2018年2月 8日 (木)

「集団スト-カー」という観念の問い直し 1

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の問題については、既に十分述べました。むしろ、述べ過ぎて、要点がぼやけたかもしれないので、近いうちに、記事と関連づけて、まとめをするつもりです。

ただ、改めて言うべきは、これらの問題は、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という観念自体がもたらす部分が大きいということです。前提となる、個々の「事実」に何らかのものがあったとしても、これらの「観念」を信じてしまったこと自体から来る部分の方が、大きいということです。

それだけ、これらの観念には、人の心理をついた、巧妙なものがあり、人々を捕らえてしまうのも、無理からぬところがあるのです。しかし、一般の多くの人には、なかなかそのあたりが、理解できないと思います。「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」など、根拠のない、妄想じみたもので、ただ「おどろおどろしい」だけと思っている人が、多いはずだからです。

そこで、今回から何回かにわたって、少し踏み込んで、これらの観念を、基本的なところから、問い直しておきます。ただ、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」について、これまで述べたところを、一々繰り返さないので、少なくとも、記事『 「集団ストーカー」という厄介な問題 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)、と『「テクノロジー犯罪」という発想 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-4691.html)くらいは、読んでおいてもらいたいと思います。

まずは、「集団ストーカー」について、「集団ストーカー」という、言葉自体に注目してみます

「集団ストーカー」とは、「集団」でなされる「ストーカー」ということです。

「集団」という言葉も、「ストーカー」という言葉も、かなり曖昧で、漠然としたものです。「集団」という曖昧なものが、「ストーカー」という曖昧な行為をしてくるということです。そこでは、曖昧さが、重ね合わされています。この曖昧さは、後にみるように、この観念に、常につきまとうものです。まずは、それこそが、この観念に、広く「事実」を包み込むための、風呂敷のような役割を与えていることを、指摘しておきます。

とはいえ、この言葉は、一応の意味を指し示してはいます。

「ストーカー行為」とは、本来、非常に私的で、個人的なものです。それは、ある者が、恨みや、妬み、その他の個人的な感情に基づいて、ある者につきまとい、しつこく、迷惑な嫌がらせ行為をするといったものです。普通は、恋愛感情のもつれに伴って、男女間で行われることが多いでしょう。

何しろ、「ストーカー行為」は、一旦は、好意をもち、近い関係になった者に、裏切られたと感じることなどによる、人間らしい、「アンビバレントな感情」がもとになっています。そして、そのような感情は、後を引き、それに基づく行為も、歯止めが効かず、とことんエスカレートする可能性があります。そのような厄介な感情、そして、(実際に行うかどうかは別にして)それがそのような行為につながりやすいこと自体は、多くの人にも、了解できるものです。

「ストーカー行為」とは、まさに、人間のどうしようもない、「暗部」を象徴する行為であり、「あまりに人間的」な「機微」そのものとも言えるでしょう。それだけに、多くの人に、嫌悪感と、「現実的な」恐怖をもたらします

ところが、「集団ストーカー」とは、そのような「ストーカー行為」を、特定の個人ではなく、人の「集団」がなすというのです。「集団」というのは、曖昧ではありますが、何しろ、人の多数の集まりであり、何か組織のようなつながりを、思わせるものです。

記事『「集団ストーカー」という厄介な問題」や『映画『激突』と「集団ストーカー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a8e7.html)でもみたように、現代人は、かつてのような共同体的なつながりを失い、互いに切り離された、孤立する個人となっています。このように孤立する、無力な個人にとっては、つながりをもった集団というのは、何か恐ろしい、圧力として、のしかかってくるものともなります。特に、普段から、集団との折り合いがよくない人にとっては、そのように意識されることでしょう。

通常の、個人的な「ストーカー行為」でも、十分、人を嫌悪させ、恐れさせます。ところが、それを、このように、個人にとっては、大きな圧力となる、人の集団がなして来るというのですから、それに輪をかけて、人を恐れさせるものでしょう。

そして、実際に、人の「集団」が、何らかの「ストーカー行為」を行うということ自体は、いくらもあることなのです(記事『「集団ストーカー」という厄介な問題 』でも述べているとおりです)。

実際に、そのような事件はありますし、表ざたにならないものを含めれば、限りなくあると言えるでしょう。それには、特定の個人が、個人的な感情に基づいて、多くの人を使うことによって、「ストーカー行為」をなすという場合もあるでしょう。しかし、「集団」といえども、人間の集まりであり、その集団が、ある者に対して、同じ感情を共有するということは、いくらもあります。「集団」そのものが、その共有された感情に基づいて、ある者に、「ストーカー行為」をなすということもあるのです。

特に、日本では、個人より、集団が重視され、その力も強いので、そこからはみ出すとみなされた者は、集団によって疎まれ、ストーカー行為の対象とされる可能性があります。表立った、直接的な言動より、間接的で、遠回しの(陰湿な)言動が好まれる日本の習慣からも、こういうことは、起こりやすいと言えるでしょう。

会社や学校で、普通にみられる「いじめ」も、広く解釈すれば、そのようなものに含み得るでしょう。中でも、やくざや宗教団体など、集団の結びつきが強く、運命共同体のような組織では、一旦裏切り者のようにみなされた者は、ストーカー行為の犠牲になる可能性も高まるでしょう。

まずもって、「集団ストーカー」という言葉ないし観念が、指し示し、一般に、イメージを喚起するような、意味合いのものは、このような、「集団によるストーカー」ということです。

漠然としていて、明確ではないながらも、決して、非現実的なものではなく、実際に、具体的にみる限り、「いくらもある」といえることなのです。こういったことが、この観念に、嫌悪感や恐れを伴いつつ、一定の、リアリティをもたらしています。

そして、そのことこそが、出来事の全体を表すのに、「集団ストーカー」という言葉が選ばれている理由なのであり、巧妙さの一つなのです。

実際、この観念が、意図するのは、まずは、そのように、漠然としていながらも、一定のリアリティを伴った、「恐ろしさ」を喚起することです。そして、実際に、自分も、そのような行為をされているかもしれないと思わせることです

しかし、本来の個人的なストーカーもそうですし、集団によるストーカーというのも、それらは既にみたように、ある、感情的な動機がもとになっています。だから、何らかの集団によって、特に根にもたれるような動機に、身に覚えがないなら、ストーカー行為のような、執拗な行為をされる理由はない、と考えるのが普通でしょう。

しかし、現代のような複雑な社会では、人間がどんな理由で、ストーカー行為に結びつくような、感情的動機をもつかは、必ずしも、みえにくくなっています。人によっては、まったく思いもかけぬ理由で、そのような動機をもつこともあるでしょう。映画『激突』も、まさに、そのような、主人公にとっては、不可解で、理不尽な動機で、強烈なストーカー的つきまといを受ける、といった内容のものです。

そして、それが、集団となると、個々の人には、予測のつかない、組織としての利害や理由から、そのような行為がされることもある、と思わせることにもなるでしょう。

さらに、もともと被害妄想的な傾向があったり、いじめなどに会いやすく、集団との折り合いがよくない人などは、物事をその方向で解釈しがちですから、集団にストーカー行為をされる何らかの動機などは、いくらでも思いつくことができるでしょう。

このように、「集団ストーカー」という言葉が、リアリティをもって受け止められるなら、本来伴うはずの、感情的動機などは、必ずしも、明確にみつからなくとも、それに当てはまるような事実を、思いつくことは、十分可能なのです。

そして、そのリアリティは、「集団ストーカー」という言葉が、広く多くの人に行き渡るようになればなるほど、増していきます。現代では、この言葉は、検索してみれば分かるように、ネット上に十分広まっているので、それを通して、リアリティを感じる人が多くなっても、不思議ではありません。

そういうわけで、まず今回は、「集団ストーカー」という言葉が一般に指し示す、イメージと意味合いについて述べました。この、曖昧でありながら、イメージを喚起し、恐れを伴った、不思議なリアリティをもたらす言葉自体に、戦略的な意図があるということです

しかし、実際には、このようなものでは、具体的レベルで、本当に自分に起こっている出来事として、受け止めるには、あまりに漠然とした、「抽象的なもの」であり過ぎるというのも、事実です。これだけのことで、かなり多くの人を、本当に信じ込ませるだけの力をもつかといえば、そうではありません。

実際、ネットを中心に、その被害者と称する人たちで、言われている「集団ストーカー」というのは、このような抽象的なものではなく、もっと具体的な方法によって、特色づけられたものです。

その方法は、「ガスライティング」といわれるものです。そして、この「ガスライティング」こそ、「集団ストーカー」という漠然たるイメージに、本当の、嫌悪や恐れ、そして同時に、具体的なレベルで、説得力とリアリティをもたらしているものなのです。

それについては、次回に述べることにします。

2018年1月24日 (水)

