分かることになった。

動物に限らないが、こういうときは、恐れから行動してしまうことが一番まずい恐れの感情は何らかの形で相手に伝わるし、相手をも巻き込んでしまうだけのエネルギーがある。相手の攻撃性をことさら誘発してしまうということである。

記事『分裂病的「攻撃性」の「誘発」とは』でも述べたように、恐れからする受動的構えは、分裂病的状況においても、「声」の主体だったり、関わる人間に対して攻撃性を誘発してしまう。ミナミAアシュタールは、このことを「エネルギーを引く」と表現して、やはり攻撃性を誘発するまずいあり方であることを述べている。これが分裂病的事態であると何であるとを問わず、事態をさらにとどめなく悪化してしまうことになるのだ。

このことは、熊などの野生動物と出会ったときにも全く同じことと言える。

完全に恐怖を感じないようにすることは難しいが、恐怖のこのような効果を普段から意識していれば、恐怖の感情は自分である程度観察しつつ制御でき、すぐさま恐怖の感情から行動をしないようにすることはできるようになる

私のように「襲って来るなよ」と話しかけることが、よい効果をもたらすのかどうかわからないが、自分なりに恐怖を和らげる効果を生み出しているのは確かだろう。

いずれにしても、こちらが恐怖の感情から行動しないようにしていれば、野性の熊といえどもそうはやたらに人間を襲って来ることはないはずだというのが、このとき熊と出会ったときの自分の改めて感じたことでもあった。

(ただ私はこのとき車の中にいたからできたことで、もし車の中にいないで肌身のまま、しかも身近に急に熊と出会ったなら、また違った反応をしていたかもしれないというのはある。)

ところが、最近の熊の異常な頻出や人間への攻撃性の高まりは、やはり「異常」なところがあるようで、どうもそう簡単に、そのようなことで済ますことはできそうもないのは確かなことのようなのである。

最近とりあげているプレアデスの存在やミナミAアシュタールもその背後に支配層の意図があることを言及している。次回はそれについて述べよう。

 

2025年10月17日 (金)

高市早苗総裁の今後の成り行きとプレアデス人メイによる警鐘

私は、政治には詳しくないしあまり興味もないので、普段政治のことを述べることは少ない。しかし、今後の、高市早苗総裁が総理となった場合の成り行きは、世界的にみても重要な事柄と思うし、最近とりあげているプレアデスの存在も、これについて鋭い警鐘を鳴らしているので、このことについて述べておきたい。

高市早苗総裁が総理となった場合の危険な行く末について警鐘を鳴らしているのは、プレアデス人メイのこの動画である。

https://www.youtube.com/watch?v=8rcHj7RSh1o

メイの動画については、いくつかあるプレアデス人の動画の中でも、鋭い分析があって納得するものが多く、私も一番興味を持っているので、最近よくとりあげている。

また、この動画(最初の方)では、メイ自身、自分の自己紹介を兼ねて、他の精神的なことを専門とするプレアデス人と違い、自分は、地球人の集合意識の動向を観察する「社会意識学」を担当するものであることを述べている。

https://www.youtube.com/watch?v=40xr8SlOdDE

「集合意識」の問題は、私もとても興味があることで、次回にも述べようと思うが、それで、他の動画(どれであったかは今ちょっと探せない)では、自分はスピリチュアル系の宇宙人としては珍しく、政治についてもよく語ることになるのだと言っている。政治は「集合意識」が直に反映されるものだし、また「集合意識の操作」こそが政治の本質とも言えるから、まさしくそうなるであろう。

高市氏が総理になれば、日本初の女性総理であり、裏金問題その他で嫌気の差した日本の政治を変えてくれる「救世主的存在」となることを、期待する向きもかなりあるようである。

私もたまにとりあげるもう一人のプレアデス人ルナも、この動画では、(一方で、麻生氏から自民党の存続のためにかつぎ出されていることなどの指摘もあるが)高市氏は、地球が古いシステムを乗り越えて、新しく生まれ変わることの象徴的な存在となり得ることを述べており、メイの動画とは大分ニュアンスを異にしている。

https://www.youtube.com/watch?v=HJBlvd4-YIc

メイもけっして、高市氏自身が支配的意図を持って権力を取ろうとしているというのではなく、日本のことを考えて動いている面も確かにあるが、結局は、支配層に都合のいいようにかつぎ出されたに過ぎず、利用されることになる可能性が高いとしているのである。

