2022年9月12日 (月)

「集合点の移動」と「知覚世界」、「幻覚」

カスタネダのドンファンシリーズで、「世界」あるいは「現実」とは何かということの、本質に関わる重要な概念に、「集合点の移動」というのがある。

まず、全体として、どういうことかを端的に示しておくと、次のようになる。

「世界」あるいは「現実」とは、外部に客観的に存在するものではない。それは、人間の内部にある、特定の「集合点」によって生まれた「知覚」により、構成されるものである。「集合点」は、いくらも移動し得るので、その移動により、「世界」あるいは「現実」というのは、いかようにも構成され得ることになる。

このように、客観的な世界が存在するわけではなく、「知覚こそが世界を作る」ということは、私も記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1 』、『2』などで、示して来た。そこでは、「ホログラフィックパラダイム」をとりあげ、霊的なものを含めて、あらゆるものが不可分に結びついた、(振動領域とも呼ばれる)暗在的な秩序から、個別的なものの存在する、みかけの顕在的な秩序を、ホログラフィ的に「開き出す」ものとして説明していた。

「集合点の移動」というのは、その(世界を)「開き出す」というときの、様々なあり様を、より具体的、実践的に、トルティックの「見る者」たちが、説明したものと受け取ることができる

この点について、カスタネダの『意識への回帰』(二見書房)には、まとまった説明があるので、それをあげておく。(120頁)

「客観的世界など存在せず、見る者たちがイーグルの放射物と呼んでいるエネルギー場の宇宙が存在するだけだ。人間はイーグルの放射物でできていて、本質的には発光エネルギーの泡なのだ。人間は、放射物のごく一部を閉じ込められているまゆにつつまれている。意識は、私たちのまゆの外にある放射物が内部の放射物におよぼす間断なき圧力によって獲得される。意識が知覚を生むのだが、これはまゆの内部の放射物が対応する外部の放射物と連合したときに起こる。」

「次の真実は知覚が起こるということなんだが、それは、わしらのなかに、連合のための内部と外部の放射物を選択する集合点と呼ばれる仲介物があるからなんだ。わしらが世界として知覚する特別な連合は、わしらの集合点がまゆの上に存在する位置、その特別な点の産物なんだよ。」

「イーグル」というのは、全ての存在(意識)の源で、言うならば、「神」または「創造主」あるいは「宇宙意識」のようなものである。宇宙には、本来、そのイーグルの放射物(見る者には、「輝く繊維」として見える)である「エネルギー場」があるだけで、人間も、「まゆ」と呼ばれる殻(一種の霊的身体)によって、その放射物の一部を、内部に閉じ込めている。

その人間のまゆによって境界づけられた、外部と内部のイーグルの放射物が、人間のまゆの上にある、特定の「集合点」によって、「連合」することによって、知覚が生ずる。その知覚によって構成された世界を、我々は「世界」とか「現実」と呼んでいるということである。「世界」とは、特定の位置で「連合」する、「集合点」の産物であり、「集合点が移動」することによって、全く異なる「知覚世界」が構成されるのである。

このような、内部と外部を、エネルギー的に結びつける「集合点」と似たものとして、東洋医学のいう「経絡」や、ヨーガのいう「チャクラ」がある。ただし、「経絡」や「チャクラ」は、必ずしも、「知覚」ということと結びつけられていないし、存在する場所としても、違うもののようである。

「集合点」は、このように、本来「移動」し得るものだが、実際には、多くの場合、特定の位置に「固定」されている。それで、我々は、特定の、客観的な世界や現実があるもののように知覚し、解釈しているのである。

その「集合点の固定」をもたらすのは、(イーグルの「命令」という要素もあるのだが)世界を安定的なものとしてあらしめたいという、我々の恐怖や願望であり、それを支える、集合的な文化や社会慣行である。それはまた、それらを通して、自らの支配を貫徹しようとする、「捕食者」の働きかけでもある。

現在の、我々の「集合点」は、「物質世界」と言われる「世界」に固定されており、それは、「近代社会」という文化により、強固に支えられている。

ドンファンは、「呪術とは、要するに、<集合点の移動>なのだ」と言うが、そのような固定化された世界を打ち破り、通常は知られることのない、様々な世界を創出しつつ、探究し、極めるのが、呪術ということである。さらに、最終的には、それらの個々の世界の探究(つまり呪術)を超えて、内部のイーグルの放射物を全体として輝かせることで、全体意識を獲得し、「無限」と一体化するのが目的とされる。

この「集合点の移動」だが、これには、まゆの中での「水平方向」(横方向)の移動と「垂直方向」の移動がある。「垂直方向」の移動こそが、本来の移動で、それにより、全く別の世界が構築されるのだが、多くの場合、「水平方向」(横方向)の移動か起こってしまうと言う。それは、特定の位置に固定された、集合点からの「ずれ」でしかなく、その特定の集合点が生んだ知覚世界に参照される限りでの、知覚にしか過ぎない。

ドンファンは、一方で、集合点を固定させることで生じる知覚は、すべて「幻覚」ということを言う。それは、本来、イーグルの放射物という「エネルギー場」であるものを、特定の「世界」として構築したものだから、確かにそうなるであろう。この点は、世界を、一つの「ホログラフィ」の現れとみることとも同様である。

ただ、一般に言う意味では、この「集合点」の「水平方向の移動」こそが、「幻覚」なのだと言っている。

それは、「この世界に入り込んだ、別の世界」 には違いないのだが、全く別の世界の構築ではなく、我々が固定的に知覚している、日常的な「物質世界」に参照されて構成されたもので、いわば「がらくた」の寄せ集めに過ぎないからである。

私が述べて来たところで言うと、それは、「世界」が崩壊し、全く変容してしまうのではなく、日常世界は継続しているのだが、そこに異質な何物かが入り込んで、「変容」してしまったかのような状態と言える。しかも、その「異質な何物か」は、多くの場合、日常世界に引き寄せられて知覚され、解釈される。つまり、「日常的な物質世界に参照された限りでの、「がらくた」の寄せ集め」のようなものとなるのである。それが、「幻聴」などの「幻覚」や、日常世界に引き寄せられた、「組織に狙われる」などの「妄想」の基なのである。

ドンファンも、次のように言っている。

「集合点を水平方向に移動させているものは、理解できないものを見慣れたものによって説明しようとする、ほとんど避けることのできない欲求や必要性なのだ」

この「集合点の移動」についての、「水平方向」と「垂直的方向」というのは、私がいう、座標軸としての「水平方向」と「垂直方向」というのとも、多く重なるようである。

統合失調状況は、感覚的世界と霊的世界の境界である、「霊界の境域」に入り込むことで起こると言った。それは、ドンファンで言えば、通常の位置での「集合点の固定」が揺らいで、「移動」するが、「知覚の障害物を超え」()て、「垂直的」な移動をし、全く別の世界を構築するには至らない、中間的な状態である。それは、「集合点の移動」という観点からも、私が言うように、「水平的方向と垂直的方向に引き裂かれて、宙ぶらりんになっている状況」といえる。

「水平的方向」での移動が多ければ、通常の日常的世界の要素が多く継続するが、「垂直的方向」の移動に近づけば、通常の日常的世界の要素は多く崩壊するわけである。

トンファンでは、完全に「垂直的移動」が起こらない限り、「水平的移動」としているが、そこには、垂直的方向に近づく要素と、水平的方向にずれる要素の両方がある、ということも言えるのである。