『言ってはいけない』/遺伝の問題

「遺伝の問題」は、私自身、これまであまり正面から述べることがなかった問題なので、この機会に少し詳しく述べています

前回の記事のコメントで触れていますが、橘玲著『言ってはいけない』(新潮新書)という本を、読んでみました。

「遺伝」の問題を扱ったもので、最近の「行動遺伝学」の研究によれば、人間の身体的条件だけでなく、知能や行動、性格、さらに精神疾患を含む精神的な要素(「こころ」)も、環境より遺伝による影響が強いことを説いているものです。

(この「知能や行動、性格、さらに精神疾患を含む精神的な要素(「こころ」」というのを、以下「知能等」と略します)

これまで、遺伝の問題は、差別や優生思想と結びつきやすいこと、努力を否定することにつながりやすいことなどから、タブー化されている(「言ってはいけない」ことになっいる)面が、確かにあったといえます。多くの人にとって、知能等には、遺伝の要素があるとは思いつつ、それには触れず、環境や努力の問題として、扱うことの方が望まれていたということです。

この著書が、読まれているのも、このような見方からすれば、これらの研究は、センセーショナルに響くところがあるからでしょう。また、本書のように、このような研究を紹介する本が、センセーショナルな効果を、あえて狙っている面もあるでしょう。

しかし、気づかれてはいたとおり、これら、人間の知能等であっても、遺伝と無関係などということはなく、遺伝と環境の相互作用を受けることは、当然というべきです。そもそも、遺伝と環境の影響の一方を度外視して、他方だけで、説明しようとする方が、無理というものです。

私も、「統合失調」についてですが、記事『狂気(統合失調症)の「原因」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-3f75.html)で、内的、外的の様々な「要因」をあげています。この中で、もともとの「内的要因」としてあげたものは、遺伝と強く関わるはずのものです。「脳の脆弱性」はもちろん、「分裂気質」や「霊媒体質」というのも、具体的な物質的基盤は不明ですが、遺伝との関わりが強いとみられます。要するに、統合失調なら、統合失調の「なり易さ」という点には、遺伝の要素が強く働くと思われるのです。それが、環境との関係で、具体的な発現をもたらすことになるわけです。

このような「なり易さ」と具体的な発現ということは、人間の知能等のあらゆる場合に、言えるはずのことです

しかし、最近の「行動遺伝学」の研究は、遺伝と環境の相互作用としても、「遺伝率」の方が高いことを示しているのであり、それは、やはりセンセーショナルな事実に変わりない、という見方もあるでしょう。

この点については、私は、後にみるとおり、「行動遺伝学」の方法自体に、多分に疑問があり、文字通りには受け入れることはできません。また、このような結果は、現代の、知能等の問題に、適切に対処する方法を欠いている、画一的な社会状況だからこそ現れる、という面もあると思います。

しかし、そのような現代の社会状況を前提にして、非常に「大まかな傾向」としてみるならば、恐らく、知能等に、環境より遺伝の要素が強く働くというのは、間違いではないのでしょう。

ところが、問題は、このように「遺伝」が強調されることで、今度は、「遺伝がすべて」であるかのように、逆の方向に揺れることが、予想されることです。あるいは、「優生思想」的な発想をしていた人は、これ幸いと、この研究を、自分の発想と結びつけて、その根拠とすることでしょう。「遺伝」の問題がタブー化されていたことの、「反動」のような現象が、起こり得るということです。

何かある問題を、「遺伝のせい」にして済ますということは、「責任」や「努力」の問題を考えないで済み、「魅力的」なことではあるのです。これは、犯罪や精神疾患のような、一般に「マイナス」とみなされる事柄に顕著です。そして、その延長には、どうしても、その「遺伝要素」を、技術の力を借りて、物理的に改変または排除すればよいという、「優生思想」的な発想がもたらされることになります。

しかし、こういった問題は、(これは著者も指摘していますが)遺伝か環境かの問題から来るのではなくて、もともと、精神疾患なら精神疾患を、「悪しきもの」、「排除すべきもの」と決めつける見方の方にあるのです。このような見方では、問題が遺伝であろうと環境であろうと、それを「取り去る」、「責任を押しつける」という、短絡的な発想にならざるを得ないからです。

そして、このような見方は、記事『「精神医学」と「オカルト」的なもの 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-6b32.html )でもみたように、近代以降に顕著になったもので、「オカルト的」なものを、「排除すべきもの」とみる見方と、分かち難く結びついているというのが、私の立場です。

しかし、とりあえず、ここでは、それはおくとして、「遺伝と環境の問題」で言うならば、「遺伝」と「環境」のどちらかを強調して、一方を顧みないことが、問題をこじらせるのです。だから、このような研究は、「遺伝」を強調したというよりも、これまで等閑視されがちだった、遺伝の要素を取り戻して、人間の知能等の問題は、「遺伝と環境の相互作用による」という、本来、当然そうであるところに引き戻したもの、と受け取るべきでしょう。

以下、「行動遺伝学」の方法についての疑問というのを、簡単に述べます。(現段階でのもので、後にこの研究をよく知れば、解消する可能性はあります。)

「行動遺伝学」は、遺伝子が同一である、一卵性双生児の知能等の現れを、環境の違いによって、違う現れをするかどうかを、統計的に分析することに基づいています。

一卵性双生児は、遺伝子が同一としても、普通は育ての親も同じなので、遺伝の影響か環境の影響か、区別は困難です。ところが、最近は、双生児の一方が養子に出されて、育ての親が異なる事例も多いので、その場合を統計的に分析することにより、遺伝か環境かの区別ができるというわけです。

しかし、そもそものレベルでいうと、既にみたように、「遺伝」と「環境」の作用は、分かち難く結びついているのに、その影響として、どちらかを、厳密に取り出すことができるのかということがあります。

また、分析のもととなる、「知能等」という結果の評価は、社会や文化に影響を受ける、曖昧かつ主観的なものなのに、それを前提にして、正確な分析ができるかということがあります(「精神疾患」などは、その最たるものです)。

しかし、それはおいても、大きな疑問は、遺伝子が同一である一卵性双生児であれば、育ての親による違いが結果として現れない場合であれば、すべて、「遺伝要因」に含めてよいのかということです

たとえば、育ての親が違う場合でも、地域や文化などによって、育て方その他の環境が共有される場合はいくらでもあります。既にみたように、知能等に対処する適切な環境が整っていない、現代のような画一的な社会状況では、そのような場合は多いと言えるでしょう。その環境が、知能等に及ぼす大きな要因となっている場合でも、それが共有されてしまっている場合は、統計的には「違い」として現れないはずです。そのような場合、それは、統計上、遺伝の方に含まれてしまうのではないかということです。

さらに、著者もあげている、胎児期に影響を受ける、鉛のような金属や、その他の外部的、物質的な、環境要因の場合には、なおさら、このことが言えます。これは、ある地域や、場合によっては、広く全体として共通の環境要因となります。ところが、統計的には、育ての親による違いとして現れなければ、遺伝要因に含まれてしまうことになるのではないでしょうか。しかし、このような、外部的、物質的な環境要因は、知能等に与える影響も、少なくないはずなのです。

もう一つ、これは、オカルト的な「禁じ手」ともいえますが、一卵性双生児が、同じような「運命」をたどりやすいのは、遺伝要素だけでなく、(テレパシーその他のオカルト的要素も含む)お互いの強い結びつきによるのではないか、ということもあります。

とりあえず、こんなところですが、要は、このような統計的方法によれば、環境より遺伝の影響と判断される場合が、実際より多くなってしまうはずだということです

たから、その意味でも、それを差し引いて、「遺伝と環境の相互作用による」という、本来、当然のところに引き戻して受け取れば、ちょうどよいことになるはすです。

最後に、「統合失調」の場合ですが、実際に、精神医学の方面で、「遺伝要因」として、どのようなことが考えられているかについても、簡単にみておきましょう。

岡田尊司著『統合失調症』(PHP新書)によれば、遺伝要因は、確かに認められているのですが、それは、「遺伝子多型」とよばれる、多様な遺伝子の、複雑な相関関係によります。つまり、何か特定の一連なりの遺伝子を、要因として、取り出すことができるわけではないのです

だから、遺伝の問題として、それを改善なり、排除しようとするとしても、そんなことは、今のところ(恐らく今後も)不可能に近いものです。統合失調の「遺伝子多型」は、濃淡はあるにしても、非常に多くの人間に広がっているので、本当に、改善なり排除しようとすれば、それら多くの人間の遺伝子を、根こそぎ改善なり排除しなければなりません。

ところが、それら「遺伝子多型」は、統合失調だけでなく、他の面に作用するものも含まれるはずで、それらを変え、または取り去ってしまえば、他の面にも多くの影響が出るはずです。

実際、それらの遺伝子が、これだけ残っているということは、それらが、決して、進化史上、マイナスのものではなかったことを示しています。

それらを、マイナスのものとみる見方は、近代以降に顕著になったのであって、それ以前はそうではなかったことを考えれば、それも当然でしょう。

そういうわけで、たとえ、遺伝の問題を強調したり、優生思想的な発想を押し進めるとしても、実際には、そのような要因を、改善したり、取り除くことは、できないことなのです。

