2018年11月11日 (日)

ムクドリの「乱舞」

約二カ月振りになります。これまで2カ月空けたことはなかったと思いますが、今後は、これくらいのペースになっていく可能性もあります。

「狂気」に関しては、いずれ、分かりやすくまとめたホームページを作成しますが、このブログの最近の二つの新しい記事と、そこで紹介した本の一つでも読んでもらえれば、実は、かなりのことが分かることを改めて言いたいです。もちろん、一般の精神医学関連の本などでは、とても得られないだけの、実質的または根本的なレベルでのことです。

今回は、大分前のことですが、ちょっと気になっていることを述べます。

それは、うちの家の庭や隣の家の屋根の上で、小鳥が大勢集まって、大声で騒ぎ立てながら乱舞していたことです。ムクドリと思われますが、スズメや他の鳥もいたように思います。私のいる部屋の窓の網戸のところに飛んで来て、鳴いたりもしていました。

ククドリは、集団で集まる習性があり、ネグラを探して乱舞することがあるのは知っています。実際、他の場所で何度かその様子を見たことがあります。しかし、この場所で、今まで一度もそんなことはなかったし、この後も、すぐいなくなり、その後そんなことは一度もありません。

そもそも、うちの家の周りには、かつてはよく小鳥が遊びに来ていましたが、最近はたまにカラスが来るくらいで、ほとんど見なくなっていました。また、ムクドリがネグラにするのに適した場所とも思われません。

そのときの鳥の鳴き声は、とても尋常なものとは思えず、飛び方もまさに「乱舞」で、何か異常なことが起こっているという警告のような感じがしました。私も、その間、とても不安をかき立てられました。

この出来事の後は、前以上に、鳥をみかけることが少なくなり、このときの大勢の鳥の乱舞の異常さを際立たせています。

前に、記事で、その隣の家越しの上空のケムトレイルの写真をアップしましたが、この場所は、散布機の通り道のようで、その後もよく出ます。

初め、私は、鳥たちの警告のようなものには、そのことが関係しているのかと思いました。ネグラを探しているというよりも、むしろ、「この場所はとてもネグラなどにはできない」ということを、警告しているかのようだったということです。

しかし、もしこれが本当に警告なのだとしたら、それはこの場所という、「ローカル」なレベルの話ではないというのが実際のところでしょう。一般に見られる、ムクドリのこの乱舞の行動自体に、地球全体の環境についての警告的な意味も含まれている、ということを感じます。

まあ、いずれにしても、鳥や昆虫に関して、かなり異常な事態が起こっているのは確かだし、私の周りにもよく起こるので、私はかなり慣れてはいます。

前に、記事でも、羽を落とした、クロオオアリの女王アリが私の部屋に仮死状態でいたり、オニヤンマが職場に入って来て私の周りを飛んだり(なんと、その数年後もう一度オニヤンマが入って来ました)など、かなり「異常」なことが起こっていることを述べました。

人によっては、これを、一種の「攻撃」のように感じる人もいるようですし、そういう面もないとは言えません。しかし、私は、やはり、全体として、異常な事態の「警告」のような感じがします。

チャネリング系統のものでも、「多くの動物が地球から撤退する選択をした」というのを読んだことがあります。確かに、本能的に優れる動物たちが、そう選択するとしても不思議はない状況でしょう。

昆虫にしても、鳥にしても、全体としての数は、明らかに減っているのですが、その中のちょっと「目立つ」存在が、殊更「示唆」的な行動や現れをして、注意を惹いているという感じです。

2018年9月 9日 (日)

『精神に疾患は存在するか』

前回に続いて、精神医学関連の本の紹介になります。今回は、北村俊則著『精神に疾患は存在するか』(星和書店)という本です。

精神科医の書いたものですが、久しぶりに、精神医学の根本に関る部分を、鋭く問い直す、重要な書です。精神医学関連の出版社から出されている専門書風の体裁ですが、明解で読みやすく、説得力もあり、是非多くの人に読んでほしいものです。『関連基本書籍の抜粋』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-d140.html)にも、追加しています。

趣意は、要するに、「脳に器質的な障害があるわけでもない、精神の領域に、<疾患>なるものを認めるのは、根拠のあるものではない」ということです。

それは、ある意味、「当たり前過ぎるくらい当たり前」のことですが、精神医学の内部において、正面から、まともに、このことを認めることには、十分の意義があると思います。

このブログでも、「精神の領域に<病気>というものが、実体として存在するわけではない」ということを、何度も述べて来ました。「病気」というのは、社会的な観点からの一つの「評価」であり、「価値観」にほかなりませんが、それを、脳などの機能の「障害」として、固定するのは、そのような社会的な発想を、個体の内部の問題にすり替えようとする、「イデオロギー的」なものです。そして、それは、「優生思想」とも結びついています。

精神医学の外部からは、内海医師の本や、民俗学者赤坂憲雄の本などもとりあげて、このような見方については何度も触れて来たので、今さら特にとりあげる必要もないと思われるかもしれません。

しかし、先に述べたように、精神医学の内部から、しかも多くの研究をとりあげつつ、穏当かつ説得的に説かれた本書には、独自の意義があると思います。特に、精神医学に、何らかの形で関っている人には、必読ともいえる書です。

「精神疾患なるものがあるわけではない」ということの根拠は、大体、次のようなことです。

 「疾患」というものがあるなら、「ある」か「ない」かになるはずだが、精神疾患と言われるものの現れの実際は、一般の多くの人の間に連続的に広がっているもので、そこには境界があるわけではない

つまり、精神疾患とされるものも、体重や体温の数値と同じように、生理的な連続量の違いと、本質的には変わらない現象だということです。このことが、症状の分布をヒストグラムにした、多くの研究の分析から、明らかにされています。最近明らかにされたような、「自閉症スペクトラム」の場合と同様のことが、精神疾患そのものについても言えるということです。

多くの人も、「うつ」などでは、このことが納得しやすいと思います。しかし、「統合失調」となると、認め難いと感じる人も多いでしょう。確かに、「幻覚」や「妄想」などは、「あるかないか」の、特異な現象のようにもみえます。しかし、私も、記事『無意識レベルで「声を聞く」ということ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post-582d.html)で示したように、多くの人は無意識領域では「声」を聞いているのであり、ただ、それを意識することがほとんどないというだけです。それで、「妄想」というのも、極端な形では現れにくいというだけなのです。「統合失調状態になりやすい体質」というのは確かにありますが、それは、このような声を意識にのぼらせやすい(遮断しにくい)体質ということに過ぎません。

著者のあげる研究でも、統合失調の場合でも、その分布は連続的であることが示されています。

2  脳や遺伝子の研究から、ある精神疾患に対応するものとして、脳の(特異な)状態や遺伝子が見い出されることがある。しかし、その関連は「交絡」(一種の錯誤)である可能性があり、そうではなくとも、その関連というのが、「病理性」を証明することには何らならない

「交絡」というのは、ある事柄(A)と事柄(B)に相関があるようにみえる場合でも、実際には、それらとは別のある事柄(C)によって、AとBの事柄が生じていたために、そのようにみえたに過ぎないというものです。AとBの間に、実際に関連があるわけではないのです。

たとえば、「うつ」と脳の「海馬の減少」ということに、相関があるとされたことかありました。ところが、これは実際には、「うつ」も「海馬の減少」も、「虐待」という事態によって生じていることが明らかになって、本当に相関があったわけではないことが分かったという例が、あげられています。

「統合失調」の場合でも、「脳の特定の部位の委縮」などとの相関が見い出されたとされることがありますが、これなどは、「統合失調」と診断されたがために起こる様々な事柄との、「交絡」の可能性があります。

たとえば、精神薬の服用によるという可能性があるし、病院その他の周りの者の酷い扱いから来る、ある種の「虐待」の結果という可能性もあります。

また、そうでなくとも、脳の状態または遺伝子について、ある関連が見い出されたからといって、それがその「疾患」とされることの、「病理性」を証することにならないのは、明らかなことのはずです。ある「精神的」または「生理的」な状態に対応する、ある脳の状態または遺伝子の働きがあるということ自体は当たり前のことで、それが「病理性」の根拠となるものではないからです。

私も、記事『「怒り狂っている人」のたとえ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-ee25.html)で、これと同様のことを述べています。「怒り狂っている人」にも、脳の特異な状態は見い出されますが、それは疾患とはされないのです。

「疾患概念」は、初めから前提とされているのであって、要は、これらの関連は、初めから、精神疾患は「脳の機能的異常である」とか、「遺伝子の異常である」という見方のもとに、見い出されるときに、その見方を「裏付ける」ものであるかのように、みなされるだけなのです。科学史家トーマス・クーン風にいえば、特定の「パラダイム」を埋める「パズル合わせ」のようなものです。

ただし、それは、是非ともそうあらねばならないという、社会的な「要請」に基づいてなされるだけに、容易には覆えされないことであるのは、何度も述べたとおりです。実は、そちらの方こそ、本質的な問題なので、私はそちらの方こそをしつこく述べています。本書は、それを指摘しているわけではないですが、やはり、そのことを、浮き彫りにせずにはおかないはずです。

「うつ」「統合失調」その他の精神疾患とされる状態は、進化的には、適合した反応であった可能性がある

「うつ」にしても、「統合失調」にしても、本来は、生体を保護し、あるいは環境的な条件によっては、より適応的な反応であったという可能性が示されています。それが、ある度合いを超えたり、現在の社会的な環境との関係では、マイナスの状態として現れることもあるということです。そのような反応は、本来的な「疾患」とは呼べないものでしょう。

