2020年7月 1日 (水)

「常識」ではなく「共通感覚」からの逸脱

記事『「狂気」と「唯物論」』で、「組織に迫害される」などの「妄想」を信じることは、「何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与え」ると言いました。ここで、「常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して」というのは、正確には、「常識<ではなく>、一般の感覚を大きく逸脱して」というのが正しいです。

「常識」というのは、実は、「妄想」というのと本質的には変わりなく、「一般に共有された妄想」とも言い得るものです。「妄想」というのは、端的には、一つの、「思い込み」であり、「決めつけ」ですが、それは「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」て信じられる、ということがポイントでした。

「常識」というのも、まさに、そのように、「他の可能性を排除すべく、動機づけられ」るからこそ、あえて「形成」されるものです。そして、「決めつけ」的な作用を及ぼすのも同じで、一旦「常識」として形成されれば、周りの者にも、それこそが「正しい」ものとして、事実上押しつけられていきます。

ただ、それが、「妄想」のように、個人的なものではなく、他の多くの者と「共有」されているので、「妄想」とはみなされずに、強力に、その作用を発揮するのです。

だから、「妄想」の方も、そのように、他の多くの者に共有されて、「常識」のような位置へと近づくことを目指します。それで、ことさら人に訴えかけられるのですが、それゆえ、逆に、多くの者の、排除の抵抗を受けることにもなるのてす。

言い換えると、「常識」というのは、「感覚」レベルのものではなく、観念レベルで形成された、「固定化」されたものだということです。「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と感じるのは、このように観念的な「常識」によるのではなく、もっと「感覚的」なレベルでの(感性的な)反応と言うべきなのです。

中村雄二郎という哲学者は、『哲学の現在』(岩波新書)という本で、「常識」としてできあがったものは、固定化された融通の効かないものですが、その形成の元となるものに、「共通感覚」というものがあると言います。それ自体は、五感を超えた統合的、全体的な感覚で、「常識」として観念化される以前の、生きた働きです。「常識」という言葉の元となった、「コモンセンス」には、この意味があると言います。

「組織に迫害される」などの「妄想」を聞いて、「おかしい」と思うのも、このような意味の、「共通感覚」によると言っていいと思います。それは、必ずしも、明確に「観念化」して説明できないけれども、感覚的なレベルでは、「おかしい」ということを、明白に、動かし難いものとして感じるのです。

あえて、それを観念的な形に表現するとすれば、

1「組織に迫害される」と言うが、そんなことは、あり得るとしても、余程のことであるが、その者に、それだけの理由があるとはとても思えない。
2「組織」に迫害されるという方法が、そのような高度な組織のやり方としては、あまりにもちぐはぐで、現実離れしている。
3  何よりも、それだけ、普通はどう考えても「あり得ない」事柄を、単に可能性としてではなく、事実として、信じ切って疑わないのが、信じ難いことで、「おかしい」。

といったことになると思います。これは、統合失調的な 「妄想」だけでなく、最近の「集団ストーカー被害」を訴える人にも当てはまることでしょう。

ところが、「妄想」を訴える人は、自分の妄想を、「そういう組織には、それだけの技術があるのだから可能なのだ」というように、「観念的」なレベルで、つまり、「感覚」に訴えるのではなく、「常識」に寄せて、論理に訴える形で、説明しようとするのです。それで、ますます、多くの者にとっては、感覚的レベルとの齟齬が激しくなり、「おかしい」という思いを強めることになるのです。     

「妄想」が、このように「常識」に寄せて、観念レベルで訴えかけようとするのは、先にもみたとおり、必然のところがあり、まさに、「常識」に反すること、かけ離れてしまうことを、恐れるがゆえなのです。一見、常識から逸脱するようにみえても、実は、そうではなく、「常識」に適っているのだということを、躍起になって説明しようとするのです。

ところが、皮肉なことに、論理的に、常識レベルに訴えかけるほど、一般の「(共通)感覚」との齟齬を強めてしまう結果になるのです。

実を言うと、一般に対して、「常識に反する」という形の反応(反感)を呼び寄せるのは、私のように、統合失調の基礎には、「霊的なもの」が働いているなどという説明の方です。現在は、大分変わって来ましたが、まだまだ、「霊的なものがある」とか、さらに、それが「統合失調の基礎にある」などというのは、「常識」からは逸脱したものです。だから、このような説の説明は、「常識」として形成されているものの、観念や論理の危うさをついて、それを問い直すことを通じて、訴えかけるしかありません。

一方、一般の方も、このような説は、「常識に反する」ので、信じ難いとは思っても、「妄想」の場合のように、共通感覚的に、「おかしい」というのとは、また違った反応になります。

そして、この場合の「常識」というのは、記事『「狂気」と「唯物論」』でもみたように、「唯物論的な発想」ということになります。必ずしも、「唯物論」そのものとして、積極的に「物質的なものだけが存在する」と信じられているのではなくとも、その方向に沿うような、近代社会一般に浸透している発想です。

「組織に迫害される」というような「妄想」を訴える人は、感覚レベルでは、とにかく、これまでの日常に照らして、信じ難いような、「尋常でない」ことが身に起こっているということは、疑いようもなく感じています。それが、本当は、「常識」に反する、何か「未知」の事柄である可能性も、どこかで感じているはずなのです。

しかし、それを認めることができない故、それは、決して「常識に反する」のではなく、「組織による迫害」など、「常識」の延長上に理解できるものとして、「常識」を信じる側に、訴えかける必要があるのです。本当は、そうすれば、そうするほど、かえって、「無理」を押し通し、共通感覚的な「おかしさ」を招き寄せることになるのですが、それには、目をつぶって、そうする必要があるということです。()

