2017年11月21日 (火)

新たに転載した「捕食者」関連の記事

当ブログ記事の2011年5月以前の部分は、かつての『さるさる日記』の記事の転載で、重要と思われるもののみをあげています。

ところが、この度、「捕食者」関連の記事で、いくつか前回の記事の内容とも関わる、重要なものがみつかりましたので、改めて転載しておくことにします。

今回転載したのは、以下の記事です

1  『 「世間」との「折り合い」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-9d46.html)

2  『「集団性」との「折り合い」』  (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post-3bbb.html)

「集団性」、「世間」の背後にあるものこそ「捕食者」なので、 いずれも、その「折り合い」の実質は、「捕食者との折り合い」となることを述べたものですが、それぞれ違う観点から、述べられています。

3  『結局は「おいしい」か「まずい」か』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-3aaf.html)

前回の記事同様、「捕食者の食」の実質を明らかにするものです。

4 『「捕食者」的な「宇宙人」情報』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-4eeb.html)

社会全体に向けた「捕食者」の「仕掛け」に関わるもので、まさに現在の状況を表しているといえます。

5 『まとめ-「補食者」について』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e336.html)

記事 『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html )とも重複しますが、「脱却に向けての第一歩」についてもまとめていますので、あげておきます。

2017年11月18日 (土)

「捕食者的存在」の「食」と我々の「食」

前々回、「統合失調」や「集団ストーカー」にみる、「仕掛け」をなすものを、「加害者」として糾弾しても、「「捕食者的存在」にとっては、「食」を得る手段なので、止めるはずがない」と述べました。

このようなことを、理解するには、彼らの人間に対する立場を、我々が他の存在を食することに照らし合わせて、理解するしかないと思います。そして、実際に、それらは、相似形的な、併行現象であり、互いに因果的に結びついた現象ともいえるのです。

「捕食者的存在」が、我々の、特に恐怖という、ネガティブな感情エネルギーを食糧としていること。それを継続的に収穫すべく、我々に対して、組織的、戦略的に働きかけていることは、これまでも何度も述てきました。(たとえば、記事『ドンファンの言葉―「二つの心」と「捕食者」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post-89a8.html  など 、なお、『「捕食者」という理由』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-b27f.html

人間と違い、「物理的な成分」を食しているのではないので、文字通りには人間の場合と同じではないですが、実質的には、我々が、生きて行くために、食糧を必要とすることと違いはありません。

むしろ、最近は、人間の場合でも、「食べない人たち」がかなり表に現れ始め、人間に、「物理的な成分」としての食が、必ずしも必要ではないことが、明らかになりつつあります。ただし、その場合でも、彼らが何らの「エネルギー」も必要としていないのではなく、たとえば、弁護士の秋山という人は、宇宙に満ちている、エーテル的なエネルギーである、(ヨガでいう)「プラーナ」を食していると、公言しています。昔から、仙人は「霞を食う」と言われていましたが、これは、この「霞」と同じものと言っていいでしょう。

「捕食者的存在」の食するエネルギーも、「見えないエネルギー」という意味では、この「プラーナ」に似ていますが、人間から発する感情エネルギーであり、しかも、恐怖というネガティブなものを中心としていることが、「特異」と言えば特異なのです

しかし、前回のバシャールも言うように、ネガティブな感情ほど、複雑で多様なものが多く、しかも、強力であることに鑑みれば、彼らがそれを食するように進化したとしても、不思議ではありません。

「複雑で多様」というのは、味として、「単調」ではなく、「美味しい」ということにもなるでしょうし、また何よりも、人間から、継続して収穫しやすいのは、ポジティブな感情より、ネガティブな感情であるのは明らかでしょう。

それで、彼らは、確かに、人間からすれば、「虐待的」といえるような、戦略的な「仕掛け」を、人間に対して行い続けています。それは、恐怖を中心とする、ネガティブな感情を得るためになされるので、当然、虐待的なものになるし、果てしなく膨らむ「恐ろしさ」を秘めたものになります。またそれは、人間的な感情に基づくのとは異なり、徹底して、非情であり、冷徹なものです。さらには、人間が容易には理解できないような、知的な戦略に貫かれた、手の込んだものです。

それは、何も、「統合失調」や「集団ストーカー」の「被害者」に対してだけでなく、人間一般に対して、なされています。

人間一般に対して、このような「仕掛け」をなすには、まず、人間を全体として、彼らの管理・支配の及びやすいように、収容して育てることが必要となります。「社会」そのものが、彼らにとって、そのような収容のための装置だということです。それは、我々が、食用の牛や豚を、畜舎に収容して飼育するのと同じことです。

ただし、牛や豚は、殺すために飼育されますが、我々は、単純に殺すためではなく、じわじわと痛めつけ、継続的に苦痛を得るためにこそ、飼育されるということです。そこでなされる「仕掛け」には、様々なものがありますが、要するに、「集団」というものを通して、人と人の間に、矛盾や軋轢、争いをもたらすようなものです。

人間は、一般に、「集団」として、そのような「仕掛け」を、常に受けており、「捕食者的存在」は、そのような集団を通して、社会全体から、一定のネガティブな感情エネルギーをくみ取っているのです

このような、集団としての管理・支配を強めるには、個々の存在を、反抗できないように弱体化し、機械化された方法で、合理的になすのが適当です。ところが、そうすることは、ネガティブな感情エネルギーを、より多様に、かつ強力に生み出すこととは、両立しません。機械化された方法では、また、弱体化された存在からは、ネガティブな感情エネルギーとしても、質の低いものしかとれないということです。

それは、我々が牛や豚の飼育を、遺伝子操作された餌やホルモン剤、抗生物質などで、弱体化しつつ、機械化された方法で行っているのと同じことです。このような方法は、大量生産で、安く、大量の肉を生産するには適していますが、質は落ちるばかりか、食する側にとっても、危険をもたらします。それは、化学物質漬けにされ、弱体化された、人間を食する側にとっても、同じことでしょう。

一方で、集団というものには、必ず、「はみ出す」存在がいます。飼育されている牛や豚もそうですが、人間にも、このような管理・支配から、はみ出しやすい者がいるのです。このような者は、「集団」に対して折り合いが悪く、集団を苦手としたり、反抗したりしやすいのです。「分裂気質」の者が典型的ですが、「集団ストーカー被害」を訴える人も、多くその傾向があるといえます。「集団」というものと相性が悪いのは、「集団」そのものを、「迫害者」や「ストーカー」として糾弾していることからも、明らかでしょう。

そのような「集団からはみ出す」者に対しては、先にみた、一般的な、「集団を通しての仕掛け」のほかに、個別に、食するための「仕掛け」がなされなければなりません。それこそが、前回みたような、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者になされる、「仕掛け」ということです。(記事『「捕食者」と「分裂病的状況」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post-495c.html 参照)

人間も、管理からはみ出す家畜を、優先的に殺し、食すということを行います。同じように、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の者は、個別的なレベルでは、優先的に食されているといえます。

さらに、人間も、大量生産された質の悪い肉だけでは、満足せず、地鶏や自然放牧された牛、さらには、野生の動物を狩猟して、食することも行います。同じように、「捕食者的存在」も、集団を通して、大量発生される、質の悪い感情エネルギーだけでは満足せず、集団からはみ出す者から、個別的に、「感情エネルギー」を執拗にくみ出して、食することも行うのです。

もっとも、何も、このような「集団からはみ出す」者が、彼らによって、個別的に「選別」されているわけではありません。人間も、野生の動物を狩猟するのに、「罠」を仕掛けて、それにはまったものを食することを行います。同じように、「集団からはみ出す」人間にも、「罠」としての「仕掛け」がなされ、それにはまった者を、個別に捕らえるということを行うのです。「集団ストーカー」という「観念」は、その「罠」の典型ですし、他にも、「被害妄想」的な発想を刺激する、さまざまな「仕掛け」があります。

これらは、誰もが、「引っ掛かる」のではなく、特にそれを信じてしまうような人、あるいは、それに敏感に反応する人が、引っ掛かるのです。それは、単純に「信じやすい」とか、(感覚的に)「敏感」ということもありますが、そのような「仕掛け」は、集団の中で忙しくし、社会的な常識でかんじがらめになっている人には、通じにくいという意味で、やはり、 社会から「はみ出す」人の方が、かかりやすいのです。

いずれにしても、動物に対する「罠」と同じように、広く仕掛けておいて、それに掛かった人が、特に「捕食する獲物」として狙われるのです。
                                                          
この罠は、我々で言えば、「迷惑メール」のようなものです。多くの人に仕掛けられますが、それに反応せず、放っておけば、特にそれに追い打ちをかけて、何かを仕掛けられることもありません。しかし、それに対して、何らかの反応をしてしまった人、それも、一度ならぬ、反応をしてしまった人が、 「カモ」として狙われ、深みにはまって行くのです。

「捕食者的存在」の場合には、その「仕掛け」に対して、怒りや恐れなどの、ネガティブな反応をする者ほど、格好の「カモ」として、狙われることになります。

このように、「捕食者的存在」の「仕掛け」は、確かに人間にとって、「虐待的」なものとしてなされています。しかし、それは、食を得る手段であること、人間が食を得るために、他の動物等になしていることと併行的な現象で、それと切り離して考えることはできないことは、確かなのです