著者は、触れていませんが、統合失調の幻覚も、本来は、シャーマンの霊的な能力として、社会的に認められ、必要とされていたもののはずです。

4 それでは、「疾患」と呼ばれることの実質は何か。それは、「社会的不適応」あるいは、「社会的な少数者」の陥いる状態という可能性はあるが、必ずしもそうともいえない。そこには、「不適応」とか、「少数」という事実に関る事態とは別の、社会の「価値観」に基づく「評価」が入り込んでいるからである。実際に、「不適応」な現れをすることはあるが、それは個体内部の問題ではなく、社会的環境との相互作用の結果生じるものである

初めにも述べたことですが、要するに、「病気」とは、その状態を好ましくないとする、社会の側の「価値観」であり、「評価」以外の何ものでもないということです。私も、それが、実際に「不適応」を起こし、「少数者」の陥る、困難な状況となることがあるのは認めます。しかし、それを、「脳の問題」などとするのは、社会との関係を看過し、問題を個体の内部に押しつけて、「固定」しようとするものでしかないというべきです。

著者は、そのようなことから、「疾患」という見方は廃すべきとしています。実際にも、偏見や弊害を生み出すもとだからです。ただし、実際に、「不適応」という現れを起こしている以上、「治療」ということではなく、本人の意思に基づく「援助」は必要とします。さらに、本人が判断能力を失っているときには、「強制的」な援助も認められていいとしています。

この点は、「判断能力」の判定がいかようにも曲げられる可能性があるし、中途半端の感を免れません。しかし、いきなり精神医療をなくすこともできないとした場合、大枠的な方向性としては、「オープンダイアローグ」とともに、今後の精神医療のあり方として、有力な候補と思います

ただ、途中でも述べたように、現状では、「疾患」概念こそが、精神医療に根拠と権威を与えているのだし、その根拠と権威こそが、社会的には是非とも「必要」なものなので、残念ながら、それを廃することは、社会の考え方そのものが変わらない限り、難しいことでしょう。

2018年8月18日 (土)

『統合失調症がやってきた』/「後ろ」からの声

ハウス加賀谷の『統合失調症がやってきた』(イースト・プレス、幻冬舎こころの文庫)を読んだ。自分の陥っている状況を、あまり主観を入れ込まずに、客観的に、分かりやすく表現されていることには、率直に感心させられた。「統合失調」という状況について、考えるのにも、参考になるところが多くある。

ハウス加賀谷の統合失調状態については、前に、NHKの番組でとり上げられていたことに絡めて、記事『「統合失調症」という「アイデンティティ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-faec.html)で、述べていた。そこで述べたことは、今回本で詳しい事情を知っても、ほとんどそのとおりだったということが、改めて確認できた。

特に、精神薬の服用に関して、加賀谷は、より酷くなったことを、「医師の指示に従わなかった」から、ということで言っていた。ごれは、飲まない方向でのことと思っていたが、今回の本で、状態が悪いときは、過剰に飲んでいた(ときには一回に200錠も)ということで、これでは、より酷い状態を招くのも当然のことと言わざるを得ない。

ただ、エビリファイに変えることで、一気に状態が好転したという点は、この薬の評判を聞いて、よくなることを期待して、自ら医師に薬を変えてもらうよう頼んだということである。それまで、意欲の減退した酷い状態が続いていたわけだが、ここで、本当にその状態から脱しようと、強く意欲したということである。それは、お笑いの世界への復帰を、強く望むということでもあった。その積極的で、前向きな思いが、薬を介して、プラシーボ的に強く作用したということが、みてとれるのである。

加賀谷の状態が、本当に「統合失調状態」といえるのかということにも、多少の疑問を呈していたが、本を読むと、確かに、「統合失調」に典型的な「幻聴」に悩まされていて、それを「現実」そのものと混同してしまったために、状態を酷くしていったことが分かる

加賀谷の「幻聴」は、「自分は臭い」ということに関るものである。異性を意識し始める、思春期の頃に、「自分は臭いのではないか」という疑いをもつこと自体は、かなりの人が経験することだろう。また、加賀谷は、父親がエリート社員ではあるが、家庭を顧みない典型的なダメ親で、母親が加賀谷に多くの期待をかけ、自由を与えられず、プレッシャーの多い環境で育っている。「自分を臭い」と思うのは、「自分」という存在の否定の感情がもとになっていて、そのような環境で育ったが故の、嫌悪感や自信のなさが強く影響している。しかし、そのようなこともまた、現代では、割と普通にあることといえる。

だから、「自分は臭い」という疑いを、強迫的にもつこと自体は、かなりの人に「了解」可能なことだろう。ただ、加賀谷の場合、普通と違っていたのは、単に、「聞えるような気がする」というのではなくて、実際に、それを現実の声と変わらない「声」として、ありありと聞いていたことである。

「統合失調」ということでいうと、やはりここが「分かれ目」で、そこには、体質の影響があるというしかない。ただし、それもまた、一時的な現象であり得る(記事『「狐に化かされる」こと/一時的な「幻覚」「妄想」状態』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8560.html 参照)のだが、加賀谷の場合は、そうならず、それがより発展していったということである。

その「幻聴」の現れについては、加賀谷がかなり詳しく状況を説明しているので、特徴をよくみることができる。

初め、加賀谷は、教室の一番前の席にいたのだが、後ろで生徒が下敷きで煽いでいるので、自分が臭いからではないかと疑う。すると、その後、はっきりと、後ろから、「加賀谷君臭い」という声を聞く。その生徒の声で、現実と変わらない声としてである。

加賀谷は、驚くが、またしばらくすると、「臭い」という声がするので、後ろを振り返ると、誰も、全然そんなことを言っている素振りはない。しかし、前を向くと、また声が聞え、後ろを振り返ると、そんな素振りもないということを繰り返す。

このような声を、加賀谷は、全く「現実の声」と思っているので、自分が「臭い」ということに確信をもつようになる。誰が「臭い」ことを否定しても、その確信を変えられない。それで、医師に無理やりに頼み込んで、脇の手術まですることになる。それで、さすがに本人も、「臭い」のは消えたはずだと思ったが、その後も、教室で、後ろから「臭い」という声を聞くことになり、絶望的な気分になる。

そんなことから、精神科にかかることになるのだが、この声について、興味深いのは、常に、「後ろ」から聞えることである。一番後ろの席に座ったら聞えないはずだと思って、一番後ろの席に座ることができたときも、何と、誰もいないはずの「後ろ」から、声が聞えて来た。

この、「後ろからの声」というのが、私の観点からすると、とても興味深いのである。しかし、その前に、加賀谷は、これを「現実の声」そのものと解したわけだが、このような状況からすると、それが現実の声ではあり得ないことに気づく余地が、十分あったことを確認したい。

一つは、後ろを振り返ると何の素振りもなかったことで、普通は、そんなに即座に、言っている状態から、変わり身の変化をできるわけがない。もう一つは、一番後ろの席でも、誰もいない後ろから聞えてきたことである。これは、かなり「決定的なこと」のばすである。

本当は、この時点で、「現実の声ではない」と気づく余地があったが、加賀谷はそれでも、現実の声と疑わなかった。それは、その声が本当に現実同様、ありありとしているからだし、中学生くらいの年で、一般的にも、そのような声を現実でないものと疑うことは、難しいはずである。予め、そのような声があることを、知っていれば、その可能性もあっただろうが、普通は、中学生ぐらいで、そのような知識があるものではない。また、中学生でなくとも、それが「幻聴」であることを疑うのも、何か、「霊的なもの」であるのを疑うのも、怖いことなので、そのような考えは、抑圧してしまうのが普通である。

同時に、自分が、「臭い」ということは、自分という存在の「象徴」のような意味合い(一種の「アイデンティティ」)として、内心に強く疑われていたので、それを「正しく」指摘する声を聞くと、疑うことが難しかったのもあるだろう。

しかし、それにしても、この時点で、それが現実の声でないことに気づいていたら、その後、違う方向に行っていただろうことは確かなのである。

さて、「後ろからの声」についてたが、私も、声は、「人の背後」から聞えるということを言っていた。加賀谷の場合は、「自分の後ろ」だが、私も、「自分の後ろ」からの声もよく聞いた。私の場合、それは、「もう一人の自分」(シュタイナーでいえば「境域の守護霊」)というべき者の声で、「他者」の声は、他の人間の「背後」から聞こえていたのである。

人間は、目が前についていることとも関係して、「前」が「見える世界」とすれば、「後ろ」は「見えない世界」の象徴ともいえる。つまり、「霊的な世界」の象徴である

後ろの存在は、「背後霊」などという言い方がされるし、かごめかごめという遊びでも、「後ろの正面」を当てるのだが、これは、単なる「後ろ」ではなくて、本来、「霊的なもの」を意味していたはずである。今は、「遊び」という形として残っているが、元は、シャーマンの育成のための、イニシエーションのようなものだったと解されるのである。

シュタイナーのいう「境域の守護霊」とは、「この世界」と「霊的な世界」との「境界」に立ち、「霊的な世界」を守護する「番人」であった。そのような存在の立つ「境界」こそ、「自分の後ろ」であり、それは、背後に「霊的な世界」全体を控える、「入口」のようなところといえるのである。

ただ、加賀谷の場合、常に自分の「後ろ」から声を聞いていたのは、初め、教室の一番前にいたことと関係がある。「自分の後ろ」とは、「他者のいる場所」でもあったからである。

加賀谷は、他の者が自分をどう思っているかに囚われ、それが「後ろの声」として聞えた。だから、「他者の声」もまた、「自分の後ろ」からの声として聞くことになったのである。しかし、同時にそれは、漠然たる「霊的な世界」全体の「入り口」としての意味合いも重なっていたといえる。私の場合は、既に「入口」をかなり入り込んでいて、「霊的な世界」も、「自分の後ろ」と「他者の背後」というように、「分化」していたということである。