もっとも、そのようなことを強調する人は、 それを強調することの「イデオロギー的な効果」に、意味を見い出しているのであって、実際に、それを改善したり、取り除くこと自体に、興味があるわけではないのでしょうが。

2018年1月 9日 (火)

本年の予定と昨年のぺージビュー数トップ5

今年は、国際情勢や、このブログでも扱っている、宇宙人関連、集団ストーカー関連の出来事などでも、かなり大きな動きがあると予想されます。いろんな意味で、覚悟が必要な年になるでしょう。

まずは、本年の今後の予定についてざっと述べます。

1  まず、ブログ記事で、「集団ストーカー」と「テクノロジー犯罪」という「観念」について、基本的なところから、問い直しをします。

「集団ストーカー」と「テクノロジー犯罪」の問題は、これらの「観念」自体がもたらす部分が大きいのです。個々の「事実」は、何らかのものがあるとしても、この「観念」を信じてしまうことから、問題が大きく膨らんでいるということです。それは、もちろん、この観念が、それだけ巧妙に、人々を捕えるべく、練り込まれたものだからです。このことは、既に、何度も指摘して来たことですが、改めて、基本に溯って、問い直すことをしたいと思います。

これは、何度かにわたって、じっくり、行うつもりです。

2  「狂気をくぐり抜ける」という本来のテーマについて、徹底的に分かりやすく、まとめ直した、ホームページを作る準備にとりかかります。

これまでにも、触れてきましたが、なかなかとりかかれなかったので、今年は、是非とも、これを行いたいと思います。

本ブログ記事も、「分かりやすく」述べているつもりですが、一般の方にとっては、とっつきにくく、難しいと感じる部分も多かったと思います。また、記事の順番も、必ずしも系統的なものではなく、内容も多岐にわたっています。ホームページでは、これらを解消すべく、「狂気をくぐり抜ける」というテーマに絞って、系統的に、極力、誰でも分かるように、述べます。

「明解」で「分かりやすい」ことは、必ずしも、いい面ばかりでなく、他の側面やニュアンスを削ぎ落としたり、込み入った領域には触れられなかったりの、犠牲にする面も多いと思います。しかし、そのような面は、本ブログと読み合わせることで、補うことができるはずです。

3  「オカルトの基本を学ぶ」というテーマの、新しいブログを開設します。

私の立場は、「統合失調」にしても、「集団ストーカー」にしても、これらの問題は、「オカルト」の領域に大いに関わっているということです。そして、「オカルト」に関わる部分に、何らかの理解がつかない限り、「謎めいた」ものであり続け、本当に、納得することは難しいということです。しかし、一般には、「オカルト」的なものが、認められないか、あるいは、知られていないため、このような見方は、ほとんど顧みられることがありません。

「統合失調」や「集団ストーカー」を、「病気」とみる立場にしても、文字通りの「(人間による)組織的犯罪」とみる立場にしても、このことが当てはまります。

そこで、「オカルト」的な領域について、基本から、分かりやすく、「学ぶ」ということを、新たなブログで、行いたいと思います。単に、旧態依然の見方を示すのではなく、それを、現在に問うことの意味を明らかにしつつ、現在の状況にふさわしい仕方で、なしていきます。「統合失調」や「集団ストーカー」に関わるものだけでなく、広く、「オカルト」的な領域を、テーマにします。

なお、「学ぶ」とは、私自身、新たに、「学び直し」、「整理をする」ということでもあります。

次に、2015年にもあげていました(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4f4b.html)が、結構変化があるので、昨年のブログ記事のぺージビュー数トップ5もあげておきます。

1 「量子力学の観測問題」と「意識」1 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c0a9.html
2 「「集団ストーカー」という厄介な問題」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html
3 「「次元降下」して地球に生きる「金星人」」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-873a.html
4 「「超能力」「気」と「量子力学」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-d1d8.html
5 「「幻聴」の特徴、性質が知れ渡ること 」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-bcdc.html

1,4の「量子力学」関係は、(非力も顧みず)結構力を入れて書いたので、読まれているのはうれしいことです。物理学関連の書では、「意識」との関係は、ノイマンやウィグナーの説がとりあげられることはあっても、まともに考察されることはないので、こういう取り組みがもっと広まってくれればと思います。

5も、「統合失調」という問題に関して、非常に重要なことを述べたものなので、新たに読まれるようになったのは、うれしいことです。

2017年12月27日 (水)

米メディアの報道記事2つ

今回は、米大手メディアでとりあげられた、2つの報道記事について述べます。

一つは、「UFO」について、もう一つは、「集団ストーカー」(ギャングストーカー)についてです。

なかなか、大手メディアではとりあげられないテーマだけに、貴重といえます。

1  ニューズウィーク日本版   記事 「米国防総省の極秘調査から出てきたUFO映像」
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/ufo.php

  アメリカ国防総省が、UFOの極秘調査・研究をしていたことを暴露する記事で、米軍機の撮ったUFOの映像も掲載されています。朝日他、日本の新聞でも、報道されました。

国防総省は、これを認めつつ、2012年で調査を打ち切ったと回答しているようですが、記事も言うとおり、その後も続行していることは、明らかです。

そもそも、アメリカ政府は、公式には、1969年、プロジェクトブルーブックというUFOの調査・研究機関を、「国家の安全に対する脅威とは認められなかった」「地球外から飛来するという証拠はみつからなかった」という理由で、閉じたことになっています。しかし、それは表向きの発表で、実際には、その後も、秘密裏に、調査・研究を続けていたことが明らかになりました。再び、それを止めたなどと回答しても、それが、前回と同様、全くのウソであることは、明らかと言うべきです。

もちろん、UFOの調査・研究をしていることは、地球外起源としてのUFOを認めたことにはなりません。しかし、閉じたとウソを言ってまで、また、これだけ長い間、UFOの調査・研究を続行していること自体、実際には、それを認めているも同然のことと言っても過言ではないでしょう。

今回の出来事は、UFOに関する情報が、全て公開されることからは、ほど遠いですが、それでも、そのような公開の動きが、少しずつ現実化することの、兆候とは言えると思います。今後も、今回のように、「小出し」にではあり、また、必ず、否定できる余地を残した形でではあるでしょうが、徐々に、このような情報が出されて行くことになるはずです。

UFO情報の公開といえば、記事『「公開プロジェクト摘要書」について 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-2f57.html)でもとりあげた、スティーブン・グリア博士の「公開プロジェクト摘要書」が、書籍化されて発売されています。(『ディスクロージャー: 軍と政府の証人たちにより暴露された現代史における最大の秘密』ナチュラルスピリット)

軍関係者や、UFO関連の秘密計画に携わった者の、証言をまとめたものです。かなり膨大な量ですが、私は、ネット上で、ほとんどすべてに目を通しました。今回の書籍は、これとは別に、さらに詳しい内容で、新たな情報も収められているということです。

2 インターナショナル・ニューヨークタイムズ 記事 「妄想症のアメリカ:ギャングストーカーが見える」
(https://www.nytimes.com/2016/06/11/health/gang-stalking-targeted-individuals.html?_r=0) (翻訳の掲載 https://tekunoroji-hanzaihigai.jimdo.com/%E6%8F%90%E4%BE%9B%E6%83%85%E5%A0%B1/)

翻訳の掲載は、何と、テクノロジー犯罪・集団ストーカーの被害者団体のサイトにあるものです。この翻訳が正しいかどうかは、分かりませんが、大体の意味を伝えていると思います。このサイトが、どういう趣旨で、とりあげているのかも不明ですが、恐らく、大手メディアが、「集団ストーカー」のことをとりあげているということ自体を宣伝したいのでしょう。

しかし、記事の内容は、明らかに、「集団ストーカー」の被害を訴える人にとって、都合の悪い内容です。

要するに、記事は、「集団ストーカー」というものを信じ、それを糾弾する人たちが、これほど多くいるということを伝えるもので、そのことに驚き、憂えるものです。このような人たちが、追い込まれて、加害者と認定した、多くの人を殺すような事件も、現実に起こっていることにも触れられています(記事では、ワシントン海軍造船所で12人が殺害された事件)。

このように信じる人たちの誤りを、説得するサイトが見当たらないことにも、驚きが示されています。「病気」の可能性が高いという、精神科医の意見も載せられています。

私は、全体的に、一般向けの報道として、的確なとり上げ方をしていると思います。

「集団ストーカー」そのものは、「観念」または「解釈」であって、「事実」ではないですが、「集団ストーカー」というものを信じ、それを糾弾する人たちが、多くいるということ自体は、紛れもない「事実」なのです。しかも、それは、記事が示しているように、世界的な現象なのです。そして、「集団ストーカー」を「犯罪」ということは、それを信じる人たちだけの「憶測」(あえて「妄想」とは言いませんが)ですが、近所の人や誰かを「集団ストーカー」と断じて、殺人その他の事件を起こしているのは、紛れもない「事実」なのです。

