2019年9月20日 (金)

「異形の存在」と「非人」

『千と千尋の神隠し』には、インパクトある「異形の存在」たちがたくさん出て来て、楽しませてくれました。前回も述べたとおり、この「異形の存在」は、単に想像の産物なのではなく、実際に、「精霊的な存在」の、人間からすれば、異質といえる姿形を、よく現しているのです。

私が、一連の体験で出会った存在も、やはり、そのように、「異形」というほかない存在でした。先住民文化から伝わる、儀礼に出て来る、仮面や蓑をかぶった「存在」も、そのような「異形の存在」を現しています。「なまはげ」なども、まさにそうです。

映画では、よくもまあこれだけ、という位のたくさんの存在が描かれていましたが、中には、いかにもマンガチックな、「ひよこ」のような存在もいて、それはちょっと安易な感じがして、残念でした。しかし、それも、子供向けにあえて描かれた「異形性」だとすれば、ご愛嬌かもしれません。

網野善彦著『異形の王権』(平凡社ライブラリー)という本は、このような「異形の存在」と「非人」の関係を、歴史的に考察していて、とても面白いです。

絵巻などに描かれる「非人」は、一般の人とは区別され、まさに様々に「異形」な姿形をしています。特別な色の服を着ていたり、蓑や覆面をかぶったり、独特の棒を持っていたりなどです。顔そのものも、独特の風貌で、やはり「異形」に描かれています。

こういった「非人」は、後に差別の対象になりますが、南北朝の動乱の頃までは、「畏れ、敬われる」存在でもありました。そして、その「異形」の身なりも、今で言う、ファッションのように、多くの人たちに感化を与え、とり入れられたりしていました。また、「華美な服装で飾りたてた伊達な風体や、はでで勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい」を意味する、「婆娑羅」というような風潮も、それら「非人」の影響から来ています。

一方で、「悪党」と言われるような、一種の反社会的な勢力も、「非人」を装って、それに紛れるようにして、存在したりしていました。その影響力が強いからこそ、なりすまして、利を得ようとする者も増えてくるのです。(「悪党」に限らず、社会から逸脱した人たちが、「非人」を装うということは、よくあったようで、そのことが、後に差別に結びつく理由の一つにもなっているようです。単純に、「異民族」に結びつけられた、というのも一つの理由です。))

何しろ、「非人」は、もともと、決して差別の対象として卑賎視されたのではなく、社会に、力をもたらす、特別のエネルギーのある存在でもあったのです。

そして、そのような力は、「聖なる存在」との関わりから来ています。その「聖なる存在」こそが、まさに、「異形の存在」としての「精霊的存在」なのですつまり、「非人」というのは、その精霊的存在の「異形性」を、そのまま体現している、特別な存在ということです。

そもそも、「非人」とは、「人間に非ず」ということで、「人間でない存在」を意味しています。「人間でない存在」とは、現在では、人間より下の存在であることを連想させるでしょうが、本来は、人間より上の存在でもあるのです。

記事『日本で「魔女狩り」に相当する事件』でも述べたように、これらの「被差別民」は、元々何らかの形で、「聖なるもの」と関わっていた人たちであり、シャーマンのように、「聖なるもの」と通じる存在でもありました。しかも、それは、多くの場合、「狩猟民的な」(非人間性の強い)精霊であり、農耕民的なイメージからは、「異形性」も格別の存在だったと言えます。

映画の「異形の存在」たちは、このような、かつて「非人」と呼ばれていた、異形の存在たちを彷彿とさせるものも含めて、よく描かれていたと思うのです。宮崎駿が、そのことを意識していた可能性も十分あります。

ところが、このような「非人」が、後に、差別の対象になるということは、その力の源である「聖なるもの」そのものの見方に、変化が起こったということです。
「聖なるもの」は、単純に「畏れ、敬われる」存在でなくなり、特に、「異形性」の強い、「狩猟民的な精霊」などは、むしろ、「恐れ、蔑まれる」存在となっていった、ということです。(「妖怪」と呼ばれるような存在が、そのことをよく現しています。)

そして、そのようなことと連動して、それを体現するとみなされた、「非人」もまた、差別の対象として、蔑まれることになっていくのです。

私の接したものを含めて、これらの「異形の存在」たちが、現在では、人間に対して、冷たい態度をとっているようにみえることを述べました。しかし、それは、このような「差別的な見方」に対しての、当然の反応ということもできるでしょう。明示はしていませんが、その辺りの「感じ」もまた、映画では、よく暗示的に示されていたと思うのです。

2019年8月29日 (木)

『千と千尋の神隠し』と「カオナシ」

最近、テレビで放映されて既に大分たちますが、私にとって印象深い映画の一つなので、ここで、少し述べることにします。

私は、映画で公開されたときに、映画館で見ましたが、さらにテレビで2,3回は見ています。そのごとに、結構新しい発見があったりします。

この間見たときも、まず感じたのは(初めに映画館で見たときは、それ以上の感慨がありましたが)、それぞれの場面、特に、千尋が入り込んだ「異界」の情景描写の細かさとリアルさです。これは、最近のアニメーションの傾向で、技術の進歩により可能になったものでしょうが、それにしても、この「異界」の情景を細やかに表現することは、単純な想像力では難しいことだと思います。

私は、この「異界」描写に、3つ位の意味で、「デジャビュ」がありました。
一つは、一連の体験で、私自身が遭遇した、「精霊的な存在」を思い起こさせるものだったということです。映画に出て来る存在たちは、私と出会った存在たちとも、多くの点で、似通っていて、異様な姿形や醸し出す雰囲気など、そっくりです。

もう一つは、私は、夢で、異国や異界に行くものをよく見ますが、それらとの類似も多かったです。夢では、建物や自然の景色の情景が、細部まで、かなりリアルに見えますが、それらともよく重なるものでした。恐らく、宮崎駿氏自身も、夢から、多くのアイデアを得ていたと思われます。

さらに、もう一つは、後に行くことになった中国で見た情景とも、多く重なるものでした。実際、「異界」の建物の多くは、中国の飲食店街をモチーフにしたものと解されますが、私は、この時点では、中国に行く予定もつもりもなかったにも拘わらず、この映画を見た時点で、中国の情景についての「デジャビュ」があったのです。

しかし、この映画の本当の意味合いは、何と言っても「内容」そのものにあります。それは、一言で言えば、「本当のこと」、「真実」を現しているということです。だからこそ、多くの人に、感動をもたらすことができるのだし、多くの人が、実際、どこかの部分で、そのリアリティを感じているはずなのです。

この世にありつつも、ふとした機会に、この世とあの世の境界に紛れ込み、人間が、人間以外の存在と交流することはある、ということです。そして、それは、「イニシエーション」的な意味合いをもたらします。千尋も、この「異界」で、生死に関わる、様々な経験をし、試練を乗り越えて、無事に、この世に戻ることができました。その後のことは描かれていませんが、この経験は、千尋に大きな「成長」をもたらしたはずなのです。

千尋は、まさに、先住民文化や昔の文化であれば、成人儀礼を受ける頃の年です。しかし、このイニシエーション的な経験は、成人儀礼以上のハードなもので、それを越えています。むしろ、このような大きな体験をしてしまった千尋が、その後、人間の世界に適応できたかどうか、心配になります。

私も、千尋の「異界」での体験は、自分自身の一連の体験と重なり合うので、感情移入して見ることになり、大きな「カタルシス」を得ました。一連の体験で、「虚無との遭遇」の後、いわばリハビリに向かうことになったのですが、その後すぐ読んだ『影の現象学』と『オルラ』が、自分の体験とも重なるところが多く、大きなカタルシスになったことは述べました。この映画も、そのときのものに、匹敵するものがありました。

「異界」の存在たちは、映像描写もさることながら、そのキャラクターも、よく描写されています。これらの存在は、全体として(「ハク」など一部を除いて)、人間に対しては、冷たいというか、厳しい態度をもって臨んでいるのが、分かります。この、「異界の存在」と「人間との関係」というのが、この映画の、一つの重要なテーマとなっていると思われます。

私も、一連の体験で出会った存在たちの、人間に対する、どこか刺々しい、冷たい態度には、辟易し、理解に苦しみましたが、この存在たちの千尋に対する態度は、その辺りも、よく表現しています。