しかし、そうだとしても、「捕食者的存在」の執拗な「仕掛け」は、意識ある者にとって、あまりに非情であり、本当に、食を得るために必要なものとして済まされるのか、疑問もあるでしょう。

それはそうなのですが、このような疑問は、同時に、我々が食するために、動物等になしていることに、そのまま返って来ます。そして、それは、もし問題にするなら、我々は、「食べる側」としても、「食べられる側」としても、全体として、「食」ということを、見直さなければならない、ということを意味しています。

我々が、肉を食するために、動物に対してなしていること(特に、屠殺のあり方)は、意外と知られていないものです。一種、「タブー化」しているともいえます。ただ、Youtubeには、その様子を撮った動画も、多くあげられています。本では、基本的な事柄のみですが、森達也著『いのちの食べ方』(角川文庫)が、分かりやすく説明しています。

ポイントとして、「血抜きをするために、生きたまま解体しなければならない」ということがあります。そのため、即死させる方法は、とることができないのです。日本では、牛では、前頭部をガンで打撃し、卒倒させる方法、豚では、炭酸ガスで窒息させて、意識不明にさせる方法がとられているようです。恐らくですが、多くの場合、その方法に忠実に、酷い苦痛は与えないで、解体されていることと思います。しかし、常にそのやり方が、成功するとは限りません。ときには、意識を失わせることに失敗し、そのまま解体しなければならないこともあるでしょう。

外国の例ですが、Youtubeには、明らかに、意識がある状態で、壮絶な叫び声をあげながら、解体されているのを撮った動画もあります。

たびたび引用している、『スターシード』も、次のように言っています。

恐ろしいことに、死んでいく動物の細胞一つ一つには人間への恐怖が充満していて、あなた方はその感情すら摂取しているのです。そしてこの不調和状態は、肉汁滴るステーキにナイフを入れたり、脂っこくて香りのよいハンバーガーを頬張ったりするたびに、あなた方の身体(魂の住処)に吸収されてゆくのです。

これは、「食べる側」にとっての、「危険」という観点から述べたものですが、そうでなくとも、これらのことが、本当に「食」を得るために、必要なことかどうかということは、改めて問われると思います。ここでは、屠殺の問題だけあげましたが、既にみたように、大量生産的で機械的な飼育の仕方も、当然問題になります。

そういうと、肉以外のものならいいのか、ということにもなりますが、先に、「食べない人たち」についてみたように、我々は、必ずしも、物理的成分としての「食」を、必要としていない可能性もあるのです。「個別的な食」云々というよりも、「食そのもの」について、見直さなければならないということです。

さらに言うと、「食」ということは、本当に、「必要性」の問題なのか、ということも問われます。実際、我々現代人は、「食」において、「必要性」を意識して食することなど、ほとんどないのが実情でしょう。それは、「食」そのものが「快楽」なのであって、「欲望」と、分かち難く結びついているからです

前に、記事『「MIB」のその後と「集団ストーカー」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-4224.html)で、「捕食者的な宇宙人」が、我々に虐待的な仕掛けをするのは、「愉快犯」的な面があると言いました。しかし、我々が、他の動物等を食することにおいても、また、「愉快犯」的な面がないとは言えないでしょう。我々が、皆で、焼肉等を食べに行くのは、「愉快」だから行くのであるはずです。最近は、「狩猟」ということが、流行っているようですが、それも、単に既製のものを「食べる」だけより、「愉快」だからという面があるはずです。

あるいは、そもそも、食材をあれこれ調理し、味付けして食べるのは、より「おいしく」食べるためであり、それは要するに、それが「快楽」だからです。

「捕食者的存在」が、様々な「仕掛け」をして、人間から恐怖を始め、多様な感情的反応を得ようとするのも、要するに、「おいしく」食べるための、「調理法」であり、「味付け」だと思えば、理解はできるはずです。(『注文の多い料理店』で、料理店の主が、人間に、いろんな「注文」をつけて来たのと同じことです。)

私自身は、肉も食べますし、今現在、人間として、「食」そのものを根本的に変えること(「食べない人」になる等)が可能とは思ってもいません。が、同様に、「捕食者的存在」もやはり、彼らの「食」のあり方を、今現在、変えることなど、思いもつかないことであろうと思っています。人間が全体として、「食」のあり方を変えるということと、「捕食者的存在」が、食のあり方を変えるということは、恐らく、併行的な現象として、同時的に起こり得ることなのでしょう。

しかし、現段階で、それが期待できない以上、我々としては、できる限り、彼らに、一方的に、いいようには「食われない」ように、成長するしか、手立てはないのだと言えます。

2017年11月 5日 (日)

「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込む「仕掛け」

本人の「思考」または「信念」こそが、「現実」を作るという前回のテーマに照らせば、相手方の「仕掛け」のことには、あまり拘る必要はない。むしろ、それを「受け取る」自分自身の、「思考」や「解釈」こそが問題なのであるから、それに注意を向け直すべきということになります。

しかし、実際には、相手方の、尋常でない(オカルト的であり、非人間的な)「仕掛け」に、振り回されていることも多い以上、その「仕掛け」そのものについても、ある程度の理解が得られない限り、なかなか自分自身の「思考」の問題に注意を向け返すことも難しいでしょう。

この「仕掛け」については、具体的なレベルでは、どのようなものかを、「声」や「人の操作」、「共時性の演出」など、様々に述べてきました。そこには、「統合失調」の場合と「集団ストーカー」の場合の違いも反映されます。

しかし、この「仕掛け」とは何かを、一言で言うならば、それは、ある「観念」に「感覚的リアリティを吹き込む」ということに尽きます

そもそも、「集団ストーカー」という「観念」そのものが、強力に練り込まれた「仕掛け」といえます。この「観念」を受け取るだけで、もともと被害妄想的な傾向がある人は、十分に、自分の体験を、「集団ストーカーの被害」として解釈できるようになります。

しかし、ある「観念」を受け取るというだけでは、それが「現実化」されるほどに、強烈に信じ込まれることにはならない場合も多いでしょう。そういう場合に、その「観念」を信じ込ませるのに、大きな役割をなすのが、「仕掛け」であり、それは、その「観念」に「感覚的リアリティ」を吹き込むということなのです。

たとえば、かつてオウム真理教は、LSDを使って、信者に、麻原そのものや麻原の教えを、強烈に信じ込ませることを行っていました。このLSDは、まさに麻原の提供する「観念」を信じ込ませる「仕掛け」として、利用されたのです。

LSDは、幻覚剤であり、人を変性意識に導き、リアリティのある幻覚を体験させるものです。通常の感覚では、とても信じられないことでも、(それは、麻原の提供する「観念」と結びつけて解釈するように誘導されている状況で起こるので)このような強烈なリアリティを伴う感覚によって裏付けられれば、信じ込まれてしまうことにもなるのです。

このLSDと同じ役割を、相手方の(オカルト的、非人間的な)「仕掛け」は、なしているということです。

「統合失調」でいえば、「声」という、まさに幻覚的な方法で、統合失調者の「妄想」が裏付けられることになります。「集団ストーカー」という「観念」でいえば、それを信じ込ませるような、「人の操作」や「共時性の演出」が、感覚的レベルでなされるのです。それは、物理的現実そのもので、「幻覚」ではない場合が多いでしょうが、通常の日常性の範囲を超えた要素を含むという意味で、「幻覚」と通じるものです。あるいは、物理的現実そのものではなく、物理的現実と区別し難い、「中間的現象」の場合も多いと思われます(※1)。

いずれにしても、LSDと同様、通常は信じられないことでも、信じさせてしまうだけの、リアリティを生み出す力があるということです

そういう力があるということには、気づかない限り、なかなかことの全体を、「マインド・コントロール」として理解するすべもないでしょう。また、そのような「仕掛け」ではなく、それを受け取る自分の思考の問題に、意識を向き直すこともできないでしょう。

その意味では、やはり「オカルト」的なもの(への理解)を抜きにして、この問題を本当に納得できるものとして解決するのは、無理ということになります(※2)

※1  たとえば、記事『「プレアデス+」と「創造神」「捕食者」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-d8e8.html )で述べた、「ホログラフィの挿絵」なども、これに含み得ます。「統合失調」においても、このような「中間的現象」による「仕掛け」は行われますが、総じて言うと、「集団ストーカー」の場合の方が、より物理的現実に近い「仕掛け」が多いようです。この点については、近いうちに、「統合失調」と「集団ストーカー」の共通性と相異についてまとめるときに、さらに述べたいと思います。

※2 精神薬により、「集団ストーカー被害」が、ウソのように消えたという話があります。それは、あながち「宣伝」というだけでなく、事実である可能性があります。精神薬は、「感覚」を鈍らせて、「仕掛け」としての「感覚的リアリティ」を、失わせることがあるからです。「感覚的リアリティ」が失われると、一気に、「まともな思考」が芽生えてきて、「集団ストーカー」という観念についても、「そんなことはあり得ない」と気がつけるのです。

しかし、それは、あったとしても、一時的現象というべきです。薬が切れて、「感覚的リアリティ」が戻ってきた場合には、また「集団ストーカー」の観念も戻ってくるでしょう。また、精神薬は、感覚一般、思考一般を鈍らせるので、このようなネガティブな観念だけに働くのではないのです。さらに、精神薬は、LSDと同様、幻覚をもたらすこともあるので、むしろ、現象を助長することもあるのです。

2017年10月26日 (木)