「妄想」は、単純な「病気の症状」などではななく、このように、世間一般に信じられている、「常識」との関係で生じるもので、また、そこから逸脱することの恐れということが、深く影響していることを、改めて認識する必要があります。

「妄想」を訴えかける人、あるいは「集団ストーカー被害」を訴えかける人にアドバイスがあるとすれば、「組織による迫害」など、解釈または観念のレベルで、「決めつけ」的に訴えかけるのではなく、感覚レベルでどういうことが起こっているのか、まずはしっかりと説明することです。

普通は信じられないかもしれないが、「自分のことが周りの者に知られている」と<感じる>とか、行きかう人が、いろんなことを言ってくると<感じる>。あるいは、とても偶然とは思えない頻度で、人が自分につきまとっていると<感じる>などです。

恐らく、それを訴えても、「そんなのは気のせいだ」とか、「思い込みだ」と言われてしまう可能性が高いし、「病気だから病院に行った方がいい」(これは、「共通感覚的な反応」ではなく、まさに「常識という固定観念」による反応ですが)という人も出てくるでしょう。

「妄想」を訴えかける人は、このような反応が多いからこそ、そのレベルではなく、「常識」に寄せた、「組織による迫害」という解釈、観念のレベルで訴えようとするのですが、それが先にみたとおり逆効果で、ますます一般には、受け入れられることがなくなるのです。

感覚レベルで訴えかけることのリスクが高いのは、理解できますが、世間一般ということではなくとも、家族など、どうしても理解してほしい人には、そのレベルで、起こっていること、感じていることを、率直に訴え続けるしかないのです。多くの人でなくとも、ある一定の人たちは、(それを事実として認めるかはともかく)「そのような感覚を持っているがゆえに苦悩している」ということは、必ず理解してくれるものと思います。

いずれにしても、私に言わせれば、「妄想」を訴えかける方も、世間一般の方も、唯物論的な発想という「常識」の土俵の上で、やり合っていますが、それでは、互いにかみ合うことはなく、決して埒はあかない、ということです。

この場合には、唯物論的な発想という「常識」そのものを、問題とする必要があるのです。

※ 共通感覚的に「おかしい」ということを「共有」できず、逸脱してしまう理由を、動機のレベルから説明すれば、こういうことになります。しかし、感覚レベルでいえば、「妄想」の基礎にある感覚レベルでの体験には、強烈なリアリティを感じており、それが共通感覚的に「おかしい」ということを上回っているからです。このリアリティは、あくまで感覚レベルの体験にあるものですが、「妄想」として観念レベルに築かれたものに対して、働いてしまっているわけです。

 

2020年6月14日 (日)

「絶望の果てでの笑い」

船瀬俊介著 『できる男は超少食』に、面白い話があったので、紹介します。

「ひどいうつ病の男がいた。もう死にたくなって電車に飛び込もうとしたが、痛そうなのでやめた。ビルから飛び降りようと思ったが怖くてやめた。首を吊るのも苦しそうだ。そこで、何も食べずに餓死することにした。ところが、3日、4日と食べないうちに、不思議と心が澄み切ってきて、なぜだか生命力がわいてきた。そして、死ぬのが馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった。」

なんと、死ぬつもりの断食で、うつ病が治ってしまったのです。だから、うつ病患者に私はこうアドバイスしたい。
「自殺するなら断食に限りますよ!」

笑ってしまいますが、実は、私が統合失調状態から回復したのも、これに近い話と言えば言えるのです。

記事では、「闇との遭遇」あるいは「一体化」という、大層な出来事によるように書いていますが(それ自体は決してウソでも誇張でもないですが)、結局、本質的なところは、このような笑い話に近いというのが、偽らざるところでもあるのです。

「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」というのがポイントです。

私も、回復に向かう寸前の状況では、永遠に「悪魔」の呪縛から逃れることはできない。世界ももはや「終わり」を迎えようとしている。という、絶望的な気分になって、自殺を考える状態でした。自殺すれば、悪魔を「道連れ」にできるかのような幻想もありましたが、考えてみれば、そんな保証はあるはずもありません。結局は、自分もますます「あの世」で、呪縛されるだけで、解放される望みもなく、この「世界」も、だた空しく終わるだけということに気づかざるを得ませんでした。

そんなときに、「闇との遭遇」あるいは「一体化」が起きたのですが、それは、端的に言うと、私が「終わる」とか、「悪魔に呪縛される」とか言っていた「世界」そのものが、実は「無」だったということを示すものでもあります。それまで、いやというほど囚われていた「世界」の本質が、そのとき、その姿を如実に現わしたのです。その瞬間は、そのように、「知的」に認識したわけではありませんが、そのことは、一瞬の体感により、疑いようもなく、感じ取られたことです。

そして、私も、すべてが「馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまった」のです。

そうしたら、それまで延々と悩まし続けられた、統合失調状態そのものが、どこかに行ってしまっていたのです。その瞬間は、それまでずっと呪縛され続けていた、どうしようもない状態が、まるで、何事もなかったことかのように感じられました。

その後も、たとえば、「声」や、「捕食者」のような存在の働きかけがなくなったわけではありませんが、そんなことは、大したことではなくなってしまったのです。少なくとも、それに囚われて、落ち込むということはなくなりました。