それにしても、一番後ろの席にいても、「後ろ」から声が聞えて来たのは象徴的である。それは、「現実の世界」の途切れる先の、「入口」としての、「霊的な世界」から聞える声だったことを、如実に示している

加賀谷の場合に限らず、このように、注意深く状況を観察すれば、その声が、たとえ現実の声と同じように聞えても、どこかしら「現実そのもの」から「ずれ」を起こしていて、「現実」そのものではあり得ないことが明らかになる面が、あるばすなのである。疑わしい「声」が聞えたときには、必ず、状況をよく観察してほしい。

いきなり、それを「霊的な世界」から訪れた声とは、解せないかもしれないが、「現実の声」そのものではないことには、十分気づけるはずである。

これからの時代には、多くの人が、是非とも、そう気づけるようになってほしいと思う。

2018年7月11日 (水)

「オカルトの基本を学ぶ」のプログを開設

予告していた、『オカルトの基本を学ぶ』のプログを開設しました。

本プログとの関連も多いので、是非閲覧ください。

→『オカルトの基本を学ぶ (http://tiem-occult.seesaa.net/ )

2018年6月29日 (金)

一連のシリーズの総括および今後の予定

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という「観念」について、問い直しをして来ましたが、これらは、とりあえず、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」についての、「総まとめ」となります。重要な事柄は、すべて織り込んだつもりですが、何よりも、「観念」そのものが、「戦略」であることこそが、重要なポイントです。これらは、「捕食者の戦略を知る」という意味でも、格好の題材となるものです。

とはいえ、「観念」そのものが、「戦略」であるのは、記事『「テクノロジー犯罪」という発想』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-4691.html)でも述べたとおり、対立する、「統合失調」なる「病気という観念」についても、同じことです。これは、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」とは逆の方向から、同様の状況にある者を、抱え込もうというもので、全体としてみれば、いわば「両面からの抱え込み戦略」です。どちらに与しても、その観念に捕らえられて、その世界から容易に抜け出せなくなるとともに、対立と葛藤をますます深めることになるのです。(※)

それを、避けるには、どちらの「観念」にも与せず、これらの観念が捕え込もうとしている、根底にある「事実」または「状況」を、虚心坦懐に、浮かび上がらせるしかありません。もちろん、それは、このブログが、初めから試みていることです。

いずれにしても、「捕食者」を相手にするということは、このような手の込んだ「戦略」に、対処しなければならないということを、意味しているのです。その「戦略」は、人間を全体として、俯瞰する位置から、人間同士の対立を煽り、葛藤を深めるべく、人間の心理を読んだうえで、巧みに仕掛けられるものです。

まずは、そのような、「人間レベルを超えた」戦略に、率直に驚嘆すべきです。しかし、そのうえで、そのような戦略的なあり方こそが、彼らの「生命線」であることに気づけば、それに左右されることも、少なくなるでしょう。「戦略」を知ることこそが、彼ら自身を知ることになる、ということです。

今後は、記事『本年の予定と昨年のぺージビュー数トップ5』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-d365.html )で述べたように、本来の「狂気」の方のテーマについて、分かりやすいホームページを作成する準備に取りかかります。このブログの更新の頻度は、かなり減るかと思いますが了承ください。なお、近いうちに、『オカルトの基本を学ぶ』というブログの開設もしたいと思っています。

※  この「両面からの抱え込み戦略」を図で表すなら、次のようなります。 「統合失調」という観念と「集団ストーカー」・「テクノロジー犯罪」という観念を、事実または状況を掬う「バケツ」のようなものとして表現しています。

 7月5日 図に、「捕食者」が事実または状況のレベルでも影響を与えていることを織り込みました。この戦略の「凄み」がより浮き彫りになると思います。Photo

2018年6月13日 (水)

観念の問い直し 3-戦略の理解と対処法

「わしが言っているのは、われわれが相対しているのは単純な捕食者ではないということだ。そいつはすごく頭が切れるし、てきぱきと仕事をこなす。組織的な方法にしたがってわれわれを無能にする。」 (カスタネダ『無限の本質』 ドンファンの言葉より)

「人民、己が操られておること信じられんであろうなれど、悪魔は簡単に人を操れるのであるぞ。悪魔の力どれほど強いか、ずる賢いか、人民知らんのぞ。」 (『大日月地神示』より)

「集団ストーカー」でも「テクノロジー犯罪」でも、一連の「観念の問い直し」シリーズで、最も明らかにしたかったことは、これらの「観念」自体が、「戦略」なのだということです。この「観念」自体が、一旦それを信じたら、人を捕らえて、その世界に引き入れ、縛りつける、「魔的」ともいえる、働きをしているのです。その世界に、引き込まれた者は、容易に、そこから抜け出すことができません。

その観念を信じるように仕向ける、「仕掛け」というものは、確かにあります。しかし、実際には、その「戦略」に乗り、その観念を信じること自体が、その「被害」とされる出来事を、止めなく、拡大して、再生産しているのです。その「被害」は、「戦略」によって、自ら「作り出した」ものなのであり、それによって、「加害行為」なるものを、実際以上に強大なものとし、自ら、負担を増大しているのです。(※1)

だから、対処法といっても、真っ先にあげられるべきは、この「観念」がもたらす効果の全体が、「戦略」であることを理解することに尽きます。本当に、それを理解できれば、半ば、その「世界」から抜け出すことができたようなものです。自らが、作り出した「被害」を、取り外すだけで、大きく負担を軽減することができるからです。

それでも、身に受ける、攻撃的な「仕掛け」というのは、確かにあります。しかし、それも、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という「観念」を信じさせ、自ら「被害」を拡大させるためこその「仕掛け」なので、全体としての「戦略」が理解できれば、そのような「仕掛け」に振り回されることも、少なくなります。(※2)

しかし、実際には、この「戦略」の理解が、多くの人にとって困難なのは、それが、決して、「人間レベル」のものではないからです。通常の人間の戦略ということ、あるいはその延長上に理解しようとしても、無理なのです。

冒頭に引用したのは、(前にも引用しましたが)このような存在が、いかに(人間を超えた)「戦略」に満ちたものかを、端的に言い表した言葉です。改めて、そのように強調されることの、意を汲んでほしいと思います。

そのような「戦略」の、「人間を越えた」部分が、最も現れるのは、何と言っても、人間の心理を、「リアルタイム」に「読んだ」うえで、なされる「仕掛け」においてです

この、心理を「リアルタイムに読まれる」ということ自体は、実際に「仕掛け」を受けている多くの人が、感じ取ることです。だからこそ、それを説明すべく、「(超高度の)テクノロジー」が持ち出されるわけです。しかし、いくらそのようなものを持ち出しても、本当に、その「リアルタイムに読まれる」ことのリアリティを捉えることはできません。また、その主体が、「人間」だと思っている限り、本当に、その「戦略」を理解できることにもなりません。

たとえば、この場合で言えば、「テクノロジーだと思われている」こと、「人間だと思われている」こと自体が、既に「読まれ」たうえで、「戦略」に組み込まれているのです。そうしてできているのが、「テクノロジー犯罪」という「観念」なのです。「リアルタイムに読まれる」ことと「戦略」が、即に結びついています。

その意味では、その「心理を読まれること」自体は、「無心」にでもならない限り、防ぎようもないので、対処の対象とはなりません。ただ、このことを理解して、相手が、それを踏まえた「仕掛け」をなして来ても、それに捕らわれて、混乱したり、恐れたりしないことが重要なのです

被害者のブログなどで、「テクノロジー犯罪」であることを前提とした対処法として、電磁波を遮断したり、軽減できるような「装置」があげられることがあります。それは、そのように信じている限り、一定の心理的安定をもたらすし、薬と似たような、「プラシーボ効果」をもたらすことはできます。

しかし、この対処法では、自分で「被害」と思っている多くの出来事を、疑わざる前提として、固定してしまい、その負担を軽減することはできません。また、「テクノロジーによる」という「思い込み」も、固定してしまいます。それは、「物理的な力」によるものだから、意識のあり方とか、こちら側の心的な態度では、防げないものというイメージを強めます。そのようにして、真の対処への可能性を、閉ざしてしまうことになるのです。

つまり、むしろ、相手方の「戦略」に乗ることになってしまうということです。

このように、「テクノロジー犯罪」という「観念」には、「テクノロジー」という「物理的な力」によって、攻撃されるという意味合いが込められています。しかし、それもまた、対処が難しいと思わせる、重要な「戦略」の一部なのです。

実際には、これまでみて来たとおり、これらの「仕掛け」は、「意識」と連動して起こるもので、「意識のあり方」とか、こちち側の「心的な態度」によって、大きく左右し得るものです。決して、「テクノロジー」ということに比べて、対処の困難なものではないのです

あるいは、前回も述べたとおり、このような現象に、何らかの「テクノロジー」が関与している可能性はないわけではありません。しかし、たとえ、「テクノロジー」によるものと仮定したとしても、決して「意識のあり方」で防げないものではないことは、記事『チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 2』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-cde9.html )で述べたとおりです。

重要なことなので、『スターシード』で言われていることを、再びあげておきます。

そのような科学技術の使い手たちは、単に行動そのものを観察することよりも、特定の行動をさせるように人間を操作することにはるかに関心があるということに心を留めておいて下さい。もし個人の位置を特定できれば、彼らは確実にその人をとらえることができるでしょう。自らのはっきりした意思とその性質によって、あなた方が電磁気による彼らの「メッセージ」の周波数を造作なく変化させる場合を除いての話ですが。それは、人間の精神、身体、感情の状態によって決定されます。ですから、あなた方が完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれば、そのような装置の影響はもしあったとしても、ごくわずかでしょう。

