2025年7月12日 (土)

「終末的予言」と「天変地異」についてのプレアデス人サーシャの言葉

前回、前々回の記事で述べた、一種の「終末的な予言」や「天変地異」に関して、私の見た夢やこれまで述べて来たこととも大いに関わる、重要な事柄が述べられているプレアデス人の言葉があるので、今回はそれを紹介しようと思う。

それは1993年に出版された「宇宙人遭遇の扉」(徳間書店)という本にあるもので、リサ・ロイヤルのチャネルするサーシャというプレアデス人の言葉である。少し長いが、まずそれを掲げておこう。

「もし地球上のすべての人間が、自分のフィーリングを自由に表現して、創造的な自己表現を行えば、地球は健全な状態を維持することができます。なぜならば大地のエネルギーは妨害されることなく、人間を通して流れるからです。

しかし残念ながら、地球上の大半の人間は感情を抑圧して、自由な自己表現をしていません。こうして表現されるべきエネルギーの出口がふさがれて蓄積されると、徐々にプレッシャーが高まります。これがある臨界点まで達すると、地球はバランスを回復するために、天変地異を起してエネルギーを解放しようとします。つまり、人間による感情や自己表現の抑圧にこそ天変地異の原因があるのです。まさに人間は地球の生態系の一部です。

現在、あなたが現実で目の当たりにしている現象は、すべて人類が抑圧してきた問題ばかりです。何千年もの間、集合意識の奥深くに閉じ込められてきたものが、現実のレベルに浮上しつつあるのです。これは惑星規模の浄化です。

破滅的な天変地異や戦争が地球を見舞うという世紀末的な予言は確定的なものではありません。新しい世界が到来するためには、古い世界が破滅的な形で滅びなければならないという考え方には、あくまでも古い観念が反映されています。なぜなら、現実はあなたの考え方次第で変わり得るからです。人類は必ずしも天変地異や戦争を通して教訓を学ぶ必要はありません。世界の現実の創造者である人類は、あらゆる可能性を選択することができます。私たちの視点からすると、これからの「天変地異」は主に心の中に起こるでしょう。

まず、地球の天変地異といわれるものは、人間と無関係に起こるわけではなく、人間による感情や自己表現の抑圧により内部深くに溜り、滞ったエネルギーの解放のために、起こされるという重要なことが指摘されている。

私も、記事『「アーリマン」と「火地球」』や『「火」の両義性と「クンダリニー」』などで、アーリマン存在との関わりをみつつ、人間の情念が霊的レベルで地球の深部に働きかけることで、地震や噴火などの天変地異が起こることを指摘していた。それは、私自身の一連の体験を通して「地球」と関わったときの実感でもあった。

その意味では、そのような天変地異が「自然」のものであろうが、「人工的、人為的」なものがあろうが、やはり人間の集合的な情念が根本にある点においては、変わりはないわけである。

しかし、同時に、そのような天変地異は、たとえ終末的な予言のようなものでビジョンとして(真実に)見られたものであっても、決して確定的なものではなく、人間が時々刻々に「現実」を作り出していることに鑑みれば、実現する必然性があるわけではない

ただ、そのためには、我々自身が、そのような現実を作り出しているという事実に気づき、そのあり方を変えていく必要があるだろうし、既に地球の内部に溜まったエネルギーは何らかの仕方で解放される必要があるだろう。

しかし、今の時点では、率直のところ、そのような方向に行けるだけのものが人間にあるとはとても思えないというのも、私の感じるところである。

さらに、最後に指摘されている、「これからの「天変地異」は主に心の中に起こるでしょう」というのが、私にとってとても興味深かった。

実際、前回も述べたように、私自身も「津波」の夢を連続してみたが、それは、「無意識の奥深くで巻き起こされる、心を飲み込む<津波>」のようなものとして、実現したのだった。それは、まさに「心の中で起こる<天変地異>」にほかならなかったのである。

そして、恐らく、今後も、私と同じように、この「心の中で起こる<天変地異>」は多くの人に起こされることと思われるのである。

ただし、ユングも言うように、普遍的な無意識という「心の中」で起こる出来事は、決して「外的な事象」と無関係ではなく、互いに「共時的」に結びついている。つまり、集合的レベルで、多くの者が「心の中で起こる<天変地異>」を経験するようになると、それは外的事象にも何らかの形で反映され、実際の「天変地異」に結びつく可能性はやはりあるということである。

サーシャも、「主に」と言っている点に注意しなければならない。

 

2025年6月30日 (月)

たつき諒の7月5日の予知夢と私の夢

漫画家たつき諒の7月5日の予知夢については、前回の記事でもプレアデスが言及しているのをとり上げた。この予知夢は、かなり一般に浸透し、有名になっているようだが、誤解やデマも多く広がっているので、今回も、私なりにとりあげてみたい。

たつき諒が見た予知夢の内容は、簡単に言うと、<突然、日本とフィリピンの中間当たりの海底がボコンと破裂し、日本の太平洋などに、東日本大震災の3倍ほどの巨大な波が押し寄せる>というものである。「東日本大震災の3倍ほど」というのだから、当然巨大な被害に結びつくことが予想されるが、「滅亡」などということは何も言われていない。

この内容は、1999年にまんが本として出版され、発表されたが、しばらく絶版になっていた。しかし、その表紙には「大災害は2011年3月」と記載されていたのが、東日本大震災の後に、それを見事に当てたとして話題になったことから、2021年に『私が見た未来 完全版』としてさらに出版された。

その本では、表紙の帯に「本当の大災難は2025年7月にやってくる」と記載されている。それが、あとがきで「7月5日」とされているため、「2025年7月5日大地震による日本滅亡の予言」などとして、拡散されていったのである。

しかし、たつき諒が、この予知夢については誤解の多いこと、偽のたつき諒が出て、あることないことを吹聴したこと、まんが本では、出版社の意向に従わざるを得ない部分もあったことなどから、改めて出版の経緯や予知夢をみたときの状況を、『天使の遺言』という本を自費出版することで発表している。

それによると、「大災害は2011年3月」というのは、予知夢の映像的なビジョンとは別に、夢に「言葉」として出て来たもので、何度も、「これを書け」というかのように出て来たので、表紙に入れたということである。

そして、その後、新たにこの言葉と同じように出て来たのが、「本当の大災難は2025年7月にやってくる」というものだったとのことである。『完全版』あとがきでは、これまでのいろいろな要素から、それは「7月5日」と考えられる、としているが、あくまで夢のなかの「言葉」としては、「2025年7月」であることに注意を要する。

このことは、たつき諒の予知夢の映像的ビジョン自体は、これまでに、一度も当たったとみなされるようなものでもない、ということが言える。ただ、1999年の時点での、「大災害は2011年3月」という言葉は、かなり強烈なもので、東日本大震災が、確かに稀にみるほどの「大災害」であったことを考えると、偶然とは考えにくく、当たっているとみなされておかしくないものである。あくまでも、具体的な映像としてではなく、「大災害」という抽象的な言葉の意味合いとして、ということではあってもである。

