2017年5月20日 (土)

「シンクロニシティ」と出来事の因果的理由

記事『「共時性」と「魔術的因果論」』 (http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html)の、上から5番目のコメントで、「面白いこと」があったとして述べたことは、「シンクロニシティ」の理解にとって重要なヒントになると思うので、まずはその部分を再掲しておきます。

鳥では、最近面白いことがあり、ハクセキレイと思われる白黒の鳥が、図書館の庭の木の下で、飛び上がろうとしては、下降する不思議な動きを繰り返していたので、私は、思わず、心で「飛べるの?」と聞いたのですが、するとその鳥は、いきり立ったように、私の前を横切るようにして、超低空(地上50㎝ほど)を凄いスピードで30mほど飛んで行きました。私は、思わず、心で「おっー!おっー!」と驚きの声をあげてました。「飛べるの?」は、鳥としてのプライドを刺激してしまったようです。こういう、「会話」が成り立っている(かのような)ときは、かなりはっきりと、相手に伝わったというカチッとした感覚があります。

多分、セキレイの生態についてある程度知っている人は、何を言っているんだ、そんなのは「妄想」の典型ではないか、と思ったかもしれません。

確かに、セキレイが木の下で、上がったり下がったりの、不思議な動きをしていたのは、多分餌となる虫を追いかけていたのだろうと思います。そして、超低空飛行で私の目の前をすごい勢いで飛んだのも、その虫が逃げたので、それを追いかけてのことなのでしょう。そのようなことが、ただ私の勝手な思いと重なるようにして、私の目の前で偶然に起こっただけというのが、普通の解釈かもしれません。

しかし、私が、気をもんで、「飛べるの?」と本気でセキレイに問いかけた瞬間、セキレイがそれに反応するかのように、私の目の前を、本当に驚くようなスピードで、猛烈に飛んで行ったのは事実であり、それが私にかなりの衝撃をもたらしたのも事実です。そして、私は、「飛べるの?」との思いが「会話」のように通じたということに関しては、今思っても、(単なる直感ではなく、これまでの多くの経験に照らして)間違いないだろうと感じています。

要するに、これは、私のセキレイへの関心や思い(問いかけ)と、セキレイの私の目の前での凄まじい超低空飛行が、同時的に起こった「シンクロニシティ」であると解せます

セキレイ自体は、あくまで、餌をとるという自分自身の習性に従って、つまり、ちゃんとした因果的な理由があって、低空飛行をしたのですが、それは、私の「飛べるの?」という問いかけに対する、見事な「答え」にも、同時になっているのです。つまり、意味において関連する出来事が、同時的に起こったというこどてす。

繰り返しますが、セキレイの超低空飛行には、それ自体の「因果的な理由」はあるのです。それを、同時に起こった、私の「問いかけ」と因果的に結びつけようとすると、私が問いかけた<から>、超低空飛行をしたとか、私に<見せるために>超低空飛行をしたとなって、「魔術的な因果論」になってしまうのです。要は、多分に「誇大妄想」的な「妄想」になってしまうということです(このコメントを書いた時点では、その傾向がいくらかあったことは、認めざるを得ません)。

これは、多くの「シンクロニシティ」の場合に言えることです。それ自体には、「因果的な理由」がある出来事が、ある「意味」において関連する別の出来事と、同時的に起こることなのであって、それらが、因果的に結びつくことではないのです。ただ、そのことによって、その「意味」が、まさに「意味ある」ものとして浮上するということです。あるいは、その「意味」こそが、その両者の出来事を、同時的に引き寄せたことになります。ただし、その「意味」にも、囚わてしまうようだと、それは多かれ少なかれ、「妄想」的な囚われに近づくことになるでしょう。

「集団ストーカー被害」の場合も、誰かが絶妙なタイミングで自分の近くを通り過ぎるなどの出来事に、まったくこれと同じ解釈がなされているということです。誰かがその者の近くを通り過ぎたのは、その誰か自身にとっては、何かしらの「因果的な理由」(買い物の途上、急いでいて、周りをあまり顧みていない状況など)があってのことで、それは、別にその者(被害者の側)とは何の関係もありません。しかし、それは、その者の関心や思いと、「意味」的には確かに結びつくものになり得るのです。

その者の関心や思いとは、自分は、「ストーカー的なまとわりつき」や「仄めかし」を受けているのではないかという、強い疑いであり、恐怖と怒りの感情を伴ったものです、そして、そのような、内心深くの、情動を伴った、強い思いは、実際に、絶妙なタイミングでの人の通り過ぎなどのことを、意味的に引き寄せて、同時的に起こらしめるものとなり得るということです。

場合によっては、それは本当に頻発し、明らかに偶然では考えられないほどのものともなり得ます(ただし、そこに何らかの存在の「演出」があり得ることも、何度も述べたとおりです)。しかし、そのようなものを、「魔術的因果論」的に、自分の思いと因果的に結びつけて、自分に「まとわりつく」ためにそのようなことをしているのだとか、自分の思考を盗んでいるから、そのようなことができるのだと考えると、「被害的」な「妄想」になってしまうということです。

あるいは、たとえ、それらを因果的に結びつけるまでに至らなくても、そのようなことが起こる「意味」に囚われて、自分を否定的に追い込めば、「妄想」とあまり違わないものになってしまうということです。

 5月22日

 ※ 「集団ストーカー 共時性」で検索してみると、最近は「共時性」に注目している被害者サイトが結構あることが分かる。いい傾向だと思うが、ただ、せっかく「共時性」に注目しているのに、従来の「集団ストーカー」の発想を引きずって、つまり「魔術的因果論」的な発想をしてしまって、自分と強く関係づけた、「被害妄想」的な解釈を脱していないものが多いのは残念と思う。

そんな中、ここ(http://ameblo.jp/un-clober/)は、読んでいてうれしくなった。「被害者」のサイトではあるが、明らかに「被害者」としての発想を脱しつつある。「集ストって奥深いよね」って言えること自体が、既に「集スト」的な囚われを脱しつつあることを示している。

その一番のポイントは、何より、こういった現象を演出する存在が、人間ではあり得ないことを、はっきりと悟ったことである。そして、その人間ではあり得ないことの、明快な理由がはっきりと示されているのもいい。

私も、一連の体験で、心の奥から、私を取り巻く存在が、「人間じゃない!」と叫ぶことがあって、人間ではないことが分かったことにより、最悪の状態を脱して、囚われが少なくなったことを述べた。本来は、そうではあり得ないのに、人間だと思うことから、変な混乱や怒りのようなものも生まれるのである。人間ではないことが分かったからと言って、すぐさま現象から解放されるわけではないが、ある意味の「開き直り」と「探求意欲」も生まれて、否定的な囚われは、減少するのである。

私のように、「統合失調」系(解体型)ではなく、「集団ストーカー被害」そのものの体験を通して、いたった考えであり、同じ「集団ストーカー被害」系の人には、より参考になるものがあると思うので、ぜひ参照してみてほしい。

2017年5月13日 (土)

「シンクロニシティ」とその「演出」

記事『最近のコメントの掲載』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-bff5.html )の、のめーるさんのコメントに対するコメントで、「シンクロニシティ」(共時性)に関して重要なことを述べていますので、まずは再掲しておきます。

よく分かりますし、それは私の考えとも近いものです。
非常に重要なことを指摘されていると思います。

「シンクロニシティ」は、自己の内界と外界が、もともと「共時的」に結びついているために起こることで、本来は、自分自身の「内界」で起こっていることにこそ注目すべき問題です。

ある状況下で、内界にあるものが特別に活性化されると、それに伴い、それと意味的に関連する出来事を、外界にも、同時に引き起こすことがあるということです。この「内界」とは、ユング風にいえば「普遍的無意識」ですが、のめーるさんのいうとおり、「カルマ」の渦巻く領域でもあり、さまざまな情動と結びついています。恐怖などの強い情動は、ますます内界を活性化させ、その恐怖することと関連する出来事を、ますます引き寄せることにもなります。

普段意識されない、そのような領域が活性化され、外界を巻き込むようにして、特別に意識に浮上するので、「シンクロニシティ」には、さまさまな感情的な囚われを生じやすいのです。だから、起こっている「外界」の出来事に振り回されず、自分の「内界」で起こっていることに注目し直すことが重要です。

しかし、「シンクロニシティ」には、さまざまの霊的または高次元的「存在」によって、「演出」された(まさに「仕組まれた」)ものも多いと思います。このような存在は、我々の「内界」と強く結びついているので、「内界」の活性化に絡んで、このような現象を演出しやすいのです。

「シンクロニシティの演出」には、さまざまな場合があり、「天使的」なものや、どうでもよいような取るに足りないものもありますが、否定的なというか、恐怖をもよおすようなものは、確かにアーリマンまたは捕食者的な精霊が「演出」している可能性が高いと思います。高次元的な存在にとっては、「時間」の性質が、この3次元的な領域とは異なるし、人間の心が簡単に読め、操作できるので、そういった「演出」は、簡単なことなのです。さらに、重要なことは、人を操作して、「現実の他人」を巻き込むような形での「演出」も、可能ということです。そこには、「カルマ」的な関わりもあり得ますが
、単に、人と人の間に、不和と軋轢を生み出そうとする戦略に過ぎないこともあるのです。

たから、重要なことは、「みかけ」に騙されて、その現実の他人そのものが「悪意」をもって攻撃を仕掛けているとか、「組織」の一員として仕掛けてきているなどとは思わないことです。「統合失調」の場合も、そう受け取ってしまうことは多いし、「集団ストーカー被害」の場合は、そういう観念が既に「できあがっている」ので、もはやそう解釈してしまうように、誘導されています。

ただ、のめーるさんも、その人間の発すると思えた「声」が「幻聴」であることを経験されているし、あるいは「見て」いたものも「幻覚」である可能性があるわけですが、「統合失調」の場合は、そのように、(内界の)より深い領域で、直接的な形で、アーリマンや捕食者的な精霊の影響を被りやすい状況にあるといえます。それで、混乱も深まり、「解体」または「崩壊」も起こりやすいわけですが、「集団ストーカー被害」の場合は、そこまでいかず、その点はかなり異なるようです。