ただ、彼らは、あからさまに排他的とか、敵対的とか言うのではなく、どこかで受け入れているような、受容的な態度を示したりもするのです。魔女である「湯婆婆」ですら、子供の「坊」には、滅法甘く、弱いとか、ときに千尋を頼ったりするような、「憎めない」ところを見せたりします。

これらの存在には、人間にはない、どこか「憎めない」「ドライさ」があったりもするのです。それらの感じも、よく描写されていると思います。

しかし、彼らの、人間に対する冷たい態度には、人間の側にも理由があると言えます。初め、千尋の両親は、この世界に入るなり、店にあった食べ物を勝手に食べあさってしまい、豚にされてしまいました。思慮、遠慮のない、この食べあさる姿は、まさに、豚を彷彿とさせるものでしたが、そこには、自業自得というべきところもあると言えます。

この銭湯に、「腐れ神」が来て、ヘドロのような大変な廃物を吐き出しますが、その廃物は、まさに人間世界の(産業)廃棄物そのもののようでした。それが、細部まで、非常にリアルに描かれているのも、強烈なインパクトがありました。「腐れ神」は、そられを吐き出した後、元の奇麗な姿に戻って、喜んで飛び立つのですが、この神を「腐れ神」にしたのは、人間の人工物だったということになります。そこにも、人間の影響がみてとれます。

彼らが、人間を嫌い、冷たい態度になるのには、理由があると言わざるを得ません。

また、「異界」の存在の中に、「カオナシ(顔なし)」というのがいます。まさに、「顔のない」、「個性がなく」、「影の薄い」存在なのですが、金を生み出すなど、特別の力を持っています。それが、千尋には、ひかれたか、ストーカー的につきまとったりします。

この存在は、「主体性」はないのですが、自分が食べて、飲み込んだ者に、いわば内から乗っ取られ、操られるようになるのです。そのようにして、飲み込んだ者の、強烈な欲望のもとに動くようになり、まったく、豹変するのです。彼が飲み込んだ「カエル」は、「カオナシ」が生み出す金を、周りにばら撒く代わりに、店の食事を全部持って来こさせたり、奉仕をさせるなど、好き放題をするようになります。

店の者達も、競って、金をもらおうと、「おねだり」し放題です。この辺りの描写は、なにか、いたたまれないほど、「人間的なもの」を感じさせます。そして、ここでも、この「カオナシ」が食べた、莫大な量の食事の残骸が、非常に細かく、リアルに描かれていて、強烈なインパクトがあります。この、「食べ物の残骸」というのも、先の廃棄物と同じく、人間の(無駄に)廃棄するものを象徴していて、彼らに嫌われる理由の一つかもしれません。

また、この「カオナシ」は、私には、日本人を象徴しているようにも思われます。個々人は、主体性はないにも関わらず、何かに、乗っ取られると、そのものの性質を一気に帯びて、強力に突き進むところがあるということです。現在の日本は、とりあえず、アメリカを飲み込んで、内から、アメリカに乗っ取られているということができるでしょう。

千尋も、「カオナシ」に、あなたは、「ここにいるからいけないのだ」と言い、「銭婆」のところへ行かせますが、とにかく、主体性がなく、周りに染まりやすいのが、この存在のもたらす問題なのです。

その他、「異界」の存在の中では、やはり「ハク」が、際立っています。私も、この存在が、ある「川の神」であって、かつてその川で、溺れかかった千尋を助けたことがあるというところでは、グっと来てしまいました。この川の神ということを止めることになったのにも、確か、人間の開発による、汚染が関係していたと思います。

「ハク」は、名前を奪われることで、かつて「高貴な」神だったことも忘れ、「湯婆婆」の手下として、働くことになります。ところが、千尋との関わりで、名前を思い出すことで、真の自分を取り戻します。

この「名前を奪う」というのが、「湯婆婆」の「魔術」ないし「洗脳」のやり方なのですが、この名前は、単に「名前」というのではなく、その者の「真の記憶」であり、「本来の存在」ということを意味するのでもあるでしょう。たとえば、人間であれば、「前世の記憶」を奪われることで、この世に閉じ込められ、さらに、本来の「霊的本質」を忘れることで、自分を見失い、「魔術」的に支配される、ということに通じてきます。(『エイリアン・インタビュー』では、この「霊的本質」を、「IS-BE」と表現していました)。

千尋も、「千」という名前を与えられることで、千尋としての生を忘れ、そのまま「湯婆婆」の手下として、奴隷的な生を送ることになったかもしれません。しかし、「ハク」との関わりで、千尋として、この世に帰ることができたわけです。

しかし…、この「異界」の「湯婆婆」の支配する世界の描写は、「カオナシ」の描写が日本人を象徴するように、全体として、人間の「この世」の有り様を、象徴するものがあるともみられます。別の世界のようであって、本質的には、全く、別の世界ではないということです。だとすると、無事この世に帰って来た千尋も、決して「奴隷的」、「支配的」な世界のあり様から、解放されるということにはならないことになるでしょう。

ただ、千尋は、「異界」の体験によって、そのような世界に対処するに必要な知恵を、いくらかとも身につけたのは、間違いないことと言えるでしょう。

 

2019年8月 5日 (月)

ムーと縄文の「テクノロジー」について

ミナミAアシュタールの『新・日本列島から日本人が消える日』で、情報源のさくやさん(呼び捨てでは呼びにくいし、氏というのも合わないので)は、「縄文文明は、高度の<テクノロジー>を有していたが、それは現代のテクノロジーとは違うものだ」と言っていた。ただ、その具体的な記述はほとんどなかったので、それがどのようなものか、気になっていた。

ところが、この度、ブログ(https://ameblo.jp/kuni-isle/entry-12500124278.html)の方で、このことを少し詳しく述べていた。

(※かつて、記事の転載をしていましたが、転載は禁止ということなので、当該記事をお読みください)

「テクノロジー」と言っているが、それは、現代の物質文明的なテクノロジーとは、全然違うものであることがよく分かる。

私も、縄文に、ある種の「高度」の「文明」と「技術」があったことは、疑いないとみていたが、それは、たとえば、土器製作や建築の技術とか、稲作の技術とか、形に現れるものから、推し量られるものではないと思っていた。一種の「精神文明」ということである。しかし、このようなものは、はっきりと形には残らないだけに、想像的に推理するしかなく、具体的にイメージすることは難しい。

もちろん、さくやさんも指摘するように、縄文土器は、高度の燃焼技術がないとできないことや、渡辺豊和著『古代日本のフリーメーソン』(学研)も明かにするように、石の配置と結びつけて、夢で得た情報を遠隔地に送信する、「繩文夢通信」という、高度な通信技術があったことなど、形に現れる要素もあるにはある。しかし、それらも、精神的なものと連動することによって、初めて意味をなすものであり、精神文明と融合したものであったことは、当然予想された。

今回の、さくやさんの記述では、縄文文明が、テレパシーや、テレポート、念動力などの精神的技術が、広く一般に行き渡る、一種の「精神文明」であることが、はっきりと述べられている

テレパシーが、日常において当然のように行われることは、アポリジニーなどの「先住民文化」でもみられることだし、「先住民文化」の、シャーマンを中心にした儀式などでは、それを人々の間で共有するのに、テレパシー的な伝達が、重要な要素であることは、何度か指摘した。

だから、縄文にも、それは当然予想されることだったが、テレポートや念動力なども、日常的に行われていたということには、多少の驚きはある。

それ以前の、「超古代文明」といわれる、アトランティスと併存した、ムー文明は、縄文の元となる文明として、テレポートのような、高度の精神的技術はあっただろう。また、物質文明的にも、現代からすれば、未来に属するような高度の技術を有していた可能性がある。しかし、一応、歴史的にも、現代に連なる、縄文において、このような高度の精神技術が発達していたとしたら、やはり驚きの部分はある。

しかし、何よりも、さくやさんの記述で、重要なことは、このような「技術」は、「超能力」ではなく、あくまで「テクノロジー」と呼ぶべきものだとしていることである。「超能力」であれば、誰か特殊の「能力」をもった人物が、それを独占することになる。しかし、それは、「波動エネルギー」の知識をもつことによって、誰もが発揮し得たものだから、「テクノロジー」そのものだと言うのである。