「思考」または「信念」が「現実」を作ることの認識

「統合失調」も「集団ストーカー」も、結局は、「捕食者的な存在」の「オカルト」的(非人間的)な「仕掛け」なのであり、それに対して、人間の側が、やむにやまれず、「人間的」な解釈を施すことによって、自ら恐怖と混乱の状況を作り出しているものです。それこそが、「捕食者的な存在」の狙いなのであり、初めから、意図されたことです。

このような「オカルト」的な「仕掛け」が、真に功を奏すには、強い不安をもたらすものでありながら、曖昧で、いかようにも解釈できるものでなければなりません。その曖昧な「仕掛け」に対して、人間が、人間の経験に引き寄せて、無理やり「人間的な解釈」をすることで、自ら恐れと混乱に満ちた、地獄的な状況を作り出し、そこに抜け出し難くはまり込んでいる、ということです。

そうやって、その抜け出し難い、地獄的な状況から、彼らの食糧である、恐怖の感情エネルギーを、尽きることなく、くみ取っているのです。自らの労力は、最低限の「仕掛け」だけで済み、後は、食糧である人間本人が、自らの解釈によって勝手に作り出し、拡大し、再生産してくれるのです。

ある意味、これ以上ないほど、「見事」に効率的な戦略と言わざるを得ません。

そこでは、「何を行うか」ではなく、「どう思わせるか」こそが、すべてとなります。要するに、徹頭徹尾、「マインド・コントロール」で成り立っているということです。

人間の支配層や指導者なども、支配や指導の方法として、「マインド・コントロール」を使います。しかし、「捕食者的な存在」による「マインド・コントロール」は、人間の場合とは、根本的に異なる面があります。

人間も、「思考」や「信念」が、「現実」を作り上げるのに、重要な要素であることを知っています。しかし、物理的な身体を持ち、物理的な外界こそが(唯一の)世界だと思っている人間は、現実に、物理的な働きかけをする「行為」によって、真に影響が与えられる、という思いが身についています。「思考や信念が現実を作る」というのは、二次的な意味合いになっているのです。

ところが、物理的なものを超えた存在である、「捕食者的な存在」にとっては、人間にとっては確固たる、「物理的現実」なるものも、「思考」や「信念」が作り上げる、一つの「幻想」に過ぎません。「思考」や「信念」こそが、「本質的」に、「現実」を作り上げるということを、知っているのです。

だからこそ、「何を行うか」よりも、「どう思わせるか」という「マインド・コントロール」こそが、本質的な意味において、「すべて」となるのです。それこそが、人間に、どのような「現実」を作らせるかを、決めるものだからです。

「思考」または「信念」が「現実」を作るということについては、チャネリングの走りであり、宇宙存在として有名なバシャールも、次のように言っています。

すべての観念には、「特有のメカニズム」があります。
物質次元で何かを経験するためには、ある観念があなたの中にずっと存在し続ける必要があります。
言い換えると、その瞬間に、「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる必要があるのです。
そう思わせる観念のメカニズムのひとつに、「自己強化性」という性質があります。

たとえば、あることを心から信じていると、それは物質次元でも実現します。すると、実現したことによって、さらにその観念が強化されます。
もし観念に、このような性質がなければ、それを実際に物質レベルで体験することは不可能です。

なぜなら、物質レベルの現実とは、実体のあるものではなく<幻想>だからです。つまり、観念の存在によって、あなたが物質次元で体験していることが、「現実である」と信じられるようになっているのです。」

                                             『未来は、えらべる』(VOICE新書)P.14

非常に分かりやすい説明で、端的に、「観念が現実を作る」ことを明らかにしています。その「観念」が強く信じられることで、「現実」なるものが作られ、さらにその観念を「自己強化」していくという、循環が重要です。まさに、それこそ、「捕食者的な存在」の「マインド・コントロール」で意図されていることなのです。「「その観念以外の考え方はあり得ない」とあなたに思わせる」というのが、ポイントです。

さらに、このような「観念」には、ポジティブなものとネガティブなものがあることを次のように述べています。

みなさんの現実をつくっている観念には、ポジティブなものとネガティブなものがあります。

ふたつの観念の、もっとも大きな違いをお教えしましょう。
ポジティブな観念は、「現実は幻想かもしれない。それなら、もしかしたら変えられるかもしれない」という可能性に気づかせてくれます。
一方、ネガティブな観念は、「自分が物質レベルで体験していることは確固として現実なので変えることはできない。もし変えるとしても、とても難しい」と信じ込みます。
そう信じ込ませるために、ネガティブな観念の構造は、ポジティブな観念よりも非常に複雑で多面的です。
「これが現実だ」と信じ込ませるためには、いろいろなトリックが必要だからです。

                                                          『同』P.16

ネガティブな観念こそが、複雑で多面的、従って、その分強力な「現実」を作り出してしまうことを、よく説明していると思います。「捕食者的な存在」は、そのようなネガティブな観念こそを、「いろいろなトリック」を用いて、植え付けているのです。「統合失調」の「妄想」もそうですが、「集団ストーカー」という「観念」は、その典型というべきです。(記事『「集団ストーカー」という観念自体が引き寄せる現象』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-2e51.html  参照)

ただし、「現実を作る」といっても、その「現実」としての「度合い」または「段階」には、様々なレベルがあることには、注意を要します。

よほどの能力者でもない限り、個人の思考から、いきなり「物質的」な現実が作られるというわけではありません。「現実」というのは、集合的な思考により、焦点化がなされることで、段階的に強化されていくと考えられます。そして、その「集合性」も、人間だけでなく、多くの存在が絡むほどに強力なものとなります。

私も、記事『意識と物質の関係―「知覚」と「現実」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/1-4b0e.html、 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-327b.html)で、「ホログラフィク・パラダイム」を紹介しつつ、現実とは知覚そのものであり、意識(思考)によって、ホログラム領域から、引き出される(「作られる」)ことを明らかにしています。そして、それには様々な度合いがあるのであり、集合的なものほど強力になることを明らかにしています。

「統合失調」や「集団ストーカー」で作られる「現実」というのも、このように、様々な度合いまたは段階があります。単に、思考や信念がもたらす「認識のひずみ」である「錯覚」というレベルから、内的な世界としての「現実」が作られ、それが外界に投影されるというレベルもあります。しかし、実際に、外界そのものに影響するレベルもあるのです。

たとえば、「信念」に関連した、共時的な現象を引き寄せるというレベルがあり、さらには、「中間的な現象」(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)でみたように、霊的レベルから物質的レベルまでの間で、何らかの「現実」(「実体」的なもの)を「作り出す」というレベルまであります。状況に深く入り込めば入り込むほど、そのような度合いは強くなります。

「統合失調」では、妄想が本当に幻覚ということを超えて、「現実」になり得るし、「集団ストーカー」では、「集団ストーカーという信念」そのものが、本当にそういう「現実」を引き寄せるだけでなく、作り出すまでになるのです。

だから、恐ろしいのは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものというよりも、ネガティブな思考や信念が、こうまで現実を作り出すということの方にある、というべきです。

このようなネガティブな思考を変えない限り、地獄的な状況からは、抜け出せないということです。「集団ストーカー」でいえば、「集団ストーカーという信念」そのものを問い、変えなければなりません。しかし、地獄的な状況に入り込めば入り込むほど、それが現実を作り出す力も増すので、それに気づくことは難しくなるわけです。

しかし、一旦それに気づくことができたなら、そこから抜け出す可能性が出てくるだけでなく、それは、思考や観念こそが現実を作ることを知る、絶好の機会ということになります。そして、そのように、「変えることができる」と思わせるものこそ、「ポジティブな観念」ということです。

この点で、非常に、ネガティブな観念を固定するのに役立っているのが、「被害者」という発想です。

「被害者」という発想は、自分は一方的に「される」側の立場であり、相手方(加害者)こそが、その「現実」もたらす「主体」であるということを、意味しています。つまり、この件に関しては、自分には「主体」(同時に「責任」ということでもあるが)がなく、この「現実」から抜け出すことができるか否かは、すべて相手方にかかっているということです。それでは、自分の「観念」という、主体的要素が、この件について、「現実を作り出している」ことに気づく余地はありません。

「現実的」に言っても、自分を「被害者」とし、相手方を「加害者」として糾弾したからといって、「捕食者的な存在」が、このような(食を得る手段である)「仕掛け」を、止めるはずもありません。むしろ、そのような怒りの感情を誘発する、ネガティブな反応こそが狙いなので、まったく、彼らの「思うつぼ」ということです。それは、たとえ、「捕食者的な存在」でなく、何らかの人間や組織の仕業と仮定したとしても、ほとんど同じことになるでしょう。

だから、もし、このような状況から抜け出すことを、本当に望むなら、相手方云々ではなく、自分自身ができることをするしかないのです。そして、そのようなことは、「被害者」という発想を前提としている限り、できるものではありません。「被害者」という発想そのものを問い直し、その「観念」がもたらすものに注目する必要があるのです。(

その結果として、ネガティブな観念が、「現実」を作り出していることに気がつくならば、そのような「現実」を作り出す効果そのものが弱まるのです。ネガティブな観念の、「自己強化性」の循環が断ち切られるからです。さらに、それは、「捕食者的な存在」の「仕掛け」そのものをも、脱することにつながります。ネガティブな観念を作り出す効果が期待できないとなれば、「仕掛け」をする意味もなくなり、その頻度が、大幅に減少するからです(但し、それをなさせないために、一時的に、「仕掛け」が強まることはあります)。