しかし、共通する要素が多いのは、明らかなことと思います。

「…私に関する悪口が聞こえてきたので
勇気を出して確認したら幻聴に過ぎませんでした。」

直接確かめられるかどうかは、状況にもよるでしょうが、この「確認する」ということが重要です。それで、「声」が、その者自身の発する「物理的な声」でないことが確かめられたので、その人間そのものの悪意ある行為や仕掛けでないことも、確かめられたわけです。

この点は、むしろ「統合失調」の方が、そのような「深み」に陥っている、(のめーるさんのいう、「意識状態が変わって」いる)分、(しっかりと見極めるようにできさえすれば)さまざまに、認識を修正できる材料も多いといえるのです。

「集団ストーカー被害」の場合は、そもそも「霊的な領域」についての認識が欠けているし、起こっていることの「みかけ」に振り回されて、外界のことばかりに意識が行き、それを修正できないということになりやすいと思います。

なお、「シンクロニシティ」に関しては、あくまでも、「意味」において関連する出来事が同時的に起こることなのであって、一方が原因となって他方が結果として起こるのではないことを、確認しておくことも重要です。このような「「非因果的」な発想になじんでいないと、どうしても、それらの出来事を、原因-結果の因果律で結びつけようとしてしまいやすいのです。しかし、そうすると、それは、本来原因と結果で結びつかないものを、無理やり結びつけることで、「魔術的な因果論」となり、「妄想」の元となってしまいます。(記事『「共時性」と「魔術的因果論」 』  http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2002/12/post-3e8b.html 参照) ()

たとえば、自分が何々した(何々と思考した)<から>、何々という出来事が起こったという風に、自分の行為や思考を原因として、出来事が起こったとすると、非常に誇大妄想的な発想になります。あるいは、自分の思考を誰か(何かの組織)が盗みみたから、そのような出来事が起こったという風に、被害妄想的な発想の元にもなります。

「シンクロニシティの演出」の場合は、確かに、そのように思考を読まれているからこそ可能な面があるのですが、それは人間を超えた存在だからこそ、可能なことです。

「シンクロニシティ」にも、内界と外界を含みこんだ、より大きな意味では、「原因」というよりも、「原理的な理由」があるとはいえるのですが、それは、個人的なものではなく、「集合的」さらには「宇宙的」なものというべきものです。だから、「個人的に受け取る」のは、適当ではありません。もし受け取るならば、「宇宙」はそういう風に(内界と外界が結びついて)できているとか、「宇宙」が自分の内界を反射するように、反映して見せてくれているとでも思うしかないでしょう。

しかし、「シンクロニシティ」に関しては、実際には偶然の出来事に過ぎないのに、それを関係妄想的に自分と関連づけて、「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、大きな問題です。あるいは、実際に、「シンクロニシティ」が起こってはいるが、それはほんの一部に過ぎないのに、一度そういうことが起こると、起こっている出来事を全部その方向で捉えてしまって、多くが「シンクロニシティ」だと思ってしまうことも、起こります。

そして、そのような出来事に、感情的に囚われてしまって、被害的、迫害的な「妄想」をもったり、それらを「集団ストーカー被害」という、行き渡った類型に当てはめて、解釈してしまうことも起こります。

先にあげたものは、実際に「シンクロニシティ」であることを前提にして、それに囚われないことを述べたものですが、これは、実際には、「シンクロニシティ」ではないものをそう解してしまうことで、「シンクロニシティ」のときと同じような囚われに陥ってしまう問題です。「シンクロニシティ」は、確かに人を混乱させる要素があるので、それがそのように「頻発」するとみなされれぱ、より大きな混乱をもたらすといえます。

「統合失調状況」では、自己と外界の境界が揺らぎ、曖昧になるので、「シンクロニシティ」が起こりやすい反面、実際にはそうでないのに、外界の出来事を自分と関連付けて、関係妄想的な解釈をしてしまうことも起こりやすいのです。そして、それは「集団ストーカー被害」の場合にも、ある程度あてはまるものと思われます。

だから、「シンクロニシティ」が起こっていると判断するには、慎重である必要があります。

実は、このようなものも、「シンクロニシティの演出」と同じくらい、「演出」に利用されるものとなり得ます。というよりも、アーリマンのような存在にとっては、このような錯誤を起こさせることは、実際に「シンクロニシティの演出」を行うこと以上に、重要な戦略なのです。「シンクロニシティの演出」のために、自分でいろいろと手をかけずとも、本人が自ら錯誤に陥って、「妄想」を膨らませてくれるので、こちらの方が、よほど「安上がり」で効果的な戦略といえるからです。

それには、「集団ストーカー被害」のような観念を広めて、他人の行いが、偶然ではなく、意図のあるものと、予期させておくことも重要だし、漠然とでも、何者かに攻撃を被っているかのような、潜在的な恐怖を植え込んでおくことも重要です。しかし、最も効果的なのは、一度でも、実際に、(かなり強烈な形の)「シンクロニシティ」を「演出」して、仕掛けておくことです。そうすれば、既に述べたように、実際には偶然である、他人の行いの多くも、「シンクロニシティ」と捉えて、囚われを膨らませてくれるのです。

いずれにしても、「シンクロニシティ」そのものに囚われないようにすれば、こういった「演出」にも囚われないことができるので、「シンクロシニティ」についてよく知っておくことは重要です。

※ こちらの記事でも、今回の記事を補足する、重要なコメントを述べていますので、再掲しておくことにします(一部抜粋)。

本当に、「統合失調的状況」というのは、このような「共時性」の宝庫だと思います。ほとんど起こることすべてに、「意味」があるように感じられます。それも、自分に関連した、「意味」です。だから、本当は、「関係妄想」をもつな、という方が難しいので、それを「あえて」共時性なのだと捉えることで、「妄想」を膨らませることを抑える必要があると思います。「統合失調的状況」においては、「共時性」が頻繁に起こることは、知っておかなくてはならない事実になるべきです。

私も、自分の思ったことが、テレビや新聞、通りがかりの人の話などに、即座に出て来るというのを体験しましたが、これなどは、自分の思考がつつ抜けているとか、盗聴されているなどという「妄想」に結びつきやすいので、特に注意が必要です。

最近の、「集団ストーカー」というのも、単なる「偶然」ではないとすれば、ほとんどこのような「共時性」によっていると思います。

「共時性」というのは、状況に陥ることによって、突然現れ出るのではなく、もともと、「すべて」は「共時的」につながっているが、日常的には、自我によって、外界と切り離されているという強い「感覚」があるために、普段は、露わにならないだけのものです。それが、状況に陥って、自我が揺らぎ、境界が不明確になったときに、突然現れ出たかのように、浮上するのだと思います。それまで、自己と切り離されていたはずの外界が、突然、自己と連続するかのように、つながりを感じられるため、そこで起こることが、一々、自己と「関係」するように意識されるのです。

ただ、そのことに、特別の「意味」をみようとするのは、不安定になった「自我」が、自己を補強するために望むことで、「妄想」のもとになると思います。このような、「未知」の状況が露わになっているときに、特別の「意味」をみないで、起こることを冷静に受け止めることは、難しいことですが、結局は、それしか手立てはないのだと思います。

2017年4月13日 (木)

「神一厘の経綸」について

前回みたように、「大日月地神示」は、霊界では、「神一厘の経綸」が既になされて、「悪の総大将」が降参し、今後は「ミロクの世」にいたることが確定したという。このことこそが、この神示が伝える最大のポイントなので、少しコメントしておきたい。

「悪の支配する世」となることが、9分9厘まで達成されて、覆しようのないところまで行ったそのときに、「神」による「グレンとひっくり返る」「経綸」がなされるというので、「神一厘の経綸」という。

「ミロクの世」とは、「金銭や物質的価値」で社会が治まる「悪の世」が終わり、人々が「愛と喜び」に満ちて、互いに奉仕する、「ユートピア」的な世となるということである。

さらに「日月神示」では、物質的世界が超えられて、「半霊半物質」の世界となることがいわれているし、「大日月地神示」では、「悪」など微塵も存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻ることがいわれている。

前回もみたように、これは、あくまで、この世の型となる「霊界」での「事実」であって、それがこの世にどのように反映されるか、いつ反映されるかは、この世の人や霊人のあり方次第ということになる。

「神示」は、「悪の仕組み」について、繰り返し語っているが、それは、この世では、「隠れたる悪魔」はまだまだ多く、その「悪の仕組み」が全うされるべく、これから本格化するので、それに搦めとられないように、という意図からである。

たとえば、「神示」には、

「オロシヤ(ロシア)もそろそろ大きく動くぞ。覚悟いたせよ。食う物貯えよ。無くなってゆくぞ。」とか、「メリカ(アメリカ)も変わるぞ。無くなるぞ。」

という言葉もある。まさに、現在の社会情勢そのままを映し取るかのような言葉であ.る。やはり、このような終末的な様相は、避けられないもののようである。

ただ、「悪の総大将」は既に降参して、これに関われないので、人や霊人は、「悪の仕組み」を理解して、自らを縛っている、その「悪の洗脳」をいかに解いていくかが、「改心」のポイントとされる。もはや、「悪との戦い」というよりも、「自分との戦い」ということである。

「神示」の源は、「悪」の親でもある、「元の元の神」(創造の神)を含む大霊団ということで、「悪」について非常に詳しいのが特徴である。しかし、反面、そのような「悪」の存在しない、「元の元の世界」をよく知るものでもあり、悪の「大あがき」の後も、最終的には、そこに戻ることを、宣言しているのである。

私も、一連の体験においては、「人間」を舞台にして、いかに「善と悪の戦い」が行われているかを、いやというほど目にした訳だが、これは、逆に、今の社会の「悪」というものが、いかにその結果としての「反映」であるかを、思い知らされるものともなった。それは、人間の「悪」というものが、取るに足りないという意味ではなく、それを無意味にするほどに、人間を超えた「悪」の影響力は強大ということである。

なので、霊界での「善と悪の戦い」が、「善」の勝利で終わるとするなら、今の社会の「悪」というものが、大きく変わること自体は、必然のことである。もちろん、それで、人のあり方が、すく様変わるわけではないが、「悪」の影響を受けなくなるだけで、大きな違いが生じるのである。