それは、一言で言うと、その人気と求心力を利用して、日本を支配するのに都合のよい「独裁的な」システムを築くことへの貢献である。具体的には、「緊急事態条項」の導入と「憲法改正」であり、安倍氏以降なかなか手がつけられなかったこの面への期待が一気に膨らんでいるのである。

「緊急事態条項」の導入と「憲法改正」については、私もその危険について、記事『「知ってはいけない」ことの危急版』などでかなり詳しく述べている。

また、メイは、それが結局は世界統一政府の実現と、今後のデジタル化の貫徹による、高度な監視社会の実現に大きな役割を果たすことも述べている。私も、この点については、何度も述べていることである。

以上要点のみを述べたが、詳しくは、メイの動画が、非常に具体的かつ明解に述べられているので、動画を見てもらえれば、容易に理解できるはずである。私も、基本的に同じような視点に立っている。ただ、私は、高市氏以外に総理になることができるような人が他にいるとも思えない。

それで、我々としては、高市氏が総理になったとしても、むやみに期待したり躍らされたりせずに、しっかりとやることに注目すること。特に「緊急事態条項」の導入と「憲法改正」にもっていく流れには、明白に逆らうということが必要になるだろう。

2025年9月27日 (土)

シュタイナーが様々な側面から浮かび上がらせるように語る訳

記事『シュタイナーの「悪魔論」について』では、シュタイナーが端的、明解に語ることは少なく、様々な側面から多様に述べて、全体像を浮かび上がらせるように語ることが多いことも指摘していた。それで、シュタイナーの本を読んだとしても、単純明解に言いたいことが分からなかったり、特に講演集などでは、互いに矛盾することを述べていると感じられることも多いのである。

『アカシャ年代記より』では、このことの理由も述べられているので、それを引用しておこう。

「われわれは高次の世界に関する諸真実をどれ程さまざまの側面から考察しようとも、決してしすぎることはない。元来われわれはどんな側面からでもまったく乏しいスケッチしか描けないということをよくわきまえていなければならない。

同じ事柄をできるだけさまざまの側面から見ていくとき、そこから受けとる印象は、ますます生命に満ちた表象像になっていく。そしてただそのような表象像だけが、高次の世界へ参入しようとする人に役立つのであって、無味乾燥で図式的な概念では役に立たない。表象が生き生きしていればいる程、色彩豊かであればある程、ますます高次の現実に近づくことが期待できる。」

つまり、高次の世界に関する表象は、単純に一面的になされるべきではなく、様々な側面から多様に浮かび上がらせることによって、生命に満ちたものとなり、役に立つものになる。単純、明解に示されるような「無味乾燥で図式的な概念」では役に立たない、と言うのである。

それはまさしくその通りであろうし、私自身も、このブログにおいては、一面的に受けとられることを嫌い、単純、明解に語るというよりは、さまざまな観点から浮き上がらせるように述べることが多いことも指摘していた。

しかし、シュタイナーのように一定の評価を受け、よく知られた人物ならともかく、知られてもいない人物が、そのように曖昧とも受け取られる述べ方をしても、誰もその内容を理解しないし、理解しようともしないだろう。

そこで、私は、一方では、図なども用いながら、単純、明解に本質と思われることを示しておくことも重視している。それは、それのみでは「無味乾燥で図式的な概念」に堕すおそれがあるが、様々な観点から述べられたことと相まって、より理解を助けるものにはなってくれるはずである。

また、私も、ブログ『統合失調とは本質的にどういう状況か 』の方では、一面的にとられたり、誤解されるおそれはあっても、あえて分かりやすく端的、明解に語ることを重視した。そのようなことは、やはり必要なことと改めて感じている。

もちろん、シュタイナーも、無暗に様々な観点から多様に述べることだけをしているのではなく、ときには明確に語ることもするし、その必要も感じながらそうしているはずである。

『アカシャ年代記より』においても、当時から、そのような内容は非科学的で荒唐無稽な妄想を述べたものに過ぎない、という批判を多く受けていた。特に、当時は「科学」が信奉された時代なので、科学の方面からの批判が多かったわけだが、シュタイナーもそれについては、明解な答えを述べている。