私も、たとえば、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」に絡めて、そのようなことを演出する「技術」があるにしても、それは、霊的な存在の「能力」によって可能なものだと、何度も指摘して来た。それは、「テクノロジー」と言った場合、現代文明の、物質的な機器を利用した、「技術」の延長上に理解されるものなので、それとは異なることを、はっきりさせるためである。「テクノロジー」というのが、そのようなものとして解されている限り、それは、やはり、混同されてはならないと思うのである。

しかし、さくやさんのような観点から、「テクノロジー」を捉えるなら、やはり、そのような「能力」も、広く、知識に基づいてなされる、「テクノロジー」と言ってよく、ただ、現代に言う「テクノロジー」とは、性質の違うものということになるだろう。

「宇宙人」の技術は、意思ないし思考と、物質的な技術が連動したものであることを、何度もみたが、むしろそれこそが、「テクノロジー」ということの本来のあり方とみられる。だとすれば、その全体を捉えて、それを「テクノロジー」と呼ぶことは、むしろ理に適っていることになるだろう。

我々の現代の、物質一辺倒的な「テクノロジー」というものが、本来の「テクノロジー」ということからは、逸脱したものであるということである。

とは言え、現代において、そうしたものこそが、「テクノロジー」として捉えられている限り、あるいは、超能力的な能力が、事実上、特殊な能力でしかあり得ない限り、少なくともその間は、やはり、そういうものは、「テクノロジー」とは区別して、「能力」と呼ぶのが適当と思うのである。

 

2019年7月 6日 (土)

『新・日本列島から日本人が消える日』

前々回、前回に引き続いて、「チャネリングもの」の紹介になるが、今回は、ミナミAアシュタール著『新・日本列島から日本人が消える日』(破・常識屋出版)という本。これは、真に貴重な書で、これまで、古本では、プレミア価格がついて、あるにはあったが、この度、新たに、加筆して、出版されたもの。

これまでの地球の人類の歴史を、特に、日本を中心にして、背後の宇宙人の視点から、分かりやすく、簡明に総括している。情報源は、「さくや」という、ムー、縄文日本を背後で指導したドラコ系宇宙人で、日本に大きく関わる存在である()。だから、これまでの、一般のチャネリングものでは、あまり、明らかにされない、日本人の観点から、真に知りたいことを、包み隠さず明らかにしてくれている。私も、大枠では、知っていたり、あるいは、予想していたことも多いが、まさに、最も知りたいことの核心に迫っているものがあった。

簡明に述べられている反面、切り捨てられた面や、ある種の一面性も感じるが、それは、このような「切羽詰まった」状況で、大枠の流れを押さえるという必要上、致し方ないと思う。むしろ、簡明ということは、率直に、包み隠さず述べられる、ということでもあり、レプティリアン(私は、レプティリアンに代表させているという風に受け取る)や支配層の、非人間的で、あくどい、謀略的な陰謀が、これでもかというぐらいに、明らかにされている。我々日本人が、いかにお人よしに、それに乗っていたかということでもある。この辺りの、容赦のなさは、前回も述べたように、最近の宇宙人情報の流れに繋がるものといえる。

特に、岩倉具視を中心に、日本の支配層が彼らと手を組んで行った、明治維新から、第二次大戦当たりの、「レプティリアン-イルミナティ」の支配構造に日本を取り込みつつ、日本をたたき潰すための、戦略についての語りは、圧巻である。

(その前の、長く続いた江戸の社会は、縄文との繋がりの強い、信長、秀吉、家康らが、ムー、縄文の社会をモデルに、それに近い平和な社会を築こうとしてできたものというのも、非常に興味深い。)

元々の始まりは、レプティリアンによるアトランティス文明とドラコ系によるムー文明の対立に始まり、ピラミッド型の支配構造を貫徹する、アトランティス人と、背後のレプティリアンが、それに与しない、「軽い波動」のムー人を嫌って、様々に、排除の仕掛けをなしたことによっている。

縄文日本は、そのムーの子孫たちであり、その子孫たちも、様々に排除の仕掛けを被って、現在は、沖縄やアイヌ、一部のアメリカ先住民、チベット人、古来のユダヤ人などの、ごく少数派として追いやられている。

ただ、現在の日本人も、(レプティリアンの傘下の)ナーガに指導された、大陸系弥生人の血を大きく入れているとはいえ、縄文の血を受け継ぐものである。ただ、血というよりも、日本列島そのものに、ムーの波動は刻まれているので、その住人としての日本人には、「レプティリアン-イルミナティ」による攻撃が、執拗に続けられることになる。

そして、タイトルにもなっている、「消える」というのは、「レプティリアン-イルミナティ」の支配構造が占める、この三次元的な領域から、「次元上昇」して、「見えなくなる」(干渉し合うことがなくなる)ということを意味している。かつて、マヤ文明の一部の人たちも、なしたことだが、日本人に、そのような方向での「選択」を勧めているのである。

一見、非現実的、あるいは、「無理な要求」のようにも感じられるが、「好きなことをして、ご機嫌でいる」という簡単なことで、波動を軽くしていれば、十分可能なことという(それは、前回も述べたように、地球自身が、既にそのように選択したからでもある)。この当たりは、「ワクワクすることをする」というバシャールにも通じるところである。

何しろ、読みどころはたくさんあるので、ぜひ読んでみることを勧める。

(それを期して、私も、あまり詳しいことは述べない。前々回と、前回紹介した本のどれかというなら、私は文句なしに、この本を勧める。)

※  日本的になじみ深い言い方で言えば、「龍神」ということになるし、本書でも触れられているとおり、記紀神話の「コノハナノサクヤヒメ(木花咲耶姫)」のモデルとなった存在でもある。この辺りは、「神々」とみるか「宇宙人」とみるかで、随分イメージが違ってくる。

なお、前々回、前回紹介したものとの対比で言うと、奇しくも、今回は、「日本と関わりの深い存在による、日本人チャネラーによるもの」、前々回は、「日本ばかりか地球との関わりも薄い、第三者的な存在によるもの」、前回は、「地球と関わりの深い存在による、日本在住のチャネラーによるもの」という風に、日本との距離感が、それぞれ異なるものになっている。だから、どれかと言うなら、それぞれの興味と関心から、選んでもらえばいいし、それぞれに十分の意義があると思う。ただ、これだけ深く、詳しく、日本を中心にした視点から示された情報も珍しい(詳しさ、分かりやすさは、「日月神示」より断然上)ので、今回のこの本を特に推している。

2019年6月26日 (水)

『令和元年からの[地球:人類]』

記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』などで何度かとりあげた、A・ジョルジェ・C・Rの新著『令和元年からの[地球:人類]』(ヒカルランド)が出ている。

著者は、日本在住のポルトガル人チャネラーで、内容は、全人類に向けてのものだが、日本を中心に述べられている。日本が中心になるのは、日本こそが、化学物質や電磁波情報システムによる人々のクローン化が、最も進んだ国だからでもある。

今回も、前著同様、容赦のない内容で、特に、電磁波情報システムによる人々のクローン化がいかに進んでいるか、徹底されようとしているかが述べられている。ネットやスマホを通して、情報を取り込むことは、その内容だけでなく、電磁的な情報システム自体を、肉体やエーテル体に刻み込むことであるのが強調される。その情報システムを通して、支配的な宇宙人の操作を受けやすくなるだけでなく、様々な障害を生じ、遺伝子的な変化も起こり、世代に伝えられていく。また、結果として、霊的なものへの興味や指向を失うのみならず、全体として、自己の霊的な部分そのものを、削ぎ落として行くことになるという。

「アセンション」については、あくまで地球の意志なのであり、アセンションするのは、地球なのであることが強調される。我々人類は、現状で、それに乗れない人の方が圧倒的に多く、乗れるとしても、10%に満たないという。それでも、地球は限界状況にあるので、もはや猶予はしようがないということである。

また、地球のアセンションに伴い、太陽や宇宙から、フォトンエネルギーやコズミックエネルギーなどのエネルギーの放射も増大する。アセンションとは、宇宙的な関わりにおいて生じる出来事でもあるのである。それらは、地球に、(浄化のため)異常気象や地震などの天変地異を引き起こす。異常気象や地震などの天変地異には、支配層や支配的宇宙人による人工的なものもあろうが、全体として、宇宙的な関わりの中で起こっていることの認識は、改めて必要と思われる。