これらの「テクノロジー」が、「物理的なエネルギー」によるものだとしたら、確かに、意識のありようで防ぐことは、難しいものになるでしょう。しかし、それらは、電磁的な力を利用したものとしても、その周波数をもって、脳波に共振させるなどの方法によるものです。だから、要は、そのような周波数に影響されないだけの、意識の(脳に対する)強固な働きがあれば、それを回避、あるいは少なくとも、減退できるということです。

『スターシード』では、「完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれ」ば、影響を受けないか、受けてもわずかだと言います。要は、感情的にネガティブな影響を引きずらないで、意思をしっかり持ち、「やるべきことをやる」ということに尽きます。逆に言えば、「気にすればするほど」、「捕われれば捕われるほど」このような影響を強く受けるのだから、「戦略」とは、いかにして、相手が「気にし」、「捕われる」ように仕向けるかということになります。敵も、こちらの「コンプレックス」や「弱点」を、巧みについてくるということです。だから、回避することが容易だということではありません。

いずれにしても、こういった攻撃ないし仕掛けは、「意識のあり様」により、大幅に左右されるということ。それを悟らしめないようにすることこそが、彼らの「戦略」の大部分を占める、ということを知ることが重要です。

最後に、心理を「読む」ということと、それに捕われない「無心」という態度について、「さとり」という動物の、面白い話があるので紹介しておきましょう。

一人の木こりが山奥に入り、斧で木を伐っていると、「さとり」という珍しい動物がそばに寄ってきました。さとりは人の心を読み取ることができるという珍獣です。そこで木こりは「よし、生け捕りにしよう」と考えました。

するとすぐにさとりが「お前はおれを生け捕りにしようと思っているな」と、からかうように言うのです。心を読み取られて、木こりがびっくりすると、さとりは得意げに「こんどはおれに心を読まれてびっくりしている」といいます。シャクに障ったきこりは「ひと思いに斧で打ち殺してやるか」と考えました。

さとりはまたも、「斧でおれを殺そうというのかい」と、逃げる身構えをします。ついにきこりはあきらめ、「こいつはかなわん。さとりなんかかまわず、自分の仕事に精を出そう」と思いました。さとりは「とうとうおれを諦めて、自分の仕事に精をだそうとしているな。」と、せせら笑いました。

しかし、木こりは、気味の悪い動物のことなど忘れようと、斧を振るって一生懸命働きました。すると、全く偶然に、木こりの振り下ろした斧の頭が柄から飛び、見物していたさとりに命中したのです。さとりは地面に倒れて動けなくなりました。そして、木こりは、さとりを生け捕りにすることができました。

人の心を読み取る、不思議な力をもつ「さとり」も、「無心」に働いている、きこりの心までは読めなかったというわけです。これは、禅の世界でとりあげられる話で、(修行や訓練によって成し遂げられる)高度の「無心」の意義について指し示しています。さとりとは、得ようとして得られるものではなく、それを諦めて、日常の仕事に専念しているときに、ふと得られるものだという「逆説」をも示しています。

しかし、この話は、まさに、心を読み取ったうえで、「嫌がらせ」を仕掛けてくるような、「ストーカー」的な存在についての、対処法として、もっと広く受け止めることができます。「無心」などと言わずとも、ただ「気にしない」で、やるべきことに専念していれば、そのような存在の影響は、ほとんど受けずに済むということです。

※1  「戦略」によって、「自ら作り出した被害」とは、疑心暗鬼による錯覚、錯誤から、「被害」とみなしたもののほか、特殊な精神状態により、自ら引き寄せた(共時性的)現象を含みます。私は、100%、これらの「自ら作り出した被害」である場合も、相当あると踏んでいます。一部に、実際に「仕掛け」を受けている場合でも、「自ら作り出した被害」は、7割から8割あると思われます。

※2  攻撃的な「仕掛け」については、いわば「現場」で働く存在と、背後で指揮する「捕食者」で、その意図には多少のずれがあります。全体として、「戦略」的に行っているのは背後の「捕食者」であり、現場で働く存在は、本性そのままに、ただ「嫌がらせ」をしているところがあります。しかし、背後で指揮する存在の「戦略」を理解すれば、それに振り回される度合いは大きく減ることに変わりありません。なお、現場で働く存在の「嫌がらせ」に対する対処法は、最後のところに述べたとおりです。

2018年5月29日 (火)

「テクノロジー犯罪」という観念の問い直し 2

「集団ストーカー」の実質的内容は、(集団を使って)人を精神的な混乱や錯誤に陥れる「嫌がらせ」であり、「ガスライティング」でした。しかし、「テクノロジー犯罪」というのも、その実質は、このような「ガスライティング」とほとんど同じものです。

「テクノロジー犯罪」の場合、「集団ストーカー」と異なり、直接人の行為を介して行うのではなく、隠れたところから、あるいは離れたところから、「超高度のテクノロジー」を使うことによって、攻撃がなされるとされます。それで、人の行為による「嫌がらせ」という面は、みえにくくなっています。

しかし、それは、直接的な危害を加えるというよりは、やはり、人を精神的な混乱や錯誤に陥れるもので、手段は違っても、実質は、同じといえるものなのです。それを繰り返し行うことで、人を「精神的窮地」に追い込んで行き、統合失調症のような、精神病的な状況に陥れるというのも、「集団ストーカー」の場合と同じです。

「テクノロジー」というのは、電磁波であっても、「物理的なエネルギー」を伴いますから、身体に対する殺傷能力を持ち得ますし、実際、前回みたように、それを被った結果として、「身体的不調」というのもあげられます。

しかし、その「身体的不調」というのも、直接それ自体を目的とするというよりは、そのような不調を繰り返し与えることで、「精神的窮地」に追い込むことを狙ったものです。つまり、「身体的不調」というのも、精神に向けられた、「ガスライティング」のもたらす効果の一つとみられるのです。

そして、「テクノロジー犯罪」の結果もたらされるとされる、他の、「精神的不調」や、「音や声を聞かせる」、「思考を読み取る」、「思考を操作する」といったものは、精神に向けられた「ガスライティング」という面が、かなりはっきりしています。いずれも、何らかの危害というよりは、不可解な現象を身の周りに生起させて、精神的な不安や混乱をもたらすものだからです。

あるいは、「思考を読み取る」というのは、その読み取った思考をもとに、その者にしか分からない「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」の「コリジョンキャンペーン」などを行う、「集団ストーカー」行為の前提として機能するものでもあります。つまり、「集団ストーカー」と結びつけられて、「ガスライティング」として機能するということです。

このように、「(超)高度のテクノロジー」を用いてなされる「ガスライティング」を「ハイテク」と呼び、現実に人の行為を介した、「集団ストーカー」的な「ガスライティング」を「ローテク」と呼んだりもします。

いずれにしても、「集団ストーカー」も「テクノロジー犯罪」も、その実質は「ガスライティング」なのであり、人を操作するということで、人の関わりが前面に出てくるものが、「集団ストーカー」とされ、人が前面に出で来ないで、「みえない」ものが、「テクノロジー犯罪」とされているだけなのです。

「集団ストーカー」のところで述べたように、確かに、その者にしか分からない「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」での「コリジョンキャンペーン」などは、リアルタイムで人の意思や思考を読み取ることを想定しない限り、無理なことでしょう。その、「意思や思考を読み取る」ということは、通常は「あり得ない」こととされていますが、隠蔽されている、「(超高度の)テクノロジー」によって可能だとするのが、「テクノロジー犯罪」なのです。

しかし、そのような「技術」自体、相当に認め難いのみならず、現実の人を適材適所に配置して、リアルタイムに、それを反映する行為をさせる、などということは、明らかに無理なことです。さらに、「無理」というだけでなく、人材と金と手間とリスクのかかる、しかも、実質「嫌がらせ」に過ぎない、「稚拙」ともいえる行為をさせるために、わざわざ、隠蔽されている、「超高度のテクノロジー」を使うなどということは、あまりにもアンバランスであり、非現実的なことです。

このように、「超高度のテクノロジー」を持ち出して、それを「集団ストーカー」という、現実の人の行為と結びつけたために、その論理は、実際には破綻してしまっています。

それでも、あえて、そのような発想が持ち出されるのは、「集団ストーカー」のところで述べたように、実際に、「思考を読み取られている」からこそ可能となるような、「ほのめかし」や、「絶妙なタイミング」というものに、かなりの人が、確かな感覚的「リアリティ」を感じているからです。彼らにとっては、「思考を読み取られる」という感覚的「リアリティ」を説明してくれる、(「病気」ということではなく、しかも「オカルト」的でもない)はっきりとした理由が、必要ということです。

さらに、前回も述べたように、実体の「みえない」「(超高度)のテクノロジー」による攻撃というだけでは、いかにも抽象的で、「リアリティ」が薄いということもあります。しかし、そこに、現実の人の行為を介した「集団ストーカー」というものが絡むことで、「ガスライティング」を受けているという「リアリティ」は、確かに強められます。つまり、戦略の観点からも、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」は、結びつけられる理由があるのです。()

しかし、実際には、「集団ストーカー」のところで述べたとおり、「思考を読み取る」とか、「思考を操作する」、「声を聞かせる」といったものは、「ガスライティング」を本性とする、「霊的」または「異次元的」な存在の「能力」として、最も典型的なものです。「超高度のテクノロジー」など持ち出さなくとも、また、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」に分けたうえで、あえて結びつけたりしなくとも、両者は、もともと一つのものとして、これらの「能力」によって可能ということです。

あるいは、これらの現象には、「集団ストーカー」のところで述べたように、何らかの(もはや、人間のものとは言い難いですが)「(超高度の)テクノロジー」が関与している可能性がないわけではありません。しかし、その場合でも、それらは、「能力」の範囲を広げ、あるいは精度を高めるようにして、「能力」と連動する形で使用されているものと思われます。だからこそ、能力が中心となる、「集団ストーカー」と結びつくことも可能なので、このような「能力」ということを抜きにして、「(超高度の)テクノロジー」だけで説明しようとすると、先にみたように「無理」や「破綻」が明らかになるのです。