このように、「集合点の移動」という観点から、「知覚」や「幻覚」について、捉え直してみると、より具体的に、また、外的なものに左右されず、より内的、主体的に、理解することができるだろう。

次回は、ミナミAアシュタールのいう「波動領域を変える」ということが、この「集合点の移動」ということに照らすと、より理解しやすくなることを述べたい。

  この「知覚の障害物を超える(破る)」という概念も興味深いもので、ドンファンは、それを超えて、集合点の「垂直的移動」が起こると、通常は、「黒の世界」と呼ばれる世界が構築されるという。この「黒の世界」について、あまり詳しい説明はないが、それは、私の言う「実体として闇」と共通するようにも思われる。

また、最近の記事『『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い』で述べた、カスタネダが崖から深遠に向かって飛び込んだが、「意識の暗い海」に包まれて、生きて帰って来たというのも、「集合点の移動」という観点からは、物質世界を超えて、死ということのない、「黒の世界」を構築した結果ということになるようである。                                                               

この辺りは、かなり入り込んでいるので、いずれ、機会があれば、述べることにしたい。

2022年8月31日 (水)

さくやさんの「茶番-生きている説」について

ミナミAアシュタールの動画 で、安倍元首相の事件について、とりあげられた。

宇宙人のさくやさんが、「エネルギーを読んで」捉えたことということだが、真相は直接は語れないので、他の星での出来事として、間接的に、概要だけが語られている。しかも、さくやさんはほとんど語ることなく、あつし氏が語ることに頷くだけという形になっている。

だから、詳しいことは分からないのだが、一言で言えば、安倍氏は死んでおらず、「茶番-生きている説」ということになるのは、はっきりしている。

これは、安倍氏の事件の当初、ツイッター等ではもちあがった説だが、ここに来てほとんど顧みられない説であり、一般には、衝撃以外の何ものでもなかろう。

ただ、私は、「茶番-生きている説」自体は、記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも、あり得ることとしていたし、それは、今も変わっていない。

しかし、この動画の説明から受ける印象では、私の考えていた、「茶番」ということとは、かなり相違があり、やはり驚きは大きい。

私としては、さくやさんの本やブログ、動画などを通しての説明は、これまで、多くの点で、納得のいくものであり、私の見方との共通点も多いことを感じている。だから、さくやさんのこの事件に関する説も、とても捨ておく気にはなれず、基本的には、受け入れられるという前提に立つ。

そもそも、この事件については、不可解な謎が多く、映像や奈良医大の福島教授の話などと整合する説が、いろいろ考察されてはいるが、単独犯説、スナイパー等による別人の暗殺説など、いずれも決定的ではない。

だから、「茶番-生きている説」も、決して成り立たないと決めつけられるものではない。

ただ、私としては、さくやさんの説は、かえって謎を深めてしまう感がある。

そこで、今回は、私の考えを特に述べることはしないが、さくやさんの説の概要を紹介し、その疑問点を整理しておくことにしたい。私の考えは、いずれもう少しまとまった時点で、述べることにする。

さくやさんの説の概要

安倍氏の暗殺事件は、自民党と安倍氏が組んで仕掛けた、茶番の演出である。安倍氏は、実際は撃たれておらず、今も生きている。しかし、当初は、死ぬことは想定されておらず、奇跡の復活を遂げる予定だった(A案)。ところが、マスコミの報道とは別に、事件の動画や写真などが出回り、「茶番」も疑われる状況となったので、死んだことにすることになった(B案)。

このような演出を仕掛けた理由は、参院選について、与党及び改憲勢力の劣勢が見込まれていたので、その起死回生の挽回を図る。さらに、安倍氏が、逮捕の可能性もある、モリカケ問題等の問題を抱えていたので、その解消を図る、ということである。

安倍氏のいる場所を言うことはできない。ただ、安倍氏の出自や旧統一教会、満州国の建設の話との絡みで言うと、北朝鮮と思われる。

山上容疑者のことは、一切語られない。ただ、暗殺の理由とされた、旧統一教会のことには触れられ、初め、報道では、「ある団体」として伏せられたが、選挙後、外国のメディアが名を出したことから、表に出たとする。現在、マスコミで叩かれているのは、自分らを排除しようとした自民党の勢力を貶めて、発言力を高めたい、公明党グループの目論みも関係している。

疑問点

記事『茶番or暗殺暗黒の時代に突入することは確定』でも述べたが、このような壮大な茶番を演出するのは、大変で、リスクの大きなことであり、よほどの理由とメリットがなければ、できないことである。

しかし、さくやさんの話から窺える限りでは、仕掛けたのは、自民党という国内レベルの政治組織であり、理由も、安倍氏の責任逃れという、個人的な色彩が強い。参院選での、改憲勢力の勝利は、上からの指令である可能性があり、そこには、その指令に従う必要もあったかもしれないが、大枠、国レベルの仕掛けとして、このような壮大な茶番が仕掛けられたということなら、それはとても信じ難い。

9・11も一種の茶番だが、これは、米国が主導と言えども、さらに上の組織(恐らく宇宙人の技術も絡む)が、世界レベルの効果を狙って起こしたものであり、同列には論じられない。

(ただし、記事『「世界統一政府」と国の首長』で述べたように、世界統一政府の樹立を急ぐ、(宇宙人を含む)支配層の危急の策としてなら、私はあり得ることと思うし、恐らくさくやさんの説も、後にみるように、実際には、そういうことを含むという可能性はある。)

演出とすると、奈良県警はもちろん、奈良医大、報道関係その他、多くの関係組織を丸め込み、予め知らせたうえ、実行されなくてはならない。

奈良県警は、まさしく、(演出にしても暗殺にしても)寄与したとしか考えられない状況だが、安倍氏の手術を担当した奈良医大の福島教授の話は、予め用意されたウソとは解しにくい。山上容疑者の銃撃とは一致しない、心臓にまで達した頸部の銃創などの話をしているからである。もっとも、当初の怪我だけの予定から、死んだことにするという混乱を受けて、話も錯綜したものになったという可能性はある(後に司法解剖で、一応の辻褄合わせが図られた)。

安倍氏の責任逃れの点についても、これだけの演出と、多くの組織の丸み込めをするなら、検察も抑え込められなかったのかという気がする。

茶番であるならば、山上容疑者もグルということになるが、それでは、わざわざ自民党にとって不利になる旧統一教会のことが、理由としてあげられるのも、(初めは名は伏されたにしても)解せないことである。

安倍氏にとっても、奥さんとも別れて、(何らかの指令と影響力の行使はその後もあるのかもしれないが)実質権力を失う「雲隠れ」を実行するというのは、よほどの理由と決断がないとできないことのはずである。

そのほかにも、いくつかあるが、とりあえず、大きな疑問点は以上である。

もし本当に、さくやさんの言うとおりのことが行われたのなら、日本は、もはや完全に、救いようもなく、「終わっている」としか言いようがない。こんなことをする国の言うことなど、1ミリたりとも聞く気は起こらない。

ただ、ミナミAアシュタールのコンセプトは、「ピラミッド社会の真実を知って、そっと離れる」ということにあるので、多少、その「真実」を強調して、一面的に話す傾向はあるようである。