そして、だとするならば、新たにそのような言葉と同種のものとして出て来た「本当の大災難は2025年7月にやってくる」という言葉にも、それなりの信憑性が認められてしかるべきものと言える。ただし、繰り返すが、それは、その具体的なビジョンとしての映像自体に、同じような信憑性をもたせるものとは言えない。

「大災害は2011年3月」という言葉と同じように、あくまで、抽象的な「大災難」という言葉が当てはまるような出来事が起こる、ということなのかもしれないのである。ただ、「ほんとうの」とされているのだから、これは、東日本大震災より規模の大きいものであろうことは当然予想される。(なお、「大災害」と「大災難」で言葉が違っている理由は、たつき諒も分からないが、人為的な要素が異なるからではないかと述べている。)

なお、「7月5日」と言われているが、『完全版』あとがきでは、確かに、これまでのいろいろな要素から、「7月5日」と考えられるということが述べられている。しかし、あくまで夢のなかの「言葉」としては、「2025年7月」であることに注意する必要がある。

このような「言葉」が事実として当たっているなら、同じ人物の映像的なビジョンの方も、当たる可能性が高いのではないかとみなすことはできるだろうし、これまで、たつき諒が夢で見たことが現実になるという体験を多くしているからこそ、この夢があえて発表されたというのも事実のようである。

ただ、私は、この夢のビジョンについては、1999年の時点で、このままいけばこうなることとして、2025年7月に起こり得る「最悪」の事態を映像として見たのではないかと考えている

どこかの記事で触れたように、実は私自身も「津波」に関する夢を、不自然なくらい連続して見た時期があるのである。まさに、50メートル級の強烈な津波が襲いかかってくるというものも何度か見た。

ただ、私の見た夢は、全体が色つきでリアルそのものというのではなく、どこかディフォルメされているような、非現実的な要素のある映像だったし、出てくる登場人物が私だけであることがほとんどで、これはどうも、客観的な出来事を予知しているというよりは、私自身に対する「警告」の意味合いであると感じられた。

それで、記事でも、これはユング的な普遍的無意識からの一種の警告で、「このままいけば、無意識の深みが巻き起こす津波に飲み込まれる」ということを意味しているのではないかと述べた。そして、実際に、それは一連の統合失調的な体験として実現し、それが起こってからは、そのような夢は一切見ていないのである。

だから、私の夢は、たつき諒の夢とは性質が異なるとは言える。しかし、私の類推によると、夢というのは、予知夢であっても、必ずしも細部まで現実と一致するような形で出てくるとは限らず、ある種の「強調」だったり、「誇張」のようなものが入り込む余地があると思われる。むしろ、そこに「警告」的要素があるならば、「誇張」的に、「最悪」の事態を訴えてくるということは、当然あり得ると思うのである。

たから、私自身は、この予知夢は、そのような最悪の事態を見たものとして受け止めている。もっとも、だからと言って、その「最悪の事態」が起こらないなどいう保証はどこにもないし、先に見たように、「ほんとうの大災難」として、東日本大震災を越える災難が起こるという可能性は、十分予測されることなのである。(さらに、この予言の有無に関わらず、南海トラフ関連の災害が近いうちに起こることは、各方面から当然のように予測されていることである。)

だから、対処や備えは必要であろうし、それがプレアデスも言うように、「新たな地球の始まり」につながるようであってほしいとは思っている。

ちなみに、私の見た夢として、これと関連するかもしれないものに、記事には述べなかったが、「四国の夢が沈没する」というのがある。

特に波立っていない穏やかな海に大きな島があり、そこには、「四国の夢」と書かれた大きな看板が立っていた。そして、見ていると、その島が徐々に海に沈んで行き、全体として沈没してしまったのである。

私も、この夢からは、具体的に「四国」と特定されていたこと、「四国の夢」というよく分からないながら、意味ありげな言葉が大々的に出て来たこともあって、かなり強い印象を受けた。

しかし、全体として、やはりディフォルメされた要素が強く、どこか戯画的な面があったことから、これも客観的なものというよりは、私自身に関する夢であった可能性が高いと思っている。私自身は、「四国の夢」という言葉に相当するようなことは、特に思い浮かばないが、何か私自身の中に、潜在的なレベルで、そのようなものがあり、それが「沈没」してしまうということなのであろう。

沈むのは、「四国」ではなくて、あくまで(私の中の)「四国の夢」であろうということである。

2025年6月21日 (土)

最近のプレアデスからのメッセージいくつか

ブレアデス系のチャネリングものとしては、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」』で、バーバラ・マーシニアックの『プレアデス+かく語りき』(太陽出版)について述べていた。

これは、プレアデスのイメージからすれば、宇宙の根本創造神や、「捕食者」といった本質的なことについてもかなり突っ込んだ記述のある鋭い内容のものだった。

「プレアデスのイメージ」というのは、端的に「真実」や、本質的なことを述べるというよりは、抽象的に、あるいは中途半端に、皮相と感じられることを述べていることが多い、というのが私的にはあったのである。ただし、これには、ジーナ・レイクの『テオドールから地球へ』によると、プレアデスは、もともとネガティブなことを述べることを嫌う、また、かつて地球人に助けを与えるという意味で、干渉し過ぎたという反省があり、その後あまり干渉しないようにしているという方針が影響しているのかもしれない。

ただ、ユーチューブなどをみても、このところ、プレアデス系のメッセージをあげるものがかなり増えているようである。

相変わらず抽象的で具体性に欠けると思われるものもあるし、それには、プレアデスの名を借りて、自らの思想を述べているだけのものもあると思われる。しかし、中には、端的に、またかなり具体的に突っ込んで、地球上の現在の危機について述べ、同時にそのことが地球に新たな転換をもたらす可能性について述べているものがある。毎日のようにかなりの量のものが発信され、内容も、ちょっと人間レベルで普通に述べられるものを超えていると感じられるだけのものがある。

実際、現在の地球の状況として、それだけ危機が迫っているというのは、疑いのない事態ではあるだろう。

今回は、そのメッセージのいくつかを紹介してみたい

https://www.youtube.com/watch?v=QKaF3tZwoQk

ディーブステートと言われる支配層の実態と、日本の政治家の名前もあげつつ、日本の政治家との関りが具体的に述べられている。政治とどのように関わるか、また、外的な政治よりも、内的な自己自身の変革の方が全体の変化についての鍵となることも述べられている。

 

2 https://www.youtube.com/watch?v=Jlsw6_nCL5U

特にトランプ大統領を巡って、レプティリアンを含む宇宙人とアメリカ政府との関係について述べられる。様々な宇宙勢力の影響は、単純に光と闇という風に二分化できない複雑なものであることも述べられている。

 

3 https://www.youtube.com/watch?v=er01nkoUnfo

漫画家たつき諒の有名な75日の大災害の予知夢について述べている。

その可能性について否定はしていないが、もちろん未来は確定していないから、そのまま実現するかどうかは(プレアデスと言えども)分からない。予言として注目され過ぎると、我々の意識がそれを呼び込んでしまうという面もある。ただ、このプレアデスのメッセージでは、備えるという実際的行為をするとともに、そのような事態は、決してマイナス面だけでなく、地球の転換の重要な契機であることを認識することも強調されている