さらにいえば、これらのことを通して、「現実」とは、思っていたように、「確定的」なものでも、「固定的」なものでもなく、(潜在的には)いかようにも変えられる、<幻想>のようなものと気づくことも重要です。それこそが、バシャールのいう「ポジティブな観念」ということであり、ポジティブな観念とは、「現実」への拘りや、捉われを少なくすることによって、それから自由になるということなのです。

※ 「被害者」について

この場合の「被害者」というのを、放射能や公害などの特定の事象や特定の犯罪における被害の場合と、同列に論じることはできません。それは、もちろん、解釈に基づくあやふやなものということもありますが、「集団ストーカーの被害」とは、特定の事象かつ特定の相手方に対するものではなく、実質上、生活全般にわたる、特定できない多くの者に対する「被害」ということを意味しているからです。

そこで、「被害者」ということは、自分には、生活全般にわたって、(自分以外の)多くの者に対して、「主体がない」ということを意味します。「被害者」ということ自体が、自己を本質的に規定する、強力な「観念」になっているということです。本人は、それを一種の「アイデンティティ」として立てようとしているかのようですが、むしろ、そうすればするほど、「自己」の主体というものを、なし崩しに失っていくのです。

そうして、このような強力な観念は、実際に、自分が一方的になされ、秘密を奪われ、「主体」をはく奪されるかのような現象を、引き寄せ、作り出してしまうのです。

だから、必要なことは、できる範囲で、自己の「主体」を取り戻すことです。それは、この意味の「被害者」ということを前提にしている限り、かなうことではありません。それには、このような現象全般について、(相手方ではなく)自分の側が与えている影響に気づき、それを変えていくしかないのです。

2017年10月 3日 (火)

「知ってはいけない」ことの危急版

知っている人も多いと思うが、矢部宏治著『知ってはいけない』(講談社現代新書)は、戦争を含めて、今後の岐路に関る重要な総選挙を控えたこの時期に、日本人が必ず読んでおくべき本と思う。(さらにいえば、より詳しい『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』も)

「知ってはいけない」とは、秘密にされているということでもあるが、それ以上に、一種の逆説で、本当は、「必ず知っておくべき」ことなのだが、日本人として、正面から認め難いことのために、「知ってはいけない」状態のままとなっているのである。

それは、日米安保条約に基づく日本の戦後体制のことで、簡単に言うと、日米地位協定によって、米国との安全保障上の問題は、日本の法律でもなければ、憲法ですらなく、日本の官僚と米軍との「密約」で取り決められることになっている、ということである。この密約は、憲法の上に位置するもので、日本の官僚は、地位の保全上、それに従うだけだから、実質上は、米軍が好きなように決められるものになっている。

具体的には、米軍は、日本の上空を、好きなように飛ぶことができる。日本のどこにでも、基地を作ることができる。実質、治外法権的な扱いを受ける。原発にも、日米原子力協定によって、基地の場合と同様のことがあてはまる。日本に対しては、国連の「敵国条項」が今でも生きている、などである。米軍は、日本の原発を攻撃対象として、いつでも破壊できるというオプションをもっているという、驚くべき事実もある。

しかし、最も重要な「知ってはいけない」ことを、一つ絞って言うなら、それは、「非常時には、米軍の指揮官が、自衛隊を自由に指揮することになっている」ことである。

日本は、「対米従属」とか、「米国の属国」ということが、これまでにも言われて来たし、かなりの人はそれを現実として受け止めているが、この書では、これらのことが具体的な資料を通して、明解で分かりやすい論述で、説得的に説き明かされている。それは、改めて突きつけられると、やはり衝撃的なことではある。

私も、東京にいたとき、米軍機のあまりにもの超低空飛行を経験し、それに驚くとともに、むしろ周りの人が、それに対して、怪訝な顔すらしないことに驚いたことがあって、実際どうなっているのかと思ったり、最近も、ケムトレイルに関して、米軍機が日本上空を自由に飛んで、まき散らしているのだとしたら、それを追究することは、事実上不可能になるではないかと、自国の領空を他国の軍機に、自由に飛ばれることの恐ろしさを、改めて感じたりもしていた。

しかし、それは、本当に、そのとおりになっているということだ。

安倍首相は、「憲法9条に自衛隊の存在を明記する」というが、それは、前に成立した安保法と先の「知ってはいけないこと」に照らせば、どういうことかと言うと、「非常時(と米軍が判断するとき)には、米軍が自由に指揮できる日本の軍隊を、憲法上はっきりと認める」ということになる。自衛隊の存在自体を、憲法上明記することは、曖昧な状態を排して、好ましいことではないかと考える人もいると思うが、とても、そんなことではない。米軍の都合で戦争できることを、憲法上も認めることに、直結するのである。

そして、新党「希望の党」も、憲法改正については、内容は明確ではないが、基本的に安倍と同じ路線に立っている。つまり、米軍の都合で戦争できる路線である。

選挙前に、これらのことは、最低限踏まえておかなくてはならない。

この書でも、それは「米軍」(実際には、「米軍」の背後の軍産複合体とか金融資本家とか、ネガティブな宇宙人も絡む「秘密政府」などの「支配層」であるが)の都合であって、「米国」そのものの都合ではないことが述べられている。トランプも、自国第一の範囲で、やはり同じように理解していることだろう。

そもそも、私も、これまで、「知ってはいけない」ことを、多々述べてきたわけだが、それは、本質的なことではあるが、多くの者にとって、あまりにも認め難いことの故、「知ってはいけない」ことのまま、今後も当分はあり続けることだろう。

ただ、今回述べたのは、「知ってはいけない」ことの危急版で、これについては、もはや「知らない」ことは、許されないことと思う。

2017年9月14日 (木)

映像に映り込む「怪奇」と「霊的鏡像」

レプティリアンについては、デービッド・アイクが、英国王室や地球支配層の一族は、レプティリアンとの混血種だとし、人間の姿は仮の姿で、ときに本当の姿に「変身」してしまう。その証拠に動画を切り取った映像に、目など体の一部に、人間としては不自然な映像が見られる、ということを言っていた。

記事『「捕食者」にとっての「陰謀論」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-239d.html )でも軽く述べたが、これはあまりにも根拠薄の決めつけで、「おどろおどろしさ」ばかりを前面に際立たせるものである。また、そういった映像は、曖昧で、ロールシャハテスト並に、いくらでも解釈が可能なうえ、フェイクの可能性も高い。そういうもので、人をレプティリアンと決めつけるのは、いかにも軽薄である。

それで、私はアイクには不信をもっていたのだが、最近の『ムーンマトリックス』などでは、こういった現象は、レプティリアンへの「変身」というよりも、レプティリアンの「憑依」または「影響」受けた結果、一時的に起こった現象という見方に変わって来ているようである。

支配層が、レプティリアンとの結びつきが強く、影響を受けやすいのは確かと思われ、レプティリアンとは限らず、何かの霊的影響が働いた場合、それが映像に何らかの形で映り込むということ自体は、いくらでもあることである。後にみるように、いわゆる「心霊写真」か典型である。恐らく、アイクの言うように、そういったものの映像の一部は、確かにそういう現象を捉えたものでもあるのだろう。

「集団ストーカー」についても、Youtubeなどで、ストーカー行為をする者を撮った映像に、体の一部などに不自然な部分があるから、レプティリアン等の「宇宙人」だというものがあげられることがある。

このような映像も、アイクの「変身」の場合と同様、曖昧な、根拠薄のもので、とてもそのまま受け取ることはできない。しかし、先にみたように、その映像が、レプティリアン等の「宇宙人」か、他の何かの霊的存在の影響または操作を受けているときの現象を、捉えたものである可能性は十分あると思う。

一般に、「心霊写真」も、「おどろおどろしい」ものが多いが、こういった、人間に巣くう「捕食者」的な存在の影響が入り込んだときの映像も、やはりどこか、恐怖をもよおす、「おとろおどろしい」ものとなりやすい。身体の一部が、普通は起こり得ないような、動きをしていたり、見るからに、異様な印象をもたらすものとなっていたりである。

「心霊写真」では、強烈な印象をもたらすものとして、よく、身体の一部が明らかに欠けているものがある。これは、霊能者、故宜保愛子などは、「その部分にけがなどをする危険があるから、気をつけるように」という、霊界からのメッセージだとしていた。そういったことはあり得るし、「おどろおどろしい」と感じてしまうのは、我々の霊的なものに対する無知からくる面も、多分にあるだろう。しかし、「捕食者」的な存在の影響が働く場合には、こういうものも、実際に、何か「脅し」めいた、「おどろおどろしい」ものとなりやすいのである。

そして、実は、「捕食者」的な存在の影響が映像に映り込む場合というのは、他にも、相当広くあるとみられるのである。肉眼には、はっきり捉えられなくても、写真やビデオなどの映像を解析してみれば、そういったものが映り込んでいるとみられる場合は、意外と多いということである。

その一つの例として、テレビなどのCMの映像をあげたい。

ウィルソン・ブライアン・キイは、『メディア・セックス』(集英社文庫)という本で、CMの映像に、死やセックスを暗示する映像や、そのものの文字などが、サブリミナル的に埋め込まれているという。その映像が多く紹介されていて、中には、ロールシャッハテスト並に曖昧なものも多いが、確かに、はっきりと、そういったものが映っているとみられるものもある()。キイは、それらのサブリミナル映像は、消費者の消費の欲望を刺激することで、売上を伸ばす効果がある、というのである。