そして、記事でも何度か述べたように、私と関わった時点でも、「悪」の「限界」は、如実に感じ取られ、既に「たそがれ」てすらいたので、「善と悪の戦い」の結果が、「善の勝利」で終わること自体も、自然と受け入れられる。

だから、現在の状況とは相容れないようにみえても、いつかとか、どの程度かということはおいて、基本的に、その状況が終わり、「ミロクの世」に向けて、世界が変わっていくこと自体は、頷けるのである。

さらに、その後の、「半霊半物質」の世界へと移るということ(いわゆる「アセンション」=「次元上昇」)、「悪」の存在しない、「創造」の「元の元の世界」に戻るということも、大枠の流れとしては、頷ける。

しかし、たとえそれを受け入れたとしても、恐らく、多くの人が疑問に思うのは、それなら、なぜ「悪」などというものが創造されなければならなかったのか、ということであろう。

「神示」では、「悪のお役目」ということで、むしろ「悪」こそが、我々を鍛え、成長させたのであることを強調している(※1)。そして、今回の「経綸」も、「悪」を「排除」するのではなく、悪をも「抱き参らせる」のであり、そのような「役目」を終わらせ、「悪」をも「改心」させて、共に元に戻ることを意味している

私も、「悪」との関わりによってこそ、いかに多くを教えられ、成長させられたかを痛感するので、このことも、大枠として頷ける。

ただ、これは、「創造」の「元の元の世界」では、「悪」はなく、初めはよかったかもしれないが、それでは結局は、停滞を来たすようになり、立ち行かなくなったということを意味している。それで、「悪」を作る必要に迫られ、その状態に変化がもたらされるとともに、「悪」から学ぶことで、その停滞を超える可能性も生じたということである。

ただし、もし、そのような「悪」から学んだ結果として、いずれは、「元の元の世界」に戻ることができたとした場合、それは、もともと存在した、「悪」以前の「元の元の世界」、結局は停滞をもたらしてしまった世界と、異なることになるのだろうか。

それには、二つの可能性があると思う。
一つは、「悪」を知らずにいる世界とは本質的に異なって、「悪」を知ったうえで、それを超えて至りついた世界なので、神示も言うように、「いやさか」に栄える「永遠の世界」となる。

二つは、初めは、そのように思われたとしても、その状態が永遠に続くという保証はなく、いずれは停滞をもたらすことになり、結局は、「悪」を必要として、同じことを繰り返すはめになる。

いつとるとも知れぬ、「とらぬ狸の皮」に、「思わぬ欠陥があるのではないか」と、訝るような話だが、私は、後者である可能性が高いと思う。その点は、神示を大枠で受け入れつつも、疑問に思ってしまう点だ(※2)。

まあ、今回の話は、「今現在」の問題からは、大きくかけ離れた、「夢想的」な話として受け取ってもらって構わない。現実的には、前回もみたように、「現在」の「悪の仕組み」をいかに脱し、超えていくかということこそが、重大な問題なのだから。

※1 これに関わる神示をいくつかあげておく。

「魔物もこれまでご苦労であったなあ。そなたらがおったゆえに、霊、人ともに学び変わって来れたのであるぞ。」

「まだまだマコトの悪魔遣うぞ。悪魔も人苦しめる大事なお役目であるから、活かしておるのぞ。悪魔に魅入られるのは、それだけの因果そなたの腹にあるからぞ。とことん苦しまねば変われぬ者多いから、悪魔も喜ぶのぞ。」

「悪の中に隠しておるのぞ。悪も善も神の目からは無いのであるが、人民の目からはあるのであるぞ。必要であるのぞ。」

「悪の中に隠してあるとは、悪の心を理解いたし因果悟らねば、神心、掴めぬのじゃ。」

※2 4月29日

 この「疑問」について、一言で言うなら、「神示」もまた、シュタイナーなどと同様に、「霊的進化」という「水平的方向」についてのみを語り、「虚無」という「垂直的方向」についての視点には欠けている、ということである。それこそが、たとえそのような「進化」が達成されたとしても、いずれその「虚無」からの圧力を受けて、それが永遠の状態として完結するなどとは思わせないことの理由となっている。

しかし、「神示」の霊団が、本当に「垂直的方向」の視点を欠いているわけではないと私は思う。それは、いわば今の段階では、まったく「隠されている」のであり、今の段階で確かに必要とも思われる「神一厘の経綸」をも超えた、本当の「隠しごと」なのである。そして、それを解くヒントをあげるなら、それは、記事『『魂の体外旅行』-「ルーシュ」の生産』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-3e86.html )、『「神」も「解離」する!? 』( http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-b513.html)で述べた、ブルース・モーエンの「創造の物語」にあると思う。

2017年4月 1日 (土)

「神示」が語る「悪の仕組み」

記事『「日月神示」の言葉 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-6f3c.html)で、「日月神示」という神示を紹介した。が、最近は、これの現在向け「更新版」というべきものも降ろされているようだ。本では、神人著『大日月地神示』(野草社)に載せられているし、フェイスブック(https://ja-jp.facebook.com/groups/kamihito.hihumi/)でも、降ろされ続けている神示が公開されている。

印象では、確かに、「大本神諭」や「日月神示」に連なる神示であることが、十分感じ取れる。実際、神示によれば、神人という人は、岡本天命の生まれ変わりということである。

「大本神諭」や「日月神示」では、時代の制約を受けて、曖昧ではっきりしない内容も多かったが、この神示は、率直かつ明確に語られているのが特徴である。特に、「弥勒の世」に向けて、「すべてがひっくり返る」「神一厘の経綸」がなされるときが、「今現在」であることが、はっきりと語られている

というよりも、「神一厘の経綸」は既になされて、「悪の総大将」は、「霊界」では、「降参」して他の星へと移されており、地球は「弥勒の世」へと向かうことが確定しているという。ただし、それが現実に「この世」に反映するのは、まだまだこれからのことであり、「隠れている悪魔」が大暴れするのも、これからが本番である。

このような「大峠」を超えて、「改心」した者は、「うれしうれし」の世となるが、そうでない者は、やはり他の星へと移されて、改心するまで苦しみ続けるという。「弥勒の世」といっても、誰もがそれに与るのではなく、一種の「棲み分け」が行われるということである。

ともあれ、「この世」的には、まだまだ「悪の仕組み」が行き渡っている状況であることに変わりはない。そして、神示の後半では、その「悪の仕組み」というものが、どのようなものであるかが、かなり詳しく語られている。それは、私がこれまで述べてきたこととも共通するし、非常に的確な表現で、訴えかける力も強く、貴重なものと思う

それで、それらを、いくつか紹介し、簡単なコメントをつけておきたいと思う。

「長い間続いてきた悪魔の仕組みは、霊人、肉体人、皆々恐怖に縛り付け洗脳いたし、偽りの教えを思い込ませ、自ら貶めさせる魂胆であったぞ。ゆえに皆の弱い所をしつこくしつこく疲れ果てるまでえぐり続け、洗脳いたし楽しんで来たぞ。」

「悪魔の仕組みは、恐怖を植え付け僕となれば救ってやると申しながら、不安を植え付け続け、真の喜びから遠ざけて、守護霊殿の声も届かぬようにいたすやり方してきたのじゃ。不安に支配された人は、喜びを感じ難くなり、生きる気力を奪われ、悪魔の奴隷らの容れ物となってしまい、長きに渡り貶められてきたのじゃ。仲良き者たちの信頼関係や他を愛する思い、喜びを、あの手この手で壊してきたのじゃ。己を正当化いたし、情に訴えかけ、いいように洗脳いたしてきたのじゃ。」

「悪魔は霊団、人民みな洗脳いたし、荒れ果てた地は、皆々神々のせい人のせいにいたして、地の民ら共倒れ自滅させ、初めから地を乗っ取る策略であったのじゃぞ。」

「悪魔」は、人間だけでなく、人間に影響を与える「霊人」や「神々」を含めて、あるいはそれらを通して、「洗脳」してきたこと。それは「恐怖」や「不安」に縛り付け、「偽りの教え」を信じ込ませることによって、なされること。そして、なりよりも、「悪魔」は、自らの(直接的な)行為によって、人間を破滅し、支配するのではなく、人間が「自ら貶める」ように導き、人間同士を争わせて、「共倒れ」させることによって、なすこと。それ(を見ていること)こそが、彼らの「喜び」である、というのがポイントである。

このように、「自ら貶める」ことによってこそ、「破滅」させること、そのために、人間の弱点を「しつこくしつこく疲れ果てるまでえぐり続ける」ことは、「統合失調状況」や「集団ストーカー被害」についても、まったく当てはまることである。が、これについては、最後のところでもう一度述べよう。

なにしろ、「悪魔」は、このように、人間の内にある「弱点」をつくことによってこそ、力を行使できる。「弱点」とは、要するに、「欲」であり「エゴ」ということでもある。神示も言うように、

「そなた、我出すから騙されるのぞ。騙されるには騙されるだけのもの、腹に在るからぞ。」

多くの者は、「悪魔」がこのように人間を操るということについて、なんら実感をもって捉えられないのでもあろう。しかし、それは、我々が、日常的に考えたり、感じたりする「思考」や「感情」のレベルで、既になされていることが、次のように語られる。

「人民、己が操られておること信じられんであろうなれど、悪魔は簡単に人を操れるのであるぞ。悪魔の力どれほど強いか、ずる賢いか、人民知らんのぞ。負の感情与え続け、好き放題に操っておるのぞ。そなたは己が何ゆえにそう思うか、問うてみよれ。その思いはどこから来ているのか、考えてみよれ。」

また、先に述べたように、「悪魔」らの行いが、これから本格的に強まるのであることが、次のように述べられる。

「これまで人民の中に隠れておりた悪魔らが追い詰められて、いよいよ捨て身でかかりておるから、人民、褌締め直して、皆々手合わせて乗り越えねばならんのぞ。」

さらに、具体的に物質的なレベルを通して、なされる「悪魔」の力の介入についても述べられている。

「悪魔に遣われておる人民は訳も分からず毒造りては、空から撒いて人苦しめ、水に撒いて生き物苦しめ、天から仕掛け雨風動かし、地に仕掛け地揺らし、人に入れて身体苦しめ、思考に入りて操りて、人民知らぬゆえやりたい放題好き勝手いたしてきた」「電気から魔力入り込みますぞ。人の意識操りに来ますぞ。負の念送り続け、人民自滅させる仕組みぞ。」