ある意味、プレアデスらしい抽象性または中途半端性は感じるが、確かにそうであるとしか言えないものがあるのも確かなことだろう。

 

6月23

上にあげたものと異なる存在によるものだが、たつき諒の見た75日の大災害のビジョンに関するメッセージをもう一つあげておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=Q4idvy9j1bs&t=12s

 

たつき諒の見たビジョンとこの存在自身が見たアカシックレコードの情報が多くの点で一致すること、私もブログで述べてきた「境界の消失」という現象(物質的領域と霊的領域の境界あるいは自己の内界と外界の境界が喪失する、「霊界の境域化」ともいうべき現象)がこの出来事を通して起こること、それらは混沌とした状況をもたらすが、地球の危機的な状況の転換のために必要な出来事であり、それらをどのようにして乗り越えていくことができるかということなどが、上にあげたメッセージ以上に具体的で有用な示唆のもとに述べられている。

7月13日

上にあげた動画は削除されているので、新たに7月12日に、たつき諒の予言とシンプソンズのアニメに込められた予言とを絡めながらその意味について語った新しい動画をあげておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=Y9_FLnh_CFY

 

2025年6月 8日 (日)

『精神の幾何学』と「分裂病ファントム論」について

安永浩という精神科医の「分裂病ファントム論」については、一応知ってはいたが、あまり適切な解説がされていなかったためもあり、特に興味を持つことはなかった。論の趣旨は、分裂病の体験空間(ファントム空間)を幾何学的に表現することで捉えようとするものなのだが、晦渋なイメージがあり、とっつきにくいものがある。おそらく、多くの人もそのように思うことだろう。

ところが、このたび、『精神の幾何学』という本が文庫化(ちくま学芸文庫)されているのを知り、第Ⅲ部の精神病理学的事象を読んでみた。そうすると、その幾何学的表現そのものはともかく、分裂病を捉えよう(了解しよう)という基本的な方向性においては、十分納得できるものがあり、共感するところも多いものだった。

そこで、今回は、その詳しい説明や幾何学的表現についての解説をするつもりはないが、基本的な方向性と全体の論旨について簡単に紹介し、コメントしておこうと思う。

記事『「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 1』 『2』で、多くの場合、「「精神病理学」は、一般の(生物学的)精神医学とは異なり、「了解不能」とするのではなく、それに鋭い視点から迫ろうとしていて、それぞれにみるべきものがある。しかし、残念ながら、それは結局は、「統合失調状況に入る契機」を明らかにするものであっても、「統合失調状況そのもの」を明らかにするものではない」、ということを述べていた。

「統合失調状況そのものを明らかにするものではない」、というのは、多くの精神病理学者も、統合失調状況そのものは「自己」の壊れた結果的な現われに過ぎず、それ自体に意味があるもの、あるいは何か理解のための新たな要素が加わるものではないと考えているからと思われる。R.D.レインすら、初期にはそのような傾向があったのである。

ところが、安永は、そのような態度をとらず、分裂病の体験空間を理解できるものとするために、それを幾何学的に捉えて理論化することを行っている。「分裂病的状況そのもの」の理解を指向している点が、決定的に異なっているのである。

そして、そのような方向をとらない、一般の精神医学や、精神病理学について鋭い批判もしており、その点は、大いに共感できるところである。

そのような視点を端的に述べている文章があるので、それを引用してみよう。

「正常人に関する常識的枠組みだけに頼って出発する場合、ほとんどすべての分裂病観が陥ったように、結局了解は不能のもの(例えばハイデルベルグ学派)、正常人にとっての自明性が失われたもの(例えばブランケンブルグ)として、認識地平の彼方に捨て去るしかなかったのである。

…しかも、それはまだしも正直な方であって、正常心理の辺縁を拡張して安易に分裂病を理解したつもりになり、あまつさえ根拠のない心的原因や性格欠陥を想定し、それをもって人間的接近法と称するが如き言説もおびただしくみられるのである。この安易さを排するために、いささかどぎつい感じもするが、次のことを標語的に述べてもよいかと思うぐらいである。即ち、“一見わかりやすい分裂病論とは(まさにそれ故に)本質以外のことを述べているのに過ぎない”と」

また、分裂病といわれる「病」について、次のようにも言っている。

「実をいえば分裂病というものが「一つの」病なのかどうかさえいまだに結着がついていない。…本書の立場は、ある特殊な病の、というより一つの特異な体験類型(分裂病型体験様式)の特徴を認定しようとするにとどまるものである。

「病気」と決めつけることで分かったことにするのではなく、あるいはその内容を規定しようとするのではなく、あくまで、一つの特異な「体験類型」として捉えたうえで、その内容を理解しようとしている。私も、「分裂病“的”状況」とか「統合失調“的”状況」と呼んでいるのは、これと全く同じ趣旨である。

その「ファントム論」の要点は、正常人の空間の体験、または知覚世界というのを「パターン」として捉えた場合に、分裂病の体験では、そのパターンが逆になり、『バターン逆転』が起こるということである。

それをAとかBとかの記号を用いながら、幾何学的にプロットしていき、理解できるものにしようとしているのだが、私は、特に数理的に把握することが理解に資するような人以外には、むしろ逆効果で、それが故に敬遠されている面も大きいと思う。

何しろ、正常人では、Aといわれる「自」「全体」「統一」「質」が前提となってBといわれる「他」「部分」「差別」「量」が条件的に出て来るが、分裂病の「パターン逆転」では、これが逆転し、Bの方が自明な前提と化し、Aすなわち主体性が条件的偶然的なものになっているとする。

このことから、分裂病者の「病識のなさ」や、「自我収縮感」、「させられ体験」や「疑憑依」などの「他者」に操作される感覚などが説明される。

「バターン逆転」とは、私がこれまで述べて来たことで言えば、「日常世界」において「図」であったものが背景に引っ込んで、「地」となり、逆に、「地」であったものが「図」として前景に出てくると言った、「図と地の逆転」に対応しているものと言える。

それは、「自我」という媒介でみられた「世界」が、弱まり、崩れ行く過程ともみられるから、自我によって抑圧されていたものが前景に出て来て、自我を圧迫するようになる。と同時に、自我という媒介性を失って、体験自体の強度が強まり直接性が高まるので、それ自体が圧倒して自我を飲み込むような作用をする。体験世界そのものが、「圧倒的な他者」と化していると言うこともできる。その結果、自我がその体験を「誤り」などと認識することは難しく、また「自我収縮感」や「させられ体験」などの他者に操作される感覚も起こるのである。

安永も、なぜそのようなことが起こるのかについては、未知としている。ただ、何らかの生理的な変化を示唆しているし、また、正常人にとっての「パターン」というのも、普遍的なものというよりも、近代人にとってのものでしかないこと。妄想知覚ということで、妄想内容を取り込んでいるから、当然の面もあるが、分裂病者の「パターン逆転」というのも、正常人の「パターン」と対等の位置を与えられているというよりは、一種の「錯覚」とされているなど、やはり私の観点からすれば、多くの問題と言うか、限界は感じざるを得ないものである。