また、前々回からとりあげている『スターシード』でも、「広告というのは、潜在意識に訴えかける強力な攻撃」だとし、「最も一般的な手段は、言葉(たとえばセックスなど)の挿入」であるということが、言われている。

死やセックスを暗示する映像や文字が、消費の欲望を刺激するというのは、確かにあるだろうが、それは恐らく、その効果の一部に過ぎない。実際には、もっと根源的なレベルでの欲望の刺激と、死への誘惑が図られ、それを通しての、精神的な堕落や弱体化が図られているとみられるのである。

このような映像を埋め込んだのは、とりあえず、直接には、CM製作の人間ということになるだろう。ところが、ごれらの映像の中には、とても人間のアイデアとは思えないような、見事に「おどろおどろしさ」を醸し出しているものもあるのである。

CMとは別に、テレビの映像に、このような「おどろおどろしい」ものを見るというのは、私も、一連の体験中に、いやというほど体験したことだった。多くの「統合失調者」も、類似の体験をしていることだろう。ただし、これは、その映像そのものが、本当にテレビの映像の中に入り込んでいるのではなく、我々の内部に生み出された幻覚的な映像が、テレビに「投影」される形で、映し出されたものである(はずである)。

しかし、このような、CMに入り込んでいるとされる映像も、その「おどろおどろしさ」は、このような幻覚的映像と非常に似た、同質のものと感じられるのである。そして、そこには、(幻覚的映像の場合と同様に)「捕食者」的な存在の影響が入り込んでいることが、うかがわれるのである。つまり、これは、先に述べた、「捕食者」的な存在の影響が、何らかの形で映り込んでいる映像の、一つの例と解される。
             
さらに言うと、これらの映像には、人間の「集合的な意識」が入り込んでいるという場合もあると、私は思う。上に見たように、個人の意識が、そう簡単に、テレビの映像に、(客観的に)入り込むなどということはないはずだが、人間の「集合的な意識」となると、そうとも言えない。ユングも、「集合的な無意識」が、物質的な現象として、何らかの形で現れ出る場合があることを認めていた(UFOもその例としていた)。

つまり、現代では、我々の「集合的な無意識」自体が、相当に、「おどろおどろしい」ものを形成し、それがテレビなどの映像に「投影」されるというだけでなく、実際に「入り込む」ということも、起こっていると解されるのである。現代人は、かように、「捕食者の影響を受けている」ということであり、あるいは「病んでいる」ということでもある。

そして、さらに言うと、テレビなどの映像ではなく、その本人が撮るカメラやビデオなどの映像では、その本人自身の個人的な意識というか「想念」が、映像として入り込むということは、十分あり得るのである。いわゆる「念写」というのがそうだし、先にみた「心霊写真」でも、実際には、撮影した本人自身の「想念」が入り込んだというものも多いはずなのである。

これら「想念」が、映像として現れ出たものは、既に何度かみたように、シュタイナーでいえば、「霊的鏡像」である。その者の「想念」が、鏡に反射されるようにして、霊的に「実体化」して現れ出ているということである。シュタイナーは、初め、「霊界の境域」で出会われる霊的映像は、客観的な存在のものではなく、このような、自分自身の「霊的鏡像」であることが多いと、注意を促しているのである。本来は、そのように「霊的レベル」で現れ出るもので、先の「統合失調者」が内的な幻覚として見るのも、そのような「霊的鏡像」である可能性がある。

ところが、写真やビデオなどの映像は、それらを一瞬捉えて、映し込むこともままあると解されるのである。いわゆる「念の強い」人ほど、そういうことが起こりやすいし、「捕食者」的な存在の影響があるときには、そういうことは、余計に起こりやすいといえる。

現代は、「現実」または「世界」そのものが大きく揺らぎ、全体として、一種「霊界の境域」と化していることも述べて来たが、そのような状況では、このような映像が映し込まれる可能性も増大するのである。

先に、「集団ストーカー」を撮った映像に、不自然な部分があるということて、「宇宙人」とするものがあることを述べた。これにも、単に「不自然」というのではなく、相当に「おどろおどろしい」ものが、みられる。

実は、これなども、撮影した本人の「想念」の「霊的鏡像」が映り込んだものである可能性が、かなりあると思われる。周りの人間や世界を、「集団ストーカー」という強い疑いのもとに見ているため、その恐れが、対象に対して、何かしら「おどろおどろしい」ものを、鏡像として、映し込ませているのである

それだけ、普段から、「世界」を「おどろおどろしい」ものとして、感じ取っているということの現れであり、同情に値する事態ではある。

※ https://www.youtube.com/watch?v=ONyBEUOT7BA  ここに映像の例がある。性的イメージやセックスの文字が多いが、ドクロなど死を暗示するイメージもある。

2017年8月25日 (金)

「MIB」のその後と「集団ストーカー」

これについては、本当はあまり触れたくなかったのだが、現在では、「集団ストーカー」はレプティリアンなどの「宇宙人」そのものの行為である、という見方も出で来ているので、この辺りで触れておくことにする。

前に、記事『要は「非-人間的なもの」/「MIB」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-a77a.html)、次の『他人を「巻き込む」こと』で、「MIB」(黒服の男)と呼ばれる存在について述べた。全身黒ずくめの、いかにも秘密めいた格好の男たちのことで、UFOの目撃者などの前に現れて、いろいろ質問し、秘密を漏らしたらひどい目に遭う等の「脅し」めいたことを言って、去って行く。UFO目撃のことは、誰にも言っていなくても、なぜか知っているのである。一度ならず、「つきまとう」ように、何度も現れることもある。その振る舞いは、いかにも不自然で、異様であり、常識を知らず、人間とはとても思えない。初めは、CIAなどの諜報機関の人間と思うが、問い合わせても該当者は存在しない。このように、謎の存在なのだが、「オリオン系の宇宙人」ともいわれている。「宇宙人」そのものは、異次元的存在なので、「物質化」して現れているわけである。

しかし、前の記事でも述べたように、今やこんなことは行われていない。かつては、UFOの目撃というのは、特別の珍しい出来事であり、いろんな意味で、不安を招くことだった。UFOも、「宇宙人」というよりも、軍の秘密兵器とみられることが多く、だからこそ、軍の秘密に関わったという意味での不安も喚起した。MIBというのは、そのような目撃者の不安につけ込んで、さらに恐怖を膨らませるような事態を演出するものである。

「全身黒ずくめ」の格好も、まさにCIAなどの諜報機関を装ったものだが、それはそのように、軍の秘密に関わると思われていたからこその演出である。そうして、「脅し」めいたことを言うわけだが、それもまた、真の目的などではなく、恐怖を拡大させる演出に過ぎない。

このように、諜報機関の者の訪問を受けて「脅し」を受けたというだけでも、相当の恐怖だろうが、その存在の、人間とは思えない、異様な振る舞いを間近にすることは、さらなる恐怖を喚起したはずである。このような、日常性の範囲を超えた、理解困難な、「訳の分からない」恐怖をもたらすことこそ、真の目的なのである。また、そこには、一種「愉快犯」的な面もあると思われる。

ところが、現在では、UFOの目撃などは、日常茶飯のことであり、写真やビデオにも撮られ、誰はばかることなく、人に語られ、メディアにも投稿される。もはや、UFOの目撃自体に、特別の秘密の意味合いや、不安はつきまとわないのである。また、CIAなどの諜報機関も、もちろんその秘密性がなくなったわけではないが、ある程度情報が知られ、かつてほどの「得たいの知れない」恐怖のイメージはなくなった。

だから、それにつけ込むような形での、恐怖の演出というのも、もはやなされることがないのである。

しかし、それなら、かつての「MIB」のような、「超暇人ゴロツキ宇宙人」は、今は何をやっているのだろうか。もはや「更生」して、「マジメに働いている」とでもいうのだろか。そんなことはないだろう。

「MIB」というやり方が、時代に沿わなくなったというだけで、現在も、かつての「MIB」に似た、我々の不安につけこんで恐怖を拡大するような演出はなされているはずである。そして、それは、現在では、「集団ストーカー」以外ではあり得ないという気がする。

記事『映画『激突』と「集団ストーカー」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a8e7.html)でも述べたように、「集団」がある個人に対して、「ストーカー行為」をするというのは、個々人が切り離されて、孤独な現代人の不安を、見事についた発想である。かつての、「UFO目撃」の不安に、相当するものということができる。しかも、この「集団ストーカー」も、かつての「MIB」同様、真の恐怖は、ただ普通の意味で、「ストーカー」行為をされるということにあるわけではない。日常性の範囲を超えた、不自然な振る舞い、あるいは、内面の思考を見通したかのような、絶妙なタイミングでの現れという、「訳の分からない」要素にこそあるのである。

実質的に言って、やっていることは、かつての「MIB」と非常に似ているのである。

だから、私は、「集団ストーカー」というものを「演出」する存在がいること自体は、否定しない。

しかし、注意すべきは、これはあくまで、我々がもっている不安や、既にある観念につけこむ形でなされている、恐怖の「演出」ということである。かつての「MIB」が、実際にUFO目撃者の口止めをすることが目的ではなかったように、「集団ストーカー」なる行為をすること自体が目的なのではない。ただ、このような「演出」が醸し出す、恐怖の拡大が意図されているだけなのである。そして、そこには、やはり、「愉快犯」的な面が多分にある。

