2024年4月 7日 (日)

ビンスワンガー、木村敏の例を通して具体的にみる

ここで、例として、ハイデガーの思想に依拠しつつ、現存在分析の方法を創始した著名な精神病理学者ビンスワンガーの捉え方を、少しとりあげてみたい。

ハイデガーは、世界の中に投げ出されてある、「世界--存在」としての人間のあり方を問題にするので、フッサールの現象学以上に、実存主義的な傾向が強い。世界の根底に「虚無」を見るような見方を継承しているということだが、しかし同時に、ハイデガーは、そこに自由または主体性の根拠もみており、だからこそ、人間は常に「開かれて」あり、それを超えて行く可能性があるのだともしていたようである(ハイデガーについては、いずれ『存在と時間』をじっくり読んでみるつもり)

しかし、それが人間にとって大変な営為であることに変わりなく、そのようなあり方に「挫折」して行き詰まり、根底の「虚無」に絡めとられたような状態に陥る者もある。ビンスワンガーは、それこそが、「統合失調状態」だとしていたようである。

『精神分裂病』という本の序文にまとめられたものによると、それは、次のよう言われている。

1 病者は、世界に適合して生きることができず、その体験世界は一貫性を失う。

2   この非一貫性を補填しようとして、奇矯な(思い上がった)理想形成を試み(たとえば自分が世界の中心にいるといった妄想などを形成して)、この理想形成と現実とのギャップに直面してその二者択一に迫られる。

3   病者は、ついにはこの二者択一という危機状況に耐えられず、現実から逃避し、自己決断を放棄して自らのすべてを他者にゆだねてしまう。

そうやって、自己という「主体」を失うことが、「世界-内-存在」としてのあり方に挫折をもたらすということだろうが、このこと自体は、分裂気質の者が、「分裂病的状況」に入っていく契機を、鋭くついていると言うべきである。(※1)

世界に適合できず、体験世界の一貫性を失うからこそ、そのような日常世界の様相が壊れ、根底の虚無を開くことになるのだし、分裂気質の者が、現実性の薄い、思い上がった理想形成に邁進しつつ、現実とのギャップに引き裂かれることを繰り返すのは、分裂気質の者の特徴として、これまで何度も述べて来た。ユング派的に言えば、「永遠の少年」であり、坂口安吾は、精神病院で分裂病者に接してすぐに、分裂気質の者のこの特徴に気づいている。(記事『『精神病覚え書』について』参照。) 

そして、そのようなあり方に行き詰まり、ついには自己の決断(主体性)を放棄するように投げ出すことが、分裂病的状況に入っていく決定的契機になることは事実なのである。

また、ビンスワンガーは、「現存在の失敗の三様式」として、「奇矯(思い上がり)」、「ひねくれ」、「わざとらしさ」をあげているが、これも、鋭い指摘で、興味深い。

「思い上がり」は、「奇矯な理想」というだけでなく、「誇大妄想」にはもちろんはっきり現れ出るし、「迫害妄想」にも、その裏面として潜むものである。「ひねくれ」は、世界あるいは集団への不適合故に、自己の反動あるいは防衛反応として、おのずと身につけられたものということができる。「わざとらしさ」は、にも拘わらず、分裂気質の者が世界や集団に対して、ぎごちなく(他者をまねるようにして)適合的な態度をとろうとするときに、どうしても出てしまうものである。

これらのビンスワンガーの指摘は、一見分裂病者を揶揄するかのようだが、確かな視点ではあるのである。

また、「わざとらしさ」はともかく、「思い上がり」や「ひねくれ」は、まさにシュタイナーの言う「ルシファー的な性向」そのものであることにも、注目される。

ただ、松本雅彦『精神病理学とは何だろうか』も指摘するとおり、ビンスワンガーのこれらの「了解」は、いかにも否定に偏った見方であろうし、これらの了解が、どのように分裂病者の「治癒」に結びつくのかも、見えてこない。

シュタイナーは、「ルシファー的な性向」に対して、「アーリマン的な性向」が働くことによって、ルシファー的な傾向は、いわば刈り取られ、結果として均衡がもたらされると言うのだが、まさにそのように、「分裂病的な状況」そのものに着目すれば、その過程自体に、具体的な治癒的な働きが伴っているとも言えるのである。

しかし、ビンスワンガーには、「分裂病的状況」という「水平的方向」への視点がないため、そのような理解は欠いているのである。

また、ビンスワンガーは、「幻覚」や「妄想」について、「無気味なもの」という言い方で、それらをもたらす何ものかを「予感」しているようではあるが、それ以上に、「実体的なもの」としては踏み込まないため、「幻覚」や「妄想」について、具体的な了解に至ることはないようである。

しかし、「分裂病的状況」にあっては、本人は、それらの現象によってこそ、その状況に閉じ込められているようなものなので、その状況を脱け出すという現実的な問題に照らせば、それらの現象を、いくらかでも具体的に了解することが必要である。実際に、「虚無」に絡めとられるというだけでなく、「水平的方向」において、「実体的な存在」の影響を受けて惑わされているということの自覚なくしては、具体的に、そこからの脱け出しということは、難しいのである。

そこでも、垂直的な方向の問題は、依然残るだろうが、まずは、水平的な方向への閉じ込めから抜け出せない限り、そのような問題に対処する可能性も見出せないのである。

ビンスワンガーの「了解」が、具体的な治癒に結びつかないのは、そのような視点を欠いているからと言うほかないだろう。

前回述べたように、「垂直的な方向」については、鋭い視点から見据えていて、分裂病者のあり方に一定の鋭い「了解」がもたらされているが、「水平的方向」の視点を欠いているので、それが十分具体的にならず、効果を発揮しないのである。

もう一人、木村敏の例を挙げたいが、木村については、既に記事『「あいだ」の病/『心の病理を考える』』と次の『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、十分と言っていいほどに論じていた。R.D.レインとともに、分裂病の理解に最も近づいた一人として、その意義を認め、しかし、やはり足りない面があることを、指摘していたのである。

ただ、今回改めて、気づいた面もあるので、それを補足する意味でも、少しとりあげてみたい。

木村は、分裂病を、対象としての人や関係からではなく、「あいだ」という観点から捉え、その「あいだ」がうまく機能していないために、自己が成り立っていかないのだとした。その「あいだ」には、「水平的方向」と「垂直的方向」があり、垂直的方向では、「ゾーエー」と呼ばれる普遍的生命との関係で、自己の「個別化の原理」が阻害されている。この「ゾーエー」は、「絶対他者」ともいうべき、自己の根底に働くもので、本来「虚無」とも言い得るものだが、木村は、あくまで「生命の源泉」という視点から、肯定的に捉えている。そのため、それを特に意識することなく、無自覚的にも、「アクチュアル」に生きている一般の者に対して、そこからいわば疎外されることになってしまう分裂病者という対比になっている。

私は、記事『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、木村も、そのように「正常人」と対比する視点から、やはり分裂病者に対しては、否定に偏する見方になっていることを指摘した。しかし、『異常の構造』(講談社現代新書)という著書で、木村は、「正常」と「異常」について次のように明確に述べている

「私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなった。」

「つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれているのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬがれようとする、人間の知恵がはたらいているのかもしれぬ。あるいはまた、分裂病を病気とみなしてこれに「治療」を加えることにより、異常を排除する「正常者」のやましさがすこしでも軽減するからなのかもしれない。」

ここでは、「正常」と「異常』というのは、「多数者」と目される側からの、いわば恣意的な区別に過ぎず、その「正常」の根拠としての「常識的合理性」を守るための、「排除」の論理に過ぎないことが、はっきり述べられている。だから、木村は、決して、「正常」を肯定的に、「異常」を否定的に捉えているということではないことが、改めて確認される。

しかし、また次のようにも述べられている。

「しかし、だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。」

「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」

つまり、分裂病に対してこれだけ身を寄せる木村にしても、やはり「正常人」の側として、常識的日常性の立場を捨てることができない限り、分裂病者を真に理解することはできないと認めているのである。

木村の「あいだ」の観点からの理解は、非常に鋭いと思うし、その「根底」に働くものへの「絶対他者」的な視点は、他の精神病理学者(特に西洋の)にはない、独特のものがある。それは、日本人ならではの、「おのずから」と「みずから」の一致という伝統的なあり様を、改めて顧みさせるものでもある。