それは、結局は、「物質的なものと霊的なものの関係」ということに帰するのだが、次のように述べているのである。

「すべての物質の物理的性質は、霊的なものを通してこそ、解明されうる。」

「君たちの現実は現実の一部分にすぎない。現実の他の部分には霊的な事実が存在する。そしてこの霊的な事実によってこそ、感覚的事実の経過は説明されうるものになる。

記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』で、図示していたように、「物質的なもの」と別の領域として「霊的なもの」があるのではなく、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包み込む関係にあるのである。従って、物質的なものの「表面」ではなく「本質」は、「霊的なもの」によってこそ真に解明されるものになる、ということである。

2025年9月15日 (月)

『アカシャ年代記より』とシュタイナーが「土星紀以前」には触れない訳

シュタイナーの「宇宙進化論」については、記事『シュタイナーの「悪魔論」について』でも述べたように、私自身かなりの疑問があるので、あまり信じていないし、このブログでもほとんど述べることはなかった。しかし、この度『アカシャ年代記より』(国書刊行会)を読んでみると、大分イメージも変わった。

簡潔で抽象的と思える表現ながら、『神秘学概論』を補う部分も大分あり、「土星紀」とか「太陽紀」「月紀」「地球紀」ということの意味もより明確になった。地球紀のアトランティスやレムリアの記述もそれなりに分かりやすい。

何しろ、それらが多くの真実を含んでいるとして、全体としては、現在の地球に人間ができるまでにはなんと多くの存在が関り、宇宙的な状態の変化のプロセスを経て来たことか、という感慨を感じた。

いずれにしても、シュタイナーの「宇宙進化論」は、あくまで「霊的な観点」から、特に人間の構成要素の「進化」という点に焦点を当てて述べたもので、個々の具体的な出来事や物語的要素はほとんどないから、決してシンプルに分かりやすいものではない。多くのチャネリングものの語る、宇宙人との関係での、分かりやすく、ある種物語的な「宇宙や地球の進化」と関連づけて理解することもなかなかできにくい。

いずれ、そういうことも機会があれば述べてみたいが、今回は、『アカシャ年代記より』に、これまでにも何度か述べて来た、シュタイナーの方法論自体について、かなり明確に語っているところがあったので、それについて述べておきたい。

まずは、シュタイナーが『アカシャ年代記より』でもそうだが、宇宙の進化、人間の進化を「土星紀」の記述より初めて、「土星紀以前」については問わないことの理由

「土星紀」というのは、人間は深い眠りにあり、現在の地球で言えば「鉱物」のような状態にある。もちろん、人間より進化した存在は多くいて、それらが人間に様々な影響を与えて進化していくのだが、それ以前には、人間はどのような状態にあったのか、あるいはどのように創造されたのか。人間に影響を与える存在はどのように創造され、進化して来たのか。そういうことは一切述べられないのである。

端的に言うと、「宇宙はどのように創造されたのか」、「そもそもなぜ創造ということが起こったのか」ということには、一切触れられないのである。私がシュタイナーの宇宙進化論に疑問を感じるというか、今一つしっくり来ないのも、その部分が欠けていることも大きな理由の一つといえる。

少し長いが、それについてシュタイナーが述べているところを引用する。

「進化のこの三状態に先行する一切は暗闇の中に閉ざされており、神秘学的探求の光をその中へ投げかけることは、今のところまだできないのである。なぜなら神秘学的探求は思弁や単なる概念操作によるのではなく、実際の霊的経験によるものなのだから。われわれの肉眼が果てしない地平線上の特定範囲しか見ることができず、地平線を超えた彼方までは視界を拡げることができないように、「霊眼」もまた特定の時間的制限内にしかその視野を拡げることができないのである。神秘学は経験に基づき、そしてその経験内に甘んじる。

「宇宙の本当の始まりには何があったのか」、「なぜ神はそもそも宇宙を創造したのか」、そのような事柄を探求しようとすると、単なる概念による穿鑿にすぎなくなってしまう。神秘学徒に必要なのは、むしろ認識の特定の段階に達したら、このような問いをもはや立てないことなのである。なぜなら霊的経験の内部で、この地球上での使命の達成に必要なことは、すべて人間に開示されるからである。忍耐強く神秘学徒たちの経験領域の中に没頭する者は、人間が自分に必要な問いのすべてを、霊的経験の範囲内で、満足させることができる、ということを知るであろう。……