もはや、その方向は後戻りできない状況にあって、今後6年のうちには、決定的なことが起こるとしている。

支配的宇宙人は、もちろんそれを阻止しようとするのだが、最終的には、「サイバー攻撃」を準備しているという。それは、単に、情報を撹乱するというのではなく、核エネルギー以上の威力を有する、電磁的な殺傷兵器で、情報システムを介して、一瞬にして多くの人を殺せるという。

私も、支配的な宇宙人は、最終的には、自暴自棄的に、破壊そのものを意図するようになることを懸念していたが、やはりそのような状況になって来たというほかない。

前回の『エイリアン インタビュー』もそうだし、これは最近の傾向なのであるが、地球のどうしようもない現状を、徹底的に暴き出す情報が増えている。これには、リサロイヤル他『プリズム・オブ・リラ』も言っていたように(※)、地球人に対しては、抑制的な表現では効果が発揮できず、より直接に、あえて恐怖を喚起する仕方で、訴えかけていくほかないというのが、最近の宇宙人たちの共通認識になりつつあるということが、影響しているだろう。

しかし、それは、実際に状況が、切迫したものになりつつあることの反映でもあるはずである。

何しろ、この書は、状況がいかに切羽詰まったものであるかということを、率直に、力強く、訴えかけているのである。

アセンションに向けては、我々に対して、何も難しいことを要求しているわけではなく、このような現状を認識して、支配的宇宙人の奴隷と化すのではなく、「霊性的なもの」への興味や指向を失わないで、向上して行くことを述べているだけである。端的には、「地球のアセンションにとって、邪魔にならない」ということなのだが、それが、現状の人間には、やはり「難しいこと」になってしまうのでもあろう。

※ 重要と思われるので、この部分を引用しておくことにします。

これまで宇宙人たちがとってきたあらゆる穏便な方法は、あまり功を奏しなかったと言えよう。一方、ここ数十年来、宇宙人たちが地球人に対して用いる基本的な戦略は、人類の覚醒を促す上で、従来の方法より深遠な可能性を秘めているようである。一部の宇宙人は、人類の恐怖心を煽る戦略をとりつつある。残念ながら私たち地球人は、肯定的なことより否定的なことを真実として受け入れる傾向を持つ。否定的なことを肯定していくという人類特有の認識の仕方が、これまで人類が否定してきた現実に、人類を同化させるための手段として使われ始めているのである。恐怖心には高い覚醒効果があるということになる。

ただし、端的に、恐怖と絶望を煽ることを意図とした、否定的な宇宙人によるチャネリング情報もあるので、その見分けには注意を要する。

チャネリング情報について

もっとも、私は、チャネリング情報に関しては、全面的にボジティブとか全面的にネガティブなどということはあり得ないという立場である。チャネラーは人間である以上、ポジティブな宇宙人とチャネルするときも、状態によりネガティブな存在の影響を受けたり、ネガティブな捉え方が「翻訳」に反映してしまうこともあり得る。一方、ネガティブな宇宙人の情報だからと言って、全面的に虚偽や悪意に出たものとは限らない。ポジティブな宇宙人、ネガティブな宇宙人という区分けも、決して単純にできるわけではない。せいぜい、全体として、どちらが勝るものであるかということが言えるだけである。

だから、チャネリング情報については、全面的に受け入れるとか、全面的に切り捨てるということではなく、内容そのものに注目したうえで、注意深く検討していくしかない。

しかし、私は、概括的に言うなら、チャネリング情報には、(自分自身の体験を消化していく際にも、大いに参考になったものがあり)人間の考察などより、はるかに有意義な内容のものがあることを認めるものである。もちろん、このプログでとりあげているようなものは、そのような内容を含むものと思ってもらってよい。

2019年5月23日 (木)

『エイリアン インタビュー』

1947年の米国のロズウェル事件は、UFOが米ロズウェル近くの地上に墜落し、軍が機体と搭乗していた宇宙人数体を回収して、ライトパターソン等の基地へ運び、保管したとされる有名な事件である。

そのとき回収された、生存していた宇宙人が、看護役の米国女性に語ったとされる、インタビューの内容が、最近暴露され、本になっている。(『エイリアン インタビュー』リーダーズ・エディション)

宇宙の実情や地球について、UFOの飛行原理など、かなり詳細な内容を語っており、貴重なものといえる。

どこの惑星から来たかは秘しているが、報告される容姿等は、典型的なグレイタイプのゼータ星人に似ている。ただ、地球との関わりが、観察、調査等、第三者的立場のようで、通常のゼータ星人とは、違うようである。

話の内容も、宇宙の中での地球について、宇宙の犯罪人やならず者が放り込まれる、最悪の「収容所」であり、支配的な宇宙人の完全な奴隷惑星となっているとして、徹底的にこき下ろしており、これまで地球に関わって来た多くのタイプの話とはかなり異なっている。

地球が、宇宙の中で、非常に遅れた惑星であり、奴隷的な状態にあることは、多くの宇宙人が指摘することではあるが、多くの場合、それは一面的にされることではなく、よい面とか、今後の可能性とかと一緒に提示される。しかし、この宇宙人は、これでもかとばかりに、一面的、極論的に、地球の「どうしようもない」現状を暴き立てるのである。

たとえば、こんな風にである。

地球は、 宇宙のこの領域の全てにとっての宇宙的なゴミ捨て場となった。

地球は「スラム街」の惑星である。 それは 銀河間で起きた「大虐殺」の結果である。

もしドメイン(宇宙の探検隊)が「地獄」を探しに宇宙の隅々まで宇宙船を派遣したら、その探索は地球で終点を迎えるかもしれない。

牢獄惑星の目的 は、IS-BE(後記参照) を永遠に地球に閉じ込めることである。無知、迷信と IS-BE 間の戦争を促進することが 囚人たちを障害者にし、電子バリアの「壁」の裏で捕えられたままにするのに役に立つ。

これだけをみると、この宇宙人は―あるいは、この宇宙人に託して語らせた地球の人物かもしれないが―、人間を恐怖と絶望に貶め、意気消沈させるために情報を流しているかのようでもある。

しかし、一方で、この宇宙人は、人間に限らず、宇宙の生命体の霊的な本質は、「不死」なる「IS-BE(イズ・ビー)」であることも強調する。「IS-BE(イズ・ビー)」とは、「IS(ある)」ということが、即「BE(なる)」ということと結びついていることからつけれられた造語である。要は、物質的なものを超えた、霊的な本質であり、「ある」だけで「そうなる」ということを決定できるような、完全に「主体的」な意志ということである。

地球人も本来は、そうであるのだが、「IS-BE(イズ・ビー)」としての記憶は消去され、地球に張り巡らされた、電子バリアで包囲されることで、訳も分からず、地球の霊界と地球の間で「転生」を繰り返して、「奴隷」としての生を送り続けることを運命づけられているという。この観点からすると、「輪廻転生」など、地球上で「スピリチュアル」として信じられている霊的な信念も、ほとんど支配的宇宙人に植え込まれた「洗脳」ということになるだろう。

いずれにしても、彼らも、その具体的な方法を開発したわけではないというが、本来は、「IS-BE(イズ・ビー)」としての記憶を取り戻せば、そのような状態から脱することは、可能ということである。

この、現状を、奴隷的な支配状態として、一面的に、ときに、恐怖させるほど、徹底的に暴き出す語り口。しかし、一方で、人間の本質はそれらに関わらない、純粋な意識だから、その覚醒意識にいたれば、それらを脱することができるとする説き方は、実は、デーヴィッド・アイクにそっくりなのだ。

全体の「感じ」としても、私は、アイクに近いものを感じるので、実際に、何かつながりがあるのだろうと思われる。この宇宙人の系統が、アイクの意識的かまたは無意識的な情報源の一つとなっている可能性もあると思う。(※1)

まあ、良くも悪くも、「第三者的」で、突き放したところはあるのだが、貴重な指摘であるのは間違いなく、聞く価値のあるものといえる。

また、支配という観点からみられた、これまでの地球の歴史や文明、UFOの飛行原理などに関しても、有意義な説明がある。

たとえは、古代エジプトのビラミッド文明は、「旧帝国」といわれる宇宙人らが興したもので、完全な支配のためのツールだという。「旧帝国」というのが何を指すか、分かりにくいが、『ブリズム・オブ・リラ』(リサ・ロイヤル他)などに照らすと、かつて勢力を誇った、支配的な「琴座人」と重なるようである。

