2024年9月 8日 (日)

「お代」の「声が聞こえる」若者についての言説

記事『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 2-「狐憑き」と「狐落とし」』で、「オダイ(お代)」と呼ばれる稲荷の神に仕えるシャーマンないし霊能者を紹介していた。

その人の『増補改訂版 霊能一代』(二見書房)という本に、最近の若い人によく起こる、「何者かの声を聞く」という現象について、簡単なコメントがあったので、紹介しておきたい。

「今の若い人は、悪い霊に憑かれた人が増えています。……」

変な声が聞こえて来ると言ってみえる若い人もいます。幻聴です。分裂病(統合失調症)ではありませんが、こういう人も多くなりました。こういう人は、最後には医者からもらった薬をたくさん飲みすぎて、本当の精神障害者になってしまいます。 」

「こういった症状に打ち勝つためには、自分が強くなることが大切です。そうすると幻覚は逃げて行きます。」

「心の弱い人、心に空白のある人は、ヤクザにつきまとわれるように悪い霊につきまとわれます。しかし、この悪霊は取ることができます。本人が素直になり強くなりさえすればいいのです」

もう少し、詳しい説明が聞けるといいのだが、私なりに、この簡単なコメントについて考えをを補っておく。

基本、「悪い霊に憑かれる」ことによって、「変な声を聞く」のだとしている。

それは、「幻聴」だが、「分裂病(統合失調症)ではない」としている。このことの意味が、少しとりにくいのだが、次の2つの意味が考えられる。

1  霊に憑かれている結果の幻聴なのだから、精神医学のいう「分裂病(統合失調症)」なのではない=精神医学のいう「分裂病(統合失調症)」というのは間違っている。

2  「こういう人は、最後には医者からもらった薬をたくさん飲みすぎて、本当の精神障害者になってしまいます。」と言っていることから、まだ、「分裂病(統合失調症)」とまで言える段階ではない、重い障害のあるものではないが、医者からもらった薬をたくさん飲み過ぎで、結局は、本当の精神障害になってしまう。

おそらく、2の意味で、「分裂病(統合失調症)ではない」と言われているのだと思う。「悪い霊」というのは、「供養されていない霊」ということで、人間の霊の場合を主に想定しているように受け取られ、私が説明してきたような、人間以外の「捕食者的な存在」について言っているのではないようである。

だから、「変な声が聞こえる」というのは、それ自体で、それに振り回されて、「分裂病(統合失調症)」になるほどの強烈な事態ではないが、それをきっかけに医者などにかかり、たくさん薬を飲むようにでもなれば、『分裂病(統合失調症)』と言われてしまうような、本当の精神障害になってしまうということなのだろう。

実際、このように、本来、『分裂病(統合失調症)』とは言えないような状態なのに、医者にかかることによって、本当の精神障害に仕立てあげられてしまう例というのは、相当多いと解される。

私が言う、「分裂病(統合失調症)」そのもののような状態、つまり「捕食者的な存在」の関わるような強度の現象については、特に何も言われていない。それについては特に体験がないのか、あるいは知っていても、あえてこの本では言っていないのかは、分からないが、多分後者だろう。

一般的には、若者らの現象として、『分裂病(統合失調症)』とまで言えないが、それに近い、「霊的なもの」の関わる現象が増えて来ているので(今でもそうだが)、それについて言及しているのだろうからである。

「こういった症状に打ち勝つためには、自分が強くなることが大切です。そうすると幻覚は逃げて行きます。」というのも、まさにそのとおりで、それに尽きるというしかないものである。

ただし、「強くなる」というのは、「戦って勝てるようになる」とか、「そういった存在を祓えるようになる」ということではなくて、「本人が素直になり強くなりさえすればいい」と言われているように、本来の自分でいることで、そういうものに振り回されたり、影響を受けなくなるというようなことである。

「声を聞く」こと自体はあっても、そのように「気にしない」で、「影響を受けない」でいることができるようになれば、いずれ「声」は自然に去っていくということである。

このことは、私の言う、「捕食者的存在」の関わるような、『分裂病(統合失調症)』的状況にも当てはまる、重要なことである。

ただ、実際に、その場の状況で、実践することは難しく、いくらかの紆余曲折を経て、やっと身に着くようなものと心得ておかなくてはならない。

なお、この本自体も、たとえば、出口なおなどもそうだが、神に仕える霊能者の厳しい日常のあり方がよく分かって、興味深いので、興味のある人は読まれるとよい。

 

2024年8月30日 (金)

人類学で、近代社会の常識を「ひっくり返す」

シャーマニズムは、近代が排除したものだから、近代の失ったものを改めて目の前につきつけてくるのだった。それだけでなく、あらゆる点で、先住民の文化を知ることは、近代の常識を「ひっくり返す」ことに通じて来る

というか、我々、近代社会の常識が当たり前のように浸透した社会に生きている者にとって、そのような機会はほとんどないので、先住民の文化を目の前にしてくれる、人類学のようなものに頼るしかなくなっていると言える。

昔の人類学は、『金枝篇』のジェームズ・フレイザーがそうであるように、「アームチェアの人類学」などと言われて、ただ文献的に先住民の文化のあり様をとりあげて、考察するようなものだった。フレイザー自身は、私も鋭い考察が多くあって、面白いと思うが、しかし、全体として、やはり、近代文化とは異なる「遅れた」「珍しい」文化を、「興味本位」にとりあげるという指向が、明らかにあった。

私が子供の頃も、『知られざる世界』など、「未開」の先住民の文化を紹介するテレビ番組があったが、私自身、ほとんど興味本位で、「今も原始的な生活をする民族の生活を、驚きとともに覗く」というような感じで見ていたのを覚えている。そのような見方以外、あり得なかったのである。

それが、人類学も、フィールドワークのように、実際に現地で生活を共にする「参与観察」の方法に基づくものが主流になり、徐々に、先住民文化に対する偏見のようなものが減って来た。レヴィ・ストロースのように、思想的に、近代とは異なる合理的な構造が支配する文化であることを明らかにする者も出て来た。