しかし、その木村にしても、やはり「水平的方向」の理解を欠いているために、真に具体的な理解にはなっていないと言うべきだし、それは、先にみたように、本人自身も認めるところということなのである。

このことは、結局、多くの精神病理学者に当てはまるはずのことで、ヤスパースが試みたように、あるところまで「了解」できても、それ以上は「了解」できないという「壁」を認めざるを得ないということである。そしてそれは、そのような「壁」などないかのように、安易に「了解」を標榜する者などより、よっぽど謙虚で率直な態度と言うべきなのである。

ヤスパースも、「実体的意識性」ということに初めに注目した者であり、どこか、手の届き難い「未知のもの」を予感していたからこそ、「了解」の壁を強く感じざるを得なかったのではないかと思う。ただし、その壁を、「客観的な説明」に頼ることで補えるかのようにみなしたことには、やはり、そのような発想も、中止半端に抑制されてしまったことを感じざるを得ない。

いずれにしても、ここには、私が前々回述べたような、また木村が言うような、実際に経験した者と経験していない者との「壁」が、確かに横たわっている。それは、近代という時代の現時点においては、確かに、「容易には」越えがたい壁なのである。

しかし、私が、「水平的方向」ということで、述べている事柄は、決して今後誰にも理解できない事柄なのではない。それは繰り返し述べているように、「近代」が「神」や「合理性」以前に強力に排除した事柄なので、そのことを真に顧みるなら、それを改めて掘り起こし、理解の俎上に載せることもできないことではない。

特に、そのような事柄は、先住民文化の「シャーマニズム」として現に普遍的に生きられて来たものであり、現在もかなりの程度残されていることを考えると、そこから改めて学び直せるものは多くある。

「了解」の壁は、そのような方向が見直されていく限り、意外と越えられるものとなることも予想されるのである。

 

※1 「世界-内-存在」という言い方は、「世界の内に投げ出されてある」という実存状況を表すとともに、次のような意味合いも含むものと思う。

通常、自己と世界は別にあり、自己の外に世界というものがあると思っている。しかし、「世界-内-存在」とは、世界と自己とが別にあるものではなく、同時的に、結びついてあることを示している。だから、「世界-内-存在」のあり方が挫折し、主体性を失うことは、自己の崩壊であるとともに、即世界の崩壊でもあり、世界の崩壊は、即自己の崩壊を意味することになる。
 
そのような状況が、分裂病者の陥る状況を、本質的、抽象的に鋭く言い表しているのは、まさしくそのとおりである。しかし、それが、病者の陥った、個々の具体的な状況を十分に言い表すものとは言い難いであろう。

2  4月15日 

精神病理学に欠けている見方をもう一つあげると、それは「西洋近代」を相対化するような文化的視点だと思う。病的状態とそうでない「正常」の状態の差異を、「垂直的」な方向の実存的なあり方に即結びつけてしまい、その差異が「近代社会」という文化のシステムによって作られるという面をみることに欠いていたのである。この点は、西洋近代以外の文化を「遅れた」もの、「過去のもの」とみる視点が一般に浸透していて、他の文化を対等な「異文化」として顧みる余地がほとんどなかった当時の時代状況として、致し方ないものはある。

そのようなことは、文化人類学など、先住民文化を、西洋近代とは異なる「異文化」として学ぶという視点が出て来て、やっと可能になったことである。実際、「シャーマニズム」等、先住民文化から学ぶことによって、統合失調状態のかなりの部分を見えやすいものにすることができるのだが、この点は、次回に再び述べようと思う。

2024年3月24日 (日)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 2

一般の精神医学は、統合失調の者の言動が「了解不能」ということで、(特に脳の)「病気」として分かったこと(説明されること)にしていると述べた。

たとえば、精神科医のこのサイトでも、統合失調症が病気(疾患)とされることの根拠を問うなら、結局は、その者の言動が「了解不能」ということにあるとしている

しかし、そのように、他の者に「了解不能」とみなされる言動をとると、「精神病」と認定され、強制入院等の措置がとられる可能性があるというのは、考えてみれば恐ろしいことのはずである。もちろん、実際には、病気の症状として経験的に類型化されたものと照らして、判断されるわけだが、最終的な根拠が、「了解不能」ということにあることは、そこにかなり多くの影響を与えないはずがないのである。

精神病理学の先駆者とされるヤスパースは、統合失調症について、当時の「了解不能」の「脳の病気」で「治療不能」という一般的な見方に疑問をもち、現象学の方法をもって何とか、主観的な「感情移入」による「了解」に迫ろうとした。さまざまな前提と抽象によってこそ成り立つ、表面的な「客観的説明」などではなく、具体的に、主観レベルで「了解」できるものとしようとしたのである。

しかし、結局、ヤスパースも、あるところまでは「了解」できても、その先は「了解不能」であり、そこには、一般の「客観的な説明」を頼らざるを得ない、とせざるを得なかったようである。

ただ、その後の精神病理学は、ヤスパースのような妥協的な態度ではなく、何とか「了解」に迫ろうとする方向をそれぞれに探って行った。

前回私は、精神病理学の、「意識に現れたまま」を捉えようとする「現象学的な方法」に共感するということを述べた。

しかし、精神病理学のもう一つの大きな特徴は、近代的理性(による抽象的な原理や本質の理解)に疑いが挟まれて後の、個々の現実的、具体的な行き方を問題とする、「実存主義」的な態度にあるということも言える。

人々は、ニーチェが、「近代は、神を殺して、無を崇拝することになった」と言ったように、かつての神への信仰を失い、その神の性質を継承する「近代的理性」も疑われて、その隙から世界に顔を覗かせた「無」と直面せざるを得なくなった。

たとえば、パスカルは、「この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐怖させる。」と述べているが、それは、まさに、世界の根底に「虚無の深遠」をかいま見ていることの表現と言える。そして、これは、フッサールやハイデガー、サルトルなど、その後の実存哲学者たちにも、共通する感覚である。パスカルやキルケゴールなど、改めて神への信仰に至った者も多いが、それにしても、それは、世界の根底に「虚無の深遠」をみるところからこそ、始まっているのである。

精神病理学もまた、このような実存主義的な感覚を継承しているものが多い。だから、多くの精神病理学者にとって、「自己」がうまく成り立たって行かず、世界の根底たる「虚無」に搦め捕られたかのような、統合失調の者は、決して他人事ではなく、「了解」が全く不能なものでもない。そのような状態に陥った者を通して、改めて自分の生き方も問われてくるという意味で、「了解」への意欲をかき立てられるものでもある。

私は、世界の根底にある「虚無」に近づく方向を、「垂直的方向」としていたが、まさに、精神病理学の多くは、この垂直的方向から、統合失調を見据える目を、それなりに持っているのである。

だから、私が精神病理学に共感する部分というのは、実際には、この面にこそよっていると言える。

ただし、前回も述べたように、精神病理学は、(虚無の侵入を防ぐような、自己が成り立ちにくいなど)「統合失調状況に入って行く契機」をよく捉えているが、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものとは言えない。たとえ、部分的に明らかにするものがあるとしても、それは不十分なのである。それは、「水平的方向」の理解を欠いているからである。

「水平的方向」というのは、この場合、実際に「実体的」なものとして作用する、「霊的、オカルト的」な面を意味している。「統合失調状況」では、それまでの感覚的な領域での体験を超えた、新たな未知の要素が、実際に入り込み、それが「実体的」にその者に影響を与えるということが起こるのである。

このような新たな要素こそが、実際に「統合失調状況」に入り込んでいる者を捕らえて、惑わし、混乱させているのである。そして、そのような面こそが、人々に、恐怖を抱かせ、「了解不能」との思いをもたせるのである。あるいは、「了解不能」として、それ以上それに関わることを拒否する態度をもたらすのである。

そのようなものは、近代が、神への信仰以前に、「魔女狩り」の沸騰をもたらした元凶たる「悪魔的」で「おどろおどろしい」ものとして切り捨て、タブー化したものにほかならない。だから、 もはや「了解」の基盤もなく、しかも、その恐怖から、「了解」の舞台に上げることすら忌み嫌われるのである。

近代の理性に対して多くの疑問を付す精神病理学も、残念ながら、このような面においては、やはり近代の心情を受け継いでおり、そのような「霊的、オカルト的」な面、あるいは「水平的な面」にまでは着目しないので、「了解」といっても、十分に具体的なものにはならないのである。