「事実」のレベルで、この問題を捉える限り、「集団ストーカー」を信じる人たちが、これだけいるということを憂えるのは、当然の感覚だと思います。

ただ、私は、この現象について、精神科医の意見ばかりを載せていることは、残念だと思います。「集団ストーカー」という、目新しい現象について、もっと広く、多様な領域の人たちの、意見を聞いて、載せるべきではなかったかと思います。

いずれにしても、もはや、「集団ストーカー」という問題は、一般にとっても、放っておいていい問題ではなくなっている、ということが言えるはずです。

私は、支配層や捕食者的な存在は、「集団ストーカー」という観念を、宣伝して、多くの人に行き渡らせ、いかにも、人にふりかかった「不幸」な出来事を、「集団ストーカー」の仕業と解釈させて、混乱と恐怖を煽ることを、戦略的に狙っていると言って来ました。(被害者の人は、よく、工作員が「火消し」をするなどと言いますが、むしろ彼らからすれば、「火」を広めたいのであって、「火消し」などされては困るのです。)

この観点からは、あまり、「集団ストーカー」という観念について、取り沙汰すことは、彼らの戦略に乗る面があり、望ましいこととは言えません。しかし、もはや、先にみたように、世界的レベルで、「集団ストーカー」という観念を信じる人たちが増えて来ている状況なのです。事態は、「集団ストーカー」という観念について、一般の多くの人も、取り沙汰さないわけにはいかなくなったことを意味している、と私は思います。

※ 記事の、「UFO」、「集団ストーカー」と関ることでもあるので、最後に、「大日月地神示」の言葉を掲げておきましょう。(https://ja-jp.facebook.com/groups/kamihito.hihumi/より)

他の星から地の人々操りていたものおるのぞ。地の底から地の人々操りていたものもおるのぞ。地の空から地の人々見守りてきた人々おるぞ。月の陰から地の人々を覗いていたものもおるのぞ。地の人に成り済まし良きも悪しきもいたしてきた人々おりますのぞ。

地の人々は、何も知らん赤子でありますぞ。真、ひとつひとつ学び成長せねばならん時、訪れましたゆえ次々に変わりますのぞ。川の流れ早くなるごとく隠されておりた秘めごと表に顕れてびっくり仰天おとぎ話の翁となりますぞ。真、知り理解深め、新たなる時代に生きて下されよ。ひと昔ふた昔前の妄想の世界に囚われて下さるなよ。

                                               2017.10.19 大日月地大神御靈

「他の星」の「宇宙人」や、「地の底」の「地底人」または「霊的存在」など、人間を「操る」存在。「地の空」の「宇宙人」や「霊的存在」など、人間を「見守る」存在。月の陰から、「覗く」だけの存在。人間に「成り済まし」て、良いこと、悪いことをなす存在。

人間は、こういった、多様な存在に取り囲まれ、影響を受けながら、生きているということ。これらの隠されていた「秘めごと」が表に顕れて、「びっくり仰天おとぎ話の翁」になるのが、これからの新しい時代だという。

「ひと昔ふた昔前の妄想の世界」とは、こういった存在とは無関係に、人間が「孤立」して生きているかのような、ものの見方が広まった、近代の世界観のことでしょう。

このような、「隠されていた秘めごとが表に顕れる」とは、上にみたように、「UFO」「宇宙人」関連の情報が、暴露され、公開されることも含むはずです。

また、「集団ストーカー」とは、何らかの「悪さ」をするとみなされた、「宇宙人」や「霊的存在」に「操られた人」、あるいは、実際に、何ほどかの「悪さ」をする、「人に成り済まし」た、「宇宙人」や「霊的存在」を意味することにもなります。これらを、「ひと昔ふた昔前の妄想の世界に囚われ」ている人が、誘導されて、「解釈」すると、「集団ストーカー」なる「人による組織的犯罪」と解すようになる、ということです

このような「秘めごと」も、そう遠くないうちに、表に顕れることになればよいですが、そう簡単にはいかないですね。

2017年12月15日 (金)

自分自身の攻撃性の「反映」としての「被害」

「統合失調」の場合に、「分裂気質」の人の「攻撃誘発性」というのが、実際に、周りの人の攻撃性を誘発し、それが、拡大解釈されて受け取られ、「迫害妄想」のもとになることがあるのを、記事『分裂病的「攻撃性」の「誘発」とは』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7d29.html)で述べました。

しかし、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人の場合は、もっと強い意味で、周りの人への「攻撃誘発性」があり、それがそのような「被害」を受けていると確信させることに、大きく影響していると思われます。

記事で述べたように、「分裂気質」の場合には、「受動的な構え」が、他の人の攻撃性を誘発することが多いと思います。しかし、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人の場合は、その人自身の外部に向けられた「攻撃性」そのものが、直接に、周りの人の「攻撃性」を誘発して、何らかの攻撃的な態度を呼び起こし、それが、自分が「被害」を受けているという確信をもたらすことに、影響していると思われるのです。

さらに言えば、 「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人の「被害」とは、このような、その者自身の外部に向けられた「攻撃性」が、外部に「投影」される形で受け取られ、自分自身に向けられていると思ってしまった結果という場合も、多いと思われるのです。

私自身、本ブログを通しても(コメントとして載せていないものもかなりあります)、何度か体験しましたが、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」を訴える人の「攻撃性」は、明らかと思います。自分が「被害」を受けていると考える故の、怒りから来る「攻撃性」というのも、確かにあるでしょうが、それ以前に、その者自身の性質と思わざるを得ない面も多いのです。

ところが、自分が、一方的に「被害」を受けていると確信して、それを「正当化」することもあって、本人自身は、そのような「攻撃性」について、まったく無自覚なのが問題です。そのような「攻撃性」こそが、自分が「被害」を受けていると思ってしまうような状況を作り出すもとになっていることに、気づく余地がないからです。

何度か、述べているように、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人の「被害」には、外部的な存在の「仕掛け」が、関わっている場合というのは、確かにあります。しかし、その場合でも、本人自身の「攻撃性」が、そのような存在を引き寄せ、さらに、その者自身の発する「攻撃的なエネルギー」に乗っかるようにして、「仕掛け」がなされる場合が多いのです。つまり、これは、本人自身の発する「攻撃的なエネルギー」が、外部的な存在の介在によって、拡張され、それが自分自身に戻って来ている、というような効果を生んでいることになります。

いずれにしても、自分自身の「攻撃性」が、もとになっているのですが、それに気づく余地がなく、自分が「被害」を受けていると確信するようになれば、ますます、その余地はなくなっていくのです。

この「攻撃誘発性」というのを、もう少し、具体的にみてみます。

たとえば、自分が「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を受けているという強い疑いのもとに、外界を見るというだけで、周りの者に、十分の攻撃性を誘発させる可能性があります。そのような、疑心暗鬼の思い、ないし態度というのは、(自分では隠しているつもりでも)必ず、外部に何らかの形で伝わり、反発する反応を引き起こさずにはおかないからです。(これは、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」という曖昧な観念が、そのような反応を呼び起こすべく、うまくできた観念ということでもあります。)

その反応とは、あからさまなものではないかもしれませんが、その人に向けられた、咳払いとか、舌打ち、何か言いたげな視線、あるいは、体を寄せて来るなどの接近など、様々なものであり得ます。そして、そのような周りの態度を、本人は、「嫌がらせ」とか「仄めかし」と受け取って、「被害を受けている」という思いを強めてしまうのです。

さらに、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を受けていると思う人が、周りの特定の誰かに、「加害者」ではないかと、具体的な疑いを向けた場合には、この「攻撃誘発性」は、もっと強いものになります。もはや、その者が、「加害者」と疑う者を見る目や態度は、明らかに相手に伝わるものをもたらすほど、表に表れるからです。その相手は、嫌悪や怒りを感じ、単に「嫌がらせ」的な態度に出るだけでなく、もっと直接的な、攻撃的言動に出るかもしれません。それで、本人は、その者が「加害者」であるという思いを、さらに強めてしまうことになります。

あるいは、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人の中には、実際に、「加害者」であると思った、近所の誰かや特定の人に、何らかの苦情を言ったり、行為をやめるよう促すなどの、行動に出る人も多いと思います。そうした場合には、相手が、その人物に対して、「攻撃的な態度」に出るのは当たり前であり、あるいは、本当に、悪意ある「嫌がらせ」の行動に出る可能性だって、あります。その相手にしてみれば、「あらぬ疑い」をかけられたのであり、あるいは、何か訳の分からないことを言われたと思ったとしても、その人物の「敵意」のようなものは、明らかに感じるからです。

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人は、それで、ますますその相手が、「加害者」であると確信するかもしれません。しかし、むしろ、相手方が、そのような反応に出るということは、それこそ「自然」なことであって、実際には、「加害者」などではあり得ないことの、証しと言うべきでしょう。