「ピラミッド」とは、まさに「ピラミッド社会」という支配構造の象徴でもあり、米国の一ドル紙幣の絵としても描かれていることは有名である。しかし、ピラミッドには、他にも、必ずしも支配とはつながらない、「霊的作用」をなす面が多分にあり、バシャールなどもよくそれを指摘している。この宇宙人は、そのような側面は、ないものであるかのように、切り捨てて、支配的な面のみを、徹底して語るのが特徴なのである。

UFOの飛行原理については、UFOという機械構造は、操縦する者の思考・意思と結びついて、存在していることを強調している。操縦する者の思考・意思が、直接、UFOと連動し、その思考・意思のままに操縦できるということである。これは、UFOだけでなく、宇宙人の技術の一大特徴と解され、重要な点である。記事『「宇宙人の技術」と「霊的なもの」 』でも、グリア博士などの説をとり上げつつ、このことに触れている。バシャールも、同様に、UFOが意識と連動して飛行するものであることを、よく語っている。

地球上でも、ごく初歩的なものでは、機械と人間の思考・意思をつなげること(BMI=ブレイン・マシン・インターフェース)は実現されているから、その延長上にあるものとして、理解は可能であろう。ただし、地球上のもののように、電磁的なネットワークで結ばれた、神経的な連動ではなく、「テレパシー的な連動」ということなので、そこには大きな飛躍があるのも事実である。

一つの分かりやすい説明では、魂(脳ではない)が肉体を操るのと同じような意味で、UFOを操るということである。彼らは、必要でないときには、自由に肉体から離脱でき、必要なときには肉体に入って肉体を操るが、肉体と同じように、UFOをも操ることができるということである。

まあ、なにしろ、この宇宙人の語りには、通常のチャネリングものなどとはまた違った、新鮮味があり、興味深い点も多いので、興味がある人は、読んでみたらよいだろう。

※  本文と直接関係ないですが、元NASAの日本人職員の語る宇宙人情報(https://www.youtube.com/watch?v=ydPUuEiUJiU )も興味深いので、あげておきます。

どこまでが、NASAとして把握する事実で、どこまでが個人的な見解かは分かりにくいですが、かなりインパクトのあるものです。

あなたは、話の内容にビックリ?それとも、ビックリマンシールの開発者であることにビックリ?私は、大橋巨泉の友人という以上に、本人とそっくりなことにビックリ(笑)。

※1 より端的には、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』で述べたように、モンローに、人間に関する宇宙的捕食システムについて情報を与えた「インスペックス」に近いといえる。

2019年4月12日 (金)

「日月神示」の言葉 3

今回は、『日月神示』の文庫版(電子書籍版)、一二三』(文芸社)を読んだので、前と同様、印象に残った言葉を2、3掲げておきます。

主意である、「神一厘の経綸」については、既に記事『「神一厘の経綸」について』 、『「神示」が語る「悪の仕組み」』で十分述べたので、ここにあげるのは、本筋からは外れるかもしれないが、特に印象に残った言葉となります。

記事『「日月神示」の言葉』、『「日月神示」の言葉2』のときと同様です。

 「食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのじゃぞ。」

最近は、「食べない人たち」()が、かなり表に出て、多く知られるようになっている。「食べるからこそ死ぬ」ことも、慢性病が異様に拡大した現在、「食」の問題が取りざたされて、頷けることにはなっている。だから、さほど衝撃的というわけではないかもしれないが、強烈に逆説が効いた言葉である。当時としては、受け入れ難いほど、衝撃的な言葉であったに違いない。

現在でも、「食べない人たち」がいるのは知っていても、やはり、普通は「食べなきゃ死ぬだろう」と思っている人の方が圧倒的に多いはずだ。現実に、途上国その他で、「食べられない」が故に、餓死している人も多いのでは、ということにもなるだろう。

しかし、「餓死」というのは、「食べない」ことが直接の原因ではないとも考えられる。たとえば、様々な環境的条件により、免疫系を衰えさせ、感染症を招くなどの理由が考えられる。「食べなければ死ぬ」という、文化的、社会的信念体系の影響も大きい。

とはいえ、私も、誰もが、そう容易く、「食べない人」になれるとも思えない。その意味では、「食べないで死ぬことない」というのは、「本来は」という、本質論上の話というべきものである。

それは、本来は、「誰もが超能力を持っている」というのとも、同じような次元の話で、それはそうでも、現実にそれを発揮する人は、少ないのである。

それにしても、実に、本質的なことを、見事に、さらりと、提示してくれている。

  「悪を食って暮らさねばならん時、近づいたぞ。悪に食われんように、悪を噛んで、よく消化し、浄化してくだされよ。」

これも、「食」に関する言葉。「悪」とは、「捕食者」とした場合、これも非常に逆説に満ちた言葉である。

本来は、「悪」が我々を食うのであるが、我々の方が、「悪」を食って暮らさねばならない時代が近づいたという。悪を「食う」とは、それを、他の神示の言葉に照らして言えば、悪を「抱き参らせる」ということであり、そのうえで、それをよく消化して、受け入れ、「浄化」していくということになろだろう。

とはいえ、本来、「悪」の方こそ、「捕食者」なのであるから、よほど注意して、噛んで食わないと、我々の方が食われてしまうことになりかねない。まあ、「食うか食われるか」というのは、本来の、自然状態では、当たり前のように行われている状況なのではあるが。

しかし、「悪」が我々の食糧源となるのであれば、これほど、食に恵まれた時代もまたとないといえよう。なにしろ、現代では、我々を取り巻く、そこら中が、「悪」であふれ返る状況なのだから。

そして、この「悪」を、皆で目出度く食いつくしたとき、1で述べられたように、我々も、晴れて「食べない人」となることができるのかもしれない。

  「そなたは、つまらんことにいつも心残すから、つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すということは、霊界との繋がりがあることぞ。」

これは、私も、よく経験することであるが故に、少しショックだった。かつては、そんなことはなかったはずだが、最近は、「つまらないこと」に「心を残す」と、ほとんどすぐさま、それが、何らかの形で、「出てきてしまう」ように思う。まるで、時間的猶予のない「カルマ」のようである。

たとえば、『「ハイブリッド」と「集団ストーカー」』という記事でも、「つまらないこと」に囚われて、それに「心を残した」途端、それをつくようにして、「ハイブリッド」と思われる存在に、「つまらない」「絡み」を受けたことを述べた。

「心を残す」ということは、「霊界との繋がりがある」ということで、「つまらない」ことは、「つまらない」(低級な)霊界に通じてしまうのである。そして、その「つまらない」ことをとっかかりにして、彼らの影響を大きく呼び寄せてしまう。その結果、「つまらない」ことが、拡大されて、現実に「出てきてしまう」のである。

まあ、こういうのが「すぐさま」出て来てくれた方が、その原因が自分の「思い」にあることが分かりやすいし、その修正もまた、しやすいことにはなる。

「つまる」ところは、「つまらない」ことに、心を残さないということである。

 

※ ここに、「食べない人」(ブレサリアン)に関する概括的な記事があるので紹介しておきます。

「ブレサリアン」には、心をぶれサリアンされた人も多いかもしれません(笑)。

私も、記事で述べたように、一連の体験中、20日間ほど一切食事をしなかったことがあります。が、これは、あまりにも張りつめた意識状態にあったため、「空腹感」が一切生じなかったのと、食事をとるという余裕(行動意欲)すらなかったことによります。

今思っても、一番つらい時期ではありました。まだ、「霊的なもの」の作用であるという確信も持てず、何がなんだか分からず、いいように振り回されていた時期です。

ただし、一日2箱ほどのタバコと2本ほどの缶コーヒーは必需品でした。「ブレサリアン」ではなく、「ニコチニアン」または「カフェイニアン」ということになりましょうか。いずれにせよ、最強、眞逆の「不健康状態」ですね。

しかし、この「食べない」状態を「理論上は」、続けられ得るということは、このとき十分実感したし、「空腹感」というのも、意識の問題であることを実感しました。

2019年3月17日 (日)

「廃仏毀釈」の意義(転載)