次回は、著名な精神病理学者ビンズワンガーなどの例をあげて、もう少し具体的にみてみたい。

2024年3月11日 (月)

米国防総省はUFO・宇宙人への関心の火消しに走る

記事『米UFO調査機関新設の意図』で述べたように、米国防総省は、2021年に未確認飛行物体の調査機関を設置していたが、先日、その調査報告として、次のようなことを発表した。

〇「未確認飛行物体の目撃報告が地球外の技術の存在を証明するという根拠はない」

〇分析可能なデータが存在するケースを分析したところ、ほぼすべての(他の報道機関では「ほとんどの」と表現されている)報告が「普通の物体や事象の誤認だった」

〇「米政府、企業などが地球外技術を入手し、構造分析をした根拠は見つからなかった」

日本経済新聞の報道記事 参照) 

この記事でも触れられているが、このところ、メディアでは、米下院のUFO公聴会での元米軍関係者による証言のことがよくとりあげられていた。元海軍パイロットは、そこで、「米政府が地球外技術を入手し存在を隠蔽している」と証言して波紋を呼んでいたのである。

今回の調査報告は、まずもって、これらの公聴会での証言を、米国防総省として明確に否定することを意図したものと思われる。

UFO公聴会での元米軍関係者による証言は、前に記事『「公開プロジェクト摘要書」について』でもとりあげていた、グリア博士の主導する公開プロジェクトにおける元米軍関係者の証言とも一致しており、実際、そのプロジェクトに関わった者も参加しているようである。

ところが、この公聴会は、初めはメディアでもよくとりあげられて話題になったが、その後、メキシコの議会でUFO研究家が、宇宙人のミイラと称するものを持ち出してセンセーションとなり、それが分析の結果動物の骨をつないでできたものと報道されて後は、急に話題としてもとりあげられなくなっていた。( 報道記事  参照)

これには、UFO公聴会の話題性や(この件には関係しない)米軍関係者たちの証言の信憑性をも同時に削ぎ落そうする、かなりあからさまな情報操作の意図も疑われる。

そして、今回の国防総省の発表は、それに追い打ちをかけるように、公聴会での証言をはっきりと否定しにかかることになった。

「未確認飛行物体の目撃報告が地球外の技術の存在を証明するという根拠はない」という言い方は、(そもそも「地球外の技術の存在の証明」とはどういうことを言うのか、という問題もあるが)、地球外の技術の存在の「可能性」を正面から否定するものではないし、「ほぼすべての(他の報道では「ほとんどの」と表現されている)報告が「普通の物体や事象の誤認だった」というのも、地球外から来ているものがある可能性を、正面から否定するものではない。

しかし、この発表は、そのような可能性が、とりえず現在のところ、ほとんど認め難いものであることを、明らかに示すものではある。かつて空軍の調査機関、プロジェクトブルーブックが閉じられるときに出された報告書、「コンドン報告」とほとんど変わらない内容にまで後退している感がある。(記事『米UFO調査機関新設の意図』参照)

何しろ、UFO公聴会の米軍関係者の証言に関しては、ほぼ正面から否定したのである。

記事『米UFO調査機関新設の意図』でも述べたように、支配層は、「宇宙人の脅威」を「世界統一政府」樹立の、最終兵器のように利用したがっている。しかし、現時点において、正面からUFOや宇宙人の存在を認めることは、パニックになることが予想されることや、その宇宙人がどのような存在であるのかなどへの関心をあまりに喚起し、その多くが知れてしまう可能性があることなど、支配層にとって大きなマイナスの可能性も抱えている。

だから、これまで彼らは、UFOや宇宙人については、正面から認めるのではないが、同時に正面から否定することもなく、可能性としては含みを残しながら、曖昧にしておきたかったのだと思われる。曖昧なまま、必要以上に一般の関心を喚起することなく、いざというときに、かなり突発的に「宇宙人の脅威」を演出することで、「世界統一政府の必要性」を決定的にアピールしたかったのである。

しかし、今回の発表は、明らかに、そのような計画を犠牲にしても、現在の公聴会の証言を正面から否定し、一般のUFOや宇宙人に対する関心も、火消しするという必要に迫られたものということができる。それだけ、公聴会の証言と人々の反応には、危機感を感じていたということにもなろう。

実際、このような支配層の意図どおりに、この問題が終息してしまうのかどうかは、怪しいものだし、支配層としても、やはり完全に事態が終息することまでは望まないこともあるので、今後のUFOや宇宙人関連の出来事の動向が注目される。

 

2024年3月 2日 (土)

「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1

「精神病理学」については、哲学的で晦渋なイメージがあって、興味があっても、とっつきにくいと思っている人が多いであろう。それは、確かにそう言える面があり、だからこそ敬遠されて、表面上「分かりやす」く、一般化しやすい、生物学的な精神医学の方に、多くの注目や期待が寄せられることにもなるのだろう。

私自身も、精神病理学には晦渋なイメージはあったが、最近、松本雅彦著『精神病理学とは何だろうか』(星和書店)や、松本卓也著『症例でわかる精神病理学』(誠信書房)という、明解で分かりやすく書かれた本を読んでみて、改めて、「統合失調」と「精神病理学」について確認できたことがある。(この二つの本は、それぞれよく書かれた本で、「精神病理学」に興味があるなら、ぜひ読んでみてほしい。)

それは、端的に言うと、次のとおりである。

まず前提として、「統合失調」を巡る問題とは、結局は、「了解」を巡る問題であるということ。そして、「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがあるということ。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない、ということである。

このことは、前から述べていたことではあるが、今回改めて、強く確認されたので、それについて述べる。

まず初めに、私自身の立場をはっきりさせておくと、私にとっては、自分の体験からして、「統合失調」には「了解しかできない」ということになる。

「統合失調」に陥る人にも、さまざまなパターンや現れの違いがあるだろうから、「了解しかできない」というのは、おこがましいようだが、そこには本質的なレベルで共通の要素があるのは確かで、そこが具体的に「了解」できれば、それらの違いも、十分「了解」的に推察できてしまうのである。

精神科医のあげる症例や本人の手記などを読んでも、自分の体験に照らして、「あの状況でこのような反応をしてしまっているからこうなるのだな」等の理解が、具体的に、できるのである。

精神病理学でいう「了解」は、客観的な「説明」ではなく、主観的に「感情移入」して「了解」できることを言うのだが、もちろん、そのような状況での「出口の見えない」「どうしようもない」苦悩を体験しているから、同じような状況にある者に対して、いやでも「感情移入」的な理解になる。

ところが逆に、自分がそのような体験をする前を振り返ってみれば、「統合失調」に対して特に知識があったわけではないが(一通りのイメージは持っていた)、そこには、「了解などできない」という確かな壁ないし断絶が、はっきりとあったと言える。それは、(「分裂気質」というものに対して親近性は感じていたのだが)自分が実際に「統合失調」という状態に陥ることは、とても現実的に考えられることではないという思いと、言い換えることもできる。

現在でも、「統合失調」には、実際に体験してみないと分かり様のない面が、多分にあると思わざるを得ない。体験していない者に「了解」してもらうことなど、期待しようがないと思わざるを得ないところがあるのである。

だから、精神病理学が、自ら体験したわけでもないのに、それなりに鋭く、「了解」に迫ろうとするものがあることには、感心と驚きの方が大きいのである。少なくとも、「了解不能」として切り捨てて、「脳の病気」として「分かった」ことにし、薬で治療すべきものとする生物学的精神医学とは、大きな違いである。

精神病理学は、近代が前提として立てる発想に疑問を付し、それらをかっこに入れて、「意識に現れるままを観察する」という「現象学」の方法に則るものが多い。特に、デカルトが立てた「近代的自我」とか心身二元論的な発想を予めの前提としない。だから、「統合失調」を単純に、「自我の崩壊」とか、心身二元論の発想に基づく、「脳の病気」などとはみない。

フロイト的な精神分析についても、無意識という意識に現れていないものに対する「解釈」に過ぎないということで、取り入れないものが多い。

そうした中で、それぞれに、近代社会の中で「正常」とみなされる者を含めて、人間が生きるということはどういうことかを探って行き、その中のある種「逸脱」的な生き方をしてしまっている「統合失調」の者の意識のあり様を、何とか「了解」していこうとするのである。