それに、繰り返すが、今回のさくやさんの話は、ほんの概要だけで、詳しい背景などには一切触れられていない。今後、そのような話も出されてくるかもしれず、そうすれば、実際には、もっと違った印象になる可能性があるし、多くの疑問も解消する可能性はある。

今回は、とりあえず、ここまでとする。

2022年8月18日 (木)

日本人のコロナ恐怖は「世間」絡み

安倍元首相の暗殺事件は、やはり、山上容疑者の個人的な思いつきによる単独犯とは、とても解せない状況である。だが、政府や警察からは、重要な情報が出されず、メディアは、旧統一教会の問題にすり替えていて、この問題を追う気がない。結局、真相は、このまま闇に葬られるのが明らかである。

ただ、ユーチューブ等では、この問題の真実に迫るべく、独自に追及している人が何人かいるし、ミナミAアシュタールは、近いうちにこの問題について言及するそうなので、いずれ、それらを踏まえつつ、私もいくらか、改めて考えを述べることにしたい。

今回は、日本人のコロナ恐怖とは、「世間」絡みの恐怖であり、だからこそ厄介で、捕食者の戦略にもハマり易いものであることを述べたい。

コロナは、感染者数は相当に増えたが、当初より確実に弱毒化され、重症化する割合は非常に少なくなっている。新型コロナウイルス感染症対策分科会の有志ですら、インフル並の対策への変更を提言している状況である。また、厚労省ですら、この夏、熱中症対策を踏まえて、外ではマスクを外すことを提言している。

しかし、ほとんどの日本人は、この暑い夏の日ですら、外でもマスクを外そうとしない。それは、コロナそのものを恐れる故かと言うと、決してそんなことはない。もはや、十分明らかになっているように、コロナ自体の「実質」が問題なのではない。問題は、コロナ自体なのではなく、あくまで、「世間」との絡みでの、「コロナ」なのである。

 それは、「世間」が「コロナ」というよりも、「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いをかけられた者をどう扱うか、ということであり、世間にとってのコロナ」ということである。

この長い間に、メディアを主として作られた、コロナについてのイメージは、その実質がどうあろうと、そう簡単に変わるものではない。それは、実際の症状よりも、世界を騒がす、強力な伝染力の方に、恐れをもたらす重点がある。症状として、はっきり現れていなくとも、あるはむしろ、そうであればこそ、感染者として、人に移す/移される可能性があることが問題である。

「コロナ感染者」とみなされた者、あるいは、その疑いのかけられた者は、「世間」から嫌がられ、排除され、のけ者にされることが、多くの者にとって、手を取るように分かるのである。

それは、かつてであれば、「穢れ」をもたらすもの、あるいは「エンガチョ」をつけたものとして、差別された者である。

今の日本人にとっても、その習性は、決してなくなってはいない。日本人にとって、「世間」というのは、唯一の宗教的権威と言っていいほどの、力をもつものであることは、何度も述べたとおりである。本当に怖いのは、その「世間」から排除されることなのである。

マスクというのも、実質、コロナの感染(移す/移されること)を防ぐかどうかというのは、大した問題ではない。ただ、一般に、そう思われている、あるいは、「そういう意味づけを与えられている」ことが重要である。マスクは、目に見える形で、自分がコロナ感染に対して、ちゃんと対策をとっている者だということを、世間に向けてアピールのできる、「印」なのである。

ほかにも、ワクチンや手洗いなどのコロナ対策とされるものはあるが、それらは、必ずしも、人に対して見えるものではない。しかし、マスクは、人に対して、目に見える形ではっきりと示すことができる。マスクをすることは、「世間」に対して、「私は、世間の真っ当な一員として、コロナ排除の意思を共有する」ということを、アピールする、重要な示唆なのである。逆に言えば、マスクを外すなどということは、世間を尊重しない、とんでもない行いである。

マスクをつけていることが、コロナ感染者でないことを意味するわけではないし、コロナ感染者にならないことを意味するのでもない。しかし、マスクをつけていることで、たとえコロナ感染者になってしまった場合にも、世間に対して申し訳が立つし、世間の側も、やることはしたうえでの仕方のないこととして、許すことができる。いわば、マスクは、「免罪符」のようなものでもある。

そして、そのように、世間に対してアピールのできる場とは、外を出歩くときこそである。この場合の「世間」とは、具体的には、近所の人や知り合いなどだが、そういう人たちに、あいつはマスクをしない、世間の掟を守らないやつだと思われたら、大変である。

だから、むしろ、「外を出歩くときこそ、マスクは外せない」のである。

「外を歩くときぐらい、マスクを外そう」ではないのである。

多少、大げさに聞こえるかもしれないが、これが現実であり、日本は、今も相変わらず、「世間」に逆らうことの難しい国であることを、改めて実感せざるを得ない。

今後もコロナが、実質恐いものでないことがますます明らかになっても、一定の感染力があって、多くの人の注目に上るものである限り、この事態は変わることはないだろう。変わるとすれば、コロナの感染力が、大きく落ちて、しかもかなりの長い間、そのまま何もなくなり、話題にも上らなくなったというような状況だろう。これは、政府もメディアもそうする気がないから、当分は望めない状況である。

もし、今の状況で、マスクを外すというなら、「世間」みんなが全体で号令を掛けて、一斉に行うぐらいでないと、無理だろう。「コロマスク みんなで外せば、こわくない」というわけである。

そもそも初めの頃は、コロナは、諸外国に比べて、日本人にはあまり作用できずに、大した感染状況も、症状も与えられないと思われていた。それは、確かにそのように見えたが、ここに来て、オミクロン株になったとき、むしろ日本人にこそ、大きな影響を与えるものとなった。実際、諸外国では、インフルや風邪と同じ扱いで、特別の扱いの必要でなくなったところが多い。しかし、日本では、そうはいかない。それは、「世間」が絡むからである。

コロナと似たような症状を発して、疑いをもたれる状態は、耐えがたいから、多くの人は、まじめに検査を受ける。症状がない人も、気になる人は、検査を受ける人も多い。それで陰性の判定を受ければ、一安心だが、陽性であれば、ちゃんと人から離れて、治療なり、療養をする。世間に対して、やるべきことをやり、申し訳が立つことが重要なのである。

そうやって、多くの人が検査を受けるから、ますます感染者数は増え、医療はひっ迫し、感染力の見かけが減ることはない。

そもそも、コロナそのものは、大したものではなくとも、その恐怖を必要以上に煽ることで、パンデミックを起こし、混乱と自由の剥奪をもたらすことが、捕食者の狙いだった。このやり方は、初め日本には、あまり適合しなかった。しかし、今や、この狙いは、日本にこそ、大きくハマるものとなった。

記事『日本人は皆「捕食者」を知っている!?』や『「世間」との「折り合い」』で述べたように、日本では、「世間」の背後にこそ、「捕食者」が潜んでいて、世間を通して、我々に働きかけるからである。コロナも、それ自体ということではなく、この「世間」を通してこそ、特有の恐怖と混乱を与えることができるのである。

日本人にとって強力な、「世間という神」こそが、改めて問題にされなければならないということである。(なお、日本人にとって、「世間」とは何かを問うものとして、記事『「人と人の間」と「霊界の境域」』、及び『「世間教」の二本柱』も参照のこと)