当然ながら、これは、多くの「被害者」が「集団ストーカー」とみなす行為が、いちいち「宇宙人」によってなされている、などということを意味するのではない。
また、「集団ストーカーの演出」というものはあるにしても、このような直接「宇宙人」が前面に現れるようなやり方は、決して通常のものではない。

「集団ストーカーの演出」というのは、既に述べたように、同時的に、偶然とは思えないような現象を起こす、「共時性」の演出とか、他の人間を操作して、意味ありげな振る舞いをさせるなどの方法によるものである。あくまで、「操作」による演出であって、自身が前面に出るなどということはない。ただ、稀に、上に述べたような、直接「宇宙人」が「物質化」して現れる場合もあり得る、というほどのことである。

私が、これに触れたくなかったのも、このような場合が多くあるかのように思われるのは、望ましくないからである。

繰り返し述べたように、「集団ストーカー被害」なるものの多くは、「集団ストーカー」なる観念を強く信じてしまったが故の、「思い込み」か、「引き寄せ」現象である。「集団ストーカー被害」を受けているかのような感覚を生じた場合には、まず第一に、この可能性が考慮されなければならない。さらに、たとえ、何らかの存在に、「集団ストーカーの演出」行為を受けているという場合にも、それは、「共時性」の演出とか、他の人間を操作するという方法でなされる。だから、直接目の前にしている人間そのものが、「ストーカー」というわけではないのである。

ただし、それを踏まえたうえで、あえて言えば、そのほかにも、非常に稀な場合として、直接「宇宙人」が「物質化」して現れる場合もある、ということなのである。

私自身も、このようなことを何度か経験しているし、そのうちのいくつかは、直接何かの行為を仕掛けてくるのではないが、確かに、こちらの内心の思いを見越した、絶妙なタイミングでの「つきまとい」的なもので、こういうのに出会えば、確かに、「集団ストーカー」なるものがあると思ってしまっても仕方がない、と思えるものだった。

何しろ、このように、直接「宇宙人」(または人間以外の存在)が現れる場合には、無視し難く、非常に強烈な印象を残すことになる。それが、「集団ストーカー」的な振る舞いをすれば、「集団ストーカー」なるものがあるという確信を、強くもってしまうことになるのである。それで、そうでない場合、つまり他の多くの者の行為も、「集団ストーカー」という疑いのもとに、解釈するように仕向けられることになる。

ただし、この場合には、「共時性」や「人間の操作」の場合とは違って、そこに、多くの者を関わらせるということはできない。「共時性」の演出や「人間の操作」の方が、「多くの人間がストーカーをしてくる」という意味での恐れとリアリティは醸し出すことができるので、それぞれ、演出の効果は違うのである。

さらに、「物質化して現れる」というのは、彼らにとっても、エネルギーのいることであり、また非常にリスクのあることで、そう頻繁にできることではないようである。だから、これは、よほど彼らに、「睨まれた」(ある意味「好まれた」)人物が、稀に行われることのあるものと言うべきでなのである。

現在は、「被害者」で、レプティリアン等の宇宙人が、「集団ストーカー」の犯人とみなしている者も、結構いるようだが、本当に「宇宙人」といえるのは、そのうちの一部のみであり、しかも、その行為とされるもののうちの、ほんの一部と解されるのである。

とはいえ、「人間以外のもの」が人間の装いをして、物質化して、人間の前に現われるということ自体は、昔からあったことで、現在に特別のことというわけではない。たとえば、「狐に化かされる」などというのにも、そういったことが含まれている。

また、それらは、決して「悪さ」ばかりをしたわけではない。そのようなことを通して、人間を救ったり、いろいろ教えたりということもあったはずである。

しかし、上にみたような、「ストーカー」紛いのものは、いかにも卑劣なもので、本当にどうしようもないものと言うしかない。やっていることは、そこら辺の「低級自然霊」と何ら変わりない。こういったものに出会ってしまったときには、むしろ、いかにこういうものに振り回されることが馬鹿げたことかを、改めて確認する機会にした方がよい

2017年7月27日 (木)

チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 2

今回は、主に『悟って<今ここで>アセンション』(以下『アセンション』と略)を参照に、薬の害毒と操作性について、さらに具体的にみていきたい。

まず、薬の利用一般について、次のように述べられている。

多くの人は医者に行き、不安な心を満足させるために薬を飲み続けます。それは医療業界がスピィーディに豊かになるのに貢献し続けます。」
「そういった薬は、病気を治すためのものではなく、心を満足させているものであるということを自覚することです。なぜなら、80%以上の病気だと信じているものは存在していないものです。自分で作り出しているものです。

また、薬の害毒は霊的なものにも及ぶことが、次のように言われている。

あなた方は薬に依存し、自分の肉体、エネルギー体を汚し続けることになります。それでは、ネガティブ勢力の思うツボになります。
 薬の中にある化学物質の毒素によりネガティブな霊的エネルギーの影響を受けやすくなり、人のエネルギーをえさとしている霊的パラサイトやエレメンタルを自分の体内に呼び込むようになります。

「霊的パラサイト」や「エレメンタル」については、何度も述べて来たので、改めて説明は不要であろう(記事『「分裂病」と「エレメンタル」(生き霊)』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post-8aca.html)や『『恐怖を超えて』-捕食者的な「精霊」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e453.html)を参照のこと)。何しろ、霊的なレベルで、精神に巣くって、ネガティブな影響を与え続ける存在である。後述のように、それは「統合失調状況」とも類似の状況のわけだが、「統合失調状況」も、まさにこれらの存在に振り回される状況であることは、何度もみて来たとおりである。

薬の操作性については、前にとりあげた記事(『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)では、「ナノテクノロジーによって、医薬品に混入して、人類を、中毒的、依存的にさせ、大人しく従順にざせるとともに、クローン化を促進させる技術」という風に要約して述べていた。ここでは、その元となる文をあげておく。

「患者に用いられる医薬品は年々強いものとなり、薬の効果により人々は半眠状態となり、その結果、文句を言うこともなく、薬はもういらないと拒絶することもありません。
 薬のプロジェクトは、ドラッグ(薬物)を通して、人々を黙らせコントロールすることにあります。」
「薬はしばしば人格を変えてしまうことすらあります。
  強力な薬を使用すれば、秘密政府のネガティブ勢力に操られていくという方程式を、人々は知らされていません。それは、患者の魂やエネルギー体をクローン化し、その患者が亡くなれば、ネガティブ勢力の苦しみの世界に存在するクローンのえさとして使われるのです。」

そして、このような薬の効果は、「ラボラトリーで薬にナノテクノロジーが使用できるようになった」ことで、可能となり、強化されたことが言われている。つまり、あえて、ナノテクにより意図的に混入されているのであり、そこには、宇宙人による技術も入り込んでいるということである。

前回の『あなたはいまスターシードとして目覚める』(以下「スターシード」と略)でも、「マインドコントロールするために故意に薬物に入れられている」ものがあると述べられていた。それは、ここでいう、「ナノテクによって、混入されるもの」と、同じものと言っていいだろう。

さらに、操作性については、主にスマホやネットの情報機器に絡んでだが、エーテル体に、「チップ」を形成され、コントロールを受けることも強調されている。

また、「クローン化」については、遺伝子レベルでも変化を受け、世代に伝わるものとなることや、単に人間をクローン化するというだけでなく、宇宙人に人間の魂やエネルギーを与えることで、人間に近づけた、一種の「ハイブリッド」的な「クローン」が作り出されるという、かなりおどろおどろしいことも述べられている。

この「クローン」と「クローン化」ということは、このようなプロジェクトの目的といえるものだから、重要なものだが、いずれまた改めて触れるとして、今回は、操作性のメカニズムについて、もう少し具体的に踏み込んでみたい。

この操作性のメカニズムについては、『スターシード』では、端的に、「意識を変容させて非現実的な状態へ引き込む、つまりあなた方の現実認識と自己同一性を鈍くさせる」ことによる、と述べられていた。これは、脳のレベルでいえば、「神経伝達物質の分泌」を撹乱し、操作することによるわけだが、「操作性」にとって重要なのは、要するに、意識の状態、精神の状態を、彼らの「操作しやすい」状態に変容させるということに尽きる

既にみたように、『アセンション』でも、同じようなことが、「半眠状態」にするということで言われていた。

さらに、この「意識を変容させて、現実認識と自己同一性を鈍くさせる 」とか、「半眠状態」というのは、「統合失調状況」に入ることて起こること、そのままでもあることに注意を要する。「操作される」というのも、まさに、「統合失調状況」にある者が訴える、主要な感覚である。

このような、薬による操作性とは、人を疑似的に、「統合失調(類似の)状況」に陥らせることでもあるのである。薬、特に精神薬が、「統合失調症を作り出す」といわれる所以であり、それには、霊的レベルからみても理由があるということである。また、現に「統合失調状況」にある者にとっては、精神薬は、さらにその状態を、拡大させることにもつながるのである。