そのようなことを通して、徐々に、先住民文化が、近代文化とは異なる「対等」な文化であり、しかも、近代文化も学ぶべきものを多く持った文化であることが、認められるようになって来た。おそらく、現在でも、特に興味のない者は、相変わらず、「遅れた」「珍しい」文化ぐらいにしか思わないだろうが、少なくとも、そうでないことを認めめる人も増えて来たのである。

最近、奥野克巳著『ひっくり返す人類学(ちくまプリマ―新書)を読んだのだが、この本も、改めて人類学が、そのように近代社会の常識を「ひっくり返す」力をもったものであることを、人類学者としての長い経験を通して、分かり易く、具体的に説いているものである。

たとえば、学校という教育、経済的な格差や権力、心の病や死、自然を「対象物」として捉えていることなど、近代の常識では当たり前になっていることが、著者の長くフィールドワークした、ボルネオ島の狩猟採集民プナンの文化では、ことごとく、みられなかったり、「ひっくり返され」ていて、そのようなものや見方が、少しも普遍的でも必然でもないことを示してくれている。

学校などなく、「教える」という観念もない。子どもが生きるために必要なことは、子どもが、周りの大人から自然と身につけてしまうし、周りも、そのように促していく。狩猟して得た獲物は、共同体のみんなで分かち合うのが当たり前になっていて、ものの蓄積などという観念もないから、格差や権力の生まれる余地もない。

心の病や死については、このブログ的には、最も興味がもたれることだが、著者は、「うつ病その他の心の病」は、長い間プナンを見て来たが、「まったくない」と断言する。先住民でも、焼畑農耕民である他の部族には、「心の病」がみられることがあるようだが、少なくともこの部族には、ないという。

前に、記事『一過性の現象としての「統合失調」』でもとりあげたが、野田正彰著『狂気の起源をもとめて』(中公新書)も、パプアニューギニアのいくつかの地域で、西洋文明との接触のほとんどない伝統文化そのものの地域の人々には心の病というものがなく、西洋文明の影響を受けてかなり変容した地域の人々には、まさに「典型的」と言える心の病がみられる。そして、両者の境界的な地域の人々では、切迫した、急性的な分裂病的反応や、誇大妄想などの現象が、現に発生する現場をみることができる、ということを明らかにしていた。

『ひっくり返す人類学』では、「心の病」というとき、「うつ病」を中心に言っているが、それはおそらく、「うつ病」こそが現代文明の代表的な病であることと、統合失調症には、シャーマンのトランスに入ったり、何らかの存在の声を聞くなどの行為を含める見方をする者がいて、あえて(この本は、学生向きの本であることもあり)そのことには触れなかったものと思われる。

しかし、「うつ病その他の心の病はない」とはっきり言っているし、著者は、他の『これからの時代を生き抜くための 文化人類学入門』(辰巳出版)では、シャーマニズムのあり方にも詳しく言及しているから、当然、統合失調症とシャーマンの状態が異なることは、はっきりと認識したうえで言っているはずである。

『狂気の起源をもとめて』でも、西洋文明と接触のない地域には、「一過性の錯乱現象」はあるとしているが、これも、シャーマン的なトランスや、憑依現象によって一時的に混乱する者はいることを示しているのだと思われる。

いずれにしても、著者は、「心の病がない」ことの原因については、あまり踏み込んでいないが、ただ、「サラババ」と呼ばれる、現地で見られる、話しの脈略とは関係のない卑猥な言葉を吐く興味深い現象を紹介して、結局「心の病」と言われるものも、それと同じように、一種の文化現象なのではないかと問うている。(おそらく、この「サラババ」も、ある種の憑依や精霊等の悪戯が関係していると思われる。)

また、先にみたように、『これからの時代を生き抜くための 文化人類学入門』では、シャーマニズムについても、かなり分かり易い説明がされている。儀礼の過程について、(共同体または日常世界からの)分離・過渡・統合の過程をたどることや、その過渡の段階では、「コミュニタス」と呼ばれる、何ものにも所属しない境界領域、あるいはそれまでの世界が崩壊した、カオス的な状況を通り抜けることなどを明らかにしている。まさに、そのような過程を通り抜けることこそ、「イニシエーション」の意味するところなのである。

ここでは、簡単な説明だけになったが、どちらの本も、私がこれまで述べて来たことと通じる面が多く、近代社会の常識を「ひっくり返す」視点を十分に与えてくれるはずなので、ぜひ読んでほしいものである。

 

  「死」については何も述べなかったが、「死」については、死後の世界も含めた世界観を抜きに論じてもあまり意味はないし、著者も、(やはり学生向きの本であることもあって)、あえてそこまで踏み込まなかったものと思われる。ただ、近代人が死をタブー化するとともに、葬式や墓などでは逆にいつまでも死に拘わるようなあり方をしているのに対して、プナンの、死の儀礼は一通りするが、以後故人のことは忘れて、ほとんど死に拘らないあり方を興味深く伝えている。要するに、彼らは、死について「自然に受け入れている」し、それにはそれなりの背景(世界観や、「死」の要素を含む儀礼などの体験を含む)があるということである。
 
『生き抜くための人類学入門』の方では、そのような「死」や「宗教性」についても、ある程度踏み込んで述べているので、参照にしてほしい。

 

2024年8月16日 (金)

「かの始めのとき」と「無意識」

前々回、「先住民文化にとっても、誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながりは、いったんは失われたのであり、それを回復し、再現するためにこそ、「シャーマン」なる特殊技術者を、必要とした」ということを述べた。エリアーデは、そのように、「誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながり」があった時代を、「かの始めのとき」と呼んでいた。

このように、「かの始めのとき」というと、我々、直線的な時間観念を生きている者には、その時間観念の遠い過去の特定の時代を意味すると受け取られるかもしれない。しかし、この「かの始めのとき」というのは、単に、時間的な観念における過去を意味するのではない。それは直接的な時間観念の根底にあって、「いま現在」も常に働きかけているものである。それは、通常の「時間」を超えており、直線的な時間観念の中に収まるような、特定の時間を意味するのではないということである。

アボリジニのいう、「ドリームタイム」というのも同じことで、遠い過去の「神話的な時間」ということではなく、いま現在、さらに未来も含むような、直線的時間を超えて、根底に働いている「時間」を意味している。