――けれどもまた「宇宙の起源」についての上述の問いや、その他同種の問いが決して人間に解明できない問いである、と主張するつもりもまったくない。人間はそうすることができる。しかし人間がそうしうるには、より身近な霊的経験内で開示される認識内容を、先ず手に入れなければならない。そうすればこれまでとは異なる仕方でこれらの問いが立てられるということを、人は認めるようになるであろう。」

つまり、神秘学的探求つまり「霊的認識」による探求は、実際に霊眼により体験されことに依拠するので、「闇に閉ざされた」「土星紀以前」には踏み込むことはできない。無理にそうしようとすれば、単なる概念操作の穿鑿にすぎなくなって、かえって有害となると言うのである。

このようなことは、私がこれまで述べて来た「水平的方向」と「垂直的方向」ということに関わって来る。シュタイナーが専ら「水平的方向」の進化ということに関わり、「垂直的方向」の視点はほとんどないことを指摘しつつ、ところどころ垂直的方向への鋭い視点も感じられることを指摘して来た。

ここでも、「土星紀以前」は「闇に閉ざされている」と言い、霊的なものの光で照らすことのできないものと言っているが、それは、やはり創造の原点に関わる、根源的なものとしての「虚無」または「闇」を意識すればこそであろう。

「垂直的方向」に関すること、特に根源的な「虚無」や「闇」は、「霊眼」においてもそうだろうし、言葉や知性において捉えられるようなものではないのは確かと言える。ミナミAアシュタールのアシュタールも、「<>そのものについては分からない」と言っているように、人間を超えた存在にとっても、それは分からないことのようである。

しかし、シュタイナーが一方で、それらの問いは、「人間に解明できない問い」ではなく、「そうすることができる」と言っているように、人間は、少なくとも、それらの問いの解明への「展望」を持つことはできると思うし、現在においては、むしろ「それも必要」なのではないかと思う。

「進化」というのも、ある根源的な目的あるいは設定のようなものがあって初めて明確に言えることだし、シュタイナーのいう「進化」というのも、「土星紀以前」に触れられないことで、今一つ明確にならない面がつきまとうと思う。

「虚無」そのものを「体験」することはできないだろうが、私の場合もそうだったように、それにぎりぎり近づく、実体的な面としての「闇」は、体験できるものと言うべきである。そういったことから、「垂直的方向」への完全な「理解」は難しくても、ある程度の「展望」を持つことはできるはずだし、現在においては、必要になって来ていると思うのである。「統合失調」に関しても、その展望は、大きな意味を持つことは、何度も述べて来た。

もちろん、それは、一つの「展望」であって、「解明された事柄」ではないことは意識しつつ、より深めていくことを怠ってはならないだろう。

そういうわけで、私は、シュタイナーの「水平的方向」に関する記述も大いに重視するが、「垂直的方向」への視点も必要なものと解しているのである。

 

2025年8月28日 (木)

「物理的な破壊」から「意識の分離」へ

これまで、たつき諒氏の予言と絡めて、最近の地球の異常ともいえる変化とその意味、受け止め方について、プレアデスのメッセージなどもあげながら、いくらか述べてきた。

今回は、その一つの集大成ともいえる重要なブレアデスのメッセージがあるので、まずはそれを掲げ、その意味ついて述べることにしたい。

プレアデスのメッセージ    

端的に言うと、9月23日の秋分の日を境に、地球はこれまでのあり方を継続し、管理支配のさらに徹底された社会が続いていく領域と、そこから脱し、愛と調和に満ちた新しい文化を築いていく領域に二極化し、分化していくということである。

これまでにも、そのような二極化は既に始まっていたが、それらはまだ併存しつつ重なり合っていた。しかし、今回の二極化はそれらが切り離されて、決定的なものとなり、互いに認識できないものとしてはっきりと分化していく。パラレルワールド的に、またはタイムライン的に、別の世界を構成することになるということである。

ミナミAアシュタールも、地球はこれまでの支配的なピラミッド社会を徹底して継続していく三角の社会と、個々人が自由にありながら調和していく、横並びの丸い社会に二極化し分化していく、と言っていたが、それと同様のことが述べられていると言っていい。