ただ、この「操作性」のメカニズムとして、「意識を変容させて、現実認識と自己同一性を鈍くさせる 」とか、「半眠状態」というのは、包括的ではあるが、かなり曖昧で、抽象的なものと言わねばならない。これでは、具体的なレベルで、都合のよいように操作するということまでは、連想しにくい。

私自身は、「統合失調」状況における「操作性」について、霊的存在によるものを、かなり具体的に示して来た。『アセンション』でも、霊的なレベルでの操作性が述べられているし、それは既に述べたように、「技術」ということとも絡んで行われ得る。実際、支配的な「宇宙人」(の技術)と、「霊的存在」(の霊的な働きかけ)との「協力」によって、なされていることも述べられている。

このような霊的レベルでの操作性のメカニズムについては、基本的に、次のようなことが考えられる

シュタイナーは、生きている間に、エーテル体と肉体が分離するのは、ある種の秘儀に参入したときに起こることだが、それ以外にも、命の危険に関るような強烈なショックを受けたときや、催眠術を受けたときにも、起こるとしている。(『薔薇十字会の神智学』)

エーテル体が、肉体から離れるのは、死の場合に起こることだが、これが、生きている間にも、一時的に、部分的な範囲で、起こり得るわけである。それは、一種の死の体験(体外離脱)であり、知覚としても、肉体の知覚ではなく、霊的な知覚をもたらすことにもなる。

この「エーテル体のずれ」は、統合失調状況でも起こることといえる。(様々な対象による)強烈なショックや(霊的存在による)催眠術的な誘導は、統合失調状況でも、まさに起こることだからである。また、シュタイナーもどこかで述べていたと記憶するが、神智学のリードピーターは、アルコールや薬物が、同じように、エーテル体を肉体からずらして、霊的な知覚(幻覚)を起こすということ。さらに、アルコールや薬物は、エーテル体を損傷させ、亀裂を生じさせることによって、霊的存在による憑依や操作を受けやすくすることを述べている。

要するに、薬物の効果により、催眠術や統合失調状況と同様、「エーテル体のずれ」が生じ、「霊界の境域」に入ったのと同様の状況が作られるのである。そうして、「現実認識と自己同一性が鈍くなる」と同時に、幻覚などの知覚の異常が生じやすくなる。さらに、エーテル体がむき出しになるばかりでなく、亀裂を生じるので、それを通して、霊的存在による憑依などの操作を受けやすくなるということである。

これを図で示すと、次のようである。

Photo

「エーテル体」というのは、思考や記憶が刻み込まれた「情報の媒体」ともいえるから、これが肉体からずれて、むき出しになるということ、しかもそこに亀裂があるということは、このような情報が、外部の霊的な存在に「だだ漏れ」の状態となることを意味する。ちょうど、パソコンに個人情報を保存したまま、何のファイヤーウォールもパッチもなしに、ネットで怪しげな領域をうろつくようなものである。

また、むき出しのエーテル体の亀裂から、いいように操作的な情報を吹き込まれることにもなり、あるいは、そこに、チップのようなものを取り付けられることにもなる。これは、ネットを通して、パソコンにデバイスを取り付けられるようなものだろう。

霊的存在にとっては、その者の思考や記憶を読みながら、いいように操るのに、全く都合のよい状態ということである。もちろん、技術との協力によれば、さらに操作の精度が高められることになろう。

薬物等の影響によるのではなくとも、「霊界の境域」では、よほど統制された自我及びエーテル体を保持しているのでない限り、自己同一性が揺らいで、エーテル体の相互浸透が起こることは必然である。だから、自然に「霊界の境域」に入った場合にも、このようなことは起こり得る。だが、統合失調状況では、霊的存在の殊更な継続的な攻撃によって、薬物の場合と同様に、エーテル体の損傷ということも、なされると思われる。それで、やはり、操作性が高められているわけである。

いずれにしても、薬物と統合失調状況では、霊的にみても、かなり似た状況が生じているわけである

ちなみに、『スターシード』では、マインドコントロールの手段としては、情報収集機器による情報の収集と脳の操作という方法も、「今後何年のうちに可能となるもの」として述べられている。実際、現在では、これが機能している可能性もあるわけだが、私は「技術」としてはもはや存在しているとしても、具体的なレベルで個々の人間を自由に操作できるほどの精度には、まだ達していないと踏んでいる。個々の人物の一々の思考に対応する操作を技術でなすとは、限りなく大量の情報の管理や処理を含むことであり、それは宇宙人の技術といえども、そう容易になし得ることではないはずなのである。

また、このような最新かつ高度の技術は、たとえあるにしても、支配層の上に立つ宇宙人か、せいぜい地球の最上部の支配層が独占的に使用するのが当然であって、そこら辺の組織や宗教団体が、保有したり、使用できるものではない。ターゲットとしても、狙われるのは、彼らからみて、本当に都合の悪い、一部の者のみのはずである。(この点で、巷にいう「テクノロジー犯罪」が、広く行われているとみるのは無理である。)

さらに、これらの技術は、いかにも万能の技術のように思われ、人間を大きく不安に陥らせるものだが、一方で、私も何度か述べたように、「意識のありよう」で、防ぐことができることは、『アセンション』でも『スターシード』でも、はっきり述べられている()。使う側からすれば、弱点も多いのである。

ところが、精神薬による操作や、霊的な存在との協力に基づく操作は、本当に簡単になし得るものであり、しかも、もはや対象の意識が変容されているだけに、「意識のありよう」で防ぐなどということも難しい。操作性としても、人格から改造されるという意味では、より根本的な方法であり、さらに霊的には、「魂」のレベルで、改造されるということまでをも見通している。『アセンション』でも、これらは、遺伝子的な変化をもたらし、世代に伝わる「クローン化」につながるといわれていた。

このようなことは、既にみたように、薬物だけでなく、各種情報機器や食品の添加物によってもなされることである。だから、薬物だけ避ければ回避できるというものでは、もちろんない。だが、それらの中でも、精神薬による操作は強力なものというべきであり、この精神薬の危険は、改めて重視されてしかるべきである。また、同時に、薬物は、本当に危険を認識すれは、他のもの以上に「避け得る」ものという意味でも、改めて指摘することには意味があろう。

9月2日

重要なことなので、実際に、『スターシード』で言われているものをあげておく。

そのような科学技術の使い手たちは、単に行動そのものを観察することよりも、特定の行動をさせるように人間を操作することにはるかに関心があるということに心を留めておいて下さい。もし個人の位置を特定できれば、彼らは確実にその人をとらえることができるでしょう。自らのはっきりした意思とその性質によって、あなた方が電磁気による彼らの「メッセージ」の周波数を造作なく変化させる場合を除いての話ですが。それは、人間の精神、身体、感情の状態によって決定されます。ですからあなた方が完全に正常な心で―自分の意思を明確にして―行動していれば、そのような装置の影響はもしあったとしても、ごくわずかでしょう。

人間の操作とは、(電磁的な)特定の周波数による思考、感情の操作に外ならないので、そのような周波数に影響されないだけの、主体的な「意識」を保っているかどうかが、鍵となるのは当然とも言える。しかし、逆に言えば、だからこそ彼らは、人間の主体的な「意識」を様々な戦略を使って弱体化させ、奪い取り、「クローン化」しようとするのである。その中でも、強力なのが、「精神薬」による方法なのだと言える。

2017年6月30日 (金)

チャネリング情報にみる薬の害毒と操作性 1

前に、記事『身近に入り込んでいる「宇宙人の技術」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-7e52.html)で、医薬品との絡みで、『悟って<今ここで>アセンション』を少しとりあげたが、最近は、チャネリング情報においても、薬の害毒と操作性(薬によって、操作されやすい人格または精神状態が作られること)がしっかりと指摘されているようだ。

今回とりあげるのは、パトリシア・コーリ著『あなたはいまスターシードとして目覚める-シリウスの超叡知3』(徳間書店)という本。(この手のものに、このような浮いたタイトルとやたらと「超」がつくのは、「超お約束」 )

これはシリウス系のチャネリングものだが、このシリーズは、プレアデス系の『プレアデス+かく語りき』と並んで、多岐にわたる濃い内容の情報がつまっていて、説得力もあり、有意義である。また、薬に限らず、支配層やアヌンナキのような支配的宇宙人が、人類誕生以来人間になして来た策略が、かなり詳細に述べられている。

いずれ、それらもとりあげてみたいが、今回は、薬の害毒と操作性に絞ってとりあげたい。これについては、第8章の『富と権力、欲望が蔓延させた薬物と武器』のところで、集中的に述べられている。できれば、私の要約的な説明ではなく、原文をじっくり読んでほしい。

薬の害毒については、「習慣性の薬物を体内に取り込むことは、あらゆる面であなた方の幸福と魂の旅に損失を与える」とされ、「薬物の常用は狂気―自己嫌悪と自滅の一種」とされる。また、「薬物を利用する」ことは、「下方に吸い込まれ闇のらせん構造に捕らわれることを自らに許す」ことだとされる。後に述べるように、自ら「闇」の懐に飛び込んで、「操作」を受けやすくすることだからである。

注意すべきは、これらは麻薬等の違法な薬物について言われているのではなく、医療に使用される「調合薬」や「化学薬品」を含めて、言われていることである。というよりも、むしろ、合法的であることによって、当然のように普及されるという意味では、こちらの方こそが、戦略的に重要なものとして言われているのである。