さらには、その他の、「精神的不調」や、「音を聞かせる」、「身体的不調」といったものも、基本的には同じことです。

「精神的不調」はもちろん、「身体的不調」についても、このような存在に取り囲まれ、その発する「波動」の影響を受ければ、不快感、眠気、吐き気、頭痛、その他の身体の痛みというものは、いくらも生じ得るのです。スウェデンボルグも、「悪霊」について、「彼らは体のあちこちに痛みも起こす」ということを述べていました。

「(物理的な)音を聞かせる」、「身体に(傷などの)みえる現象を生じさせる」となると、「テクノロジー」のような、「物理的なエネルギー」を想定したくなるのは分かります。しかし、それらの存在は、「物質化現象」のような形で、物理的に顕現する現象も起こせるし、あるいは、記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、はっきりとした物理的な現象かどうか区別しにくい、「中間的な現象」も起こせます。

「音を聞かせる」では、「ラップ現象」や「ポルターガイスト現象」といわれるものが典型ですし、「身体的な傷を生じさせる」では、素朴なものですが、「かまいたち」と呼ばれるものが、あります。

不可解な「身体の痛み」や「ラップ現象」は、私もよく体験するのですが、しかし、注意すべきは、このような現象は、それを想定する以前に、何らかの、「通常の物理的な原因で生じている現象」である可能性が、十分吟味されなければなりません。あくまでも、「通常の」物理的な原因であって、「超高度のテクノロジー」を持ち出すということではありません。

「精神的不調」や「身体的不調」については、現代の、種々様々なストレスによるものであることが考えられるし、「電磁波」としても、現代は、環境的に、これに非常にとり囲まれた状況です。敏感な体質の者は、「精神的不調」や「身体的不調」を訴えても、何ら不思議でない状況です。あるいは、このような環境状態が作り出されていること自体、一種の「テクノロジー犯罪」と言って言い過ぎであれば、少なくとも、「テクノロジー公害」とは言えるでしよう。それはそれで、問題とされて、然るべきことです。さらには、福島の原発事故による、放射能の影響も考えられます。

異様な「音」も、現代の環境状態から、生じてくる可能性はいくらもあるし、「ラップ現象」と思われる音も、その物体自体のきしみなど、通常の原因で生じている可能性があります。

「ラップ現象」については、この二つのサイト(https://spicomi.net/media/articles/499http://every-day-life.com/rapon/)は、霊的な面も含めて、基本的なことをよく説明しているし、まず、そのような現象が、通常の物理的な現象であること十分検討したうえで疑うべきことを、しっかりと述べていますので、参考にしてください。

さらに、このサイトでも述べられているように、自らの強い情動が、これらの現象をもたらす原因となっている可能性も、あるのです。「超常的な現象」としても、他の存在ではなく、自分自身が原因となっている可能性があるということです。「ポルターガイスト」現象などは、精神的に不安定な思春期の子供が、無自覚に起こしていると思われる場合が相当にあり、「テクノロジー犯罪」を受けているという人の場合も、それで不安と恐怖に駆られた人は、同様の精神状態にあると考えられます。

強い信念が、身体的反応を起こす例としては、薬における「プラシーボ効果」や、強い信仰によって起こる、「聖痕」現象などがあります。

既にみたように、「テクノロジー犯罪」としてあげられるものの中には、確かに、霊的、異次元的な存在によって、「仕掛け」られた、「ガスライティング」が含まれている可能性があります。

しかし、それらの現象の多くは、実際には、これらの「通常の物理的原因による現象」か、「超常的」な面があるとしても、自らが起こしている現象である可能性が高いものですにも拘わらず、一旦、「テクノロジー犯罪」という観念に捕らえられると、身の周りに起こる多くの出来事が、これら他の可能性をほとんど顧みることもなく、「テクノロジー犯罪」とされてしまうのです。そして、さらに不安と恐怖を拡大し、より多くのことを「テクノロジー犯罪」として拾うことで、自ら、抜け出し難い「地獄的な状況」に入り込んでしまうのです。

それは、「テクノロジー犯罪」という、魅惑的な要素をもたたえた、戦略的な観念のもたらす、強力な効果といえます。

次回は、結局は「集団ストーカー」の場合と同じなのですが、対処する方法についても、少し述べておきたいと思います。

※ 6月5日追加

「思考を読み取られる」ということの感覚的リアリティは、「テクノロジー犯罪」そのものとして直接感じられるのではなく、思考を読み取られていなければあり得ないはずの、現実の人による「ほのめかし」とか「絶妙のタイミング」での仕掛けという「演出」があって、初めて、感じられるものです。その意味でも、「テクノロジー犯罪」と「集団ストーカー」は、結びつく必然性があります。

注意すべきは、「テクノロジー」によって「思考を読み取られる」というのは、あくまで、その結果持ち出された「解釈」に過ぎないということです。「感覚的リアリティ」そのものは、人を介しての「集団ストーカー」的な振舞いという「演出」によって、生じているのです。その意味では、「集団ストーカー」の方が本質的なものなのです。

これは、「統合失調」の場合に、「思考を読み取られる」ということの「感覚的リアリティ」は、他者がかけてくる(と感じられる)「声」によって生まれることと、ほとんど同じです。また、「思考を読み取られる」ということの「解釈」として、典型的なものに、「CIAによる迫害」というのがありますが、この「CIA」を「集団ストーカー」に変えれば、「集団スートーカ」被害そのものとなることにも注目ください。(記事『「つつぬけ」「さとられ」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post-a694.html )、『「さとられ」と「CIA」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-bedd.html) 参照)

2018年5月18日 (金)

「テクノロジー犯罪」という観念の問い直し 1

「集団ストーカー」という観念に続いて、「テクノロジー犯罪」という観念についても、問い直しをしておきます。

ただ、「集団ストーカー」について述べたことは、「テクノロジー犯罪」についても、多く当てはまるものです。特に、その「戦略」としてのあり方は、「集団ストーカー」の場合と同じです。この重なる部分については、あまり詳しく述べないので、「集団ストーカー」について述べたことを、必ず参照するようにしてください。

何しろ、「テクノロジー犯罪」という観念も、戦略に貫かれた、曖昧なものでありながら、一定のリアリティを吹き込まれることで、威力を発揮します。一旦、その観念を信じると、身のまわりの多くの出来事を、「テクノロジー犯罪」によるものと疑うようになることも、同じです。

しかし、「テクノロジー犯罪」という観念には、「集団ストーカー」という観念に、含み込ませることが難しい出来事も、含み込ませることができます。それこそ、「テクノロジー」を前面に打ち出していることの意義です。「集団ストーカー」という観念と、「テクノロジー犯罪」という観念を合わせれば、事実上、身近に起こる身体的不調や精神的不調、さらに、「他人に何事かを仕掛けられている」という疑いのもととなる出来事の、ほとんどのものを、これに含ませてしまうことができます。

また、「テクノロジー犯罪」という観念は、「集団ストーカー」という観念と結びついて、「集団ストーカー」という観念の内容を、飛躍的に拡大し、それに一定の根拠を与える働きもします。特に、通常は、「オカルト的」で「あり得ない」というべき、「ガスライティング」の内容を、後にみるような(超高度の)「テクノロジー」によるとすることで、事実上、どこまでも膨らませ、それに一定の根拠があるというみかけを与えることができます。

さらに、「テクノロジー犯罪」という観念だけでは、いかにも抽象的で、リアリティが薄い場合でも、「集団ストーカー」という、現実の人を介した直接の行為を含み込めることで、それに強い「リアリティ」が与えれるということもあります。

このように、「集団ストーカー」という観念と「テクノロジー犯罪」という観念は、互いに補い合って、威力を発揮するところがあります。そして、そこには、やはり、現代という状況だからこそのものがあります。「集団ストーカー」では、「集団」から切り離された、孤独な個人の不安ということが、背景にありました。が、「テクノロジー犯罪」では、さらに、最近の技術の飛躍的な発展と、それについての不安や恐れということも、加わっているのです。

ともあれ、まずは、「集団ストーカー」のときと同じように、「テクノロジー犯罪」という言葉に着目してみます

「テクノロジー犯罪」とは、「テクノロジー」と「犯罪」が組合わさった言葉で、要するに、「テクノロジーによる犯罪」ということです。「テクノロジー」+「犯罪」も、「集団」+「ストーカー」の場合に負けず劣らず、曖昧な言葉が重ねられたものです。そして、それは、もちろん意図的なものです。

「テクノロジー」とは、限りなく広い範囲のもので、どのようなものでも含み得ます。「犯罪」という言葉も、曖昧ですが、これが使われていることには、その行為が、(人間の)「加害者」による「加害行為」であることを明示し、同時に、それを受けた者を、「被害者」として意識させる効果があります。

そもそも、「犯罪」というなら、「テクノロジーによらない犯罪」など、身体や、口を使って直接なされた暴力など、非常に限られたものでしょう。刃物やピストルなど、あるいは電話やネットなど、何らかの道具や機器を使った犯罪は、すべて「テクノロジーによる犯罪」と言い得るものです。

しかし、実際に、「テクノロジー犯罪」にいう「テクノロジー」とは、現代の技術の飛躍的発展を前提とした、「高度なテクノロジー」を意味しています。さらに、多くの場合は、現代においても、一般には認められていない(加害者によって隠蔽されているとされる)ような、「超高度なテクノロジー」をも意味しています。