ただ、その中で、このプレアデスのメッセージにおいてポイントとなることは、これまでにも、地球には、このような大変化の周期(26000)があり、そのごとに地球は「物理的な破壊」を伴いつつ、新たな再生ということが起きて来た。典型的なのは、アトランティスやレムリアの崩壊である。しかし、今回の大変化は、それまでのものと決定的に異なり、「物理的な破壊」ではなく、「意識の分離」が起こるということである。それは、宇宙全体の進化が進んで来たので可能となったこととする。

記事『「終末的予言」と「天変地異」についてのプレアデス人サーシャの言葉』でとりあげたサーシャの言葉に、次のようなものがあった。

「新しい世界が到来するためには、古い世界が破滅的な形で滅びなければならないという考え方には、あくまでも古い観念が反映されています。なぜなら、現実はあなたの考え方次第で変わり得るからです。人類は必ずしも天変地異や戦争を通して教訓を学ぶ必要はありません。世界の現実の創造者である人類は、あらゆる可能性を選択することができます。」

まさに、今回の大変化は、そのように「古い世界が破滅的な形で滅びる」ということではなく、「世界の現実の創造者である人類」が、意識的に「可能性を選択」することで作り出していくことによる変化である。そして、それは、古いあり方を続けていく領域はそれとして残るが、それとは別の世界が並行して築かれることによって、「意識の分離」をもたらす、ということである。

確かに、地球の全体が、物質的な意味で総体として変わっていくためには、これまでの古いあり方が「物理的に破壊」されることなくしては考えられないことである。しかし、このような「意識の分離」ということは、必ずしも、「物理的な破壊」を伴うことなくとも、可能なことではあろう。

さらに言うと、このようなことは、統合失調の本質でもある、「死と再生のイニシエーション」ということとも関わって来る。これまでは、新たな「再生」ということが起こるためには、精神領域のことなので、「物理的な破壊」ではないにしても、同じような意味合いをもつだけのより根源的な「破壊」(「死」)を伴うことが必要だった。だから、シャーマンの「巫病」にしても、統合失調にしても、かなり壮絶な過程が伴った。

しかし、今後は、より穏やかな過程において、このような「イニシエーション」的なことがなされる可能性も見えてくるのである。「統合失調の軽症化」といわれる事態にも、このようなことが関わっている可能性はある。

とは言え、ここで言われる「パラレルワールド」ということには、つきつめて行くと、理解の難しい面がかなりある。私も、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の方で、「パラレルワールド」の問題が重要なものであることを指摘しつつ、今の考えをさらに煮詰めたうえで投稿するとしたまま、いまだなしていない状態である。

感覚的、イメージ的に「パラレルワールド」というものを漠然と捉えることは、ある程度簡単にできるかもしれないが、理論的な面も含めて、しっかりと腑に落ちる捉え方をしようとすると、いろいろと難しいのである。それは、「オカルトの基本を学ぶ」でも指摘しているように、「時間」とは何か、「量子力学の観測問題」や、「意識と現実」の問題などとも絡む根源的な問題である。

今後、こちらのブログでもある程度の展望を示したうえ、「オカルトの基本を学ぶ」の方にも投稿するつもりでいるが、もう少し時間がかかるかもしれない。

いずれにせよ、一つの展望としては、こちらのブログで述べて来た、「ホログラフィクパラダイム」のような「ホログラフィ」としての現実、従って、時間・空間のある種の幻想性、振動領域からの意識による現実の「披き出し」、量子力学の観測問題との絡みで言うと、「意識説」と「多世界解釈」との統合のようなことの延長上に捉えられることなのではある。

「パラレルワールド」的な見方や「タイムライン」という見方は、最近のアニメなどの影響もあるのだろうか、割と一般にも浸透してきているようだが、皆さんも、この機会に、さらに踏み込んで、それらをもう少し掘り下げて、根源的に捉えることを試みてみてはいかがだろうか。

 

8月31日 私がとりあげて来たプレアデスのもう一方の存在によるメッセージにも、ほぼ同じ話題について同じ内容を語っているものがあるので、それもあげておきます。いかに重要なメッセージかを示していると思います。

https://www.youtube.com/watch?v=H6-63Rc2ec8

9月30日 本文で示した秋分の日からの地球の二極化について、新たに補足するメッセージが出されているのであげておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Lcd0PXumU0A