「空から毒を撒く」とは、「ケムトレイル」のことであろうし、「雨風動かし」「地揺らし」とは、気象兵器や地震兵器のことであろう。また、「電気から魔力入り込む」とは、スマホやネットなど、情報機器を通して、送り込まれる「負の念」のことであろう。

ただ、地震については、「東日本大震災」についても、直接的な言及はなく、一方で、地の神が「大難を小難に変えるために起こす」という神示もある。

私自身も、記事『「アーリマン」と「火地球」  』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cb26.html)でも触れたように、地震というのは、さまざまな力の複合的な現れであり、「東日本大震災」でも、これらの両面があったものとみている。

「悪魔は人食うのじゃ。人の血飲んで喜んでおるのじゃぞ。人の子の血肉、ご馳走にいたすゆえ、昔から人民に生け贄求めて来たのじゃぞ。今も世界中におりますのじゃぞ。人民に人肉、獣肉食わせて僕といたしたのは悪魔であったのぞ。」

「悪魔」という言い方をしているが、神示自体、「善と悪」とは、本質的には存在しないものであり、ただ人間にとっての必要上、仮に存在するものに過ぎないと述べている。そして、この神示では、「悪魔」の本質が、「捕食者」的なものであることが、かなり衝撃的な形で、包み隠さず述べられている。

「悪は一や三を、五にでも八にでもすり替えて思わせるやり方好むから、人民殿、見極める眼、心の眼、鍛えに鍛え磨かねば、すべて悪く思うようにされてしもうて、自ら悪の僕と化して、悪想念広げるようになりますから、気つけねばならんのでありますぞ。」

これもまた、「悪魔」が人間を「洗脳」し、「自ら貶める」やり方を、具体的に述べている貴重なものである。

要するに、実際になされていることが、1や3であるのを、5や8だと思わせることによって、人間を恐怖と絶望へと追いやり、破滅させるということである

これは、巷の「陰謀論」にもよくみられることだし、「統合失調」や「集団ストーカー被害」の「妄想」にも、まったく当てはまることである。特に、「集団スートーカ被害」は、まさにこの方法による破滅のさせ方の、典型といえる。

私に言わせれば、「集団ストーカー被害」には、1すらない、0であるものを、10あるように「思わされ」ている場合も多い。ただ、実際に「1や3」の行いが、「霊人」や「他の人間」などを使うことによって、なんらかの方法でなされることはある。しかし、もはやそれで、「被害者」は、自分に起こる「5や8」というよりも、「10」の現象が、そのような「自分に向けられた攻撃行為」だと思うように仕向けられる。しかも、それを、「集団ストーカー」という「悪魔」が用意した「偽りの教え」で、解釈してしまうのである。そして、その「悪想念」を自ら広めることによって、結果的に「悪」に加担してしまうのである。

2017年2月26日 (日)

「病気」の原因は「病気」

知っている人も多いと思うが、昨日の朝日新聞の記事に、<「ADHD」診断された子の母親 「原因が分かり、ほっと」6割>というのがあった。塩野義製薬などが実施したインターネット調査の結果ということであり、「ADHD」(注意欠如・多動性障害)と診断された小学生の子供がいる母親283人が回答したものである。

それによると、子供が「ADHD」と診断された際の母親の気持ちを複数回答で尋ねた結果は、次のようだったらしい。

「症状の原因がはっきりしてほっとした」  59・7%
「今後の子育ての取り組み方がわかってほっとした」 44・9%
「育て方が原因でないことがわかって安心した」 41・3%
「子どもの将来が心配で落ち込んだ」 41・7%

「症状の原因がはっきりしてほっとした」が約6割で、一番多かったことが、この調査の結果分かったこととして、特にとりあげられる眼目のようである。上にあげたように、それは、新聞記事の見出しにもなっている。

この製薬会社の調査発表が暗に言わんとするのは、次のようなことであるのが、明白であろう。

―親としては、当然ながら、子どもの不適応な状態について不安で、いろいろ悩んだことでしょう。でも、結果として、医師の診断を受けて病名をもらったら、「原因が分かっ」て、「ほっとした」という親がこんなに多いのです。あなたも、悩んでいないで、医師の診断を受け(当然それは、薬物治療のような治療を受けることにもつながる)て、楽になった方がよいですよ―。

これらの回答項目は、実施する側で予め用意したものだろうし、回答者は、たかだか283人で、調査のし方によっては、「子どもの将来が心配で落ち込んだ」という方のパーセンテージの方が上回っても、おかしくないだろう。製薬会社の意図に満ちた調査発表なのは明らかであり、それを意味ありげに載せる新聞も新聞である。

しかし、こういったことは、毎度繰り返される「定番」のことだし、それを分かる人も大分増えてきているので、今さらとやかく言うつもりはない。

私が、本当に問題として、とりあげられるべきと思うのは、この6割もいたという回答が、「ADHD」という診断名をもらったら、それで「症状の原因がはっきりした」ということに、当然のようにつながるかのような内容になっていることである。それで、「ほっとする」ということを強調するのも問題だが、そもそも、それ以前に、「病気」との診断をもらうことで、「症状の原因がはっきりした」と、受け取る(受け取らせる)ことこそが大問題である。

そして、同時に、このことこそが、「精神の病」ということの実質を、如実に浮き彫りにしていると思うのである。

そもそも、精神の病を「病気」というのは、社会的にみて、不都合な状態とみなされる、一定の状態にある人たちを、「医学」的にも、「病的な状態」と規定して確認することである。具体的には、『精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)』のように、精神科医の多数によって、決められる。

「ADHD」というのも、そうやってつけられた名前で、「ADHD」なる「病気」が実体として存在するわけではないし、何らその原因が特定されているわけではない。

しかし、一旦「ADHD」なる病名がつけられると、そのような「病気」自体が実体として存在するかのようになり、それ自体が、「症状」の「原因」であるかのようにみなされる。まさに、「症状の原因が分かった」とされてしまうのである。この点は、「統合失調症」でも全く同じであり、これまで私も何度も述べてきたことである。

ある不都合な状態を「病気」と呼ぶ→その不都合な状態=「症状」の原因は、その「病気」である

要するに、これは、<「病気」の原因は「病気」である>と言っているに等しく、「トートロジー」(循環論法)以外の何ものでもない

子供の親の気持ちに即して言うと、この「原因が分かった」というのは、恐らく、これまで病気かどうか分からず、子供の性格の問題とか、自分のしつけの問題とか、いろいろ悩んできたが、それが「病気」ということで、「はっきりした」。だから、「ほっとした」ということなのであり、それは、明らかに、「育て方が原因でないことがわかって安心した」という回答と連動している。

それが、一種の「安心」をもたらすことは、まったく理解できることである。しかし、それが意味するのは、結局は、「病気」そのものが「原因」ということで、「病気」が「原因」なのだから、他のことは「原因」でないということである。つまり、「病気」そのものが、実体として存在させられていることに変わりはない。

この点も、実際には、「(「ADHD」なる)病気は先天的な脳機能の障害である」ということが、暗黙に含意されているのだろうし、「原因」は、「先天的な脳機能の障害」なのだから、「他のものではない」ということにしたいのたろう(その方が薬物治療を正当化することにつながることは明らか)が、そんなことは、何ら証明もされていない。たとえ、先天的な脳機能の障害という面があるとしても、それで「他の原因がない」ということにはならないし、むしろ最近は、虐待などの後天的な影響が強く疑われている状況である。(記事『「自閉」の3つの型と「原因」』 http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-5ea3.html 参照)

ともあれ、「ADHD」と診断されることで、「症状の原因がはっきりする」などということには、全くならないし、そこをそう言ってしまうことで、「ほっとする」ということに結びつけてしまうことは、親の心理としては頷ける面があって、無意識にも、そう望まれてしまうことは理解できるが、むしろだからこそ、修正の難しい、大きな問題なのである。また、そこを巧みについて、その方向を押し進めようとするのは、戦略的で巧妙な「意図」があるというほかない。

要は、「統合失調」にしても、「ADHD」にしても、「病気」と規定した瞬間から、すべては「病気だから」ということで、「分かった」ことにされるのである。そして、体よく、「治療」に結びつけられるのである。そこには、多くの者の、「病気」の奥にある本当の理由など、理解などしたくもないという思いがあるし、そんなことより、精神医療に委ねた方がよほど楽であるという思いがある。また、そこにつけ込む形で、製薬会社や精神医療がいいように利益を追求できる基盤がある。

この調査発表は、製薬会社の単なる「キャンペーン」ということを超えて、思いのほか、精神の病にまつわる本質的な問題を露呈させているのである。

2017年2月18日 (土)

「集スト被害」という「解体しない妄想」

前回、「統合失調」では、「未知の状況」に多かれ少なかれ入り込んでいるために、「解体」が進んで、「妄想」がうまく築けない。ところが、「集団ストーカー被害」では、同様の状況の周辺にはいるが、強い「妄想」の力によって補強され、状況に入り込んで「解体」することは、止められているということを述べました。

これはもちろん、「集団ストーカー被害」の方が、「統合失調」より「マシ」で、好ましい、ということではありません。「妄想」によって、状況に入り込むことが止められているということは、その「妄想」を外せば、状況に入り込んで、「解体」する危険が迫っているということです。つまり、その「妄想」は、もはや、外すことのできないものになっているのです

実際、「集団ストーカー被害」を訴える人は、何年もの長い間、実体のはっきりしない「被害」の「妄想」を持ち続けたまま、「解体」するでもなく、その(不毛ではあるが、ある意味安定的な)状態を、ずっと維持し続けている人が多いようにみえます。それは、「解体」という、明らかに危険な状態に陥りはするが、それを何らかの意味でくぐり抜けて、超える余地もある、「統合失調」に比しても、「出口のない」、痛ましい状態と言えるでしょう。