 

2022年8月 2日 (火)

「ボタン一つで朝になる」の言葉再考

記事『ボタン一つで…』では、一連の体験時に、身近に接した、「アニマ」と名づけた存在の印象に残る言葉をとりあけた。それは、「そのうちボタン一つで朝になるのよ」という、シュールなものだった。

それは、私が、現在の文明は、「何でもボタン一つでできる便利さを追求した結果、荒廃した」みたいなことを考えていた折りに、発せられたものである。私は、当時、これらの存在の発する言葉を、文字どおり真に受ける(即物的に解す)傾向があったから、これは、近いうちに、「人工太陽のようなものができ」て、文字通り、「ボタン一つで朝になる」ということを言っているのだと思った。

しかし、記事では、それを、振り返って、それは、「何でもボタン一つで」という我々の浅はかな考えを皮肉って、できるわけのない、「シュール」なことを述べた、諧謔のようなものだったのだろう、と述べていた。

このように、これらの存在が、皮肉めいた言葉を好み、よく発するのは確かである。しかし、そのような解釈には、どこか、しっくり来ないところがあったのも事実である。

そんな折り、最近、『よひとやむみな』の中に、次のような言葉をみつけて、ハッとした。

ボタンひとつで世界は動くぞ。

人間同士でつながって、込み入ってしまった霊線を、人から神へと付け替えるぞ。

身魂を磨けば、自ら付け替えることが出来るのぞ

ここでも、「ボタン一つで」という言葉がとられている。それは、「一瞬にして」という意味の比喩で、やはり、我々が、何でもボタン一つで解決しようとすることに対する、皮肉の意味合いが込められているようではある。しかし、そこでは、むしろ、全体として、明らかに、そのような意味合いを超えたことが、示されている。人間のいう「ボタン」などという機械的なものではなくて、それを超えた、一瞬の「神」の仕掛けで、宇宙そのものが動く(ひっくり返る)という、「魔法」のようなことを意味しているのである。

つまり、「大峠」という、「暗闇」の時代が、神の経綸により、一瞬にして「明ける」ということの一例が示されているのである。

私は、アニマの発した言葉を思い出し、それにも、やはりこのような意味合いが込められていたのではないかと、思わざるを得なかった。アニマは、捕食者的な精霊とは違って、天使的な面も持ち合わせている。そして、この言葉は、単なる「皮肉」にふさわしくなく、淡々としてはいたが、優しく包み込むように、言われていたのである。

私は、当時、「夜」そのものと言うべき、「暗闇」の状態から、永遠に抜け出せる望みもない状態をさまよっていた。実際、それは、「宇宙の死」といった、「世界の終わり」に向けて、確実につき進む過程にあった。

しかし、私に関する限り、その過程は、最終的には、実体として押し寄せた「闇」に包まれることによって、一瞬にして、吹き飛ばされ、「明けた」のである。積極的に、「光」に覆われたというような意味合いは薄いが、少なくとも、それまで当たり前のように続いた「夜」は、嘘であったかのように、一瞬にして、「明ける」ことになった。つまり、「朝」になったのである。

アニマの言葉の、「ボタン一つで」というのが、一つの比喩なら、「朝になる」というのも、「物理的に朝になる」ことではなく、やはり、一つの比喩と解した方が、適当かもしれない。つまり、「そのうちボタン一つで朝になる」とは、(今は、明けることのない夜だとしても)そのうち、「一瞬にして夜が明け、朝になる」ということを、予告していたものと解される。そして、それは、私に関する限り、そのまま実現した。

しかし、この言葉は、私だけに向けられた、個人的なものとは、とても思えないのである。私が、現在の人間の文明のことを、考えていたときに、発せられた言葉であるのも、そのことを物語っている。

つまり、『よひとやむみな』と同様、現在の地球の人間全体について、言われているものとも思われるのである。

地球全体、特に日本が、本格的な「夜」に向かうのは、前回述べたように、これからのことである。だから、その「夜」が明けて、「朝になる」とは、まだまだこれからのことで、今はまだ、現実味の薄いものかもしれない。

しかし、それが本格化したときには、改めて、この言葉が、思い起こされるだろうし、それが、本当のことを述べていたことに、気づかされることになる日が来るのかもしれない。

2022年7月24日 (日)

「世界統一政府」と国の首長

支配層が、「世界統一政府」の樹立を急いでいる状況だが、各国の首長にとっては、それは、喜んで進めたくなるようなことではない。

予め、「世界統一政府」での要職を約束されてるような人ならともかく、そうでなければ、彼らは、「一国の主」という立場から、「一地方の頭」といった立場に、追いやられてしまうのである。

それも、「世界統一政府」では、個々人が、AIによるデジタル的な一元管理で、直接支配されるようになるから、一地方の頭といっても、ほとんど機械的なお役所仕事のまとめ役に過ぎず、実質的な権力などは、ほとんどなくなってしまう。

だから、各国の首長クラスの人たちは、「世界統一政府」の樹立を、本心では望んでおらず、支配層にとっても、「世界統一政府」に向けて、どうやって、彼らを動かすかというのは、かなりてこずる問題のはずである。

安倍氏が支配層によって暗殺されたのだとすれば、それは、こういった問題とのからみで起こったことと解される。

こういった、支配層の目論みに、目に見えて、最も反抗的なのは、トランプやプーチンだろう。彼らは、たとえ自国の範囲であっても、自分の権力を手放すようなことはしたくなく、自国第一主義的な発想を変えたくもない。そもそも、性格的にも、シュタイナーでいえば、「ルシファー的な傾向」が強く、自分の望みや思いに忠実に、したいようにしたいのだ。

彼らには、「世界統一政府」の要職が約束されるような話はあったかもしれないが、宇宙人を含め、彼らの上に存在する者たちを、ある程度知る彼らには、それは、必ずしも魅力的な話ではない。少なくとも、今ある自由は大きく奪われることを知っているのである。

安倍氏はというと、彼らに比べれば、明らかに支配層の意向に忠実なところがあるが、反面、彼らに通じる、「ルシファー的」な、自分を押し通すところもある。実際、トランプやプーチンとは、肌で、気が合っていたようである。

要するに、支配層からすれば、大きく期待のかけられる人物であると同時に、思いどおりに動かず、腹立たしい存在でもあるということである。期待のかけられる分、思いどおりに動かないときの安倍氏は、余計に、怒りを買うことも多かっただろう。今回の事件も、そのようなことが、大きく影響したと考えられる。

支配層は、このような人物ではなく、もっと自分らに忠実な者を、国の首長に据えればいいではないかと思われるかもしれないが、自分らに忠実であることは、必ずしも、国を動かすうえで、有能であることにはつながらない。「ルシファー的」なタイプには、カリスマ性もあり、それは、支配層にとっても、大いに利用したい要素である。

安倍氏の暗殺は、そのようなカリスマ性を利用して、英雄として祭り上げつつ、その遺志を、(安倍氏以上に)多くの者に継がせようという意図もあったと思われる。

いずれにしても、今後も、このような形での、支配層と各国の首長たちとの軋轢が、いろいろ表面化して行くだろうし、安倍氏のように、暗殺される人も増えて行く可能性がある。

2022年7月13日 (水)