要するに、その内容や具体的な経緯は、どのようなものであれ、結局は、「絶望の果てでの笑い」ほど、回復の効果のあるものはないということですね。

 

2020年6月 4日 (木)

「コズミック フロント UFOの真実」

昨晩、NHKBSプレミアム 『コズミックフロントNext UFOの真実』を見た。

内容としては、記事『米メディアの報道記事2つ』でとりあげていた、米国防総省が公開した米海軍戦闘機が撮影したUFO映像と、米国防総省がUFOの極秘調査をしていたことの暴露。これに関する、米軍事関係者や識者などの意見などで、取り立てて新しくないが、単に「未確認」として放置するのではなく、実際に、「地球外の惑星から訪れた異星人の乗り物」である可能性があることを、現実問題として報じていたのが、新しいと言えば新しいことだった。

もっとも、『コズミックフロント』では、前にも、UFOを肯定的に扱ったものを見たことがある。NHKも、番組やスタッフによっては、ちゃんと真実に迫ろうという意思のあるものがあるということだが、そもそも、米国防総省の公開した映像や情報も、はっきり言って、UFO関連の情報のうちのほんの一部であり、「小出し」したとしか言いようがない。番組も、この公開事件を超えて、より深くUFOそのものや宇宙人そのものに迫ろうというものとは言えない。(本当にこれをやれば、バッシングを受ける可能性、つぶされてしまう可能性が大なので、このあたりが現状では限界なのだろうが)

ただ、番組でも、これは、より大きな「グランド ディスクロージャー」の先駆けとして公開されたものという可能性が述べられており、今後の公開のあり様によっては、本当に大きな情報の公開がなされる可能性はあり得るので、注目される。

また、番組では、墜落したUFOの残骸の研究を通して、反重力のような宇宙的な技術の開発がなされていて、それがエネルギー革命もたらす可能性や、UFOの出現は、人間の核実験に関わって頻出しているらしいことから、これには、核への監視的な意味合いがあるのではないかという可能性など、一歩踏み込んだものにはなっている。

私が見たのは、再放送だったようで、今後の放送の予定はないようだが、この米国防総省が公開した映像は、Youtubeにもある。(たとえば  

https://www.youtube.com/watch?v=xRs4IfP6LMc)

また、番組の放送内容について、かなり詳しく紹介しているサイトがここにある。

なお、私のブログ『オカルトの基本を学ぶ』では、『「宇宙人」が地球に来ている可能性 1、23』として、UFOや宇宙人に関して基本的なことをかなり詳しく解説しているので、そちらもぜひ参照されたい。

 

2020年5月28日 (木)

「狂気」と「唯物論」

前回、前々回の記事で、「狂気」「感染症」「唯物論」というものには、「文明病」的な関わりがあることを述べました。

その中で、特に、「狂気」と「唯物論」との関わりについては、前々回の記事で、「「狂気」も「唯物論」も、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、互いに絡み合うところがあるのも事実である」とだけ述べていました。しかし、これは、具体的にも、これまで述べて来たところから、明らかなことと思います。

今回は、これについて簡単に振り返りつつ、さらに考察してみたいと思います。

「統合失調的状況」において、まず、周りの者に、最も「狂気じみた」ものとして現れ出るのが、典型的な「妄想」、特に、「組織に狙われる」などの迫害妄想です。そのような「妄想」を信じること自体が、何か、常識というか、一般の感覚を大きく逸脱して、「一線を超えてしまった」感じを与えます。さらに、そのような妄想に基づいて、不安や恐怖、怒りの感情も露わに、奇妙な行動をとることは、まさに「了解」しようのない、「狂気じみた」ものを感じさせます。

しかし、そのような「妄想」の元には、一般にも通じる、「唯物論」的な発想があり、それが存続の危機を迎えているので、何とかそれを「護ろう」とする、強い「あがき」である場合が多いのです。

「唯物論」というのは、「世界」には、物質的なもののみが存在するという信念ですが、それは、対比的に言えば、近代以前に信じられた、「霊的なものは存在しない」という信念とも言い換えられます。つまり、個人的な信念であると同時に、時代的、集合的な信念で、近代社会特有の信念ということができます。まさに、高度に「文明」的な信念です。

「統合失調的状況」では、不審な内容の「声」を聞くなど、これまでの状況からは、「未知」としか言いようのない状況を迎えています。それは、これまでの、唯物論的な発想に基づく「世界」または「現実」そのものを、崩壊させかねないようなものなのですが、それを認めずに、何とか、これまでの「世界観」の延長上に、起こっていることを解釈しようとするときに、出て来るのが、「組織に狙われる」などの「妄想」なのです。

それは、「病気」でもなく、何か、「霊的なもの」の現われなどでもなく、「現実」の人間による、「組織」による行動で「なくてはならない」のです。その「組織」とは、権力的な組織力と高度な技術を備えたものなので、起こっていることの説明に適うとみなされるのですが、周りの者には、かえって、明白に、「無理」で「奇異」な内容となるものです。実際に、「無理」が押し通されている面があるからです。ところが、本人にとっては、許容される「唯一の可能性」なのであり、むしろ他の可能性を排除すべく、決定的に、「動機づけられ」つつ選び取られているのです。

実は、「病気」というのも、唯物論的な発想に基づくもので、本人の側の唯物論的な発想からしても、強烈に「現実的なもの」です。そのため、だからこそ、「病気ではない」ということの明らかな証として、「組織」という(唯物論的に)「現実のもの」を持ち出す必要があるということにもなります。