このように、「集団ストーカー被害」を訴える人が、そうまでして、入り込むことを阻止しようとする「未知の状況」というのは、このブログの前半部分で、主題的に明らかにして来たことです。しかし、これこそが、理解のための重要なポイントなので、必要な範囲で、簡単に振り返ってみることにしましょう。

それは、要するに、これまでの日常的な経験からは、かけ離れた、容易には理解できない状況であり、もはや、「この世」という感覚的、物質的な世界を越えて、「霊的な世界」との境界領域に立ち入ろうとしている状況です。一言で言えば、「霊界の境域」です。(記事『「霊界の境域」を超える二方向性』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-7797.html、『「霊界の境域」の「図」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-fb4c.html 等参照)(※)

それは、「霊的な世界」の入り口であり、「この世」の理解を超えた、不可解な現象に満ちています。たとえば、自分自身の思考や恐怖の反映が、「実体的なもの」として現われ出たりします(「(霊的鏡像」または「エレメンタル」)。また、普通は、偶然と考えられないような、「共時性」(シンクロニシティ)も頻繁に起こります。そこは、「捕食者的な精霊」または「宇宙人」の住処でもあり、様々な「攻撃」をしかけられます。

さらに、そこは、「この世」とか「あの世」とかのくくりからはみ出る、「混沌」とした領域で、根底には、根源的な「虚無」が控えています。言葉や理性では、とても捉えられない、本質的に、恐怖と混乱をもたらす世界なのです。

「統合失調」では、そのような状況で、自己を苛む「声」を聞いたり、自己と外界との境界を失って、「解体」が進むことになります。そのような「解体」を抑えるべく、何とか、現にある状況を、これまでの日常性の延長上に解釈して捉えようとするのが、「妄想」ですが、それは「解体」が進めば進むほど、成功しません。どんなに日常性の延長上に捉えようとしても、それに収まらない面が露わになるからです。それに、そもそも、このような「混沌」たる状況は、言葉や理性で説明しようとしても、初めから無理があります。

「集団ストーカー被害」を訴える人も、本当は、何か途方もない「未知の状況」を、目の前にしているという予感を、潜在的にはもっている人が、かなりいると思います。あるいは、少なくとも、そのようなことを、漠然とながらも、それまでに経験のない「違和感」として、感じ取っている人は、多いと思います。具体的にも、偶然とは思えない「共時性」や、「捕食者的な精霊」による示唆、攻撃など、「霊界の境域」における何らかの現象を被ってしまっていることは多いと思います。

しかし、そうであればあるほど、自分の受けている「被害」は、人間の集団による「集団ストーカー」という、ある意味で、良く知られた、「陳腐」な現象でなければならないのです。この辺りは、「統合失調」の場合の「妄想」が、少なくとも初めは、具体的な人間や組織による「迫害」として、生じてくるのと同じことです。

ただし、「統合失調」の場合、状況に入り込むのに従って、そのような解釈は無理になり、「宇宙人」や「神」などの超越的存在が出で来ざるを得なくなります。ところが、「集団ストーカー被害」の場合、「妄想」の力が強く、状況に入り込むことを止めているため、そのような「妄想」が強固に維持されるのです。

このように「妄想」が維持されるのは、もう一つには、「被害者」同士で、ある程度「共有」か可能となっていることにもよります。「統合失調」では、「妄想」は、一人による、孤独な闘いの結果、紡ぎ出されたものであることが多いですが、「集団ストーカー被害」の場合は、少なくとも、一定の人たちの間で、同様の「妄想」を類型的に共有できているのです。それは、それを維持するのに、大きな力を発揮します。(ちなみに、「常識」というのは、さらに多くの者による「共有」を可能にすることで、堅強に保たれる「妄想」と言えるのですが、それについては次回にでも述べます。)

さらには、何と言っても、「集団ストーカー」という観念自体が、それを維持するのに、非常に巧妙にできているということがあげられます。それは、絶妙なタイミングでの通りすがりとか、仄めかし、嫌がらせなど、曖昧かつ暗示的で、はっきりとは捉え難い形での、間接的な行動で成り立っています。初めから、そのように意図されて、構成されているのです。それで、そのような攻撃が、実際にあるのかないのか、はっきりと白・黒つけられることはありません。だからこそ、いつまでも、、その観念が壊れることなく、生き続けられるのです。

多くの人にとっては、あまりにも曖昧で、それを信じるのは信じ難いと映るでしょうが、現に、状況に近づいて、漠然たる「違和感」を感じている「被害者」にとっては、むしろ、その方が、自分の陥っている状況を説明するのに、ピッタリくるのです。また、その曖昧さによって、多くの人が、共有できるものにもなっているのです。

そういうわけで、「集団ストーカー被害」という「妄想」は、「未知の状況」を間近にするからこそ、生じているのですが、それを強固に信じて、それに埋没している限り、「状況」に入ることを阻止し、「解体」を押し止めてくれるものなのです。だからこそ、外すことのできないものであり、周りの者にとっても、「統合失調」以上に「厄介」なものともなるのです。

そのような者に対して、「妄想」を無理やりにでも外して、状況に入ることを促し、「解体」の方向に進んでしまった方がよい、とは安易に言えないし、かと言って、その「不毛」で、「危なっかしい」状態を、ずっと維持するのがよいとも言えないでしょう。とりあえず、長い目でみて、いずれはこの「妄想」が、それほど問題を起こさずに、外されることを、見守るぐらいしか手はないのかもしれません。

※ 『「霊界の境域」を超える二方向性』の次の記事 『「分裂病的状況」の場合』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post-1072.html)と、その次の記事 『「分裂病」の分かりにくさ』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post-424f.html)では、「未知の状況」との関係での、「統合失調」という反応について、まとまった説明をしているので、是非こちらも参照ください。さらに、後者では、「妄想」に閉じこもることから、いかに脱却するかについても述べられ、それは「集団ストーカー被害」の場合にもあてはまることなので、是非参照してほしいと思います。

2017年1月28日 (土)

「統失」・「集スト被害」と「解体型」・「妄想型」

「集団ストーカー」については、そろそろ述べるのを終わりにしようかとも言いました。が、「集団ストーカー被害」というものは、陥っている状況として、「統合失調」と明らかに共通するものがあるし、現代における新たな現われとしてみても、興味深いものがあります。また、逆に、それに注目することによって、「統合失調」を照らし出す面もあります。

基本的な事柄は、既に十分述べたと思いますが、「統合失調」を主たるテーマとするこのブログでは、今後も、新たな視点から捉えなおしたり、気づいたことを述べることは続けるつもりです。また、予定している、分かりやすくまとめるホームページにおいても、一つの重要なコンテンツとなるはずです。

「統合失調」と「集団ストーカー被害」では、陥っている状況に共通のものがあるわけですが、「集団ストーカー被害」では、「統合失調」ほど深く状況に入っているとは言えません。いわば、状況の周辺領域あるいは境界領域にとどまっているといえます。それで、「統合失調」のように、他の者に聞えない「声」を聞いたり、知覚つまり世界そのものが変容して、大きく混乱し、崩壊の危機を迎えるということはないようです。

(ただし、「テクノロジー犯罪被害」になると、もはや「声」を聞くということは起こっています。また、現代では、ネット情報などの拡散により、「統合失調」の人も「集団ストーカー被害」に引き寄せて、自分の体験を解釈するということが起こるので、両者は、必ずしも、明確に区別されるわけでなく、混合もあり得ます。)

しかし、「集団ストーカー被害」の大きな特徴は、一般には信じられないこと、可能性のほとんどないことであるにも拘わらず、その「被害」ということを強く確信して、疑わず、独特の論理で、周りにも、強く訴えてくることでしょう。つまり、いわゆる「妄想」ということに関っているのです。

「統合失調」の場合にも、「妄想」はもちろんありますし、「被害妄想」として、内容的には似通っていますが、「集団ストーカー」の場合とは、趣きが随分異なるのも事実です。

精神医学の方面でも、「統合失調」には、「解体型」と「妄想型」の区別があるという見方をするものがあります。あるいは、この両者は、別の症候群と解すべきという見方もあります。

私の場合は、典型的な「解体型」ですし、私が一般に「統合失調」という言い方で捉えているのも、多くはこの「解体型」になります

「解体型」にも、もちろん「妄想」は起こるのてすが、それは、何度も述べて来たように、現に解体に陥っている自我を、何とか防衛しようという「悪あがき」的な反応です。たとえ、それが表現されても、非常に危うく、壊れやすいもので、その「悪あがき」的な面は、いやでも外部にも現われてしまうのです。

私が、一連の状況に陥っているときには、新聞でも本でも、文字を読むということもできず、(当時はパソコンなどありませんでしたが)何が文字を書いたり、打ったりということも、全くできない状態でした。「解体型」においては、まさに、自我が「解体」の危機を迎えるので、思考もまともに働かず、それを「まとまり」をもって表現するなどということもあり得ないわけです。たとえ、そうしようとしても、他の者には、明らかに「支離滅裂」という印象を与えてしまいます。

だから、私が、「集団ストーカー被害者」について、信じ難いのは、現にその渦中にある中でも、一応「まとまり」をもった論理的な体裁で、自分の被害を訴えることができていることです。

「集団ストーカー被害」の場合は、普段でも、「監視されている」という不安や恐怖はあるでしょうが、それが最も現実化するのは、現に、ある人物などの「ストーカー行為」を受けている状況においてということになるでしょう。それで、普段においては、ある程度の「余裕」があることにもよると思われます。

それに対して、「統合失調」の場合の多く、あるいは特に私の場合は、部屋で一人でいても、「四六時中」「声」が聞え、その存在を間近に感じるという状況にあったので、普段においても、恐怖や混乱が継続的に止まないことになります。要するに、これは、「統合失調」の場合は、より深く「状況」に入っているということの現れといえます。

「統合失調」と「集団ストーカー被害」の場合の、このような違いは、「状況」においては共通していても、その「気質」または「性格」の違いから、その反応の仕方が違ってくるという見方もできます