それは、初めに述べたように、それぞれにみるべきものがあるし、「統合失調に陥る契機」としては、本質を明らかにするものがかなりある。

しかし、この点については、次回に具体的に述べることにし、今回は、私の場合との相違についてさらにはっきりとさせておきたい。

私は、「統合失調状況」そのものは、「霊界の境域」などとも言ったように、この世界に通常の感覚においては捉えられない「霊的」な領域のものが侵入し、両者が混交している状況であるとした。そこには、はっきりと、それまでの(通常の感覚に基づく)体験とは異なる「未知」の要素が入り込み、特に「自我」が弱いわけでもなくとも、混乱させる要素が多くあるのである。

精神病理学は、近代の前提とする発想を疑い、かっこに入れるのだが、それは、「霊的」または「オカルト」的なものにまでは向けられていない。つまり、これまでみて来たように、近代が内的な「排除」の欲求に基づいて、「霊的」「オカルト的」なものを存在しないことにしたという発想までを問うものではない。だから、精神病理学では、「統合失調状況」にそのような新たに侵入した「未知」の要素までをも、みようとすることがない。

それで、「統合失調状況」というのも、結局は、「統合失調に入る契機」の延長で(多くは自己の成り立ちにくさや未熟なあり様のため)、混乱が極まった状況とみることになるのである。中には、新たな「未知」の要素を何らかの形で示唆するようなものもあるが、それは、「霊的」「オカルト的」とみなせるようなものではない。

ただし、それには、精神病理学が、「意識に現れたままを観察して記述する」という「現象学」の方法に則ることから来る、当然の限界もあると言える。「無意識」の領域すら、意識に現れないものの「解釈」として切り捨てるのだから、多くの者には意識に現れているわけではない、「霊的」「オカルト的」なものの存在や働きなど、認めることができないのは当然ということにもなる。

しかし、この点は、「それ」が「現に意識に現れた者」の側からすれば、全く異なることになる。私は、まさに体験のさ中でも、様々な妄想的解釈や葛藤の果てにだが、最終的には、「意識に現れたままを観察する」ことしかできないことに気づき、それを実践することにした。それは、どうしてもつきまとう、混乱や迷いの中での、危ういものではあっただろうけれども、まさに、意識せずとも、「現象学」的な方法を実践していたのと同じことになる

また、「無意識」領域で体験していたものについても、何度か述べたように、「思い出す」という仕方で意識に上るものになったから、それは、まさに「意識に現れるままを観察」することを可能にするものとなったのである。

先に言ったように、それらは、当時の体験のさ中においては、かなり危うい、不確かな面も多かったかもしれない。しかし、それは、現在においては、それらを通り越して通常の意識状態にある中において改めて観察されたり考察されたうえで、様々な統合失調に対する考えとも照らし合わせて提示されているもので、私としては、まさに「現象学的な方法」そのものと言えるのではないかと思う。その意味でも、精神病理学には、親近性を感じるのである。

ただし、先に言ったように、統合失調を体験したわけでもない精神病理学者の「了解」との間には、壁や断絶をも感じざるを得ないのは事実である。そしてそれは、致し方のないことでもある。

しかし、多くの人は、統合失調を体験したわけではないので、同じ立場から、精神病理学を通して、「統合失調」を「了解」しようという意図を共有することは、しやすいと思う。「了解」しようという意思を失い、「了解不能」ということで、「分かった」ことにしてしまえば、もはや一般に浸透している、生物学的な精神医学を「妄信」するしか途がなくなると思う。

そこで、最初にあげた精神病理学の基本的な本や、このブログで取り上げた、R.D.レインの『引き裂かれた自己』や、特に、新書という形にまとめられた、木村敏の『心の病理を考える』などの本を、ぜひ読んでみてほしいと思う。

もちろん、私のこのブログの記述に、十分の共感や理解を感じられる人がいるなら、それに越したことはないのであるが。

次回は、精神病理学のいくつかの説をとりあげつつ、もう少し具体的に述べてみたいと思う。

 

2024年2月 9日 (金)

「シャーマン的巫病」と「統合失調」の相違 まとめ

前に、記事『6 他の「幻覚」の場合との比較』や、『「成人儀礼」としての分裂病』で、統合失調状況は、シャーマンの候補者がシャーマンになる前に体験する、「シャーマン的巫病」と酷似すること。しかし、さまざまな理由で、その「巫病」を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることができずに、その状況をさまようことに終始してしまう状態であることを説明した。

精神科医でユング派の分析家でもある武野俊弥という著者の、『分裂病の神話』(新曜社)という本で、ほぼ同様のことが、非常に的確にまとめて説明されていたので、今回はそれを紹介したい。

このところ、精神病理学の本を読んでいたのだが、それぞれ、「統合失調状況に入る契機」の説明としては、鋭いものがあり、本質に迫ろうとするものがあるが、「統合失調状況そのもの」の説明には届かないのを、いぶかしく思っていた(この点については、次回にでも改めて述べる)。

この本では、さすがに、「統合失調状況」を、あくまで「普遍的無意識」としてだが、自我を越えたものの現れとみて、それとどのように関わるかという視点をもつユングの意義を、改めて確認することになった。この本の著者の、多少割り切り過ぎる傾向はあるものの、分かりやすく的確な説明も、そう思わせることに寄与した。

他にも、統合失調全体について、とりあげる意義のあるものがいくつかあるが、それはいずれの機会にして、今回は、「シャーマン的巫病」との関係についてのみ述べる。この点に関しては、ユングというよりも、先住民文化の「シャーマニズム」という伝統にこそ、統合失調の本質を明らかにする大きな要素が、含まれているわけだが。

まずは、「シャーマン的巫病」では、分裂病の場合と同様の「解体のモチーフ」が現れるが、その意味がユングの普遍的(集合的)無意識に照らして次のように述べられる

「この断片化すなわち人格の完全な分裂・崩壊は象徴的には死に相当するが、その象徴的な死はまた宇宙が創造される以前の混沌(カオス)、すなわち宇宙の創造に先立つ名状しがたい無定形な状態への象徴的な回帰と等価でもある。つまり象徴的な混沌(カオス)への回帰は新たな創造への準備でもある。ユング心理学のことばで表現すると、この混沌状態は、無意識の蒼古的な構成要素すなわち集合的無意識を体験する機会をわれわれに与え、それによって無意識を統合する可能性をわれわれにもたらしてもくれる。」

シャーマンは、その状態を「死と再生のイニシエーション」として乗り越えることで、病的状態が克服されるが、統合失調症(分裂病)では、その状態が越えられることがないために、病的状態に終始してしまうことについて、次のように述べられる。

「シャーマンの入巫の病の場合、解体ないし分解、すなわち象徴的な死のモチーフにひきつづいて再生のモチーフが現れ、それが優位を占めるようになる。そしてその再生のモチーフは、病に引きつづく本来のイニシエーションを儀礼をとおして現実のなかに実現させる。他方分裂病の場合、再生ないし新生のモチーフはほとんど見いだされることも現実化されることもない。」

つまりは、分裂病の場合は、解体ないし分解をもたらすような、死のモチーフはあっても、再生のモチーフがなく、その状態から抜け出せないでいる、ということである。

そしてその理由についても、次のように述べられている。

「シャーマンは二つの世界、すなわち意識の世界と無意識の世界、あるいは外的現実の世界と内的イメージの世界の両方に住み、両者のあいだを自由に行き来している。シャーマンは二つの世界の価値と妥当性を同等に認めつつ、しかもその二つの世界を混同させないところにその卓越性がある。他方、分裂病者はこれら二つの世界を混同させ、あるいはそのどちらか一方だけにしか住めない。」

「シャーマンは能動的かつ任意に精霊を「見」そして「話しかけ」る。一方分裂病者は精霊の声を受動的に「聞き」、そしてしばしば不本意にそうすべきでないときに精霊を「見」あるいは「感じて」しまう。すなわちシャーマンは自ら精霊の世界(無意識の世界)に能動的かつ意識的に関わり、分裂病者は受動的かつ盲目的にその世界に巻き込まれとらわれてしまっている。」