茶番or暗殺―暗黒の時代に突入することは確定

今回の事件について述べることには、躊躇があったが、今後の日本の成り行きを決定する、重要な事件でもあるので、ほんの概要だけだが、淡々と考えられることを、述べることにする。

7月8日の安倍元首相の銃撃、暗殺事件は、私も、知ったときには、かなりの衝撃があった。だが、同時に、それをどこかで知っていたかのような感覚も起こって、「やっぱりか」という、冷静な感じで受け止める部分も大きかった。恐らく、死ぬだろうという気はしていたし、実際、その後しばらくして、そう報道された。

この、「どこかで知っていた」という感覚は、実のところ、私だけでなくて、日本人のかなりの人が、もっていたのではないかとも思っている。意識して、そう思う人は少ないかもしれないが、その後の多くの人の反応をみると、どこかでそう分かっていたかのように、冷静に受け止めているように思えるのである。もちろん、痛ましい思い、安倍氏に対する同情や哀悼の意はあっても、このテロ事件そのものに対する大きな混乱や、恐怖、怒りは、(報道や政治家たちは散々煽っていたけれども)それほどのものがないと思われるのである(動機が、あまりに個人的なものであったことも大きいだろうが)

その意味では、この事件の意図は、半分は失敗に終わっているとも言えるが、一方では、選挙結果にみるとおり、大きな成果をもたらしたのも疑いがない。

私は、初め、一般に報道されている情報や映像でみたときは、いくつかの不自然な点はあるが、恐らく、これは、報道されているとおり、個人的な動機に基づく偶発的な犯行で、たまたま警備の薄い、選挙活動中に起きたことなのだろうと思った。ただ、結果として、多くの同情票をもたらし、参院選の選挙結果には、かなりの影響を与えるだろうと憂えた。

しかし、その後、ツイッターなどにあげられている、発砲後の詳しい映像を見ると、あまりに不自然な点が多いことに、驚かされた。1回目の発砲後、誰も犯人を取り押さえる動きもなく、2回目の発砲がなされていること。周りの者がしゃがみこんでいるのに、安倍氏は立ったまま平然とし、しばらく後に後ろを振り返って、2回目の発砲を受けていること。2回目の発砲後、ゆっくりと台を降りて、前かがみに崩れていること。首を打たれて、心臓に損傷を受けたと報道されていたが、体や服、周りには血がほとんど見られないこと。そして、安倍氏の右肩に、赤い色の不審なものが巻かれていることなどである(止血帯とみるのも不自然である)

ツイッターには、そうしたことから、この事件は「茶番」とする意見もあげられていたが、確かに、もはや、たまたま偶然の重なりで、こうなったと解するには、無理があるほどの不自然さである。

人が死んでいるのに「茶番」というのは、不謹慎とも言われるが、これだけのことがあるのに、「茶番」というのを考慮してはならず、初めから排除するというのも、おかしなことである。私も、これらツイッターにあげられている映像を見る限り、「茶番」の可能性はあると思わざるを得なかった。

しかし、同時に、実際に、茶番によって、このような壮大な演出をなすことは、あまりに大変なことで、非現実的なことでもある。現場にいて関わった多くの者たちから、警察、病院、報道陣、その他多くの組織や者たちが、茶番の事実を知ったうえで、「グル」となって演じなければならない。そもそも、うまくいかずに、大失態となる可能性が多くあるし、一応成功したとしても、これだけの者たちに、口封じをして隠し通すのも、大変なことである。

安部氏が生きているのだとしたら、その後の「処し方」も大変だし、たとえ既に本人は死亡していて、影武者かクローンだったとしても、それなりに対処は必要である。

それに対して、そのような演出から得られるメリットは、「実際に暗殺する場合に比して」だが、それほど多くはないと思われる。もちろん、衝撃と恐怖の演出にはなるし、同情票をもたらし、参院選で、改憲勢力3分の2の議席確保の「使命」を果たすことにもつながる。しかし、それらは、実際に暗殺することでも、というより、その方が確実に得られる効果である。

また、切羽詰まった支配層にとって、安倍氏を実際に暗殺するだけの理由は、十分あったと思えるし、そうでなくとも、死をもたらしてでも、今回の参院選後、早いうちに、憲法改正と緊急事態条項の加入をなさせて、日本を戦争に巻き込むことは、絶対に実現したいことだったと思える(記事『「知ってはいけない」ことの危急版』参照)

単に、同情票を見込んだだけでなく、選挙の不正もあったかもしないが、事件の結果、その不正は取りざたされる余地が少なく、多くの者に納得されやすくなった。今後も、政権の者や民衆に、安倍氏の遺志を継がせるという意味もあるし、政権の者たちが、今回の暗殺が、「上からの指令」と気づくとしたら、本気でそれをしないと自分らが危ないという脅しの意味もある。このような緊迫感は、茶番ということでは生まれにくい。

そもそも、参院選の前に、ウクライナ戦争と北朝鮮の危機、中国の脅威が継続してあったのも、コロナの第7波とも言われる、感染者の増加があったのも、危機を煽って、憲法改正と緊急事態条項の必要を印象づけるためと言える。

参院選は、平時であれば、(バランス感覚が働いて)衆院で絶対多数を確保している与党ではなく、野党に票が集まり易いが、今回は、危機感を様々な方面から煽ることで、緊急時に迅速に対応すべく、与党に票を集めようとさせたし、安倍氏の暗殺は、その最後の決定打ということになる。支配層も、それくらい切羽詰まっているということである。

そういうわけで、私は、映像だけからすると、茶番説もあり得るし、実際、捕食者的には、こういう茶番は「大好き」で、本気になれば、これぐらいのことはなし得るのだが、どうも、今回は、(恐怖の演出の意味も兼ねて)、実際に、多くの者の目の前で、暗殺することにしたのではないかという気がしている。

もちろん、背後には、世界統一政府の実現を急ぐ、支配層がおり、犯人は何らかの方法で、安倍氏殺害を強力に誘導されていると解される(捕食者が憑依的に誘導することも含む)。あるいは、この犯人だけに任せて、暗殺を実現することは心許ないので、別の者も同時に狙撃するなどして、関与しているかもしれない。

いずれにしても、この事件と選挙の結果は、今後、日本が暗黒の時代に突入することを確定させたといえる。憲法改正が発議されれば、国民投票ではいくらも不正のなされる余地がある。これまでの自由は、法的根拠をもって、強制的に制限されるし、ワクチンも強制となるだろう。マイナカード、デジタル化も強力に推進して、チップと結びつけられる準備が整う。そうして、ここまでした以上は、戦争に巻き込むまで至ることも、ほとんど必至である。

この「暗黒の時代」とは、日月神示や、「よひとやむみな」で言えば、「大峠」あるいは「大洗濯」ということになる。これらの神示では、その後、神一厘の大どんでん返しが起こって、うれしうれしの世となることが言われているが、そんな保証があるわけでもなく、どうなるかは我々次第というほかない。

2022年6月30日 (木)

『無限の本質』の最後の場面—狂気の者との出会い

カスタネダの『無限の本質』は、遺作にふさわしく、最後の場面もとても印象的である。それは、何を隠そう、統合失調と思われる精神異常者との出会いで終わっているのである。