このように、本人自身の「攻撃誘発性」がもたらす、周りの者の「攻撃」的態度が、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の観念を補強して、悪循環的に拡大されるという面が、多分にあると思います。そして、それは、これまで述べて来た、外部的な存在による、「人の操作」とか「共時性の演出」などの「仕掛け」以前の問題で、まずは、このような面こそが、考慮されるべき問題であることを、改めて感じます。

私は、このブログで、「統合失調」の場合を中心にですが、精神医学が言うように、単なる「幻覚」とか「妄想」では、とても説明がつかないことを強調し、「捕食者」のような外部的存在による影響を、強く前面に押し出して来ました。実際、そのこと自体に、間違いはないですし、一方で、本人自身の内部的な問題にも、十分注目して来たつもりです。

しかし、外部的な原因を強調することは、どうしても、内部的な問題を看過することにつながるようです。そして、外部的な原因というのも、もとは、内部的な問題に根を発するものが多く、そうした問題を解決に向かわせるのも、結局は、内部的な問題をいかに解消するかということが、主となることになります。

その意味では、外部的な影響以上に、あるいはそれ以前に、内部的な問題を、もっと強調する必要があると、今は感じます。ブログの今後の記事でも、そのような内容が多くなると思います。これは、「統合失調」や、「集団ストーカー」「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人にとっては、内部の触れたくない問題を浮き上がらせるようなものなので、より反発を生む可能性が増えることを意味しますが、いたし方ありません。

「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人は、「病気だ」という人を、嫌悪し、強く反発するようですが、むしろ、「病気だ」という人の方が、その人たちに対して、「甘い」という面もあるのです。「病気だから仕方がない」ということで、「大目に見る」、「それ以上悪くは思わない」という面があるからです。しかし、「病気」ということでは、何の解決にもならないと思う私は、このような意味での、「仕方がない」はないので、むしろ、より厳しくなるということがあります。

いずれにしても、私は、「集団ストーカー」や「テクノロジー犯罪」の被害を訴える人からも、「病気だ」という人からも、反発や敵意を受ける可能性がある位置に、いることになってしまいますね。

2017年11月21日 (火)

新たに転載した「捕食者」関連の記事

当ブログ記事の2011年5月以前の部分は、かつての『さるさる日記』の記事の転載で、重要と思われるもののみをあげています。

ところが、この度、「捕食者」関連の記事で、いくつか前回の記事の内容とも関わる、重要なものがみつかりましたので、改めて転載しておくことにします。

今回転載したのは、以下の記事です

1  『 「世間」との「折り合い」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-9d46.html)

2  『「集団性」との「折り合い」』  (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post-3bbb.html)

「集団性」、「世間」の背後にあるものこそ「捕食者」なので、 いずれも、その「折り合い」の実質は、「捕食者との折り合い」となることを述べたものですが、それぞれ違う観点から、述べられています。

3  『結局は「おいしい」か「まずい」か』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3aaf.html)

前回の記事同様、「捕食者の食」の実質を明らかにするものです。

4 『「捕食者」的な「宇宙人」情報』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-4eeb.html)

社会全体に向けた「捕食者」の「仕掛け」に関わるもので、まさに現在の状況を表しているといえます。

5 『まとめ-「補食者」について』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e336.html)

記事 『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html )とも重複しますが、「脱却に向けての第一歩」についてもまとめていますので、あげておきます。

2017年11月18日 (土)

「捕食者的存在」の「食」と我々の「食」

前々回、「統合失調」や「集団ストーカー」にみる、「仕掛け」をなすものを、「加害者」として糾弾しても、「「捕食者的存在」にとっては、「食」を得る手段なので、止めるはずがない」と述べました。

このようなことを、理解するには、彼らの人間に対する立場を、我々が他の存在を食することに照らし合わせて、理解するしかないと思います。そして、実際に、それらは、相似形的な、併行現象であり、互いに因果的に結びついた現象ともいえるのです。

「捕食者的存在」が、我々の、特に恐怖という、ネガティブな感情エネルギーを食糧としていること。それを継続的に収穫すべく、我々に対して、組織的、戦略的に働きかけていることは、これまでも何度も述てきました。(たとえば、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-89a8.html  など 、なお、『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

人間と違い、「物理的な成分」を食しているのではないので、文字通りには人間の場合と同じではないですが、実質的には、我々が、生きて行くために、食糧を必要とすることと違いはありません。

むしろ、最近は、人間の場合でも、「食べない人たち」がかなり表に現れ始め、人間に、「物理的な成分」としての食が、必ずしも必要ではないことが、明らかになりつつあります。ただし、その場合でも、彼らが何らの「エネルギー」も必要としていないのではなく、たとえば、弁護士の秋山という人は、宇宙に満ちている、エーテル的なエネルギーである、(ヨガでいう)「プラーナ」を食していると、公言しています。昔から、仙人は「霞を食う」と言われていましたが、これは、この「霞」と同じものと言っていいでしょう。

「捕食者的存在」の食するエネルギーも、「見えないエネルギー」という意味では、この「プラーナ」に似ていますが、人間から発する感情エネルギーであり、しかも、恐怖というネガティブなものを中心としていることが、「特異」と言えば特異なのです

しかし、前回のバシャールも言うように、ネガティブな感情ほど、複雑で多様なものが多く、しかも、強力であることに鑑みれば、彼らがそれを食するように進化したとしても、不思議ではありません。

「複雑で多様」というのは、味として、「単調」ではなく、「美味しい」ということにもなるでしょうし、また何よりも、人間から、継続して収穫しやすいのは、ポジティブな感情より、ネガティブな感情であるのは明らかでしょう。

それで、彼らは、確かに、人間からすれば、「虐待的」といえるような、戦略的な「仕掛け」を、人間に対して行い続けています。それは、恐怖を中心とする、ネガティブな感情を得るためになされるので、当然、虐待的なものになるし、果てしなく膨らむ「恐ろしさ」を秘めたものになります。またそれは、人間的な感情に基づくのとは異なり、徹底して、非情であり、冷徹なものです。さらには、人間が容易には理解できないような、知的な戦略に貫かれた、手の込んだものです。

それは、何も、「統合失調」や「集団ストーカー」の「被害者」に対してだけでなく、人間一般に対して、なされています。

人間一般に対して、このような「仕掛け」をなすには、まず、人間を全体として、彼らの管理・支配の及びやすいように、収容して育てることが必要となります。「社会」そのものが、彼らにとって、そのような収容のための装置だということです。それは、我々が、食用の牛や豚を、畜舎に収容して飼育するのと同じことです。

ただし、牛や豚は、殺すために飼育されますが、我々は、単純に殺すためではなく、じわじわと痛めつけ、継続的に苦痛を得るためにこそ、飼育されるということです。そこでなされる「仕掛け」には、様々なものがありますが、要するに、「集団」というものを通して、人と人の間に、矛盾や軋轢、争いをもたらすようなものです。

人間は、一般に、「集団」として、そのような「仕掛け」を、常に受けており、「捕食者的存在」は、そのような集団を通して、社会全体から、一定のネガティブな感情エネルギーをくみ取っているのです

このような、集団としての管理・支配を強めるには、個々の存在を、反抗できないように弱体化し、機械化された方法で、合理的になすのが適当です。ところが、そうすることは、ネガティブな感情エネルギーを、より多様に、かつ強力に生み出すこととは、両立しません。機械化された方法では、また、弱体化された存在からは、ネガティブな感情エネルギーとしても、質の低いものしかとれないということです。

それは、我々が牛や豚の飼育を、遺伝子操作された餌やホルモン剤、抗生物質などで、弱体化しつつ、機械化された方法で行っているのと同じことです。このような方法は、大量生産で、安く、大量の肉を生産するには適していますが、質は落ちるばかりか、食する側にとっても、危険をもたらします。それは、化学物質漬けにされ、弱体化された、人間を食する側にとっても、同じことでしょう。

一方で、集団というものには、必ず、「はみ出す」存在がいます。飼育されている牛や豚もそうですが、人間にも、このような管理・支配から、はみ出しやすい者がいるのです。このような者は、「集団」に対して折り合いが悪く、集団を苦手としたり、反抗したりしやすいのです。「分裂気質」の者が典型的ですが、「集団ストーカー被害」を訴える人も、多くその傾向があるといえます。「集団」というものと相性が悪いのは、「集団」そのものを、「迫害者」や「ストーカー」として糾弾していることからも、明らかでしょう。

そのような「集団からはみ出す」者に対しては、先にみた、一般的な、「集団を通しての仕掛け」のほかに、個別に、食するための「仕掛け」がなされなければなりません。それこそが、前回みたような、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者になされる、「仕掛け」ということです。(記事『「捕食者」と「分裂病的状況」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post-495c.html 参照)