前回に引き続いて、ブログ『オカルトの基本を学ぶ』(http://tiem-occult.seesaa.net/)の方に投稿した記事を、転載しておくことにします。

それまでの日本の伝統文化を破壊するのに、決定的な役を果たした、明治政府の施策、「廃仏毀釈」について述べたものです。それは、端的に、「霊的なもの」の排除でもありました。

明治政府が、それまでの日本の伝統文化を破壊するというのは、様々な面にわたって、様々な制度においてなされたことです。しかし、それを象徴するような施策を一つあげるなら、何と言っても、「廃仏毀釈」ということになるでしょう。

「廃仏毀釈」というのは、「仏教を廃し釈迦の教えを棄却する」という意味の施策です。実際に、明治政府により、推し進められ、実行されたものです。

日本の民間における信仰は、中世の頃から、「神仏習合」して、神社にも仏像など仏教的な形態のものが多く祀られて来ました。「仏」と「神」は、仏教移入当初から、様々に葛藤をもたらすものではありましたが、これを習合させて、平和的に共存させ、共に信仰の対象として敬って来たのは、庶民の知恵とも言えます。

しかし、明治政府は、外国から移入した仏教を排斥し、神道を国教化すべく、神社から、仏教的なものを廃棄したのです。また、それだけでなく、多くの仏教寺院を破壊し、僧を還俗させました。

仏教は、江戸幕藩体制では、「権力」に結びつく、重要な位置にあったため、その地位を貶めるべく、日本の固有の信仰ではないということで、排斥すべきものとしたのです。特に、新権力の一翼を担う薩摩では、凄まじい排斥がなされたようです。

ネットでも、『日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか?』という記事(https://diamond.jp/articles/-/114630 )は、この「廃仏毀釈」について、簡単に、概要とその重要な意味が述べられていますので、参照ください。

一見すると、これは、やり方が破壊的だったとしても、「日本の固有の信仰を取り戻そうとした」ということ自体は、肯われることと解されるかもしれません。しかし、これは、「国家神道」という、新たな「国教」の樹立に向けられたものであって、日本の固有信仰を取り戻すようなものでは、全然ありません

むしろ、この「国家神道」は、天皇を「現人神」として中心に据えて、あらゆる信仰形態を再編し、それに沿わないものは排除する、ほとんど「一神教」的なものだったと言えます。西洋風の絶対君主制の模倣であり、日本の固有信仰とは、似ても似つかないものだったということです。

安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)も、《「廃仏毀釈」といえば、廃滅の対象は「仏」のように聞こえるが、しかし、現実に廃棄の対象となったのは、国家によって権威づけられない神仏のすべてである》と言っています。

仏教を排斥するというのは、一つのとっかかりのようなもので、実質的には、神々への信仰を、権力的な意図により、それまでの形態とは大きく変えてしまうことこそが、なされたことなのです。そこで、真に破壊されたものとは、一言で言えば、それまでの「民間信仰」であり、「固有信仰」そのものなのです。

たとえば、それまでの信仰では、神々への信仰であっても、必ずしも、神社という建物と結びついたものではなかったし、形式的な「祭司」や「儀式」ということが、重要なことでもありませんでした。さらに、「巫女」や「修験」のような「シャーマン」を通しての、「憑依」や「託宣」ということを通して、神々と交流する場もありました。しかし、明治政府によって、そのようなものは、「迷信」として禁止されたのです。

氏神というのは、村の共同体にとって、重要な統合のシンボルのようなもので、「社」と結びつくことが多かったのは確かです。しかし、それは、それぞれの共同体独自のものであったのが、「廃仏毀釈」により、国家が押し付けた神道形態のものに変えられます。それは、端的に、共同体にとって、固有の信仰の破壊と、新たな信仰の押しつけということになるはずです。

他にも、破壊されたものは多くあるのですが、要は、それまでの信仰において、「実質をなすもの」こそが、破壊されたということです。そして、国家に都合のよい形での、形式的、物質的な要素に嵌められるものとなったのです。私からすれば、実質的には、「目に見えない」「霊的な要素」こそが排除されたということになります。

それは、これまでにも何度も触れた、「オカルト的なもの」を排除するという、近代のあり方を決定づけた出来事でもあるのです。

普通は、戦後において、「国家神道」というものが、それ自体「オカルト的なもの」のようにみなされて、廃すべきものとされることになったと解されるのでしょう。しかし、実際には、その「国家神道」自体が、既に「オカルト的なものの排除」と結びついていたことを見逃すと、それによって、本当に排除された江戸以前の固有の文化をも、見逃すことになるのです。


※ 仏教排斥をとっかかりとしたことの意義

転載記事中に述べたとおり、「廃仏毀釈」というのは、日本の伝統文化破壊に向けての「とっ かかり」のようなもので、真に破壊されたのは、それまでの「民間信仰」そのものです。しか し、そのとっかかりは、「神仏分離」「廃仏毀釈」という、排斥対象が明確なものだったから こそ、神社の神職や民衆をも巻き込んで、効果的になされたものといえます。そこに、巧妙さ があります。

一つは、江戸期に仏教は優遇される位置にあり、寺請制度、寺壇制度により、民衆が寺の管理を受けていたので、神道に関る者や民衆にも、仏教を快く思わない者が多くいたということが あります。この施策は、それらの者の不満を、うまくすくい取っているのです。

また、ペリーの来航以来、一般に、外国による圧力を感じ、日本の伝統文化ということを意識せざるを得なくなっていたので、「外国から移入された仏教」の排斥ということには、訴えかけるものがあったと言えます。

まずは、民衆も味方につけつつ、仏教という、一大勢力を大がかりに排斥することから始めて 、結局は、民衆そのものの信仰や文化をも、国家の都合のいいように、改変(破壊)してしまっ たのです。つまり、国家にとって都合の悪いもの、管理しにくいものを、巧みに排除してしまったということです

2019年3月 3日 (日)

「近代社会」と「明治維新」に関する記事の転載

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』(http://tiem-occult.seesaa.net/)の方に投稿した記事ですが、「狂気」にも関係する重要なものなので、こちらにも転載しておくことにします。

ともに、「近代社会の常識」を意識的に覆して行かない限り、「オカルト」を捉え直すことは難しいということで、「近代社会の常識」を、改めて問い直したものです。

これらは、「オカルト」について述べたことですが、「狂気」につても、全く当てはまることです。実際「狂気」とは、「オカルト的なものに惑わされる」こと、そのものであることは何度も述べたとおりです。そのことが、「近代社会の常識」でみえなくされたために、「病気」ということで、「分かったこと」にする「誤魔化しのシステム」が、できあがったのです。

この、「誤魔化しのシステム」である、「精神医学」との関係では、既に、記事『「病気」ということの「イデオロギー」的意味』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-5403.html )、『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html)などで、これらのことは十分述べられています。

ただ、「近代社会の常識」そのものをとりあげたものとしては、今回転載するものの方が、分かりやすいかと思います。


「近代社会」という大いなる誤解

改めて、「オカルト」については、「近代社会」の延長上にいる我々にとって、この社会特有の「常識」(本当は「非常識」であり「誤解」)が、大きく立ちはだかっていることを感じざるを得ません。これを、十分意識的に、覆えしていかない限り、本当にオカルトを正面から捉え直すことは、難しいと思います。

記事中で、何度も、現代には、「オカルト」に対する嫌悪感や恐怖感が行き渡っていることを述べました。そして、近代社会が成立する直前に起こった「魔女狩り」を例にあげて、そもそも「近代社会」 とは、「オカルトに対する排除の意思」が強烈に具現された社会である、ことを明らかにしました。そして、それは、日本の場合にも当てはまることをみました。

我々が、その社会の中で生まれて、自然と身につけてしまう常識や感覚には、それらが強く染み込んでいます。現在は、かつてほどではなくなっているとは言え、「オカルト」に対しては、初めから、排除と蔑みの感覚がつきまとい、まともにみることを阻んでいるのです。

そして、それは、日本人にとっては、より強固なものになっていると思われるのです。

「近代社会」とは、我々日本人にとっては、まずもって、フランス革命以後の、「西洋社会」ということになるでしょう。しかし、日本も、明治維新後、その仲間入りをしたことになっているので、それは現代の「我々の社会」ということでもあります。