その出会いを語るためには、それまでの流れを簡単に振り返らなければならない。

カスタネダは、ドンファンら呪術師たちが、「無限」と一体となる最後の旅をするべくこの世界を去って、一人残されることになる。しかし、カスタネダも、ドンファンから、最後の旅をするべくこの世界を去るか、それまでの道を一人でさらに進むべくこの世界に戻るかの、最終的な選択をする課題を与えられる。その課題とは、高い崖から谷底の深淵に向かって、飛び込むという過酷なものである。

その、死が間近に迫る極限状況における「内的沈黙」の状態で、最終的な決断がなされなければならない、とされるのである。

しかし、ドンファンには、それがなされる前に、既にお前は、ここに残る合意がなされたと言われる。実際、カスタネダは、崖から谷底の深淵に向かって飛び込むことになる。すると、次の日、カスタネダは、その場所から遠く離れたカルフォルニアの自宅で寝ている自分を発見する。

崖から飛び込んだにも拘わらず、死んではおらず、しかも、物理的にはあり得ない時間で、その場所から、自宅に移されたことになるのである。

つまり、いずれにせよ、ドンファンの言うとおり、カスタネダは、この世界を去ることにはならず、この世界に戻されたのである。

何か、ヘルマンヘッセの『荒野の狼』に出てくる「魔術劇場」のような「夢幻的」な話に聞こえようが、カスタネダとしては、確かに物理的な次元で、谷底に飛び込んだという自覚がある。そして、その間、「無限」と向き合ったという自覚があり、「意識の暗い海」といわれる、その本質的な要素に包まれて、死を避けられ、自宅に戻されたと解すことになる。

実際、物理的次元で行われたのか、これも「カラスになって空を飛んだ」ときと同様、一種の「中間的現象」なのか、分からないが、いずれにしても、「無限」と遭遇したという点が重要だ。

ドンファンのように、「無限と一体となる旅」に出ることはできないが、少なくとも、「無限」の体験をしたのであり、それだけでカスタネダにとっては、十分過ぎるほど衝撃的なことだった。

カスタネダは、一人残されたが、それは、もはやただの人としてではなく、「無限」を体験し、戻って来た者として、もはや、「この世ならぬ」者としてだった。

そんなとき、カスタネダがいるレストランに、近くの病院に通っている精神異常者が入って来た。その者は、カスタネダを見るなり、大声で叫んで逃げ出した。カスタネダは、この者が一体自分に何を見たのか、聞きたくて、追いかけたが、その者は一層大声で叫んで、逃げてしまった。

カスタネダは、レストランの人に「どうしたの?」と聞かれて、こう言った。

「友達に会いに行っただけさ」

そして、この遺作の最後は、次のようにして閉じられる。

「この世でたったひとりの友達なんだ」私は言った。それは真実だった。もしも「友達」を、人が纏っている覆いの中身を見抜き、その人が本当はどこから来たのかを知ることができる人間と定義できるならば。

統合失調と思われる精神異常者こそ、「無限」と出会って戻って来たカスタネダを、よく見抜くことのできる者だったということだ。なぜなら、この精神異常者もまた、「無限」との何らかの遭遇をして、その恐ろしさを知り、この世にありながら、この世ならぬあり方をしている「友達」だから。

私は、初めにこの本を読んだとき、自分の体験した「捕食者」についての見事な説明に驚いたのみならず、この最後の場面にも大きな衝撃を受けた。

そして、今は大げさに感じるけれども、次のような妄想じみた思いも抱くことになった。

かくして、カスタネダのドンファンシリーズは、狂気の者との出会いにおいて、幕を閉じた。それは、今後カスタネダを理解するのは、狂気の者のみであるということ、さらには、カスタネダを引き継ぐことのできる者がいるとしたら、狂気の者でしかあり得ないということを意味している。

その「狂気の者」とは……、自分でしかあり得ないのではないか?

 

2022年6月 3日 (金)

「捕食者」に出会っていなかったら、その存在を信じていたか

私が、一連の体験を通して、捕食者に出会っていなかったら、現在、捕食者の存在を信じていたかということを、たまに考える。

結論から言うと、本当には信じていなかった可能性があり、信じるとしても、半信半疑、よくても7割方くらいの感じでだろうと思う。

私は、一連の体験をする前に、カスタネダシリーズを読んでいたから、捕食者について記された遺作『無限の本質』は、捕食者の体験をしていなかったとしても、読むことになっただろう。

それまでのカスタネダシリーズには、小説的な色付けや誇張を感じつつも、「真実を含む」という確かな手応えも感じていてた。だから、『無限の本質』の捕食者についての記述にも、信じ難い思いは持ちつつ、それなりのリアリティを感じたことと思う。それでも、それを本当に信じることは難しく、半信半疑か、そうでなくとも、どこか自分の日常からはかけ離れた、遠い世界の話のような感じで、受け取っていたと思うのだ。

だから、私は、多くの人にとって、捕食者のことが受け入れられなかったり、今一つ、「ピンと来ない」、「なじめない」という感じをもつのは、自然のことと思うし、理解もできる。そして、それについて、とやかく言う気も起こらない。

むしろ、直接体験したことがないにも拘わらず、捕食者のことを、固く信じることのできるという人がいるなら、その人は、固定観念に縛られない、柔軟で、直感力の優れた人だと思う。

もっとも、現在は、私が体験した頃(既に31年前)に比べれば、捕食者に関する情報や、レブティリアンに関する情報も多くあり、それらが、現実に起こっている様々な出来事との関係でも、受け入れられやすくなっているのは、間違いないことだろう。

それにしても、捕食者の存在を受け入れるということは、人間以外の、非物質的な知的存在を認めるということ。それも人間にとって苦痛な、人間の上に立ち、支配する存在を認めるということ。さらに、我々を縛る、善悪の観念を離れて、宇宙的なエネルギー循環の観点から、他の存在を認めるということを意味している。これは、広く行き渡っている、一般的な固定観念からの何段階かの飛躍によって、初めて可能になることなので、容易なことではないはずである

私自身、記事で述べたように、捕食者に直接出会った当初は、非常な衝撃と驚きを感じ、ある個性と実体をもった、確たる存在であることは、疑い様がなかったが、それがいかなる存在であるのか、容易に判断できなかった。

ただ、物質的な身体を持たない存在であることは、明らかであったし、その尋常でない攻撃的な性質や強力な威圧感、言って来ることの、人間とは思えない内容などから、それが人間以外の存在であることも認めざるを得なくなった。それで、いわゆる、「魔」、あるいは「悪魔的な存在」と解するほかなかったわけだが、それにしても、そのように解するまでにも、かなりの紆余曲折を経ることになったのである。

そして、それまでは、それらの存在が、当然地球上のものと思っていたわけだが、接して行くにつれ、どうもそれらは、地球的なものという枠組みを越えた、もっと宇宙的なものであることが、察せられるようになった。

また、接するにつれ、それらの存在は、私だけでなく、多くの人にも影響を与え(多くの人も無意識領域では、それらの存在に服従していて)、言わば人の上に君臨する存在であることも分かって来た。

しかし、一方で、それまでは、恐怖と無力感のもとに接していたのだが、あるとき、私の怒りが爆発し、断固たる態度をとると、それまでの強力な攻撃性を失ったように感じたことや、明らかに、私の恐怖をエネルギーとして吸収することで活性化しているのを、肌で感じるということがあった。それで、それらの存在は、どうも、思っていたほど恐れる存在ではないことを感じとることになった。