人間も、管理からはみ出す家畜を、優先的に殺し、食すということを行います。同じように、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者は、個別的なレベルでは、優先的に食されているといえます。

さらに、人間も、大量生産された質の悪い肉だけでは、満足せず、地鶏や自然放牧された牛、さらには、野生の動物を狩猟して、食することも行います。同じように、「捕食者的存在」も、集団を通して、大量発生される、質の悪い感情エネルギーだけでは満足せず、集団からはみ出す者から、個別的に、「感情エネルギー」を執拗にくみ出して、食することも行うのです。

もっとも、何も、このような「集団からはみ出す」者が、彼らによって、個別的に「選別」されているわけではありません。人間も、野生の動物を狩猟するのに、「罠」を仕掛けて、それにはまったものを食することを行います。同じように、「集団からはみ出す」人間にも、「罠」としての「仕掛け」がなされ、それにはまった者を、個別に捕らえるということを行うのです。「集団ストーカー」という「観念」は、その「罠」の典型ですし、他にも、「被害妄想」的な発想を刺激する、さまざまな「仕掛け」があります。

これらは、誰もが、「引っ掛かる」のではなく、特にそれを信じてしまうような人、あるいは、それに敏感に反応する人が、引っ掛かるのです。それは、単純に「信じやすい」とか、(感覚的に)「敏感」ということもありますが、そのような「仕掛け」は、集団の中で忙しくし、社会的な常識でかんじがらめになっている人には、通じにくいという意味で、やはり、 社会から「はみ出す」人の方が、かかりやすいのです。

いずれにしても、動物に対する「罠」と同じように、広く仕掛けておいて、それに掛かった人が、特に「捕食する獲物」として狙われるのです。
                                                          
この罠は、我々で言えば、「迷惑メール」のようなものです。多くの人に仕掛けられますが、それに反応せず、放っておけば、特にそれに追い打ちをかけて、何かを仕掛けられることもありません。しかし、それに対して、何らかの反応をしてしまった人、それも、一度ならぬ、反応をしてしまった人が、 「カモ」として狙われ、深みにはまって行くのです。

「捕食者的存在」の場合には、その「仕掛け」に対して、怒りや恐れなどの、ネガティブな反応をする者ほど、格好の「カモ」として、狙われることになります。

このように、「捕食者的存在」の「仕掛け」は、確かに人間にとって、「虐待的」なものとしてなされています。しかし、それは、食を得る手段であること、人間が食を得るために、他の動物等になしていることと併行的な現象で、それと切り離して考えることはできないことは、確かなのです

しかし、そうだとしても、「捕食者的存在」の執拗な「仕掛け」は、意識ある者にとって、あまりに非情であり、本当に、食を得るために必要なものとして済まされるのか、疑問もあるでしょう。

それはそうなのですが、このような疑問は、同時に、我々が食するために、動物等になしていることに、そのまま返って来ます。そして、それは、もし問題にするなら、我々は、「食べる側」としても、「食べられる側」としても、全体として、「食」ということを、見直さなければならない、ということを意味しています。

我々が、肉を食するために、動物に対してなしていること(特に、屠殺のあり方)は、意外と知られていないものです。一種、「タブー化」しているともいえます。ただ、Youtubeには、その様子を撮った動画も、多くあげられています。本では、基本的な事柄のみですが、森達也著『いのちの食べ方』(角川文庫)が、分かりやすく説明しています。

ポイントとして、「血抜きをするために、生きたまま解体しなければならない」ということがあります。そのため、即死させる方法は、とることができないのです。日本では、牛では、前頭部をガンで打撃し、卒倒させる方法、豚では、炭酸ガスで窒息させて、意識不明にさせる方法がとられているようです。恐らくですが、多くの場合、その方法に忠実に、酷い苦痛は与えないで、解体されていることと思います。しかし、常にそのやり方が、成功するとは限りません。ときには、意識を失わせることに失敗し、そのまま解体しなければならないこともあるでしょう。

外国の例ですが、Youtubeには、明らかに、意識がある状態で、壮絶な叫び声をあげながら、解体されているのを撮った動画もあります。

たびたび引用している、『スターシード』も、次のように言っています。

恐ろしいことに、死んでいく動物の細胞一つ一つには人間への恐怖が充満していて、あなた方はその感情すら摂取しているのです。そしてこの不調和状態は、肉汁滴るステーキにナイフを入れたり、脂っこくて香りのよいハンバーガーを頬張ったりするたびに、あなた方の身体(魂の住処)に吸収されてゆくのです。

これは、「食べる側」にとっての、「危険」という観点から述べたものですが、そうでなくとも、これらのことが、本当に「食」を得るために、必要なことかどうかということは、改めて問われると思います。ここでは、屠殺の問題だけあげましたが、既にみたように、大量生産的で機械的な飼育の仕方も、当然問題になります。

そういうと、肉以外のものならいいのか、ということにもなりますが、先に、「食べない人たち」についてみたように、我々は、必ずしも、物理的成分としての「食」を、必要としていない可能性もあるのです。「個別的な食」云々というよりも、「食そのもの」について、見直さなければならないということです。

さらに言うと、「食」ということは、本当に、「必要性」の問題なのか、ということも問われます。実際、我々現代人は、「食」において、「必要性」を意識して食することなど、ほとんどないのが実情でしょう。それは、「食」そのものが「快楽」なのであって、「欲望」と、分かち難く結びついているからです

前に、記事『「MIB」のその後と「集団ストーカー」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4224.html)で、「捕食者的な宇宙人」が、我々に虐待的な仕掛けをするのは、「愉快犯」的な面があると言いました。しかし、我々が、他の動物等を食することにおいても、また、「愉快犯」的な面がないとは言えないでしょう。我々が、皆で、焼肉等を食べに行くのは、「愉快」だから行くのであるはずです。最近は、「狩猟」ということが、流行っているようですが、それも、単に既製のものを「食べる」だけより、「愉快」だからという面があるはずです。

あるいは、そもそも、食材をあれこれ調理し、味付けして食べるのは、より「おいしく」食べるためであり、それは要するに、それが「快楽」だからです。

「捕食者的存在」が、様々な「仕掛け」をして、人間から恐怖を始め、多様な感情的反応を得ようとするのも、要するに、「おいしく」食べるための、「調理法」であり、「味付け」だと思えば、理解はできるはずです。(『注文の多い料理店』で、料理店の主が、人間に、いろんな「注文」をつけて来たのと同じことです。)

私自身は、肉も食べますし、今現在、人間として、「食」そのものを根本的に変えること(「食べない人」になる等)が可能とは思ってもいません。が、同様に、「捕食者的存在」もやはり、彼らの「食」のあり方を、今現在、変えることなど、思いもつかないことであろうと思っています。人間が全体として、「食」のあり方を変えるということと、「捕食者的存在」が、食のあり方を変えるということは、恐らく、併行的な現象として、同時的に起こり得ることなのでしょう。

しかし、現段階で、それが期待できない以上、我々としては、できる限り、彼らに、一方的に、いいようには「食われない」ように、成長するしか、手立てはないのだと言えます。

2017年11月 5日 (日)

「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込む「仕掛け」

本人の「思考」または「信念」こそが、「現実」を作るという前回のテーマに照らせば、相手方の「仕掛け」のことには、あまり拘る必要はない。むしろ、それを「受け取る」自分自身の、「思考」や「解釈」こそが問題なのであるから、それに注意を向け直すべきということになります。

しかし、実際には、相手方の、尋常でない(オカルト的であり、非人間的な)「仕掛け」に、振り回されていることも多い以上、その「仕掛け」そのものについても、ある程度の理解が得られない限り、なかなか自分自身の「思考」の問題に注意を向け返すことも難しいでしょう。

この「仕掛け」については、具体的なレベルでは、どのようなものかを、「声」や「人の操作」、「共時性の演出」など、様々に述べてきました。そこには、「統合失調」の場合と「集団ストーカー」の場合の違いも反映されます。

しかし、この「仕掛け」とは何かを、一言で言うならば、それは、ある「観念」に「感覚的リアリティを吹き込む」ということに尽きます

そもそも、「集団ストーカー」という「観念」そのものが、強力に練り込まれた「仕掛け」といえます。この「観念」を受け取るだけで、もともと被害妄想的な傾向がある人は、十分に、自分の体験を、「集団ストーカーの被害」として解釈できるようになります。

しかし、ある「観念」を受け取るというだけでは、それが「現実化」されるほどに、強烈に信じ込まれることにはならない場合も多いでしょう。そういう場合に、その「観念」を信じ込ませるのに、大きな役割をなすのが、「仕掛け」であり、それは、その「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込むということなのです。

たとえば、かつてオウム真理教は、LSDを使って、信者に、麻原そのものや麻原の教えを、強烈に信じ込ませることを行っていました。このLSDは、まさに麻原の提供する「観念」を信じ込ませる「仕掛け」として、利用されたのです。