つまり、日本人にとっては、明治維新前の伝統的な文化と、それ以降の西洋化された「社会」とが、ほとんど断絶しているのです。「明治維新」という、かなり極端な形で、それまでの文化を排して、異質の文化を取り入れることをしたので、そのことが、より明確に浮き上がるのです。

そして、多くの日本人にとって、明治維新後の西洋化された「近代社会」こそが、今につながる、「正しい」社会のあり方であり、それは、かつての古く、迷信にまみれ、権力に抑圧された、「遅れた」社会を克服して、達成された、望ましいものということになるのだと思います。「近代社会」が、理想的な、完璧な社会とまで思う人はいないでしょうが、相対的に、以前の文化や、他の文化と比べても、進んだ、あり得る唯一の社会くらいに思っている人は、多いと思います。

このような認識においては、「オカルト」とは、かつての誤った「迷信」の象徴であり、過去の、克服したはずの「悪しき」文化を思い起こさせるものでしかない、ということになります。つまり、「オカルト」とは、我々がかつて、「切り捨てた」はずのものであり、もはや、決着のつけられたはずのものです。それを「切り捨てた」限りで、現在の「世界」に誇れる、「近代社会の一員」としてのアイデンティティがあるのです。

しかし、その「切り捨てた」はずのものが、「後ろ髪を引く」ように、我々の意識に浮上しては、我々を今も悩ませ続けるのです。そうなるのは、当然のことと言うべきです。実際、それは、我々の「失われた半身」とも言うべきもので、我々の「過去」そのものだからです。明治維新後とは、比べものにならないくらい長い間、かつては、実際に、そのように「生きられた」ものであり、我々の深いところに、今も潜み続けているはずのものです。切り捨てた「つもり」になることはできても、真に縁を切ることなど、できるはずもないものなのです。()

何も、捨てた「過去」に戻ることがいいということではないですが、「切り捨てたもの」は、新たな視点のもとに、捉え返される必要があります。そして、何ほどかの「和解」(統合)がなされる必要があります。そうでない限り、それは、今後も、「後ろ髪を引くように」我々の意識に現れては、嫌悪と恐怖を突きつけてくることでしょう。

 ブログ『狂気をくぐり抜ける』の『日本人が霊的なものを認めない理由』(   http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-f6e0.html    )という記事では、かつて「切り捨てた」ものを、過去つき合った異性にたとえて、この辺りのことを、多少過激に、しかし分かりやすく述べていますので、ぜひ参照ください。

「明治維新」の捉え方の変化―「進化史観」

前回、「近代社会の常識」を意識的に覆して行かない限り、「オカルト」を捉え直すことは難しいことを述べました。

しかし、最近は、「近代社会の常識」を問い直す見方は、様々な方面で現れています。日本の歴史においても、「明治維新」の捉え方が、これまでとは大きく変わって来ています

これまでは、「明治維新」とは、とりもなおさず、それまでの封建的で、迷信に満ちた、古い社会を改革して、西洋流の進んだ社会に変えた、画期的な出来事とされていました。「明治維新」そのものの価値が否定的にみられるということは、ほとんどありませんでした。

ところが、最近は、日本の江戸時代は、世界的にみても稀なほど、「豊か」な社会であったことが、示されつつあります。「士農工商」という身分的な区別はありましたが、決して移動の効かない固定的なものではなく、必ずしも、「差別」に結びついたわけでもなかったとみられます。物質的にみても、庶民全体として決して「貧しい」わけではなく、文化的にも、庶民レベルで、独自の、様々なものが発展して、享受されていました。幕末期に日本を訪れた外国人は、そろって、これらのことに驚きを示しています。

江戸時代、あるいはそれ以前の社会または文化を、「古く」、「劣った」ものとして、否定する見方が、一方的で偏ったものであることが、認められて来ているのです。だとすれば、それを一方的に否定した、明治維新の見方も、変わって来ざるを得ません。

むしろ、最近は、明治維新を、西洋の(金融資本家等の)支配層の戦略に乗って、日本の伝統的な文化を破壊した、残虐なクーデターであり、日本が西洋支配層の支配に取り込まれることを決定づけた、「売国的行為」とする見方も出てきています。

このような見方には、多少とも、「反動的」なものはあるでしょうが、決して根拠のないものではありません。明治維新が、西洋の黒幕の力を借りて、天皇をすり替えるなど、謀略に満ちた方法で、新たな権力を樹立したものであったことは、間違いないと思われるのです。この点については、かなり多くの研究がありますが、たとえば、比較的穏健に、説得力をもって示されている、加治将一×出口汪『日本人が知っておくべきこの国根幹の重大な歴史 』(ヒカルランド )を参照ください。

いずれにしても、このように、歴史的な出来事も、180度見方が変わり得るものであり、「歴史」というのは、「事実」そのものではなく、それをどう捉えるかの「見方」そのものであることを、改めて感じます。

ジャーナリスト船瀬俊介氏は、歴史=historyとは「his」「story」、つまり「彼の物語」なのだと言っています(https://www.youtube.com/watch?v=n9pS9tyTUN4 )。「彼」とは、その社会の「支配者」ということであり、歴史とは、あくまで、その社会の支配者が、その「正当性」を多くの民衆に押しつける「物語」だということです。

それまでの貴族社会や幕藩体制は、みかけ上の「支配者」が見えやすかったので、このことは理解しやすいでしょう。ところが、「明治維新」以後は、巧妙に、自由や平等の観念に隠されて、みかけ上「支配者」がみえにくくなっています。そのため、その「物語性」も読み取りにくくなっていますが、学校教育を通して広められる現代の「歴史」においても、結局は、同じことなのです。

(このような捉え方には、「陰謀論」という見方がつきまといます。この「陰謀論」というのにも、「オカルト」と同様、「非理性」「反理性」を象徴するものとしてのレッテルが、張られているのです。確かに、「オカルト」と同様、危険性を含み、扇動的なものが多いのは事実です。しかし、同時に、「隠された真実」を含むものがあることも、「オカルト」と同様なのです。この辺りのことは、またいずれ、とりあげたいと思います。)

私は子供の頃、「歴史ほどつまらない授業はない」と思っていたのですが、それは、このような一方的な見方を、ステレオタイプ的に押しつけられるところがあったからだと思います。

とは言え、私も、「明治維新」が、近代社会の一員となるために必要な、良き改革であったという見方は、自然に受け入れてしまっていました。教育による洗脳の効果というのは、恐ろしいもので、表だって、教育の内容自体を受け入れていないつもりでも、背景にあるものの見方を、知らぬうちに、取り入れてしまっていたりするのです。

そして、江戸時代以前の日本は、「貧し」く、迷信に囚われた社会で、世界的にも劣る、「恥ずべき」ものという見方も、自然にしてしまっていたと思います。いわゆる「自虐史観」的な見方です。

最近は、それが反省されたりもしているのですが、もちろん、反対に、ただ自文化を称賛すればよいというものでもありません。また、自文化を称賛すると言いつつ、本当には、江戸以前の日本の文化を、深いところから肯定しているとは思えないものも、よくみかけます。

特に、私の立場からすれば、これらの文化は、現在は「オカルト」とされる領域を重視して来た文化なのだから、それに対してどのような態度をとるのか、そこを曖昧にしている限り、本当には、自文化の見直しにはつながらないと思います。

ともあれ、我々は、明治維新という近代のあり方を取り入れて、新たに身につけられた見方を、当然の前提のようにして、それ以前の過去についても当てはめて、一方的に解釈してしまっているところがあるのです。

そのような、近代以降に身につけられた、歴史の見方で、最も問題なものを一つあげるとすれば、次の見方だと思います。

「歴史」は、過去から現代へと、「進化」して行く。つまり、人間は、時代とともに、「進化」して行く

この見方こそが、「過去」を、「古く」、「乗り越えるべきもの」として否定し、現代を、最も「進化」したものとして、「正当化」する見方をもたらす、根本だと思います。

しかし、そんな保証は、どこにあるのかということです。人間が、時間とともに「進化」するなどという保証は、どこにもないはずなのです。

実際、近代以前には、むしろ人間は、時間ととに「退化」するという見方の方が主流でした。

古代ギリシャでは、人間は、黄金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代という風に、時代とともに「退化」(堕落)するとみなされました。古代インドでも、同様に、サティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、カリ・ユガという風に、時代とともに退化します。ただ、ある出来事によって、初めのサティヤ・ユガに戻り、また退化して、そのサイクルを繰り返すという発想がされていました。