このように、「病気」という見方と「組織による迫害」という妄想は、唯物論を媒介にして、裏返しの関係にあるのです。

しかし、本人にとっての、真に差し迫った脅威は、それにあるわけではありません。それは、その者が陥っている、唯物論的な世界または現実そのものの崩壊という状況の方にあり、妄想の真の動機も、それを何とか押し止めようとする、「あがき」の方にあります。

結局、「狂気」を最も「狂気じみた」ものにしているのは、この、差し迫った恐怖に基づく、「あがき」であり、それをいかんともすることができないということにあるといえます。

もちろん、このような狂気は、唯物論的な信念以外の信念に基づいても起こり得ますが、唯物論的な信念を護持しようとして起こるものは、その信念にこそ基づいてる、一般社会との関係で、特別に熾烈かつ悲壮なものをもたらすのだと言えます。

それは、同時に、「唯物論」という信念自体が、既に、どこか「狂気じみて」おり、独特の「偏狭さ」をもつものだからでもあります。近代以前には、普通に信じられた「霊的なもの」を、近代という、ポッと出の人たちが、独特の時代感覚で、否定し切ったつもりになり、唯一の正しい信念であるかのように振る舞うというのは、恐ろしいばかりの、「偏狭さ」でしかあり得ないでしょう。

その「唯物論」という、既に狂気じみた信念を護ろうとして、起こされる「あがき」は、「狂気」が二重に重ねられたごとくに、殊更「狂気じみた」反応をもたらすということです。

※ 「組織に狙われる」という形の妄想をもつ人たちの多くは、おそらく、積極的に「唯物論」的な発想をもっているわけではないと言うかもしれません。しかし、漠然とした形で、霊的なものを否定しないという人たちも、霊的なものを積極的に認めているわけではなく、また、それに対する多くの恐怖を抱いているのが普通です。そこには、少なくとも、社会的に形成された、「唯物論」的な習性の影響が、大きく働いているというべきなのです。

 

2020年5月 3日 (日)

「感染症」と「文明病」

前回、「感染症」と「狂気」の本質的な類似性について述べた記事、『「伝染病」と「狂気」』をとりあげました。

実は、その次の記事、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でも、「感染症」やウイルスについて、「進化」という長いスパンでみた、「病気」の意味という観点から、考察しています。

前回の記事では、「感染症」と「狂気」、「唯物論」が本質的に絡み合いつつ、「文明病」を構成していることをみました。

「狂気」、「唯物論」が「文明病」であることは、これまで何度も述べて来たことから、明らかと思います。いずれも、近代社会以降に、爆発的広まったもので、それ以前には、ほとんどなかったか、ある種の知恵をもって処されていました。

一方、『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』の方では、「感染症」を含めた多くの病気そのものが、「文明病」というべきものであることを述べています。たとえば、次のようにです。

医学も薬もない時代から、そうやって、人間はそれらの細菌やウイルスと格闘しながら、ともに進化して来たのであり、人間は、本来、これらの病原に対する免疫や、対抗力を身に備えているのである。

だから、本来、自然状態では、「病気」とは、それほど恐れるに足りないものである。しかし、最近のエイズにしても、様々に変異したインフルエンザにしても、文明の中での人為的な働きかけによって生じたもので、「文明病」というべきものである。

細菌やウイルスによる感染症を「文明病」ということに、抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、山本太郎著『感染症と文明』(岩波新書)でも、感染症は文明によって広がったことが、はっきりと示されています。文明以前は、感染症を育む定住社会ではなかったし、ある集団があったとしても、その集団の中で、一定の人が感染症にかかることで、「集団免疫」が獲得され、それは終息に向かっていたのです。だから、それほどの脅威ということは、ありませんでした。

また、この本では述べられていませんが、記事『「<癒し>のダンス」』でみたように、先住民文化は、本来、感染症のようなものさえ癒してしまう、儀式に基づく「癒しの技」をもっていました。

さらに、『感染症と文明』では、感染症の拡大は、近代以降のグローバルな人や物資の移動によってこそ、押し進められたことが示されています。そこには、高度産業社会の技術の飛躍的な発展も、働いています。そのような技術の発展こそが、人や物資のグローバルな移動を可能にしたものだし、技術的な開発による自然への介入が、感染症の温床となった例も多いからです。

さらに言うと、最近の様々な変異的なウイルスは、高度な技術からこそ直接生み出された、「人工的な創出」であることを、予想させるものです。

もちろん、一方で、それは、薬やワクチンの開発も可能にしましたが、記事『「ダーウィン医学」と「薬による治療」』でみたとおり、結局は、一種の「いたちごっこ」であり、「文明病」の発展を後押しするものにすらなっています。その部分をあげると、次のとおりです。

現代の病気と治療は、「文明病」対「文明薬」の闘いになっているわけで、どちらが勝っても、体にとっては、不自然な結果になる。あるいは、結局、「文明病」と「文明薬」は、一見闘っているようで、実は手を組んでいるのであり、ともに体の「自然」に敵対して、蝕んでいく。

要するに、「感染症」も「狂気」も、まさにそれ自体が「狂気」じみている、「唯物論」という信念も、いずれも、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、絡み合っているということです。それらを、単独で問題にしても、実質的な解決が望めるはずがなく、そうするためには、「文明」そのもの、少なくとも、近代社会以降の社会システムを問題にしなければならないということです。

これは、結果としてですが、現在のコロナウイルス騒動も、そのような機会に結びつけ得る可能性は、いくらか出て来てはいますけどね。

 

2020年4月11日 (土)