もちろん、そのような「(超)高度なテクノロジー」が持ち出されるのには、理由があります。

「集団ストーカー」の場合に、そのような行為を受けていると考えるもとになる現象はあったように、「テクノロジー犯罪」の場合にも、そのようなもととなる現象はあります。

たとえば、何らかの、原因の分からない、身体的不調や精神的不調。あるいは、何らかの、不審な音や声を聞く。さらには、自分の脳内の思考が読み取られている、あるいは操作されていると思われるような事態、などです。そのような現象に、明確な原因があれば、当然それを疑うことでしょう。しかし、そのような原因がはっきりせず、不可解である場合に、それを説明する理由がないことは、落ち着きが悪く、混乱をもたらします。

そこで、そのような現象は、「高度なテクノロジー」によって、あるいは、それでは説明しにくい場合は、「超高度なテクノロジー」によって、「加害行為」として、引き起こされているのだという、明確な理由を与えるのが、「テクノロジー犯罪」なのです。そうして、不可解な現象を、とりあえず納得させるとともに、「犯罪」であり、「加害行為」ということで、「加害者」を糾弾するという、感情の持って行き場を与えてくれることにもなります。

「(超)高度のテクノロジー」とは、通常、マイクロ波のような「電磁波」を用いるものであることが、想定されています。単純に、「身体的不調をもたらす」ようなものは、「高度なテクノロジー」ということで、とりあえず捉えられるでしょう。しかし、「思考を読み取る」、「操作する」などのものは、そのようなもので、容易に捉えられるものではありません。それで、一般には、認められない、「(超)高度のテクノロジー」が持ち出されるわけです。現代の技術の延長上に、推測や憶測を積み重ねて、その内容がある程度具体的に、示されることはありますが、いずれにせよ、非常に曖昧で、捉え難いものです。

通常は、「テクノロジーによる犯罪」といっても、その行為の過程や加害者は「見える」ものです。「テクノロジー」であること、「犯罪」であること自体は、明確ということです。ところが、「テクノロジー犯罪」では、「(超)高度のテクノロジー」を使うとすることで、それらが「見えなく」(正確には、「テクノロジー」である限り、「見えない」ことはないので、「見えにくく」)され、従って、その行為の過程も、誰の犯行かも特定できないものになっています。

「テクノロジー犯罪」という言葉が使われていますが、実際には、「テクノロジー」といえるのかどうかも、「犯罪」といえるのかどうかも、不明確なものなのです

しかし、そのような、曖昧で不明確なものだからこそ、先にあげたような、不可解な現象の原因として、持ち出すこともできるのです。明確なものであれば、その矛盾や無理も、明確になってしまいます。(ただし、「犯罪」であることを強調することで、それが「加害行為」であり、糾弾されるべきものであることは、明確に訴えるのが「みそ」です。)

「テクノロジー(による)犯罪」という、現実に存在する、一般に受け入れられやすい言葉で、このような、かなり特殊で、曖昧な事態を意味させているわけですが、これは、「集団ストーカー」という言葉の場合と同様、一つの大きな戦略です。

つまり、「集団ストーカー」が、実際には、単なる「ストーカー行為」を意味していなかったように、「テクノロジー犯罪」というのも、実際には、単なる「テクノロジーによる犯罪」を意味しているわけではないのです

しかし、「テクノロジー」ということを前面に打ち出すことで、そこに、一定の「リアリティ」がもたらされているのは確かであり、それが、巧妙さの一つです。

既に述べたように、現代では、「テクノロジー」は飛躍的に発展しており、その限界がどこにあるか、明確には定められません。見方によっては、「テクノロジー」によって、どのようなことでも可能とみることも、必ずしも非現実的とは言えない状況です。そのような「テクノロジー」には、多くの人が、不安や恐れを抱いています。

「テクノロジー」がもたらす影響や、その操作によって、何らかの危害を被ったり、自分のコントロールできないところで、権利を侵害される可能性は、多くの人が現実に危惧しているはずです。

「テクノロジーによる犯罪」自体は、いくらもあり、現代では、それが巧妙化かつ複雑化されて、一般の理解や制御が及びにくいものになっています。そのようなことが、「テクノロジー犯罪」という言葉に、一定の「リアリティ」を与えています()。そして、実際に、この言葉を使うことは、それが狙いなのです。

何しろ、「テクノロジー犯罪」という観念では、先にみたような身近に起こる、不可解な、身体的不調や精神的不調。音や声を聞く。思考が読み取られる、操作されるというような、不可解で好ましくない現象は、「(超)高度のテクノロジー」によって、起こされたものとみます。「加害者」は、「集団ストーカー」の場合と同様、様々に想定されますし、理由は、「人体実験」などの、もっともらしいものが持ち出されます。

いずれにしても、そのような身近に起こる、様々な、不可解で好ましくない現象には、「テクノロジー犯罪」という「原因」があるのであり、それは人間による、「加害行為」なのだということです。「テクノロジー犯罪」という観念が、まず戦略として意図していることは、そのような見方を広めることです。多くの人が、そのような見方のもとに、「テクノロジー犯罪」を疑い、疑心暗鬼を生んで、人々の間に、混乱や軋轢をもたらすことができるからです。

先に身近に起こる現象として、あげたもののうち、「思考が読み取られる」「操作される」というのは、「統合失調状況」と重なることが明らかで、これは、かなり特殊な事態といえます。しかし、これは、「集団ストーカー」にもあったように、「統合失調状況」と共通する要素を、「テクノロジーによる犯罪」として、取り込んでいるのです。「統合失調」の「妄想」でも、何らかの高度な「テクノロジー」によるとして構想されることはありますが、内容は突飛で、個々ばらばらなものとなりがちです。しかし、「テクノロジー犯罪」ということでは、ネットなどで、それなりに類型化された形で、その共通の「原因」を与えることができるのです。

そして、「集団ストーカー」の場合と同じように、それは、「統合失調」なのではなく、「テクノロジー犯罪」によってこそ、陥らされるものだとすることができます。

しかし、そのような特殊のものだけでなく、もっと一般的な、身体的不調や、精神的不調も加えられているのが、「みそ」です。誰もが、身近に経験する、このような事態も、「テクノロジー犯罪」によるものとすることで、適用範囲を大きく拡大し、それが、誰にも当てはまり得るものとのイメージを、もたらすことができるからです。実際、「テクノロジー犯罪」は、「集団ストーカー」の場合以上に、適用範囲が広められているといえます。先にあげた例だけでなく、事実上、どのような現象であっても、「テクノロジー犯罪」によるとすることは、可能というべきです。しかし、それは、「曖昧さ」が、限りなく拡大されていることによるのです。

繰り返しますが、「テクノロジー犯罪」という観念自体が、不可解な現象に、理由を与え、加害行為として、納得させる働きをします。その意味では、「集団ストーカー」と同様に、この観念には、「魅惑的」なところがあるのです。ただし、それは、真の「納得」でないことは明らかで、また、何らの「解決」でもないことは明らかです。むしろそこから、疑心暗鬼が拡大し、さらに多くの出来事を「テクノロジー犯罪」として拾ってしまうことにより、問題を拡大し、本当には、何も解決しない状況を継続させます。それは、「集団ストーカー」の場合と同じように、「地獄的な状況」といえます。

「テクノロジー犯罪」という観念は、一見、「魅惑的」であるけれども、実際には、そのような「地獄的な状況」へと追い込ませることを意図した、「戦略」的なものだということです。

次回は、さらに、「テクノロジー犯罪」の実質が、「集団ストーカー」の場合の「ガスライティング」と同様のものであることに着目してみます。

)さらに言えば、実際に、「電磁波」を用いた「高度のテクノロジー」によって、何らかの危害を加えるという、加害行為自体は、あるものです。かつての、旧ソビエトのアメリカ大使館事件や、最近の、キューバのアメリカ大使館事件などは、その典型です。

また、一般には認められていない「超高度のテクノロジー」も、軍事的な機密などに絡み、隠蔽されることがあるのは事実です。しかも、私のように、「宇宙人」による技術が存在することを認めるなら、その範囲はさらに拡大します。

「超高度のテクノロジー」なるものは、存在しないということではないのです。「テクノロジー犯罪」が想定するようなものかどうか、どの程度の精度のものかは別にして、類似のものが存在する可能性はあり得るし、少なくとも、超大国の研究・開発の対象であるのは確かでしょう。

しかし、それらが、「テクノロジー」として「存在し得る」ということと、身近に起こった現象の原因として、それらを持ち出すということの間には、あまりに大きなギャップがあります。また、実際にも、具体的にみる限り、無理であることが明らかというべきです。次回にも、この点については、触れるつもりです。

2018年4月28日 (土)

「被害者」になるべきでないという教訓

前々回の記事で、ネガティブな宇宙人によるアブダクション(誘拐)は、本人の「魂の合意」なく行われていること。しかし、そこには、成長に役立つ教訓的な意味もあるので、被害者の魂も、少なくとも「黙許」しており、他の存在も、特に阻止せずに、「黙認」しているところがあることを述べました。

この点について、ジーナ・レイクの『アセンションへの道』は、さらに次のように踏み込んでいますので、引用しておきます。

ネガティブな者たちは「犠牲者」の役割を果たす傾向をもつ人を選んで誘拐します。これは、「被害者になるべきではない」という教訓をその人に教えるためにあえて許されている行動です。私たちがそう表現するのは、何も被害者を非難するためではありません。被害者となる傾向のある者がネガティブな者に誘拐されるという事象は、むしろ「霊的法則がどのように第三密度世界(この物質的な世界)で適応されるか」を示しているに過ぎません。ネガティブな者の被害者となる人は、ネガティビィティをひきつける傾向にあり、そのため被害者役を演じる人は永遠的に同じことを続ける結果を招きかねません。
 (ネガティブなETに対抗するのは無理だという)意見には一理ありますが、にもかかわらず、一番初めの段階で被害者とならないように心的態度を変化させることは可能なはずであり、それこそが学習なのです。方法としては、「被害者の役割を演じないぞ」という心構えをもつこと、そして主体性をもち自分の個性をしっかり認識した態度をとり続けることです。
 自分自身のアイデンティティについて強く確信している人々は、自分の欲している物が何かをしっかりと認識していることから、他者に操られることを断固として拒むことができるため、ネガティブなETはあえてそのような人をターゲットにすることはありません。