それにしても、繰り返すが、基本的な方向性や態度としては、みるべきものが多く、参照とすべき点も多いので、興味を持った人は、本を読むなり、ネット等で調べるなりしてみてほしいものである。

2025年5月27日 (火)

近代社会と精神医学、オカルト的なもの、シャーマニズムの関係

これまで、近代社会と精神医学の密接な関係、近代社会がいかにオカルト的なものを排除することで成り立っているか、特にオカルト的なもの一般の中でもシャーマニズムこそが排除の対象となっていることについて多くを述べた。

我々は近代社会の中で、それこそが普遍的なものであるかのように、近代社会特有のものの見方や常識を身につけて生きてきた。従って、それを疑ったり、覆すようなことはとても難しいのである。

しかし、近代社会というものが、一つの特殊なものの見方、それも大きく制限された狭い見方に基づく文化であることを認識しない限り、統合失調のような不可解な精神の状態を理解することなど、とてもできることではない

そのようなことは、迂遠で面倒な手続きに思えるかもしれないが、そうしない限り、統合失調の真の理解へと一歩も踏み出すことにはならないのである。それで、これまでかなり深く立ち入って、このようなことを詳しく検討してきたわけである。

今回は、これらの関係を端的に図示することで、改めて、ざっと全体を概観できるようにしておこうと思う。まずは、図を掲げる。

Photo_20250527011301

 

既に詳しく述べて来たことなので、以下まとめ風に簡単にコメントしておくにとどめる。

「近代社会」の常識や学問、社会制度など、あらゆるものが近代社会特有のものの見方に基づいてできている。しかし、それらの中でも、特に近代社会のものの見方と密接に結びついて存在し、さらに近代社会の背後からそれらを強力に支える働きをしているのが「精神医学」である。

近代社会は、西洋の一神教的な文化を背景に、「オカルト的なもの」全般、中でも、「シャーマニズム」を排除することで成り立っている。「シャーマニズム」は、西洋に限らず、あらゆる文化の中心をなす普遍的なもので、「オカルト的なもの」という広い枠の中でも、実質的で主要な要素をなすものと言える。

西洋においては、その排除は、まずは、「魔女狩り」という形で強力に起こり、後に、近代的合理主義あるいは近代科学に反する「迷信」とされることでなされている。

日本においては、大規模な「魔女狩り」はなかったが、似た出来事はあり、またそれとほぼ並行するようにして、明治維新以来の急速な西洋化、迷信撲滅運動などを通してなされている。

本来、そのような普遍的なものの排除によってこそ成り立つ、特殊で狭い見方において、統合失調のような精神状態を理解することはできない。しかし、「精神医学」はそれを「病気」と規定することで、近代社会の見方を裏から支えることに成功した。その「病気」として規定されたものとは、普遍的な文化においては、「シャーマニズム」(シャーマン的巫病)として捉えられてきたものであり、精神医学は、それを「病気」とすることで、近代社会による「排除」を正当化し、継続できたのである。

すなわち、病院への実質隔離であり、あるいは近代社会が許容する限りでの社会への抱え込みである。

そのような全体の構造を理解することなしに、統合失調の理解などはあり得ないことを改めて強調しておく。

 

2025年5月 6日 (火)

統合失調「イニシエーション説」と「イニシエーション」という意味

R.D.レインの『霊的旅路説』が典型的だが、統合失調は、実体としてある「病気」なのではなく、その状態そのものが、一つの「イニシエーション」として「変化」「成長」への過程なのだ、という説がある。「ダブルバインド説」で有名なグレゴリー・ベイトソンや、神話学者のジョセフ・キャンベルもこの説をとっている。普遍的無意識との関係での「個性化の過程」とみるユングの説もこれに入るだろう。私の説いてきたことも、その一つのバリエーションと言える。

あまり一般にそういう言われ方はしないが、とりあえずそういう捉え方を、「統合失調イニシエーション説」として括ることもできるだろう。

しかし、このような言い方が意味をなすには、「イニシエーション」ということの意味、また、あえて「イニシエーション」という言葉を使うことの意味が、それなりに明確にされなければならない

 今までにも、何度か「イニシエーション」については述べてきたが、今回は、そのまとめ的な意味もかねて、このような観点から述べ直してみたい。

ウィキペディアでは「イニシエーション」を、

・人生の節目に行われる儀礼については、通過儀礼を参照のこと。

・オウム真理教の修行については、オウム真理教の修行 を参照のこと。

・イニシエーション・ラブ - 乾くるみの小説。2015年に映画化。

として、3つに分けて別々に括っている。「イニシエーション」という言葉が、一義的に説明しがたい、多様な意味を持っていることを示している。ここで問題にする「イニシエーション」は、もちろん、この中では、「通過儀礼」として説明される事項ということになるので、その説明をあげてみる。

「通過儀礼(つうかぎれい、rite of passage)とは、人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。イニシエーションの訳語としてあてられることが多い。具体的な内容は地域の歴史と風俗により変わり、更に内容も目的も変わり時代と共に変遷する。」

基本的に、問題にする「イニシエーション」と重なる説明だが、ここで問題にしているのは、人間や社会集団が行う「儀礼そのもの」を意味するのではないので、そのまま当てはまるというわけではない。

辞書では、「特定の集団に成員として加入する際に行われる儀礼」として説明されることが多いようである。これは、英語としての「Initiation」の意味に、「加入する」こと、「参入する」ことの意味があり、そのように、ある特定の集団に加入・参入するための儀式という意味で言われているのである。あるいは、「通過儀礼」一般においても、その儀礼を通過した者は、結果として、ある特定の集団への加入が認められることになることが多い(たとえば、成人儀礼の場合は、大人としての集団)ので、通過儀礼としての意味とも重なるものがある。

しかし、いずれにしても、このような説明は、社会的な集団の行う外面的な儀礼に注目したもので、統合失調で問題にする「イニシエーション」と直接関わるわけではない

要は、統合失調イニシエーション説でいう「イニシエーション」というのは、このような「通過儀礼」や「加入儀礼」そのもの、あるいはその形式ではなく、その実質的な意味であり、本質なのだということができる。

文明国で行われる儀礼は、文字通り「儀礼化」して、形式的要素が多いから、その実質的意味あるいは本質は、ほとんど分からないものになっている。ただ、先住民文化で行われる儀礼は現在も生きたものが多いので、その実質的な意味あるいは本質を見出す試みがなされ得る。とは言え、そこには日常性を超えた「見えない」部分が多く、明確に見出されることにはなってはいない。いわば、「イニシエーション」という言葉で括りつつ、その「実質」は、今後の研究や探求に開かれているものと言える。

しかし、とりあえず、「イニシエーション」という言葉が、そのような「儀礼」の実質的な意味あるいは本質を、明確ではないながらも含意していることが重要である。それで、統合失調についても、明確さを欠くきらいはあっても、とりあえず「イニシエーション」として括っておくことで、大枠的な理解あるいは方向づけがされるとともに、さらに探求を深めることができるのである。