「より高次の存在として再生されるためには、シャーマンはその解体のさなかにあっても自らの基本的アイデンティティだけはけっして失ってはならないのである。…分裂病者では再生のしいずえとなるべきこの骨の種子、すなわち基本的アイデンティティですら破壊的解体の対象となりそれを失ってしまう。」

「分裂病者の場合は、集合的無意識と出会うだけで、それとの創造的で相互的な関係はけっして確立しない。それゆえにいつまでも分裂病のままにとどまらざるをえないことになる。このような関係性の欠如がまさに分裂病の中心病理といえるのである。」

ただし、私も、このような違いが生じることには、そもそも伝統文化では、シャーマンを育てるためのノウハウが保持され、周りが集団的にそのような文化を共有していることが大きいことを指摘していた。著者も、そのような文化的理由にも、触れられている。

ただ、それにしても、先の著者の指摘のように、文化的理由はあるにしても、統合失調になる人は、そのような普遍的無意識の「元型」的な現れとうまく関わることができず、飲み込まれてしまうだけの、「自我の弱さ」や、「未熟さ」を抱えている場合が多いことは確かであろう。

しかし、ユングも言うように、普遍的無意識の「力」は、自我に対して強力に働くので、自我が強ければ、影響を受けないというものではけっしてない。シャーマンの候補者でも、巫病を経験した者が皆シャーマンになれるのではなく、それを本当に克服した一部の者がなれるのである。

ただ、自我が弱い場合は、その克服がより難しくなり、結果として、統合失調状況にさまようことになる可能性も高まるということは、間違いないであろう。

著者も、もはや文化あるいは集団として、そのような事態に関わって行く道は閉ざされているし、現代には必ずしもふさわしくもないので、いかに個人として、普遍的無意識と関わり、「個人神話」を生きて行くかが問題としている。ユング派の精神療法も、そのような視点から構成されている。

しかし、この「普遍的無意識」という捉え方も、それに飲み込まれないための距離の取り方としては意義がある(自我を越えたものでも、「無意識」という理解において、「他者」的な恐怖を緩和しつつ関わることができる)のは事実である。が、私は前から言っているように、実際の、統合失調状況をより具体的に理解し、乗り越えていくためには、やはり、先住民文化の「シャーマニズム」そのまままの、「霊的」な捉え方(精霊等の存在を実際に存在する「実体的」なものとして捉える)が必要になる、と思わざるを得ないのである。

なお、イニシエーションの具体的な内容については、記事『「<癒し>のダンス」』や『ぼくのイニシエーション体験』に詳しいので、参照してほしい。

 

2024年1月16日 (火)

本年度の動向と昨年度ページビュー数ランキング

1  本年も、初っ端からガツンと挨拶をかまされた感がありますが、これは、本年は、これまで以上に大きな変動があることの「宣言」ないし「象徴」と受け取っていいでしょう。

特に、本年は、支配層が、憲法改正、緊急事態条項の発議を是非ともしたいと考えていることの現れだと思います。安倍派の一掃は、既定路線と思われますが、あまりの支持率の低下の流れを止めて、憲法改正、緊急事態条項の追加の必要を大きく訴えかけようとする意図があるのだと思われます。

2025年辺りから、明らかに目に見えるような形で、本格的な変動が起こることは、『日月神示』を初め、各方面で言われていることなので、いずれ記事でもそれについて述べたいと思います。

 

2  こんな時勢ではありますが、本年は、延び延びになっていた、統合失調に関する分かり易いまとめ的なプログを始めたいと思います。

当初、霊的、オカルト的な観点から、結論的なことを端的に分かり易く述べるだけにしようと思っていましたが、精神病理学など、それになりに統合失調の本質に迫ろうとするものとの関係にも、触れておきたいと思っています。多少、読む本も増えているので、始めるのはもうしばらく後になると思われます。

 

3  恒例の昨年度ベージビュー数ランキング、トップ5を掲載しておきます。

1『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産: 狂気をくぐり抜ける

2 新たな神示『よひとやむみな』: 狂気をくぐり抜ける

3「捕食者」についての本―『無限の本質』: 狂気をくぐり抜ける

4『精神病の日本近代』―「憑く心身」から「病む心身」へ: 狂気をくぐり抜ける

5 「虚無感」は根源的なものであること 2: 狂気をくぐり抜ける

 

1,2.3は、かつてからずっと上位のものですが、45は、昨年の新しい記事になります。

 

2023年12月24日 (日)

『病める心の記録』再読及びメモ

前回同様に、西丸四方著『病める心の記録(中公新書)も、大分前に読んで内容を忘れかけていたので、読み直した。

こちらは、ヒロシという日本の統合失調から回復した者の記録であり、『分裂病の少女の手記』に劣らず、インパクトのある内容である。また、精神科医である西丸の解説が、非常に分かり易く、的確と思うので、その意味でも貴重である。

今回も、感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ヒロシは15歳のときに統合失調の発病により「発狂」し、精神病院に収容され、薬物治療をも含む治療で回復したが、著者との出会いを通じて、その体験の記録が表されることになった。

 『分裂病の少女の手記』は、垂直的な方向の「虚無」の色合いが濃く、「深み」のあるものだったが、その分「単調」との見方もできる。ところが、こちらは、「闇」や「人間ロボット」など、垂直的方向の色合いもあるものの、様々な「現実」の出来事と重なり合いながら、水平的な方向への展開があって、小説のような「物語」性がある。現実と夢想が交錯しながら進展し、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか分からないような、まさに一つの「夢幻的な体験」なのである。

私の場合は、この両面があったので、両方ともよく理解できるし、共感できる。特に、一連の体験の前半は、このような「夢幻的体験」が多くを占めていた。

この記録は、西丸の補助もあってだろうが、文学者のような読ませる文章で、よくその時点での思考や感情、自分に現れ出たままの「出来事」を再現しており、引き込まれる要素が多い。そもそもが、著者にも現実か非現実か区別のできない、一種の「中間的現象」なのであって、それを回復後も忠実に再現的に表現していることから、そのような内容になっているとも言える。

『分裂病の少女の手記』が、サルトルの『嘔吐』にも似た、一つの「実存的体験」だとすれば、こちらは、記事『「幻覚世界」を表した本 2-統合失調的「夢幻世界」』で述べた、ヘッセの小説『荒野の狼』に出て来る「魔術劇場」そのものの体験である。

ケンジというミステリー好きの少年が、より幻想性を煽り、ヒロシの体験を媒介した面があるのだが、このケンジは、やはりヘッセの小説『デミアン』のデミアンの役を果たしているかのようである。

ヒロシが恐れ、迫害妄想の中心となる骨董屋の旦那に「食われる」という妄想など、統合失調体験につきものの、「捕食者」的な面もある。徐々に追い込まれて行き、ついには「発狂」して、裸で骨董屋の家に侵入し、病院に連れていかれるまでの、思考過程の描写は、非常に迫真的である。病院に連れて行かれてからの、医師や看護婦とのやり取りと、その者らを敵の一味とみるヒロシの妄想のありようの記述も、とてもリアルである。

治癒に向かった面については、病院で医師が、自分はロボットになったと思っているヒロシに、「苦しんで、抵抗していたとき、君は本当の自分だったんじゃないか」、「大変だが、本当の自分を取り戻そう」と言ったことが、大きなきっかけになっている。病院においても、「失われた自分」を取り戻せるように力づけられるか、無視や虐待的な扱いにより、それがますます壊されていくかが、一つの大きなポイントなのだと言える。

また、治癒に向けて、決定的なきっかけになったのが、寺の和尚が渡してくれた「聖書」と、とりわけ北原白秋の詩集『雀の生活』なのである。それを読んで、ヒロシは、「ロボットが、雀になり、犬になり、人間になった」と感じる。そして、ヒロシは、「雀に餌をやるのを忘れていた」という大きな気づきを得る。

この「雀」について、西丸は、「治癒におもむけば、本当の自分はどこにでもいる、<青い鳥>であることを見出す。」「…自然の小さな一部の雀に餌をやる、自然の一部の自分である。」と言っている。まさに、「雀」は、自然の一部である小さき「生命」の象徴であり、それに餌をやることでこそ、育てられるものなのだ。