だから、先住民族において、それが「失われた」といっても、それは、「いま現在」において、つながることのできなくなったものなのではない。それは、直線的な時間観念の支配する「日常的な意識」から失われたのであって、「無意識」の深くの「非日常的意識」へと沈み込んだものということができる。

なので、その「無意識」の深くの「非日常的意識」と何らかの方法で繋がることができるなら、その「かの始めのとき」とのつながりを、「いま現在」において取り戻すことができるわけである。それを取り戻す方法が、シャーマンにおける「エクスタシー」(脱魂)技術であり、そのシャーマンが指導する儀礼においては、他の共同体の者たちも、「かの始めのとき」とのつながりを何らかの仕方で、共有することができるようになる。

ところが、先住民族においても、その「日常的意識」と「非日常的意識」との溝は、けっして浅いものではないので、シャーマンにおいても、そのつながりを取り戻すには、多くの試練を超えなければならない。「死と再生」と言われるように、「日常的意識」に死んで、「非日常的意識」に新たに生まれる直すことができなければ、そのようなことは達せられないのである。シャーマンの指導において、儀礼の中で、「非日常的な意識」へと入る他の共同体の者においても、それはある程度言えることである。

記事『「<癒し>のダンス」』では、クン族の儀礼において、そのように、通常の自我の支配する「日常的意識」に死んで、「非日常的意識」に入っていく状況こそ、シャーマン的な「癒し」における要となる状況であることや、その難しさを、かなり詳しく述べたので、ぜひ参照してほしい。

また、このクン族では、「シャーマン」と呼ばれるような特殊の地位を有する能力者というものは立てられておらず、誰もが、儀礼の中で、そのような「非日常的意識」を獲得することによって、シャーマン的な能力を発揮し、しかし儀礼が終われば、もとのただの共同体の一員に戻るのだった。

このような例は、とても興味深く、いわば、誰もがそのような能力を発揮できた「かの始めのとき」と、シャーマンによってそのような時間が取り戻されるようになったシャーマニズム文化の、中間形態と言うこともできよう。

 それに対して、近代人においては、確かに、文化としてはそのようなものは、ほとんど「完全」に失われたが、本来、「かの始めのとき」は、「いま現在」も時間の根底に働いているのである以上、それとつながる可能性が、全くなくなったというわけではないのである。

ただ、そのようなものは、先住民族に比しても、より深い「無意識の奥」へと沈み、「日常的意識」との溝は、決定的に深まったと言うことができる。また、方法論としても、それを取り戻すような方法は失われ、そもそもそのようなものは、「ないこと」にすらされているので、そのような「溝」を埋める方法も、現実になかなか見いだせない状況にあるということになる。

しかし、繰り返すが、決して不可能なのではないし、「統合失調状況」の体験というのも、かなり歪みを受けた形ではあるが、「かの始めのとき」の何ほどかを、反映する体験ということは言えるわけである。

 

2024年7月27日 (土)

プログ『統合失調とは本質的にどういう状況か』の開始

長い間、予告しつつなかなか始められないでいた、「統合失調の本質を端的に明らかにするブログ」を始めることができました。

ブログタイトルは、『統合失調とは本質的にどういう状況か』です。

 

当ブログとともに読んでいただけると、格段と理解が深まると思いますので、ぜひお読みくださるようお願いします。

 

 

2024年7月12日 (金)

「シャーマニズム」がおどろおどろしくなる理由

記事『近代が本当に排除したかった文化「シャーマニズム」』で、「シャーマニズム」について次のように言っていた。

「シャーマニズム」は、万物に物質的なものしかみない現代の物質主義的な観点からは、過去の「幸せ」(お花畑的)な「幻想」のようにもみなされやすい。

しかし、実際には、既にみたように、「シャーマニズム」には、「おどろおどろしく」、「恐ろしく」、力に満ちた「現実的な要素」が多分にあって、それこそが「排除」をもたらすことになったのである。

シャーマニズムのこのような「おどろおどろしい」面について、それはなぜそうなるのか、次回に改めて捉えなおしてみたい。

そこで、今回は、シャーマニズムが、なぜ、ときに我々に嫌悪をもよおすほどに、「おどろおどろしい」ものになるのか、端的に理由を述べてみたい。

 シャーマニズムについての古典的な研究者エリアーデは、シャーマンが精霊等の超自然的存在とつながる方法として、「エクスタシー」(脱魂)が本質的なものであり、「憑依」は副次的なものとしていた。

エリアーデは、自ら「エクスタシー」(脱魂)状態となって、「主体的」に精霊等と交わり、交渉するシャーマンこそ、「シャーマン」と呼ぶにふさわしい存在であり、「憑依」によって受動的に精霊等とつながるものは、本来、「シャーマン」と呼ぶにふさわしくないと考えていたようである。

「シャーマン」に肯定的なものをみるからこその、ある種の「拘り」だが、これだと本来的に「シャーマニズム」と呼べるものは、北アジア、北中米など、限られた地域のものに限られてしまうことになる。日本でも、シャーマニズムは、「憑依型」のものが圧倒的に多く、「脱魂型」は少ないから、「シャーマニズム」と呼ぶにはふさわしくないものになってしまう。

現在では、「憑依型」にも様々なバリエーションがあり、必ずしも、「脱魂型」が「主体的」で「憑依型」が「受動的」とは言えず、また両者は混在する面があり、必ずしも厳密に区別できないから、「シャーマニズム」を広く捉えて、その中のバリエーションとして「脱魂型」や「憑依型」をみるというのが、主流になっている。日本の著名な研究者佐々木宏幹も、『シャーマニズム』(中公新書)という本の中で、そう述べている。また、その方が、世界のシャーマニズムの実際のあり方に沿っている。

そして、そうみるならば、「シャーマニズム」とは、先住民文化を筆頭にして、世界のあらゆる文化に遍く広がっているのであり、いかに「普遍的なもの」であるかを、改めて痛感することになる。

近代社会は、シャーマニズムを排除することによってできあがった社会だから、身の周りにそれを実感することは少ないかもしれない。しかし、そもそもそのような「排除」は、シャーマニズムが、特に民衆のレベルで広く受け入れられていたからこそ行われたのであり、しかも、「魔女狩り」のようにかなり強力な排除のなされた後も、今日において、部分的には、強く生き残っているものということができる。