これを、「通過儀礼」や「加入式」という儀式そのもの、あるいはその儀式の過程に普通含まれる「試練」という言葉(日本語)を使ったのでは、非常に制限された意味になってしまうし、発展性に欠けることとなる。

そのような「イニシエーション」の過程については、既に、人類学の方面で、かなり鋭い論理的分析もされている。記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』で、簡単にとりあげたように、「(共同体または日常世界からの)分離・過渡・統合の過程をたどる」(ファン・ヘネップ)や、「その過渡の段階では、「コミュニタス」と呼ばれる、何ものにも所属しない境界領域、あるいはそれまでの世界が崩壊した、カオス的な状況を通り抜けること」(ヴィクター・ターナー)などである。

これらは、確かに、先住民文化の儀礼の過程を、論理的に的確に分析するものがあり、統合失調の体験についても、抽象的には、十分当てはまるものがあると言える。統合失調「イニシエーション説」においても、これらを汲み取ったものが多いであろう。

ただし、それは、一つの論理的分析として、やはり抽象的なものであるし、儀礼の過程の具体的な様相や、儀礼の実質的意味あるいは本質を十分に解き明かすものとは言えない

私は、「イニシエーション」の実質的意味あるいは本質というのは、先住民文化の行う儀礼の中でも、シャーマンになる者が受ける儀礼(入巫儀礼、シャーマン的巫病を伴う)にこそ強く現れているものと思う。成人儀礼などの他の儀礼にも、そのエッセンスは含まれているが、それは、シャーマンが受ける儀礼のいわば簡易体験版なのである。

だから、シャーマンの受ける儀礼の実質的意味や本質こそがより深く探求されなければないが、それは通常の儀礼以上に「見えない」要素に満ちていて難しいのである。

ただし、前回の記事でもみたように、シャーマンのあり様は、物質的な面からも明らかにされるようになって来ているし、統合失調との絡みでも重要なシャーマンが入るトランス意識については、脳波などの脳研究においても探求されるようになって来ている。先住民文化のフィールドワーク的な研究(それはカスタネダのように、研究者自身が体験することが最も望ましい形だが)と相まって、今後は、その内容がより深まって来る可能性があるのである。

私は、記事で何度も述べたように、シャーマンがトランス意識によって入る「世界」は、抽象的に日常的世界から「分離」されての「過渡」の段階、あるいは「境界的なリミナリティ」の段階にあるというだけでなく、実質的な「もう一つの現実の世界」あるいは「他界」の体験であることを確認することが重要なことと思う。

それはまた、統合失調の者が入る「世界」でもあるわけだが、それが実質的な「世界」であることが確認されて初めて、それが実体としての「病気」ではないということの意味も明確になり得るのである。そして、シャーマンの場合と比較することで、そのような体験が、統合失調の場合には、「病的なもの」になる、あるいは「病的なものに終始する」理由もまた、明らかになって来るはずなのである。

つまり、統合失調の場合も、儀礼の実質的意味あるいは本質としての「イニシエーション」の過程を通ることには違いがないが、それが、シャーマンの場合のようには、「成功」に終わらないことの理由も明らかになるはずということである。

2025年4月23日 (水)

『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』~シャーマン研究の新しい可能性

4月19()7NHK Eテレで放映された、『地球ドラマチック 古代ドイツ謎の女性シャーマン』を見た。まず、番組内容を説明する短いコピーをあげておく。

「豪華な副葬品、首の骨の異常、歯に空いた謎の穴。9000年前に埋葬された女性の骨から、彼女が実はシャーマン、つまり、神や精霊と交信し、人々をいやす存在らしいことが分かった。最新DNA解析が、肌や目の色だけでなく、彼女の暮らしや社会的な役割までを浮かび上がらせる。さらに、CGによる顔の復元や、共に埋葬された子どもの骨の分析から、謎に包まれた古代の女性シャーマンの真実に迫る。(ドイツ2024年)」

豪華な副葬品のため、社会的な地位の高い男の骨とみなされていたが、実は中石器時代の狩猟採集民の共同体にシャーマンとして崇拝されていた、女性の骨であることが分かったことに、驚かれている。日本では、卑弥呼に代表されるように、女性シャーマンが多いことはよく知られているから、さして驚かれないだろうが、西欧では驚きのことのようである。

骨には、首の骨に先天的と思われる異常があり、頭を後ろに傾けると血管が圧迫されて血流が遮られ、意識の異常をもたらしたことが予測される。しかし、それは、意図的にトランス状態に入って、神や精霊と交流し、知識や治癒をもたらすシャーマンの能力に大きく貢献したと考えられる

また、前歯には意図的に開けられたと考えられる穴があって、はっきりと神経が見えている。いかにも、痛々しいそうだが、通常それはさらに悪化して歯が抜け落ちるし、周りの歯にも影響を与えるはずだが、この女性では、そういうことはなく、ちゃんと治癒されているという。それは、シャーマンが傷つけた歯の治療を自ら行うことで、他の人間にも治療を広げていったものと考えられるという。

ほかにも、最新のDNA解析の技術などで、この女性がシャーマンであったことが、いろいろと示唆される。

これまで、シャーマンの研究と言えば、先住民部族のフィールドワークに基づく考察が主だったわけだが、このように考古学的に物質的な面からもシャーマンの能力や生活の様々な面が明らかにされるようになって来るのは、望ましいことだ。もちろん、シャーマンの能力や生活は、物質的な面だけから明らかになるような性質のものではなく、フィールドワークに基づく考察が依然重要になるわけだが、それを物質的な面から補強できるようになるのは大きい。

今回の、首の骨の異常がシャーマンのトランス能力に結びつくことや、歯の異常がシャーマンの治癒能力に結びつくことなどの知見も、これら両面からの考察が結びついて明らかにされたものと言える。

ただし、トランス状態に入れることが即シャーマンの能力に結びつくわけではなく、トランス状態に入って何をするか、あるいは、トランス状態でも明晰な意識を保って行動できることが重要なのである。

また、歯に開けられた穴は、その強烈な痛みということ自体、記事『『ぼくのイニシエーション体験』』でもみたように、死を間近なものとして意識し、意識の変容をもたらす手段ともなっただろうし、その苦痛に耐えることが、「イニシエーション」的な意味合いもあっただろう

なお、この番組は、4月28日(月) 午前0:00からEテレで再放送されるようなので、興味がある人はご覧になるとよい。

また、シャーマンのトランス意識については、脳波等の脳の研究の方面からも様々に新しい知見が示されている

たとえば、セバスチャン・ボー、コリーヌ・ソンブラン著『シャーマン 霊的世界の探求者(グラフィック社)という本は、多くの図版とともにシャーマンとシャーマニズムについて一般的な分かりやすい解説を施したものだが、付論では、自ら太鼓の音を聞くことでトランス状態に入り、シャーマンと同様の体験をし、元に戻ることのできる女性の体験が述べられ、その脳波等の研究も紹介されている。