「感染症」に対する恐怖とウイルス

新型コロナウイルスによる感染症は、緊急事態宣言をもたらすまでになってしまった。

このウイルスは、自然に発生したとは考えにくく、人工的なものであることが十分疑われる。また、流れとして、初め中国と韓国で広がったものが、後に、むしろ、イタリアや、アメリカ、スペイン、英国などの欧米に拡大したことは、不自然な感が免れない。人工的なものだとして、これは、意図されたものなのか、あるいは誤算なのかということもある。(意図されたものであれば、考えられることはいろいろあるが、それにはいずれまた触れることにする。)

しかし、いずれにしても、私が、この騒ぎについて思うのは、「感染症に対する恐怖」というのが、やはり、人間にとって、半端なものではなかったというのを、改めて確認できたということである。

もちろん、これには、マスコミや、政府機関による「煽り」の影響も大きい。が、それにしても、もともと感染症に対する恐怖があるからこそ、それが効くのである。そして、その部分に関する限り、やはり、「捕食者」の影響が大きいと、私は感じざるを得ない。

「感染症」(伝染病)と「狂気」に類似する点が多いこと、どちらも、「捕食者」によってもたらされたと言えることについては、既にかなり本質的なレベルで述べたものがあるので、是非、記事『「伝染病」と「狂気」』を読んでほしい。

感染症に対する恐怖には、そもそも、感染症をもたらすような、「細菌」や「ウイルス」そのものが、「捕食者」によってもたらされたものであるということがある。細菌やウイルスの、強力な伝染力もそうだが、直接「目に見えない」ということ、写真などを通して知られる、その(不気味な)形や性質も、これを十分反映しているものがある。人々は、どこかで、それを感じ取るか、あるいは、漠然と、「オカルト」にも通じるような、未知なる恐怖にかられるのであろうと思う。

そして、実際、「捕食者」の常として、そのような、「訳の分からない」恐怖や混乱をもたらすことこそが、まさに意図されていることでもある。

先の記事でも述べたように、細菌やウイルスは、生物の改変または「進化」をもたらすばかりか、「善玉」として、共生するものもあり、一概に「悪」ではないのはもちろんである。それにしても、そこには、「恐怖」に向けられたものが、明らかにあると言うべきである。

実は、細菌については、シュタイナーも、「アーリマン存在」がもたらしたものと述べている。当時、細菌とウイルスは明確に区別されていなかったので、当然、ウイルスも含む趣旨と思われる。

それを、以下に挙げてみよう。

かつて太古の時代にアーリマンとその眷属たちが打ち負かされて、霊界から地上の世界へ追い落とされたときは、地上のすべての住民に、バクテリアがとりついたのです。バクテリアの働きは、かつてアーリマンと眷属たちが天上から地上へ追放されたことの結果のひとつだったのです。そして19世紀70年代末以降、アーリマン的=メフィストテレス的な考え方が地上を席巻したのも、同じひとつの結果なのです。ですから、結核のような伝染病は、こんにちの知的唯物論として精神や魂にとりついているものと同じ由来をもっているのです。この二つ、唯物論と伝染病は、高次の意味では、まったく同じなのです。

『悪について』  p.180

私は、「狂気」と「伝性病」にそれをみたが、シュタイナーは、「唯物論」と「伝染病」は、「アーリマン存在」がもたらしたものとして、そして恐らく、「伝染性」があるという意味でも、同じものと言っているのが面白い。実際、「狂気」も「唯物論」も、近代社会以降爆発的に広まった、一種の「文明病」として、互いに絡み合うところがあるのも事実である。

シュタイナーは、別のところで、細菌は、「人間の虚言が生み出す」ということも言っている。人間の虚言は、人間の中の「アーリマン的性向」から生み出されると言えるから、結局は、「アーリマン存在」がもたらすことに変わりはない。

ただ、細菌やウイルスのような、微小なものは、人間の想念によって生み出され(一種の物質化)ても、おかしくはないし、あるいは、人間の虚言のような想念は、細菌やウイルスを「呼び寄せる」ということも言えるだろう。実際、シュタイナーは、風邪のような感染についても、細菌やウイルス自体が「伝染」するのではなく、人間の「同情」という思いが、細菌やウイルスをもたらす「土壌」を生むのだとも言っている。(『病気と治療』)

「同情」というのは、一例に過ぎず、「恐怖」や「不安」のような感情もまた、このような場合に含め得ると思う。

要するに、もともと細菌やウイルスに強力な「伝染力」があるということなのではなく、それに対する「恐怖」や「不安」などの感情が、それを大きく助長しているということである。恐怖や不安を「煽る」ことには、そのような、伝染力の拡大の意図もあり、私は、それは、最近の、「集団ストーカー」という観念の伝染力についても、言えることだと思う。

このことは、記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』でも触れていて、次のように言っていた。

感染症を広めて、物理的に、恐怖と混乱を引き起こしたい場合には、新種のウイルスを開発して、まき散らせばよい。同じように、精神的なレベルで、多くの者に、恐怖と混乱をもたらしたい場合には、それなりに練り上げられた、「集団ストーカー」なる観念を、まき散らし、それを信じ込ませることさえできればいいのである。

一旦、その観念を信じ込ませることにさえ成功すれは、あとは、その者が、自ら、それに沿う形の「現実」を「引き寄せ」、「作り出し」て、大騒ぎしてくれる。ますます、その観念は、「力」を増して、増殖し、拡散して、多くの者を捕えるようになる。

 

2020年3月 3日 (火)