これは、「ネガティブな宇宙人によるアブダクション」について述べられたことですが、宇宙人に限らず、またアブダクションに限らず、あらゆるネガティブな存在による、人間への虐待的な出来事について当てはまる、重要な指摘というべきです。そして、これは、「被害者」という意識が前面に出てくる、「集団ストーカー被害」や「テクノロジー犯罪被害」にもまた、非常によく当てはまることなのです

さらに言えば、人間同士の「いじめ」や「虐待」のような出来事にも、かなりの程度当てはまることといえます。

「犠牲者の役割を果たす傾向」というのは、微妙なものではありますが、無意識に、自分自身を「犠牲者」となるべく仕向けてしまう傾向であり、同時に、相手方の攻撃性を引き出し、誘発してしまう傾向ということです。私も、このような「攻撃誘発性」について、「分裂気質」や「集団ストーカー被害」に絡めて、何度か述べています。このような傾向というのは、確かにあるというべきです。

人間の場合は、攻撃する側も、無意識のうちに、相手方のそのような性向に反応してしまい、攻撃性を引き出されてしまうことが多いでしょう。しかし、ネガティブな存在や宇宙人は、相手方の心理が読めるだけに、あえて、このような性向を持つ者をターゲットとして選ぶ、ということがなされるようです。そのような性向をもとに、そこから、彼らの糧としての「感情エネルギー」や、さらに人間の間に、多くの軋轢をもたらすことができるからです。

いずれにせよ、自らの性向そのものが、そのような存在を呼び込んでいることになる、ということです。

そして、本人がこのことに気づかない限り、確かに、「被害者役を演じる人は永遠的に同じことを続ける結果を招きかねない」ことになるでしょう。それは、本人が、「被害者」としての意識を強めるほどに、相手方を「加害者」として非難する意識も高まり、自らのあり方を顧みる余地が、ますますなくなるからです。それが、悪循環を形成して、そこから脱することが難しくなる、ということです。

もちろんですが、だからと言って、ジーナ・レイクも言うように、「被害者が非難されるべき」ということではないし、「加害者に罪がない」ということでもありません。

しかし、現実的に、このような悪循環から逃れる術があるとすれば、それは、自分自身が出来事の全体に与えている影響に気づき、それを変えていくしかないということです。特に、相手方が、人間ではなく、少なくとも、人間を超えた部分をもつ、対処し難い存在であることに鑑みれば、相手方をどうこうするということではなく、自らのあり方を変えることしか、手立てがないことになるはずです。たとえ相手方が、人間であっても、このような態度は重要ですが、そうでないなら、なおさらそうだということです。

実際、相手方を、「宇宙人」と認めた場合には、「ネガティブなETに対抗するのは無理だという」思いをもつこともあるでしょう。そして、まさに、相手方を「人間ではない」と認めてしまうと、対処する手立てがないという「無力感」を感じるからこそ、そのようなことが認められないという面は多分にあるのです。「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」を人間によるものとみなす見方には、このような思いが明らかに潜んでいます。

しかし、ジーナ・レイクも言うように、そもそも、「一番初めの段階で被害者とならないように心的態度を変化させることは可能なはず」ということです。それは、自らの性向が、自分を「被害者」となるよう仕向け、ネガティブな存在の攻撃を引き寄せていたことに気づくことによってこそ、可能になります。そして、むしろ、相手方が、人間ではないことを認めるならば、それしか現実的に手立てはないのであり、実際、そうするしかなくなるのです

そのための方法としてあげられていることは、非常に重要ですので、もう一度引用しておきます。

方法としては、「被害者の役割を演じないぞ」という心構えをもつこと、そして主体性をもち自分の個性をしっかり認識した態度をとり続けることです。
 自分自身のアイデンティティについて強く確信している人々は、自分の欲している物が何かをしっかりと認識していることから、他者に操られることを断固として拒むことができるため、ネガティブなETはあえてそのような人をターゲットにすることはありません。

結局は、「宇宙人」といえども、真に発揮された、人間の「意識」や「主体性」というものを、阻害することはできないということです。人間に限らず、あらゆる存在の、「意識」や「主体性」には、本来、そのような力が秘められているといえます。しかし、人間自身が、「意識」や「主体性」の、そのような力に気づかないうちは、そのような力を発揮することも難しいでしょう。

さらに、人間自身が、深いところで、「被害」ということを「許して」しまった場合は別です。というよりも、その「許した」ということ自体が、深いところでは、意識の「主体性」の現れとして、それを実現してしまう力を発揮してしまうことになるのです。どちらに働くにしても、「意識」や「主体性」の力は強力ということです。

逆に言えば、だからこそ、ネガティブな存在は、人間に、「意識」や「主体性」を発揮させる機会を奪い、できる限り削ぐような、「マインドコントロール」や、「クローン化」のような弱体化計画を、執拗に仕掛けてくるのです。また、もし「意識」や「主体性」の力が発揮されるなら、それをできる限り、ネガティブな方向で実現させるべく、さまざまな戦略が仕掛けられるのです。

しかし、要は、(初めからそれに気づくことは難しく)、このような試練と教訓を通してこそ、「意識」や「主体性」の力に気づかれる余地も生まれる、ということです。そして、それに気づくと、どうして、このような攻撃が、他の存在により、阻止されていないのか(私も一連の体験で、何度もこのことを疑問に思ったことがあります)ということも、自ずと明らかになります。

それは、言うまでもなく、一つには、他の存在により阻止されるとすれば、その者自身の「意識」や「主体性」の力に気づかせる余地を、奪ってしまうことになるからです。しかし、そうでなくとも、先にみたように、そもそも、自らの「意識」が「許して」しまっている場合、ことが、その「意識」の力自体の現れとなるので、他の者は容易に干渉できなくなるのです。「他の存在が阻止できない」ということ自体が、「意識」や「主体性」ということの、本質的な意味である、ということにもなります。

とは言え、このような過程は、一筋縄ではいかないので、一気に、このような問題が解決し、相手方の攻撃をなくすことができるというものではありません。私自身そうです。だから、私は、「意識のあり様により、このような攻撃やその効果を、大きく減退させることができる」という、控え目な言い方で、言ってきました。

実際、とりあえずの指標としては、このような状態、つまり、たとえ攻撃があっても、それにあまり囚われない状態、大した苦とならない状態を目指すのが、現実的であると思います。

2018年4月15日 (日)

「ハイブリッド」と「集団ストーカー」

『『集団ストーカー」という観念の問い直し』の記事で、「集団ストーカー」戦略にいう「ガスライティング」は、人間ではない存在が、その都度、周りの人間を操作したり、偶然では考えられない「共時性」を演出することなどで、なされていることを明らかにしました。

しかし、前々回の記事で、今後の展望としては、「集団ストーカー」戦略のリアリティを強化するため、単に人間を操作するだけでなく、もっと、これらの存在の意思を直接に実行できる、「ガスライティングの実行部隊」となるような存在を、人間の世界に輩出しようとしていることを述べました。

このような、「ガスライティングの実行部隊」として、前回みた、ネガティブな宇宙人と地球人の「ハイブリッド」(ヒューブリッド)ほど、最適のものはありません

前回みたように、このような「ハイブリッド」は、外見上は、人間と異なるものではありません。ところが、性質として、人間と同じように振る舞うことはできず、とても人間世界に適応できる見込みはないものです。彼らを、人間の世界に住まわせる以上、何らかの「仕事」を与えることは必要とした場合、「集団ストーカー」戦略にいう「ガスライティング」ほど、彼らに適した行いはないのです。

彼らは、「集団ストーカー」戦略を指揮する宇宙人や「捕食者」とのつながりが強く、「テレパシー」能力を通じて、思考や意図を、通じ合うことができます。それこそ、別に「忖度」しなくとも、「――案件」などとされていなくとも、指揮する側の意図をリアルタイムにくみ取って、実行に移すことができるのです。

さらに、彼らは、「テレパシー」能力を通して、人間の心理を読むことができ、また、思考や感情を操作する能力も、宇宙人から受け継いでいます。スウェデンボルグが記述した「悪霊」と同じように、人間の心理を巧みについて、「適切」な「ガスライティング」を行う能力にも、長けているということです。

しかし、一番の利点になると思われるのは、彼らの、「神出鬼没」というべき、「移動能力」です。前回紹介した『ヒトが霊長類でなくなる日』をみると、宇宙人と同様に、ハイブリッドも、突然、アブダクティの家の中に現れることがあるようです。カギはかかっていても、ドアや壁を通り抜けて、現われることができるということです。つまり、一種の「テレポート」能力を備えているか、または、何らかの技術により、どこかから「ワープ」的に「転送」されることがある、ということです。恐らく、私は、宇宙人そのものは、このような能力を備えているが、ハイブリッドは、能力そのものというよりも、UFO内にあると推定される技術によって、転送されているのだと思います。

ハイブリッドが、人間の心理を読んで、それに沿った、的確なタイミングで、「ガスライティング」をしようとするなら、この「神出鬼没」で「無時間的」な「移動能力」も、重要な要素になります。

「集団ストーカー」戦略を仕掛ける側としては、人間の仕業と思わせる点で、外見上人間と異ならず、しかし、人間を超えた能力によって、的確で有効な「ガスライティング」をなすことで、より混乱と恐れを膨らませることのできるハイブリッドは、まさにうってつけなのです