この女性は、トランス状態において、オオカミになったり、精霊と交流することができるようになったことから、シャーマンの能力は真実のものと確信するようになるし、モンゴルのシャーマンからも真正のシャーマンと認められる。

興味深いのは、通常の状態のときの脳波は、正常であるが、トランス状態に入ると、統合失調症等の精神異常の者の脳波と酷似するようになることである。彼女の場合、意識的に元の状態に戻れるので問題ないが、やはり危険なこととみなされてしまう。(これは、逆に言えば、統合失調等はシャーマンと同様の一種のトランス意識にあるのだが、元に戻れないがために危険(病的)な状態にある者ということができる。)

それで、彼女は太鼓ではなく、トランスをもたらすエッセンスを凝縮した器具を開発し、それを用いると、多くの人(80パーセント)が彼女と同じようにトランスに入り、危険なく元に戻れるようになることを証明できるようになる。つまり、トランスは、本来、精神疾患のような「異常」なものではなく、「普遍的」なものであり、むしろ知覚や意識の可能性を高めるものということである。

こちらも興味を持った人は読まれるとよい。

 

2025年4月12日 (土)

『千と千尋の神話学』と統合失調

図書館で、『千と千尋の神話学』(西條勉著、新典社新書)という本があったので、読んでみたら、なかなか面白かった。『千と千尋の神隠し』について、千尋の体験を「異郷訪問説話」の一種と捉えて、他の物語等の場合とも比較しながら、とても分かりやすく解説している。また、それは、統合失調との関係においても当てはまるものが多く、興味深いものがあった。

「異郷訪問説話」とは、「一言で言えば、ある人物が別世界に迷い込んで脱出する話」とされる。ただ、通常は、「異界探訪説話()」と言われるので、以下こちらの言い方をとることにする(「異郷」は「異界」とする)。この説話は、神話や昔話から、小説、映画など、世界に古くから、遍く広がっているものであり、日本における代表格は、「浦島太郎」とされる。

千尋の体験は、もちろん独自の展開も多くあるが、基本的には、他の多くの「異界探訪説話」と同じような、共通のプロットをもっている。そして、そこには、4つの法則があるとする。

まずは、「異界探訪説話」全体の概観のようなことが、とても分かりやすくまとめられているのでそれを引用しよう。

「このように、個々にみていくと別世界での体験はさまざまで、とても、ひとくくりにはできそうもありません。しかし、どれにでも共通するところがあります。それは、主人公が、それまでとは違った体験をするということです。しかも、身長が伸びたり縮んだり、魔法使いや河童が出て来たり、とても現実ではあり得ないことが起こることです。

 異郷での体験は非日常的で、異常な体験なのです

 要するに、とんでもない世界なわけです。千尋の迷い込んだところも、アリス(『不思議の国のアリス』)やドロシー(『オズの魔法使い』)におとらず奇怪な世界でした。それまでの平穏で、惰性的な生活は、一変します。

 このように、異郷訪問説話の主人公たちは、たいてい、それまでに体験したことのない出来事でもみくちゃにされます。その結果、主人公たちは変化します

 たいていの場合は成長しますが、もちろん、逆の場合もあって、たとえば、浦島太郎は元の国にもどって白髪のおじいさんになります。芥川の『河童』では、主人公は人間の世界にもどってどうやら河童になったようです。千尋は、どうでしょうか。ラストシーンのトンネルから出たところでは、りりしく、たくましい顔つきに変化していました。

 異郷から脱出して、主人公は変化し、成長し、変身するのです。」

共通するプロットとしての4つの法則とは、次のようなものとされる。

第Ⅰ法則 異郷に入るときは、偶然に行く。

第Ⅱ法則 異郷での体験は、異常体験である。

第Ⅲ法則 異郷から出るときは、自分の意志で出る。

第Ⅳ法則 異郷から出た後、主人公は変化する。

第1法則の「偶然に行く」というのは、自ら望んで(意志して)行くのではないということである。著者は、「自分から進んで行こうとしない理由は、そこが無意識の世界、気づかれていない世界だからである」としている。要は、気がついたら、別の世界に入っていたということである。

ただ、千尋の父母は、ご馳走を前にすると、自ら進んでその世界に入っていった。その結果、「ブタ」になってしまう。最終的には、千尋に救われて脱出することができるが、このように自ら望んで入ると「元の世界に戻れなくなる」ということが言われる(「死者の国」の食べ物を食べると、元の世界に戻れなくなるというのは、日本でも昔から言われて来たことである)。(※1)

第2法則の、別世界でする異常体験については、次のように言われる。

「ドロシーが異郷に行ってから、それまで意識しなかったことに気づいたのも、異常な体験が彼女の無意識を目覚めさせたからにほかなりません。異常な体験は、マンネリ化した日常の意識を破ります

 わたしたちは、自分のことをすべて意識しているわけではありません。しかし異常な体験をすると、ふだん眠っている部分が目覚め、活動しはじめるのです。異常な事態に遭うと、それまで気づかなかったいろんな深層意識を発見します。それが異常体験の意義の一つなわけです。」

しかし、一方で、このような「異界」は、狂気に通じる世界であることが、次のように言われる。

異郷は底の方に狂気をはらんでいる世界なのです

異郷は、不気味な世界です。

そこは、非現実で、あり得ない世界、夢の領域、失われた記憶の世界、あるいは現実社会の裏側であったり、人々の欲望を集める場所であり、無意識の領域です。

異郷は両義的です。ネバーランドがウェンディとピーター・パンで、その意味が対照的になったり、ファンタスティックな河童の国が、一皮むけば狂人の世界であったりします。そこは、わたしたちのイマジネーションにとって、無限の可能性をもった世界なのです。

異郷訪問説話という話型は、おそらく、わたしたちのこころの構造、内面世界そのものなのです。」

第3法則で、「異界」から脱出するときは、「自分の意志で出る」というのは、入るときと違って、そこが元の世界と違う「別世界」でることに気づいているからできることである。そして、そこにずっととどまるべきではなく、元の世界に帰ろうとする意志を持つことによっている

千尋も、ブタになった父母やハクを助けて元の世界に戻るべく、銭婆のいる「沼の底」というもう一つの「異界」へ赴く(※2)。そこで、カオナシが同行し、カオナシをその世界において行くことについて、著者は面白いことを言っている。カオナシは千尋の集合的な無意識であり、「影」のような存在で、それを切り離して、「沼の底」において行くことで、(大人としての)自己の自我に目覚めるとするのである。

このように、「異界」での異常な体験を通して、千尋は第4法則にみるとおり、この世界に戻った後、大きく変化して、成長する。それは、これまで何度も述べたように、「死と再生」を伴う、一つの「イニシエーション」であることも言われる。

ただし、初めに述べられたとおり、この法則どおりにはいかず、結局元の世界に戻れなかったり、芥川の『河童』のように、狂気に陥ってしまう場合もままある。

一つ興味深い点として、千尋が、元の世界に戻ったときに、銭婆からもらった金色の髪留めが光る場面がある。それは、宮崎駿が、千尋の体験した別世界が単なる「非現実」の世界ではなく、もう一つの「現実」の世界であることを強調したかったからだとされる。