2025年8月17日 (日)

「大いなるすべて」と「宇宙人」「天使」等の存在に関するサーシャの言葉

何度も述べてきたことだが、今後ますます、「人間以外の知的生命」の存在が現実の問題として大きく浮上して来るだろう。

それは、人間同様地球上の物質的次元に存在する動物等の生命のことではなく、「目に見えない」次元の存在、あるいは「地球上で生育したのではない宇宙起源」の存在のことである。

しかし、記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』でも指摘していたように、これら両者の存在は、互いに重なるところがあり、明確に区別できるような代物ではない

我々人間が、我々物質的な存在の延長上に「宇宙人」というものを捉えると、宇宙人も「物質的存在」であり、「霊的な存在」とは異なるものとみなしてしまうが、実際には、我々物質的な存在の延長上に宇宙人が存在する保証など少しもなく、むしろ我々物質的な存在の方が宇宙的には「特殊」のあり方である可能性が高いのである。

最近は、「次元」という見方も浸透し、宇宙人は、4次元あるいは5次元的な存在として捉える人も多くなっているから、天使や精霊等の「霊的存在」と必ずしも区別がつけがたいものであることも、大分理解されるようになってきている。4次元、5次元は、3次元、すなわち物質的なあり方をも含むから、「物質的な現われ」をもなし得る存在として認識されるわけである。

とは言え、まだまだ一般には、「宇宙人」と「霊的存在」との違いを当然のように思う人、あるいは、宇宙人は物質的存在の延長に存在し得ても、「霊的存在」は存在し得ないと考える人も多いことだろう。

こういった視点とは少し違う視点からだが、前々回もあげたプレアデス人サーシャの言葉に、「大いなるすべて」と「宇宙人」や「天使」等の存在についての的確な言葉があるので、それもあげておきたい。(リサ・ロイヤル+キース・プリースト著 『宇宙人遭遇への扉』(徳間書店)より)

「私たちの視点からすると、宇宙人、天使、そして「大いなるすべて」(「神」や「存在の源」と考えても結構です)との間には何の違いもありません。多様な存在を分類してレッテルを貼ったり、格づけをしたりするのは私たち宇宙人ではなく、あくまで人間です。同様に、「宇宙人と天使はまったく違う存在だ」と思い込んでいるのも人間です。

人間にとって、「大いなるすべて」のように形而上的な実在を認識することは、宇宙人を認識することよりはるかに難しいことです。宇宙人を認識することは、「神」や「創造」を理解する上での一つの段階なのです。つまり、宇宙人や天使といった存在は、人間が「大いなるすべて」に回帰する旅の過程で遭遇する「旅人」に過ぎないとも言えます

地球外にも意識的な存在がいることを自分に教えるために、人間は「宇宙人」という存在を自分たちの現実に引き寄せたとも言えます。こうした視点からすると、宇宙人、天使、聖霊、神などの存在は、人間にある気づきをもたらすための方便だと言えるのです。人間がいったん地球外にも「意識」が存在している事実を受け入れると、宇宙人や天使などへのこだわりは次第に薄れるでしょう。」

「大いなるすべて」とは、「神」や「存在の源」と考えてもよいとされているように、我々と別にあるものではなく、本来はすべての存在の源であり、当然、我々そのものの源でもある。そのような視点を重視すれば、「宇宙人」や「天使」等の霊的存在、あるいは人間という区別には、大した意味はない。しかし、人間は現在それを見失っているのが現実の状態であるので、そこに帰る旅の過程として、媒介となるような、宇宙人や天使等の存在との出会いがあるということである。

確かに、霊的とか物質云々とか次元がどうのこうのという以前に、この観点からすれば、本質的に、「宇宙人」や「天使」等の違いに拘ることは、意味のないことになるだろう。

 

2025年8月 3日 (日)

たつき諒氏の予言ととりあえずの結果の受け止め方

何回かにわたって、たつき諒氏の20257月大災難の予言についてとりあげたが、本年の7 月も終わり、無事8月を迎えたので、この予言の結果と受け止め方についてとりあえず述べておくことにしたい。