この記録の最後も、「ぼくは雀に餌をやるのを忘れていたんだ」という言葉で、閉じられている。

私も、夢幻的な体験のさ中、アニマと名づけた精霊と交錯する形で、「雀」と出会うことで、大きな癒しを得たし、今も「小鳥」との不思議な縁は感じているから、この事態の重要性がよく分かる。ユングの患者も、エジプトの神話に出て来る黄金虫の話をしているときに、窓をたたく黄金虫と出会って、それが治癒に向けて大きく影響しているが、まさに、一種の「共時性の体験」と言える。

西丸の、この事例についての解説は、その他の点でも、とても的確だと思うし、統合失調一般についても、とても分かり易く、的確な説明をしているのも見逃せない。

そもそも、精神病については、次のように言われている。

「精神病のなかにこそ本当の人間を見つけることができることがある。…人間の心の奥にひそむ希望、恐れ、自覚が、精神病になると非常にはっきりした形をとって出現する。それは健康な人間に思いも及ばないような形をとる。象徴的に非常に誇張される。それで私たちにはそれの示す意味がよくわからないとさえ思われる。」

「精神病の世界はなんと美しく、汚なく、哀しいものであるかがわかる。美しく、汚なく、哀しいのは人間の普遍的な性質であるが、精神病においては、それがカリカチュア的に誇張され、象徴的に比喩されて私たちの目の前に現れてくるのである。」

私も、記事『人工的に「分裂」を作り出すことは可能か』で、この極限的な状況で現れ出るのは、誰もが持つ人間の「愚かさの集大成」のようなものと言っていた。「愚かさ」というのは、実際に、その面が特に強調的に現れるのに違いないが、春日武彦著『私たちはなぜ狂わずにいるのか』に引き寄せる形で述べたからでもある。西丸の言うように、実際には,美しく、汚なく、哀しい、人間のあらゆる面が、誇張されて現れるのだと言える。

ただし、それは、単に「極限状況」だからと言うのではなく、日常的には表に現れない「オカルト的」な面も絡む「未知の状況」だからこその、独特の反応なのである。

このような反応を、「了解不能」などとして、手に負えない「病気」のように決めつけることは、それこそ「愚かな反応」と言うべきである。

また、西丸の説明で、非常に分かり易いのは、このような精神病の世界は、日常の意識の力が弱まるので、それを形成する「バックグラウンド」から浮かび上がるものが前景に出て来て、現実と重なるようにして現れ出ることから来るもの、と言っていることである。

「バックグラウンド」とは、我々の認識や判断、行動などの材料となる、精神活動の裏側に横たわっているもので、そこには、過去の経験、希望、恐れ、期待、欲望などが、混沌として潜んでいる。目が覚めてしっかりしているときは、現実の状況に合うように、その混沌から材料が適格に選ばれるが、日常の意識が弱まると、夢の中のように、この「バックグラウンド」の混沌としたものが現れ出て来る。

そして、「バックグラウンドのものが、現実世界のかたちをとって出て来る。」あるいは、「外界のものを認識するときに、バックグラウンドからよけいなものがひょいと飛び出して付着する。」ということになる。それが、「幻覚」や「妄想」のもととなるわけである。

この「バックグラウンド」を、フロイト流の「無意識」、あるいはユング風の「無意識」、さらには、シュタイナーや私のように、「霊的、オカルト的な背景」をも含ませてみるかで、その内容はかなり違って来る。しかし、ごく一般化して大まかに言えば、西丸の言うように、「バックグラウンド」のものが現れるということで、よく理解できるはずのものである。

西丸がバックグラウンドとして、どのようなものを想定するかは分からないが、いずれにしても、それは、なにか訳の分からない、「了解不能」のものが、現れ出ているのではなく、誰にもある「バックグラウンド」が、混沌の様相のままに、誇張されて出て来ているだけである。

ただ、「バックグラウンド」が強く現れ出るのは、単に「日常の意識が弱まった」だけでなく、経験上理解できない「未知の状況」を迎えているので、積極的に「バッググラウンド」をフル回転して活性化することで、何とかその状況を理解しようと、躍起になっているのである。

そこにどうしても起こってしまう、「飛躍」や「矛盾」が、「了解不能」との見方をもたらすのだろうが、「未知の状況」を迎えていることに思いが及べば、その反応の全体を「了解」することは、けっして難しくないはずである。

西丸も、「未知の状況」にあることまで、積極的に認めるものではないにしても、感性的に、それとなく、そのような状況にあることをつかんでいるものと解される。

このように、体験者の体験の記録としても、それを通しての「統合失調」の説明としても、とても分かり易くて意義のある本なのだが、残念ながら、現在は、品切れになっているようである。是非、文庫などの形で、復刊してほしいものである。

 

2023年12月11日 (月)

『分裂病の少女の手記』再読及びメモ

大分前に読んでいたので、内容もほとんど忘れてしまっていた、セシュエー著『分裂病の少女の手記(みすず書房)を読み直した。

最初読んだときのようなインパクトはなかったが、主観に偏らない客観的で印象的な記述で、体験がつづられており、統合失調体験者の手記として、貴重な記録だと改めて思った。もちろん、私自身の体験と似たところも多く、共感し、頷けるところが多い。

今回は、その感想と考えたことをメモ風に書き留めておくだけにするので、本の内容の説明自体はほとんどしないことにする。本を読んでいない人には、理解できないことが多いだろうが、了承されたい。

ルネは、18歳のとき、統合失調症を発病し精神病院に入院したが、心理療法士である著者の献身的な、精神療法的な治療によって回復した。当時は、薬物療法がまだ始まる前で、統合失調は回復不能であるように思われていたので、この事例は多くのインパクトを与えたようだ。

精神医学者の間では、心理療法士の精神療法で回復したということが信じられず、この事例を統合失調ではないと疑う人もいるようだが、幻覚や妄想、さらに世界の変容などを伴う、明らかに、統合失調的な体験である。そして、むしろ、薬物などではなく、「的確な」精神療法が施されたからこそ、回復できたというべき事例である。

ルネは、母からまともに乳も与えられず、基本的な生命的欲求がかなえられていない。だから、著者の言うように、生命的な欲求が満たされていないことが、自我の解体をもたらした第一の原因というのには理由がある。そして、ルネが幼児的退行を起しているときに、母の代わりをして、その基本的欲求を満たしてあげたこと、幼児が世界に適応していくのと同じ様に、投射や模倣という「象徴的な実現」の方法を通して、新たに世界との関りをもたらしていったことは、全く的確な方法だったと言える。

ラカンは、統合失調の原因として、父との関りを通して、第三項的な「言語」の世界へと移行できなかったことを理由にあげるが、ルネの父も、虐待まがいの扱いをしていて、確かにその意味での不適応も起こしている。しかし、ルネの場合は、明らかにそれ以前の母との問題が大きく、それだけに不適応度も大きい。

そのような場合は、ルネ以外の事例でもままあるだろうし、幼児への退行というのは、私もそうだが、統合失調状況では、多くの場合に起こることだろうから、「象徴的実現」という方法は、かなりの場合に有効なものと思われる。ただ、事実上、あまりに大変だし、個人の能力にかかることで、やり方を間違えれば、むしろより酷い状態を招いてしまいかねないということはある。

ルネの体験で、興味深いのは、ルネが「光の国」や「組織」と呼ぶ、非現実的で圧倒的な、機械仕掛けの世界の体験である。ルネは、それを、たとえば次のように表現している。

「それはむしろ、現実界に対抗する一つの世界、無慈悲な、目もくらむ、影になる場所もあたえない光が支配し、果てしもない広漠たる空間や、無限に続く、平べったい、鉱物的な、冷たい月光に照らされた、北極の荒地のように荒涼とした国でした。このはりつめた空虚さの中で、すべてのものは不変であり、不動であり、凝結し、結晶していました。物体は意味もない幾何学的立方体として、そこここに配置された舞台の小道具のようでした。

 人々は薄きみ悪く振り返り、身振りをし、意味もなく動いていました。その人たちは無慈悲な電光におしひしがれ、果てしもないプランに従って、ぐるぐる回転している幽霊のようでした。そして私は、—私はその光のもとに、切り離され、冷え切って、裸にされ、目的もなく、失われてしまっていました。真鍮の壁がすべての人や、すべてのものから私をひき離していました。」

著者は、このような事態を、自我の解体による「幻覚」ないし「妄想」としかみないので、そこに取り立てて意味を認めてはいない。しかし、これは、まさに、私が述べて来た、(「不適応」による自我の揺らぎにより露になった)「霊界の境域」がこの世界へと重なるように侵入し、世界が変容してしまっている状況であるのが分かる。