さらに、その時点では、それまでの信じがたい体験を通して、「善とか悪」とかいうことも、自明なものではなくなっていて、これらの存在も、単純に「悪」なのかどうかも分からなくなっていた。

そのようなことを通して、この存在を、単純に「魔」とか「悪魔的存在」として受けとることはできなくなったのである。

ただ、当然ながら、捕食者なる概念はもっていなかったので、「捕食者」として捉えたわけではないが、実質的には、捕食者という概念が当てはまるのに近い形で、それらの存在を捉えるようになっていたのだった。

だから、後に、この存在のことを、見事に説き起こす、カスタネダの『無限の本質』を読んだときは、本当に、ひっくりかえるほど、衝撃を受けた。(ディービッド・アイクも、私と同様、捕食者の体験をしていて、それをどう捉えていいか思い悩んでいたとき、この本と出会って、あまりに自分の体験を見事に説明するものだったので、本当に椅子から転がり落ちるほど、衝撃を受けたという。)

私は、その前に、シュタイナーの「アーリマン存在」と「ルシファー存在」という二系統の悪魔的存在論に出会っていて、そこで説明されていることは、私の出会った存在の中に、確かに二系統の性質の異なる存在があるのを、見事に説明するものだった。

しかし、カスタネダの『無限の本質』での捕食者の説明は、それ以上に、私の体験していた存在を、ことごとく、ふに落ちる形で、見事に、説き明かしてくれていたのである。それで、それらの存在は、「捕食者」として捉えるのがふさわしいと、心底、納得することができた。

そういうわけで、私は、現在では、自分自身の、捕食者として捉えるのがふさわしい存在との出会いを通して、「捕食者」なる存在を、疑いもなく信じている、というより、それは、「自明の事実」となったのである。

しかし、その存在を証明することなどは、当然できないし、自分自身のそこに至るまでの紆余曲折を顧みても、他の者にそのことを納得させたり、説き伏せたりなどはできないこともよく分かる。だから、そのようなことには興味はないし、そうするつもりもない。

ただ、今後、捕食者のことが、多くの人にとっても、事実として受け入れざるを得なくなる可能性は、十分あると見込んでいる。恐らく、宇宙人「レプティリアン」としてだろうが、彼らの行動があまりにもあからさまで、表に現れて来るものになれば、その存在が、確たるものとして知られるようになる可能性は十分考えられるのである。

また、ミナミAアシュタールもよく言うように、現代の閉塞した、ピラミッド社会から離れたいと思う場合には、ピラミッド社会の頂点に、捕食者的なレプティリアンが存在していることを認めずしては、とても無理なことと思う。ただ表面的に、政権や社会の体制などを変えたとしても、その頂点にレプティリアンがいること自体が変わらなければ、実質何も変わりはしないからだ。

そのためには、捕食者としてのレプティリアンについて、それなりに多くを知り、その支配を脱する方法を学ぶ必要が出て来るということである。

さらに、このブログで主題として扱っている統合失調や、最近の集団ストーカー被害の問題にしても、そこに多大の影響を与えている捕食者について知ることがなければ、それを本当に脱することは、到底適わないというべきである。それらの、酷く混乱した状態は、捕食者による攻撃や戦略によって、そこに陥らせて、抜け出せなくすることで起こっているので、正面から捕食者の存在を認めたうえで、その影響を脱することを考えない限り、本当には難しいからである。

特に、集団ストーカー被害は、その観念からして、そこに引き入れる捕食者の戦略であることが理解できないと、永遠に人間による集団ストーカーを訴えるだけで、一向にらちがあかないことになる。

そういうわけで、現在においては、捕食者のことが知られる必要性―むしろ「必然性」と言った方が適当だが―が高まっていることには、疑いないだろう。

2022年5月 6日 (金)

「捕食者」と「レプティリアン」

「捕食者」というのは、人間の感情エネルギーを食糧とする存在を広く含んでいる。「霊的存在」、「異次元的存在」、「宇宙人」などである。「捕食者」という括りは、(人間に対しての)存在のあり方の「型」を捉えたもので、個々の存在の種類や性質には関りがないものなのである。

一方、「宇宙人」というのは、その存在の起源や生育の過程が、地球ではなく、地球以外の宇宙にあることに着目してつけられたものである。地球は、物理的次元にあるので、その延長上に「宇宙人」も物理的存在のように解されることが多いが、実際には、「霊的」または「物理次元を超えた存在」である場合が多いことは既に述べた。(そのため、実際には、地球上の「霊的存在」との区別にも微妙なところが出てくるが、一応の区別はできる)

そのような「宇宙人」の中の「捕食者」的存在の代表が「レプティリアン」であることも、これまでの記事で何度か述べて来た。

最近は、この「レプティリアン」ということで、私が「捕食者」として示してきたものを、具体的に表すことが多いようである。「捕食者」というのが、存在の「型」を表すものとして、多少「抽象的」なところがあるとすれば、具体的な存在として、現に我々に対峙するものであることをはっきり示すのには、その方が適しているともいえる。

記事『「捕食者」についての本―『無限の本質』』で示したように、「捕食者」についての最も詳細で本質的な説明は、カスタネダの『無限の本質』になされている。

一方、捕食者としてのレプティリアンについては、デービィッド・アイク(『ムーン・マトリックス』など)、プレアデス系のチャネリングものである、バ−バラ・マ−シニアックプレアデス+かく語りき』、ミナミ・A・アシュタール(ブログ や『新・日本列島から日本人が消える日』)などに詳しい。

これらは、レプティリアンが、人間の発する特に恐怖等のネガティブな感情エネルギーを食糧としていて、そのために人間を組織的に管理・支配し、常にネガティブな感情を起こさせる施策をとっていることをかなり詳しく説明している。さらに、レプティリアンと人間との関りを、宇宙及び地球の歴史から説き起こし、人間の上に君臨するようになった経緯も明らかにしている。

特に、ミナミ・A・アシュタールは、現在の状況を踏まえて、それらがいかにピラミッド社会の頂点にいるレプティリアンとの関りで生じているかを、分かり易く説明していて貴重である。

カスタネダのドン・ファンも、「捕食者」が、人間の感情エネルギーを捕食するために、人間を組織的に管理・支配していること、「捕食者」は「宇宙の深奥」からやって来て、我々を乗っ取ったことを述べているから、これらは、ドン・ファンの説明とも十分重なるものである。

また、これらは、レプティリアンが、地球で人間を遺伝子操作的に作り出したものとし、人間のいわば「生みの親」(創造者)なのだとする。『プレアデス+かく語りき』では、その遺伝子操作の内容を、12本のDNA対を切って、2対とし、人間の本来持っていた(超感覚的な)能力を大幅に削減したうえ、自分らの遺伝子を組み込むことで、従順で、支配に適する存在にしたと説明する。

このことも、ドン・ファンでは、人間を支配する最大の戦略は、「人間に捕食者の心そのものを与えた」ことだとして説明されていた。「捕食者の心を与える」ということを、現代的な技術の方面から説明すると、「遺伝子操作」ということになるわけである。