エリアーデは、確かに「エクスタシー」(脱魂)技術によって、変性意識状態に入り、精霊等と交わる脱魂型をシャ―マンにふさわしいものとした。しかし、一方で、「かの始めのとき」の本来の人間たちは、シャーマンのように「エクスタシー技術」で変性意識に入るまでもなく、当たり前に、神々や精霊と交流することができていたのだとする。そして、シャーマンとは、「エクスタシー」(脱魂)技術によって、そのような始原のあり様を回復し、再現するものだとされている。

その部分を、著書『シャーマニズム()(ちくま学芸文庫)から引用してみよう。

「エクスタシーにおいて、二つの世界を結ぶ橋、死者のみが試み得るこの危険に満ちた橋を渡ることによって、シャーマンは彼が精霊であり、もはや人間でないことを証拠立て、そして同時に<かの始めのとき>にこの世界と天上界との間に存在した「交通の可能性」を回復しようと試みるのである。

シャーマンが今日、<エクスタシーにおいて>なし得ることは、この世のときのはじめには<現実に>全人間がなしえたことだったからである。彼らはトランスに頼ることなく天上界にのぼり、またおりて来た。そしてある限られた数の人々―シャーマン-にとって、エクスタシーは全人類の原初の状態を一時的に再現する。この点で「未開人」の神秘体験は始原への回帰であり、失楽園の神秘時代への逆戻りである。」

つまり、エリアーデにとっても、エクスタシー技術は、誰もが天上界と交流した原初の時代の再現のための、いわば「道具」に過ぎなかったのである。だから、エクスタシー技術を、シャーマンにふさわしいものとして固執するする理由は、本来それほどないことになる。

また、このことは、我々が「幻想的な楽園」を生きているとみなしがちな、先住民文化にとっても、誰もが神々や精霊や祖先と交流できた天上的な世界とのつながりは、いったんは失われたのであり、それを回復し、再現するためにこそ、「シャーマン」なる特殊技術者を、必要としたことを物語っている。もはや、誰もが自由には天上界と交流できなくなったので、シャーマンという特殊な技術を身につけた者を必要とするようになったのである。

このような、誰もが天上界と交流できた、「かの始めのとき」については、多くの文化が、神話その他の伝承の形で伝えている

たとえば、アボリジニーは、このような世界を「ドリームタイム」と呼んで重視している。それは、「神話の時間」であり、原初の天地創造から、神々や精霊、祖先との自由な交流、あらゆるものとつながった一体の世界といったものを含んでいる。シャーマンに限らず、儀礼は、この「ドリームタイム」を現在このときに再現するものである。

日本でも、イザナミが黄泉の国に逃げたのを追って、イザナギがタブーを破りイザナギを見たことによって、「岩戸閉め」がなされる前は、人々は、「黄泉の国」と自由に交流していたのである。風土記では、『草木言問ひし時』、つまり、草木が自由に言葉をしゃべった時代という言い方で、あらゆるものと人間がつながった太古の時代を言い表している。

時代でいえば、縄文時代の前期が、これに当たるだろう。

何しろ、先住民文化に代表されるシャーマニズムにおいても、このような「幸せな」時代は「失われた」のであり、ただ、シャーマンという特殊の技術を身につけた者が、これを再現することができるとみなされたのである。

それは、もちろん、近代社会のように、完全に失われたのではなく、あくまで「日常性」において失われたのであり、シャーマンの指導する儀礼のような、「非日常的な時間」においては、回復され、再現される。

しかし、それを回復するには、ある種の「溝」があるのも事実であり、その「溝」を超えるには、さまざまな試練を超え、それまでの状態において「死」し、新たな「生」を獲得しなければならない

これが、「死と再生」の過程ともいわれる「イニシエーション」の必然性なのである。

シャーマンのイニシエーションは、過酷なもので、様々な混乱や苦悩が伴い、自己が解体にまで追いやられる。たとえば、骨にまで解体されたり、精霊に身体を飲み込まれたりする。そこには、近代人が目をそむけたくなるような、「死」を連想させる要素が多く塗りこめられているのである。そして、実際に死ぬことになる場合も、少なくないのである。

そのような過程を超えて、新たに「生まれ変わった」者が、シャーマンとして認められるのである。

このようなことは、シャーマンだけでなく、一般の成人儀礼などにもつきまとう。たとえば、割礼の儀礼のような血を見る儀礼や、身体を酷く傷つける儀礼、死の危険のある儀礼は多くある。動物の供犠を伴い、あるいは人間自身が生贄に捧げられることもある。

しかし、これらの儀礼に、「おどろおどろしさ」が伴うのは、単に、「溝」を超えるための試練という意味合いだけではなく、実際に、具体的に、「おどろおどろしい存在」が関わるからでもある。

シャーマンのイニシエーションには、怪物的な精霊や魔物、あるいは「悪魔」そのもののような存在が関わることも多い。それらの存在は、新たな「再生」に向けられたものではあるが、シャーマン候補者の肉体や心を激しく揺さぶり、結局「飲み込ん」だり、骨にまでバラバラに解体してしまう。それは、そのような「破壊」の力を発揮できるのは、強力な魔的存在をおいてほかにないからである。

私も、「捕食者」と呼んできたそれらの存在の激しい働きかけなくして、深い眠りから揺さぶり起こされることはなかったと思う(このことには、また近いうちに再び触れてみたい)。「死と再生」の「死」の部分には、具体的に、これらの存在が、大きく関わるのである。

エリアーデはまた、魔的な存在こそが、シャーマンに知恵と力を授ける面にも触れている。先住民族においては、「魔的な存在」は一方的に「悪」を意味するのではなく、さまざまな建設的な働きもしたのである。日本では、「なまはげ」がこのような両義的な面をよく表している。

また、そもそも人間が、「かの始めのとき」にあった能力を喪失したのは、それら「捕食者的存在」の影響の結果という面が大きくある。そこには、人間の側の質の低下もあるが、カスタネダのドンファンや、南アフリカズールー族のシャーマンも明らかにするように、「捕食者的存在」の人間に対する「進化」的な操作が強く働いている。人間は、「捕食者的な存在」そのものの性質を植え込まれ、ある意味で、捕食者的な存在を、創造の「父」とするようになったのである。