これは、多かれ少なかれ、統合失調状況に入った人が体験するものと言えるが、垂直的方向の「虚無」に彩られる面が強いという意味で、私の体験した状況とかなり近い。実際、ルネは、水平的方向よりも、垂直的方向により進んで行って、「虚無」を間近にしていたものと解される。

ルネは、不適応のため、なまじっか、世間的なものを身に着けなかっただけに、水平的方向への妄想に絡めとられる度合いが少なかったのだと言える。水平的な方向の妄想は、起こっている事態を、世間的なものへと適合する形へ解釈することから生じるからである。それで、ルネの体験は、水平的方向の「陳腐な」妄想に終始する一般の事例より、よほど深い、「統合失調らしい」体験になっていると言える。

訳者もあとがきで、ルネの体験を、サルトルの『嘔吐』に記載された体験と非常に似ていると言っているが、まさに、一つの「実存的な体験」である。

垂直的方向の深みに入ることは、破壊性が強く、解体がより進む事態であることには違いない。しかし、同時に、「死と再生」の「イニシエーション」的な過程も起こりやすいのである。ルネが、幼児まで退行しつつも、回復できたというのは、まさに、一つの「イニシエーション」的な過程が成就したということである。

さらに言うと、これはまた、記事『「幻覚世界」を表した本 1-天国と地獄』で示した、オルダス・ハクスリーが自己の幻覚剤の体験を通して理解する、統合失調の世界そのものと言える。

ハクスリーは、幻覚剤によって、「事物そのものが、内から光り輝くような、強烈なリアリティと意味のもとに蘇る」という、禅の悟りにも似た体験をしたのだが、その体験を通して、それが恐怖のもとに受け入れられないときには、その体験は反転し、まさに統合失調的な地獄的体験となる、とした。

ルネの、強烈なリアリティを伴う、怖れに満ちた、「光の国」の記述は、まさにそのようなものであるのが分かるだろう。

あるいは、同じ記事で、ジョン・C・リリーが、やはり禅の悟りとも似た、天国的な体験の裏返しとして被った、地獄的な体験、「コズミックコンピューター」の世界とも非常に近い。それは、「宇宙」を、「いかなる意味も愛も人間的価値もまったくないこの巨大な宇宙的陰謀、このエネルギー物質のコズミック・ダンスにおける従属的プログラム」として見る体験だったが、ルネの表現するものと、非常に近いのが分かる。

まさに、それらは、強烈なリアリティの体験ではあるが、それが、恐怖のため(著者の言うように、「生命的な感情」を欠いたためでもあるが)、自己を脅かす、無機的な、「悪意に満ちたもの」として迫って来るのである。それこそが、ルネの体験した「光の国」であり「組織」であったと言える。

ルネは、「光の国」や「組織」を、この世界やこの世界の住人である人間を通して現れるものとしては見ていたが、「現実界に対抗する世界」と表現されているように、この世そのものの現実とは、単純に同一視していなかったとみられる。また、その「組織」の一味の「声」を聞いたりするのだが、それも、単純にこの世の者の現実の声そのものとして聞いたのではないと言っている。

これらのことも、ルネが回復できたことの大きな理由と言える。私は、「声」と「現実の物理的声」を区別できることが、統合失調状況で無暗にさまようことにならないための、大きな要因となると言っていたが、ルネはこのことを、自然となしていたのである。

前回、統合失調体験は、「切り離された個」としての意識で、「関係と繋がりのもとにある世界」を見たり感じたりすることで起こると言ったが、ルネの「光の国」の記述にも、「切り離された」という表現が何度か出て来るように、やはりこの要素があるのが分かる。

ルネは、「切り離された個」としての周りの集団の世界に適応できなかったのだから、「切り離された個」としての意識はほとんど身に着けなかったものと言える。しかし、それでも、やはりその「切り離された個」の意識は、少なくとも、潜在的には、内部に醸成されていたと言え、それが、本来は、「切り離されていない」、繋がりの世界であるはずの、「光の国」の体験のリアリティに照らされる形で、より強調されて、投影的に現れ出ていたのが分かる。

但し、通常の「切り離された個」がとるような、それを守るための防衛的な妄想に終始するような方向には、行かなかったということである。

何しろ、ルネは、母や父との健全な関係がなかったため、言語的な秩序や世間的なものを身に着ける度合いが少なかったのだが、むしろ逆説的に、だからこそ、垂直的方向の体験を比較的「純粋」にし、水平的な方向にさまようことにはならなかった。そして、著者のような精神療法家と出会い、その献身的な努力により、幼児的な退行から、新たに再生して、この世的なものと関わり適応していく方向へと、回復することができた。

もちろん、それは、喜ばしいことに違いない。そうでなければ、ルネはこの世界への適応の道を断たれて、途方に暮れるしかなかったであろう。しかし、ルネが適応することになったこの世界とは、「切り離された個の世界」であり、それは、ルネが体験した、「光の国」や「組織」において、強烈なリアリティに照らし出され、強調的に反映されることとなった世界でもある

ある意味において、ルネはそのような世界へと、帰って行ってしまったのである。私としては、そこに、幾分の、皮肉な結果をみないわけにはいかない。

2023年11月23日 (木)

「切り離された個」とドンファンの言葉及び「タブー」の意識との関係

1 前回までの一連の記事でみてきた、<憑く心身>から<病む心身>へという世界観の根本的変化は、<「繋がり」や「関係」のもとにある個>から、<切り離された個> への変化ということも言えた。

近代に至って、人びとは、周囲の世界から<切り離された個>となったわけである。

記事『『総まとめ(旧「闇を超えて」より)』』でドンファンの言葉をあげていたが、これはまさに、<切り離された個>としてしか世界を見ることのできないカスタネダに対し、ドンファンが鋭く指摘した言葉である。

それを、再び掲げる。

○「おまえが、自分は世界中で一番大事なものだなぞと思っとる限り、まわりの世界を本当に理解することはできん。おまえは目隠しされた馬みたいなもんだ。あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ。

ところで、この観点からは、統合失調とは、世界から<切り離された個>が、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界へと、(再び)侵入する体験であるとも言えるのである。世界から<切り離された個>という立ち位置から、そのような<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界へと侵入することで、<切り離された個>には混乱が生じ、その個が「解体」の危機を迎えているのである。

また、<切り離された個>の視点から、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を見るから、自己の個の中にあるはずのものと外にあるはずのものが、融合し、浸透し合うように感じたり、全てが、自己と関係するように思えたりするのである。

<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界に入っても、<切り離された個>の視点を脱することができないままに、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を見たり、感じたりしている、ということがポイントである。

「妄想」というのも、<切り離された個>の視点を(守ろうとして)脱することができないため、<「繋がり」や「関係」のもとにある>世界を、<切り離された個>の視点に沿うように、無理やり解釈してしまっているのである。「組織に狙われる」というタイプの妄想が典型的である。そこには当然、はた目には、「無理」や「矛盾」、「違和感」が現れてしまうが、本人は、そうするしか方途がないのである。

 

2 かつて一連の記事『「タブー」の意識とオカルト 1』から『「タブー」の意識とオカルト 3』までで、オカルト的なものが「タブー化」された理由を考察したが、「タブー化」とは、まさに「恐れからそれに触れないようにする」ことだから、「迷信として否定」することとも重なっている。だから、今回の一連の記事は、その記事とも照らし合わせて読んでもらえると、より理解ができると思う。

また、その記事の最後にまとめた、タブー化された理由は、「迷信として否定」された理由としても当てはまる、重要なものである。それを再びあげておく。

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 ただし、3の「「神々」を含めて、全体として葬り去ったことの後ろめたさとタブー感」というのは、「捕食者的なもの」「オカルト的なもの」を「迷信として否定」した後、「霊的なもの」や「神々」に対する信仰をも失うことになって、「オカルト的なもの」一般に対する感情として残されたもののことである。

 

2023年10月31日 (火)

オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 6-総括及び結論

私は、記事『なぜ1—「血取り」「膏取り」と「迷信撲滅運動」』において、「オカルトを否定する世界観の根本的な変化はなぜ起こったのか」の理由の結論を、次のように述べていた。