LSDは、幻覚剤であり、人を変性意識に導き、リアリティのある幻覚を体験させるものです。通常の感覚では、とても信じられないことでも、(それは、麻原の提供する「観念」と結びつけて解釈するように誘導されている状況で起こるので)このような強烈なリアリティを伴う感覚によって裏付けられれば、信じ込まれてしまうことにもなるのです。

このLSDと同じ役割を、相手方の(オカルト的、非人間的な)「仕掛け」は、なしているということです。

「統合失調」でいえば、「声」という、まさに幻覚的な方法で、統合失調者の「妄想」が裏付けられることになります。「集団ストーカー」という「観念」でいえば、それを信じ込ませるような、「人の操作」や「共時性の演出」が、感覚的レベルでなされるのです。それは、物理的現実そのもので、「幻覚」ではない場合が多いでしょうが、通常の日常性の範囲を超えた要素を含むという意味で、「幻覚」と通じるものです。あるいは、物理的現実そのものではなく、物理的現実と区別し難い、「中間的現象」の場合も多いと思われます(※1)。

いずれにしても、LSDと同様、通常は信じられないことでも、信じさせてしまうだけの、リアリティを生み出す力があるということです

そういう力があるということには、気づかない限り、なかなかことの全体を、「マインド・コントロール」として理解するすべもないでしょう。また、そのような「仕掛け」ではなく、それを受け取る自分の思考の問題に、意識を向き直すこともできないでしょう。

その意味では、やはり「オカルト」的なもの(への理解)を抜きにして、この問題を本当に納得できるものとして解決するのは、無理ということになります(※2)

※1  たとえば、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html )で述べた、「ホログラフィの挿絵」なども、これに含み得ます。「統合失調」においても、このような「中間的現象」による「仕掛け」は行われますが、総じて言うと、「集団ストーカー」の場合の方が、より物理的現実に近い「仕掛け」が多いようです。この点については、近いうちに、「統合失調」と「集団ストーカー」の共通性と相異についてまとめるときに、さらに述べたいと思います。

※2 精神薬により、「集団ストーカー被害」が、ウソのように消えたという話があります。それは、あながち「宣伝」というだけでなく、事実である可能性があります。精神薬は、「感覚」を鈍らせて、「仕掛け」としての「感覚的リアリティ」を、失わせることがあるからです。「感覚的リアリティ」が失われると、一気に、「まともな思考」が芽生えてきて、「集団ストーカー」という観念についても、「そんなことはあり得ない」と気がつけるのです。

しかし、それは、あったとしても、一時的現象というべきです。薬が切れて、「感覚的リアリティ」が戻ってきた場合には、また「集団ストーカー」の観念も戻ってくるでしょう。また、精神薬は、感覚一般、思考一般を鈍らせるので、このようなネガティブな観念だけに働くのではないのです。さらに、精神薬は、LSDと同様、幻覚をもたらすこともあるので、むしろ、現象を助長することもあるのです。

2017年10月26日 (木)

「思考」または「信念」が「現実」を作ることの認識

「統合失調」も「集団ストーカー」も、結局は、「捕食者的な存在」の「オカルト」的(非人間的)な「仕掛け」なのであり、それに対して、人間の側が、やむにやまれず、「人間的」な解釈を施すことによって、自ら恐怖と混乱の状況を作り出しているものです。それこそが、「捕食者的な存在」の狙いなのであり、初めから、意図されたことです。

このような「オカルト」的な「仕掛け」が、真に功を奏すには、強い不安をもたらすものでありながら、曖昧で、いかようにも解釈できるものでなければなりません。その曖昧な「仕掛け」に対して、人間が、人間の経験に引き寄せて、無理やり「人間的な解釈」をすることで、自ら恐れと混乱に満ちた、地獄的な状況を作り出し、そこに抜け出し難くはまり込んでいる、ということです。

そうやって、その抜け出し難い、地獄的な状況から、彼らの食糧である、恐怖の感情エネルギーを、尽きることなく、くみ取っているのです。自らの労力は、最低限の「仕掛け」だけで済み、後は、食糧である人間本人が、自らの解釈によって勝手に作り出し、拡大し、再生産してくれるのです。

ある意味、これ以上ないほど、「見事」に効率的な戦略と言わざるを得ません。

そこでは、「何を行うか」ではなく、「どう思わせるか」こそが、すべてとなります。要するに、徹頭徹尾、「マインド・コントロール」で成り立っているということです。

人間の支配層や指導者なども、支配や指導の方法として、「マインド・コントロール」を使います。しかし、「捕食者的な存在」による「マインド・コントロール」は、人間の場合とは、根本的に異なる面があります。

人間も、「思考」や「信念」が、「現実」を作り上げるのに、重要な要素であることを知っています。しかし、物理的な身体を持ち、物理的な外界こそが(唯一の)世界だと思っている人間は、現実に、物理的な働きかけをする「行為」によって、真に影響が与えられる、という思いが身についています。「思考や信念が現実を作る」というのは、二次的な意味合いになっているのです。

ところが、物理的なものを超えた存在である、「捕食者的な存在」にとっては、人間にとっては確固たる、「物理的現実」なるものも、「思考」や「信念」が作り上げる、一つの「幻想」に過ぎません。「思考」や「信念」こそが、「本質的」に、「現実」を作り上げるということを、知っているのです。

だからこそ、「何を行うか」よりも、「どう思わせるか」という「マインド・コントロール」こそが、本質的な意味において、「すべて」となるのです。それこそが、人間に、どのような「現実」を作らせるかを、決めるものだからです。

「思考」または「信念」が「現実」を作るということについては、チャネリングの走りであり、宇宙存在として有名なバシャールも、次のように言っています。

すべての観念には、「特有のメカニズム」があります。
物質次元で何かを経験するためには、ある観念があなたの中にずっと存在し続ける必要があります。
言い換えると、その瞬間に、「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる必要があるのです。
そう思わせる観念のメカニズムのひとつに、「自己強化性」という性質があります。

たとえば、あることを心から信じていると、それは物質次元でも実現します。すると、実現したことによって、さらにその観念が強化されます。
もし観念に、このような性質がなければ、それを実際に物質レベルで体験することは不可能です。

なぜなら、物質レベルの現実とは、実体のあるものではなく<幻想>だからです。つまり、観念の存在によって、あなたが物質次元で体験していることが、「現実である」と信じられるようになっているのです。」

                                             『未来は、えらべる』(VOICE新書)P.14

非常に分かりやすい説明で、端的に、「観念が現実を作る」ことを明らかにしています。その「観念」が強く信じられることで、「現実」なるものが作られ、さらにその観念を「自己強化」していくという、循環が重要です。まさに、それこそ、「捕食者的な存在」の「マインド・コントロール」で意図されていることなのです。「「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる」というのが、ポイントです。

さらに、このような「観念」には、ポジティブなものとネガティブなものがあることを次のように述べています。

みなさんの現実をつくっている観念には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。

ふたつの観念の、もっとも大きな違いをお教えしましょう。
ポジティブな観念は、「現実は幻想かもしれない。それなら、もしかしたら変えられるかもしれない」という可能性に気づかせてくれます。
一方、ネガティブな観念は、「自分が物質レベルで体験していることは確固として現実なので変えることはできない。もし変えるとしても、とても難しい」と信じ込みます。
そう信じ込ませるために、ネガティブな観念の構造は、ポジティブな観念よりも非常に複雑で多面的です。
「これが現実だ」と信じ込ませるためには、いろいろなトリックが必要だからです。

                                                          『同』P.16

ネガティブな観念こそが、複雑で多面的、従って、その分強力な「現実」を作り出してしまうことを、よく説明していると思います。「捕食者的な存在」は、そのようなネガティブな観念こそを、「いろいろなトリック」を用いて、植え付けているのです。「統合失調」の「妄想」もそうですが、「集団ストーカー」という「観念」は、その典型というべきです。(記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-2e51.html  参照)

ただし、「現実を作る」といっても、その「現実」としての「度合い」または「段階」には、様々なレベルがあることには、注意を要します。

よほどの能力者でもない限り、個人の思考から、いきなり「物質的」な現実が作られるというわけではありません。「現実」というのは、集合的な思考により、焦点化がなされることで、段階的に強化されていくと考えられます。そして、その「集合性」も、人間だけでなく、多くの存在が絡むほどに強力なものとなります。

私も、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/1-4b0e.html、 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-327b.html)で、「ホログラフィク・パラダイム」を紹介しつつ、現実とは知覚そのものであり、意識(思考)によって、ホログラム領域から、引き出される(「作られる」)ことを明らかにしています。そして、それには様々な度合いがあるのであり、集合的なものほど強力になることを明らかにしています。

「統合失調」や「集団ストーカー」で作られる「現実」というのも、このように、様々な度合いまたは段階があります。単に、思考や信念がもたらす「認識のひずみ」である「錯覚」というレベルから、内的な世界としての「現実」が作られ、それが外界に投影されるというレベルもあります。しかし、実際に、外界そのものに影響するレベルもあるのです。