記事『どぶろっくと「妄想」』推奨

あまり読まれていないようですが、記事『どぶろっくと「妄想」』は、どぶろっくの妄想ネタを通して、統合失調的な妄想の元にあるものを、誰にとっても、率直に、分かりやすく、明らかにしていると思いました。

他の私の記事が、多少論理的に過ぎて、くどい感じがあるとすれば、この記事の端的な「分かりやすさ」は、かなり貴重のはずです。

どぶろっくは、最近、また、「大きな一物」を引っ提げて(笑)、リバイバルしているので、この機会に、改めて読んでもらえたらと思います。

特に、妄想の元にある「声」の特徴を、「ガチでリアルにヤバい」と言っているのが、適確で(笑)、重要なことです。その「声」を聞いた、率直な感じとしては、まさに、そのようにしか、表現しようのないものだからです。だからこそ、多くの人は、真に受けて、振り回されてしまうのです。

繰り返しますが、単純に、「ヤバい」のではなくて、「ガチでリアルにヤバい」のです。それは、「通常の人間」の出せるものではない、ということに気づいてほしいと思います。それに気づけるかどうかが、その後のあり様を大きく変える、分かれ目と言っても過言ではありません。

もちろん、それは「恐ろしい」ことには違いありません。それでも、どこかで、「ヤバイよ、ヤバイよ、ヤバイよ!」と、出川風に、(心で)つぶやきつつ、ちょっと距離を置いて、自分のおかれた、「あり得ない」状況を、興味をもって眺められるようになれれば、しめたものです。

2020年2月26日 (水)

「縄文」という「未来」

アフリカのクン族の「癒し」をとりあげた、記事『「<癒し>のダンス」』のコメント欄で、私は、

「 文明とこのような霊的な要素との調和ということには、私はもはや懐疑的で、一旦はこのような未開の状態に戻って、全てを経験しなおさなければ、何も分からないというところに来ている 」

ということを述べていました。

しかし、これを読んで、今の私は、違和感を感じざるを得ません。と言っても、言っていることの内容そのものではなくて、その表現、特に、「未開の状態に戻る」という表現が、問題です。

「戻る」というのは、未開社会、先住民文化を、我々にとって、我々が文明化する以前の、「過去のもの」と思っているから出てくる表現です。それは、例えば、我々日本人にとっては、「縄文時代」のようなものとして、受け取られているのです。

しかも、この表現は、我々が、文明を放棄しさえすれば、当然に、そこに「戻れる」かのような、言い方です。そこには、先住民文化、あるいは縄文文化というものが、我々より遅れた、「原始的」なものであるという意味合いを、どうしても含んでしまっています。

もちろん、私は、当時既に、先住民文化や縄文文化の、精神文化の「高さ」を認めていましたし、それが、霊的な意味でも、「真実」のものであることも認めていました。ただ、現代の、物質的な発展という方向性からみれば、「遅れている」というか、それとは違う方向にある文化であることは、明らかなので、その見方に沿う形で、このような表現になったのです。

しかし、それにしても、今からすれば、違和感が強いです。

それは、最近の記事『ムーと縄文の「テクノロジー」について』で述べたように、縄文そのものに、「テレパシー」や「テレポート」などを日常的に可能にする、「高度のテクノロジー」があったことを、当時は、十分に認識していなかったからということもあります。(ただし、今でも、誰もが、日常的に可能にしていたとまでは、信じ難いものがあります。)

縄文文化にしろ、先住民文化にしろ、我々現代人が、物質的なものにつぎ込んでいる時間やエネルギーを、精神文化、または霊的な方向に注ぎ込んでいたので、そういった方向では、我々より優れているのは当然のことです。しかし、だからと言って、それは、物質的な方面では、「遅れている」とか、「無知」であったとかということには、決してなりません。

そもそも、「霊的なもの」は、「物質的なもの」を包摂する関係にあることから言っても、このような文化は、率直に、「全体として」、我々より進んだ文化と認める必要があるのです。

総体として言うならば、「縄文」は、我々にとって、「過去」ではなく、「未来」である、という言い方が、今は、ピッタリ来ます。あるいは、前に紹介した、NASA職員のこの人( https://www.youtube.com/watch?v=MEAtqRjDlt4 )も、「縄文宇宙人」という言い方をしていましたが、これもピッタリ来ます。

それは、当然、我々が、文明を放棄したからといって、達成できるものではなく、文字通り、現在より、「進んで」行かなくては、たどり着けないものです。

『ムーと縄文の「テクノロジー」について』でも述べたように、弥生時代くらいからは、現代に連なる方向が推し進められて、確かに、我々にとっての「過去」と呼べるものと言っていいと思います。しかし、縄文については、先住民文化やチベットなど、一部の文化を除いては、もはや断絶していると言うべきものです。ただ、日本人は、他の文化に比べれば、「縄文的なもの」を多く残している民族ということが、言えるだけです。

もう一つ、このように思うことになった理由の一つに、それよりしばらく前ですが、ある縄文遺跡を、じっくり体感してみたこともあります。そこには、縄文住居の跡があって、そのときは、本気で、縄文人と交信するくらいの気持ちで、じっくりと内部を体感してみたのです。

(残念ながら、縄文人が、直接話しかけてくるようなことはなかったですが(笑))まず、この住居の中には、とても「清浄な空気」が流れていることに驚きました。それは、明らかに、肌で感じとれるものでした。