「後に改めて再説するが、とりあえず、結論として、「迷信の否定」は、(科学の発展その他の外部的な状況の変化によるのではなく)それまでの世界観の中には、何とか組み込まれていた、「オカルト的なもの」、より直接的には、「捕食者的なもの」を、多くの者が、否定したかったからこそ起こったということが、本質的な理由と言わねばならないのである。」

既に述べたように、伝統文化のあり様を「迷信として否定」することこそが、「世界観の根本的な変化」そのものなのであるから、これは、「オカルトを否定する世界観の根本的な変化がなぜ起こったのか」の、端的な理由であり、結論なのである。

西洋の場合は、「魔女狩り」という大々的な事件が起こったので、「魔女」に集約する形で、そのような「オカルト的なもの」「捕食者的なもの」を、多くの人が「ないこと」として「否定したかった」ことは見えやすい。しかし、日本の場合も、多かれ少なかれ、同じように、「狐憑き」に集約する形で、「オカルト的なもの」「捕食者的なもの」を、多くの人が「ないこと」として「否定したかった」のである。

ただし、それは、様々な状況の変化によって、そのように望まざるを得なかった部分も多く、それを可能とする状況が整うことにもよっていた。明治以降、支配層や知識人、メディア等が押し進めた開化の推進や、それまでの伝統文化を迷信として否定する扇動などは、その方向を受け容れざるを得ない流れを作り出したし、変わらず出現する「狐憑き」様の状態を示す人々を、隔離、収容して厄介払いする、「精神病院」のシステムが整う必要もあった。

しかし、それら、外的状況の変化は、多くの人々の「世界観の根本的変化」をもたらす「必然的」な理由とは言えない。それらも、結局は、世界観の根本的な変化を志向し、受け入れる、内的動機の形成に与る限りで、理由として作用したのである。

そして、何よりも、「恐ろしく」「認めがたい」、「オカルト的なもの」、「捕食者的なもの」を「ないこと」にしたいという欲求には、これらの理由とは別に、一種本能的な、逆らい難い、独自のものがあった。そして、それこそがこの時期に、外的な状況の変化にも促されて、強く発現することになったと言うべきなのである。

 

だから、(外的な状況ではなく)そのような内的な欲求こそが、より本質的で、根源的な理由なのである。

 

記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』でみたように、カスタネダのドンファンは、「捕食者」について、「みんな子供の頃にそいつを見て、あんまり恐ろしいものだから、それについて考えるのを止めてしまう」と言っていた。つまり、本当は、誰もが、「潜在的」には、「捕食者」の存在と恐ろしさを知っているが、それを抑圧しているため、意識レベルでは否定しているということである。

しかも、我々は、「捕食者」から、「捕食者の心」を与えられているから、それは我々の内部にもあるのだが、それを認めることができないため、我々はその「捕食者的なもの」を、「他者」に投影しようとする。そして、その他者を「魔女」などとして、攻撃し、排除するのである。それは、「狐憑き」の場合にも、多かれ少なかれ、言えることである。

伝統文化では、「捕食者」という存在の「恐ろしさ」を認めつつも、その存在を否定することなく、何とか世界観の中に組み込んで、折り合いをつけていた。しかし、そのようなことも難しくなって、新たに、伝統文化を否定して、「捕食者的なもの」を「ないこと」とし、それによって再出発できるかのようになされたのが、「世界観の根本的変化」の核心だということになる。

ところが、それを実効的ならしめるためには、結局、「おどろおどろしい」「捕食者的なもの」だけでなく、「オカルト的なもの」あるいは「霊的なもの」一般、さらには、「神や神々に対する信仰」など、これまで生活の中心にあって、益をなすとされて来たものをも、否定することを迫られたのである。まずは、「オカルト的なもの」「霊的なもの」に関して、自分らにとって都合の悪い、「闇の部分」を否定することになったが、結局は、必然の流れとして、その「光の部分」をも否定することになったとも言える。

そうして、「オカルト的なもの」「霊的なもの」を否定した、残りの(表面的な)部分で構成された、「物質的なもの」のみを存在するものとして、「世界観」の基盤に置くことによって、「科学技術」に基づく「発展」を推し進めて来たのが、現在に至る近代社会の流れである。

いずれにしても、「捕食者的なもの」を「ないこと」にしたかった、そんなものとは、「手を切りたかった」という、内的な欲求こそが、第一の動機なのである。

ところが、「捕食者的なもの」を「ないこと」にしても、それは実際になくなるわけではないから、その「投影」は、「魔女」や「狐憑き」としてではなくとも、実質同様なものとして繰り返されることになる。特に日本では、以後、「精神病者」こそが、そのような投影の対象となる。

また、「闇の部分」を否定したつもりになっても、実際にはそんなことはできていないのだから、我々は戦争や犯罪、その他の殺戮を、より技術的に発展したレベルで、繰り返すことになる。

そして実際、「捕食者的なもの」が表面上否定されていて、それを顧みることのない、近代社会ほど、「捕食者」の暗躍しやすい社会もないのである。

ボードレールの名言に、「悪魔の最も見事な狡猾さは、『悪魔はいない』と信じ込ませることだ」というのがあるが、これは実際に、「捕食者」の戦略としてなされたことなのである。

「世界観の根本的変化」は、「捕食者」の戦略に基づき、人間の支配層や知識人、精神科医、メディアなどが主導して引っ張って来たことではあるのだが、既にみたとおり、我々の多くが集合意識的に、「受け入れた」からこそ、起こったことなのである。

ジャーナリストの船瀬俊介氏は、『幽体離脱 量子論が“謎”を、とく!』(ビジネス社)という本で、「近代から現代にかけて、人類の「知」は、完全に悪魔勢力に乗っ取られて、今日に至るのである。すなわち、そのほとんどは狡猾な〝 洗脳〟の産物にすぎない」と言っている。また、「暗黒の近代」という言い方もしている。

近代社会は、「魔女狩り」を例に挙げ、「暗黒の中世」などと言い、自分らの社会をそれを克服した希望の社会のように見せかけたが、その「魔女狩り」自体が、既にみたとおり、実は近代の草創期に起こっているのであり、近代社会とは、その継続以外の何ものでもないのである。

記事『「虚偽への意志」と「精神医学」』でみたとおり、ニーチェも、(近代の)全ての学問は「虚偽への意志」に基づいていると喝破したが、これは要するに、学問構築の土台となる「世界観」が、「虚偽」に基づいているということである。その「世界観」とは、これまでみて来たとおり、「捕食者的なもの」を「ないこと」にしたいという、まさに「虚偽」の意志に発しているのだから、その上に構築された学問体系が、結局は「虚偽」に染められるのは当然のことと言わねばならない。

伝統文化の世界観が、決して丸ごと正しいということではないが、しかし、その認めたくない部分を否定したいがために、実質、それを丸ごと否定した世界観は、「虚偽」以外の何ものでもあり得ないし、そこから正しいものが生まれて来るとはみなし難い。

近代社会が生んだ、代表的な知と言える、「科学」というのも、「物質的なもの」という制限された内部においては、それなりに緻密に知識を深めたものがあるし、科学技術という強力な方法も生み出したが、それが「すべて」において当てはまるかのごとくみなす「世界観」に基づいている限り、やはり「間違い」であり、「虚偽」以外のものではない。

「世界観の根本的変化」が起こって、それが常識として浸透する現在の社会の中にいる限り、なかなか、このような「世界観」そのものを俎上に上らせること自体が、難しい。私自身もそうであるが、記事『カスタネダと「ヤノマミ」の著者の例』でも述べたように、そのためには、単なるカルチャーショックのようなものではなく、それを根底から疑問に付すだけの、強烈な体験が必要になる場合も多いだろう。

しかし、何らかのきっかけで、それを問題にすることがひとたび可能になるなら、現代の問題は、その「世界観」そのものから、全てが連動して生じていることなのが分かり、その世界観を問題にしない限り、なんら解決の方向へ向かいようがないことが分かるはずである。

すなわち、「オカルトを否定する世界観の根本的変化はなぜ起こったのか」を明らかにすることこそが、求められている、必要なことなのである。それは、結局、我々の「オカルト的なもの」「捕食者的なもの」を否定したいという内的欲求から来ているのだから、我々一人一人がそのことを自覚するなしには、何の解決の方向もあり得ないということである。

 

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