神話学者J・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』(ハヤカワ文庫)でも、英雄神話における「父」の、育み、破壊する両義的な面がとりあげられるが、そこにはまさに「捕食者」的な存在が反映されている。

そのような「捕食者的存在」により、「かの始めのとき」は失われたのであるから、それを回復し、取り戻すには、「捕食者的存在」と関わり、その性質を知り、いくらかとも超えて行くということがなければ、そのようなことがなさしめられるはずもない。だから、「捕食者的存在」は、シャーマンのイニシエーションにおいても、一般の儀礼においても、重要な役割を果たすのである。

そして、その「捕食者的存在」とは、人間の感覚からすれば、実際、何とも「おどろおどろしい」のである。だから、その「おどろおどろしさ」は、シャーマンのイニシエーションや成人儀礼などに、必然的に反映されざるを得ないことにもなる。

先住民族や、近代以前の文化では、そのような「おどろおどろしさ」も否定することなく、そのような存在と何とか折り合いをつけたり、「かの始めのとき」に戻るための試練として受け止めて来た。

しかし、近代人は、そのような「おどろおどろしさ」を受け容れることができなくなり、全面的に排除する方向に進んだのである。そのような「おどろおどろしい」ものは、「ないこと」にして「葬り」、科学技術のような新たな物質的な方法を押し進めることで、生活を築いていくことができることにした。また、神々の指導やシャーマン的な知恵ではなく、「民主主義」のような、個々人の意志の力の総和で、生を司ることができることにしたのである。

そのような方向に、疑問がないと言うなら仕方がないが、もし本当に反省をもたらせようというのなら、「シャーマニズム」という実際に生きた力を発揮したからこそ、排除した文化を、その「おどろおどろしさ」とともに、顧みることなくしては、無理と言うべきである。

2024年6月22日 (土)

トランプのUFO話と、ハーバード大学研究者の新たな研究報告

トランプ前大統領が、有名インフルエンサーとの対談で語ったUFOについての話と、ハーバード大学の研究者らが、新たな視点からUFOと宇宙人について考察した研究論文について、先般、次のように報道されていた。

宇宙人とUFOにトランプ氏が注目発言「何かがいる可能性は非常に高い」名門ハーバード大研究者「未確認知的生命体が既に地球に潜んでいる可能性も」

トランプ前大統領のUFO話について

トランプ前大統領がUFOについて語ったと言っても、その内容は意外と控え目なものだ。

UFOを目撃したパイロットなど、「本当に奇妙なものが飛び交っていると言う人たち、真面目な人達に会ったことがある」ということ。宇宙人の存在については、「とても信じられる。何かがいる可能性は非常に高い。存在する可能性は大いにある。」ということである。

また、宇宙人に関する情報が隠されている可能性はあるかとの質問に対しては、「そうだろうね。ディープ・ステート(政治や経済を裏から操るとされる秘密の集団)がある」と指摘している。

知っていることすべてを語っているとは思えないが、特に何かを隠そうとしているとも思えない。おそらく、自分が知っていて、公に話してもよさそうなことを率直に語っているものと思われる。

かつて、ジミーカーターは、自身がUFO現象を目撃し、自分が大統領になったら政府のUFO情報を公開させるという公約をしていたが、トランプには、特にそのような意気込みがあるわけでもない。当時に比べれば、ある程度、UFO情報は公開される流れになっているし、公聴会その他で、表立って議論されるようにもなっている。

また、現在は、大統領になったからと言って、そのような情報をすべて公開させることなど、できないことも一般に知られるようになっている。

このことに絡んで、トランプは、「ディープ・ステート」の存在を指摘しているが、これは、ある意味、トランプらしい「陰謀論」として受け取られてしまうようなことでもあるだろう。

トランプが大統領になったからと言って、特にこのような流れか変わるとは思えないが、今後のUFO情報について、注目される。

ハーバード大学研究者らの宇宙人に関する研究論文について

これは、これまでの、「宇宙人」という観念を問い直し、単純に宇宙から来ている物質的存在というのではなく、地球上でも昔から知られていた、精霊的存在など、他の可能性を問うもので、興味深い。私が、これまで述べて来たことにも、沿う内容だ。

少しく、引用すると、次里のようなものである。

この論文の特筆すべき点は、UFOについてこれまで言及されてきた「人類を起源とする技術」と「地球外の技術」の2つの説とは異なる、第3の存在が関与している「クリプトテレストリアル(地球やその周辺の未確認の知的生命体)仮説」を立てている点だ。

UFOは人類の技術でも、宇宙人の乗り物でもなく、地球内の海底や火山、また月などの地球周辺などに存在する、人類が未だ確認できていない知的生命体の乗り物ではないかという考え方だ。

論文で研究者らはクリプトテレストリアルについて4つの説を例として挙げている

1)技術的に高度な古代人類文明。大昔に大部分が破壊されたが、存在し続けた

2)技術的に進歩した非人類文明。進化した陸上動物(恐竜の子孫など)

3)宇宙人や人類の未来から地球に到着し、こっそりと姿を隠した者

4)宇宙人というよりは、地球に住む天使(妖精など)のような存在の可能性

古代の大陸に存在していた文明の末裔や、人類よりはるか前に存在した進化した生物が地球上やその周辺にいて、これがUFOなどを使用しているということなのだ。

要は、記事『「宇宙人」と「霊的なもの」』で述べたように、宇宙人は、地球上で言う「物質的存在」である必然性はなく、物質次元とは異なる、またはそれを超えた存在である可能性がある。それは、地球上で「霊的な存在」としてこれまで知られた存在と、明確に区別することも難しい、ということになる。

実際に、そうであるはずのことが、改めてしっかり報告されることは、意義深いと言える。

ただ、この論文には、「実際、この仮説が最近のデータに照らし合わせると、可能性は10%程度になるだろう」などと、よく根拠の分からない、「エクスキューズ」のようなものが付けられているのは、仕方がない面があるとは言え、興ざめである。

(ちなみに、この「最近のデータ」というのは、地球で開発された地球製UFOの目撃に関するものである可能性がある。)

2024年6月16日 (日)