「統合失調」では、いわゆる「分裂気質」という、自我の境界が薄く、対人関係にも弱いタイプが多いことになります。私は、「集団ストーカー被害」の場合にも、ある程度このことが当てはまるとみています。つまり、一般に言う、健全で安定的な「自我の強さ」というものを、身につけているわけではないと思います。しかし、違いは、「集団ストーカー被害」の場合は、いわば「日常的」に、「妄想」の力によって、それが補われ、いわゆる「分裂気質」的な、自我の弱さあるいは脆さは、感じさせないものになっているということです。それが、「解体型」のように、未知の「状況」に深く入りこんで、解体の危機を迎えることを防いでいるということです。

「解体型」でも、現に解体の危機にあるときには、必死に「妄想」を紡ごうとするのですが、いわばもはや「手遅れ」の感があり、「解体」の方向に押されて、それをうまく築くことができません。ところが、「集団ストーカー被害」の場合は、「状況」に入り込む前に、いわば日常的に鍛えられた、「妄想」の力によって、それに入りこむことを阻止できているということです。

「妄想の力」というと、誤解を受けがちですが、決して、一般に言うように、「事実でないことを信じること」ではありません。また、一般に受け取られがちな、「想像力が豊か」ということでもありません。

むしろ、「妄想の力」とは、想像力の豊かさとは反対に、想像力を排し、多くの可能性の中から、ある特定の解釈や見方だけを、主観的に強く信じ込んで、それが正しいと決めつける力であり、他の可能性を顧みないでいられるようにする力ということです。一言で言えば、「思い込み」の力であり、「決めつけ」の力です。そして、その特定の解釈や見方を疑わざる前提として、その周りに、もっともらしい論理を築き、一応とも、まとまりのあるものとして提示する力でもあります。

「もっともらしい論理」といっても、それは、厳密には、明らかに矛盾したり、論理の飛躍やすり替えが重ねられているもので、「論理」そのものの力が強いということではありません。しかし、「解体型」のように、「まともな論理」すら築けないのとは、大きく異なっています。それは、人を「加害者」として、糾弾するものなので、人から攻撃を受けやすいものではありますが、正面から、容易には崩されることのないものでしょう。だからこそ、それなりに、「自我」も安定していられるのです。「妄想」で防ごうとしても、「解体」が押しとどめられず、解体すればするほど、「状況」に深く入っていくことになる「解体型」とは、大きな違いです。

繰り返しますが、「統合失調」と「集団ストーカー被害」のこのような違いは、明確に区別できるというものではなく、両者には、混合もあります。あくまでも、一般的な傾向として、このような違いがみてとれるということです。

また、「集団ストーカー被害」を「妄想型」に当てはめるからといって、それが「統合失調」またはその他の「病気」だというのではありません。さらに、「集団ストーカー被害」ということが、あらゆる意味で、「事実に反する」と決めつけるのではありません。そもそも、「統合失調」からして、「病気」ということでは何ら理解できないというのが、私の立場であり、「統合失調」の「妄想」にしても、その解釈は、ある「事実」に基づいて生じているというのが私の立場です。それは、「集団ストーカー被害」についても全くあてはまります。

ただ、「集団ストーカー被害」の場合は、「統合失調」の場合にも増して、周りからは、「病気」だという非難ないし攻撃を、受けやすいことにはなるでしょう。それは、むしろ、明らかに「統合失調」的な「解体」を示さないからで、「妄想」を訴えかける力も強く、周りの者にとっては、「統合失調」の「解体型」の者以上に、「手ごわく」「脅威」に感じるからです。

全体として、この「集団ストーカー被害」は、今後も、「統合失調」の「解体型」の場合以上に、社会に強い軋轢を生みだすことになるでしょうし、その成り行きは、注目に値すると思います。

※ 5月2日

 記事『『恐怖を超えて』-捕食者的な「精霊」 』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post-e453.html )を見てもらえば分かるように、本来の心を覆う「パラサイト」的な心は、「裁判官」(人を裁くこと)と「犠牲者」(自己を「被害者」に仕立て上げること)を構成することで、補強される。

「集団ストーカー被害」とは、まさにこの「パラサイト」的な心を補強する、「裁判官」と「犠牲者」で凝り固まっている状態といえる。そのような(少なくとも主観的には)「危機」的な状況において、そうすることで、何とか自己を崩壊させずに、保っているのである。

それに対して、「統合失調状況」では、そのような反応も当然起こりはするが、それは成功せず、「パラサイト」的な心も崩壊に向かい、それまで隅に追いやられていた、「未熟」な「本来の心」が、むき出しになろうとしている状態といえる。

2016年12月10日 (土)

最近のコメントの掲載

最近の、私の2つのコメントは、重要なものと思うので、ここに再び掲げておきます。

○記事『ブログ記事の更新とコメントについて』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-22cd.html)より

門真の事件等、犯罪の背後に統合失調症が絡むとみられることが多いが、実際には、病気だから、あるいは幻聴等の影響によって、そのような行動を起こすのではなく、それにはそれ相応の理由があることについて述べたもの。

前のコメントで、「幻聴をもつから、犯罪的または逸脱的な行動を起こすのではなく、そのようなことになるには、様々な内的、外的な要素が絡み合う」と述べました。が、そのような行動をもたらす、強力な外的要素を2つあげておきます。いずれも、動機そのものは、もともとの統合失調状況によって生まれたかもしれないが、それを実行するについての抑制を外してしまう方向に作用するものです。

1つは、強力な「憑依」を受けた場合。継続的というより、一時的な場合が多いでしょうが、その瞬間、意識を眠らされるので、抑制が利かないことが起こります。周りには、人格が豹変したような印象を与えます。本人も、その間の記憶がないことが多いはずです。その行動は本人のものではないともいえますが、動機そのものは、本人がもったはずで、また、そのような憑依を呼び寄せるのは、本人の側に事由もあるので、責任がないとはいえないはずです。

2つは、精神薬によって、脳が酷く撹乱された場合。精神薬は、麻薬、覚醒剤と同様、脳の働きを撹乱し、抑制を外して、危険な行動を起こさせることがあります。最近の、危険ドラッグ絡みの事件にもみられたとおりです。この場合にも、動機そのものは、本人がもった可能性がありますが、実行するについては、精神薬による影響が強く働いた可能性があります。また、その強力な作用により、「心神喪失」に陥るということもあるでしょう。本人が、「病気」によって、「心神喪失」に陥ったのではなく、精神薬によって、「心神喪失」に陥らされたということです。

しかし、こういった行動は、一般に、「病気」そのものから起こされるとみなされて、疑われないのが問題です。「統合失調」そのものに、そのようなイメージがつきまとっているからです。統合失調者の行為が、「心神喪失」にあるということで、責任が問われないのも、そのような「危険な者」を、いわば犯罪者からすら隔離して、病院に収容するためです。そのような処置は、統合失調者は、人格がなく(崩壊していて)、何をするか分からないというイメージを、強めることになるだけです。

さらに、精神薬が厄介なのは、アルコールの場合と同様、1つ目の「憑依」をもたらす契機ともなることです。両者の影響が加重することになるのです。そして、この場合にも、そのような結果として起こったことは、「病気」によるものとみなされてしまうことになります。

このテーマについては、またいずれ、プログ記事か、ホームぺージにまとめるときに、もっと詳しくとりあげたいと思います。

○『「ふと見た」瞬間に遭遇する現象』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-4588.html)より

「集団ストーカー」について、まとめを兼ねて、本質をついた標語3部作を作ったので、掲げておきます。

1 「集団で 仄めかしする ストーカー 無理でなくとも 無意味です」
2 「集団で 仄めかしする ストーカー あるとみせれば しめたもの」
3 「集団で 仄めかしする ストーカー オバケの類で 演出し」

これは、『「集団ストーカー」という厄介な問題』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9e9f.html)以降の「集団ストーカー」に関する記事を読んでもらえば、真をついたものであることが、分かるはずのものなので、あえて解説はしていません。で、是非そうしてほしいのですが、3部作にしたこと、その順序にも理由があることには、簡単な説明をつけておいた方がいいでしょう。

1では、「集団ストーカーの被害者」と称する人たちが主張するような、特定の者の、「一挙手一投足」を徹底的に監視し、執拗なまでに「つきまとう」ような、「集団ストーカー」なるものは、人間の集団や組織による行いとしては、「あり得ない」ことを端的に示しています。「無理でなくとも」とは、実際には、「無理に限りなく近いが、たとえ無理とまではいえなくとも」ぐらいのニュアンスです。「無意味」である以前に、ほとんど「無理」なのです。何しろ、「人間による行為としては、あり得ない」のです。

しかし、2では、にも拘わらず、人間の集団や組織による、「集団ストーカー」なる行為があると思わせたい、一定の勢力があることを示しています。その勢力には、人間の支配層も含むが、人間を実質支配する存在も含みます。それによって、実際に、一定の人たちが、人間の集団による「集団ストーカー」を受けていると信じて、恐怖と混乱に陥ることになるからです。また、それがもとで、人と人の間に軋轢と確執を深めることができるからです。

しかし、「集団ストーカー」の「リアリティ」とは、単に、上のようなことだけで生じているわけではありません。「集団ストーカー」とは、自分に起こっていることに対する、一つの「解釈」ですが、その解釈にリアリティをもたせるような、「感覚」というものは、実際に生じているのです。

3では、そのような感覚は、人間ではなく、「オバケの類」が「演出」していることを明らかにしています。「オバケの類」という言い方は、多少、それに振り回されることの「滑稽さ」を強調していう狙いもありますが、要するに、低級な「自然霊」のことであり、昔「狐や狸に化かされる」といわれたときの「狐」や「狸」と同じことです。ただし、現代的には「宇宙人」も含みます。決して、侮れる存在ということではありません。

「演出」の方法は、多くありますが、要するに、それらの存在から、何らかの「示唆」や「攻撃」は実際に受けており、その何か攻撃めいたことを「受けている」という「感覚」は実際にあるということです。それが、「被害」を受けていること全般の基礎として作用しますが、問題は、それを人間の行動と「解釈」して、少しも疑わないことです。(人間を「使う」場合もありますが、その場合でも、背後で演出しているのは、やはりそれらの存在です。)