さらに驚いたのは、もっと大きな集会所のようなところがあったのですが、そこは、単に、「清浄」というだけでなく、とても「エネルギー」に満ちたところで、そのエネルギーに促されるように、私は、その周りを何周も歩いていました。これは、ちょっと、「ただならぬ」ことだと思いました。そして、「縄文人」という自分のイメージが、どうも大きく違っているようだというのを、そのとき感じることになりました。

そのようなことがあったのと、後のさくやさんの本やブログによる縄文についての情報も相俟って、縄文人のイメージも、かなり変わることになったのです。

何しろ、「縄文」を我々の「過去」だと思っていたら、どうしても、見誤ることになると思うのです。

 

 

2020年1月13日 (月)

本年の情勢他/「幻」という意味

本年も昨年に引き続き、自然、人工の地球を取り巻く現象、国際情勢などあらゆる面で、激しい変動があると思われます。実は、大きな戦争が危惧される状況から、一応それを免れるという、綱渡り的な状況から始まったのは、昨年と同じなのです。

ただ、全体として、このような流れを乗り越えることさえできれば、少なくともこれまでよりは、よい方向に進んでいくと思われる兆候はいくらかあります。支配層の不正な行いが、これまでより表に現れやすくなり、隠せなくなっていることもその一つの現われです。

 

新年には、記事のぺージビュー数ランキングに変化があったとき、紹介していましたが、今回は、『NIGHT HEAD 」の世界』が2位に来ているという変化がありました。

NIGHT HEAD 」は、かなりマイナーなオカルト的内容のドラマですが、私も、オカルト的な仕立ての面でも、また、人間の「闇」の部分をつくという意味でも、鋭く「真実」をついたものと評していました。これに興味を寄せる人は、現在でもかなりいるということは、望ましいことですね。

 

もう一つ、前回『幽幻医学』にからめて、「物質的領域(三次元領域)」から純粋な「霊的領域(五次元領域)」に移行してみると、「霊界の境域(幽幻領域)」で起こることは、「幻」であったことが分かるので、それに伴う「病的」な状態も解消されてしまうということを述べました。

既に何度か述べていることなので、改めて言うまでもないとは思いますが、この「幻」という意味を、簡単に確認しておきます。

ここで「幻」というのは、「存在しない」ということでも、「現象として生起しなくなる」ということでもありません。その点では、精神医学が、あるいは一般に、「幻覚」というときの、「幻」とは意味がまったく異なっています。

「物質的領域(三次元領域)」から、「霊界の境域(幽幻領域)」で起こることをみるとき、それは「リアル」そのものです。むしろ、それは、「物質的領域(三次元領域)」で起こる出来事以上に、「リアル」と言っていいものです。

ただ、それも、「霊的領域(五次元領域)」(あるいは、根源的な「虚無または闇の領域」)に移行してみると、(その領域こそが、本質的にリアルなものであることが一瞬にして分かるので)、必然的に、「幻」であったと、「分かって」しまうのです。それは、観念的な意味ではなく、体験的に、全身を通して、嫌でも、即座に、分かるのです。

ですから、もはや、それに、囚われることも、振り回されるということもなくなります。「幻」ではなく、強力な「実体」だと思っていたからこそ、囚われ、振り回されていたのですから。

それに対して、精神医学、あるいは一般に、「幻覚」というときの「幻」は、「物質的領域」こそが「現実」であり、存在するすべてであるという信念から、それに該当しないものを、「幻」とみなすものです。現象そのものが、「現実」ではなく、存在しないものとして、切り捨てるのです。それは、観念的な「見方」に過ぎないので、実際に、体験的に、そのリアルさの渦中に飲み込まれている者を、納得させることなどできません。

だから、精神薬等で、無理やり現象を(見ることを)抑えて、それは「現実ではない」という見方を、「洗脳」していくしか手立てはありません。

これを図にすると、次のようになります。

物質的領域を越えた領域からみた「幻」

1

精神医学等のいう「幻」

2

2019年12月28日 (土)

『幽幻医学』

奥山輝実著『幻覚妄想と向き合う 幽幻医学 五次元波動へのパスポート』(ヒカルランド)を読んだ。

著者は、元脳外科医で、現在は自然医学に基づく独自の療法による開業医をしている者である。私は、『マイナスエネルギーを浄化する方法』(記事 参照)のときと同様、医師等の書いた、この手の「(軽い)スピリチュアル」風の療法には、警戒心を抱き、あまり読もうとしないのだが、幻覚・妄想を問題の中心に据えたもので、プロローグを読む限り、共感するところも多かったので、読むことになった。

結果として、それは、私のこのブログで説いてきたこととも、(視点は異なるものの)大きく重なるもので、大枠で、十分受け入れられるものだった。

むしろ、私も、旧来の精神医療のほか、この書でとりあげられるような症例の、「受け皿」がないことをずっと懸念していたが、それを一手に引き受けるようなことをなしていることには、率直な驚きがあった。

特に、プロローグの次の文書を読んでもらえば、現状の認識として、いかに私の述べてきたことと一致するか、分かると思う。

2018年は精神医療の嘘と闇が一気に暴かれ始めた年となりました。もう個性や才能を精神病だと決めつけて向精神薬漬けの廃人にしてしまうことが難しくなってきたのです。

精神医療の瓦解は素晴らしいことです。新しい世界の幕開きを実感できます。

しかし一方で、幻視や幻聴などの幻覚や妄想に悩む人たちが急増しているのも事実です。

旧来の向精神病薬では幻覚妄想は治せません。

それは症状を抑え込む対症療法だっただけでなく、脳機能も精神機能もズタズタに破壊して今生を再起不能にしてしまう恐ろしい薬物治療でした。減薬断薬するにしても、何年もの間、患者さん本人もその家族も地獄の苦しみを味わわなければならないこともしばしばでした。