アフリカ ズールー族のシャーマンが語る、地球とレプティリアンの歴史

これまで何度も、地球では、「捕食者」または「レプティリアン」が人類を管理、支配してきており、現代の社会もその一つの強力な現われであることを述べて来た。
 
今回は、地球とレプティリアンの歴史について、ほぼ同様のことを語る、アフリカ ズールー族のシャーマンの話を元に構成された動画を紹介したいと思う。
 

 

このシャーマンは、デーヴィッド・アイクとも交流があり、彼の思想に大きな影響を与えた人物でもある。

かつては、人類に「見える」(物理次元的に認識し得る)存在であったのが、「見えなく」なったことについては、ミナミAアシュタールは、レプティリアン側の「戦略」として、「見えない領域」に隠れて操作するようになったことをあげているが、私も同じ考えである。

このシャーマンは「ワクチン」の影響を語っているが、確かに、ワクチンが霊的な能力を失わせる面はあるし、そのような人類の側の質の低下が、「見えなく」なったことの一要因とも言える。ただ、その場合、その前提として基本にあるのは、これまで述べてきたように、遺伝子操作であると言うべきである。

また、このシャーマンは、レプティリアンが食する人類の発するエネルギーについて、「脳波の周波数」という言い方をしているが、「霊的なもの」が現在以上に認められ難かった当時、できるだけ多くの人が受け入れやすい、「物質的」な表現で語ろうとしていたことをうかがわせる。

何しろ、カスタネダのドンファンが語る情報とともに、先住民族のシャーマンが語る「捕食者」ないし「レプティリアン」の情報として、貴重なものと思う。

2024年6月 1日 (土)

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』の移転について

ブログ『オカルトの基本を学ぶ』をココログの方に移転しました。

 

 オカルトの基本を学ぶ (cocolog-nifty.com)

2024年5月20日 (月)

近代が本当に排除したかった文化「シャーマニズム」

記事、『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1』以降や、その他の記事で、近代社会とは、何よりも、「オカルト的なもの」を排除することで成り立っている社会であることをみた。

現に我々が住んでいる近代社会が、そのように、強力な「排除」によって成り立っている社会であることを鑑みないと、近代社会の中では当たり前のように通用しているが、近代社会以外の文化では通用しない、恐ろしく狭い考え方に捕らわれて、それ以外の見方をできなくなる。

ただ、そうは言っても、「オカルト的なもの」という言い方が引っかかる人は、依然多くいることだろう。「オカルト的なもの」という言い方では、おどろおどろしく、非合理なものを、当たり前に排除しているだけと感じたり、何か抽象的で、具体的なものを排除している感じがしない人も多いだろうからである。

そこで、言い方を変えるなら、近代社会が本当に排除したかったのは、現に生きていた文化として表現するなら、「シャーマニズム」なのだと言うことができる

「シャーマニズム」は、近代社会以外の文化に「普遍的」に取り入れられ、あるいはそれこそが文化の中心をなしていたので、そのように本当に生きていた文化を、「排除」することによってこそ成り立っている社会が、近代社会なのだということで、実感が得られやすいであろう。

「シャーマニズム」とは、

「通常トランスのような異常心理状態において、超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流し、この過程で予言、託宣、卜占、治病行為などの役割をはたす人物(シャーマン)を中心とする、呪術-宗教的形態である。」(佐々木宏幹)

この定義を読んだだけでも、「シャーマニズム」の実質に、「オカルト的なもの」を十分感じ取ることができるであろう。たとえば、「超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流する」ということ、「予言、託宣、卜占、治病行為をする」ということなどに、「オカルト的なもの」が直接関わっているのが分かる。

「トランスのような異常心理状態」というのは、通常の意識状態からすれば、「非合理」で「無気味」、「不可思議」なものに思われるし、シャーマンがシャーマンになる前に受ける召命(巫病)は、しばしば「死」を連想されるような、壮絶な過程である。シャーマンが行う「儀式」というのも、動物の供犠を伴うなど、「おどろおどろしい」、怖れをもたらす要素が多くある。

「シャーマニズム」は、実際、(近代人からみれば)排除したくなるような「オカルト的な要素」に満ちているということができる。

歴史的に言えば、既に何度も見たように、近代の直前に、西洋においては、「魔女狩り」の「魔女」という形で、「シャーマン的なものを引き継ぐ者」が強力に排除された。記事『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 4—「魔女狩り」と「魔女」を否定することの意味』でみたように、キリスト教指導者にとっては、民衆に根強く信奉されるシャーマンは、自己の信仰や地位を脅かすとともに、直接に悪魔的で恐ろしい存在である。民衆にとっても、一方で頼られる存在であると同時に、害をもたらす力をもった恐ろしい存在でもあった。

そのようなシャーマンに連なる者が、「魔女」として排除されたのである。

日本にも、同じように、シャーマン的な要素を残す者が、実質「魔女狩り」に近い形で排除されることはあったし、西洋文化を移入しようという過程で、伝統文化を引き継ぐ「老婆」が排除されたこともみた。(記事『オカルトを否定する世界観の根本的変化は、なぜ起こったのか 1 —「血取り」「膏取り」と「迷信撲滅運動」』など)

日本では、西洋以上に「シャーマニズム」は民間に根づいていたものだから、その排除とは、「伝統文化」そのものの排除とも言えるものがあった。そのように極端な排除をしたからこそ、西洋近代の移入が、他の西洋以外の文化圏に比して、早くなされることになったということも言える。

何しろ、近代が排除した「オカルト的なもの」とは、現に、具体的に民衆の文化として「生きて」いたものの「排除」だったということが重要である。そして、それは、近代においては、統合失調という「排除すべき病気」へと、置き換えられたのである。

だから、そのような元々の姿を伝える、生きた文化を本当に顧みることでしか、「統合失調」の実質を具体的に捉えることができないのも、当然のことと言える。

「シャーマニズム」は、自然の万物に霊的な存在をみる「アニミズム」とも関わり合っている。だから、「シャーマニズム」は、万物に物質的なものしかみない現代の物質主義的な観点からは、過去の「幸せ」(お花畑的)な「幻想」のようにもみなされやすい。