しかし、このようなこと、つまり「異界」を探訪してそこで体験したことが、何らかの形でこの世界に戻ったときにも、(物理的な)痕跡として残るということは、よくある話である。たとえば、記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』でも述べたように、『遠野物語』の『マヨイガ』の話でも、そこに入って部屋にあった茶碗を持って帰らなかった者が、後に川の上流から流れてくるその茶碗を手に入れて手もとに残す、ということがある。

著者は、異界は「無意識の世界」としているが、単なる「夢」の世界とか、「非現実」の世界ではない、「実在」の世界のわけである。

また、著者は、異界訪問説話は、文字に記されたものとしては、『ギルガメッシュ叙事詩』からある古い説話としているが、文字に示されることがなくとも、この話は、シャーマンの「天上世界」や「地下世界」などの「異界探訪」の体験が元になっており、さらに古く遡れるものである。また同時に、現在も多くの先住民文化の中では、現に起こり続けている「生きた」ものなのである。

「異界探訪説話」について、このようにみて来て分かるとおり、この体験というのは、実に、「統合失調」の場合にも、多く当てはまるものである。統合失調体験も、まさに「異界探訪説話」の一種と言えるということである。

前回、統合失調の体験は、この世(物質的世界)とあの世(霊的世界)の境界領域で起こるということから、「境界的なもの」としていた。ただ、その場合の「境界」とは、まさに「異界そのもの」と言うことができる。この世からみた場合、あの世の領域は、境界領域を含めて、全体として「異界」と捉えることができるからである。実際、そこで統合失調の者は、「この世ならぬ声」を聞き、それに翻弄されることになる。また、「共時性」の体験など、日常世界では起こり難い出来事を、多く体験することになる。

あるいは、「あの世」の領域は、「他界」として捉えられ、その境界領域が、「異界」として捉えられることもある。いずれにしても、統合失調の「境界領域の体験」は、「異界」の体験そのものであり、それはそのまま、著者の言う基本的なプロットとしての法則にも当てはまるのである。

統合失調の場合、まさに自ら意図して「異界」に赴くわけではないので、第1法則に当てはまる。著者も言うように、初めは、別世界に入ったことに気づかれようがないのである。ただ、千尋や他の者が、いずれそこが別世界と気づいて、いろいろと知識を深め、知恵を身につけていくのに対して、統合失調の場合は、そこに入った者が、そこを「別世界」と気づこうとせず、むしろ、「この世」の延長であるかのように無理やり解釈してしまう。そのようにして、「異界」が元々はらんでいる「狂気の世界」へと、遂には落ち込んでしまうことになる。

そして、その場合には、そこから脱出して元の世界に戻るということも起こり難く、また戻ったとしても、それを成長や変化には、結びつけにくいということになるのである。

残念ながら、現在は刊行されていないようだが、興味を持った人は、図書館や古本で読んでみてほしい。

 

※1「自ら望んで入ると戻れなくなる」ということだが、著者は、(欲望にまかせて)警戒心を欠いていること、無意識である(周りの状況に十分気づいていない)ためと言っている。要は、後に説明したように、その世界から脱出しようとする意志や知恵を身につけることが難しい、ということになるだろう。「自ら望んで入る」ことについては、シュタイナーのように、霊的修行に基づいて自ら霊界に参入するという方法がある。しかし、この場合の「修行」というのは、まさに霊的世界についての危険を十分認識して、意識的に行動できるようにするための修行であり、単純に、無自覚的に「望んで入る」のとは大きく違っている。

※2 著者は、もう一つの異郷である「沼の底」に赴くことを「二重の異郷体験」としているが、湯屋を中心とする初めの異郷を異界の混沌とした「境界領域」、「沼の底」の異郷をより深い霊的世界として捉えることもできるだう。混沌とした境界をくぐり抜け、より深い霊界に参入することで、千尋は自分を取り戻し、脱出する知恵を身につけることができたわけである。

2025年4月 5日 (土)

「境界的なもの」の恐ろしさと禁忌(タブー)

記事『人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」』でとりあげた奥野克巳著『ひっくり返す人類学』の他にも、最近は人類学の入門書的な本が矢継ぎ早に出版されていて、人類学に対する一般の興味が高まっていることを思わせる。それは、近代的な世界観の常識というものが、改めて問い直されているということでもあろう。

そんな中に、箕曲在弘著『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(以下『切り崩す』と略)というのがあって、文化人類学の興味深いテーマを、分かり易く解きほぐしている。その中でも、先住民文化にあって、贈与が循環をもたらすことの意味や、「境界的なもの」が禁忌(タブー)の意識をもたらすことについての考察は、特に興味深い。

今回は、その「境界的なもの」がもたらす恐れや禁忌について、改めてとりあげてみたい。「境界的なもの」については、このブログでも、何度かとりあげているし、統合失調状況とも大いに関わるものである。

『切り崩す』では、文化的に規定されたある枠組みと他の枠組みのどちらにも収まらない「境界的なもの」が、いかに人々にとって不気味で恐ろしいものとなり、禁忌の意識をもたらすかが、メアリ・ダグラスの説とも照らしながら述べられる。

たとえば、我々は、つばや便など自分の体から外に出た排泄物を、「汚い」と思うが、それは外に出るまでは体の中にあったもので、別に汚いとは思っていない。その「汚い」という感覚は、どうして生じるかというと、体から出ることによって、自己の内にあるものではなくなったからだが、しかしそれは、他者のものというわけではなく、どちらつかずの「境界的なもの」になったことによっているのである。

また、古代ユダヤでは、ブタ、ラクダ、ウサギ、タヌキのほかに、ひれやうろこのない魚類や、羽のない昆虫、ヤモリやトカゲといった地を這う爬虫類も「汚らわしいもの」として食べてはならない禁忌とされていた。その意味は長らく不明だったが、ダグラスは、それらは、聖書の記述による「清浄なもの」のカテゴリーに入りそうで、そこから逸脱するもの、つまり、どちらつかずの「境界的なもの」であることを明らかにした。

このように、文化的なある枠組みに収まらない、どちらつかずの「境界的なもの」というのは、「落ち着きが悪」く、「気持ちの悪い」ものであり、なんとなく恐れを感じさせるものである。従って、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。

そのある枠組みというのは、文化が規定するものだから、文化によって異なるわけだが、先のつばや便のように、どの文化においてもほぼ共通するようなものもある。

「境界的なもの」については、記事『「無縁」の原理と「死」』でも論じていたように、「共同体」にとっての空間的な「境界」もまた、聖なるものと交わると同時に危険で恐ろしいものと出会う、両義的なものとして意識されるものだった。