まず一般的な受け止め方として言うならば、たつき諒氏の予言は「外れた」という受け止め方をされてしかるべきであり、そうされて仕方のないことだと思う。

7月5日という具体的な日時をあげ、大枠としても「7月」という枠をあげて、大々的な「宣言」をしていたのだから、今後近いうちによほどこの予言に沿う形の災難でも起こらない限り、「外れた」という事実は、本人の責任において引き受けるしかないはずのものである。日時をはっきり示したことで、良くも悪くも「センセーショナル」な効果を呼んだのだから、それが(たとえ「見かけ上」であっても)外れたときには、その外れた責任を引き受けるリスクは、当然覚悟しておくべきだからである。

この期間には、7月に入る前から、トカラの群発地震があり、730日にはカムチャッカの巨大地震があったが、それをもってこの予言の内容が当たったと受け取ることには無理がある。「ほんとうの大災難」として、少なくとも東日本大震災より大きい災難が予告されていたのであるから。

ただし、これまで述べてきたように、たつき諒氏の予言を「その時点で起こり得る最悪の事態を想定した警告」として受け取った場合に、実質的な観点から、トカラ群発地震やカムチャッカの巨大地震等、この7月に起こったことを、その方向での想定の変化の現われとして受け止めることはできると思う。私自身は、たつき諒氏の予言がどうこうということは別にして、このように受け止めることができると思っている。

この点について、やはりこれまでとりあげてきたプレアデスのメッセージで、とても的確に述べられており、さらにこの予言やトカラ群発地震、カムチャッカ巨大地震など起こったことの「宇宙的な意味」について、かなり説得的な説明をしているメッセージがあるので、あげておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=vlSjJ-YTmH4

たつき諒氏の予言については、予言当時の様々な状況から「このまま行ったら起こり得る可能性の一つ」を捉えていたが、その後の我々自身の集合意識のあり方の変化、太陽活動その他の宇宙的な活動の影響などにより、状況が変わって、トカラの群発地震やカムチャッカの巨大地震としてより穏やかな形で実現することになったとする。

トカラ群発地震については、「トカラの法則」とよばれる現象で、トカラは地球のエネルギーの開放が起こるときに最初にその兆候が起こる場所とされる。それが単純な物理的な理由ではなく、そこからは少し離れたカムチャッカという場所に連動して、カムチャッカ巨大地震を呼び起こすことになったということである。

これまでにも述べられていたように、このような現象は地球自身の変化のために必要な現象で、宇宙的な働きかけもありつつ、人類の集合意識(抑圧された感情エネルギーを含む)との関りで起こることである。それは、我々の受け止め方次第で、非常にポジティブな方向への変化を促すものとされる。

少し長いが、とても分かりやすく説得力のある説明であり、いわゆるアセンションということとどのようにつながるのかの説明もわかりやすくされているので、ぜひ一度、全部をしっかり聞いてみることをお勧めする

2025年7月28日 (月)

『法力とは何か』と権力者や呪術師の呪術合戦

1976年にミグ25事件(ベレンコ中尉亡命事件)というのがあって、私も当時テレビで見て衝撃を受けたのをよく覚えている。冷戦時代のソビエトのパイロットが、当時最先端で秘密のベールに包まれていたミグ25戦闘機を土産に、日本の空港へと亡命してきたのである。

ところが、割と最近、ユング派の分析家である老松克博の『法力とは何か』(法蔵館)という本で、この事件は、「今空海」と呼ばれていた「X阿闍梨」が、国から依頼されて呼び起こしたものであることを知った。

X阿闍梨は、真言密教の修行を極めた大阿闍梨で、その道の人にはその「法力」のことがよく知られていた。当時、他の国の戦闘機の性能を大きく凌ぐ謎に包まれたミグ戦闘機の脅威は日本や西側諸国を覆っていて、アメリカの依頼を受けた日本の官僚がX阿闍梨に何とかミグ戦闘機を手に入れることができないかと依頼したということである。そして、X阿闍梨はそれならミグ戦闘機を日本に呼び込めばいいとして、その依頼に結果として見事に応えることになった。

本では、X阿闍梨とされているが、ネットなどでは、この阿闍梨は、神戸の鏑射寺の住職で、最近亡くなった中村公隆阿闍梨であることがよく知られている。たとえば、ここに、ミグ25事件と中村大阿闍梨の法力の関係の概要が説明されている。