ドン・ファンでは、人間がいかに「捕食者」に支配されているか説明がされつつ、それを脱する方法についても述べられていた。これについても、特にミナミ・A・アシュタールでは、「そっと離れる」、「波動領域を変える」という言い方で、説かれている。

ドン・ファンでは、その方法は、端的には、「内的対話を止める」、「予期してもいない困難な事態に平然と立ち向かって行く能力」ということで言われていた。後者は、捕食者に敵対するのではなく、「(捕食者のことを宇宙の一部として受け容れつつ)畏敬の念をもってひるまずに立ち向かう」ということであった。

この点も、ミナミ・A・アシュタールでは、「ぼーっとする時間をとる」、「(対立するのではなく)無関心でいる」、「感情的に巻き込まれずに、俯瞰してみる」、「(引かないで)すーっと立つ」という風に、共通することが、より分かり易く、親しみやすい言葉で説明されている。

このように、最近の、地球上の支配の頂点にいる捕食者的な存在として、レプティリアンという宇宙人を受け止めるという行き方は、より具体的で、(特定の者ではなく)誰もの「現実状況」(利害)と密接に関わるものであり、よりイメージしやすく、受け止めやすいという意味でも、適切なものと思われる。

現在は、コロナ騒動にしても、ウクライナ戦争にしても、レプティリアンの戦略が、より「分かり易い」形で、目に見えるようになっているから、よりこれらの捉え方が、現実味をもって捉えられるようになっている。

UFOなどの目撃例が飛躍的に増え、米国防省が研究機関の新設を発表したように、「宇宙人」そのものが、我々にとって現実的な関心の対象になりつつあることにも、適っている。

そして、これらは、これまでみて来たように、カスタネダのドン・ファンの「捕食者」の説明とも、十分通じているものなのである。

もちろん、これまでのように、「捕食者」として捉えることでも、十分要を果たすし、レプティリアンの本質をより理解する手立てになるが、「捕食者」という捉え方には、今一つ馴染めないでいる人は、先に上げたような本やブログなどを通して、具体的にレプティリアンとしての捉え方をしてみるとよいだろう。

2022年4月13日 (水)

「共通感覚的に<あり得ない>」

前回述べたように、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」のだった。が、だとすれば、「統合失調症」や「集団ストーカー被害」の人が訴える「妄想」的な事柄も、「あり得ない」などとは言えないことになる。

それは、実際にそうで、そういった「妄想」も、(論理的に)「絶対にあり得ない」ということではないのである。

そういった「妄想」は、記事『「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱』でも述べたように、言うならば、「共通感覚的に<あり得ない>」のである。(論理的に)「絶対にあり得ない」わけではないが、多くの人が、共通感覚として、そんなことは「あり得ない」と感じる、というよりも、そういうことを、疑いもなく確信して行動することを、「おかしい」と感じるということである。

その理由は、論理的に明確には説明しにくいが、あえて言葉で説明するならば、次のようになることを、記事でも述べていた。

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

注意すべきは、この「共通感覚」というのも、それが「正しい」のではなく、要は、多数の者が共通して感覚することであって、多くの者の背景となる、文化や時代の影響を受けるものである。

しかし、精神医学は、「妄想」を、「間違った信念を確信して、訂正できないこと」と定義している。

これは、それ自体が、物事を「あり得ない」と決めつける発想に基づいている。「間違っている」というのは、「あり得ない」と判断することから来る評価で、多分に決めつけ的なのである。

「妄想」は、本当は、「間違っている」かどうかよりも、「共通感覚からずれる事柄を、確信して、他の可能性を顧みず、他の者に対しても、それが当然の事実であるかのように行動して来る」ということの、理解しがたさに重点がある。

「訂正不能」というのは、一応それに近いが、やはり多分に決めつけ的であり、「あり得ない」という発想が元になっているから出て来る表現である。

このように、精神医学は、そういった状態に陥った者を、「病気」と規定して、多分に強制的で、身体に多大な影響を与える「治療」を施す必要から、「妄想」の病的な性格を際立たせようとする。それで、(「あり得ない」という発想で)「間違っている」、「訂正不能」という、強固な、「決めつけ」的な内容を与えるのである。

ところが、実際には、そうやって決めつけるから、相手にも反発を招き、余計に頑なにさせてしまうのである。「妄想」に陥った者も、ますます「決めつけ」的に、その共通感覚からずれた事柄を、事実として、確信することになる。

いずれにしても、「妄想」を「事実」と訴える側も、「病気」だから治療しろ、という側も、ともに、「あり得ない」という旧態依然たる発想をしているのである。

「あり得ない」という発想同士が、お互いに、ぶつかり合って、対立しているということである。

これを図に示すと、次のようになる。

Photo_20220413223901

記事でも述べたが、「妄想」を訴える側が、「実際に起こっている」というのは、感覚レベルで、多くの人が自分につきまとったり、いやがらせをして来るなどと、「感じる」ということである。感覚的なことなので、実際には、これを言葉で説明することは難しい。あえて言えば、「<それ>が起こっている」とでも言うしかない。

ところが、この<それ>を、既成の観念で、短絡的な解釈をして、その解釈をそのまま確信してしまうのが、「妄想」なのである。「組織に狙われる」とか、「集団ストーカーにつけ狙われる」などである。これらが、感覚としての、<それ>に入れ替わって、事実であるかのように、確信されてしまっている。そして、そこには、そうでしか「あり得ない」という発想が、強く働いている。

病気という側も、先にみたように、「共通感覚的にあり得ない」という感覚を、論理的な問題、あるいは、事実そのものの問題にすり替えて、「間違っている」、「病気」などとして、押しつけているのである。

だから、「妄想」を訴える側にしても、「病気」として治療を押しつける側にしても、このような、「あり得ない」という、硬直した発想が、問題を起こしているという面が大きい。                                                            

これを、前回みたように、現代の若者の感覚として行き渡りつつある、「そんなことある?」くらいの、柔軟な発想で捉えることができれば、事態は大分、軽減するのである。

「病気」と決めつけずに、「組織に狙われる」、「集団ストーカーにつけ狙われる」なんてこと「ある?」くらいに、軽く問い返せば、本人も、改めて、ことを問い直す余地(余裕)が生まれるかもしれない。あるいは、少なくとも、自分の訴えが、多くの人にとって、共通感覚的には、「あり得ない」ことであることを、改めて自覚するきっかけになるかもしれない。

妄想を訴える側も、実際に起こっているのに、「病気なんてことある?」と軽く問い返せば、多くの人も、この人は、訴えの内容の信じ難さはとりあえずおいても、何事かを実際に起こっていることと感じていることを、改めて感じることができる。そして、何が実際に起こっているのか、に興味を移し、なぜ、そのような感覚が生じるのかについて、互いに、考えることができるようになるかもしれない。

「妄想」を訴える側は、実際に、切迫した危機を感じるからこそ、そのような妄想を訴えるのだし、「病気」という側も、そのような者を前にして、動揺し、混乱するからこそ、病気として納得しようとする。

互いに余裕がないから、「あり得ない」という硬直した発想をするわけで、確かに、それを変える、柔軟性をもつことは難しい状況である。

しかし、社会全体が、少しずつでも、「<あり得ない>ということは<あり得ない>」という発想。「そんなことある?」くらいの柔軟な発想に移行できれば、このようなことも、さほど難しいことではなくなるだろう。

«「そんなことある?」

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