そんな精神医療が消え去るのは大歓迎すべきことですが、「では、幻覚妄想をどう治療するの?」という受け皿がないことも事実です。

そのような状況で、これらの人たちの「受け皿」となるようなものが必要だが、その必要上生まれたのが、著者のいう「幽幻医学」ということである。

「幽幻」とは、字のごとく、「幽き幻」の領域という意味で、それは、「三次元領域」と、人類がこれから移行しようとしている「五次元領域」の、中間的な領域(のある部分)を表している。つまり、「幽幻病」とは、この物質的、感覚的世界と純粋な霊的世界(単に「物質的な領域」というだけでなく、霊的なものの「闇」の側面も越えた領域)との中間領域にはまり込むことで、起こっている様々な精神状態を表している。

それは、五次元領域に「ジャンプアップ」してみれば、「幻」であることが分かって、解消されてしまうものなので、「幽幻」領域の「病」と呼ばれているのである。後にみるように、私というより、シュタイナーのいう「霊界の境域」とも十分重なる

それで、その治療法というのも、五次元領域への「ジャンプアップ」を、支援するようなものが中心となっている。

著者には、『霊障医学』という本もあって、そちらの方では、ネガティブな「霊障」というものを多くとり上げていたが、この書では、「スピリチュアル」にある程度詳しい人なら、一見して「スピリチュアル」なものとの関わりで生じていると分かるような、混乱や問題が多くとり上げられている。

しかし、旧来の精神医療では、このようなものも、すべて「病気」として扱われて、精神薬が投与されることになるので、霊的な方向への移行の機会はつぶされてしまうのである。

ただ、この書では、『霊障医学』では、かなり具体的に示されている治療法については、あまり記されていないので、それを読まないと、具体的には捉えにくいかもしれない。

基本は、食事療法や生活養生。精神薬を飲んでいる場合は、減薬・断薬。前世に遡って、起こっていることの意味を知る、前世療法などで、しっかりと足のついたものである。霊的な世界への移行を支援すると言っても、この世での生活こそがまず問い直されるし、それを、おろそかにするものでは決してないということである。「霊障」についても、霊的なものを「祓う」という発想より、こちらの方が主である。

ただ、それらの療法は、現に「霊的な世界」からの支援でなされていることを、はっきりと述べているものもある。ブラジルやフィリビンなどには、このように霊界からの支援でなされる医療が多くあるが、この医師も、そのような役割を負っているようである。

(このように言うと、類似の症状に悩む人は、この医師に頼りたくなるかもしれないが、私としては、基本的に受け入れられ、共感できるものとは言えても、その効果を保証できるものでは、全くない。各自が、本を読むなり、情報を調べて、しっかりと判断してほしい。)

さらに、私の観点から、興味深いのが、あらゆる領域を越えた世界として、「空と無の世界」を語っていることである。それは、「龍神」の泳ぐ世界ということで、それに関する医療を、「龍神覚醒術」などとも言っている。()

先に、「五次元領域」は、「幽幻」的な現象を、まさに「幻」として、「解消」すると言ったが、こちらの「空と無の世界」は、「今このとき」をあるゆる領域から、根源的に「リセット」するとされている。

これについての文章を、あげておくと、次のようである。

幻覚妄想などの幽幻病には、この空と無の世界はとても役立ちます。過去生、未来生、平行次元に由来する幻覚妄想も、この空と無の世界で今の意識体から洗い流すことができるからです。軽い幽幻病なら無の世界にすべてを投げ入れて捨て去ってしまえば、今の意識体から消し去ることができます。

空と無の世界は時空間も多次元宇宙も超越したハブのような空間なので、どの時代にも、どんな星や銀河にも、どんな神々にもアクセスできます。

この世界もまた、私のいう「虚無、闇あるいは無限」の領域と、通じている。私の場合は、既に体験のところで述べたように、「五次元領域」というよりも、この「闇」の作用によって、「幽幻」領域の現象が幻であることを即座に知ることも、すべてが一旦「リセット」されることも、起こったのである。

このように、『幽幻医学』と、私のこれまでの述べてきたこととの通じる面は、次のように図にしてみると、分かり易いと思う。

「幽幻医学」の場合

Photo_20191228215201

 「霊界の境域」の乗り越えの場合

Photo_20191228215401

 『龍神覚醒術』(三和書籍)も読んだ。
 治療法の中で浮かびあがって来た「龍神」や「神々」とのやりとりを、物語形式でつづったもので、とても面白く読めるし、興味深い。人生の節目における「選択」ということが、「平行次元」的な現実の分かれ目になることを、改めて意識させられる。
観音様が、さんざん「悪」の役割を果たし終えた人に、「よくやってくれました。また今度もよろしくお願いしますね。」(「そろそろ卒業しては?」という促しでもあるのだろう)」とやさしく迎え入れる場面は、感動的だった。
ここにいう「龍神」は、生まれたときから、一人ひとりについているとされる「龍神」で、一種の「守護精霊」といえる。それを、来るべき五次元世界への移行に向けて、目覚めさせることが必要ということだが、これは、ヨガでいう「クンダリーニの蛇」と通じるし、やはり、シュタイナーのいう「境域の守護霊」とも通じている。

«「無縁」の原理と「サンカ」

新設ページ

ブログパーツ

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

コメントの投稿について

無料ブログはココログ