こういうと、この「ハイブリッド」は、「宇宙人」同様、人間をいかようにも操作できる、人間の適わない存在のように思えるかもしれませんが、前々回『補足』でみたように、決してそんなことはありません。

「ガスライティング」といっても、これまで、人間を操作して行っていたものと変わるわけではなく、ただ、間接的に、こちらの心理を錯誤に陥れ、混乱させるような、「姑息」な嫌がらせをしてくるだけです。まさに、「アンカリング」とか「つきまとい」とか、絶妙なタイミングの「コリジョンキャンペーン」といった類いです。

これらは、本来は、「こけおどし」のようなもので、こちらが影響を受けて、恐れをなさない限り、ほとんど効果を発揮できないものです。ただし、彼らが行う場合、そこには、人間を操作する場合以上の、「嫌がらせの意図」が、はっきり現れ出ます。また、先に述べた、彼らの能力や技術が強く反映され、人間では、とても考えられない、「オカルト」的で「あり得ない」要素は、より正面に現れて来ます

これらに、囚われれば、混乱と恐怖は深まり、尋常でないことが起こっているという思いは、強まることになります。実際、これらの存在について、知ることがない場合、そうなる可能性は高いといえます。そして、「集団ストーカー」にいう「ガスライティングを受けている」という「感覚的リアリティ」も、強力に高められます。だから、「集団ストーカー」という観念を信じさせ、人間同士の間に、軋轢を増す、「集団ストーカー戦略」として、より有望なものとなるのです。

実は、私も、割と最近ですが、このような「ハイブリッド」かもしれない存在と、数回、出会っています。中でも、最近の2度のものは、かなりその可能性が疑われるものです。それらは、外見は、本当に人間と異ならず、実際、出会っているときは、人間だと一応思っているのですが、突然の現われ方、変な歩き方、醸し出す雰囲気など、いろいろな面で、「異質」な「インパクト」があり、後で思い返すと、やはり、ただの人間とは、思えないものです。

私は、一連の体験で、「物質化」現象というものを何度か経験し、その後も、「アール」という固有名で呼んだ、「アーリマン存在」または「捕食者」が、「人間」を装って、直接「物質化」して現われることも経験しています(これは、長い間身近に接していた存在なので、疑いなく分かります)。だから、何か、「尋常でない」振舞いをする「人間」について、これらの存在が「物質化」して現われたものである可能性を、認めることには抵抗はありません(むしろ、そう思い過ぎないように、抑制することの方が多いです)。

しかし、それにしても、先の者らの場合、このような存在の、あまりにも強力なインパクトとは比べ物になりません。それと通じる要素は、あるにはありますが、どこか「虚弱」で、人間に近いもの、あるいは、主体性をもった存在というよりは、どこか、ロボットのように、操作されている感じのする存在です。それは、ただの人間とは思えないにしても、「捕食者」のような存在そのものとも思えないものだったのです

だから、後に述べるように、それは、単に、奇妙な振舞いをする、「操作されている人間」である可能性、あるいは、ほとんど「クローン化された人間」という可能性もあります。

ただ、やはり、ただの「人間」としては、異質との思いが強かったところ、後に、『ヒトが霊長類でなくなる日』を読むことになって、それと照らし合わせてみると、よく符合するので、「ハイブリッド」である可能性が疑われたのです。

そして、それらは、まさに「集団ストーカー」戦略にいう、「ガスライティング」そのものといえるような、行いをして来ました。いずれも、こちらの、ちょっとした「ネガティブな思い」に、乗っかるようにして、まさに「絶妙なタイミング」で現れ出ています。

一度は、私が、家の前の道路の脇の木の延びた枝を、かなり大量に切って、それを後でまとめて取りに来ようと、一旦、(「ちょっとまずいかな」という「思い」をもちつつ)道の脇に置いたままにした後、後でそれを取りに来たとき、そのタイミングで、いきなり、隣の家近くの曲がり角から道に現れ、前かがみで手をもむような変な歩き方で、見かけない女の人が早足で近づいてきて、私の切った木の枝のまとまりを、「これ見よがしに」見て、次に切った木の方を、これまた、「これ見よがしに」見て、そのまま、別に何言うでもなく、次の曲がり角を曲がって、去っていったのです。

「これ見よがし」と言いましたが、本当に、志村けんか加藤茶かと思うほど、大げさな演技で、「なんだこれは」と言うかのように、思い切り、「あてつけっぽく」見たのです。私は、一瞬、咎められている気がして、「ムッ」としそうになりましたが、あまりに「関りたくない雰囲気」を醸し出していたので、それ以上気に留めることはなく、放っておきました。

もう一度は、ちょっと事情あって(このときも「ちょっとまいずかな」という「思い」はありつつ)、夜中にゴミを出しに行ったときのことですが、ゴミ置き場に行く途中の道路に、まるで「待ち構えていた」かのように黒の車が停めてあって、私がゴミ置き場の方に歩いていくと、急に外に出ていたらしい、見かけない男が車に戻って、車を動き出して、しかもゆっくりと私をつけるかのように、ゴミ置き場のすぐ近くまでついて来て、そこで停まるのです。私は、実際はかなり気にはなっていたのですが、気にしない素振りで、ゴミを捨てていると、車から、男が出てきて、近づいて来て、ゴミ置き場のすぐ横で立ち止まって、そこでじっとして、不審な挙動をしているのです。手には、スマホをもっていましたが、別にそれに夢中になっている様子もなく、私がゴミを捨て終わると、また戻って来て、車に戻り、また同じように、極度にゆっくりした運転で、私とは別の方向に行って、去って行きました。

私も、夜中にゴミを捨てることを咎められるのかなという思いと、同時に、単純に、つけ狙われているような恐れもいくらかは感じたのですが、これは、女性や子供であったら、相当の恐怖を感じたことと思います。夜中で、相手の様子があまり見えなかったこともあり、見かけ上、どこまで「異質」かは分かりにくいですが、全体として、行動が明らかに「異常」であり、「偶然」の出来事とは思い難いものです。

私も、ちょっと後ろめたい思いがあったこともあり(まさに、そこにつけ込まれているのですが)、また、「関りたくない」思いもあったので、特に、何か言ったりすることはしませんでした。(今度、似たことがあったら、話しかけて、何か聞き出してみようかとは思っていますが、そう思って以来、はっきりとは現われ出ていません。)

いずれにしても、いずれも、意図的な「嫌がらせ」だったとしても、非常に「微妙」なものであるのが分かると思います。はっきりとした、明ら様な嫌がらせというには、あまりにも間接的で、「姑息」といえるものです。実際、こちらに対して、直接、攻撃的な行動をとる様子はうかがわれないし、何か、こちらに、話しかけたりする素振りもありません。むしろ、自ら近づいていながら、こちらを怖がっているかのようにすら見え、人間としては、どこか「虚弱」な雰囲気が漂います。

だから、私自身は、後で、ただの人間でない可能性は考えましたが(ある意味、こういったことには「免疫」があることもあって)、特に「恐れる」ことはありませんし、特に気にもしません。しかし、こういうことが、もし、毎日のように続くとしたら、まったく囚われないというわけにはいかないでしょう。

また、先に述べたように、私は、これらが「ハイブリッド」だと確信しているわけではなく、人間を操作しているに過ぎない、あるいは、見かけ上も「異質」な面が多くあるので、ほとんど「クローン化された人間」である可能性もあると思っています。ただし、それらの背後に、「捕食者」の指揮は、嫌というほど感じるので、これらの全体が、単に、「偶然」というか、「集団ストーカー」戦略とは何の関係もない、という可能性は、ほぼないと思っています。

また、もし、これらが「ハイブリッド」だとしても、実際に、既に人間の世界に入り込んでいる存在だとは、解し難いです。その場合は、もっと、このような出来事が、頻発して起こることでしょう。

彼らの「移動能力」または「技術」からすれば、ときおりならば、UFOなり、どこかに集められている「ハイブリッド」を、このような目的のために、一時的に「転送」させて、「ガスライティング」を行うことは可能でしょう。そして、とりあえず、多くの人に向けては、このように、彼らによる、ときおりのインパクトある「ガスライティング」が仕掛けられれば、「集団ストーカー」は厳としてあるという思いを生じさせて、以後周りの人間の行いも、「ガスライティング」の疑いのもとに見させるようにし、自ら深みにハマらせていくことは、十分可能なのです

もちろん、「ハイブリッド」を大量に人間世界に輩出できれば、それに越したことはないと思っているでしょうが。

いずれにしても、このとき、私が思ったのは、これこそが、「集団ストーカー」被害者の一部(全部ではなく、本当にこれに類する何らかの「仕掛け」を受けている、「一部」の被害者です)のいう、「ガスライティング」そのものだなあ、ということです。確かに、人間の操作として行われるものよりは、強力で、「集団ストーカーはある」と堅く信じてしまうのも、致し方ないものがあります。それを、ある意味、「捕食者」の側で、「こういうものもあるのだ」と教えてくれたようなものです。

また、もう一つは、本当に、彼らは、こちらの、「ネガティブな思い」につけ込んでくるなあ、というこです。これは、「集団ストーカー」戦略に限らず、彼らの戦略のあらゆる点において、そうです。それも、ほんの、ちょっとした(本来もつ必要もない、どうでもいいような)、「ネガティブな思い」につけ込んで、それを限りなく、大きく膨らませようとして来ます。この点では、こちらも、反省というか、教訓として受け止めなくてはなりません。変に、後ろめたいような、「ネガティブな思い」はもつ必要がないし、また、もしもつようならば、そんな行いはしないに越したことはないということです。

前回、ネガティブな宇宙人のアブダクションについて、被誘拐者にも、教訓となる要素があるから、あえて阻止されていないということを述べました。これは、「集団ストーカー」戦略の「ガスライティング」にも言えることのはずなのですが、それについては、次回述べることにします。

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