ただし、本では、昭和天皇の件には特に言及されていない。またこの本は、著者が実際に、中村大阿闍梨と会って、いろいろと感じたことやインタビューをしたことを元に書かれており、さらにこのような「法力」について、ユング心理学の立場から丁寧な解説も施されていて貴重である。

何しろ、このような話は信じがたいことには違いない。しかし一方で、世界あるいは日本の内部でも、権力的な争いがあるところの背後には、常にこのような特殊能力者の「法力」や一種の「呪術的な力」を巡る争いがあっただろうことも疑いない事実というべきである。

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』でも、記事『「陰謀」と「魔術」「悪魔主義」』で、権力や権力闘争のあるところ、常にそのような意味での「陰謀」や「魔術」が裏で暗躍していたはずであることを指摘していた。

日本では、それ以外にも、最近では安倍政権の時代、香心華心明という人物が安倍元総理の霊的顧問としていろいろ相談に応じ、政府に協力していたことが知られている()。こういった事柄は、表に出ないことがほとんどなので、表に出ないものは他にも数限りなくあることだろう。

アメリカでは、レーガン大統領が「占い師」を相談役として抱えていたことが有名だが、「占い師」とは名目で、実際はある種の「呪術師」ということが当然予想される。軍としても、テレビによく出るマクモニーグルが有名だが、敵軍の基地や兵器などを透視する役を負う超能力者の部隊を抱え込んでいるし、それはロシアその他の国でも同じことである。

近代以前のそういった事柄が正面から信じられていた時代、たとえば、日本の戦国時代なども、それぞれ実際の物理的な戦いの背後には、お抱えの「呪術師」たちの呪術的な争いが数限りなく繰り広げられていただろう。有名な「陰陽師」は、京都の貴族や皇室関係のそういった役目を負う「呪術師」ということがいえる。鎌倉以後、武士の時代となった関東や江戸でも、その「呪術的な攻撃」に対抗すべく、似たような能力者を抱えていただろうし、また京都もそうだが、江戸もそのような呪術的な攻撃を防御する結界としての仕掛けに満ちた都市である。

これに関連して、面白い話がある。江戸に霊的な防御などの結界を仕掛けた人物として、天海和尚が知られているが、この天海とは、実は明智光秀であるという説があるのである。光秀は死んでしまったのではなく、天海和尚と成りすまして、家康に協力して江戸を(霊的な面からも)築き上げるのに大いに貢献したということである。

ミナミAアシュタールのさくやさんも、天海は光秀だと言っている。さくやさん説では、信長、秀吉、家康、光秀は、実は協力して縄文のような争いのない社会を作ろうと結束した人たちで、呪術的な攻撃の防御のような役割は、本当に信頼できる人物に任すだろうことを考えると、確かに、天海が光秀であった可能性はあると思うが、そのことにはまたいずれ触れよう。

世界的にも、こういった呪術的な争いについてはバリ島の呪術師が有名で、中沢新一の『虹の理論』(講談社文芸文庫)という本では、オーストラリア女性の死をめぐる呪術的な合戦について、赤く燃える炎同士の争いとして目撃したタクシー運転手の話が、かなりリアルに語られている。

アフリカの妖術師同士の争いも有名だし、先住民文化のようなところでも、シャーマンは敵対するシャーマンや呪いの委託を受けた呪術師などとの争いを強いられることも多かったはずである。

そういった呪術の争いは、権力というものがある限り、あるいは人間の欲望がある限り、普遍的なものであるわけで、「魔女狩り」というのも、(キリスト教の偏見が重ねられているとはいえ)そのような呪術師に対する恐れが元にあったことは確かなことである。

個人的な呪いというのもそうだが、こういったことにはおどろおどろしさがつきまとうのは確かで、目を背けたくなる、あるいはないものとして排除したくなるのは、当然の部分もある。

しかし、こういった事柄に目を向けないでいる限り、人間の本質(それは統合失調の本質にも通じる)や政治の本質など、分かるはずがないのも確かなことと思われる。

 

※ 8月8日  本人の言によれば、安倍元総理個人ではなく、あくまで日本政府の依頼による仕事だったそうである。この動画では、当時の日本の超能力者部隊や世界の同様の部隊のことについて、かなり詳しく語られている。イギリスの部隊が最強であり、人造人間まで創造しているが、日本人は作れないという話は多少とも驚きである。

«「終末的予言」と「天変地異」についてのプレアデス人サーシャの言葉

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