昔の人は、「狐や狸に化かされた」と気づいて、それ以上深みにハマらなかったのは、一種の「知恵」でした。現代人は、これらのことを「迷信」として捨て去ったつもりで、実際には、それにいいように振り回されるほど、「滑稽」なことになってしまったのです。

2016年11月14日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 2

波束の収縮及び「知覚」には、共に「意識」が作用するといっても、その「意識」の性質または範囲は異なるのであった。

波束の収縮の場合、「意識」は、その現象をもたらすという点に絞って捉えられるもので、端的には、物質的過程から独立した要素を意味する。これは、山田廣成のように、「意志」とみることもできる。「意識」の、より根源的で志向的な働きであり、波束を収縮させて「確定的な現実」を出現させるという、創出的な働きをなすことにも適っている。

それに対して、「知覚」の場合の「意識」は、その「意志」を含みつつも、脳の過程を伴う、「思考」や「記憶」など、具体的な内容をもった働きを、広く含んでいる。「知覚」においても、「みる」という、「意志」による積極的な志向が働くが、それは、全体としてみれば、脳の過程、文化的信念体系、個人の思考や記憶などによって、大きく条件付けられた、一つの「表象」なのである。(両者を全体として捉えれば、まさに、ショーペンハウアーのいう「意志と表象としての世界」。)

「知覚」も、それ以前に、確たる「現実」があるわけではないという意味では、一つの「現実」の創出には違いない。が、それは、主観的、恣意的な内容によって大きく彩られた、「幻想」ということにもなるのである。

ところで、ここでいう「意志」とは、人間よりも、むしろ自然物や野生の生物、つまり「自然」そのものの方が、純粋に働き易いといえる。人間では、文化的、個体的な条件付けの方が、大きく勝って、「表象」の世界に閉じ込められている度合いが強いからである。だから、波束の収縮そのものは、人間よりも、自然物や他の生物との関わりにおいて、起こることが多いと解される。ただ、人間が関与する場合は、波束の収縮を越えた、「超能力」的な作用をもたらすことにもなるのである。

あるいは、人間では、この意味の「意志」は、表面化せず、「意識」の潜在的なレベルに、眠っているという見方もできる。しかし、その働きが、脳の過程や、信念体系、思考を巻き込みつつ、我々の「現実」を作り出す元になるのである。だから、我々の「現実」は、他の自然物や生物との関わりにおいてではあるが、(生物的、文化的、個人的のどのレベルであれ)潜在的には、我々の「意志」がもたらしているといえるのである。

そして、このような「現実」の創出には、多数の「意志」の「集合」ということが、大きく影響している。「地球プロジェクト」でも、多数の者の集合的な意識によって、乱数発生器の乱れが高まるのだった。「意志」における「現実」創出の力は、多数の集合によって、より焦点化され、強固に象られると解される。そのようにして、実際に、一般には、確かな基盤をもった、外的な「現実」と思われている、「物質的な現実」なるものが、創出されるということである。(※1)

また、同時に、それは、「知覚」全体としてみれば、強固な文化的信念体系によって、多くの者を規定してこそ、容易には覆らない、安定したものとして、保たれることにもなる。言い換えれば、「集合的な知覚」とは、多くの者で共通すべく、大きな制限を伴い、それに適わないものは、排除するということで、成り立つ面があるということである。そのようなことが、「知覚」に、「幻想」としての面を、強く付与するとともに、それを強固に保つことも可能にするのである。(※2)

前回みたように、「知覚」も一つの「幻想」であるならば、「知覚」と「幻覚」を区別する、本質的な理由はないことになる。とはいえ、事実上、「知覚」は、多くの者が「共有」しており、「幻覚」は、特定の者がもつだけで、多くの者が「共有」していない、という違いがある。

それは、「知覚」が「現実」を創出するという点からみれば、実際には、上にみたように、多くの者が、「集合的」に「共有」するからこそ、「現実」としての、創出力が高まっているのである。また、同時に、それが、強固な文化的信念体系によって、「共有」されるべく支えられるからこそ、安定したものとして、保たれるのである。

それに対して、「幻覚」は、そのようなものから逸脱するので、特定の者を捕えることはあっても、多くの者を巻き込んで、「集合的」な「現実」として創出されるには、至りにくいことになる。(※3)

だから、それは、「集合」の度合いの問題であって、「幻覚」の方が、より「幻想」の度合いが強いということなのではない。むしろ、後にみるように、「幻覚」の方が、「知覚」に伴う制限を超えて、より真の「実在」(内在秩序)を反映する、という可能性もあるのである。

これまで述べて来た、波束の収縮における、「現実」を現出させるという面と、「知覚」における、「幻想」を生み出すという面は、「ホログラフィク・パラダイム」に照らしてみると、より統一的に捉えることができる

ホログラフィク・パラダイムでは、波束の収縮も、全体が不可分に結びついて運動している、「内在秩序」のある側面を、「顕在秩序」に披き出す、一つの過程に過ぎない。「内在秩序」こそが、「ホログラム」的な情報を刻み込んだ、真の「実在」であり、「顕在秩序」は、その情報が、「ホログラフィ」的に投影された、一つの「写像」に過ぎない。だから、量子力学的には、確定的な現実を出現させる、波束の収縮も、それ自体が既に、一つの「幻影」としての創出ということになる。(※4)

「知覚」においては、そこにさらに、種や文化、個体による、主観的、恣意的な要素を、大きく介入させることになるので、その「幻影」としての性質はさらに強められる。そのようにして、「知覚」という過程が、全体として、「幻想」としての「現実」を作り出すということの意味が、より明確になる

ただし、ホログラフィック・パラダイムは、「脳」や「知覚」の働きが、単純に「幻想」だと言うのではない。

脳科学者のプリグラムは、脳そのものが、宇宙というホログラムを解釈する、それ自体一つの、ホログラムであるという。ホログラムは、分割しても、部分が全体を反映するように、脳も本来、(宇宙の)全体を反映する性質をもっているということである。

ボームも、クリシュナムルティの例にみられるように、「知覚」が、「内在秩序」というより、さらにそれを超えた、「全体性」を反映する可能性を認めていた。つまり、これまで述べて来たような、制限され、条件づられた、部分的な「知覚」ではなく、全体的な「知覚」。言い換えれば、「観るもの」と「観られるもの」との対立や分裂のない、一体的な「知覚」としての、「観ること」である。

ボームは、このような「全体性」は、脳や意識の働きを超えるとしているが、同時に、脳や意識が、その「全体性」を反映する「道具」として働くことは可能としている。

しかし、それには、当然ながら、脳や意識の内容である、信念体系や思考を超えることが条件となる。それは、これまでみて来たことに照らせば、信念体系や思考に条件づけられた、「知覚」による「現実」創出の働きを止めること、そして、ただ「観る」という「意志」そのものになり切る、ということにもなる。

現状では、それは遠い可能性に過ぎないが、それには、ともあれ、「現実」とは、「知覚」によって「創出」されるものにほかならないことを、よく知ることが必要ということになろう。

※1 だたし、繰り返し述べているように、このような「物質的な現実」としての創出は、人間だけでなく、様々に多様な自然物や存在の「意志」が関って、起こることてある。あるいは、「意志」の「集合」により、「物質的な現実」が創出されるという場合、その「集合」には、人間だけでなく、他の自然物や存在を含めてみるべきということにもなる。

さらには、この、様々に多様な「意志」の根底は、実際には、「一つ」のものとみることもできる。それは、いわば「宇宙の意志」ないし「神の意志」ということにもなる。多様な「意志」による「現実」創出の力は、根源的には、そのような、根底にある「宇宙の意志」ないし「神の意志」から来るものといえる。

※2 リサ・ロイヤル、キース・プリースト著『コンタクト』という本では、「宇宙人」と地球人のコンタクトが起こりにくいのは、このような意味での地球人の「現実」に、宇宙人の「現実」が、組み入れられないからだということを述べている。つまり、地球において育まれた、地球人の集合的な「知覚」によっては、宇宙人の存在を、取り込むことができにくいのである。集合的に受け入れられないものは、そもそも、「知覚」にかからない(排除される)ということである。

ここ(http://mononomikata-kerogg.blogspot.jp/2011/08/blog-post_08.html)にも触れられているように、マゼランの大型船団が、フエゴ島に到着したとき、島民には、「見えなかった」り、ペリーの黒船が、当時の江戸の庶民の一部には、「見えなかった」りしたのも、同じようなことである。

※3   記事『幻覚的現実と物質化現象の「中間的現象」』(http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0f93.html)で述べたように、「幻覚的現実」と「物質化現象」との間には、様々な「中間的現象」があり得る。それは、「物質的現実」として創出される力の、さまざまな程度の違いの問題とみることができる。それは、まさに、ここで述べたような、「意識(意志)」の「集合」の度合いの問題ということでもある。つまり、「意識」が「集合」されるほど、「物質的現実」として創出される度合いは強まるが、そこに至らない場合にも、様々な「中間的現象」として、現出する可能性はあるわけである。

※4 この「確定的現実」とは、時間や空間の枠組の中で、位置付けされる、物質的現実ということだが、それらも、「内在秩序」のある側面の反映に過ぎず、「内在秩序」そのものは、物質を超えた領域を広く含んでいる。だから、一般の「知覚」では、披き出されない、そのような領域を反映する「知覚」というものも、十分あるわけである。一般には、「霊的知覚」といわれるが、「幻覚」といわれるものも、そのようなものを含む可能性があることになる。

ただし、「霊的な知覚」だからといって、より真の「実在」を反映するとは限らないし、上にみたように、「全体」を反映する、ということにもならない。

2016年11月 7日 (月)

意識と物質の関係―「知覚」と「現実」 1

意識と物質の関係に関する一連の記事(『「宇宙人」と「霊的なもの」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-57a6.html 『「量子力学の観測問題」と「意識」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-c0a9.htmlhttp://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ec1e.html 『「超能力」「気」と「量子力学」』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-d1d8.html 『「ホログラフィック・パラダイム」について』http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-77b9.html  )で、述べて来たことを、「知覚」と「現実」という観点から捉えなおしてみる。