統合失調についても、「この世的なもの」(物質的なもの)と「あの世的なもの」(霊的なもの)の境界である「霊界の境域」に入って、そこで受ける諸々の事象こそが問題なのだった。それは、日常的な「この世的なもの」からはみ出るような事象であるが、先祖や神々の関わる、完全に「あの世的なもの」なのでもない。この世にありながら、あの世的なものが侵入し、どちらつかずの「不気味なもの」に遭遇する、まさに「境界的なもの」なのである。

統合失調は、それゆえ、他の「境界的なもの」と同じように、無意識にも、不気味で気持ちの悪いものと思われ、恐れをもたらし、禁忌あるいは排除の対象となり易いのである。それは、意識レベルではどうあれ、無意識レベルでは、統合失調が「境界的なもの」と関わることを潜在的にも察すればこそであろう。

このように、「境界的なもの」が怖れをもたらすのは、文化的な枠組みから逸脱するからとされているが、実は、もう一つ根源的というべき理由がある。それは、記事『「霊界の境域」の「図」』でも明らかにしたように、そのような「境界領域」は、いかようにも枠づけることのできない、根底に控える「虚無」を覗かせる「深淵」ともなるからである。「境界的なもの」の怖れとは、「虚無」の怖れでもあるということである。単に、文化的な枠づけからはみ出るというのみでなく、それは、あらゆる枠組みを破壊しかねないような、普遍的、根源的な怖れとつながっているのである。そして、それは、統合失調についても言えることである。

しかし、先住民文化において、この「境界的なもの」は、単に一方的に恐れられ、禁忌として排除されるだけのものではない。先に、共同体の境界について、「両義的なもの」と言ったように、それは、聖なるものと交わるものでもある。そのような境界を超えることによってこそ、真に聖なるものとの交わりが生じるのである。

また、「虚無」に源を有する「境界的なもの」の恐るべき破壊的な力は、それまでの生の枠組みを破壊し、新たな生へと躍進させる力となるものでもある。だから、先住民文化では、成人儀礼のような儀礼や、シャーマンの成巫過程のイニシエーションなどにおいて、そういった「境界的なもの」と遭遇し、超えて行くことが、あえて組み込まれている。「境界的なもの」は「死と再生のイニシエーション」ともなるということである。

そして、そのこともまた、統合失調についても言えることである。

 

2025年3月20日 (木)

「自然(じねん)」の自然観と「おのずから」と「みずから」

西洋近代の世界観というものが、いかに特殊で狭いものであるかを、折に触れて述べてきたが、その世界観の中の重要な要素として、「自然観」がある。

西洋近代の自然観のポイントは、「自己」という主観的な観察者に対峙するものとして、対象としての「自然(ネイチャー)」を立てるところである。我々が、客観的で疑わざるものとして信奉している「自然科学」も、この自然観を基礎にできている。

我々は、このような自然観が自明なものとして広がっている中で育っているので、この自然観が特殊の狭い見方であるとか、他の自然観があり得るなどということは、信じがたいことになってしまうのが普通だろう。

しかし、この観察者としての「自己」というものは、明らかに、一神教的な「神」の位置を引き継ぐもので、対象としての「自然」はその(唯一の神により合法則的に造られた)「被造物」ということを背景にもつものである。歴史的に言っても、かなり特殊な見方を背景にして、できている見方だということである。

このことは、近代以前の日本の自然観である「自然(じねん)」の自然観と照らし合わせてみると、よりはっきりする。

日本の「自然(じねん)」の自然観では、「自然」は「自己」と対峙するのではなく、「自己」を包み込んでいる。従って、「自然」は、自己が観察する、単なる「対象」ではない。むしろ、それは、我々の自己を超えた、「主体」なのである。それは、我々の「自己」をも包み込んでいると同時に、あらゆる「他の存在」も含みこんだうえでの主体でもある

日本では、古来、「山」や「海」、あるいは「熊」や「狐」などの特定の動物が崇拝されてきたが、その背景には、このような「自然」そのものがあると言うことができる。

この両者の違いを図にすると、次のようになる

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日本の「自然(じねん)」の自然観についてはあまり取りざたされることがないが、たとえば、精神科医の木村敏が『自分ということ』(ちくま学芸文庫)という本でかなり詳しくとりあげている。そこでは、「自然」の「自」あるいは、「自己」の「自」について、「おのずから」という面と「みずから」という面の両面があることが言われている。

これは、要するに、自己をも包み込む自然(じねん)を主体としてみたときの「自」のあり方が、「おのずから」であり、その中の「自己」を主体としてみたときの「自」のあり方が、「みずから」ということで理解できる。そして、この「おのずから」と「みずから」が矛盾なく一致するのが、「自然(じねん)」のあり方の本来の姿であり、理想とされる。

この「自然(じねん)」について、宗教家として端的に語っている者に、親鸞がいる。親鸞は、「絶対他力」を説き、阿弥陀仏の本願を信じることがすべてと説いた者で、しばしば「禅」などの「自力」の宗教と対立するものと捉えられる。しかし、親鸞は、阿弥陀仏とは、「自然法爾(じねんほうに)」のあり様を示すものだという

そして、この「自然法爾」とは、「おのずから然る」ことだと言われている。また、「わがはからはざるを、自然とまふすなり。これすなはち、他力にてまします」と言われており、自分のはからいをしないで、阿弥陀仏の「自然(じねん)」の働きに任せるのが、「他力」とされている。

つまり、単独のものとしてあるかのような「自己」の「みずから」の働きをしないで、自己も包まれてあるところの、「自然」の「おのずから」の働きに任せるということである。

禅のような自力の宗教も、我のはからいを捨てて、「無の境地」を目指すのであり、結局は、自己を超えた「おのずから」の働きに身を任せることに帰する。ただ、とっかかりに、「自力」か「他力」かの違いがあるだけである。親鸞の「わがはからいをしない」というのも、要は、自己の「みずから」の働きが、自然(じねん)の「おのずから」の働きと一致するものと捉えることができる

この「おのずらか」と「みずから」の関係を図にすると、次のようになる

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これは、仏教という一つの宗教において捉えられた観点だが、それは、基本的には、木村敏も言うように、近代以前の日本人に広くみられる、あるいは現在の日本人にも潜在的には多く残っている「自然」についての見方ということができる。

 私も、父が好きだった影響もあり、10代の後半頃親鸞に興味を持った時期があるが、やはり、西洋近代の自然観に強く毒されていたことが影響してだろう、あまりピンと来なかったというのが本当のところである。その後、仏教そのものに興味を持って勉強したときには、親鸞についてもある程度理解したつもりだったが、やはり、西洋近代の自然観の影響が強く、このような「自然(じねん)」の発想そのものには本当には馴染めていなかった。

そして、それは、割と最近まで続いていたと言えるが、最近になって、ようやく、「自然(じねん)」の自然観が、ごく普通に受け入れられるようになり、身にもついて来たと感じている。「自然」は、とても単なる「対象」などではなくなっている。

※ 『人と人の間』としていましたが、同書でも「人と人の間」には「自然」を含めるべきとして同趣旨のことは述べられているものの、「おのずから」と「みずから」について特に述べられたものは、『自分ということ』でしたので、訂正しておきます。

«「共同体の闇」と「妖怪」

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