「あまりにも多くの人々が何も考えずに化学薬品を服用し続けているために、産業は潤い、巨万の富を生み出しています。大衆が自分は病気だと思い込み、すべての痛みや否定的な感情、さらに症状が現れるのを薬で麻痺させて抑制しようとしているからです。あらゆる種類の即効治療薬が蔓延しているせいで人類の不安が持続しているということに、人間はいつ気がつくのでしょうか。」

「麻薬使用者を公然と嘲り非難する一方で、「社会で認められた」治療薬であると銘打った市販の医療品で救急箱をいっぱいにしている人は、「薬物乱用」の意味を考え直すのが賢明です。ただ街角の密売人から得た違法の鎮痛剤を飲んでいないというだけでは、依存から解放されたとは言えないのです。」

特に、精神薬、中でも「抗うつ剤」については次のように述べられる。

「抗うつ剤の投与の危険性については、あなた方が知らないことがたくさんあります。…しかし、薬剤師の人たちは、そのような強力な調合剤によって神経系と内分泌系にどのような副作用が起こる可能性があるのかを知っているのです。これらの中には、社会の特定の党派をマインドコントロールするために故意に薬物に入れられたものもある、とあえて断言しておきましょう。
  結局、あなた方が権威へ抵抗するのを制圧するには、意識を変容させて非現実的な状態へ引き込む、つまりあなた方の現実認識と自己同一性を鈍くさせるよりほかに、どんな方法があったというのでしょう?」

さらに、その操作性について次のように述べられる。

「不幸にも、あまりに多くの医師が、人間が生命と向き合う能力を覆い隠している感情の出所に行きつくよりも、むしろ心の痛みを忘れさせるために投薬治療を行い―喜びを感じることも止めさせてしまっているのです。時間とともに、そうした人々はまったく何も―痛みも喜びも―感じなくなるのですが、それはあなた方を支配して、あなた方の思考と習慣を操作したいと願う人物にとっては非常に魅力的な可能性なのです。
  今やあまりにも多くのロボットがあなた方の周辺をうろついており、彼らの精神は抗うつ剤と精神安定剤によって改造されています。」

精神薬は表面上、確かに(一時的には)精神的な苦しみや痛みを忘れさせてくれるかもしれないが、結局は、痛みも喜びも感じない、「ロボット」へと人格を改造し、支配層や支配的宇宙人によって、いいように操作される人間を作り出しているということである。精神薬が、人間を弱体化させて、柔順にさせること。霊的な意味でも、憑依(影響)を受けやすくすることは、私も記事で何度も述べて来た。また、初めにあげた『悟って<今ここで>アセンション』にも、同様のことが、より詳しく述べられていた。

そこで、次回は、この操作性のメカニズムについて、『悟って<今ここで>アセンション』をさらにとりあげつつ、もっと具体的にみることにしたい。

ただ、今回とりあげた本では、それでは、薬の依存からどのように抜け出すかについても、有用なことが述べられているので、それを紹介しておくことにする。

「第一段階として、あなた方の心の平安を乱し、投薬治療を催眠誘導するテレビやその他の宣伝による情報量を大幅に減らすよう決断して下さい。
  救急箱の中にある薬を全部よく調べてみて下さい。…とにかく、薬のラベルを読んで下さい。これら、人体に負担をかける化学薬品は有害であり、たいてい不必要なものです。あなた方の不調を引き起こすものを覆い隠しているのです。」

しかし、端的に重要なこととは、そもそも健康でいること。また、たとえ病気になったとしても、医薬品に頼らずに、自然に治す方法を身につけることのはずである。

それについては、次のように述べられている。()

「人間は簡単にほかの病気に同調することもあれば、健康でいるという決心もできます。つまりそれを自分の体に強く要求できるということに気づいて下さい。」

この「健康でいるという決心」こそが、最も本質的なことであると、私も最近強く思う。逆に言えば、「病気でいる」ことが、潜在意識のレベルで望まれている場合が、多くあるということである。いずれにせよ、結局は、「意識」の問題ということであり、本当に「決心」しているか否かということである。また、そのような認識を通して、「意識の力」を改めて確認することにつながるのなら、それも貴重な随伴効果というべきである。

しかし、それでも病気になってしまうことはあるだろうが、その場合は、その「病気」が、「必要」なものとして起こっているということである

「薬の代わりにできる健康法と、健康であるための心身一体となったアプローチを考えて下さい。あなた方はたいてい自分の身体に病気を処理させる前に医薬品に手を伸ばしますが、いかなる痛み、不調も原因を理解することが大切です。その兆候が身体に潜む問題を示していることがよくあるので、その原因にたどりつくために、一時的な症状を受け入れ経験しなければならないのです。」

「疲れたときは休養して下さい。風邪やインフルエンザに感染したら、自然の成り行きに任せて下さい。…多くの場合、体の不調は、人間を極端な疲れや病気などの状態にさせる仕組みを解除し、横たわらせる、あなたの身体なりの方法なのです。」

※ 7月4日 入れようと思っていて、抜かしたものがあるので、追加しておきます。

毒性を増していく地球の環境によって、かつてないほどの大きな問題がつきつけられていても(バランスのとれた食事によって栄養をとり、健全な環境にあり、心が前向きなものの見方をしていれば)、人間の体が健康のバランスを維持するために化学薬品は必要ありません。

2017年6月15日 (木)

コメントの投稿についての注意とお願い

コメントの投稿は、私の書いた記事に関して、参考となる事実や情報の提示、質問や疑問などによって、私もそれに対する応答として、記事の内容を補足したり、敷衍したりできるので、基本的には有り難く受け止めております。現に、これまでこういうことが多くありました。

ただ、もともとほとんど読まれていなかった私のブログも、ある程度「読まれる」-というより「知られる」と表現した方がいいでしょうが-ようになったせいか、こちらの意図しない、受けつけ難いコメントも増えて来ています。

これは、-それでも相当抑制しているつもりですが-、私の記事が、特定の人たちに、反感を買うような内容も多くなっていることも原因のひとつでしょう。しかし、それがために記事の内容を曲げるようなことは、したくありません。

そのようなことから、また、ブログに関わる時間もかなり限られてきたこともあり、記事『ブログ記事の更新とコメントについて』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-22cd.html)で述べたように、コメントは承認制にさせてもらいました。

その後、承認しないコメントについては、その都度、こういう趣旨のコメントがあった旨を記して、その理由を示してきたつもりです。しかし、今後はそういうこともせずに、ここで改めて、「コメントの投稿についての注意とお願い」を述べておくことで、それを踏まえないようなコメントは、承認しないあるいは削除することがあるということで、対処させて頂きたいと思います

といっても、私にすれば、本当に最低限のことと思われることのみをあげているつもりです。

1 名前は、二文字以上の、一応とも「名前」として通りそうなものを記入してください。そして、私のブログに関する限り、その名前を変えることはしないでください(条件によって難しい人もいるでしょうが、できれば、IPアドレスも)。

もちろん、こうしたからと言って、「匿名」であることに何ら変わりはないわけですが、一応とも、人に向かって、自分の意思や意見を表明するわけですから、その発言主体としての最低限の自覚はもってもらう趣旨です。

また、最近は、職業的なアノニマス(これはすぐ分かります)ではなくて、ある程度ある分野について詳しいと自負する者をみつけて、その分野に関わるブログなどに書き込みをさせて、妨害的な影響を与えようとする「雇われアノニマス」も増えていると見受けられます。これは、そのような疑いをもたれないためでもあります。

2 コメントする以上は、最低限そのコメントをする記事の内容ぐらいは読んでからにしてください。(これは、その記事と関係のない内容の投稿はしないでください、という趣旨を含みます。)また、何かしら評価や批判めいたことを述べる場合は、その記事だけでなく、その評価や批判に関連する記事ぐらいは読んでからにしてください。

これは、マナーとかの問題ではなくて、そのコメントをまっとうにとりあげる前提問題として、当然のことと私は解します。逆に、そのように私の記事内容をちゃんと踏まえたうえでの批判などには、私はできる限り、正面からとりあげて対処したいと思っています。(ただし、こっぴどく反論されたり、けなされたりすることはあるかもしれませんので、あしからず(笑))

また、たとえばシュタイナーなど、誰かがこういうことを言っているなどの情報の提示も、前の記事を読めば、既にそれに関することが十分述べられていて、あえてする必要もないものが多々見受けられますから、一応の確認はしてからにしてください。

私のブログ記事もかなり多数にのぼることになり、前の記事をみるといっても、関連する記事を探すのも大変になってきているのはあると思います。しかし、一応とも、そのようなことを意識されたものかどうかは、コメントを見ればすぐ分かりますので、ある程度そのようなことを意識したうえでの投稿をお願いします。

なお、全体を分かりやすくまとめ直したホームページを企画しているのも、できる限り全体を分かりやすく俯瞰できるものを提供したいという趣旨ですし、また、近いうちに、ブログの個々の記事がどのように全体と関連するかの、体系付けのようなこともしておきたいと思っています。

3 当然のことながら、特定の組織や集団、宗教的、政治的な信条、商業的な商品などの宣伝を意図したものは、受けつけしません。

以上、これだけです。それでも、何か、急に敷居が高くなったと感じ、反感を感じる人もいるでしょうが、投稿する側からしても、下手にコメントをしてから削除などされるよりも、予め、注意を促されておいた方が、望ましいかと思われます。

どうかご理解のうえ、コメントの投稿をお願いします。

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