端的に言えば、「現実」とは、まさに「意識と物質の関係」そのものとして創出されるのであり、「意識」との関係抜きには、あり得ないということである。

これを、「知覚」という観点から言い換えると、「現実」とは、(「意識」に基づく)「知覚」抜きにあるものではなく、「知覚世界」こそが「現実」となる。つまり、まず、「現実」というものがあって、それを「知覚」が映し出すのではなく、「知覚」こそが「現実」を生み出す、ということである

このことを、まずは、量子力学との関係でみてみよう。

量子力学は、物質の本質である「量子」とは、「観測」以前には、抽象的な「確率の波」に過ぎず、「観測」されて、初めて「粒子」という実在として現れることを明らかにしたのだった。

記事では、アインシュタインが、量子力学が、現象の本質を確率的なものとしてしか捉えられないことを批判して、「神はサイコロ遊びをしない」という言葉を残したことを述べた。しかし、アインシュタインは、量子力学が、「観測」以前には、現象を実在として捉えられないことについても、有名な批判の言葉を残している。それは、「月は、我々が見る以前には存在しないのか」というものである。

月は、(超)マクロの物質だから、直接この量子力学の捉え方を適用できるかは問題である(前にみたように、「デコヒーレンス理論」によれば、マクロの物質には適用されないことになる)。が、マクロの物質といえども、「量子」の集合体として、本質的な差異はなく、同じ捉え方ができるとみるならば、確かに、このような批判は真をついていることになる。

前にみた「シュレディンガーの猫」も、基本的には、同じ問題を扱ったものである。放射性物質が崩壊する(その量子力学的な確率は2分の1)のを検出すると、毒を放出する装置を、猫とともに箱の中に入れておくと、「観測」する以前には、猫はどうなっているか(「観測」すれば、もちろん、生きているか死んでいるかは確定できる)。この場合に、量子力学の波動関数を当てはめると、猫は、「生きている状態と死んでいる状態を重ね合わせた状態」にあることになるのである。つまり、「現実」の状態としては、「あり得ない」(実在しない)状態である。

要するに、「観測」以前には、確定的な「現実」なるものがあるわけではない、ということである。

「観測」とは、目を含む、観測装置を対象に作用させて、その反応をみるというものだが、それは、最終的には、「知覚」ということによってなされる。そこで、今度は、これを「知覚」という観点からみてみる。                                 
哲学などでは、たとえば、カントのように、「認識」は、人間のカテゴリーに基づくものであって、外的な「現実」そのものを明らかにするものではない。外的な「現実」(「物自体」)は、不可知である、と考えるものもあった。ところが、先にみたように、一般的な常識としては、まず「知覚」以前に、「現実」なるものがあり、「知覚」はそれを映し出すに過ぎないとみなされている。

しかし、最近の脳科学によっても、「知覚」とは、外的な情報をそのまま写し取るものではなく、脳が、入力した情報を分解し、さまざまな形で再構成して、「作り出す」ものであることが明らかにされている。それには、「記憶」や「思考」などの様々な主観的要素も入り込む。「知覚」が客観的な「現実」を映し出すなどとは、とても言えないわけである。

実際、それをもう少し押し進めた考え方として、「唯脳論」というものもある。これは、単純な唯物論的発想なのではなく、全ての「現象」は、脳が捉えた限りでの現象であり、端的に言えば、脳が生み出した「幻想」に過ぎない、というものである。「知覚」に限らず、脳が捉えるものは、客観的な「現実」を反映しているなどという保証は何もなく、いわば脳の中の、「仮想現実」に過ぎないということである。当然、出て来て然るべき考えだし、視点としては正しいというべきである。(ただし、これも押し進めれば、「脳」もまた、脳が生み出した?「幻想」の一つとなるはずで、脳だけが、あらゆる現象から独立した「実体」としての位置に立つのはおかしい。)

いずれにせよ、「知覚」が客観的な「現実」を映し出すとは言えない、という問題は、それなら、「幻覚」とは何かという問題も引き起こす。「知覚」が「現実」を映し出すのではないなら、それを「幻覚」と区別する理由はないはずだからである。

実際、「唯脳論」では、いずれも、脳が生み出した「幻想」として、「知覚」と「幻覚」を区別する本質的な理由はない、とする。それは、確かにそうなるはずである。あるいは、「知覚」こそが「現実」を作り出すという見方に即して言えば、「知覚」も「幻覚」も、どちらも「現実」にほかならないことになる。

ただし、後にみるように、それらに違いを見い出すことは可能である。「知覚」は、多くの者によって、「共有」される「現実」であり、「幻覚」は、少なくとも、現時点で、多くの者によって共有されず、特定の者がもつ「現実」に過ぎない。ただ、それも、要は、「程度問題」であり、今後、どのように移り変わって行くかは、不明である。

といっても、このような「知覚」について分かったこと、または、それを押し進めた考えは、量子力学がいう、「観測」が「現実」を作り出すというのとは、意味合いが異なっている。

量子力学は、「観測」が、文字通り、知覚可能な「確定的現実」を「出現させる」(波束を収縮させる)と言っているのであって、その「知覚」が、現実を反映しない「幻想」だと言っているのではない。

しかし、その意味合いの違いは、両者における、「意識」の関わりの問題を捉えることで、解消することができる。

もう一度、量子力学に戻ると、ノイマン・ウィグナー理論では、「意識」こそが、波束を収縮させる、つまり、確定的な現実を現出させるのだった。「観測」行為(「知覚」)には、もちろん脳の過程が伴うが、脳の過程といえども、物質的な過程であり、量子力学が適用されるものである。だから、量子力学から独立した、波束の収縮という現象は、脳の過程を超えた、「意識」そのものによって、なされるとみるしかない、というのが、ノイマン・ウィグナー理論の考えである。

「意識」が、量子力学的な過程に影響を与えることは、たとえば、多数の意識が、乱数発生器の量子力学的な発生の確率を乱すことを明らかにした、「地球プロジェクト」などによっても、示されている(同種の実験結果は、超心理学によって多数示されている)。この点からも、意識が量子力学的な過程から独立して働くとみることは、十分の理由がある。

しかし、波束の収縮が意識によって起こるというのは、波束の収縮は、量子力学的な確率の範囲でなされるものだから、それを超えてしまう、これらの実験事実とは相入れず、意識の独立性を認めることと、必ずしも一貫しない。また、波束の収縮は、「観測」によって、必ず起こらなければならないことであり、その意味でも、常に働くとは限らない、上のような現象とは異なっている。

さらに、波束の収縮が、意識によって起こるとすると、その意識とは、誰のものなのかという問題が生じる。波束の収縮という、確定的な「現実」そのものを現出させる行為が、誰によってなされるのかということだから、重大な問題である。最初に「観測」した者が、波束を収縮させることになるのか。多くの者の意識が、共通して、初めてなされることになるのか。そもそも、この意味の意識とは、人間だけがもつものなのか。猫にも、この意味の意識があるのではないか。さらには、観測装置にも、この意味の何らかの「意識性」が認められるのではないかなど、様々な疑問が生じる。

実際、人間だけが、この意味の「意識」をもつとするのは無理というべきである。人間が「観測」するまで、絶対に、物質の状態が確定しないなどということは、あり得ない。また、人間だけが意識をもつという発想は、一神教的な発想から生まれた、西洋近代のものであり、何ら普遍的なものではない。

人間だけが、意識をもつ(「観測」する)という発想をするから、「月は、観測以前には存在しないのか」という疑問も出て来るのである。他の天体同様、月そのものも、「意識」をもつかもしれないし、人間以外にも、月を観測する生命体はいくらもある。少なくとも、その段階で、月の存在は「確定」しているはずである。「シュレディンガーの猫」の場合も同様で、猫が意識をもつとすれば、その段階で「確定」するし、観測装置にもある種の「意識性」を認めるなら、その段階で確定するという発想も可能である。

さらに、山田廣成のように、電子が意識をもつとすれば、波束の収縮の問題は、電子のレベルからの、種々の意識と人間の意識との相関で決まることで、人間の恣意の働く余地は、ほとんどないことになろう。

このように、意識が波束の収縮をもたらすといっても、それは、人間の意識ということではなく、様々な多様な意識のせめぎ合いの結果ということである。ただ、人間の意識が関与する場合、「地球プロジェクト」のように、量子力学的な確率を超えて、作用することもあることになる。それは、一種の「超能力」といえる。

ここで述べた「意識」とは、波束の収縮をもたらすものとしての意識、つまり、量子力学的な過程から、何ほどか独立した要素をもつものとしての意識であった。

一方、「知覚」において、一種の「幻想」として、「現実」を作り出すというときの、意識の関りはどのようなものだろうか。一般の脳科学では、知覚という現象も、脳の過程に還元されるものとみなされる。が、脳の過程は、知覚するときに脳で起こっていることを説明するだけで、「知覚」そのものではないというべきである。たとえば、「赤い色」を見ているときの、脳の過程は、それをいくら詳しく解析しても、現に見ている「赤い色」そのもではない(※1)。あるいは、言い換えれば、脳の過程ということでは、「知覚」において、本当に「見ている」当のものが、一向に明らかにならないということである。

やはり、「知覚」においても、何かしら、物質的過程から独立した要素をもつ、「意識」という「主体」を想定しない限り、成り立たないというべきである。しかし、「知覚」とは、「観測」の場合の、波束の収縮という現象に限定されない、より広い過程であることは明らかである

そこには、種や存在による、生物学的な基盤の違いが、当然作用する。また、人間の場合でも、文化や個体によって、「信念体系」、「思考」、「記憶」など、意識による、様々な主観的な相異の影響が働く。この場合の「意識」とは、波束の収縮の場合のように、物質的な過程から独立した要素のみではなく、脳の過程ということも伴いながら、「思考」や「記憶」等の具体的な内容をもった働きを含むのである。

そういうわけで、波束の収縮そのものと異なり、「知覚」とは、客観的な過程などではなく、様々な差異と、主観的な色付けを帯びたものということになる。

だから、「知覚」全体として言うならば、それは、客観的な「現実」を映し出すものではなく、一種の「幻想」として、「現実」を生み出すもの、ということにもなるのである。(続く)

※1  「クオリア問題」ともいわれる。前にあげた、このサイト(http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria.html)では、この問題についても、詳しく分かりやすい説明をしている。

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