しかし、実際には、既にみたように、「シャーマニズム」には、「おどろおどろしく」、「恐ろしく」、力に満ちた「現実的な要素」が多分にあって、それこそが「排除」をもたらすことになったのである。

シャーマニズムのこのような「おどろおどろしい」面について、それはなぜそうなるのか、次回に改めて捉えなおしてみたい。

 

2024年4月 7日 (日)

ビンスワンガー、木村敏の例を通して具体的にみる

ここで、例として、ハイデガーの思想に依拠しつつ、現存在分析の方法を創始した著名な精神病理学者ビンスワンガーの捉え方を、少しとりあげてみたい。

ハイデガーは、世界の中に投げ出されてある、「世界--存在」としての人間のあり方を問題にするので、フッサールの現象学以上に、実存主義的な傾向が強い。世界の根底に「虚無」を見るような見方を継承しているということだが、しかし同時に、ハイデガーは、そこに自由または主体性の根拠もみており、だからこそ、人間は常に「開かれて」あり、それを超えて行く可能性があるのだともしていたようである(ハイデガーについては、いずれ『存在と時間』をじっくり読んでみるつもり)

しかし、それが人間にとって大変な営為であることに変わりなく、そのようなあり方に「挫折」して行き詰まり、根底の「虚無」に絡めとられたような状態に陥る者もある。ビンスワンガーは、それこそが、「統合失調状態」だとしていたようである。

『精神分裂病』という本の序文にまとめられたものによると、それは、次のよう言われている。

1 病者は、世界に適合して生きることができず、その体験世界は一貫性を失う。

2   この非一貫性を補填しようとして、奇矯な(思い上がった)理想形成を試み(たとえば自分が世界の中心にいるといった妄想などを形成して)、この理想形成と現実とのギャップに直面してその二者択一に迫られる。

3   病者は、ついにはこの二者択一という危機状況に耐えられず、現実から逃避し、自己決断を放棄して自らのすべてを他者にゆだねてしまう。

そうやって、自己という「主体」を失うことが、「世界-内-存在」としてのあり方に挫折をもたらすということだろうが、このこと自体は、分裂気質の者が、「分裂病的状況」に入っていく契機を、鋭くついていると言うべきである。(※1)

世界に適合できず、体験世界の一貫性を失うからこそ、そのような日常世界の様相が壊れ、根底の虚無を開くことになるのだし、分裂気質の者が、現実性の薄い、思い上がった理想形成に邁進しつつ、現実とのギャップに引き裂かれることを繰り返すのは、分裂気質の者の特徴として、これまで何度も述べて来た。ユング派的に言えば、「永遠の少年」であり、坂口安吾は、精神病院で分裂病者に接してすぐに、分裂気質の者のこの特徴に気づいている。(記事『『精神病覚え書』について』参照。) 

そして、そのようなあり方に行き詰まり、ついには自己の決断(主体性)を放棄するように投げ出すことが、分裂病的状況に入っていく決定的契機になることは事実なのである。

また、ビンスワンガーは、「現存在の失敗の三様式」として、「奇矯(思い上がり)」、「ひねくれ」、「わざとらしさ」をあげているが、これも、鋭い指摘で、興味深い。

「思い上がり」は、「奇矯な理想」というだけでなく、「誇大妄想」にはもちろんはっきり現れ出るし、「迫害妄想」にも、その裏面として潜むものである。「ひねくれ」は、世界あるいは集団への不適合故に、自己の反動あるいは防衛反応として、おのずと身につけられたものということができる。「わざとらしさ」は、にも拘わらず、分裂気質の者が世界や集団に対して、ぎごちなく(他者をまねるようにして)適合的な態度をとろうとするときに、どうしても出てしまうものである。

これらのビンスワンガーの指摘は、一見分裂病者を揶揄するかのようだが、確かな視点ではあるのである。

また、「わざとらしさ」はともかく、「思い上がり」や「ひねくれ」は、まさにシュタイナーの言う「ルシファー的な性向」そのものであることにも、注目される。

ただ、松本雅彦『精神病理学とは何だろうか』も指摘するとおり、ビンスワンガーのこれらの「了解」は、いかにも否定に偏った見方であろうし、これらの了解が、どのように分裂病者の「治癒」に結びつくのかも、見えてこない。

シュタイナーは、「ルシファー的な性向」に対して、「アーリマン的な性向」が働くことによって、ルシファー的な傾向は、いわば刈り取られ、結果として均衡がもたらされると言うのだが、まさにそのように、「分裂病的な状況」そのものに着目すれば、その過程自体に、具体的な治癒的な働きが伴っているとも言えるのである。

しかし、ビンスワンガーには、「分裂病的状況」という「水平的方向」への視点がないため、そのような理解は欠いているのである。

また、ビンスワンガーは、「幻覚」や「妄想」について、「無気味なもの」という言い方で、それらをもたらす何ものかを「予感」しているようではあるが、それ以上に、「実体的なもの」としては踏み込まないため、「幻覚」や「妄想」について、具体的な了解に至ることはないようである。

しかし、「分裂病的状況」にあっては、本人は、それらの現象によってこそ、その状況に閉じ込められているようなものなので、その状況を脱け出すという現実的な問題に照らせば、それらの現象を、いくらかでも具体的に了解することが必要である。実際に、「虚無」に絡めとられるというだけでなく、「水平的方向」において、「実体的な存在」の影響を受けて惑わされているということの自覚なくしては、具体的に、そこからの脱け出しということは、難しいのである。

そこでも、垂直的な方向の問題は、依然残るだろうが、まずは、水平的な方向への閉じ込めから抜け出せない限り、そのような問題に対処する可能性も見出せないのである。

ビンスワンガーの「了解」が、具体的な治癒に結びつかないのは、そのような視点を欠いているからと言うほかないだろう。

前回述べたように、「垂直的な方向」については、鋭い視点から見据えていて、分裂病者のあり方に一定の鋭い「了解」がもたらされているが、「水平的方向」の視点を欠いているので、それが十分具体的にならず、効果を発揮しないのである。

もう一人、木村敏の例を挙げたいが、木村については、既に記事『「あいだ」の病/『心の病理を考える』』と次の『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、十分と言っていいほどに論じていた。R.D.レインとともに、分裂病の理解に最も近づいた一人として、その意義を認め、しかし、やはり足りない面があることを、指摘していたのである。