このように、全体として、人間は時代とともに退化するという見方の方が、明らかに「現実的」というべきです。また、「サイクル」というのも普遍的な発想で、中国や日本でも、元号が変わるごとに、時間そのものが振り出しに戻る、「サイクル」の発想がされていました。

逆に、時間というものが、直線的に進むという発想自体、西洋独自の発想であり、一神教的な宗教が、時間を規定することに始まっています。

時間が直線的に進むということは、ある目的を設定して、時間が、それに向って進むという発想を前提にして、初めて可能なことです。この場合の目的とは、一神教的には、「最後の審判」であり、その後に訪れるとされる、「永遠の救い」のことでしょう。キリスト教的には、このような意味の時間の始まりは、永遠の救いを約束した「イエス・キリスト」が生まれたとき、つまり西暦元年ということになります。

そして、「進化」ということも、このような、ある目的が設定されて、それに沿った視点から捉えられて、初めて言えることなのです。

「永遠の救い」ということは、目に見えにくく、測りにくいことですが、西洋近代には、目に見える表面的な目的として、「物質的な発展」ということがあります。それで、「進化」ということも、かなり見えやすいものとなったのです。

確かに、「物質的発展」という視点から、それに沿う「進化」を云々することは、できることでしょう。しかし、そのような目的自体、特定の価値観から設定されたものであり、普遍的ものとは言えません。現に、西洋近代以外の文化では、そのような目的は設定されていないと言うべきです。

西洋近代が、そのような目的を設定したのは、やはり一神教的な発想が根本にあり、「物質的な発展」とは、「永遠の救い」ということの、目に見える形の現れであり、あるいはそれに近づいていることの、一つの指標とされたからでしょう。(基本的には、資本家等を中心に、物質的、経済的に「富む」ことが、宗教的な救いという観点からも、価値づけられ、正当化されたということです。)

しかし、それは、非常に特殊で、「限定」的な発想であるにも拘わらす、一神教的な「普遍性」を標榜するものなので、他の地域の多くの人間に、「押しつけ」られていくものとなります。その力が絶大で、逆らい難いほどのものであったのは、確かなことでしょう。

それにしても、「進化」とは、ある観点から言えることでしかなく、全体として、人間が、時代とともに進化するなどということは、言えるはずもないことです。

ただ、西洋流の「物質的発展」という目的ないし価値観が、取り入れられるのに応じて、それに沿う方向が、「進化」とみなされたということに過ぎません。そして、そのために否定されたものとは、「物質的発展」ということと相入れないもの、つまり、現代では、「オカルト」という言い方で総称されるような、「目に見えない」「霊的な性質のもの」だったということです。

2019年2月14日 (木)

UFOと人工衛星または火球の目撃

今の時期、空が澄み渡っていて、オリオン星座の星々とシリウスの輝きが強烈なので、たまに夜空を眺めるのですが…、

2月10日の夜6時過ぎ頃、灯油を汲みに出た5分ほどの間に、何と飛行機3機と人工衛星または火球2個を続けざまに目撃しました。

飛行機は普通に点滅しながら、空を飛んでいくのですが、その飛行機を見ていたら、その近くから、(私は急に出現したと思えたのですが)オレンジ色に光る物体が、飛行機とは違う方向に、ゆっくりと直接的に一定の速度で、飛行していきました。その間、光の明るさを変えていたのですが、明るくなったときは、金星よりも明るい位になっていました。

何だったのかと思っていると、しばらく後、今度は逆の方向から、初め赤っぽいぐらいの強烈な光が見えたので、火星かなと思っていると、それはゆっくりとやはり直接的に一定の速度で移動して、こちらの方向に近づいて来て、通り過ぎ、そのままやがて雲に隠れて見えなくなりました。

見えていた時間は、最初のは、10秒ほど、後のは20秒ほどと思います。音は一切ありませんでした。どちらも、かなり強烈な印象を残しましたが、方向変換や速度の変化はなく、直線的にスーッという感じで飛んで行ったので、UFOではないだろうと思いました。

この掲示板(https://www.web-nms.com/%E6%8E%B2%E7%A4%BA%E6%9D%BF/)に、#1495で、同じ日に報告されているものは、時間帯や場所にはズレがありますが、私の見たものとかなり似ています。私も、初め「火球」の類かなと思っていたのですが、調べてみると、ゆっくりと移動するものは稀のようで、人工衛星の可能性も高いようです。

それにしても、短い間に、立て続けに目撃するのはかなり珍しいことでしょう。

ただ、私は、過去には、UFOらしきもの(星かと思っていたら、急に速い速度で移動して消えた。何もないところに、急に強烈な輝きを見せたかと思ったら、徐々に気えて行ったなど)も何度か見ているし、はっきりとUFOでしかあり得ないものも、見ています。

それは、小学校5年のときで、やはり星を見るのが好きで、空を見上げていたときのことです。オレンジ色に強く輝く物体が急に出現し、流れ星くらいの速い速度で、全天にわたるように、らせん状のランダムな軌道を描きながら、飛行していき、途中、雲に隠れてまた出現したりしていたのですが、最後は雲に隠れてそのまま見えなくなりました。時間は、やはり20秒ほどでした。

典型的なUFOのように、方向変換をしたり、速度を変えたり、消滅してまた出現するということはなかったのですが、飛び方が異常であり、流星でも火球でも人工衛星でもあり得ないと思います。

図にすると、次のようです。

Ufo

当時私は、既に唯物的な発想をしていたので、超能力や霊などは絶対に認めませんでした。ただ、宇宙人の乗り物としてのUFOなら、物質的なものの発展の延長上に、あり得ないことではないと思っていました。

それで、UFOである可能性を感じ、興奮気味に、父親にもその話をしたのですが、まともに相手にされず、自分としても、大した根拠はないにも拘わらず、「あれは人工衛星だったのかもしれない」ということで、胸にしまい、表面上忘れるようになっていきました。

しかし、その後も、心の隅にはひっかかっていたようで、18才の頃、当時『UFOと宇宙』というUFOに関する雑誌があったのですが、それに興味を持って読むことになりました。その雑誌は、海外の科学者の論文なども翻訳して紹介している、かなり「高度」な内容のもので、それなりの説得力がありました。それで、私は、いずれ、UFOは確かに存在すると思うようになり、私の見たものも、UFOに違いないと思うようになりました。

また、この雑誌は、UFOだけでなく、超能力についての研究も載せていました。これについては、すぐに納得したわけではないですが、簡単には否定できないとは思うようになって行きました。これは、頑なな唯物論者だった私にとって、かなり画期的なことです。

私が、「オカルト」的な事柄に興味をもつようになっていったのは、このような経緯があったからです。多分、小学5年のときに、UFOを目撃していなければ、この雑誌を読むこともなかったと思うし、読んだとしても、半信半疑で終わりだったと思います。

だから、このときのUFO体験は、後の自分にとって、とても大きな影響を与えていることになります。ある意味、後の自分を象徴あるいは導くものだったとも言えるわけです

そして、今は、そのときのUFOは、宇宙人の乗り物である物体としのUFOではなく、一種の「霊的な現象」で、それが物理的な世界に投影されていたのだと思っています。雲に隠れるなど、物理的な「みかけ」は有していますが、印象として、そう感じるのです。そして、それは、明らかに、私に見せるために起こっていたと思います。

当時、私は、唯物的な発想をしていたので、文字通りの「霊的な現象」などは受け入れられず、たとえそのような現象に遭遇したとしても、単に拒絶するか、記憶から抹消していたでしょう。ただ、UFOについては可能性としては認めていたので、まずは、私にとって受け入れやすい、UFOという形をとって現れる必要があったのだと思います。まさに、「霊的」な領域への「導き」の一歩だったということです。

このUFOは、一般の典型的なUFOとは飛行の仕方が違っている、かなり特殊なものだったことも、それを示しています。

今回、ちょっと、そのときの体験を彷彿とさせるような現象に出会ったので、思い返してみました。しかし、今回見たのも、もしかしたら、そのときと同様の何らかの霊的な現象の投影物であるということも、考えられはしますね。

«今年の情勢と「狂気」に関する記事について

新設ページ

ブログパーツ

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

コメントの投稿について

無料ブログはココログ