たとえば、「信念」に関連した、共時的な現象を引き寄せるというレベルがあり、さらには、「中間的な現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)でみたように、霊的レベルから物質的レベルまでの間で、何らかの「現実」(「実体」的なもの)を「作り出す」というレベルまであります。状況に深く入り込めば入り込むほど、そのような度合いは強くなります。

「統合失調」では、妄想が本当に幻覚ということを超えて、「現実」になり得るし、「集団ストーカー」では、「集団ストーカーという信念」そのものが、本当にそういう「現実」を引き寄せるだけでなく、作り出すまでになるのです。

だから、恐ろしいのは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものというよりも、ネガティブな思考や信念が、こうまで現実を作り出すということの方にある、というべきです。

このようなネガティブな思考を変えない限り、地獄的な状況からは、抜け出せないということです。「集団ストーカー」でいえば、「集団ストーカーという信念」そのものを問い、変えなければなりません。しかし、地獄的な状況に入り込めば入り込むほど、それが現実を作り出す力も増すので、それに気づくことは難しくなるわけです。

しかし、一旦それに気づくことができたなら、そこから抜け出す可能性が出てくるだけでなく、それは、思考や観念こそが現実を作ることを知る、絶好の機会ということになります。そして、そのように、「変えることができる」と思わせるものこそ、「ポジティブな観念」ということです。

この点で、非常に、ネガティブな観念を固定するのに役立っているのが、「被害者」という発想です。

「被害者」という発想は、自分は一方的に「される」側の立場であり、相手方(加害者)こそが、その「現実」もたらす「主体」であるということを、意味しています。つまり、この件に関しては、自分には「主体」(同時に「責任」ということでもあるが)がなく、この「現実」から抜け出すことができるか否かは、すべて相手方にかかっているということです。それでは、自分の「観念」という、主体的要素が、この件について、「現実を作り出している」ことに気づく余地はありません。

「現実的」に言っても、自分を「被害者」とし、相手方を「加害者」として糾弾したからといって、「捕食者的な存在」が、このような(食を得る手段である)「仕掛け」を、止めるはずもありません。むしろ、そのような怒りの感情を誘発する、ネガティブな反応こそが狙いなので、まったく、彼らの「思うつぼ」ということです。それは、たとえ、「捕食者的な存在」でなく、何らかの人間や組織の仕業と仮定したとしても、ほとんど同じことになるでしょう。

だから、もし、このような状況から抜け出すことを、本当に望むなら、相手方云々ではなく、自分自身ができることをするしかないのです。そして、そのようなことは、「被害者」という発想を前提としている限り、できるものではありません。「被害者」という発想そのものを問い直し、その「観念」がもたらすものに注目する必要があるのです。(

その結果として、ネガティブな観念が、「現実」を作り出していることに気がつくならば、そのような「現実」を作り出す効果そのものが弱まるのです。ネガティブな観念の、「自己強化性」の循環が断ち切られるからです。さらに、それは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものをも、脱することにつながります。ネガティブな観念を作り出す効果が期待できないとなれば、「仕掛け」をする意味もなくなり、その頻度が、大幅に減少するからです(但し、それをなさせないために、一時的に、「仕掛け」が強まることはあります)。

さらにいえば、これらのことを通して、「現実」とは、思っていたように、「確定的」なものでも、「固定的」なものでもなく、(潜在的には)いかようにも変えられる、<幻想>のようなものと気づくことも重要です。それこそが、バシャールのいう「ポジティブな観念」ということであり、ポジティブな観念とは、「現実」への拘りや、捉われを少なくすることによって、それから自由になるということなのです。

※ 「被害者」について

この場合の「被害者」というのを、放射能や公害などの特定の事象や特定の犯罪における被害の場合と、同列に論じることはできません。それは、もちろん、解釈に基づくあやふやなものということもありますが、「集団ストーカーの被害」とは、特定の事象かつ特定の相手方に対するものではなく、実質上、生活全般にわたる、特定できない多くの者に対する「被害」ということを意味しているからです。

そこで、「被害者」ということは、自分には、生活全般にわたって、(自分以外の)多くの者に対して、「主体がない」ということを意味します。「被害者」ということ自体が、自己を本質的に規定する、強力な「観念」になっているということです。本人は、それを一種の「アイデンティティ」として立てようとしているかのようですが、むしろ、そうすればするほど、「自己」の主体というものを、なし崩しに失っていくのです。

そうして、このような強力な観念は、実際に、自分が一方的になされ、秘密を奪われ、「主体」をはく奪されるかのような現象を、引き寄せ、作り出してしまうのです。

だから、必要なことは、できる範囲で、自己の「主体」を取り戻すことです。それは、この意味の「被害者」ということを前提にしている限り、かなうことではありません。それには、このような現象全般について、(相手方ではなく)自分の側が与えている影響に気づき、それを変えていくしかないのです。

2017年10月 3日 (火)

「知ってはいけない」ことの危急版

知っている人も多いと思うが、矢部宏治著『知ってはいけない』(講談社現代新書)は、戦争を含めて、今後の岐路に関る重要な総選挙を控えたこの時期に、日本人が必ず読んでおくべき本と思う。(さらにいえば、より詳しい『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』も)

「知ってはいけない」とは、秘密にされているということでもあるが、それ以上に、一種の逆説で、本当は、「必ず知っておくべき」ことなのだが、日本人として、正面から認め難いことのために、「知ってはいけない」状態のままとなっているのである。

それは、日米安保条約に基づく日本の戦後体制のことで、簡単に言うと、日米地位協定によって、米国との安全保障上の問題は、日本の法律でもなければ、憲法ですらなく、日本の官僚と米軍との「密約」で取り決められることになっている、ということである。この密約は、憲法の上に位置するもので、日本の官僚は、地位の保全上、それに従うだけだから、実質上は、米軍が好きなように決められるものになっている。

具体的には、米軍は、日本の上空を、好きなように飛ぶことができる。日本のどこにでも、基地を作ることができる。実質、治外法権的な扱いを受ける。原発にも、日米原子力協定によって、基地の場合と同様のことがあてはまる。日本に対しては、国連の「敵国条項」が今でも生きている、などである。米軍は、日本の原発を攻撃対象として、いつでも破壊できるというオプションをもっているという、驚くべき事実もある。

しかし、最も重要な「知ってはいけない」ことを、一つ絞って言うなら、それは、「非常時には、米軍の指揮官が、自衛隊を自由に指揮することになっている」ことである。

日本は、「対米従属」とか、「米国の属国」ということが、これまでにも言われて来たし、かなりの人はそれを現実として受け止めているが、この書では、これらのことが具体的な資料を通して、明解で分かりやすい論述で、説得的に説き明かされている。それは、改めて突きつけられると、やはり衝撃的なことではある。

私も、東京にいたとき、米軍機のあまりにもの超低空飛行を経験し、それに驚くとともに、むしろ周りの人が、それに対して、怪訝な顔すらしないことに驚いたことがあって、実際どうなっているのかと思ったり、最近も、ケムトレイルに関して、米軍機が日本上空を自由に飛んで、まき散らしているのだとしたら、それを追究することは、事実上不可能になるではないかと、自国の領空を他国の軍機に、自由に飛ばれることの恐ろしさを、改めて感じたりもしていた。

しかし、それは、本当に、そのとおりになっているということだ。

安倍首相は、「憲法9条に自衛隊の存在を明記する」というが、それは、前に成立した安保法と先の「知ってはいけないこと」に照らせば、どういうことかと言うと、「非常時(と米軍が判断するとき)には、米軍が自由に指揮できる日本の軍隊を、憲法上はっきりと認める」ということになる。自衛隊の存在自体を、憲法上明記することは、曖昧な状態を排して、好ましいことではないかと考える人もいると思うが、とても、そんなことではない。米軍の都合で戦争できることを、憲法上も認めることに、直結するのである。

そして、新党「希望の党」も、憲法改正については、内容は明確ではないが、基本的に安倍と同じ路線に立っている。つまり、米軍の都合で戦争できる路線である。

選挙前に、これらのことは、最低限踏まえておかなくてはならない。

この書でも、それは「米軍」(実際には、「米軍」の背後の軍産複合体とか金融資本家とか、ネガティブな宇宙人も絡む「秘密政府」などの「支配層」であるが)の都合であって、「米国」そのものの都合ではないことが述べられている。トランプも、自国第一の範囲で、やはり同じように理解していることだろう。

そもそも、私も、これまで、「知ってはいけない」ことを、多々述べてきたわけだが、それは、本質的なことではあるが、多くの者にとって、あまりにも認め難いことの故、「知ってはいけない」ことのまま、今後も当分はあり続けることだろう。

ただ、今回述べたのは、「知ってはいけない」ことの危急版で、これについては、もはや「知らない」ことは、許されないことと思う。

«映像に映り込む「怪奇」と「霊的鏡像」

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