ただ、今回改めて、気づいた面もあるので、それを補足する意味でも、少しとりあげてみたい。

木村は、分裂病を、対象としての人や関係からではなく、「あいだ」という観点から捉え、その「あいだ」がうまく機能していないために、自己が成り立っていかないのだとした。その「あいだ」には、「水平的方向」と「垂直的方向」があり、垂直的方向では、「ゾーエー」と呼ばれる普遍的生命との関係で、自己の「個別化の原理」が阻害されている。この「ゾーエー」は、「絶対他者」ともいうべき、自己の根底に働くもので、本来「虚無」とも言い得るものだが、木村は、あくまで「生命の源泉」という視点から、肯定的に捉えている。そのため、それを特に意識することなく、無自覚的にも、「アクチュアル」に生きている一般の者に対して、そこからいわば疎外されることになってしまう分裂病者という対比になっている。

私は、記事『「あいだの病」とその「乗り越え」』で、木村も、そのように「正常人」と対比する視点から、やはり分裂病者に対しては、否定に偏する見方になっていることを指摘した。しかし、『異常の構造』(講談社現代新書)という著書で、木村は、「正常」と「異常」について次のように明確に述べている

「私たちが自明のこととして無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるような、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなった。」

「つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれているのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬがれようとする、人間の知恵がはたらいているのかもしれぬ。あるいはまた、分裂病を病気とみなしてこれに「治療」を加えることにより、異常を排除する「正常者」のやましさがすこしでも軽減するからなのかもしれない。」

ここでは、「正常」と「異常』というのは、「多数者」と目される側からの、いわば恣意的な区別に過ぎず、その「正常」の根拠としての「常識的合理性」を守るための、「排除」の論理に過ぎないことが、はっきり述べられている。だから、木村は、決して、「正常」を肯定的に、「異常」を否定的に捉えているということではないことが、改めて確認される。

しかし、また次のようにも述べられている。

「しかし、だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。」

「私たちにできるのはたかだかのところ、この常識的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にもとづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないだろう。」

つまり、分裂病に対してこれだけ身を寄せる木村にしても、やはり「正常人」の側として、常識的日常性の立場を捨てることができない限り、分裂病者を真に理解することはできないと認めているのである。

木村の「あいだ」の観点からの理解は、非常に鋭いと思うし、その「根底」に働くものへの「絶対他者」的な視点は、他の精神病理学者(特に西洋の)にはない、独特のものがある。それは、日本人ならではの、「おのずから」と「みずから」の一致という伝統的なあり様を、改めて顧みさせるものでもある。

しかし、その木村にしても、やはり「水平的方向」の理解を欠いているために、真に具体的な理解にはなっていないと言うべきだし、それは、先にみたように、本人自身も認めるところということなのである。

このことは、結局、多くの精神病理学者に当てはまるはずのことで、ヤスパースが試みたように、あるところまで「了解」できても、それ以上は「了解」できないという「壁」を認めざるを得ないということである。そしてそれは、そのような「壁」などないかのように、安易に「了解」を標榜する者などより、よっぽど謙虚で率直な態度と言うべきなのである。

ヤスパースも、「実体的意識性」ということに初めに注目した者であり、どこか、手の届き難い「未知のもの」を予感していたからこそ、「了解」の壁を強く感じざるを得なかったのではないかと思う。ただし、その壁を、「客観的な説明」に頼ることで補えるかのようにみなしたことには、やはり、そのような発想も、中止半端に抑制されてしまったことを感じざるを得ない。

いずれにしても、ここには、私が前々回述べたような、また木村が言うような、実際に経験した者と経験していない者との「壁」が、確かに横たわっている。それは、近代という時代の現時点においては、確かに、「容易には」越えがたい壁なのである。

しかし、私が、「水平的方向」ということで、述べている事柄は、決して今後誰にも理解できない事柄なのではない。それは繰り返し述べているように、「近代」が「神」や「合理性」以前に強力に排除した事柄なので、そのことを真に顧みるなら、それを改めて掘り起こし、理解の俎上に載せることもできないことではない。

特に、そのような事柄は、先住民文化の「シャーマニズム」として現に普遍的に生きられて来たものであり、現在もかなりの程度残されていることを考えると、そこから改めて学び直せるものは多くある。

「了解」の壁は、そのような方向が見直されていく限り、意外と越えられるものとなることも予想されるのである。

 

※1 「世界-内-存在」という言い方は、「世界の内に投げ出されてある」という実存状況を表すとともに、次のような意味合いも含むものと思う。

通常、自己と世界は別にあり、自己の外に世界というものがあると思っている。しかし、「世界-内-存在」とは、世界と自己とが別にあるものではなく、同時的に、結びついてあることを示している。だから、「世界-内-存在」のあり方が挫折し、主体性を失うことは、自己の崩壊であるとともに、即世界の崩壊でもあり、世界の崩壊は、即自己の崩壊を意味することになる。
 
そのような状況が、分裂病者の陥る状況を、本質的、抽象的に鋭く言い表しているのは、まさしくそのとおりである。しかし、それが、病者の陥った、個々の具体的な状況を十分に言い表すものとは言い難いであろう。

2  4月15日 

精神病理学に欠けている見方をもう一つあげると、それは「西洋近代」を相対化するような文化的視点だと思う。病的状態とそうでない「正常」の状態の差異を、「垂直的」な方向の実存的なあり方に即結びつけてしまい、その差異が「近代社会」という文化のシステムによって作られるという面をみることに欠いていたのである。この点は、西洋近代以外の文化を「遅れた」もの、「過去のもの」とみる視点が一般に浸透していて、他の文化を対等な「異文化」として顧みる余地がほとんどなかった当時の時代状況として、致し方ないものはある。

そのようなことは、文化人類学など、先住民文化を、西洋近代とは異なる「異文化」として学ぶという視点が出て来て、やっと可能になったことである。実際、「シャーマニズム」等、先住民文化から学ぶことによって、統合失調状態のかなりの部分を見えやすいものにすることができるのだが、この点は、次回に再び述べようと思う。

«「精神病理学」と、結局は「了解」の問題であること 2

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